2020-03

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3月に去ったレジェンド⑥〜ケニー・ロジャース/キース・エマーソンほか

★ダウンロード/ストリーミング時代の色彩別アルバムガイド 「TAP the COLOR」連載第399回〜BROWN〜 (3月に亡くなった主なミュージシャン) ロック:チャック・ベリー、ジョン・フィリップス(ママス&パパス)、リチャード・マニュエル(ザ・バンド)、キース・エマーソン(EL&P)、ポール・コゾフ(フリー)、アンディ・ギブ、ランディ・ローズ、マイク・ポーカロ(TOTO)、イアン・デューリー ポップ:ダスティ・スプリングフィールド、ダン・ハートマン カントリー/フォーク:パッツィ・クライン、ジョーイ・フィーク、ケニー・ロジャース ブルーズ/R&B/ソウル:Tボーン・ウォーカー、ジェイムズ・コットン、ローウェル・フルソン、アーサー・クルーダップ、ジョン・ベルーシ(ブルース・ブラザース) ヒップホップ/ラップ:ノートリアスB.I.G. ジャズ:レスター・ヤング、チャーリー・クリスチャン、チャーリー・パーカー、ジャッキー・マクリーン その他:マントヴァーニ、セルジュ・ゲンスブール、フィル・ラモーン、フランキー・ナックルズ、ジェイコブ・ミラー(インナー・サークル)、セレーナ あなたの好きな色は?〜TAP the COLORのバックナンバーはこちらから ケニー・ロジャース『Gideon』(1980) 2020年3月20日に81歳で亡くなったケニー・ロジャース。アメリカの国民的歌手と言われた一方、その深みのあるハスキーな歌唱とクロスオーバー感覚でカントリーミュージックに多大な貢献をもたらした人物でもあった。ヒット曲は数知れないが、本作からはキム・カーンズとのデュエット「Don’t Fall in Love with a Dreamer」(荒野に消えた愛)が大ヒット。余談だが、90年代には東京・用賀駅近くにレストラン『ケニー・ロジャース・ロースターズ』を営業した時期もあった。 ローウェル・フルソン『Tramp』(1967) のちにオーティス・レディングもカバーした、ファンキー・ブルーズの元祖として知られるタイトル曲(R&Bチャートで5位を記録するヒット)を収録したフルソンの名作。B.B.キングが「眠れる巨人」と称えた人であり、正当な評価には縁がなかった人だが、それでも洗練さと田舎臭さが混じったような、何とも言えない味わい深いブルーズの数々は、聴く者の心をとらえて放さ..
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マトリックス〜ネット時代の到来を象徴した“起きてもまだ夢を見ているような感覚”

1999年と言えば、日本の都市部では「世紀末」や「ミレニアム」といった言葉が頻繁に飛び交っていた頃。20世紀の終わりに漂っていた倦怠感のようなものと、来たるべきまだ見ぬ21世紀への期待感のようなものが混ざり合って、何か異様とも思える空気が巨大なビル群や人々で埋め尽くされた街々を覆っていたような気がする。 iモードの登場によって、バッグやポケットに入れて持ち歩いていた携帯電話にインターネットの世界が組み込まれた。画面がモノクロからカラーに変わり、コンテンツという名のもとに無機質な情報が配信されるようになった。また、「ビットバレー」が宣言されて、アイデアを持った起業家たちがネットベンチャーで自己表現していく風潮も推進化された。市場ではネットバブルが起こり、若くして大金を手にすることはもはや夢ではなくなった。 音楽の世界では小室サウンドが遂に終焉を迎え、宇多田ヒカルや浜崎あゆみが次世代のポップスターに入れ替わった。スポーツでは松坂大輔がプロデビュー。渋谷のギャルにもガングロとかヤマンバといった第2世代が登場。コンビニにATMが設置されるようになり、たまごっちやAIBOといった電子ペットも売れまくった。海外ではユーロが導入されたり、ナップスターが音楽をネットで提供し始めた。 東京ではなく、流行都市としてのTOKYOというパラレルワールドにおいて、次々と現れる情報や商品やサービスは、異様な空気を吸い込んで暮らす孤独な人同士がつながるためのツール(道具)のような役目を果たしていた──そんな頃に映画『マトリックス』(THE MATRIX/1999)は公開された。 この作品が解き放つムードは、都市部の若い世代にとっては大きな意味を持っていたと思う。これからは本格的なネット時代の到来であることを知っていたひと掴みの世代には、『マトリックス』は新しい精神の代弁者であり、目覚めであり、指標になった。見逃すような愚かなことはしなかった。同時期に大ヒットした『アルマゲドン』よりも絶対的なリアリティを感じたのだ。そしてオフィス街にはサングラスを掛けて黒いスーツやコートを着る連中が増殖した。 トーマス・アンダーソン(キアヌ・リーブス)は大手IT企業に勤めるプログラマー。彼には凄腕ハッカー「ネオ」と呼ばれる裏の顔がある。“起きてもまだ夢を観ているような感覚”に取り憑かれていたネオは、ある夜トリニテ..
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加藤和彦との結婚、そしてサディスティック・ミカ・バンドの誕生

