2020-08

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白いドレスの女〜一度観たら忘れられなくなるフィルム・ノワールの傑作

1940〜50年代には低予算で退廃的な犯罪映画が作られていたが、それらは「フィルム・ノワール」と呼ばれるようになり、映画ファンから根強い支持が集まるようになった。主人公の破滅やそれを誘う魔性の女(ファム・ファタール)といったプロットやキャラクター、あるいは独特のセリフの言い回しや暗めの映像美など、このムードに取り憑かれる人は少なくない。 「暑さ以外の話ならお相手するよ」 「夫がいるの」 「それで?」 「相手は要らない」 「幸せならね」 「あなたには関係ないわ」 そんな見知らぬ同士の男と女の会話で始まる『白いドレスの女』(BODY HEAT/1981)は、まさに「フィルム・ノワール」の傑作として記憶されるべき名作になった。この作品には色気が全編に漂う。暑さ、気怠さ、堕落、感情の爆発、官能的な関係に至るまで、すべてに上質な色気のようなものが漂っている。 これが初監督作となったローレンス・カスダンは、古いフィルム・ノワールの傑作中の傑作『過去を逃れて』や『深夜の告白』などの世界観を自身の作品に取り入れた。もともとは脚本家としてジョージ・ルーカスの『スター・ウォーズ』シリーズを担当していただけに、脚本作りには絶対的な自信があったのかもしれない(ちなみに大ヒットした『ボディガード』もカスダンが70年代に書いた脚本作品)。 主演はウィリアム・ハートとキャスリーン・ターナー。ウィリアムは舞台役者として才能が知れ渡っていたが、本作は3本目の映画出演でまだ無名に近い存在。キャスリーンも同じく舞台の経験はあるものの、映画出演は何とこれが初めて。カスダンはあえてこの二人を起用したが、その理由は「より現実味が帯びる」こと、そしてキャスリーンの声がローレン・バコールに似ていて「脚が綺麗だったから」だそうだ。 撮影は暑さを重視するために当初のニュージャージーからフロリダの海辺の町に変更。しかし、撮影中は異常気象の影響もあり、まさかの寒波に覆われ、俳優たちが喋る度に白い息が出る始末(キャスリーンは撮影シーンの直前まで口に氷を含んでいたという。そうすれば白い息が出ないからだ)。ウィリアムが着るシャツには、毎回スプレーの水を脇や背中に吹きかけなければならなかった。また、映画には後に大スターとなる無名時代のミッキー・ロークも登場している。 物語は、弁護士のネッド(ウィリアム・ハート)が暑い夜に立ち..
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ルード・ボーイ〜ザ・クラッシュの熱いガレージサウンドと心に響く「Stay Free」

ザ・クラッシュが“出演”あるいはメンバーが“演技”した最初の映画として知られる『ルード・ボーイ』(Rude Boy/1980)は、1978年に撮影されて1980年に公開された。日本では1987年8月29日から短期間、東京・新宿の映画館でようやく上映されたので、幸運にも観に行けた人もいるかもしれない。 バンドの面々は当時、自分たちが出演したこの映画を余りよく思わなかったようだ。監督/制作スタッフ陣のパンクや音楽に対する理解不足が原因だったらしいが、何よりも劇場向け映画としての完成度の低さが彼らを失望させたのだろう。 しかし、ドキュメンタリー色が強く全編に漂うこの作品は時代とともに再評価され、いつしかザ・クラッシュの貴重なライヴシーンやリハーサル、レコーディング風景を収録した、どうしようもない時代の英国の空気を詰め込んだ“ストレート・クライ・シネマ”として昇華した。言葉に表すことのできない不安や不満が描写されたカルトムービーだ。事実、彼らもマネージャーとほぼ決裂していて極度の金欠状態にあった。 映画は3つの要素で構成される。まずはレイ・ゲンジの物語。失業手当を受けながら暇そうなポルノ・ショップで働くレイは、典型的な労働者階級の若者。リッチになりたいとぼんやりとした夢を描いているが、現実は社会の底辺を生きながら努力もせずに酒を飲んでるだけ。 次はサッチャー政権から犯罪の温床として目をつけられている移民の若者たち。特に人種差別主義者や警察権力から槍玉にあげられるジャマイカ系のルード・ボーイたちは、貧困のために犯罪に走る日々を送っている。 最後はザ・クラッシュ。英国に蔓延る失業問題、人種差別、裁判沙汰、警察や国家権力に真っ直ぐに立ち向かう彼らの、聴衆と一体化した熱く汗にまみれたガレージサウンドと言葉の数々。78年4月ヴィクトリア・パークで行われた反ファシズム集会でのステージはこの映画のハイライトの一つ。 物語はどん底の日々の中で唯一ザ・クラッシュの音楽を救いとしているレイが、彼らのローディの仕事に就き、ツアーに同行していくというもの。しかし、レイは結局使いものにならずにクビになってしまう。その頃、ルーディたちは警察に逮捕されるのだった。そして「しくじるなよ、ルーディ」が聴こえる……。 映画にはザ・クラッシュの楽曲やスカ/レゲエの名曲が使用。中でもミック・ジョーンズが自らのブリ..
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ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ〜スティングも出資した英国映画の傑作

