2006年の夏に「誰が歌謡曲を殺したか」という、遺言のようなエッセイを発表した阿久悠

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2006年7月1日、東京新聞にひとつのエッセイが掲載された。
タイトルは「誰が歌謡曲を殺したか」という、いささか刺激的なものだった。
これを書いたのは作詞家の阿久悠で、当時は癌との闘病で入院中であった。
もう余命がいくばくもないことを感じていたのだろうか、エッセイからは遺言のようなニュアンスが伝わってきた。
書き出しの文章は歌謡曲について、まず定義を確認するところから始まっている。

 流行歌とも演歌とも違うし、Jポップスとも違う。ただし、流行歌とも思えるし、演歌とも考えられるし、Jポップス的なところもパーツとしては見つけられる。
つまり歌謡曲とは趣味嗜好によって細分化したジャンルではなく、おそろしくフトコロの広い、器の大きい物なのだ。
要するに、アメリカンポップスも ロックも音として呑み込み、それに日本の現在を切り取り、日本人の心を躍らせ泣かせる詞を付けた、歌の総合文化であった。




演歌の父とも言われる作曲家の古賀政男は、ギターやマンドリンといった西洋の楽器と日本調のメロディーと節まわしを組み合わせることによって、戦前戦後を通して大衆に受け入れられる<流行歌>をつくり続けた。
和製ポップスの父と讃えられた作曲家の服部良一は、ジャズとクラシックを土台にしながら、リズムとコーラスとハーモニーを重視した歌によって、戦前から戦後にかけて新しい日本の<歌謡曲>をつくりあげた。
先駆者たちの仕事を受け継いで歌の総合文化としての歌謡曲に<ポピュラーソング>の要素を加えたのが、中村八大であった。
代表曲「上を向いて歩こう」は1963年に全米チャートで1位になり、そこから世界的なスタンダード曲にまでなっている。
そうした先人たちが創り上げた<流行歌>や<歌謡曲>、<ポピュラーソング>を受け継いで、さらに時代に合わせて発展させていったのが、歌謡曲の全盛時の1970年代に活躍したソングライターたちである。
その先頭に立っていたひとりだった阿久悠は、当時の充実感をこのように回顧していた。

歌謡曲全盛時代は一九七〇年代である。その当時の若いプロ作家は、歌的なるものの呪縛から解き放たれ、不可能はないとばかりに新しいこと、珍しいこと、面白いことを探し、創り、世に提供した。


彼が作詞家として活動を始めた1960年代後半から70年代にかけて、日本では音楽産業における変革の動きがいくつも同時進行で起こっていた。
それらのなかでもっとも際立っていたのは、テレビの音楽番組やバラエティ番組との相乗効果で、 新たに“見せる=魅せる”という要素が、歌手にとどまらず、楽曲そのものにまで求められたことだろう。
だから新曲を作る段階から、振付師に参加してもらうプロジェクトが増えたのである。



そのさきがけになったのがGS(グループ・サウンズ)のブームであり、これはミリタリールックなどの衣装に身を包んだ若いロックバンドが、哀愁をともなう甘い歌でティーンネイジャーを熱狂させて、人気が爆発した現象だった。
ただし、そこでヒットした楽曲の大半は若いソングライターたちによる作品ではあっても、ロックと呼べるものは少なく、サウンドは洋楽風げも歌謡曲の範疇におさまるものがほとんどだった。
たとえば最古参のスパイダースが放ったヒット曲の「夕陽が泣いている」は、ベテランのソングライターだった浜口庫之助が提供したものである。
バンドによるアレンジはロック風になったが、楽曲そのものは叙情的な歌謡曲だった。
そこへ登場してきて著しい活躍を見せたのが、すでに30代を迎えていた放送作家の阿久悠である。
テレビの時代の特性を生かして、阿久悠はそこから10数年の期間に膨大な数のヒット曲を生み出した。


そして彼がデビュー曲としてモップスに提供した「朝まで待てない」は、歌謡曲の匂いがしない日本語のロックであった。
ロックを必要とする時代に抜擢されて結果を出した阿久悠は、若者たちの反発心や焦燥感を「朝まで待てない」の歌詞に託したという意味において、もっとも初期のロック詩人であったと言える。
彼がいつも語っていた作詞家としての原点は、「若者はいつも拒絶される」という思いにあったのだ。
(注)本コラムは2019年8月1日に公開されました。なお阿久悠氏の文章はいずれも「昭和と歌謡曲と日本人」(河出書房新社)からの引用です。

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