京都の平安女学院に通っていた福井光子(ミカ)が、加藤和彦と出会ったのは高校2年生、17歳の秋のことだ。 龍谷大学の学生だった加藤はザ・フォーク・クルセダーズのメンバーだったので、京都の若者たちの間ではちょっとした人気者になっていた。 ミカは同級生とフォークデュオを組むことにしたとき、ファンだった加藤にギターのレッスンを頼もうと思い立って、フォークルが出演するコンサートに出かけて本番前の楽屋を訪ねた。 そして首尾よくOKをもらった。 だがレッスンを引き受けてはみたものの、いざ始めてみるとなかなか二人は上達しない。 そこで加藤がある日、こう言った。 「この先何年、あなたたちにギターを教えてもコンサートには間に合いそうにないから、とりあえず歌の練習をしましょう」 こうして加藤がミカ&トンコというフォーク・デュオのバックでギターを弾くことになり、そこからミカとの個人的な付き合いも始まった。 だが1967年の秋にフォークルの「帰って来たヨッパライ」が爆発的に大ヒット、周囲の状況が一変してしまう。 フォークルとして1年間の限定で音楽活動を始めた加藤は、仕事のために東京に住むようになった。 その直後、1968年2月に起こったセカンド・シングル「イムジン河」の発売中止事件に巻き込まれ、急きょ代わりにつくった「悲しくてやりきれない」がヒットするなど、加藤は多忙を極めて仕事に追われる日々となる。 それでも殺人的なスケジュールの合間をぬって、加藤は恋人に会うために京都に通いつづけた。 そして、大学生になっていたミカにプロポーズした。 母や妹が後押ししてくれたこともあって結婚を承諾したミカは、1970年の夏に日本のミュージシャンたちが北米を回る『ヤング・ジャパン国際親善旅行』に加藤とともに参加し、仲間たちに祝福されて旅先のカナダの協会で挙式する。 (参照コラム・1970年に北米を回った加藤和彦から生まれた「あの素晴しい愛をもう一度」) ミカの記憶によれば、サディスティック・ミカ・バンドが誕生したのは1971年の11月だったという。 最初のメンバーは加藤とミカ、それにドラムのつのだひろの3人。 ただしデビュー曲「サイクリング・ブギ」のレコーディングには、小原礼がベース、高中正義がギターで参加した。 そのシングル盤は1972年6月5日、加藤が東芝レコードの中に設立したプライベート・レーベル..
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松原正樹~「聴けば一発でわかる」という個性的な音色とフレーズで日本のポップスを支えたギタリスト

日本を代表するセッション・ギタリストの松原正樹がソロ・デビューから35周年の区切りを迎えて、東京の六本木STB139でアニバーサリー・ライブを行ったのは2013年11月21日だった。 それを収録したアルバム『松原正樹/35th Anniversary Live』は、翌年にCD化された。 長いキャリアの軌跡をたどったそライブで圧巻だったのが、それまでレコーディングに携わってきたヒット曲による「松原WORKSメドレー」だった。 70年代から80年代にかけて発展していった音楽シーンに欠かせないギタリストとして、多方面に影響を与えてきた名フレーズを聴くことができる。 「愚か者」(近藤真彦)~「北ウィング」(中森明菜)~「カナダからの手紙」(平尾昌晃 畑中葉子)~「中央フリーウェイ」(荒井由実)~「渚のバルコニー」(松田聖子)~「長い夜」(松山千春)~「微笑がえし」(キャンディーズ)~「六本木純情派」(荻野目洋子)~「真珠のピアス」(松任谷由実)~「案山子」(さだまさし)~「さよならの向こう側」(山口百恵)~「冷たい雨」(ハイ・ファイ・セット)~「瞳はダイアモンド」(松田聖子) (「松原WORKSメドレー」は2分00秒から4分24秒) 福井県の武生市(現・越前市)に生まれ育った松原が初めて買ったアルバムは、オクターブ奏法で一世を風靡したジャズ・ギタリストのウェス・モンゴメリーだった。 ギターのアルバムが欲しいと思っていたんだけど何の情報もないものだからレコード屋さんへ行って、ギターが写ってるやつとかギターを弾いてる姿が写ったやつを探してね(笑)。 これは絶対ギターのアルバムに違いない!と思って買ったのがウエス・モンゴメリーだったんですよ。 それで聴いたら初めて聴く音でね。 どうやって弾いてるのか全然分からないし……。 「あれ? なんでこんな音するんだろう?」っていう不思議な音だし。 真似しようと思っても全然できなくてね。 松原は中学のブラスバンド部に入ってトロンボーンを吹いていたが、当時はプロのミュージシャンになりたいと思って、毎日の練習に励んでいたという。 しかし、中学2年でギター出会ってからはなんとかギターを弾けるようになりたいと、クラブ活動を終えて帰宅すると、ずっとギターに向き合う毎日となっていった。 中学を卒業したらそのまま都会に出てギタリストになりたいと親に..
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原点回帰したことで進化を続けるショーケンのブルース〜萩原健一インタビュー〜