「寝る前に10分だけ脚本を読もうと思って手にしたら、結局朝まで読み耽ってしまった。リッチーに電話するのが待ち遠しかったよ。とにかくカラフルでオリジナリティのある脚本で、ジェットコースターに乗っているような気分になった」 1996年、企画は動き始めた。音楽ビデオやCMで生計を立てながら、稼いだ金で短編映画を撮っていたガイ・リッチーは、同世代のアメリカ帰りの若手プロデューサーであるマシュー・ボーンと意気投合。温めていた映画の脚本作りに一緒に没頭する。当初は250ページもあった脚本から贅肉が省かれたのち、マシューは制作資金集めに乗り出した。 そんな中、興味を持った一人にあのスティングがいた。「暴力を直接描かないが、エネルギッシュな映画作りをする」リッチーの短編映画に非凡な才能を感じていたのだ。自分も出演させることを条件に出資を引き受けたらしい。 撮影はロンドンの下町イースト・エンドで行われた。労働者階級が多く、実際にギャングが多いエリアとして知られている場所。地域特有の独特のアクセントによるコックニー訛りも有名で、出演者の中にはこの下町で育った者たちが何人か起用された。 こうしてできあがったのが、29歳の監督と26歳の製作者が組んだ『ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ』(Lock, Stock and Two Smoking Barrels/1998)だ。この青春クライム・ストーリーはイギリスでたちまち記録的な大ヒット。英国版タランティーノと称されながらも、英国的な色気と体臭、ユーモアが充満する作品は日本のポップカルチャー・シーンでも話題になった。 ロンドンの下町で暮らしながら一攫千金を夢見る4人組──エディはハスラー、腕力に自慢のベーコン、盗品の裏商売をしているトム、真面目にシェフとして働くソープ。 エディは仲間たちに儲け話を持ち掛ける。ポルノ界の帝王で街の顔役的なギャングのボス、ハチェットとのカードゲームに勝って、かき集めた金を倍増させるつもりなのだ。4人はそれぞれ2万5千ポンドを出し合い、エディは一世一代の勝負をする。 しかし、順調だった勝負も最後に運に見放され、エディは逆に50万ポンドの大借金を背負ってしまう。返済期日は一週間以内。揃えなければ、エディや仲間たちの指を1本ずつ詰めると脅される。ハチェットがかつての宿敵だったエディの父(スティング)の店..
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アウトサイダー〜渋谷の街で1本の青春映画が公開されて若い世代の間で伝説になった

映画館の暗闇から明るい陽射しの中へ踏み出した時、俺は二つのことを考えていた…… 真っ白なノートに主人公ポニーボーイがそんな言葉を綴り、夕陽に染まったスクリーンから「Stay Gold」が流れ始めた時の感動を今でも覚えている。ティーン主役映画=脳天気なコメディ路線が主流だった時代に、「硬派でまともな青春」が突然目の前に映し出されたのだから。1983年8月、夏の終わりのことだった。 その年の一番の話題は、春に開園したばかりの東京ディズニーランド。まさにアメリカ文化の象徴と言えたこの空間に、大人から子供まで誰もが夢中になっていた。しかし、80年代という新しい時代の中で呼吸する当時のティーンたちが本当に求めていたのは、純真無垢なファンタジーよりも「そこにあるリアル」だった。 本国アメリカでは、社会の矛盾やどうしようもない生活環境に戸惑いながら生きる自分たちの気持ちをストレートに表現するムーヴメント、“YA(ヤング・アダルト)”が台頭していたが、それは似たような環境におかれていた日本の都市部の中高生たちの心情にも当然シンクロした。 この映画『アウトサイダー』(The Outsiders/フランシス・コッポラ監督/1983)に登場するのは、すべて10代。ダラス(マット・ディロン)やチェリー(ダイアン・レイン)以外は、当時ほとんどは無名役者(アウトサイダー)たち。その中にはエミリオ・エステベスやラルフ・マッチオ、ロブ・ロウ、そしてあのトム・クルーズも出演していた。 舞台はアメリカのスモールタウン。恵まれない環境で生きつつも、仲間たちと明日の希望を信じて生きている“グリース”の少年たち。敵対する金持ちチーム“ソッシュ”(レイフ・ギャレット他)たちとのトラブルが原因で、物語は思わぬ方向に。主人公ポニーボーイたちは身を隠すのだが……青春は儚く過ぎていく。 彼らはこの映画を機に“YAスター”となり、映画雑誌の人気投票は彼らで独占され、『アウトサイダー』は日本でもこの年最も支持された作品となった。 そして、スティービー・ワンダーが歌った余りにも美しく、聴く者すべての心を打つ主題歌「Stay Gold」は、レコード化がされないという異例のままラジオ局にリクエストが殺到して(今では彼のベスト盤に無事収録。もしレコード化されていれば、間違いなくBillboardチャートで1位になってこの年最大..
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西城秀樹にコール&レスポンスを定着させた鈴木邦彦、少年から青年に成長させた阿久悠と三木たかし

