2020-09

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秋の歌〜甲州街道はもう秋なのさ 前編

秋の到来です。 今回の<季節(いま)の歌>は、RCサクセションの代表曲「スローバラード」と同時期に録音された「甲州街道はもう秋なのさ」を聴きながら、アルバム『シングル・マン』の発売を廻って起きた前代未聞のエピソードをご紹介します。 ♪甲州街道はもう秋なのさ/ RCサクセション たばこをくわえながら 車を走らせる 甲州街道はもう秋なのさ ハンドルにぎりながら ぼく半分夢の中 甲州街道はもう秋なのさ 1970年のデビュー後、RCサクセションは“物憂げな秋”のような時代を迎えていた。 3rdシングル「ぼくの好きな先生」(1972)のスマッシュヒットはあったものの、その後は不遇の日々を過ごしていたのだ。 彼らは、所属していた事務所(ホリプロ)で起こった“井上陽水独立騒動”に巻き込まれて飼い殺し状態に…後に忌野清志郎が様々なインタビューの際に口にする“落ち目の時代”とは、この頃からのことを指す。 1974年の12月、RCは発売される見込みのない新作アルバム『シングル・マン』のレコーディングに入る。 清志郎曰く「仕事が無かったから、曲を作るか、レコーディングをするかしかなかった」のだという。 アルバムのアレンジャーは星勝(ほしかつ)が担当した。 当時、RCや陽水と同じホリプロに所属していたグループ・サウンズバンド、モップスのギター&ボーカルを担当した男である。後に作曲家、プロデューサー、アレンジャーとして活躍した人物だ。 この頃の星勝と言えば、陽水のアルバム『断絶』のアレンジをしたことで評価が上がっていた。 清志郎と陽水が合作した曲として有名な「帰れない二人」は星勝のアレンジによって誕生したものだった。 その他、彼が手掛けた代表的な曲といえば、小椋佳の「シクラメンのかほり」などが有名である。 彼のアイディアもあって、アルバム『シングル・マン』のレコーディングには手練のミュージシャン達が集められた。 キーボードにミッキー吉野、後にRCに加入するG2(柴田義也)、ドラムスに西哲也、チト河内、そしてホーン・セクションには、たまたま来日していたタワー・オブ・パワーが起用された。(ただし、清志郎はそのホーンをあまり気に入っていなかったらしい) 契約上の問題から彼等の名前はクレジットされず、かわりに「このレコードは世界的なスタジオ・ミュージシャンを豊富に使用しております。安心してご..
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秋の歌〜甲州街道はもう秋なのさ 後編

もうすっかり秋ですね。 今回の<季節(いま)の歌>は、前編に引き続きRCサクセションの名曲「甲州街道はもう秋なのさ」を聴きながら、アルバム『シングル・マン』の発売を廻って起きた前代未聞のエピソードをご紹介します。 ♪甲州街道はもう秋なのさ/忌野清志郎&仲井戸麗市(1994年LIVE) ハンドルにぎりながら ぼく半分夢の中 甲州街道はもう秋なのさ どこかで車を止めて、朝までおやすみさ 甲州街道はもう… 1975年の春、レコーディングは完パケていたものの、事務所やレコード会社(ポリドール)との“契約上の都合”でアルバムは発売されなかった。 そして一年後、ようやく陽の目を見たアルバム『シングル・マン』(1976年)は全く売れず、すぐに廃盤となる。 ジャケットは『幼児児童絵画統覚検査図版』という、子供の精神分析用の絵が載っている本からのもので、清志郎のアイディアだった。 中ジャケ(CDでは裏ジャケ)でそれを真似たメンバーは、当時これに近い姿で共同生活をしていたという。 フォークトリオの構成にドラムが加入し、楽器もエレキに持ち替え、RCは徐々にロックバンド化していくが、当時のギタリスト・破廉ケンチはエレキギターを上手く使いこなせず鬱状態に…。 その後もRCサクセションは“落ち目の時代”を、もう少しだけ味わうこととなる。 そんな曰く付きの名盤『シングル・マン』は、吉見祐子を筆頭とする“廃盤復刻運動”の努力が実り、1979年に限定再発、そして80年に正式に再発される。 再発された際のLPレコードの帯には、ポリドールからの謝罪文が掲載された。 このアルバム『シングル・マン』は、4年前に発売されあえなく廃盤になっていたものです。しかし、このアルバムを今一度世に出したいと吉見佑子さん、「パイドパイパー・ハウス」岩永正敏さん、「ART VIVANT」芦野公昭さん、堀内丸恵さん(現・集英社代表取締役社長)、その他数多くの方々のご協力により「再発実行委員会」がつくられ、昨年末より自主限定発売がされていました。プレスされるたびに売り切れとなり、手に入れられない方や、東京以外の方から苦情が相ついでいましたが、このたびどこでも手に入れられるよう再発売できるようになりました。ひとえにRCサクセションを支持して下さるファンの皆様、そして再発実行委員会に直接、間接にご支援いただいた皆様の熱意のおか..
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ストレンジャー・ザン・パラダイス〜ヒップな連中は必ず観るジム・ジャームッシュの世界