萩原健一さんが3月26日に消化管間質腫瘍のため、東京都内の病院で死去したことが、3月28日に明らかになりました。 享年68。 TAP the POPでは昨年の春に開催されたライブ、および新曲発売に合わせてインタビューを行っています。 そこではもっとも若い21歳のライターで、前の年に初めてテレビドラマ「傷だらけの天使」を観たという、吉田ボブをインタビュアーに選びました。 それは萩原健一さんの音楽に対する原点について、次世代のために語っていただこうと考えたからです。 突然の訃報に接して、あらためて追悼の思いを込めて、ショーケンの真摯な言葉を読んでいただきたいと思います。 (インタビュアー・吉田ボブ 企画構成・佐藤剛) 僕が通称「ショーケン」こと萩原健一さんの凄さを知ったのは2017年の夏、大学2年生のときである。 早稲田演劇博物館で行われていた「テレビドラマ博覧会」で、何気なく目にした「傷だらけの天使」の名シーン集に目を奪われた。 映像から伝わってくる圧倒的な存在感、独特の声から発せられるセリフの数々、僕はそのブースにだけ、やけに長く立ち止まっていたのを覚えている。 ミュージシャンとしての萩原健一の作品にも、ほどなくして触れるようになった。 なかでもアルバム『Straight Light』の1曲目、「Gimme Your Love」には耳を奪われた。 ブルージーなギターリフや粘り気のある声、その全てがローリング・ストーンズやマディ・ウォーターズのブルースに、負けず劣らずの魅力を持っていたのだ。 そして今回、5月と6月に東京と大阪のBillboard Liveでの公演、シングル「Time Flies」を発表するというタイミングで、幸運にも萩原さんご本人に取材することができた。 「傷だらけの天使」や『Straight Light』の感動を伝えると、萩原さんは「『Straight Light』はよくできた作品だったね」と顔をほころばせた。 そこからご自身のルーツ、音楽と演技、そして近年の活動や最新作について語っていただいた。 萩原さんの音楽のルーツであるブルースとの出会いは、いつ、どのようなものだったのでしょうか。 僕のルーツは正確に言うと、カントリー・ブルースなんです。 小さい頃、横浜に住んでいる姉の手伝いに行っていたのですが、横浜の山下公園の前には「カマボコ兵舎」という..
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ロング・グッドバイ〜世界で一番有名な私立探偵が背負った奇妙な友情と別れの美学

夜のための創作がある。音楽ならモダンジャズ、小説ならハードボイルド、映画ならフィルム・ノワールといったように、夜の世界に捧げる物語がある。 『大いなる眠り』『さらば愛しき女よ』『高い窓』『湖中の女』『かわいい女』『プレイバック』……ミステリーやサスペンスに興味がない人でも、一度は耳にしたことのあるタイトルかもしれない。これらはすべて一人の作家によって書かれた長編小説でもある。 レイモンド・チャンドラー。登場人物の心理を主に台詞や行動で描写するハードボイルド文体に、知性や洒落たセンスを取り入れた書き手。ハリウッドやLAの街の空気、そこに生きる人間模様などのリアリズムを貫き、世界で最も有名な私立探偵フィリップ・マーロウの生みの親。 ──『ロング・グッドバイ』(THE LONG GOODBYE/1973)は、そんなチャンドラーの最高傑作として知られる『長いお別れ』の映画化だった。フィリップ・マーロウという魅力的かつ映像的な人物をハリウッドが無視するわけがなく、これまでにもハンフリー・ボガードやロバート・ミッチャムらの名優が演じてきた。 しかし、本作におけるエリオット・グールド演じる現代版(50年代から70年代に置き換えた)マーロウは、お決まりのトレンチコートも帽子も身につけていない。しかも二枚目とは言いがたいし、バサバサの髪に無精髭でちょっとだらしない。正直、従来のクールでニヒルな私立探偵のイメージや、誰もが期待するダンディズムとは程遠いのだ。 にも関わらず、この作品におけるフィリップ・マーロウを愛する人々は多い(のちに松田優作の『探偵物語』がこのムードを持ち込んだのは有名な話)。監督は奇才ロバート・アルトマン。公開当時、原作ファンや昔の映画ファンからは批判が多数寄せられたそうだが、かつての時代とは価値観があまりにも違ってきた現実と向き合う狙いもあったはずだ。 時代設定は変わっても、奇妙な友情と別れの美学が、マーロウのくわえ煙草から舞う煙の雲のように全編に渡ってひっそりと漂っている。すべては夜の人々のために。オープニングがとにかく洒落ている。 深夜3時、LAのアパート。お腹を空かせた飼い猫に起こされたマーロウは、冷蔵庫からあり合わせのものを差し出すが、わがままな猫は食べてくれない。しつこくせがまれるので仕方なく好物である“カレー印”のキャットフードを買い出しする羽目に。 ..
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さらば愛しき女よ〜チャンドラーの美学を受け継いだ一級のハードボイルド映画

