2020-02

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マンディンゴ〜冒頭に流れるマディ・ウォーターズのブルーズと南部の風景

TAP the SCENEでは、これまで黒人たちの悲しみや怒り、苦悩や誇りを描いた映画を多数取り上げてきた。例えば『マルコムX』『ネルソン・マンデラ』『アリ』は人種差別と闘う若き指導者/ヒーローたちの壮絶な生き方が貫かれ、『バード』『Ray/レイ』『ジェームス・ブラウン/最高のソウルを持つ男』といったミュージシャンの伝記映画には黒人差別が拭い切れない影のようにつきまとっていた。 また、『夜の大捜査線』『グリーンブック』『カラーパープル』『ドリーム』などのヒューマンドラマでは白人社会の中で声を上げる黒人の姿が描かれ、70年代のブラックスプロイテーション『スーパーフライ』『黒いジャガー』では黒人が主役となって白人社会の腐敗に切り込んだ。 その流れはジャマイカ映画『ハーダー・ゼイ・カム』『ロッカーズ』のような白人権力者たちの搾取との闘い、あるいは90年代のブラックムービー『ドゥ・ザ・ライト・シング』『ニュー・ジャック・シティ』『ボーイズン・ザ・フッド』へと継承され、『カラーズ/天使の消えた街』『ストレイト・アウタ・コンプトン』といったヒップホップ/ギャング映画にも同じ血が流れる。 そうした中で今回は『マンディンゴ』(Mandingo/1975)を新たなラインナップに加えたい。物語の舞台は南北戦争が起こる約20年前、1840年頃の南部ルイジアナ州の広大な農園屋敷。黒人が労働力のために“奴隷”として“売買”されていた信じられない時代だ。資料によると、南北戦争直前の奴隷人口は400万人。大農園主は子供から老人まで20人以上の黒人を“所有”し、綿花畑での過酷な労働や雑用を強制していた。 マンディンゴとは“最高種”として高価取引された、優れた身体能力とタフな体格を持つ戦闘用の奴隷のこと。白人の賭博と悦楽のためだけに黒人同士を闘わせ、どちらかが死ぬまで続けられるという悲惨極まりない衝撃が描かれる。 一方で農園の後継である息子は黒人娘しか愛せず、嫉妬に狂った白人妻は腹いせにマンディンゴとの子供を産む。没落する南部の白人貴族。そして覚醒し始める黒人たち。この映画のラストはそれを象徴し、来るべき南北戦争を示唆する。 原作は1957年に発表されたカイル・オンストットの同名小説。大きな反響を呼んだ大ベストセラーの映画化。公開当時はその鬼畜ぶりが酷評されたようだが、この映画にインスパイアされたの..
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ジミヘンがナポレオンジャケット(軍服)を身にまとうようになった理由

1960年代…ビートルズ、ストーンズを始め、英国のロックミュージシャンたちの多くが身に纏っていたミリタリーファッション。 例えばビートルズが『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』のアルバムジャケットで着ていたあの衣装。 そしてアメリカからイギリスの渡ってブレイクしたジミ・ヘンドリックスが着ていたあの上着。 それらはファッションシーンなどで“ナポレオンジャケット”とも呼ばれている軍服のことである。 60年代の後半には世界的な流行となり、日本でもGS(グループサウンズ)のバンドメンバーがステージ衣装として取り入れていた。 ミリタリージャケットと呼ばれる多くのものは、第一次世界大戦時の英国軍の将軍の礼服だった。 ジミヘンは1966年に渡英してまもない頃、ロンドンのヴィンテージショップでゴージャスな軍服を見つけ、チャス・チャンドラー(アニマルズのベーシストでもあり当時ジミのマネージャーを担当)にベースを売って工面してもらったお金で購入した。 チャスは、アニマルズ時代にイメージ戦略(衣装や写真)の重要性をよく理解したので、なんの躊躇もしなかったという。 「あの服はイギリス王立獣医軍団のものさ!1898年製だったっけ?軍服としてはかなりの代物だ。」 ジミは十代の頃に(一時期だけ)アメリカで陸軍に志願入隊している。 陸軍第101空挺師団(別名スクリーミング・イーグルス)に所属し、実際に軍服に身を包んだ経験のある数少ない若手ロックミュージシャンの一人だった。 「16歳で学校を中退して暇を持てあましてたし、俺が生まれ育ったシアトルの町では面白いことなんてなんにもなかったんだ。法的に入隊が許可される17歳になるのを待って陸軍に志願したんだ。そしたら驚くべきことに、軍人生活の方がずっとつまんなかったんだ!気温が0度以下で腕立て伏せ。飛行機からの落下訓練。軍隊は俺の根性を叩き直そうとした。俺が泥の中でも眠れるかどうか試したかったんだ。」 1966年9月24日、ジミ・ヘンドリックス(当時22歳)はロンドンのヒースロー空港に降り立った。 当時まだ無名だった彼は、その後、音楽シーンに革命をもたらすこととなる。 アニマルズのベーシストだったチャス・チャンドラーに見いだされた彼は、アメリカからの渡英を決断する。 当時、チャスにジミの情報をもたらしたのは..
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マイケル・ジャクソンがグラミー賞8部門を独占した歴史的な一日