僕はキャリア・アスピレーション(出世)を目指している人の映画を撮ることにまったく興味がない。僕のどの映画にもテーマとしてあるのが、そうしたキャリア・ハッスル(出世主義)の外側にいる人たちなんだ。 出世しなきゃ、稼がなきゃ、いい暮らしをしなきゃ、モテなきゃ、といった思考に呪縛された「スクエア」な人たち(システム社会の奴隷とも言われる)とは対照的な、「ヒップ」と呼ばれる連中が好む映画がある。『ストレンジャー・ザン・パラダイス』(STRANGER THAN PARADISE/1984)は、紛れもなくそんな1本だった。 1980年代後半、まだ10代の時に映画館へ行ったことがある。この映画の存在を教えてくれ一緒に誘ってくれたのは、ヒップに生きる決意をしたばかりの親友だった。彼はヒップな精神を忘れることなく、今ではスクエアな人たちが望んでいた成功を手にした。もちろん本人には成功という感覚はない。そんなことはどうでもいいのだろう。 アメリカは高い地位を戦って取る人々の国だということが普通になっている。この映画の中の金銭の考えというのは、全身をかけてそれを得ようとするのではなく、騙したり罠にはめたり、偶然によってそれを掴むことだ。 監督のジム・ジャームッシュは、17歳でニューヨークに出てバンド活動を開始。その後、作家を志すためにコロンビア大学文学部へ入学した。故郷のオハイオでは映画はあまり観ていなかったが、1974年にパリに9ヶ月滞在した時にゴダールや小津安二郎といったヨーロッパや日本人の映画作家を発見。同時にサミュエル・フラーなどのヒップなアメリカ映画にも触れた。 ニューヨークに戻ったジャームッシュは、作家として物語を綴り始めるが、それが極めて視覚的なものに変化したことを自覚。1975年になるとニューヨーク大学大学院の映画学科へ再入学する。ここで師となる伝説のニコラス・レイ監督と出逢い、助手を務めることになった。 そして在学中に最終学期の学費をすべて注ぎ込んで、『パーマネント・ヴァケーション』という16ミリを撮影。これを高く評価したロードムービーの映画作家ヴィム・ヴェンダースから、40分ほどの量の余ったフィルムを譲り受けたジャームッシュは、ニューヨークを舞台にした30分の短編作品を撮り上げる。ヴェンダースはせいぜい5分程度の作品を期待していたので驚いたそうだ。 この作品こそ..
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死刑台のエレベーター〜夜の街に漂うマイルス・デイヴィスのトランペットと完全犯罪の崩壊

もう耐えられない……愛してる。だからやるのよ。離れないわ。 私もそこにいる。あなたと一緒なのよ。 ジャンヌ・モローの顔が画面いっぱいに映り、そんな台詞が囁かれる。彼女は公衆電話ボックスの中で受話器を握っている。すると今度はモーリス・ロネの緊迫した表情に切り替わる。彼はパリの街並みが一望できるオフィスの片隅で受話器を握ったまま、こう囁き返す。 愛してる……今は君の声だけが頼りだ。 愛し合う自分たちのために、この後完全犯罪へ向かって動こうとする男と女の直前の会話。そこにマイルス・デイヴィスのクールなトランペットが鳴り響く。 こんなにもスタイリッシュで色っぽい始まり方をする作品は、あらゆる映画の中でも『死刑台のエレベーター』(Ascenseur pour l’échafaud/1957)以外はすぐに思いつかない。ヌーヴェル・ヴァーグの先駆けとも言われる本作を監督したのは、当時弱冠25歳のルイ・マル。 たった1年の現場経験しかない新人監督がいきなり長編デビュー。しかも有名スターやミュージシャンを起用できたのは、ルイ・マルが大実業家の富豪の息子であり、父親からの莫大な援助によって実現したというのは有名な話だ。だがそんなことは抜きにして、これほど音と画の調和が全編に渡って整った作品も珍しく、その鋭い映像感覚はあまりにも衝撃的だった。 幼い頃から映画や音楽をはじめとする多くの文化に深く触れることができたマル監督は、同時期のトリュフォーやゴダールのようにカイエ・デュ・シネマ派の批評や理論とは向き合わず、初めから制作の人だった。運動に参加するというより、ただ作家として作品を創りたかっただけらしく、だからヌーヴェル・バーグの旗手のように扱われることを嫌ったという。 『死刑台のエレベーター』は3楽章の音楽に見立てて作ったと言われている。つまり、ジャンヌ・モロー、モーリス・ロネ、若いカップルという三者の時間の流れだ。決して出会わない関係でありながらも、マイルス・デイヴィスの静と動を使い分けたトランペットがそれぞれの登場人物の心象風景を繋げていく。 モダン・ジャズとフランス映画が最高の形で結びついたことによって、『死刑台のエレベーター』は“シネ・ジャズ”の出発点、最高傑作にもなった。数年の間でいくつもの犯罪映画やサウンドトラックが作られるブームになったが、街を彷徨うシーンでのミュート..
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スラップ・ショット/カリフォルニア・ドールズ〜隠れファンが多いカルトムービー