レイモンド・チャンドラー。登場人物の心理を主に台詞や行動で描写するハードボイルド文体に、知性や洒落たセンスを取り入れた書き手。ハリウッドの空気やロサンゼルスの風景、そこに生きる人間模様といったリアリズムを貫き、世界で最も有名な私立探偵フィリップ・マーロウの生みの親。 その味わい深い世界は、今も7つの長編でじっくり楽しめる──『大いなる眠り』(1939)、『さらば愛しき女よ』(1940)、『高い窓』(1942)、『湖中の女』(1943)、『かわいい女』(1949)、『長いお別れ』(1953)、『プレイバック』(1958)──ページを1枚ずつめくっていく至福感。ページが残りわずかになると、親しい友人や恋人と別れなければならないような寂しさにも包まれる。そんな気持ちにさせてくれるのがチャンドラー作品であり、マーロウの物語だ。 1888年、アメリカのシカゴで生まれたチャンドラー。8才の時に両親が離婚し、母の故郷ロンドンへ移住する。青年時代にはフランスやドイツでも学び、文筆修行を積んだ。23歳の時にアメリカへ戻ると、サンフランシスコを経てロサンゼルスでの生活に落ち着く。手当たり次第に職を転々としながら、第一次世界大戦が勃発すると空軍に志願した。 除隊後は景気上昇の波に乗って石油会社の役員となり、35歳の時に18歳年上のシシーと結婚。狂乱の20年代が終わり、世界的大不況に覆われた30年代。失職したチャンドラーはいよいよ創作活動を開始。1933年、パルプ・マガジン「ブラック・マスク」に探偵小説第1作目となる中編「脅迫者は撃たない」が掲載された。 以来、フィリップ・マーロウの原型となる中編を次々とパルプ・マガジンで発表。そして1939年にはマーロウを語り手とした『大いなる眠り』で長編デビューを果たす。40年代にはハリウッドで脚本の仕事にも携わりつつ(中でもビリー・ワイルダーと共同で書いた『深夜の告白』はフィルム・ノワール不朽の名作)、マーロウ・シリーズに取り組み続けた。 しかし、1954年暮れに妻シシーが死去すると酒に深く溺れ始め、1959年3月に71歳で気管支炎に襲われてサンディエゴで永眠。約25年の創作活動で、長編7本・中短編24本・数本のエッセイ・未完の『プードル・スプリングス物語』を残した。40年代から映画化もされ、ディック・パウエル、ハンフリー・ボガート(『三つ数えろ』)..
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いとしのエリー〜桑田佳祐が至上の愛を歌い捧げた“エリー”の正体とは!?

泣かした事もある 冷たくしてもなお よりそう気持ちが あればいいのさ 俺にしてみりゃ これで最後のlady エリー my love so sweet 「いとしのエリー」は、サザンオールスターズの3枚目のシングルとして1979年3月25日にリリースされた。 1983年よりTBS系の人気ドラマ『ふぞろいの林檎たち』の主題歌として起用され、ドラマには様々なサザンの楽曲がBGMや挿入歌として使われており、1997年の完結に至るまでシリーズを通して“物語のデーマソング”として愛されることとなった。 発売当初、この曲はオリコンチャートでは1位にならなかったが、「涙のキッス」(1992年の31thシングル)が大ヒットするまでのサザンの歴代シングル売上げでは1位をキープし続けた楽曲である。 桑田佳祐は原由子と結婚する前に一度別れることとなった。 しかし、程なくして「やはり自分には彼女しかいない」と悟り、原への「ごめんなさい」の気持ちを込めてこの歌を作曲したと言われている。 原の著書『娘心にブルースを』によると、彼女は1979年に桑田佳祐からプロポーズを受けたという。 その数日後、桑田は原に完成したばかりの「いとしのエリー」を聴かせて愛を語ったというエピソードが綴られている。 では、諸説ある“エリー”の正体とはいったい誰のことなのか? 一説によると桑田が敬愛し、原と思い出を共有するエリック・クラプトンをイメージした曲であり、完成前の曲の仮のタイトルは「心に翼を持つ男」だったということから“エリック”を略名にしたものだという。 また、桑田の実姉が名がエリコ(岩本えり子)であることから、歌詞には姉への想いが込められているのではないか?とする説もあった。 しかし、桑田本人がラジオ番組でこの件に触れ「どちらの説も当時のインタビュー等で適当に語ったものだ」と話し、真相は“エリー”という言葉の響きの良さから決めたものだと明かしたという。 同曲はレイ・チャールズやボーイズ・Ⅱメンなどもカヴァーし、国外でも愛される日本を代表する名曲となった。 あなたがもしもどこかの遠くへ行きうせても 今までしてくれたことを 忘れずにいたいよ もどかしさもあなたにゃ 程よくいいね エリー my love so sweet こちらのコラムの「書き手」である佐々木モトアキの音楽活動(公演スケジュール)です♪ 全国で..
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不滅の恋/ベートーヴェン〜偉大な作曲家が密かに愛し続けた“不滅の恋人”とは誰なのか?

