ジャックスから岡林信康に受け継がれていった「ラブ・ジェネレーション」とロック・スピリッツ

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関西フォークの発信元となったインディーズのURCレコードで、ジャックス解散後に契約ディレクターとして働き始めた早川義夫は、1969年の晩秋にソロ・アルバム「かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう」を発表した。

「僕はこのレコードをどうしても流行に乗り遅れてしまうような方に捧げようかと思う。多分に時代遅れぎみのこれらの詞曲は、けっしてかっこよくはなくなんともみじめな歌ばかりなのである。」
(早川義夫)


ほぼ全曲がピアノの弾き語りで、時代の流行とはまったく無縁のアルバムであった。
そこでは孤独と向き合っているなかで生まれた別離や死をテーマにした歌が、あたかも吐き出されるかのように唄われていた。
かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう
それが洋楽のロックを中心にあらゆる音楽を論ずる月刊誌『ニューミュージック・マガジン』で、1969年度の日本のロック・ベスト・アルバムで3位に選出された。
2位になったのがエイプリル・フール の「Apryl Fool」で、松本隆と細野晴臣がはっぴいえんどを結成する前に在籍していた、ニューロックのバンドだった。
そして1位に選ばれて「第1回日本のロック賞」を与えられたのが、岡林信康のファースト・アルバム「私を断罪せよ」だった。
1968年に「山谷ブルース」でデビューした直後から、岡林の作品は歌詞の内容や表現方法がラジカルだった。
そのために「がいこつの歌」や「くそくらえ節」など、多くの楽曲が放送禁止となった一方で、若者たちの一部や話題に敏感なマスコミからは熱い支持を受けていた。
だが「フォークの神様」などとマスコミにとり上げられて、反体制の象徴として神格化される傾向になった状況に強いプレッシャーを感じた岡林は、1969年の9月にライブ活動をやめて第一線から姿を消した。
マスコミがそれを失踪騒ぎだと書きたてる中で、岡林は60年代の半ばに同じような体験をしたボブ・ディランのアルバムを聴きこんでいた。
やがてディランと同様にロックのスタイルで活動することを決めたところに、スタジオでリハーサルを行っていたデビュー前のバンド、はっぴいえんどに出会うことになる。
はっぴいえんどはロックのビートやグルーヴといった概念と、日本語によって構築する方法にトライしたバンドである。
彼らと交流を持ったアーティストやスタッフたちが、70年代以降の音楽シーンにおいて頭角を現して、次第に主流を形成していくことになっていく。
だが1969年の時点では細野晴臣、松本隆、大滝詠一、鈴木茂の四人が結成したばかりで、まだ無名のロックバンドでしかなかった。



1970年に発売された岡林のセカンド・アルバム『見る前に跳べ』には早川のソロ・アルバムから「NHKに捧げる歌」のほか、ジャックス時代に発表した「ロールオーバー庫之助」、「堕天使ロック」、そして代表作だった「ラブ・ジェネレーション」の4曲が、はっぴいえんどの演奏によってカヴァーされた。

僕らは何かをし始めようと 
生きてるふりをしたくないために
時には死んだふりをしてみせる 
時には死んだふりをしてみせるのだ
(「ラブ・ジェネレーション」作詞・作曲 早川義夫)


「ラブ・ジェネレーション」はシングル盤でも発売になったが、表記は「「ラブ・ゼネレーション」だった。


岡林が沈黙していた期間につくった傑作だとして、アルバムの中でも衝撃の問題作として知られたのが「私達の望むものは」であった。
この楽曲には「ラブ・ジェネレーション」からの影響が、はっきりと感じ取れるところがある。

私たちの望むものは 生きる喜びではなく
私たちの望むものは 生きる苦しみなのだ
私たちの望むものは あなたと生きることではなく
私たちの望むものは あなたを殺すことなのだ
(「私達の望むものは」作詞・作曲 岡林信康)


ジャックスから岡林信康に受け継がれたロック・スピリッツと、日本語によるロックへの挑戦は、それを媒介したはっぴいえんどにも引き継がれて、日本の音楽シーンはそこから新たな時代を迎えることになる。
「私達の望むものは」岡林信康(1970)



ジャックス「ラブ・ジェネレーション」(1968)


(注)本コラムは2014年7月18日に公開されました。

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