公開されてからも一部の熱狂的なファンに支持され続ける映画が存在する。いわゆるカルトムービーと呼ばれるもので、次世代の新たなファンを獲得しながら作品は再評価を繰り返してきた。名作には及ばないものの、人々の心に強く不思議な印象を残す映画でもある。 今では劇場公開された映画は、数ヶ月後にDVDやネット配信されることは当たり前だが、1980年代前半くらいまでは、民放のロードショー番組がその役割を果たしていた。日本語吹き替えされ、CM挿入のため編集もされる。だがそれでも、当時の少年少女たちにとっては洋画と向き合うことは興味深い、実りのある時間だったと思う。見逃すと後がなかった。 TAP the POPのこの映画コーナーでは過去多くの作品を取り上げてきたが、1980年代前半までのタイトルは大抵こうした「家のリビングのTVで初めて観た」ものが多い。そしてずっと記憶に残ったものだけが、大人になってビデオやDVDを購入して、今度は吹き替えなしで一人暮らしの部屋で再上映されてきた。久しぶりに観ると感動すら覚える。内容以上に「あの頃の自分」を思い出すからかもしれない。 今回紹介するスポーツを題材にした2本にも、何か特別な思い出を持っている人がいるはずだ。『スラップ・ショット』(Slap Shot/1977)と『カリフォルニア・ドールズ』(…All the Marbles/1981)の最大の魅力は、「強烈な70年代臭」あるいは「淡々とした空気感」に尽きると思う。何度観ても妙な心地よさを感じてしまうのは、過剰な演出や技術、マーケティングやビジネスが詰まったハリウッド超大作(もしくは製作委員会スタイルの邦画)を見慣れてしまった頭と心が、原点回帰を促しているからだ。両作品からは不器用な男と女たちの色気と体臭が画面いっぱいに漂ってくる。 名優ポール・ニューマン主演、ジョージ・ロイ・ヒル監督の『スラップ・ショット』は、マイナー・リーグのアイスホッケー・チームを題材にした人間ドラマだった(当時は卑劣な言葉が飛び交う点でも話題になったそうだが、このリアルな脚本は女性が書いたという意外な事実も最近知った)。カルトムービーになったのは、メガネのハンセン3兄弟というキャラクターによるところが大きい。なお、フリートウッド・マックやエルトン・ジョン、レオ・セイヤーやマキシン・ナイチンゲールのヒット曲が、カーラジオ..
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スティング〜スコット・ジョプリンのラグタイムを復活させた名作

当初は酷評されながらも名作となった『明日に向かって撃て!』(1969)から4年。ジョージ・ロイ・ヒル監督がポール・ニューマンとロバート・レッドフォードを主演に迎え、再び組んだのが『スティング』(The Sting/1973)。 説明するのも野暮なほどこちらも名作だが、大恐慌時代のシカゴを舞台に大仕掛けの詐欺を描いたこの物語は、演出も脚本も美術も衣装も音楽もすべてが“完璧”で、今でも観る者に映画の楽しさを理屈抜きにプレゼントしてくれる超一級作品。 アカデミー賞7部門(作品/監督/脚本/美術/編集/編曲/衣装)を受賞したのは当然のことながら、ロバート・ショウ、レイ・ウォルストン、チャールズ・ダーニング、アイリーン・ブレナンといった名バイプレイヤーの存在がこの作品の評価を高めたことを忘れてはならないだろう。 2人のスターも刺激を受けたに違いない。ニューマンはカードゲームのイカサマ行為を技術コンサルタントからマスターして代役なしで撮影に挑んだというし、三流詐欺師役のレッドフォードは当時のインタビューでこんなことを話している。 あえてカッコよく演じようとしないことでしか、いい演技は生まれない。カッコ悪く演じるというリスクを冒した分だけ、いい俳優になるんだ。 1936年のシカゴ。その日、フッカー(ロバート・レッドフォード)が裏通りで男を騙して手にしたのは思いもよらぬ大金。ベテランの相棒ルーサーは悪い予感を覚えるが、若いフッカーは調子に乗ってギャンブルですべてを使い果たしてしまう。 ルーサーの読み通り、それは大物ギャングのロネガン(ロバート・ショウ)の組織の金だったことから、二人の命は狙われる。無惨にもルーサーは消され、悲しみの中で復讐を誓ったフッカーは大物詐欺師ゴンドーフ(ポール・ニューマン)の元へ向かう。しかし、頼みのゴンドーフは酒浸りで売春宿に身を隠している有様だった。 物語は、結束したフッカーとゴンドーフが別人になりすまし、昔の仲間たちの協力を得ながら、大物ギャング相手に競馬絡みの大詐欺(約10億円)を仕掛けるというもの。そこにフッカーの顔を知る刑事や殺し屋、FBIが追ってきて……という流れ。間を挟んでくる構成も見事だ。 そして、とどめの一撃(クライマックス)まで映画の世界にどっぷり浸れるのは、やはりあのピアノの響き。スコット・ジョプリンのラグタイム・ミュージックがあ..
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明日に向かって撃て!〜批評家たちの“知的想定内”を外れて酷評された伝説の名作

