2020-11

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ヴァン・モリソン〜孤高の歩みを続ける偉大なるアイリッシュ・ソウルマン

さらに西へ向かっていくと、僻地性はより増していった。見渡す限り芝と岩だけで、風が強く、その風の音以外は、何も聞こえて来なかった。こんな荒涼とした風景の中に人が住んでいるとは、ちょっと想像がつきにくかった。横から吹いてくる風は、秋だというのに骨にしみるほど冷たく、どこか「あの世」のような感じなのだ。 2012年に亡くなった駒沢敏器氏の著書『ミシシッピは月まで狂っている』の第3章「酒と音楽しかない」は、どんなに分厚くて偉そうな文献よりも、アイルランドの時間的・音楽的風景を切ないほどに描き出していた。 このような、人知とは違う次元での何かが支配的な場所では、そこから生まれてくる音楽も違うものになるのは、当然のことかもしれない、と僕は実感した。人が人として音楽を作るのではなく、風景の中に宿っている何かに感応するように、人を通じて音が生まれてくるのだ。つまり人は作り手ではなく、神と音の間にたった媒介にすぎない。 この文章を読むと、いつも一人のアーティストの歌声がどこからともなく聴こえてくる。 ──その人の名はヴァン・モリソン。歌うために生まれた男。1964年にゼムのフロントマンとしてデビューして以来、孤高の歩みを続けてきたアイリッシュ・ソウルマン。一度も来日公演がないリビング・レジェンド。 しかし、ヴァンは自らの伝説やスター扱い、セレブ志向を嫌う。ロックンロールの殿堂入りをした1994年の式典にも出席を拒否した。「僕が何者であるかと言えば、ブルースやソウル、ジャズ等を歌うシンガーでソングライターだ」。彼を語るには短い言葉で十分らしい。 そのせいで、彼にはずっと“無愛想” “手に負えない” “気難しい” といったイメージがつきまとってきた。だがそれは本当なのだろうか? ただ曲を書き、レコードを作ったりステージに立ったりしているだけなのに、なぜライフスタイルや性格まで掘り起こされなくてはならないのか? ヴァンの信念や美学に揺るぎはない。 俺はショウビジネスに関して、何も知らないまま今に至っている。ハウリン・ウルフだってショウビジネスじゃなかった。彼もTOP10を狙っていたわけじゃない。今は若いポップアクトを売ることがすべての世界だ。 俺は60年代のノスタルジア列車にも飛び乗るつもりはないよ。今も新作を発表し続けている。だから60年代アクトのように俺を売ることはできないんだ..
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カジノ〜絶対に損はしない“帝国のルール”を築き上げた男と女たちの運命

1990年の『グッドフェローズ』の成功で手応えを感じたマーティン・スコセッシ監督は、再びノンフィクション作家のニコラス・ピレッジと脚本に取り組み、ロバート・デ・ニーロとジョー・ぺシをキャスティング。舞台を1970年代のラスベガスに変え、続編的なムードを漂わす『カジノ』(Casino/1995)を撮影した。 今でこそラスベガスやカジノは大資本が投下され、徹底したビジネスマニュアルが行き届き、年間数千万人もの観光客が訪れる家族向けの健全なエンターテインメント・リゾートの位置付けを確立しているが、70年代前半はまだまだ裏でマフィアが仕切り、眩しいネオンの陰で怪しげな体臭が充満するような、如何わしい場所だった。 だからこそスコセッシは映画化の価値を嗅ぎ取り、食いついたのだ。観光客に用はない。面白いのは裏金や既得権を好き勝手に操るどうしようもない奴ら。そこは色情、友情、犯罪、裏切りが渦巻く世界でもある。マフィア、政治家、金融屋、富豪、娼婦、詐欺師、イカサマ師、そして虎視眈々と組織壊滅を狙うFBI。 カジノの経営は、警備のない銀行で強盗をやるようなもんさ。 ラスベガスは、罪を洗い流してくれるモラルの洗車のようなものだね。 『カジノ』では、帝国のルールを築いた実在した人物がモデルとなっている。ロバート・デ・ニーロが演じる元締めサム・“エース”・ロススティーンは、フランク・”レフティ”・ローゼンタール。ジョー・ぺシが演じるヤクザ者ニコラス・“ニッキー”・サントロは、アンソニー・”トニー”・スピロトロ。シャロン・ストーン演じるビッチ妻ジンジャー・マッケンナは、ジェリー・マクギーといったように、すべての役がリアルだ。 また、スコセッシ映画と言えば、サウンドトラックの充実も避けて通れない。今回は何と61曲が選曲され、3時間ほぼ流れっぱなしという怒涛のような展開。担当したのはロビー・ロバートソン。ザ・バンドの楽曲を一切選曲していないのがまたいい。 ロック勢からはローリング・ストーンズ、クリーム、ジェフ・ベック、フリートウッド・マック、ロキシー・ミュージック、ディーヴォなど。トラディショナル・ポップからはトニー・ベネット、ディーン・マーチン、サミー・デイヴィス・ジュニア、レス・ポール、そしてホーギー・カーマイケル。ブルーズ/R&B勢にはマディ・ウォーターズ、B.B.キング、レイ・チャール..
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あのベスト盤はどれだけ売れているのか〜世界で5000万枚を売ったロックバンドは?