それは1984年2月28日の出来事だった。 全米の音楽業界団体National Academy of Recording Arts & Sciencesが毎年開催する一大イベントGrammy Awards(第26回グラミー賞)において、マイケル・ジャクソンが8部門受賞という記録を打ち立てたのだ。 最優秀レコード 最優秀アルバム 最優秀男性ポップ歌手 最優秀男性ロック歌手 最優秀男性R&B歌手 最優秀R&Bソング 最優秀児童向けレコード 最優秀プロデューサー(※受賞はクインシー・ジョーンズ個人) 一人のアーティストが一つの作品で、このような形で最優秀賞を独占するのはグラミー史上初のことだった。 「子供の無邪気さは想像力の種だ。子供はいろいろな事を我々に教えてくれる。」 この日、トロフィーを受け取ったマイケルが語った言葉は、彼の人柄のすべてをあらわしていた。 プロデューサーにクインシー・ジョーンズ、そしてポール・マッカートニーやエディ・ヴァン・ヘイレンなどの豪華ゲストを迎えた彼のアルバム『Thriller(スリラー)』は、タイトルナンバー「スリラー」、そして「今夜はビート・イット」「ビリー・ジーン」など7曲のトップ10ヒットを叩き出し、全世界で5,100万枚以上という驚異的な売り上げを記録した。 “ポップス史上最も売れたアルバム”として金字塔を打ち立てたこの作品は(売上枚数に関しては諸説あるものの)2012年のギネス世界記録において6,500万枚の売り上げ認定を受けており、現在も売上枚数を増やし続けているという。 また、大きな反響を生んだ「スリラー」のミュージックビデオに使われた予算は1億円を超えていたというから驚きだ。 当時、1本のミュージックビデオの製作にかけられる予算は1千万前後だったので…破格の値段である。 その13分34秒にも及ぶホラー映画風のショートフィルムでは、特殊メイクを施したマイケル扮する狼男や“ゾンビダンス”が話題となった。 カメラをズームインしながらトラックバックするという、ヒッチコック監督の映画『めまい』で使われた撮影方法が用いられており、「スリラー」は映像作品としても当時のMTVシーンに多大な影響を与えた。 また、このミュージックビデオのナレーションには、往年のホラー映画俳優であるヴィンセント・プライスが抜擢されている。 プライスの起用は..
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城達也と堀内茂男という二人の男の“美学”が育んだ伝説のFM番組『ジェットストリーム』

午前零時、ラジオのスイッチを合わせる。ジェット機の離陸音と航空無線の交信が聞こえてくる。すると“ジェットストリーム……”というアナウンス。フランク・プゥルセル楽団の「ミスター・ロンリー」が始まると、“遠い地平線が消えて……”と印象的なナレーションが綴られていく。夜間飛行へと誘うパイロットの声は城達也。 番組で流れるのはイージーリスニングと呼ばれるインストゥルメンタルのムード音楽。数曲耳を傾けていると、今度は世界中の街や情景を描写した詩が綴られる。そして再び音楽に戻っていく。エンディングのナレーションが流れる頃、時刻は深夜1時前を指している。「夢幻飛行」とともに、聴き手は暗闇とゆっくり溶け込むように眠りに落ちる。今夜も夢の中で旅人となりながら……。 城達也さんが“機長”を務め、堀内茂男さんが台本を書いていた頃の『JET STREAM』が好きだった。そこにはロマン、ダンディズム、イマジネーションの世界がどこまでも広がっていた。あの声や言葉があったからこそ、唯一無二の存在になった。ベッドの中でも車の中でも一日の終わりをそっと実感した。たまたま耳にした時ほど、そう思った。耳障りで無駄なフリートークが一切なく、話し手や書き手の顔もよぎらない『JET STREAM』は、どこまでも心地良かった。 ──始まり。それは日本が高度成長期の真っ只中。海外旅行の自由化が起こり、AMラジオの深夜放送が大ブームとなる1960年代後半。当時の日本航空の宣伝課長・伊藤恒氏は、シカゴ駐在員だった頃に愛聴していたアメリカン航空提供のFM番組『Music ‘til Dawn』(1953〜70)のように、日本航空でも海外旅行を促進するような同様の番組を作れないかと考えていた。 奇しくも同じ頃。日本初の民放FM放送局であるFM東海(東海大学のFM実用化試験放送局)の当時の営業部長・後藤亘氏(現エフエム東京・名誉相談役)は、「日本人が世界に旅立ちたいという想いを幾多の人に伝える、イメージの世界で旅のできる番組を作りたい」と企画に取り組んでいた。日本航空に持ち掛けると、両者の想いは合致。 番組タイトルが『ムーン・ライト・ハーモニー』から『JET STREAM』に正式に決まると、パーソナリティ選びに半年間を掛けた。この男の声しかない。抜擢されたのは洋画の吹き替えなどで活躍していた声優、35歳の城達也。そして196..
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現代アートの伝説〜アンディ・ウォーホル