1827年3月26日。ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが病に倒れてこの世を去った。享年56。その死の翌日、株券に隠れるように“ラブレター”が見つかった。そこにはこんな言葉が並べられていた。 私の楽譜、財産のすべてを、我が天使、我がすべてである不滅の恋人に捧げる。 と言っても、女性の名前はどこにも記されていない。年代もない。分かっているのは7月6日朝、夕方、7月7日朝に書かれたこと。そして、温泉療養地であるカールスバートの宿に来ていた恋人に向けたものであること。 以後、熱心な研究家たちは長年に渡ってこのミステリーを解こうとした。結果、生涯独身を通したベートーヴェンが42歳の時、1812年に綴られたものであることが判明した。様々な憶測が飛び交い、いくつかの仮説が発表される。否定されてはまた新しい説が出てくる。その繰り返しだった。200年近く経った現在も、謎は完全に解けていない。 私の天使、私のすべて、私の分身。今日は少しだけ書こう。あなたの鉛筆で。明日にならねば、宿に着けない。何という時間の浪費だろう。なぜ悲しいのだろう。結ばれていたなら、苦しまないで済むのに。私がいる所にあなたもいる。もし共に暮らせたら、きっと楽しい生活だろう。 『不滅の恋/ベートーヴェン』(Immortal Beloved/1994)は、作曲家の人生の断片と共に「“不滅の恋人”とは誰なのか?」へと迫っていくロマンチック・ミステリー。監督/脚本のバーナード・ローズによる仮説上の物語だが、これはモーツァルトを描いた『アマデウス』と並ぶクラシック音楽家の人生を描いた映画の金字塔。ゲイリー・オールドマンの名演技もあって、観る者を探偵のような視点と心境にさせてくれる傑作だ。 交響楽やピアノ・ソナタの開拓者でもあったベートーヴェンは、演奏会やレッスン、楽譜出版による報酬で生活を自立させようとした。貴族や宮廷の保護下で使用人として音楽に取り組むのではなく、対等に扱われることを要求し、職人ではなく芸術家としてのあり方を追求しようとした信念の人だった。 だが、ベートーヴェンは別に偉人だったわけではない。彼もまた一人の弱い人間だった。幼少時代は天才モーツァルトのようにはなれなくて父から虐待された。誰よりも完璧に持たなければならない聴覚を失って絶望したこともある。報われない恋に何度か身を委ねたり、愛する甥っ子..
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First Step〜飛躍の一歩にはならなかったフェイセズのデビューアルバム