2016年にデヴィッド・ボウイ(享年69)、プリンス(享年57)、グレン・フライ(享年67)といった大物ミュージシャンが立て続けに亡くなったことを覚えているだろうか。 ……思えば1980年、あのジョン・レノンが“前人未到の40歳のロックンローラー/ロックスター”の道を歩み始めようとした矢先、銃弾に倒れたことをきっかけに、「40代でもロックを演り続けよう」という強い想いが多くのミュージシャンの心に染み渡ったような気がする。「30代以上を信じるな」がモットーだった激動の60年代のスピリットは消え去り、新しい価値観がロックの世界に芽生えたのだ。 以来、90年代には50代、ゼロ年代には60代、10年代に入ると70代の現役ロックミュージシャンは珍しくもなくなり、今では当たり前になった。むしろその存在は、若い世代のミュージシャンよりは遥かにパワフルで、老いてもなお演り続けることの信念を教えてくれ、偽りのない真摯な姿勢に時には涙さえ流れてくる。2003年に71歳で亡くなったジョニー・キャッシュはその先駆けの人だった。 年を重ねれば、人はやがて逝く。今後も記憶に残る多くのミュージシャンはいなくなっていくだろう。しかし、彼らが遺した音楽は永遠に人々の心の中で生き続ける。そう思うと、デビュー60年を間近に控えながらもいまだ人気を維持し続けるローリング・ストーンズなどは、もはや奇跡を超えた一つの感動だ。 また、大物ミュージシャンが毎年のように次々と亡くなる現在では、死後にアルバムチャートを駆け上がるという現象も引き起こす。実際にプリンスのベスト盤は彼が亡くなってからナンバー1になった。今回はこの点に因んで「ベスト盤」(「グレイテスト・ヒッツ盤」とも呼ばれる)のセールスランキングを振り返りたい。 CDやアルバムが売れる時代はもう終わった。それは事実だ。だが、そんなことはどうだっていい。ベスト盤は各々のアーティストの足跡やヒット曲を一気に聴くことができるだけでなく、聴く者それぞれの人生や想い出が凝縮されている。 *セールス枚数はRIAA(全米レコード協会)などのデータ(2020年11月現在)を参考にした全米編。なお、2枚組は1セットではなく2枚分としてカウントされている。 *◯印は死去もしくは解散。 *この記事は2017年1月に公開されたものを一部更新しました。 まずは700〜1100万枚を..
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バニラ・スカイ〜“哀切な現実”と“甘美な夢”の境界線で

映画館を出た後や観終わった後、しばらくその映画のことが頭から離れないという経験をしたことがある人は意外に多い。その場限りの娯楽大作や分かりやすい内容の作品ならそんなことは滅多にないが、稀に何日も何週間経っても心の中に存在している映画というものがある。 『バニラ・スカイ』(VANILLA SKY/2001)は、そんな不思議な体験をさせてくれた映画だった。正直言って一度観ただけでは分からない。でも作品全編に漂う哀切甘美なムードに完全に魅せられた。それから4、5回は観ただろうか。すると、観る度に分からなかったことがはっきりと見えるようになったり、一方でまったく新しい発見をすることもあった。 ただ、この作品と向き合う時の心情はいつも同じで、人生に疲れたり、希望を見出す力が弱っていたり、ポジティヴやハッピーとは程遠い状況。そんな時に必ず『バニラ・スカイ』が観たくなった。人生の苦さを知ることによって、ひとときの甘美が分かるようになる。生きることは切ない。それでも人は夢を掴もうとする。 『オープン・ユア・アイズ』という映画を観て、僕は感心した。フォークソングや寓話や詩のようであり、真夜中に誰かと話していていいアイデアが浮かぶ。そんな会話に思えた。 前作『あの頃ペニー・レインと』を撮った後、映画作家キャメロン・クロウはほぼ同じスタッフと『バニラ・スカイ』に取り組んだ。アレハンドロ・アメナバル監督・脚本のスペイン映画『オープン・ユア・アイズ』(1997)のリメイク作品だが、舞台がニューヨークに移されたほか、タイトル通りにバニラ色の空に包まれた世界ができあがった。 主演は原作映画に惚れ込んでいたトム・クルーズ。共演にペネロペ・クルス(『オープン・ユア・アイズ』にも同じ役で出演)、キャメロン・ディアス、カート・ラッセルなど。音楽の選曲の良さはキャメロン・クロウ作品の楽しみの一つで、本作ではオープニングでいきなりレディオヘッドの「Everything in Its Right Place」が聴こえてきたり、シガー・ロスやケミカル・ブラザーズから、ジェフ・バックリーやボブ・ディランまで様々な表情を持つ歌や曲がどこかで流れている。 また、サントラ盤には未収録だが、ローリング・ストーンズの「Heaven」やビーチ・ボーイズの「Good Vibrations」も印象的だった。この種の映画では、..
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バーレスク〜クリスティーナ・アギレラとシェールが魅せるセクシー&ゴージャスな世界