★ダウンロード/ストリーミング時代の色彩別アルバムガイド 「TAP the COLOR」連載第25回 アルバムアートの中には、有名な画家や写真家が手掛けたものも珍しくはない。当時30センチ四方のレコードジャケットというサイズ感が、彼らの作品発表欲を満たすキャンバスであった点も見逃せない。 現代アートの偉大なる伝説として、今もあらゆるカルチャーに影響を及ぼすアンディ・ウォーホル(1928-1987/享年58)も例外ではなかった。商業絵画のウォーホルと大量生産されるレコード。むしろこんなにも相性の良い関係はなかった。 そんなアンディ・ウォーホルの活動は、大きく3つの時代に分けられるのが定説。 まずはファッション雑誌や新聞や広告類を舞台とした50年代の「商業デザイン時代」──。 ブロッテド・ライン(しみつきの線)と呼ばれるイラストやドローイングによって、十分な成功を収めた。この頃はブルーノートなどのジャズレーベルのレコードジャケットも手掛けている。 ケニー・バレル『Blue Lights』(1958) iTunes 次にポップアートや実験映画などでその名を美術史に永遠に刻んだ60年代の「ファインアート時代」──。 ニューヨークの「ファクトリー」と呼ばれた自身のスタジオで、シルクスクリーンによる名作が次々と生産された頃。有名人、死、企業製品などをモチーフにしたアート作品だけでなく、アンダーグラウンドの帝王としてパーティや音楽興行まですべてを創作素材にしていた。ウォーホルの黄金期と言われている。 この有名なジャケットもこの頃の産物。バンド名のクレジットはなく、ウォーホルの名だけが。バナナの皮はめくりたくなる心理。インパクトは計り知れない。 ヴェルヴェット・アンダーグラウンド『The Velvet Underground & Nico』(1967) iTunes Amazon また、ローリング・ストーンズの自前レーベル第1弾も、ウォーホルが手掛けたことで有名。本物のジッパーが付いていれば、こちらも下ろしたくなるだろう。 ローリング・ストーンズ『Sticky Fingers』(1971) iTunes Amazon そして70年代以降の社交家としての「ビジネスアート時代」──。 中でも制作費を定額にした注文肖像画と雑誌『インタビュー』の発行は特筆すべ..
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幻の音楽スペシャル番組となった『セブンスターショー』を作ったのはドラマの鬼才・久世光彦

1976年2月15日から3月28日までの7週間 、日曜日の19時30分~21時までという当時のゴールデン・タイムを使って、『サンデースペシャル・セブンスターショー』と題した音楽番組がTBS系列でオンエアされた。 当時はNHKの大河ドラマが絶大な人気を誇っていたが、その年の1月4日から加藤剛と吉永小百合が主演する『風と雲と虹と』は、初回から30,1%という高視聴率で始まっていた。 そこにTBSがぶつけたのが90分の単発番組で、全7回の音楽スペシャル企画であった。 企画とプロデュースを手がけた久世光彦はテレビドラマの世界では、堺正章や樹木希林によるスラプスティックなギャグを使った演出で、斬新で型破りな『時間ですよ』が高視聴率をあげて鬼才と謳われていた人物だ。 TBSのドラマ班で演出家とプロデューサーを兼ねていた久世は、1971年から始めたTBSの水曜劇場で始めた連続ドラマの『時間ですよ』が、平均視聴率29,5%、最高36,2%という数字を上げて、1973年の第3期まで続く人気ヒット・シリーズに成長させていく。 さらには1974年から始まった向田邦子脚本による『寺内貫太郎一家』も、小林亜星と西城秀樹による派手な親子喧嘩のシーンと、「お茶の間スラップスティック」と呼ばれたギャグが話題になり、1975年にも続編の『寺内貫太郎一家2』が作られる人気シリーズになった。 き 久世の演出とプロデュースによるドラマの大きな特徴は、物語にどう関わるのかがよくわからない〝おかしな歌″が劇中歌として流れたり、随所にユニークな挿入歌などが使われたことであった。 しかも、それらのなかから大きなヒット曲が次々に生まれてきたのだった。 浅田美代子の「赤い風船」、天地真理の「水色の恋」、さくらと一郎の「昭和枯れすすき」、郷ひろみと樹木希林の「お化けのロック」「林檎殺人事件」などが記憶に残る印象的なヒット曲になった。 そして1975年には阿久悠の原作で制作した『悪魔のようなあいつ』の主題歌で、主演した沢田研二が歌った正攻法の「時の過ぎゆくままに」が大ヒットした。 久世は歌が好きで、ほんとうに歌謡曲を愛していた。 そこで当時のヒット商品だった日本専売公社のセブンスターにひっかけて、発売元の1社提供によるスペシャル音楽番組を企画した。 今でも大概はそうなのだが、テレビにおける歌番組には司会進行役がいて、..
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マルコムX〜刑務所暮らしの中で“真の知識”に開眼した黒人解放運動家