ポール・ニューマンは自ら主演した映画『明日に向かって撃て!』(Butch Cassidy and the Sundance Kid/1969)を振り返ってこう言った。 当時は人々はまさに映画を撮っていた。 今ではまず予算とスケジュールだ。誰かのボーナスや封切り日を気にかける。 この映画が色褪せないのは、映画を作ることの喜びだ。 映画とは喜びなんだ。 仲間意識が感染しなきゃダメなんだよ。 公開当時、この映画は批評家たちから酷評された。ユーモアやロマンス、悲劇や友情が絡み合った物語が、彼らの“知的想定内”を大きくはみ出していたことも理由の一つだが、何といってもそれまでの西部劇では考えられなかった「主人公が逃亡する」という姿が信じられなかったのだ。勇敢なジョン・ウェインやゲイリー・クーパーなら目の前の追っ手から逃げ出したりするだろうか? しかし、1969年という時代に生きる大衆の見方は違った。『明日に向かって撃て!』が持つ“想定外”のストーリーと人間臭さに多くの人々は共感した。アメリカン・ニューシネマを代表する傑作となった大きな要因はこの点にこそある。 ウィリアム・ゴールドマンは、1890年代にアメリカ西部から南米にかけて悪名を轟かせた実在のアウトロー、ブッチ・キャシディとサンダンス・キッドの物語を8年もの歳月を掛けて脚本にした。監督のジョージ・ロイ・ヒルは、その脚本を新しい感覚でフィルムに捉えた。 映画の始まりからしばらくはセピア色だが、やがて観る者を当時の風景へ誘うように徐々に色が付けられていく。物語途中でもセピア色の演出は活用されているが、1911年に南米ボリビアで射殺される壮絶なクライマックスとの対照的な時間の流れが心から離れない。 主演はポール・ニューマンとロバート・レッドフォード。まだ売れていなかったレッドフォードの起用は映画会社から猛反対にあうが、ニューマンの妻や監督の強い推しの甲斐あって無事キャスティング。本作で大スターとなった。レッドフォードと言えばサンダンス映画祭でも知られるが、その名はこの映画で演じたサンダンス・キッドに由来する。なお、このトリオはのちに『スティング』でもオスカーを獲得した。 数々の銀行や列車強盗を繰り返すリーダーのブッチ・キャシディ(ポール・ニューマン)と早撃の名手サンダンス・キッド(ロバート・レッドフォード)は、度重なる被害に..
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ハスラー〜35歳のポール・ニューマンが映画俳優として覚醒した名作