子供のころから洋楽が好きで、早くも小学生から兄たちのバンドでドラムを叩いていた西城秀樹は、1972年3月25日に「恋する季節」で歌手デビューした。 そして2作目の「恋の約束」と3作目の「チャンスは一度」(ともに作詞:たかたかし、作曲:鈴木邦彦)で、ファンが順調に付いて人気が上昇してきた。 鈴木邦彦はスティーヴィー・ワンダーの「フィンガーチップスpart1」をヒントに、4作目の「青春に賭けよう」では指を鳴らすフィンガー・スナップを取り入れた。 しかし人気が出たのはいいことだったが、ファンの子たちが歌を聴いてくれないと、西城秀樹のスタッフが相談してきた 秀樹はとにかく人気が出たので、出ていって歌ってもキャーキャー騒がれるだけで全然歌を聴いてくれない、と悩んでいたんです。どうにかできないですか、と言われたので、コール・アンド・レスポンス、あれを使おうと。つまり〇〇!と言ったらヒデキ!とレスポンスがくる、そういう風にメロディーに間を作ろうということになったわけ。 Aメロを「♫ 君が望むなら」と歌い出すと、そのあとに1小節の間があって、それから次の「♫ 生命をあげてもいい 」に進むという構成だ。 Bメロに入ると「♫ その瞳」以降を女性コーラスが、同じ詞とメロディーでくり返していく。 当時の流行であったアメリカのブラス・ロック・グループ、チェイスの「黒い炎」思わせるアレンジも印象的だった。 「情熱の嵐」が1973年の夏にオリコン・チャートで初のベストテン入りをはたし、西城秀樹は郷ひろみ、野口五郎と共に「新御三家」と呼ばれて人気を博した。 やがて「ちぎれた愛」「愛の十字架」がチャートで1位になり、全身を使って絶唱するステージ・アクションで個性を確立していく。 西城秀樹はロックンロールをベースにしたハードな曲調の作品で、日本の歌謡曲にロック的なエッセンスをを持ち込んだのだ。 1974年には「激しい恋」と「傷だらけのローラ」がヒットし、『NHK紅白歌合戦』にも選ばれて出演した。 その一方ではTBSの人気ホームドラマ『寺内貫太郎一家』にレギュラー出演し、気持ちの真っ直ぐな長男の周平を演じて、、俳優としても急成長を遂げていった。 そんな西城秀樹を「少年から青年にしてください」と事務所に頼まれて、その役を引き受けたのが作詞家の阿久悠である。 その時のことを著書のなかで、このように記し..
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君がいた夏〜ジョディ・フォスターが余りにも美しいノスタルジー映画の傑作

少年少女時代に、年上のお兄さんやお姉さんに恋した経験がある人は少なくないと思う。完全な大人の世界ではないが、かといって自分たちの世界でもない。自分たちが分かる部分とそうでない部分を持ち合わせていた年上という存在は、思春期で何とかバランスを保とうとする私たちには特別な輝きと魅力があった。身近にいれば、その人と会うことが楽しみでならなかった。 映画ではこの年上という存在は、ひと夏の体験ものとして描かれることが多い。例えば『ダーティ・ダンシング』や『おもいでの夏』といった名作では避暑地での出来事がノスタルジックに綴られていた。 そして『君がいた夏』(STEALING HOME/1988)は、そんな年上の存在とノスタルジーの要素に人生の再起というドラマを加味した作品として知られ、ジョディ・フォスターが余りにも美しくフィルムの中で呼吸をし、そのことが観終わった後でもしばらく心から離れない。日本公開時のコピー「誰にでも、一生忘れられない人がいる」も秀逸だった。静かな夜に、できれば一人で観てほしい映画だ。 物語は、落ちぶれた生活を送る野球選手ビリー(マーク・ハーモン)のもとに、実家の母親から1本の電話が掛かってくるところから始まる。従姉のケイティ(ジョディ・フォスター)が拳銃自殺をしたという訃報だった。ビリーは故郷への向かいながら、野球に夢中だった少年時代を思い出す。 高校時代のビリーは将来有望な選手として期待されていたが、幼い頃から野球の魅力を教えてくれた最愛の父を交通事故で亡くしてしまう。母親は若くして未亡人になり、ビリーの心は揺れ動く中、親友や女の子との遊びや初体験を通じて少しずつ大人になっていく。そんな時にいつもそばにいてくれたケイティ。 ケイティの遺灰を託されたもののその処理に困惑していたビリーだったが、自らの想い出を辿っているうちに、ケイティと訪れた特別な場所があったことが蘇ってくる。そこは二人だけで心を通わせた場所。ビリーは人生をやり直すことを決意する……。 全編に流れる哀切な音楽はデヴィッド・フォスターが担当。ここぞというシーンで期待を裏切らずに流れてくるのが嬉しい。また、ビリーの思春期が1960年代半ばのフィラデルフィアという設定で、シュレルズの「Baby,It’s You」やフォー・シーズンズの「Sherry」、エヴァリー・ブラザーズの「All I Have ..
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デスペラード〜メキシコ人はいつも映画では悪人だから、そんな状況を変えたかった