スモールタウンのような田舎町で育った女の子が、夢を実現させるためNYやLAのような都会に出る。そこでいきなり厳しい現実と直面しながらも、必死になってきっかけを作ろうとする。やがて自分と同じような立場にいる男の子との出逢い。風変わりだけど心強い仲間たちの存在。しかし、そこに金にモノを言わせる連中が現れ、夢は誘惑に溺れながら歪んだものに変えられそうになる。だが恋や友情が進むべき道を教えてくれ、最後には女の子は笑顔と輝きを取り戻す……。 映画においてこのようなプロットは珍しくない。例えばこのコーナーでこれまで取り上げてきたラインナップの中でも、『ロック・オブ・エイジズ』(2012)や『コヨーテ・アグリー』(2000)などはその代表だろう。そして今回の『バーレスク』(Burlesque/2010)も新たにそのリストに加わった。しかもこの作品には『ムーラン・ルージュ』のような“魅せる”要素がある。 アメリカでのバーレスクとは、もともとはステージを使った歌あり芸ありの伝統的なバラエティ・ショーのこと。それが時代と場所、周辺の大衆文化を貪欲に吸収・反映させた結果、次第にストリップショーへと姿を変えていった。人気が下降して完全に廃れたこともある。ところが1990年代に入ると再評価。古典的なバーレスクのノスタルジーに、現在のテイストを加えた「ネオ・バーレスク」「ニュー・バーレスク」と呼ばれる動きが出てきた。 バーレスクは、もともと今日の僕らが思うタイプのショーではなかった。コメディ、パロディ、流行歌などのバリエーションに富んだパフォーマンスがあり、いろいろな才能が関わるエンターテインメントだったんだ。それが海を越えてイギリスからアメリカに渡って来た時、ストリップもあるようなセクシャルなショーに変革してしまった。この映画はもともとのバーレスクに敬意を捧げるものだ。(スティーブン・アンティン監督) そのスピリットはこの映画の見どころとでも言うべき、数々のセクシーなバーレスク・ダンスショーで堪能できる。スクリーンやモニターに映る世界でも目が釘付けになるのは、個性的なキャスティングが効いているから。クリスティーナ・アギレラ、シェールの存在が眩しすぎる。 ブリトニー・スピアーズらと時を同じくして1999年に大ブレイクしたクリスティーナ・アギレラには、当然映画のオファーが相次いだ。彼女が約1..
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ジョー・ストラマーの少年時代〜幼少期の音楽体験、人生を変えたローリング・ストーンズの一曲

1952年8月21日、彼はトルコ共和国の首都アンカラで生まれる。 外交官の父と看護師の母の間に生まれた兄弟の次男として誕生した彼には、ジョン・グレアム・メラーという名前が付けられた。 幼い頃、近所のトルコ人の乳母に助けられて育った彼が最初に口にしたのは、トルコ語と英語が混ざった言葉だったという。 「物心ついて残っている一番古い記憶は、兄貴が乳母車に身を乗り出してダイジェスティヴビスケットをくれたことだ。」 父親の転勤に伴い、エジプト、メキシコ、ドイツと、様々な国の文化に触れながら少年時代を過ごすこととなる。 一家が西ドイツの首都だったボンに移り住んだのは1957年が終わろうとする頃だった。 「ドイツは怖いところだったよ。戦後まだ10年しか経ってなかったし、若い連中はまだドイツ軍として戦っているつもりだった。ボンでは外国の大使館員が集まる土地に住んで居たんだ。子供達の間では“外国人はドイツ人に殴られるぞ!”という噂が流れ、いつも恐れながら過ごしていたよ。下手すりゃ早死にさ。」 1959年(当時7歳)に、彼の父親はイギリスのロンドン南部にあるクロイドンという小さな街に家を購入する。 スイスの山小屋にも似た小ぶりのバンガローハウスに引っ越すと、彼はすぐに地元サリー州立の小学校に通うこととなる。 当時、彼の家にはテレビもなかったが、ある日ラジオ付きのレコードプレイヤーがやってくる。 それは後にザ・クラッシュの代表曲「London Calling」のシングル盤のジャケットに描かれているものと同じタイプのプレイヤーだったという。 「両親は音楽にまったく関心がなかったね。フランスの劇場でやっているカンカンのレコードや、“オクラホマ!”みたいなミュージカルの曲とかを持ってるくらいだった。」 当時彼はラジオから流れる音楽に興味を示すようになる。 彼が楽しみにしていたのは、毎週土曜の朝9時からBBCで放送されていた『チルドレンズ・フェイヴァリッツ』という番組だった。 「テネシー・アーニー・フォードの“Sixteen Tons”なんかが流れていたのを憶えているよ。」 1961年の9月、両親は息子たちをCLFS(シティ・オブ・ロンドン・フリーメンズ・スクール)に転入させる。 そこは1854年に孤児院として設立された歴史ある学校で、生徒たちが寮生活を送りながら学ぶ学校だった。 ..
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アイム・ノット・ゼア〜女優ケイト・ブランシェットが“ボブ・ディラン”を演じた初公認映画