最初はわざと負け、勝つにしてもギリギリ。相手には「運が良い奴」とだけ思わせる。それから相手を称賛したり、挑発したりして、賭け金を上げさせたところで本領発揮。最後にすべてをかっさらう。これは騙しだ。心理戦だ。まんまとハスラーに仕組まれたのだ。 ハスラーは下調べにも余念がない。金になりそうなカモを探し出して順番をつけたり、その町に何ヶ月も住んで大物の探りを入れることもある。そしてたった1日で彼らから大金を奪っていく。顔が知れ始めたら潮時。静かに町を去るのが怪我をしないための唯一のルールだ。 『ハスラー』(The Hustler/1961)はビリヤードのプールゲームで稼ぎ歩く孤独な男の物語だった。それまでマーロン・ブランドやジェームズ・ディーンの亜流と評価の低かったポール・ニューマンの出世作として、あるいはトム・クルーズを加えた25年ぶりの続編『ハスラー2』(1986)やそれに続く日本での空前のビリヤードブームといった視点で語られがちな作品だが、実はベンチャー起業家のビジネス書や自己啓発書など足元にも及ばない“人生の教え”が描かれた名作でもある。 原作はウォルター・テヴィスが1959年に発表した同名小説で、監督・脚本はロバート・ロッセン。全編にジャズが流れ、あえてモノクロで撮影。プールの大勝負の舞台はセットではなく、NYにあった本物の店を使用。低予算映画にも関わらず一切の妥協を許さないプロの仕事によってこの映画は大ヒット。当時35歳だったポール・ニューマンがスターとなるきっかけを作った。共演にはTVスターとして有名なジャッキー・グリーソン、舞台俳優として存在感のあったジョージ・C・スコット、紅一点のパイパー・ローリー。 パリにいて別の映画に出演する予定だったというニューマンは、脚本を半分読んだところでエージェントに電話。「全部読むまでもない。今すぐ引き受けてくれ」と言ったそうだ(フランク・シナトラが演じていた可能性もあった)。本作に出演するまでビリヤードのキューを握ったこともなかったが、17年間王座に君臨した伝説の世界チャンピオン、ウィリー・モスコーニから特訓を受けて演技に挑んだ。 物語は、“疾風(はやて)のエディ”として知られる若きハスラー、エディ・フェルソン(ポール・ニューマン)が、不敗伝説を持つミネソタ・ファッツ(ジャッキー・グリーソン)に挑むところから始まる。一時..
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伝説の白鯨になった男〜稀代のドラマー“ボンゾ”の神がかったプレイに酔いしれて

9月25日は、1980年に32歳の若さで他界したレッド・ツェッペリンのドラマー、ジョン・ボーナムの命日です。 ロックファンの間では“ボンゾ”の愛称で広く親しまれている彼。 ロック黄金期(60〜70年代)の音楽をかじった経験のある人間なら必ず知っていると言っても過言ではない“伝説のドラマー”である。 ロックミュージックにおいて考えられるドラムパターンは「彼が生前に叩き尽くした」とまで言われ、ミュージシャンの間では今でも崇拝されている存在だ。 Led Zeppelin(レッド・ツェッペリン)というバンド名を冠したデビューアルバムのオープニング曲「Good Times Bad Times」(1969年)で鮮烈な印象を残し、名盤といわれた『Led Zeppelin IV』(1971年)の「Black Dog」などで聴くことのできる、卓越したタイム感や変拍子を駆使したワイルドかつパワフルなドラムプレイで“唯一無二”の存在感と実力を見せつけた彼。 体格にものをいわせて力任せに叩くのではなく、ジャズの技術に忠実に“柔と剛”を自在に使いこなしているところが、彼のドラミングの凄さといわれている。 ♪「Moby Dick」/レッド・ツェッペリン(LIVE) 彼が叩いた数ある名曲の中でも、その神がかったドラムプレイをたっぷり堪能できるインストゥルメンタル曲がある。 それは、1969年にリリースされたレッド・ツェッペリンの2ndアルバム『Led Zeppelin II』に収録されている「Moby Dick」という“伝説の白鯨”をテーマにしたもの。 序盤1分くらいはバンド全体で演奏されるグルーヴィーなテーマがひとしきり…そして、おもむろにボンゾのソロに切り替わる。 そのステックさばきはもちろんのこと、目を見張るドラムテクニックの数々が披露される中、驚きの!素手で叩くプレイまで飛び出す“ボンゾ独壇場”の世界が永遠と続き…最後にちょこっとしたエンディングテーマで〆る!!! インストゥルメンタル曲とはいえ、そのほとんどがドラムソロといったまさに前代未聞の楽曲なのだ。 初期のツェッペリンのコンサートでは、この曲がハイライトの一つになっていたという。 曲名は、1851年にハーマン・メルヴェルが発表した世界的に有名な長編冒険小説『白鯨(モビィ・ディック)』から付けられており、ボンゾの力強いドラミングが..
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エディ&ザ・クルーザース〜その正体はジョン・キャファティ&ザ・ビーバー・ブラウン・バンド