僕らはインディ・ジョーンズやルーク・スカイウォーカーに憧れて育ったけど、メキシコ人はいつも映画では悪人だったから、そんな状況を変えたかったんだ。 1990年代半ば。アメリカ映画は着実に面白くなっていた。クエンティン・タランティーノらを代表とする新しい世代の映画作家たちが、それまでとはちょっと違う感性と世界観で続々とハリウッドに殴り込みをかけていたのだ。 1968年生まれのロバート・ロドリゲスもその一人。1992年、人体実験のアルバイトと友人が土地を売却して得た7000ドルの低予算で『エル・マリアッチ』をわずか14日で撮影。翌年のサンダンス・フィルム・フェスティバルで観客賞を獲得して絶賛を浴びた。こうして奇跡を起こしたロドリゲスはハリウッドと契約。続編ともいうべき作品『デスペラード』(Desperado/1995)に着手する。 今度の予算は1000倍の700万ドル。しかし、アメリカ映画の製作費の平均は当時3000万ドル。メジャーとはいえ、まだまだ低予算しかもらえなかった。ロドリゲスはスペイン人俳優アントニオ・バンデラスを前作同様ラテン・ヒーローに迎え、再び困難な映画作りに挑む。監督、脚本、製作、編集、現場では自らカメラも回した。 自分の育った環境を題材に、他と違った、もっと自己に直結した映画を作りたいと思った。超大作と呼ばれるビッグなアクションムービーに負けないためにはどうすればいいのか? お金で解決できない場合は別の手段を取るしかない。自分たちを追い詰めてもっとクリエイティヴにありたいという願いがエネルギーとなって、国境を乗り越えることができた。ただひたすら走り回って乗り切るしかなかったことが、かえって良い結果を生んだのかもしれない。 たった二ヶ月間の撮影。ロケ地はメキシコ国境のアクーナ。クルーの8割はメキシコ人。使った弾薬8000発。演奏や歌は吹き替えなし。もちろんスタントもなし。ジム・ジャームッシュ映画でおなじみの名優スティーブ・ブシェミ、映画祭で知り合ったタランティーノが出演。音楽にはロス・ロボスも参加。 流れ者が悪党ども始末するモチーフながらも、今までその種の映画にはなかったコミックヒーロー的な軽快さと躍動感、アクションだけでなくロマンチシズムやユーモアさえ加わった。これがヒットしないわけがない。オープニングでバンデラスが「我が心のモレーナ」を歌うシー..
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藤圭子 ~日本語でブルースを体現するロック世代のシンガーによる「生命ぎりぎり」