1962年のデビュー以来、自らを覆うイメージの破壊と再生を繰り返しながら、“生ける伝説”となったボブ・ディラン。自分自身を発明し続けた男は、2016年10月にノーベル文学賞まで授賞。彼の歌を一度も聴いたことがない世代までその名は再び知れ渡った。 音楽やポップカルチャーの長い歴史を振り返ろうとする時、決して避けて通ることはできない存在。それがボブ・ディランという“リアル”だろう。当然、この男の音楽と人生をテーマにした映画は幾度となく企画されたものの、本人の許可がおりずにどれも実現までには至らなかった。しかし2007年、初めて本人から公認された真のディラン映画が登場する。『アイム・ノット・ゼア』(I’m Not There)だ。 実現させたのはトッド・ヘインズ監督。ディランの長男でインディペンデント映画監督のジェシーを通じて、マネージャーのジェフ・ローゼンと知り合って企画をアプローチした。 資料の一番上には映画のタイトル「I’m Not There」(私はそこにいない)と記された。これは1967年、後のザ・バンドと行った『ベースメント・テープス』セッション時に録音された曲のタイトルで、海賊盤として流通していたレアな曲。トッドにとっては、詩人アルチュール・ランボーの「私は一人の他者である」という詩節を想起させた。 ジェフはこちらの投げかけに対して、ディランを天才だとか、現代を代表するシンガーとは形容しないように注意した上で、1枚の紙にコンセプトをまとめて送ってくれるように言ってきた。まとめた用紙と自分の過去の映画ビデオを送ったら、数ヶ月後にディランから「イエス」という返事があった。未だに自分でも信じられないんだけどね。 トッドとディランのコミュニケーションは唯一このプレゼン資料だけ。その後、一度も会ったり話したりすることはなかった。望めば可能だったかもしれないが、敢えてそうしなかった。監督はディランの歌や詩、自伝、インタビュー映像、ドキュメンタリー映画だけでなく、ディランが影響を受けた音楽や文学や映画、あるいは社会的背景、制作活動を行った場所や住んでいた場所を訪れるなど、徹底的にリサーチを行った。  彼について書かれている本はすべて読んだ。でもそれを書いた人に取材したりはしなかった。本物のディランや真実のディランを探すために出版された伝記はどれも失敗しているように見..
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キース・リチャーズが祖父との幼少時代の想い出を綴った心温まる絵本『ガス・アンド・ミー』