スパイク・リー監督による『マルコムX』(Malcolm X/1992)は、1960年代の黒人解放運動の指導者/革命家として余りにも有名な男の生涯を描いた3時間21分のドラマ。マルコムを演じるのはデンゼル・ワシントン(上の写真は本物のマルコム)。 「初めてマルコムXの自伝を読んだ中学生の時から、いつかきっと映画化したいと考え続けていた」 原作となったのは、暗殺される2年前から執筆され始めたという『マルコムX自伝』(『ルーツ』で知られるアレックス・ヘイリーとマルコムXの共著)。ヘイリーは映画の完成を楽しみにしていたそうだが、残念ながら公開前に他界した。 この『マルコムX自伝』は出版されて以降、様々な映画人が企画に挑戦するものの一向に実現には至らず。そのうちハリウッドでは「映画化されない最も重要な作品」とまで言われるようになった。 そんな中、カナダの監督が決定寸前まで事が運んでいたらしいが、自分しかしないと確信していたスパイクが「白人監督にマルコムの複雑な人生を正当に描けるはずがない」と主張して映画化権を奪取。彼にとってはそれくらいかけがえのない英雄だったし、何よりもお決まりの黒人像を描かれてはたまらなかったのだろう。 新聞や雑誌の記事、スピーチ、テレビ映像から、家族や友人、活動仲間へのインタビュー、FBI記録まで丹念に調べ上げ、自らのギャラまで制作費につぎ込む情熱ぶり。一方で“X”のロゴが入ったグッズを販売して「宣伝に利用している」「中流育ちの黒人」と批判を受けたりもした。だがそんなことでスパイクは負けなかった。 予算オーバーで資金難に陥り、頼みのワーナー・ブラザーズ社から「余分なカネは一切出さない」と宣告された時は、「白人監督にならどんどんカネを出すくせに」と思ったらしいが、ビル・コスビー、オプラ・ウィンフリー、マジック・ジョンソン、マイケル・ジョーダン、プリンス、トレイシー・チャップマンらが援助金を出してくれたおかげで、危機を乗り越えることができた(エンドクレジットで彼らが登場する)。 マルコムXを語る時、必ず同時代の公民権運動(人種差別撤廃運動 )を先導したキング牧師が引き合いに出される。しかし、この二人の考え方は対照的だった。「白人社会との統合」を目指すキング牧師に対し、イライジャ・ムハンマドを始祖とするネイション・オブ・イスラム(以下NOI)に傾倒していたマル..
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My Funny Valentine〜聖バレンタインデーに聴く珠玉のスタンダードとビリー・ジョエルの名曲