1983年。アメリカで1本の映画がひっそりと公開された。タイトルは『エディ&ザ・クルーザース』(Eddie and the Cruisers)。主演はTVドラマで人気が出始めていたマイケル・パレと、70年代から何本かの映画に出演していたトム・べレンジャー。後にパレは『ストリート・オブ・ファイヤー』、べレンジャーは『プラトーン』で誰もが知るスター俳優となる。 映画は本国でヒットしなかったことから、日本での劇場公開は見送られた。しかし翌年、この映画をサウンドトラックが救う。劇中歌を担当したのはジョン・キャファティ&ザ・ビーバー・ブラウン・バンド。全曲に渡って彼らがオリジナルやカバーを演奏し、収録曲の「On the Dark Side」が全米7位の再ヒットを記録。彼らの名は一気に知れ渡り、全盛期に入っていたMTVでも頻繁に流れ始めた。 その声やサウンドが、当時『Born in The U.S.A.』で頂点にいたブルース・スプリングスティーン&ザ・Eストリート・バンドにあまりにもそっくりだったため、日本の音楽メディアもそれに便乗した取り上げ方ばかりだったのは残念だが、確かにスプリングスティーンの世界的ヒットがなければ、彼らにスポットが当たることはなかったのかもしれない。 だが、今聴きなおしてみると、「Tender Years」や「Wild Summer Nights」なんて心にグッとくる名曲だし、けっこう優れたサウンドトラックだったことも解る。映画は無事に日本版DVDも発売されたので、マイケル・パレの口パク演技の上手さも楽しんでほしい。音楽ファンならかなり入り込めるストーリーだ。 ニュージャージーのローカルバンドながら全米ナンバー1ヒットを放ち、1964年に2枚目のアルバムを録音した直後にリーダーが事故死。アルバムのマスターテープもなぜか消え、バンドはそのまま解散。あれから18年が経ち、伝説となっているエディ&ザ・クルーザース。 TV局のリポーターのマギー(エレン・バーキン)は、当時死体はあがらなかったエディが実は今も生きていて、幻のセカンドアルバム『シーズン・イン・ヘル』もどこかに存在しているのではないかと、追跡ドキュメントを企てている。アルチュール・ランボーの詩から取られた作品名がどうしても引っ掛かるのだ。 エディ(マイケル・パレ)のバンドでキーボード兼作詞を担当してい..
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パラダイス・アレイ〜スタローンが主題歌を歌ったトム・ウェイツの俳優デビュー作

民放のロードショー番組にまだ色気や体臭が漂っていた1980年前後。日本の家族が今よりもまだ健全だった頃。 リビングで父親が黙って映画を観ている姿が好きだった。自分の部屋にテレビなど置いてもらえない息子は、何も言わず隣に座って画面を眺める。会話は少ない。家で一緒に映画を観ているだけなのに、夜9時から11時前までのひとときがなぜか心地良かった。終わるとテレビを消して、「おやすみ」と言ってゆっくりと寝室へ上がっていく父親。そんな姿を何度見たことだろう。 あれから40年近くが経った。あの頃のロードショー番組で放映された数々の70〜80年代産の映画は、今ではいつでもどこでも好きな時に気軽に観ることができる。日本の子供たちはテレビよりスマホの画面と向き合う。そしてリビングから父親たちの姿が消えた……。 こんなことを考えていると、あの頃の映画が蘇ってくる。それは誰もが知るヒット作や有名作ではなく、どちらかというとB級映画。少なくともネット環境が整うまでは一般的には忘れ去られていた映画。中でも『スラップ・ショット』(1977)や『カリフォルニア・ドールズ』(1981)はそんな筆頭格。そして今回紹介する『パラダイス・アレイ』(Paradise Alley/1978)も、“テレビを眺める息子たち”に強い印象を残してくれた1本だった。 脚本・監督・主演は、『ロッキー』(1976)の成功でアメリカン・ドリームを掴み取ったシルヴェスター・スタローン。これが初監督作。ニューヨークのスラム街で過ごした自らの日々を取り入れた内容で、現状打破の世界を再展開。おまけにビル・コンティによる主題歌まで歌った。オープニングで流れる「Too Close to Paradise」というその曲は、はっきり言って下手だけど素晴らしい。 1946年、終戦後のニューヨーク。ヘルズ・キッチンと呼ばれるスラム街で暮らすイタリア系の3兄弟。映画は彼らの人間関係や苦悩を軸に、やがて賭けプロレスで夢や希望を勝ち取ろうとする姿を描く。 日本ではプロレスのNWA世界チャンピオン、テリー・ファンクの出演も話題になった。ザ・ファンクスとして兄ドリーとタッグを組み、ゴールデンタイムのプロレス放送でお馴染みだった親日家のプロレスラー。また、1983年5月に放送されたロードショー番組では、3兄弟の末っ子役を初代タイガーマスクの佐山聡が吹き替え..
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愛と栄光への日々〜ブルース・スプリングスティーンが感謝したジョーン・ジェット主演作