キース・リチャーズが絵本を出版したのが2014年9月のこと。あのキースと絵本? かなり意外だが、本当の話だ。何度も手に取って開けたくなる魅力もあるが、ロックスターによる絵本も珍しいので改めて紹介したい。 『Gus&Me』(ガス・アンド・ミー〜ガスじいさんとはじめてのギターの物語)と名付けられたその絵本は、キースの母方の祖父であるセオドア・オーガスタス・デュプリー(愛称ガス)との幼少時代の想い出を綴ったもの。 キースの自伝『ライフ』のエピソードをもとに、画は実娘のセオドラ・リチャーズが担当。彼女は実際にキースのイギリスの実家ダートフォードに赴き取材して、当時の写真を参考にしながら描いたそう。 偉大なるロックバンド「ローリング・ストーンズ」のギタリストであり、数々の反体制的な言動でロックスターのイメージを創った男、キース・リチャーズの“原風景”が聴こえてくる心温まる一冊となった。 キースは祖父との想い出をこんなふうに語っている。 俺が音楽を愛するようになった、その多くはガスじいさんのおかげだ。彼は女に囲まれて暮らしていた。7人の娘がいたんだ(キースの母親ドリスもこの中の一人)。ガスはよく言っていた。「7人の娘だけじゃないぞ。妻も入れると8人だ」 キースにとっての一番最初の音楽的アイドルは、“ガスじいさん”に他ならなかった。ガスはパン職人であると同時に、ピアノ、ヴァイオリン、ギターといった楽器も弾けたのだ。若い頃はダンスバンドで腕を磨く日々も過ごした。また、ユーモアのセンスの持ち主でもあり、友人たちに挨拶する時は「よお、一生マヌケでいるんじゃねえぞ」が口癖だった。 キースが生まれたのは彼にとって画期的な出来事だったらしい。ガスの家には娘や妻だけでなく、孫も含めて男の子が一人もいなかったからだ。口うるさい女所帯から抜け出して自由な時間を満喫するための絶好の機会が訪れた。「俺はダシに使われたんだ」 とは言え、ガスは小さなキースを可愛がってよく一緒に出掛けたそうだ。ミスター・トンプソン・ウーフトという変わった名の犬の散歩を口実に、その日の気分次第でいろんな場所に連れて行かれた。歩きながらガスは歌を口ずさみ、冗談を言ってはキースを笑わせた。中でも一番の楽しみは楽器店に行くことだった。 キースは店の片隅に座りながら、工房で男たちが楽器を作ったり修理したりする様子を黙って眺めてい..
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AC/DC〜「どんなパンクスよりも俺たちはタフだった」とマルコム・ヤングは言った

認知症を患って2014年9月にバンドから脱退を余儀なくされたマルコム・ヤングが、2017年11月18日に亡くなった。享年64。弟アンガスがお馴染みのスクールボーイ姿でギブソンSGを抱えながらステージを所狭しと動き回る一方で、黙々とグレッチで強靭なリズムを刻んでいた兄マルコムの姿がもう見れないなんて何だか寂しい。 AC/DCを初めて聴くタイミングは、人それぞれだ。70年代からのファンもいれば、80年代の空前のヘヴィメタル/ハードロック(以下HM/HR)ブームで出逢った人もいる。あるいは90年代から、いやゼロ年代からというケースもあるだろう。早い話、時代の入口はどこだっていい。どのアルバムを手に取ってもいい。AC/DCは“変わらない”のだから。 多くのロックバンドが生き残るために、“時代の変化”や“音楽性の追求”や“マーケティング戦略”などの思考に惑わされる中、AC/DCはひたすら“不変”であり続けた。ヴィジュアル重視のHM/HR全盛期でさえ彼らは早弾きなどのパフォーマンスに手を出さなかったし、チャート狙いの甘いバラードも絶対に演らなかった。あくまでもリフ主体のロックンロール。ブルーズに根差したグルーヴに徹底した。 同時期にデビューした多くのHM/HRバンドが解散したり人気を落としていく中、一貫してブレなかった彼らだけはファンを増やし続けた。アルバムセールスは現在まで世界で2億4000万枚以上を記録。2008〜10年のワールドツアーでは167公演・484万人を動員し、興行収入は4億4112万ドルという驚異的な数字を叩き出した。 スコットランドのグラスゴーでヤング家の六男、七男として生まれたマルコム(1953年生まれ)とアンガス(1955年生まれ)。家族の生活は苦しく、1963年にはオーストラリアのシドニーへ移住。二人の兄である五男のジョージ・ヤング(2017年10月23日死去)はイージービーツという国民的ビートバンドで活躍。1966年にはイギリスで大ヒットを飛ばす。そんな影響もあって弟たちは音楽活動に夢中になった。 1973年にAC/DCを結成。「直流/交流」という意味を持つバンド名は、姉のマーガレットが電化製品に書いてあった文字を見て提案したそうだ。そしてイージービーツにいた兄ジョージとハリー・ヴァンダのプロデュースによって、1975年にアルバム2枚『High Vo..
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キース・リチャーズとミック・ジャガー〜ストーンズ最大の危機と孤高の響き