2月14日はSt. Valentine’s dayです♪ 今日はバレンタインデーにちなんで「My Funny Valentine」をご紹介します。 我が国では“チョコレートの日”のような定例行事になっていますが…もともと聖バレンタインデーと云えば、キリスト教の聖職者の死を悼む宗教的行事だったことをお忘れなく。 由来や起源については【日本チョコレート・ココア協会】のページをご覧下さい。 ■St. Valentine’s dayの起こり http://www.chocolate-cocoa.com/dictionary/history/valentine/v01.html ■日本のバレンタインデー http://www.chocolate-cocoa.com/dictionary/history/valentine/v02.html 私のお茶目な恋人ヴァレンタイン 優しくて可笑しな恋人ヴァレンタイン 容姿はギリシャ彫刻とは程遠いし 口元はちょっと締まりがないし 口を開けばとても知的とは言えないけれど でもね、お願い… 私のために髪型を変えたりしないで この曲は、1937年にブロードウェイ上演されたミュージカル『Babes in Arms』の劇中歌として作られた。 劇中では元子役スターとして活躍していた女優ミッチ・グリーンが演じる女性が、冴えないボーイフレンドのバレンタイン(通称バル)の欠点を散々からかいいながらも、最後には「恋人よ、ずっとそのままでいて」「ありのままの貴方でいて欲しい」と歌う。 それは、バレンタインという男性の名前とSt. Valentine’s dayをかけて書かれた歌詞だった。 ちなみに“Valentine”という単語には“恋人、特別な人”という意味もあるという。 作曲はミュージカル作品の金字塔「サウンド・オブ・ミュージック」を作ったリチャード・ロジャース、作詞はローレンツ・ハートのというアメリカのエンターテイメント界に多大な功績を残したゴールデンコンビだ。 後にマイルス・デイヴィスやチェット・ベイカー等のジャズマンたちが次々とレコーディングし、ジャズのスタンダードナンバーとなった。 現在に至まで、なんと!600人を超えるアーティストが歌い、収録されたアルバム数は現在1300を超えているという。 ところで、ビリー・ジョエルが1978年に発表し..
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『夢助』に込められた最後のメッセージ~忌野清志郎

忌野清志郎の生前最後のオリジナル・アルバムとなった『夢助』は、2006年5月22日から6月12日にかけて、アメリカのナッシュビルのスタジオでレコーディングされた。 そして、そのレコーディングの模様を密着取材したドキュメンタリー番組『This Time』も制作され、2006年の秋にテレビで放映された。 『夢助』のプロデューサーは、スティーブ・クロッパー。忌野清志郎が敬愛するオーティス・レディングと活動を共にしたBooker T. & The MG’sのギタリストだ。 1992年のソロ・アルバム『Memphis』で務めて以来、2度目とプロデュースとなる。 アルバム全編に渡って、スティーブ・クロッパーらしいR&Bサウンドとなっている。 “RCサクセションが聴こえる”という歌詞が印象的な「激しい雨」は、盟友CHABOこと仲井戸麗市との共作だ。この歌詞は、ニール・ヤングが自身のソロ・アルバムで「バッファロー・スプリングフィールド・アゲイン」という曲を歌っているのを聴いたことから生まれたアイデアだ、とCHABOは番組で語っていた。 ニール・ヤングが今、いろんな遍歴があった自分のバンドを、ああいう形で歌ったっていうのは、なんかすごく俺にとっても良い感じで響いて、俺と清志郎だったらRCだ、そのことを歌う一行ってどうだ?っていう発想。(中略)ラジオでかけてくれた時に、「RCサクセションが鳴ってる」っていう歌詞が、あの、一発で清志郎とわかる声で聞こえて来たら、面白えんじゃないかって。 「激しい雨」 「This Time」は、スティーブ・クロッパーが清志郎のために作詞作曲した歌だ。英語で書かれていた歌詞を清志郎が日本語に訳して歌ったその内容は、まさにその時の、レコーディングのためにはるばる日本からやって来た清志郎について書かれているようだ。 今こそ 行くべき場所がわかったんだ 音楽に導かれて 行き着くのさ そして清志郎が付け足したというサビの部分は、クロッパーの詞を受けて彼本人の正直な思いが綴られているように感じられ、とてもストレートなメッセージが、聴く者に勇気を与えてくれる。 ずっと夢に見ていた こんな日が来る事を 君は夢を持っているかい きっと叶えられるさ クロッパーが作曲した印象的な歌がもう一曲、アルバムに収録されている。 「オーティスが教えてくれた」は、まさにオーティス..
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セロニアス・モンクを偲んで〜モダンジャズ界を駆け抜けた“謎の男”の足跡

