黒人の“ブルース”に呼応したアイルランド系移民の“ハイロンサム”
広大なアメリカ大陸の音楽を見渡す時、アイルランド系移民の存在を避けて通ることはできない。その果たした役割はあまりにも大きい。しかし、その文化的栄光の影には、想像を絶する苦難の歩みがあった。
1775年にアメリカで独立戦争が始まった頃、宗教的迫害によってアイルランドからの出国を余儀なくされた最初の移民が東部の僻地山岳帯アパラチアに入植した。「スコッツ・アイリッシュ」と呼ばれた彼らは異国の地でも独自の文化を守り、ウイスキーの密造や祖国の音楽やダンスを通じて、過酷な現実から生じる疲れた心と身体を癒すことになった。また、強い反英感情を持った彼らは独立戦争でも果敢に戦って、新しい国で自分たちの存在意義を見出していった。
もう一つ特筆すべきは、19世紀半ば頃から大量に流れてきた移民たち。1845年、アイルランドでは農業の要だったジャガイモの胴枯れ病が原因で未曾有の大飢饉が発生。死と疫病が国全体に広まり、10年間で死者100万人以上を出した。多くの人々は生計の手だてを失う中、イギリス政府は渡航費をわずか2ポンドに設定して、「土地がたっぷりとあって、地主も存在せず地代は無料、家族を十分に養って行ける」新大陸への移住を意図的に促した。それは自ら望んだ道というより、“祖国からの追放”だった。これにより800万を超えていたアイルランドの人口は、死者と移民の影響で19世紀末には400万人にまで落ち込んだ。
しかし、アイルランド系移民たちが抱いた約束の地での新たな野心は、もろくも崩れ去る。彼らの多くは農村共同体での生活しか知らなかったため、新大陸の産業社会に順応できるわけもなく、アパラチア山地で小屋を建てて自給自足の生活を送るか、すでに富を築き上げて既得権を守ろうとする旧移民のアングロサクソン系からの差別を受けながら、安い賃金と奴隷のような扱いの中で炭坑や鉄道の労働に従事するしかなかった。
1917年、アメリカは第一次世界大戦の戦勝国となって好況に沸くが、それは同時に貧富の格差が決定的になった瞬間でもあった。マンハッタンでは摩天楼が次々と背を伸ばしていた時代に、アイルランド系の農民も南部の黒人も、100年前と変わらない貧困生活を送っていた。
さらに1929年の大恐慌が彼らを襲う。1930年代になると、オクラホマのダストボウル(砂塵地帯)からアイルランド系の貧農たちが強制退去させられ、家族単位..