「何年も続いていた状況がとうとう来るところまで来た。ミックが何もかも支配したいって欲求に取り憑かれたことだ。あいつにしてみりゃ、ミック・ジャガーと“その他大勢”だった。俺を含めたバンドの他のメンバーは、もうみんな雇われ人だ。長年一緒にやってきた俺たちにまでそうなったら、もうおしまいだ」 1980年代半ば。ローリング・ストーンズは結成以来、最悪かつ深刻な解散危機を迎えていた。ことの始まりは、ミック・ジャガーのリードシンガー症候群と言われている。キース・リチャーズが語ったように、自分を他とは違う“特別な人間”だと本気で思い込む誇大妄想だった。 1981~82年のワールドツアーは史上最大と言われ、かつてない規模の成功を収めた。その一方で、時代はMTVなどの登場によって音楽シーンが様変わりし始め、ヴィジュアル性に富んだ新しいスターが次々と生み出されて行く。巨大になり過ぎたストーンズは、もはや“旧世代の体制側”だった。その矛先はもちろんミックに向けられた。 アルバム『Undercover』を制作中の頃、ミックは自分の才能を疑い始めたという。他のミュージシャンに対抗意識をむき出しにしたり、ダンスや歌のレッスンまで受け始めたりと、最先端の音楽を追いかけ始めた。 そんな状況の中でストーンズはCBSと莫大なレコード契約を結ぶ。しかし、この契約の裏ではミックがソロアルバムを数作出すプロジェクトが密かに抱き合わせで組み込まれていた。ミックはそのことをバンドの誰にも言わなかったことで、キースの怒りはついに爆発した。 1985年、ミックは計画通り最初のソロ作をリリース。同じ年、ストーンズはキース主導で『Dirty Work』を制作するが、ミックはツアーに出ることを拒んだ。自分の次のソロ活動を進めたかったのだ。イギリスの新聞に掲載されたインタビューでは「ストーンズは重荷だ」とまで語ってしまう。キースが「第三次世界大戦が始まった」と零したように、その関係は修復不可能なレベルにまで達した。 君は僕のナンバーワンだった でもそんな日々ももう終わってしまった 時代は変わったけど 魅惑は今も残っている 愛は成就するけど 情熱はやがて消えて行く 1987年にリリースされたミックのソロ2作目『Primitive Cool』のハイライトとも言える「Party Doll」は、明らかにキースとの友情の終わり..
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時代を超えたベストセラーアルバムの変遷(イギリス編)

今回は、英国でベストセラーを記録したアルバムを並べてみよう。アメリカと違って意外な顔ぶれが続々登場。ただし、音楽は決して売り上げだけで語られるものではなく、壮大な音楽探究のきっかけの一つとしてお楽しみください。*2016年に英国で発表されたトップ60を再構成したものです。 なお、アメリカ編はこちらから。 時代を超えた1000万枚以上ベストセラーアルバムの変遷(アメリカ編) まずはトータルでのベスト10 ❶660万枚/クイーン『Greatest Hits』(1981) ❷570万枚/アバ『Gold』(1992) ❸540万枚/ビートルズ『Sgt Pepper’s Lonely Hearts Club Band』(1967) ❹518万枚/アデル『21』(2011) ❺495万枚/オアシス『(What’s The Story) Morning Glory』(1995) ❻447万枚/マイケル・ジャクソン『Thriller』(1982) ❻447万枚/ピンク・フロイド『The Dark Side Of The Moon』(1973) ❽435万枚/ダイアー・ストレイツ『Brothers In Arms』(1985) ❾415万枚/マイケル・ジャクソン『Bad』(1987) ❿409万枚/フリートウッド・マック『Rumours』(1977) 続いては各時代別 【1960年代】 ●540万枚 ビートルズ『Sgt Pepper’s Lonely Hearts Club Band』(1967) ●250万枚 サウンドトラック『The Sound of Music』(1965) 備考/ビートルズの同作はアメリカでは1100万枚を売った。 【1970年代】 ●447万枚 ピンク・フロイド『The Dark Side Of The Moon』(1973) ●409万枚 フリートウッド・マック『Rumours』(1977) ●337万枚 ミートローフ『Bat Out of Hell』(1977) ●326万枚 サイモン&ガーファンクル『Bridge over Troubled Water』(1970) ●280万枚 ジェフ・ウェイン『The War of the Worlds』(1978) ●276万枚 マイク・オールドフィールド『Tubular Bells』(1973) ●..
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ファクトリー・ガール〜ウォーホルとディランの狭間で破滅した女神イーディ・セジウィック