作家の村上春樹は著書『ポートレイト・イン・ジャズ』(新潮文庫)の中で、セロニアス・モンクについてこんな風に綴っている。 彼の音楽はたとえて言うならば、どこかから予告もなく現れて、なにかものすごいものをテーブルの上にひょいと置いて、そのまま何も言わずに消えてしまう“謎の男”みたいだった。モンクを主体的に体験することは、ひとつのミステリーを受け入れることだった。 彼の晩年は、そのほとんどが謎に包まれている。 1971年、54歳の時にロンドンで録音を行ったのを最後に、彼は二度とレコーディングをしなかった。 1975年のニューポート・ジャズ祭、1976年のカーネギーホール・コンサート出演を最後に彼は隠遁生活に入る。 以降ほとんどの時間を、大富豪パノニカ・ドゥ・コーニグズウォーターという女性(通称ニカ)の家で妻のネリーと過ごすようになる。 ニカと云えば、1955年にチャーリー・パーカーの最期を看取ったことでも知られているジャズシーンでは有名な庇護者(パトロン)である。 彼は、以前から患っていた双極性障害(躁鬱病)の症状はしだいに悪化してゆき…最晩年は誰とも話しをしなくなってしまったという。 そして1982年2月17日、脳梗塞によって彼はこの世を去る。享年64。 妻ネリーと過ごした隠遁生活の中で、彼がいったいどんなことを考えていたのか?何らかの形で音を奏でていたのか?それはまったくの謎とされている。 遺体はニューヨーク州ハーツデールのファーンクリフ墓地に埋葬された。 ジャズ史を語る上で外すことのできない男、セロニアス・モンク。 奇矯な言動やファッションで人を惑わし、深い精神の病を患っていた男だったが、何より独創的だったのは、他ならぬそのピアノ演奏だった。 1940〜1960年代まで黄金期を迎えた“モダン・ジャズの時代”において、独特のタイム感とコード感、そして休符の目立つ旋律などで、新風を巻き起こした人物である。 まだ20代前半だった彼は、1940年代初頭に成立したジャズの演奏スタイル“ビ・バップ”の聖地であったライブハウス『ミントンズ・プレイハウス』のピアニストに雇われ、ディジー・ガレスピー、チャーリー・パーカーらと共演するようになる。 若い頃から多くのミュージシャンから崇拝されていたが、その高い音楽性が世界に知られることとなったのは、彼が30代後半(1950年代)に..
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切り裂くサウンドと詞の世界~リーガルリリー「私は私の世界の実験台」

“ブルーハーツのような青い衝動にイースタンユースばりのエッジの効いたサウンド”という例えは、いささか強引に過ぎるかもしれないが、初めてリーガルリリーの音楽を聴いた筆者の印象は、まさにこんな衝撃だった。 2014年に高校生だった、ヴォーカル&ギターのたかはしほのかと、ドラムスのゆきやまが出会って結成されたリーガルリリー。さらにベースの白石はるかが加入し、ガールズ・スリーピース・バンドとして、2016年に1stミニ・アルバム『The Post』をインディーズ・レーベルよりリリースする。 当時まだ10代のヒリヒリするような思春期の、壊れそうな儚さと同時に鋭く切り裂くような破壊性を持った歌詞が、迫力ある轟音サウンドに乗せて歌われる。 中でも「リッケンバッカー」は、鮮烈な歌詞が印象的で今でもファンに強く愛される1曲だ。 リッケンバッカーが歌う リッケンバッカーが響く リッケンバッカーも泣く おんがくよ、人を生かせ 「リッケンバッカー」(2016) 翌2017年に2ndミニ・アルバム『The Radio』、2018年には3rdミニ・アルバム『The Telephone』をリリース。しかし2017年には白石はるかが脱退し一時二人体制となるが、2018年のアルバムリリース後にベースの海が加入し、再びスリー・ピース・バンドとなる。 2019年にはアメリカで開催された「SXSW 2019」に出演、中国やアジアでもライブ・コンサートを開催するなど、海外にも活動の幅を広げている。 そして、バンド結成6年目となる2020年2月5日に、満を持してのフル・アルバム『bedtime story』をリリースした。 全ての曲のソングライティングを手がけるたかはしほのかは、ニルヴァーナなどのグランジ・ロックや、オルタナティヴ、プログレッシブ、ポスト・ロックなどからの影響が大きく、また、パワードラムが印象的なゆきやまは、レッド・ツェッペリンのジョン・ボーナムに強い衝撃を受けたという。 また、たかはしが紡ぎ出す言葉は時に抽象的でありながら、心を突き刺すようなストレートな鋭さも併せ持つ。歌詞をどのように作り出すのかについて、Rolling Stone Japan のインタビューで語っている。 考えながら組み立てていくのではなくて、自分の心の一番上にある感情をそのまま貼り付けていくというか。最初に絵を思..
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ブラジルのビーチを150万人で埋め尽くした「世界最高のロックバンド」の稼ぎ方

