2020-12

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歓喜の歌〜大晦日の大定番「第九」にまつわる3分読み切り豆知識

日本の大晦日の“定番”と言えば… 世代によっては、その過ごし方も違ってくるので、今では「これ!」と言い切るのは難しい。 それでもやはり12月31日〜元旦の午前0時過ぎに“耳にするもの”と言えば「除夜の鐘」「蛍の光」そして…この「第九」ではないだろうか。 除夜の鐘のルーツは、寺=仏教(釈迦)なだけに大元を辿ればインドとなる。 蛍の光のルーツはスコットランドにある。 ベートーヴェンの第九は、言わずもがなドイツである。 日本という国に定着している文化や風習は、良くも悪くも多くのものがミクスチャーなのだ。 この「第九」が日本で初めて演奏されたのは、1918年(大正7年)のことだった。 当時、中国の青島はドイツの租借地であり、日本は第一次世界大戦に連合軍側に立って参戦すると、ここを占領しドイツ兵を捕虜として日本に連行し、徳島県板東町(現・鳴門市)にあった板東俘虜収容所に収容した。 ドイツ人捕虜たちは、収容所長の松江豊寿大佐の人道的扱いによって自由に音楽を楽しんでおり、同年の6月1日に「第九」を皆で演奏・合唱したという記録が残っている。 交響曲第九番ニ短調作品125(通称・第九)は、ベートーヴェンが作曲した最後の交響曲といわれている。 彼が晩年(1824年)に完成させたこの作品の最大の特徴は、合唱を取り入れていることだ。 当時は「声楽と交響曲は交わらないもの」と考えられいたのだが、その定説が一人の“型破りな音楽家”の手によって見事に覆されたのだ。 この歌詞がつけられた第4楽章のクライマックス部分のことを、我々は日本人は一般的に「歓喜の歌」または「歓びの歌」と呼んでいる。 しかし「歓喜の歌」の歌詞は、全編ベートーヴェンが手掛けたものではない。 ドイツを代表する作家フリードリヒ・フォン・シラーによって書かれた『歓喜に寄す』という詩を基にして、ベートーヴェンが編集したものだという。 フランス革命からわずか3年後の1792年、当時22歳のベートーヴェンは、シラーが書いたこの詩と出合い、深く感動したという。 「いつかこの詩に曲を付けたい!」と心に秘め…32年後、54歳になった彼は難聴に苦しみながらもこの大作を完成させたのだ。 一説では、ベートーヴェンが歌詞を書いたのは冒頭部分の「おお友よ、このような音ではなく心地よい歓喜に満ちた歌を歌おう」という一行だけだったとも言われている。 若き日..
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ストレンジ・デイズ〜1999年12月31日の世紀末パーティと電子ドラッグ「スクイッド」

「世紀末」「ミレニアム」と盛んに騒がれた1999〜2000年頃。20世紀の終わりに漂っていた倦怠感のようなものと、来たるべきまだ見ぬ21世紀への期待感のようなものが混ざり合って、何か異様とも思える空気が巨大なビル群や人々を覆っていた。 また、インターネット普及によるサイバースペース(電脳空間)感覚が身近になり、日本でもiモードの登場によってバッグやポケットに入れて持ち歩いていた携帯電話にその世界観が組み込まれた。 映画『ストレンジ・デイズ』(Strange Days/1995)はサブタイトルに「1999年12月31日」とあるように、まさにそんな時代の喧騒ぶりを描いた作品だった。製作・脚本を担当したのはジェームズ・キャメロン。『ターミネーター』シリーズや『エイリアン2』で勢いのあったキャメロンが長年温めてきた企画で、自身の製作会社ライトストーム・エンターテイメントによる『トゥルー・ライズ』に続く第2弾作品にあたる。 舞台は1999年の大晦日寸前のロサンゼルス。モラルが後退して街の至る所で犯罪が多発し、人種差別をきっかけとする暴動ムードも高まりつつある。人々はそんな崩壊寸前の社会でメガパーティを祝福することに心奪われている。 キャメロンはこうした描写を軸に、もう一つ強烈な仕掛けを用意した。それは「スクイッド」と呼ばれる超電導量子干渉装置で、他人の体験を五感や感情とともに再生できるデジタル・ディスク。作家ウィリアム・ギブソンの原作による映画『JM』でも登場したガジェットで、非合法電子ドラッグだ。 セックスやスリルを扱う「スクイッド」の売人として退廃的な暮らしをしているレニーは、警官時代に知り合った売春婦フェイスとの想い出の中に生きている。フェイスは今は音楽業界のドンであるガントの女となり、ロサンゼルスのクラブで歌手活動をしている。 ある夜、売春婦のアイリスが助けを求めてレニーのもとにやって来る。「フェイスも危ない」と一言残して。一方、TVニュースは若い黒人たちの指導者的存在である人気ラッパー・ジェリコが何者かに射殺されたことを伝えていた。 後日、レニーのもとにあるディスクが届けられる。「スクイッド」で体感するレニーだが、それはホテルでアイリスが殺害されるという残虐なものだった。異常事態を感じたレニーは、友人であるシングルマザーで美しいメイスや探偵のマックスの力を借りて事件..
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恋人たちの予感〜大晦日のカウントダウンで結ばれる男と女の物語