藤圭子がデビューした1969年、日本の音楽シーンには明らかな傾向があった。 カルメン・マキの「時には母のない子のように」を筆頭に、ちあきなおみの「雨の慕情」、加藤登紀子の「ひとり寝の子守唄」、佐良直美の「いいじゃないの幸せならば」など、若い女性シンガーが歌う暗い曲調の歌がヒットしていたのだ。 それらの歌の主人公に共通するのは、”行き場のない孤独と切なさ”だった。 そのきわめつけが藤圭子のデビュー曲「新宿の女」である。 ありふれた夜の女のつぶやく自嘲的な歌詞、俗っぽい5音階のメロディーは当時にしても、かなり時代おくれで古めかしい歌だった。 ところが1969年から70年にかけてこの歌を支持したのは、明らかにロック世代の若者たちが多かったのである。 それはハスキーな歌声が異様なほどに生々しく、そこから伝わってくる”行き場のない孤独と切なさ”には、不思議なまでにリアリティがあったからだ。  「新宿の女」  作詞:石坂まさを・みずの稔 作曲:石坂まさを  私が男になれたなら  私は女を捨てないわ  ネオンぐらしの蝶々には  やさしい言葉がしみたのよ  バカだな バカだな  だまされちゃって  夜が冷たい 新宿の女 その年の1月、全共闘の学生たちによるバリケード封鎖で、半年以上も占拠されていた東京大学の安田講堂が陥落した。 第2次世界大戦が終わって四半世紀が経ってもまだ東西冷戦は続いていたし、地域間や民族間の紛争は絶えることがなかった。  ビートルズが登場した60年代前半から世界中に広がっていた、若者たちによる反抗の季節は終わりを迎えつつあった。 それまでの価値観を壊そうとした文化運動もまた、新たな地平を見い出せないまま、変革のエネルギー失って彷徨するしかなかった。 漠とした未来への希望がはかない幻想だったことに気づいた若者たちの間で、無力感や閉塞感が共有されたのは当然の流れだった。 さほど良い楽曲とは思えない「新宿の女」を歌っていたにもかかわらず、藤圭子というシンガーが発見されたのは、時代の空気感をそのまま彼女が鏡のように反映していたからだろう。 そのハスキーで切ない叫びを際立たせるのが、細やかながらも力強く震えるヴァイブレーションだ。 藤圭子が歌うと声の震えは風になり、聴くものの心の壁にそっと吹いてきた。 それを可能にしたのが天性のリズム感で、そこにはロック世..
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炎のランナー〜ヴァンゲリスのシンセサイザーと英国トラッドの香り

2012年のロンドン五輪。開会式や閉会式に登場するアーティストの演奏や様々な文化的/歴史的事象での名曲使用に、多くの音楽やロックファンはきっと反応したことだろう。 中でも面白かったのは開会式の祭典で、英国映画『炎のランナー』のタイトル曲がオーケストラによって演奏。そこに印象的なシンセサイザーのあの音が絡んでくる場面。弾いているのはヴァンゲリスではなくMr.ビーンということが分かって歓声が沸く。ビーンが退屈そうにシンセサイザーの鍵盤を押し続けながら、海辺を走る有名なシーンのパロディまであった。 『炎のランナー』(Chariots of Fire/1981)は極めて英国的な映画だった。信念を突き通した人間ドラマを探していたプロデューサー、デヴィッド・プットナムがLAに滞在した時のこと。借りた家に一冊の本が置き去りにされていた。それはオリンピックの歴史が綴られた本で、特にエリック・リデルの記事に心奪われたことから始まる。 映画のオープニングとエンディングは、ゴルフの発祥地と全英オープンでも有名なセント・アンドリューズの海辺。曇り空と静かな波に見守られながら渚を走る若者たちの姿。 現在のような商業主義の五輪とは表情がまったく違った1920年代の五輪。短距離走で金メダルを獲得することを夢見た二人の若者が目の前の試練を克服しながら、やがて実現するまでの姿を描く。その普遍的なテーマと静かな描写はとても味わい深く、ハリウッド映画や民放のTVドラマを見慣れた目には妙な心地よさ、喜びを感じる。 実在した二人のイギリス人青年が描かれるが、一人はエリック・リデルというスコットランド人、もう一人はハロルド・エイブラハムズという名のユダヤ人というのもこの映画の見所の一つだろう。宣教師の家系に生まれたリデルは神のために走り、差別や偏見と闘うエイブラハムズは勝利するために走る。 ギリシャ生まれのシンセサイザーの巨匠ヴァンゲリスが音楽を担当。風景や心情を見事に奏でたサウンドトラック盤はナンバーワンになり、タイトル曲も世界的ヒットに。『ブレードランナー』への仕事に繋がっていく。 また、英国トラッド・ファッションの着こなしや美しさにも思わずため息が出てしまう。どんな貧しくても男たちはスーツやネクタイを着ることを忘れなかったと言われる時代は、失われたダンディズムをそっと教えてくれる。英米のアカデミー作品賞..
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スタンド・バイ・ミー〜少年時代のイノセンスと友情を描いた心からの名作