3月21日は英国ロック史に残るスーパーバンドFaces(フェイセズ)のデビューアルバム『ファースト・ステップ』がリリースされた日である。 この日にちなんで、彼らの結成の経緯(最初の一歩)をご紹介します。 ──1969年、スモール・フェイセスのヴォーカリストだったスティーヴ・マリオットは、ピーター・フランプトンと共にハンブル・パイを結成するためにバンドを脱退する。 当時、バンドの存続に一番こだわったキーボーディストのイアン・マクレガンは、新しいスタイルとイメージを取り入れて「新たなバンドとして活動を続けていきたい」と、他のメンバー(ロニー・レーン、ケニー・ジョーンズ)に提案した。 そして3人で話し合った結果、名前を“フェイセズ”にして新たなステップを誓ったという。 彼らは、たとえ名前くらい変えたところで、3人での再スタートが容易ではないこともわかっていた。 ヴォーカリストが抜けてしまったため、それまでスモール・フェイセスに大きな期待を寄せていた大手レコード会社は彼らの将来に興味を示さなくなったという。 それでも彼らは地道に練習を重ね、演奏にも曲作りにも熱を入れていった。 ちょうどその頃、ジェフ・ベックグループと決別したロン・ウッドは3人のフェイセズと友好関係を結び、練習場でセッションをしながら次第にバンドに参加するようになっていた。 ロンと同じタイミングでジェフ・ベックグループを離れたロッド・スチュワートも、ロンとも強い絆で結ばれていたので、フェイセズの練習場に顔を見せるようになった。 ロッドは当時、練習場となっていた地下室へ通じる階段の最上段に座って、彼らの演奏をよく聴いていたという。 ──その年の初冬、ロッド・スチュワートとドラマーのケニー・ジョーンズは、ハイゲート(ロンドン中心部カムデン・ロンドン特別区‎にある地区)にある『ザ・スパニヤード』という居酒屋で軽く一杯ひっかけていた。 ケニーはその夜もドラムの練習に出かけるつもりでいたのだが、酒を呑みながら突然ロッドにフェイセズへの加入を勧めはじめた。 実はロッドの方もバンドに勧誘されるのを待っていた気持ちがあった。 当時、ロッドは彼らの音も気に入っていたし、メンバーのことも心良く思っていた。 それに、そのバンドに加入したばかりのロン・ウッドと親友でもあったのだ。 ロッドが喜んでケニーの申し出を受け入れると、二人は車..
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3月21日の春分の日はいつからか、音楽ファンにはとって「大滝詠一の日」になった 

3月21日といえば日本人には「春分の日」なのだが、音楽ファンの間ではいつの頃からか「大滝詠一の日」になっている。 そもそもの発端は1981年3月21日に、アルバム『A LONG VACATION(ア・ロング・バケイション)』がリリースされたことだった。 NHK-FMで特別番組『今日は一日“大滝詠一”三昧』が、昼の12時15分から24時までオンエアされたのは2011年の3月21日だった。 特定のジャンルをテーマにした長時間特別番組のシリーズ『今日は一日三昧』では、それまでにも「ラテン」「アニソン」「モーツァルト」「民謡」「プログレ」「ゲーム音楽」といった具合に音楽が取り上げられてきた。 その番組では聴取者からのリクエストを受け付けて、全部で107曲もの大瀧詠一作品が紹介されたのである。 ただし自作を解説する予定だった大瀧詠一は、その10日前に起こった東日本大震災で出身地の岩手県が大きな被害を受けたことなどを配慮し、当日の出演を自粛した。 大瀧詠一は1976年に日本コロムビアと契約を結んだ際に、最新鋭の16チャンネル・マルチトラック・テープレコーダーを提供してもらうことを条件にした。 そのおかげで、それからの3年間は全部で12枚のアルバムを制作し、次々に発売するという苛酷なノルマに苦しんだ。 それでも地獄の責苦のようなハード・スケジュールをこなして、自宅そばに構えた「FUSSA45スタジオ」で大瀧詠一はアルバム制作に没頭した。 日本語のロックを考え続けた帰結として『ナイアガラ・カレンダー’78』を完成させて、レコード発売したのは1977年の12月のことだ。 ところが、このアルバムはセールス的にまったくの不発に終わった。 そのことで音楽活動の前途に暗雲がたちこめてしまう。 大瀧詠一は自著「All About Niagara」(2001年 白夜書房)で、その当時の心境をこう述べていた。 私本人としては、このアルバムが”最高傑作”である、と考えています。 出来上がりに関しては100%やり遂げたとは言い切れませんが、これ以上のデキが可能だったかに関しては自信がありません。 少なくても”アイデア”そのものはこれが”大瀧の極限(究極)”です。 (『ロング・バケ-ション』はこれと全く同じ”構造”を持っているのですが、それを理解してくれたのは山下達郎君を初めとする少数の人達だけで..
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日吉ミミが”ヨノナカバカナノヨ”と歌った回文による”変な歌”~「世迷い言」