2006年2月18日、ブラジル・リオデジャネイロのコパカバーナビーチには、一晩で150万人(*1)もの人々が集まった。無料コンサートとはいえ、リゾート地の海岸がこれほどの大観衆で埋め尽くされる光景は滅多にお目にかかれない。「世界最高のロックバンド」と謳われるあのローリング・ストーンズのステージを観るためだ。 このコンサートは当時の新作『ア・ビガー・バン』のワールドツアーの一環だった。32ヵ国118都市を巡るストーンズ流ロックンロール・サーカスは、2005年8月から丸2年も続けられた。結果的に144回公演で468万人(コパカバーナの人数は含めず!)を動員して、5億5825万ドルもの収益を生み出し、ツアー興行記録(*2)を塗り替えてしまった。 驚くのはまだ早い。 ビルボード誌が発表した「90年代以降のツアー興行収益のトータルランキング」では、538公演/約1967万人動員/約15億7000万ドルを稼いだストーンズが堂々のトップに立った。また、フォーブス誌が毎年発表する収入や話題をランキング化した「セレブリティ100」には、大規模なツアーをする度にストーンズがランクインする。 例えば40周年ツアー時は2003年に8000万ドル、2004年に5600万ドル。上記の『ア・ビガー・バン・ツアー』時は2006年に9900万ドル、2007年に至っては1億500万ドルもの収入があった(ちなみに50周年ツアーを行った2013年の収入は3900万ドル)。同誌が単なる収入上位を発表していただけの90年代でも彼らはランキングの常連で、その際には50~70億円という数字が並び、やはりすべてにツアーが絡んでいた。 今の時代、長期間に渡ってスタジアムやアリーナのツアーを実施するのは何もストーンズに限ったことではなく、スター級のロックバンドやポップスターが人気を維持するためには常に求められる華やかなイベントのようなもの。だがそんな中でも、80年代以降のストーンズのツアーは、その継続するスケール感や稼ぎ出す金額に特筆すべきものがある(このコラムの最後にリスト化参照)。 1970年代から1990年代後半までは、アーティストがレコードやCDのセールスで十分稼げた期間だったと、ミック・ジャガーは指摘する。確かにストーンズ自身も60年代は不利な契約に縛られてレコード会社ばかりが儲かる仕組みだったし、ネットカル..
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リアリティ・バイツ〜“厳しい現実”と直面したX世代と忘れ得ぬ名曲「Stay」

1991年に刊行された『ジェネレーションX〜加速された文化のための物語たち』は、1961年生まれのカナダ人作家ダグラス・クープランドによる小説で、欧米のポップカルチャーで話題となって日本でも翌年に翻訳されたので、手に取った人もいると思う。 「ジェネレーションX」とは1961年〜1981年生まれの世代を定義しているが、クープランドの著書は60年代生まれのポスト・ベビー・ブーマーたちを描いた青春ロードノベルだった。 アメリカと日本の社会背景や出来事は多少違うので世代意識は完全に一致しないが、日本ではバブル期に青春を送った60年代半ば〜後半生まれの「新人類」や、崩壊後に就職難と直面した70年代前半〜半ば生まれの「団塊ジュニア」あたりを「ジェネレーションX」と呼ぶ傾向があった。 少し前に活躍したニュー・ロスト・ジェネレーション世代の作家(ブレット・イーストン・エリスやジェイ・マキナニーなど)がスタイリッシュな消費/享楽文化の中で無気力・無関心・無感動のように生きる若者たちを描いていたのに対し、クープランドは孤独と不安と喪失感の中にありながらも、既存のシステム社会から抜け出して新しい価値を求めようとする若者たちに光をあてようとした。 そういう意味で日本で「ジェネレーションX」を再定義するなら、「90年代に青春期を送った世代」と言い換えていいのかもしれない。 今の若者は、たかがBMWを買うために週80時間も働いたりしません。60年代に反体制やカルチャー革命を謳った人々は今や無心に毎朝ジョギングする始末。では、現在の私たちはどう生きるべきか。受け継いだ重荷をどうすべきか。卒業生の皆さん、答えはいたって簡単です。その答えは、答えは……分かりません(I Don’t Know) 大学の卒業式で総代スピーチを行うリレイナ(ウィノナ・ライダー)の姿から始まる『リアリティ・バイツ』(REALITY BITES/1994)は、学生から社会人へと変換しようとする「ジェネレーションX」の若者たちを描いた作品。俳優としても有名なベン・スティラーの初監督作品で、この映画にも旧世代の象徴として出演している。ウィノナ・ライダーは日本でも大人気だった。 物語は、TV局の契約社員になったリレイナのほかに、売れる見込みのないバンド活動を続けるトロイ(イーサン・ホーク)、ゲイであることを告白したサミー、GAP..
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Mr.ボー・ジャングルス〜サミー・デイヴィスJr.が実在した伝説のタップダンサーの姿を重ねながら歌った名曲