マーティン・スコセッシ監督、ロバート・デ・ニーロ主演の伝説的作品『タクシー・ドライバー』の脚本を書いたポール・シュレイダーは、その後監督業に進出。『アメリカン・ジゴロ』『キャット・ピープル』などを手掛ける中、1981年に新しい脚本を書き上げた。タイトルは『Born in The U.S.A.』。 シュレイダーはこの映画のためのサウンドトラックをブルース・スプリングスティーンに依頼するため脚本を送る。これを読んだスプリングスティーンは、テーマにもストーリーにも感動して快諾。しかし、不運にも様々な問題が生じてしまい、映画製作は頓挫。結果、タイトルだけが生きることになり、1984年にあのベストセラー・アルバムが誕生。クレジットには「ポール・シュレイダーに感謝を込めて」と刻まれた。 シュレイダーは諦めずに映画製作を再開。今度はスプリングスティーンが主題歌をプレゼントする。その「Light Of Day」は映画のタイトルになり、1987年に公開されることになった。 『愛と栄光への日々』(Light Of Day/1987)の主演は、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』でチャック・ベリーの「ジョニー・B・グッド」をダックウォークしながら弾いてR&Rの歴史に貢献したマイケル・J・フォックス。そしてランナウェイズでガールズバンドの伝説を作り、脱退後に自前レーベルから「I Love Rock ‘n’ Roll」で全米ナンバーワン・ヒットを放った姐御ジョーン・ジェット。 二人は映画のために実際にバンドを組み、意気投合。吹き替えなしで映画中の音楽を演奏した。撮影2ヶ月前から練習に励み、シカゴのバーに覆面バンドとして登場。「オハイオから来たバーバスターズ」とだけ紹介されただけなので、観客たちは歓喜に包まれたという。 マイケル・J・フォックスは本作で自作曲も披露。ジョーンはもちろん映画初出演。だが見事な演技力で映画の完成に一役買った。二人の母親役には名女優ジーナ・ローランズ。こちらも映画に大きな深みを与えている。アメリカではヒットこそしなかったものの、80年代を強烈に感じる佳作として評価されるべきだし、ロックファンなら決して記憶から葬ってはいけない音楽愛に満ち溢れた作品だ。 物語の舞台はオハイオ州クリーヴランドの工場地帯。ジョー(マイケル・J・フォックス)は工場で働きながら、姉のパティ(ジョー..
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ランナウェイズ〜平均年齢16歳で男社会に殴り込みをかけた伝説のガールズバンド

私たちは地獄のような苦しみを味わって、音楽業界で女の子たちが楽にやっていけるようにしようとした。兵士みたいに血まみれになって戦って、ボコボコにされたけど、今こうしてここにいる。(シェリー・カーリー) 1975年、ロサンゼルス。16歳のジョーン・ジェットはスージー・クアトロとギターに恋していて、ロックスターになることを夢見ている。だが、ロックはまだまだ男たちのイメージが強く、少女だというだけでギター教室はエレキギターの弾き方さえ教えてくれない。そんなある夜、行きつけのクラブで敏腕プロデューサーのキム・フォーリーと知り合う。キムはジョーンを見て「女の子だけのバンド」が商売になることを思いついた。 一方、15歳のシェリー・カーリーは双子の姉と「普通で可愛い女の子」の日々を送っている。だが、歌うこととデヴィッド・ボウイの物真似が大好きなシェリーはLA郊外の学校では浮いた存在。母親が男を作り、父親は酒浸りで家にも帰ってこないことにも、思春期の少女の心は揺れていた。そんなある夜、行きつけのクラブでキムにスカウトされてジョーンを紹介される。こうしてランナウェイズは始動した。 1970年代半ば〜後半にかけて、日本でも熱狂的な人気を博したガールズバンド、ランナウェイズ。メンバー全員が10代の女の子で、デビュー当時平均年齢16歳ということでも話題になり、来日公演や番組出演や雑誌の取材をはじめ、追っかけのファンたちに追い回され続けるという、本国アメリカとは比べものにならないくらいスーパースターだった5人組。 シェリー・カーリー/Vo ジョーン・ジェット/G&Vo リタ・フォード/G ジャッキー・フォックス/B サンディ・ウェスト/Ds 映画『ランナウェイズ』(The Runaways/2010 )は、そんな彼女たちの出逢い、ロックスターの夢の実現、歪んだ音楽ビジネスとの葛藤、そして自分の人生を見つけようとするまでを描いたリアルなストーリーだ。 シェリー・カーリーの自伝『ネオン・エンジェル』を原作に、ジョーン・ジェットが監修。シェリーをダコタ・ファニング、ジョーンをクリステン・スチュワートが演じた。二人の若手女優は役作りのために本人たちに付き添い、クリステンは歌やギター演奏や言い回しなど、ジョーン本人が間違えるほど見事になりきった。 メンバーが揃ったランナウェイズは、トレーラーの中で練習..
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狼たちの午後〜社会的弱者からヒーロー扱いされた男と劇場型犯罪の始まり

