ローラ・ニーロを偲んで〜ニューヨークが生んだ孤高のシンガーソングライターの足跡と功績
1997年4月8日、ニューヨークが生んだ孤高のシンガーソングライター、ローラ・ニーロ(享年49)が卵巣癌のためこの世を去った。
最期はコネチカット州ダンベリーの自宅で、息子ジルとデシデリオに見守られながら息を引き取ったという。
1947年10月18日、彼女はニューヨークのブロンクスで生まれる。
ブロンクスといえば、ニューヨークを代表する下町であり、黒人、ヒスパニック、白人がひしめき合う街。
彼女が生まれ育ったその街では、R&B、ジャズ、ドゥーワップなどの黒人音楽はもとより、ヒスパニック系のラテンサウンドが街中に溢れていた。
父親はピアノの調律師をしながら、ジャズトランペッターとしても活躍していた。
クラシック愛好家だった母親は、簿記係の仕事をしながら共働きで子育てをしていた。
彼女の家系はロシア系ユダヤ人、ポーランド系ユダヤ人、イタリア系という複雑な血筋を引いている。
両親の影響で、彼女は幼い頃から音楽に親しむ。
ジャズやゴスペルをベースに、アメリカのソウルやR&Bシーンに多大な影響を残したカーティス・メイフィールド、ブルー・アイド・ソウルの女王ダスティ・スプリングフィールドなどの影響を強く受けて育ったという。
14歳の時に、近所のプエルトリコ人の少年達とドゥ・ワップのグループを結成し、ストリートで歌い始める。
ハイスクール時代にはニーナ・シモンやマーサ&ザ・ヴァンデラスなどの黒人音楽、そしてボブ・ディランなどのフォークに傾倒し、この頃からソングライティングも始めている。
卒業後、自作曲を持ってレコード会社への売り込みを始める。
1966年、19歳になった彼女はフォーク・ウェイズ・レーベルと契約を結び、ピーター・ポール&マリーに自作の曲「And When I Die」を提供し、音楽家としてのキャリアをスタートさせる。
同年にソロ名義でのシングル「Wedding Bell Blues」をリリースするが、売り上げは芳しいものではなかった。
翌1967年には、1stアルバム『More Than a New Discovery』を発表し、モンタレーポップフェスティバルに出演するも、レコード会社の期待に応えられる売り上げにはならなかったという。
彼女のデビュー曲となったこの「Wedding Bell Blues」は、後にフィフス・ディメンションがカヴァーして全米1位を獲得..