子供の頃の想い出を一つの物語にまとめられないかと、ずっと考えていた。そこには愉快な話もたくさんあるけど、悲しい出来事もある。一緒に過ごした仲間たちは目的もなく、手探りで生きていた。 モダンホラー小説家でありベストセラー作家でもあるスティーヴン・キングは、自らの短編集用の1本にそんな構想を立てていた。そして目的を持たせることを思いつき、少年たちが線路づたいに死体を探すアイデアが生まれたという。 この少年らしい冒険を経験した人はいると思う。どこまでも延びている電車の線路は未知の遠い世界へ繋がっているように思えて、子供にとっては好奇心だった。ただそこを歩きたいのだ。 このスティーヴン・キングのホラーとは縁のない短編「The Body」を、『スタンド・バイ・ミー』(STAND BY ME/1986)として映画化したのが俳優/監督のロブ・ライナーだった。ロブは自分自身の子供時代の想い出を重ねながら、この物語に新しい命を吹き込むことに成功。 名優リチャード・ドレイファスとは15歳の頃からの親友関係だったことから、映画出演をオファー。リチャードは友人からの依頼という理由だけで快諾した。結果、リチャードのナレーションは映画にドラマチックな心情を与え、味わい深い余韻を残すことになった。 そして、後にハリウッドで最も将来を有望されることになるリバー・フェニックスがキャスティングされる。ロブは他の3人の少年たちと2週間の合宿を共にすることを提案。演技の指導だけでなく、見知らぬ者同士を仲良くさせるためのコミュニケーションが一番の目的だった。映画の最後にはリバーが去って消えて行くシーンがあるが、リバーが若くして亡くなったことから、今ではとても意味深なカットとして語られることが多い。 そんなリバーの非凡さを物語るエピソードがある。映画の中でリバー演じるクリスという貧しい家庭に育つ少年が、冒険の途中の夜に親友の少年だけに告白するシーン。給食費を盗んだ犯人にされた挙げ句、実はその金で教師が自分の服を買っていたことを知って泣き崩れるところ。 リバーは最初は感情が入らなかった。そこで俳優の気持ちが分かるロブは「それが何かを私に話す必要はないけど、大人たちに裏切られたことを思い出して芝居するんだ」とアドバイス。すると、次のテイクでリバーの演技は完璧になった。彼は本気で辛い出来事を思い出したので、立ち直..
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イングロリアス・バスターズ〜「復讐制裁劇」で歴史を書き換えたタランティーノ監督作

クエンティン・タランティーノ──映画・音楽・コミックなど膨大なポップカルチャーを吸収分析するコレクター気質と、それを消化して創作活動へと変えていく作家性を併せ持ち、誰も見向きもしなかったB級感覚をメインストリームに昇華させることのできる希少な監督。 日本でも新作『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』が公開されたばかり。マンソン・ファミリーやシャロン・テート殺害事件などロックファンにはお馴染みの題材を書き換えながら、レオナルド・ディカプリオとブラッド・ピットという夢のコンビを実現させ、相変わらず熱狂的な映画オタクぶりを発揮している。 だが書き換えという点では、『イングロリアス・バスターズ』(Inglourious Basterds/2009)の方が凄い。ナチスやヒトラーを映画館ごと炎上爆破するという結末は、ドイツの呪縛とは無縁のタランティーノだからこそ思いついた衝撃的なエンディングだった。 タランティーノとブラッド・ピットは本作が初仕事。ピットはユダヤ系アメリカ人で編成されたゲリラ奇襲部隊バスターズを率いるリーダー役を演じた。ゲリラといっても屈強な男たちではなく、敢えてひ弱なメンツで揃えるあたりはさすが。 ピットも期待に応えることを忘れなかったようで、撮影以外の時間でも常に映画のキャラクターになりきったという。タランティーノが歓喜したのは言うまでもない。 他の話をする時でもアルド(ピットの役名)の声で喋るんだ。僕がこのキャラを作り上げただけにね、しょっちゅうそいつがそばにいるのは最高の気分だったよ!! ドイツ人俳優クリストフ・ヴァルツや美しすぎるダイアン・クルーガーの起用も話題になったが、中でもユダヤ系のメラニー・ロランやイーライ・ロスにとっては忘れられない作品となったようだ。この映画を紹介するには二人のコメントだけで十分なように思えてくる。 ショシャナ(ロランの役名)の物語は私自身の物語とも言える。彼女みたいに勇敢ではいられなかったでしょうけれど、私の家族の多くがナチスのせいで死んだの。子供の頃、夢の中で何度もヒトラーを殺した。この映画でそれを実現することができたの──メラニー・ロラン 祖父母はオーストリア、ウクライナ、ポーランドから来た。ヨーロッパを脱出できなかった家族や親戚はホロコーストで殺された。僕はこの役を戦えなかったユダヤ人のために、そし..
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ザ・ビーチ〜楽園を探し求めるネット世代のバックパッカーの夢と現実