現代アートの伝説アンディ・ウォーホル。その黄金期は言うまでもなく、ポップアートや実験映画などでその名を美術史に永遠に刻んだ1960年代。 ニューヨークにある「ファクトリー」と呼ばれた自身のスタジオで、〈キャンベルスープ缶〉〈コカコーラ瓶〉〈マリリン・モンロー〉〈エルヴィス・プレスリー〉といったシルクスクリーンによる作品を次々と“大量生産”。有名人、死、企業製品などをモチーフにしたシリーズのほか、「アンダーグラウンドの帝王」としてパーティや音楽興行までも創作素材にし、ポップ・アーティストとして眩しすぎるオーラを放っていた。 芸術が大きく変化し、ロックが生まれた──そんな真っ只中の1965年。アーティストやミュージシャン、詩人や俳優、モデルやドロップアウトした若者たちが行き交う文化的サロンとなっていたウォーホルのファクトリーに、突然一人の女神が舞い降りる。誰もが心を奪われる彼女の名はイーディ。カリフォルニア・サンタバーバラの名家、莫大な資産を築くセジウィック家の令嬢。 貧しいチェコ移民で容姿にコンプレックスがあり、スターやセレブが大好きなウォーホルにとって、イーディ・セジウィックはまさに完璧な存在だった。イーディもまた、自殺した亡き兄を彷彿とさせるホモセクシャルのアンディに特別な感情を抱いた。 そんな彼女が“スーパースター”として迎え入れられるのは当然のこと。ブレーンの反対を押し切って、彼女を当時熱中していた映画(63〜66年に約60本も制作)に起用する。ウォーホルは言った。「彼女は何をやらせても僕よりうまい」 イーディは、ファクトリー・ガールとしてウォーホルのミューズとなった。自由気ままに振る舞い、優美さも兼ね備えた彼女はどこに繰り出しても周囲を魅了した。 彼女はいつも出て行こうとしていた。良いムードのパーティの時もそうだ。イーディはいつもそんな感じ。次に何が起こるか、それを待っていられなかった──アンディ・ウォーホル また、ブロンドのピクシーカット、大きなイヤリング、クレオパトラの瞳と称された独特のアイメイク、レオタード、黒いタイツはイーディの象徴となり、ファッション雑誌ヴォーグも虜に。 アンディといた時、私はジャズ・バレエを1日2回踊った。誰もこんなダンスで楽しい気分になるとは思わなかったけど、レオタードを着てつま先で立ってみた。レオタードにTシャツ姿の私を..
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失われた週末〜人はなぜアルコールや薬物やギャンブルに依存するのか?

前回の『酒とバラの日々』(1962)では、アルコールに深く溺れて何もかもを失っていく男と女の姿、それでも現実を直視しながら未来のために生きようとする人間の尊厳について考えた。 酒、薬物、ギャンブル……もう一度記しておこう。人はそれに取り憑かれてしまうとどうなるのか? 自己嫌悪に陥るたびに、自己再生を誓う。にも関わらずそれを得るためなら周囲に嘘をつき、自分を哀れみ、正当化し、大切な人を裏切る。仕事や金を失い、家庭やロマンスを失い、時間と健康を失い、信頼と未来を失い……得るものといえば、卑劣な思考と悪夢のような幻覚、そして人生に対する不安だけだ。 やめたくてもやめられない。暗闇の中をずっと手探りで浮遊しながら彷徨うこの状況。人間的成長が一時停止されているこの苦境。そこは出口のない迷路。圧倒的な孤独な世界。抜け出す方法はただ一つ。光を見たければ、結局は自らの意思で壁をぶち壊すしかない。 アルコール依存症と真正面に向き合った最初の映画『失われた週末』(The Lost Weekend/1945)にも、そんな葛藤と苦悩を繰り返す男の姿が描かれていた。 舞台はニューヨーク。主人公ドン・バーナム(レイ・ミランド)は33歳で小説家。と言ってもそれで生計を立てているわけでもなく、書いている様子が一向にない。もちろん収入もあるはずがなく、早い話が兄のアパートに転がり込み、援助を受けながら居候している身だ。そして酒がないと生きていけない極度のアル中でもある。 この週末、兄の計らいで旅行に発ち、自然の中で酒のない生活を送る予定でいる。しかし荷造りをしながら、ドンは窓の外に隠してある酒のボトルが気になって仕方がない。恋人のヘレン(ジェーン・ワイマン)はそんなドンを献身的に支え、自分の問題のようになって考えてくれる天使のような存在。それでもドンは旅行や恋人より酒を選ぶ愚かな選択をする。 行きつけのバーでツケで飲もうとする。断られると、書き手の命であるタイプライターを質に入れようとする。金がないので、人の持ち物に手を出す。他人から金を借りる。悪循環が尽きた時、アル中専門の病棟に隔離されているドン。他の患者の様子を見て怖くなり逃げ出すものの、アパートでは遂に幻覚に襲われる。どうしても酒がやめられない。ドンは自殺することを決断するのだが、そこへヘレンが戻ってくる……。 どうしようもない姿に苛つく人も..
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クロッシング・ガード〜娘を交通事故で亡くした父親の“復讐”を描くショーン・ペン監督作