歌、ダンス、モノマネ、巧みなトーク、そしてトランペット、ドラム、ビブラフォンの演奏、映画やテレビでの演技など、様々な“芸”を極め「Mr.エンターテインメント」と称されたサミー・デイヴィスJr.。 1990年5月16日、彼は喉頭癌を患い64歳でこの世を去った。 そんな彼が40代からこの世を去るまでの約20年間、ステージで大切に歌った“一曲”がある。 その曲の名は『Mr.ボー・ジャングルス』。 ドサまわりをし、刑務所に入っていることも多く、ダンスのギャラとして酒と少しばかりのチップをねだる…歌いながらそんな老ダンサーの姿を演じてみせる彼のステージはまさに“至芸”と呼ぶにふさわしいものだった。 彼はこの曲を歌うときに、実在した伝説のタップダンサーの姿を重ねながら歌ったという。 その人物の名はビル・ロビンソン。 アメリカ最高のタップダンスの名人として名を馳せたビルは、1920年代から30年代にかけてボードヴィルショーや(アメリカ最初期の)黒人映画俳優として活躍した元祖エンターテイナーだった。 後に“タップの神様”と呼ばれたビルの誕生日(5月25日)は「National Tap Dance Day(タップダンスの日)」となっている。 彼はショーの一座で南部を回った ある日、涙しながら15年間の話をしてくれた 彼と愛犬がどんな旅をしてのか その犬が死んでしまって20年… 彼は哀しみ続けているんだ 彼は言った「俺は今どんな時でも機会があれば踊るぜ!」と 酔っ払い相手の安酒場で…はした金でも サミー・デイヴィスJr.の“十八番”として知られたこの歌、実は彼が歌うことを避けていた時期もあったのだという。 人気スターとして“落ちぶれた老ダンサー”を演じながら歌い踊っているうちは良いが、50歳を迎えた頃に体力的な衰えを感じるようになった彼は「今、自分が病気や事故にあって長いこと仕事を休むようになったなら、豪邸のローンなどでたちまち破産し、この老ダンサーのような境遇になってしまうだろう」という恐怖にとらわれていたというのだ。 そのため、しばらくは出来るだけこの曲を歌わずにすますようにしていたという。 逆に言えば、彼はそれほどこの曲に打ち込み、歌に出てくる老ダンサーと一体化するほど感情移入していたのかもしれない。 ボージャングルという男に会ったことがある ボロ靴で踊ってくれた 白髪まじ..
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カレン・カーペンターを偲んで〜輝かしい活躍の舞台裏で彼女が抱えつづけた“心の闇”とは!?

1983年2月4日、カレン・カーペンターは32歳でこの世を去った。 死因は摂食障害がもたらした心不全だった。 カーペンターズといえば、彼らが活躍した1970年代当時、ホワイトハウスやディズニーランドでの演奏を許された唯一のミュージシャンだった。 ビートルズのポール・マッカートニーは、彼女の歌声とカーペンターズの音楽についてこう賛美している。 「世界で最高の女声であり、旋律が美しく、豊かで、そして独特だ。」 20代前半で世界的な大スターとなった彼女。 地位も名誉も財産も手に入れながらも、なぜ彼女は摂食障害となり、遂には命まで落としてしまったのか? 妹カレンの死後、兄のリチャード・カーペンターはこんなコメントを残している。 「あれから…自分では素晴らしいと思う曲ができることもあります。でも僕はそれを表現する声を永遠に失ってしまったんです。」 彼女の歌声と命を奪ったのは拒食症(神経性無食欲症)という病気だった。 それは常に“自分は太っている”と考えてしまうボディイメージの障害、食物摂取の不良または拒否、体重減少を特徴とするもので神経性食欲不振症、神経性食思不振症、思春期やせ症とも言われている精神の病である。 デビュー当初、普通よりほんの少しぽっちゃりしている程度だった彼女に対して、一部の音楽ファンが“デブの田舎者”などと心無い誹謗中傷をしたという。 彼女はその言葉を聞き流す事ができず、決して太っていたわけではないのに“もっと痩せればもっと愛されるようになるかもしれない”と考えるようになったという。 その後も輝かしい活躍の舞台裏で、常に人に見られる立場の職業である事、芸能界という世界でファッションモデルや女優と頻繁に会う機会があった事、音楽誌に“太っちょ”などと書かれた事などを過剰に気にするようになり、彼女はその病状を悪化させていくこととなる。 そんな中、1980年に彼女は30歳の時に不動産業のトム・バリス(39歳)と結婚をする。 しかしその結婚生活は惨憺たるもので、翌年の末にはすぐに別居してしまう。 夫の心ない言葉や態度によって彼女の病はますます悪化の一途を辿り…その痩せ細った身体と心はボロボロになり、グループの活動にも暗い影を落とすようになる。 1982年、彼女は拒食症の治療を受けるためニューヨークの著名な心理セラピストを訪ねる。 その年の11月には仕事に復帰..
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