1999年、書店の海外文芸コーナーで『ザ・ビーチ』という新刊小説を手に取ったのを今でも覚えている。何の情報もないまま、ただ暇つぶしのつもりで出向いた本屋の片隅で、何かに引き寄せられるように出逢った1冊。 イギリス人のアレックス・ガーランドが20代半ばで発表したデビュー作で、1996年に刊行されるとたちまちベストセラー。日本でも遂に翻訳されたらしい。書き手が同世代ということとタイトルに魅かれて、何の迷いもくレジに持って行った。 それからの5日間は、この小説とじっくりと向き合うことが待ち遠しくてたまらなかった。仕事が終わるとそのまま家に帰って食事をし、一息つくと読み始める。通勤地下鉄の中で広げるような野暮な物語ではない(それに鞄の中に入れるのには分厚すぎる)。可愛い女の子たちとの飲み会を断ってまで「早く読みたい」と思わせる小説なんてあるだろうか? 左手で掴めるページが残り少なくなっていくのが寂しかった。そして忘れられない、あの最後の一行がやって来る……。 こんな読書体験は初めてだった。10代の頃に読んだ『ライ麦畑でつかまえて』や『路上』以来の衝撃。これはゼロ年代に突入した“個の時代”のためのオン・ザ・ロードだ。放浪するバックパッカーだけのものじゃない。90年代に青春期を過ごした世代にとって、必要不可欠なポップカルチャーすべてが詰まっている。そんな物凄い気分にもなった。 『ザ・ビーチ』が『トレインスポッティング』のダニー・ボイル監督によって映画化公開されたのが翌2000年。その出来栄えは当初賛否両論だったが、小説を読んでいない人たちにとっては楽園を探す冒険物語として十分に楽しめる作品だし、どうして低い評価を下す人たちがいるのか理解できなかったに違いない。要するに小説以上のものを望みすぎたのだ。原作をほぼ忠実に再現しているが、2時間のフィルムにあの読書体験のすべてを収まりきれなかっただけの話で、決して駄作というわけではない。 なお、主演したレオナルド・ディカプリオは1997年の『タイタニック』で大スターの仲間入りをしたが、それ以前は『太陽と月に背いて』でフランスの伝説的詩人アルチュール・ランボーを演じたり、NYのビート作家ジム・キャロルの『バスケットボール・ダイアリーズ』に出たりと、実はアウトロー精神旺盛な俳優でもある(その後の出演作をみても一目瞭然)。その彼が本作のリチャ..
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ダーティ・ダンシング〜ダンスの躍動感や恋の歓喜が表現された伝説のオープニングシーン

今から思えば、80年代の日本の若者文化(とりわけ都市圏の高校生文化)は、まだまだアメリカの影響が色濃く残っていたと思う。信じられない話だが、「“白いアメリカ”の流行=クールだから真似てみよう」的なことが当たり前のように行われていた。特にファッション、メイク、音楽、映画、スポーツ、飲食店、遊び場など、“白いアメリカ”の存在価値は大きく、雑誌やTVがそんなムードを後押ししていた。 ちなみに90年代に入ると、今度は「“黒いアメリカ”がクール」という流れが起こり、渋谷のコギャルがエア・ジョーダンを履いた彼氏と一緒にヒップホップのCDを買いに行くなんてことも普通になった。 アメリカを後追いしなくなった=リアルタイム化したのは、インターネットやケータイが定着して“情報の先取り格差”がなくなり始めたゼロ年代以降のことだ。スマホやSNSアプリが主流になった10年代では、アメリカの文化は世界の選択肢のうちの一つといったところだろう。ある意味“成熟した日本”の若者文化は、もはや“憧れのアメリカ”文化を必要以上に気にすることはなくなった。 『ダーティ・ダンシング』(Dirty Dancing)は、日本でバブル経済がスタートしたばかりの年、1987年11月に公開された(アメリカは8月)。都市圏の高校生の間ではアメカジやスケボーが流行った頃だ。ジョン・ヒューズ監督作やトム・クルーズ主演作をはじめとするアメリカ青春映画も全盛期を迎えていた。 それまでのアメリカ青春映画は、公開当時に映画館へ見逃さずに出向くか、数年後に民放の編集された吹き替え版ロードショーで観るかのどちらかしかなかった。だが、80年代のレンタルビデオの爆発的普及で後追いが可能に。誰もが“個人的に感動しやすく”なった環境の中で、89年とか91年になって『ダーティ・ダンシング』に触れた人も少なくない。 そんな「“白いアメリカ”がクール」だった時期に青春期を送った今の40代半ば〜40代後半の人々にとって、『ダーティ・ダンシング』を「あの頃の思い出カタログ」の中から何の迷いもなく除外できる人はいるのだろうか。 60年代を舞台にしているにも関わらず、強烈な“80年代臭”を醸し出すのは、MTVスタイルの音楽映画だったからだろう。本国アメリカでは低予算の映画は大ヒット。500万ドルの製作費に対し、2億ドル以上の興行収入を叩き出した。また、サン..
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ジョー・ダッサンを偲んで〜永遠のポップナンバー「オー・シャンゼリゼ」をヒットさせた男の足跡