日吉ミミの「世迷い言」は昔から伝わってきた「タケヤブヤケタ(竹藪焼けた)」や、「タイヤキヤイタ(たい焼き焼いた)」などの回文を使った歌謡曲で、テレビドラマの挿入歌として作られた。 1978年に作られた連続ドラマの『ムー一族』(TBS系)は、全編を通してナンセンスな笑いとシュールなギャグが出て来る作品だった。 たとえばトップ・アイドルだった郷ひろみ扮する主人公の”拓郎”が「たまには気のきいた寝言でも言ってみるか」と、こんなことを呟いたりする。 「シンブンシ、タケヤブヤケタ」 『ムー一族』の放送が始まると、「私も考えました」と視聴者からテレビ局にはがきが届くようになった。 番組のプロデューサーで演出家でもあった久世光彦は、上から読んでも下から読んでも同じという回文について、こう語っている。 「宇津井健氏は神経痛」とか、いろいろ回文をやりましたよ。そういう馬鹿馬鹿しいことを一生懸命考えるのが大好きだから。 視聴者からの投書で傑作だったのはヘアリキッドをテーマにしたもので、久世はすぐに採用して番組のなかでも紹介した。 ヘアリキッド、ケツにつけ、ドッキリ、アヘ! 久世から回文を織り込んだ歌詞を依頼されたのは、ピンク・レディーの「UFO」や「サウスポー」を手がけて、飛ぶ鳥を落とす勢いだった作詞家の阿久悠である。 決めの言葉は「世の中バカなのよ」と、久世からの指定があった。 詞を書く時、方向性とか狙いとかについては意見の交換はよくするが、具体的な詞の言葉について注文は受けない方である。しかし、相手が久世光彦では仕方がない。それに妙に面白そうなので引き受けたのである。引き受けた理由は「回文」だけじゃなく、TBS系テレビの人気ドラマ『ムー一族』の挿入歌であること、歌を日吉ミミが歌うこと、そして、これが最も大きい理由だが、作曲が中島みゆきであることと、魅力ある条件がたくさんあったのである。 阿久悠は3年前に久世から頼まれて、沢田研二主演のテレビドラマ『悪魔のようなあいつ』(TBS系)の挿入歌として、「時の過ぎゆくままに」を作って大ヒットを記録していた。 久世は劇中歌や挿入歌の演出に毎度工夫を凝らすことで有名で、そこから数多くのユニークなヒット曲を誕生させている。 初期の阿久悠の代表作となった堺正章の「街の灯り」、郷ひろみと樹木希林とのデュエット曲「おばけのロック」や「..
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久世光彦特集~日吉ミミが”ヨノナカバカナノヨ”と歌った回文歌謡曲「世迷い言」

「世迷い言」は昔から伝わってきた「竹藪焼けた(タケヤブヤケタ)」や、「タイ焼き焼いた(タイヤキヤイタ)」などの回文を使った歌謡曲で、テレビドラマの挿入歌として作られた。 1978年に作られた連続ドラマの『ムー一族』(TBS系)は、全編を通してナンセンスな笑いとシュールなギャグが出て来る作品だった。 たとえばトップアイドルだった郷ひろみ扮する主人公斧一人、拓郎が「たまには気のきいた寝言でも言ってみるか」と、こんなことを呟いたりする。 「シンブンシ、タケヤブヤケタ」 『ムー一族』の放送が始まると、「私も考えました」と視聴者からテレビ局にはがきが届くようになった。 久世はそのなかにあった「ヘアリキッド、ケツにつけ、ドッキリ、アヘ!」という投書に感動し、すぐ採用して番組のなかでも紹介している。 番組のプロデューサーで演出家でもあった久世光彦は、上から読んでも下から読んでも同じという回文について、こう語っている。 「宇津井健氏は神経痛」とか、いろいろ回文をやりましたよ。そういう馬鹿馬鹿しいことを一生懸命考えるのが大好きだから。 久世から回文を織り込んだ歌詞を依頼されたのは、ピンク・レディーの「UFO」や「サウスポー」、沢田研二「憎みきれないろくでなし」や「ダーリング」といったヒット曲を手がけて、飛ぶ鳥を落とす勢いだった作詞家の阿久悠である。 決めの言葉は「世の中バカなのよ」と、初めから指定されていた。 詞を書く時、方向性とか狙いとかについては意見の交換はよくするが、具体的な詞の言葉について注文は受けない方である。しかし、相手が久世光彦では仕方がない。それに妙に面白そうなので引き受けたのである。引き受けた理由は「回文」だけじゃなく、TBS系テレビの人気ドラマ『ムー一族』の挿入歌であること、歌を日吉ミミが歌うこと、そして、これが最も大きい理由だが、作曲が中島みゆきであることと、魅力ある条件がたくさんあったのである。 阿久悠は3年前に久世から頼まれて、沢田研二主演のテレビドラマ『悪魔のようなあいつ』(TBS系)の挿入歌として、「時の過ぎゆくままに」を作って大ヒットを記録した。 久世は劇中歌や挿入歌の演出に毎度工夫を凝らすことで有名で、そこから数多くのユニークなヒット曲を誕生させている。 初期の阿久悠の代表作となった堺正章の「街の灯り」、郷ひろみと樹木希林とのデュエット..
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オジー・オズボーンとランディ・ローズ〜運命のオーディション