2019年の映画界に衝撃をもたらした『ジョーカー』。これほどの孤独と哀しみに満ちた作品がたくさんの人々に観られていること自体に驚かされるが、きっと今自分がいる場所・街・国の姿に大きく重なる部分があるからだろう。もはやコミックの世界を超えた。これは完全なリアルだ。 監督と脚本を担当したトッド・フィリップスは、この試みに挑むにあたって主に70年代の映画から大きな影響を受けたという。『タクシー・ドライバー』『カッコーの巣の上で』『セルピコ』、そして今回紹介する『狼たちの午後』。映画を観て設定や雰囲気が似ていると思った人もいるはず。どれも人物描写に優れた作品ばかりが並んでいる。 『狼たちの午後』(Dog Day Afternoon/1975)は、1972年8月にNYのブルックリン地区で実際に起きた銀行強盗事件を描く。タイトルやこの情報だけでは、多くの人はよほど凶悪な事件だったのかと決めつけてしまうかもしれない。しかし当時はニューシネマに影響を受けた映画作家たちの全盛期。巨匠シドニー・ルメットが単純なアクション映画を撮るわけがない。 主犯のジョン・ウォトビッツが心に傷を負ったベトナム帰還兵だったこと。妻子がいるのにゲイとして重婚していたこと。犯行動機が「“妻”のための性適合手術の費用をプレゼントするため」だったこと。強盗とはいえ、余りにも愚かで計画性のなさから、かえってそれがマスコミや野次馬を巻き込んだ「劇場型犯罪」へと形を変えたこと、人質との奇妙な連帯感が芽生えたこと、犯罪者が社会的弱者たちのヒーローのように扱われたこと……この映画を語ろうとする時に絶対外せないこれらの事実が、社会派の監督の心を捉えた。 主演はアル・パチーノ。『セルピコ』に引き続いて再びタッグを組んだ。『ゴッドファーザー』のPart1とPart2への出演でキャリアの絶頂期にいたパチーノにとって、これほどやりがいに満ちた役柄はなかっただろう。撮影のほとんどは銀行内。風景の力に頼れない密室の舞台劇同様、俳優の力量が問われる空間だ。 猛暑日(Dog Day)のブルックリン、14時46分。閉店間際のチェイス・マンハッタン銀行支店に3人組の強盗が押し入る。ところが直前になって仲間の一人が怖気付いて逃げ出すわ、おまけに銀行にあるはずの金が、本店に輸送された直後で金庫にはわずか1100ドルしかないという始末。下調べも何も..
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なぜポール・シムノンはステージの上でベースを叩き壊したのか?

その1枚が撮影されたのは1979年の9月21日、ニューヨーク・パラディウムで開かれたコンサートでのことだった。 この年の夏、ロンドンで新作アルバム『ロンドン・コーリング』のレコーディングを終えたクラッシュは、2回目となるアメリカ・ツアーをスタートさせていた。 2ヶ月近くに渡ってアメリカ各地を回るという強行スケジュールだったが、ジョー・ストラマーの溢れんばかりのバイタリティに導かれるようにして、バンドはゆく先々で快進撃を続けていった。 この頃にはアメリカでもクラッシュへの関心は高まっていて、ボブ・ディランをはじめとして多くのミュージシャンがコンサートに足を運んでいる。 ニューヨークでのコンサートは9月20日からだった。 会場となったパラディウムは1927年に建造された映画館で、1976年にコンサートホールとして改修された。 事件が起こったのは2日目のことだった。 バンドは初日よりも調子を上げ、ショウは順調に進んでいた。 しかし最後の曲、「白い暴動」を演奏しているときに突然、ポール・シムノンがベース・ギターを床に叩きつけたのだ。 その衝撃に耐え切れず、ネックの部分が見事に折れてしまった。 当時クラッシュの専属カメラマンをしていた写真家、ペニー・スミスによってまさに叩きつけようという瞬間がフィルムに収められた。 その写真を『ロンドン・コーリング』のジャケットに使おうと提案したのは、ジャケットのデザインを手がけることになったイラストレーターのレイ・ローリーだ。 ところが写真がピンぼけしていることを理由に、ペニーはその提案を拒否した。 失敗したと思っている写真をジャケットに使われることに、プロとして抵抗を抱いたのは当然の反応だろう。 しかしレイのアイディアにジョーも賛同したことで、ペニーが押し切られる形となり、ポールがベースを壊す瞬間の写真が使われたのである。 左と下に置かれたL字型の文字組みは、エルヴィス・プレスリーのデビュー・アルバムに対するオマージュだ。 完成したジャケットはエルヴィスさながらの衝動的なエネルギーに満ち溢れて、ロックンロールへの原点回帰ともいうべき仕上がりとなる。 当初は写真を使われることに抵抗していたペニー・スミスだが、2013年のある対談ではこうコメントしている。 「もしポールの顔が写っていたら、それがどうであれ、あんなふうにはならなかったで..
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