1969年、日本のレコード会社(キング)が突如“歌うフランス人形”として売り出した金髪の女の子がいた。 モロッコ生まれのフランス人歌手ダニエル・ビダルが歌った「オー・シャンゼリゼ」(1971年)は、フォークミュージックが盛り上がりつつあった日本でスマッシュヒットを記録する。 もともとは1969年にニューヨーク生まれの歌手ジョー・ダッサンが歌ったバージョンが、欧米を中心に大ヒットしたものだった。 今日8月20日は、永遠のポップナンバー「オー・シャンゼリゼ(原題:Les Champs-Élysées)」を世界中に広めたジョー・ダッサン(享年41)の命日です。 同曲のヒットにより一躍人気者となった彼は、1979年に3度目となるオランピア劇場(フランスのパリ9区にある老舗ミュージックホール)でのコンサートを成功させる。 しかし、その年の12月に心臓疾患で緊急入院して手術を受ける。 翌1980年には三男が生まれたものの、その数週間後に二回目の離婚している。 彼は41年の生涯の中で、1966年に7歳年上の女性マリーセと、1978年に歌手クリスティン・デルボーと二度の結婚を経験している。 1980年の夏、彼は二人の息子(長男・次男)と実母と共に休暇を過ごすためにタヒチの別荘を訪れていた。 そして8月20日、家族とレストランで食事中に心臓発作に襲われて帰らぬ人となった。 1938年11月5日、彼はロシア系ユダヤ人の父とハンガリーにルーツを持つ母(バイオリン奏者)の長男としてニューヨークで生まれた。 当時、父親まだ売れない舞台役者だったが、その後ハリウッドの映画監督として頭角を現す存在となる。 1950年代に沸き起こったマッカーシズム(反共産主義に基づく社会運動)の影響で、映画界のブラックリストに載せられた父親はハリウッドを追放されてしまい、一家はパリで暮すこととなる。 その後、彼の父親(ジュールズ・ダッシン)は『男の争い』(1956年)でカンヌ国際映画祭の監督賞を受賞し、『日曜日はダメよ』(1960年)のヒットで大きな成功を手にする。 一家がパリに移住した後に、単身でスイスのインターナショナルスクールで教育を受けることとなった彼は、1956年に渡米してミシガン大学へ入学する。 しかし2年で中退してしまい、その後デトロイトのラジオ局でDJのアルバイトをするようになる。 その頃に親し..
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アリスのレストラン〜アーロ・ガスリーの歌を映画化した“あの時代”の放浪風景

アリスのレストランは何でもある アリスのレストランに行けば何でも手に入る 行ってみて 線路から1キロ足らずだよ これは、アーロ・ガスリーが1967年にリリースしたデビュー盤『Alice’s Restaurant』(上の写真はアルバムジャケット)に収録された「Alice’s Restaurant Massacre」(邦題「アリスのレストランの大虐殺」)の一節。大虐殺とあるが、内容はアーロが自らの徴兵検査やゴミの不法投棄から始まった警察騒動をトーキング・ブルーズ形式で面白おかしく歌ったもの。ライヴ録音による18分20秒にも及ぶ“長い曲”だが、愉快な出来事の連続に観客の笑い声が至る所で聴こえてくる。 この曲に目をつけたのは、『俺たちに明日はない』でアメリカン・ニューシネマの寵児となった監督のアーサー・ペン。アーロ自身を主役にキャスティングして曲中のエピソードを実写化しながらも、社会のシステムからドロップアウトしたヒッピーの若者たちの生活や苦悩を描く物語に仕上げ、1969年に『アリスのレストラン』(Alice’s Restaurant)として公開された。 生真面目な田舎の警官や盲目の判事、放浪する友人といった実在の人物がそのままの役で登場する一方、役者が演じる新たな登場人物を設定したりと、ノンフィクションとフィクションの狭間をいくような不思議で味わい深い本作は、「1960年代後半のアメリカに確かに漂っていた青春のささやかな風景」を記録したフィルムでもある。 アーロ・ガスリーはその名の通り、フォーク音楽の伝説であるウディ・ガスリーの息子。ボブ・ディランが「最後の英雄」と慕っていたことでも有名だ。ウディは持病のハンチントン病(遺伝性の神経障害)と闘いながらNYで入院生活を送っていたが1967年10月に死去。この映画でも父(もちろんウディという名で病床の父親が登場するが、演じているのは別人)の様子を見舞うシーンが何度か出てくる。 このシーンは映画の見どころの一つに間違いなく、フォーク界の巨匠ピート・シーガーがバンジョー片手に病室で歌を披露する姿が収められている。そこにギターとハーモニカを手にしたアーロが加わることになり、そんな息子の成長した姿を父ウディが嬉しそうに眺めているというもの。 物語は、都会育ちのヒッピーの若者アーロが田舎の大学に入るところから始まる。しかし、好きな音楽..
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