1979年、オジー・オズボーンはブリティッシュ・ハードロックの伝説的バンド、ブラック・サバスに愛想を尽かす。ドラッグと酒浸り、リーダー格であるトニー・アイオミとの修復不能な確執。そういったことが積み重なってのクビ同然の脱退劇だった。 失意の中、オジーは自らの活動をスタートさせるため、バンドメンバーのオーディションを行う。スターバンドを離れてのソロ活動。期待感よりも新しい自分を受け入れてくれるかどうかの不安のほうが大きかった。先が見えずに途方に暮れていた。しかしある夜、運命的な出逢いが起こる。 小さな奴が入って来てね。男か女なのかも分からなかった。でもギタープレイを聴いた途端、もう声も出なかった。俺はすごく酔ってたけど、一気に冷めたよ ランディ・ローズだった。母親が経営する音楽教室で地元の子供たちにギターを教えながら、クワイエット・ライオットというLAのローカルバンドで活動していたランディは、このオーディションに乗り気ではなかったという。とても受かる自信がなかったのだ。しかし母親の勧めもあり、出向くこと自体が経験になるからと、無関心のままギターとアンプを持って出掛けた。そしてウォーミングアップのつもりで少し弾いていると、オジーはランディに近づいて言った。「君に決まりだ!」 こうしてランディはイギリスに渡り、オジーと曲作りに励むことになる。二人は一心同体のように通じ合っていたという。 説明なんかいらないんだ。何をするかが分かってるんだ。あの通じ方は驚異的だった。ランディは俺の人生の中で、初めて希望を与えてくれた奴だった 1980年にリリースされた最初のアルバム『Blizzard Of Ozz』も絶賛され、ツアーも大盛況。オジーの不安は、一転して成功へと変わった。リフ主体のサバス時代から、メロディ志向のソロ時代へ。その鍵を握ったのがランディの個性的なギターで、彼のクラシック音楽的な旋律を取り入れたプレイは、当時のロックシーンには余りにも衝撃的だった。 悪魔崇拝、酒のトラブル、鳩やコウモリを食いちぎった事件など、オジーには常に黒いイメージがつきまとっていたが、ランディは何もかも逆のような白く美しい天使のような存在であり、この二人の相反するコントラストこそが、最大の魅力でもあった。1981年には2枚目のアルバム『Diary Of A Madman』もリリース。すべてが..
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黒人の“ブルース”に呼応したアイルランド系移民の“ハイロンサム”

広大なアメリカ大陸の音楽を見渡す時、アイルランド系移民の存在を避けて通ることはできない。その果たした役割はあまりにも大きい。しかし、その文化的栄光の影には、想像を絶する苦難の歩みがあった。 1775年にアメリカで独立戦争が始まった頃、宗教的迫害によってアイルランドからの出国を余儀なくされた最初の移民が東部の僻地山岳帯アパラチアに入植した。「スコッツ・アイリッシュ」と呼ばれた彼らは異国の地でも独自の文化を守り、ウイスキーの密造や祖国の音楽やダンスを通じて、過酷な現実から生じる疲れた心と身体を癒すことになった。また、強い反英感情を持った彼らは独立戦争でも果敢に戦って、新しい国で自分たちの存在意義を見出していった。 もう一つ特筆すべきは、19世紀半ば頃から大量に流れてきた移民たち。1845年、アイルランドでは農業の要だったジャガイモの胴枯れ病が原因で未曾有の大飢饉が発生。死と疫病が国全体に広まり、10年間で死者100万人以上を出した。多くの人々は生計の手だてを失う中、イギリス政府は渡航費をわずか2ポンドに設定して、「土地がたっぷりとあって、地主も存在せず地代は無料、家族を十分に養って行ける」新大陸への移住を意図的に促した。それは自ら望んだ道というより、“祖国からの追放”だった。これにより800万を超えていたアイルランドの人口は、死者と移民の影響で19世紀末には400万人にまで落ち込んだ。 しかし、アイルランド系移民たちが抱いた約束の地での新たな野心は、もろくも崩れ去る。彼らの多くは農村共同体での生活しか知らなかったため、新大陸の産業社会に順応できるわけもなく、アパラチア山地で小屋を建てて自給自足の生活を送るか、すでに富を築き上げて既得権を守ろうとする旧移民のアングロサクソン系からの差別を受けながら、安い賃金と奴隷のような扱いの中で炭坑や鉄道の労働に従事するしかなかった。 1917年、アメリカは第一次世界大戦の戦勝国となって好況に沸くが、それは同時に貧富の格差が決定的になった瞬間でもあった。マンハッタンでは摩天楼が次々と背を伸ばしていた時代に、アイルランド系の農民も南部の黒人も、100年前と変わらない貧困生活を送っていた。 さらに1929年の大恐慌が彼らを襲う。1930年代になると、オクラホマのダストボウル(砂塵地帯)からアイルランド系の貧農たちが強制退去させられ、家族単位..
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