ブルース・スプリングスティーンの「Highway Patrolman」からテーマを得た監督デビュー作『インディアン・ランナー』(1991)で、それまでの「マドンナの夫」(85〜89年)や「パパラッチへの暴力」といった世間を騒がすスターのイメージから脱却したショーン・ペン。だが、本物を知る人たちには最初から分かっていた。彼は映画界の貴重な知的良心であることを。 『クロッシング・ガード』(The Crossing Guard/1995)は、そんなペンの監督第2作。傷ついた人間の心、葛藤する姿を描こうとする至極の名作。 一人でタイプライターの前に座っていたら、「クソッ、この役はジャック・ニコルソンだ」って気付いた。それで仕上がった脚本を彼に送った。3日して彼がやるよって電話をくれた。 ニコルソンにとっては、それはたくさん送られてくる脚本の一つに過ぎなかった。 たった90ページの脚本だった。特別な衣装もメイキャップも髪型も必要ない。大げさな演技も要らない。ただエモーションがあった。ストーリーではなく“人間の振る舞い”が中心にあった。ここ何年か出演してきた映画とはまったく違う自由があったんだ。「よし、やろう」と決めた。 共演には『インディアン・ランナー』で好演したデヴィッド・モース。かつてニコルソンの私生活での同棲相手だったアンジェリカ・ヒューストン。他にザ・バンドのロビー・ロバートソン、名優ジョン・サヴェージ。日本からは石橋凌の出演も話題になった。主題歌の「Missing」はブルース・スプリングスティーンが書き下ろし。サウンドトラックにはジュエルの「Emily」も収録されている。 また、本作はペンの親友でもあった作家チャールズ・ブコウスキー(1994年3月に他界)に捧げられている。この映画はブコウスキーが描いた短編小説の世界そのものだった。心が震えるラストシーンは彼が埋葬された墓地で撮影された。 クロッシング・ガードとは「交通安全指導員」のこと。交差点で子供たちや人々を誘導する係。この映画を観れば、なぜそんなタイトルが付けられたのかが分かるだろう。これが人生となると、行くべき道は誰も教えてくれない。ニコルソンは言う。 彼はもう何も感じることはできない。心の痛みを抱えていて、酒に溺れて女にも冷たい。周りの男たちも彼のことをまったく知らない。彼は怒りのために自分自身を..
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KISS結成物語③〜ニューヨーク・ドールズに影響を受けたメーキャップ、そしてデビューアルバム制作へ

「俺がこのバンド名を思いついた時、メンバー全員が賛成してくれたよ。KISSという名前には様々な意味があると思ったんだ。情熱の口づけだけでなく、死の口づけだってあるんだから。それに凄くわかりやすいし、馴染みがある言葉だしね。KISS?ああ、聞いたことあるよ!なんて、言ってもらえるんじゃないかと俺は思ったんだ。」(ポール・スタンレー) 当時、ニューヨークから出てきたバンドの大半はニューヨーク・ドールズをお手本にしていた。 1973年3月のある夜、ポールとジーンはドールズのライブを観るために繁華街のいかがわしいエリアにある“ディプロマット”というダンスホールへ出向いた。 そこは売春婦や麻薬依存症の連中がしけ込むような場所だった。 「演奏の方はそうでもなかったが、彼らの見た目は最高だった。彼らのウエストは俺の手首くらいしかなくてね。あれと比べたらジーンも俺もアメフト選手のようだった。彼らと同じやり方で勝負しても勝てるわけがないと悟ったよ。」 ポールとジーンは、自分たちのやり方で成功するにはどうすればいいか話し合った。 まず、ドールズのようなカラフルで女性的な衣装ではなく、もっと禍々しい全身黒のコスチュームにすることを決めた。 ポールは早速メタリックな黒いサテン生地を買ってきて、自分たちのお気に入りのベルボトムジーンズを解体して型紙をおこし、自作の衣装を完成させた。 「それまでミシンを使ったこともなかったし、ファスナーの付け方なんてまったくわからなかったよ。だけど出来あがった衣装をジーンも凄く気に入ってくれて、同じ物を作ってくれと頼んできた。」 さらに彼らは犬の首輪を買うためにペットショップを物色し、そこに気にいった物がないとわかると、SMプレイの道具やコスチュームが売っているアダルトショップへと出かけた。 一通り衣装が揃うと、今度は顔を白塗りにすることを考えついたという。 「リハーサルをしていた23丁目の倉庫に集まり、4人でドアに立てかけた鏡の周りに輪なって座り込んだ。どうやってメーキャップをすればいいのか?彼らは取り憑かれたように描いては拭き取りを繰り返して色々なアイディアを出し合ったんだ。」 ポールは右目の周りに星を描いた。 エースは宇宙っぽいデザインを考えた。 ピーターは猫、そしてジーンは悪魔をモチーフにしたメイキャップを作り上げた。 「ジーンのメイキ..
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