男と女に友情は成立するか? セックスは友情の妨げになるのか?──これは昔から恋愛コラムなどで定期的に取り上げられてきたお題だが、答えはYESでありNOだ。どちらかが恋愛感情を抑えているだけの場合もあるし、お互いに恋愛発展などどう転んでも考えられないケースだってある。 『恋人たちの予感』(WHEN HARRY MET SALLY/1989)は、そんな男女間における永遠の未解決テーマを描いた、大晦日にぴったりの映画だ。監督はロブ・ライナー。彼自身が10年間の結婚生活が破綻して再び独身生活を送っていた頃、このテーマを取り入れた映画を撮ろうと思いついたという。女性脚本家のノーラ・エフロンに相談して話し合っているうちに、お互いの会話や考え方の違いが面白くなって、それがそのまま脚本作りに活かされていった。 この作品がロマンチック・コメディの傑作となることは明らかだった。1970年代にウディ・アレンが築き上げたマンハッタンの恋愛美学が全編に渡って漂いつつ、ロケーションやファッションや音楽がたまらなく洗練されていて、観る者を温かく優しい気持ちにしてくれる。そして主演したメグ・ライアンのチャーミングな魅力も大きく、彼女はこの作品でスターになった。 物語はシカゴ大学を卒業したサリー(メグ・ライアン)が親友の彼氏ハリー(ビリー・クリスタル)をニューヨークまで車で送って行くところから始まる。二人は例のテーマについて話し合うが、ハリーはセックスが邪魔をする、一方のサリーはそんなことないと、あまりウマが合わずに、おまけにサリーはハリーが自分を口説いていると妄想したまま別れる。 5年後。空港。サリーが彼氏と熱い抱擁を交わしているところに、偶然ハリーが通り掛る。サリーは記者、ハリーはコンサルタントになっていた。飛行機で隣同士の席になるものの、やはり話は合わない。 さらに5年後。彼と別れたばかりのサリーは31歳になっている。ハリーは離婚が決まって落ち込んでいる。本屋でまたも再会する二人。今度はお互いの近況を話し合ううちに友達になった。以来、マンハッタンのシングルライフの中で友情関係を深める二人。レストランで食事したり、公園を歩いたり、休日を美術館で過ごしたり、クリスマスにはツリーの木を一緒に運んだり。大晦日のパーティでチークダンスをしていると思わず意識せずにはいられないが、笑ってごまかす二人だった。..
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あのスティッフレコードから最強ポップチューンを放ったコメディエンヌの華麗な足跡

トレイシー・ウルマン、61歳。 アメリカで成功した最初のイギリス人コメディエンヌとして知られている才女である。 彼女は、歌手、映画女優、テレビショーの司会という顔も持ち、その鋭い人間観察と巧みな形態模写によって様々なキャラクターを演じ分ける稀代のエンターテイナーなのだ。 現在はアメリカでの市民権を取得しており、ハリウッドでも活躍するイギリスの大物テレビ・プロデューサーの夫と共にロサンゼルスで暮らしている。 「昔のイギリスでは、テレビに出てくる女性に笑いなど求められていなかった。アメリカにはルシール・ボールやキャロル・バーネット、ギルダ・ラドナー、リリー・トムリンがいたけど、私の国ではお手本となるような存在がいなかったのよ。」 1959年12月30日、彼女はイギリスのバークシャー州スラウで生まれた。 父親の家系はカトリックを信仰するポーランド人で、母親の家系はジプシーの血を引くイギリス人だった。 彼女が6歳の時に父親が心臓発作で急逝する。 「父は子供たちを寝かしつけるために本を読んでくれている最中に亡くなったの。母がショックでふさぎ込んでしまって…私は姉と一緒になって歌や寸劇を披露して母を励まそうとしたの。」 当時の人気歌手や映画スターや近所の知り合いなどの物まねをすることが彼女の十八番で、これが後のコメディエンヌとしての原点となったのだ。 その後、母親は新しい相手と再婚するが…その男には酒乱という悪癖があり、彼女たち姉妹は喧嘩が絶えない家庭の中で辛い少女時代を過ごしたという。 1962年、彼女は12歳の時に転機を迎える。 当時通っていた学校の校長先生が彼女の演技力や歌の才能を見抜き、ロンドンでも有名な演劇学校イタリア・コンティ学院を推薦してくれたのだ。 彼女はそこで4年間に渡って本格的に演技や歌、そしてダンスの訓練を積むこととなる。 将来エンターテイメントの世界で活躍することを夢見て、数多くのオーディションを受けていた彼女はミュージカル『ジジ』の役を獲得し、16歳の時に念願の初舞台を踏む。 その後ロンドンで『ロッキー・ホラー・ショー』など様々なミュージカルに出演する傍ら、 ロイヤル・コート劇場の寸劇の舞台に立つようになる。 寸劇で演じたナイトクラブ歌手のキャラクターが大ウケした彼女(当時21歳)は、1981年度ロンドン演劇批評家賞の最優秀新人賞を獲得。 その才..
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マリアンヌ・フェイスフル〜ミック・ジャガーの恋人、薬物・アルコール依存症を乗り越えて、老婆を好演する女優となって

「That of all the girlfriend’s he’s (Jagger) ever had,He loved her(Marianne) the most(ミックはこれまでのすべての恋人の中で、マリアンヌのことを一番愛していたわ)」 これはミック・ジャガーの2番目の妻ジェリー・ホールが語った言葉だ。 父は薔薇を約束してくれた そして母は嵐を 父は頭を使うことを教えてくれた そして母は喋ることを 彼がそっと頭を撫でてくれると 私は生まれるような気分なの… ──マリアンヌ・フェイスフル。 彼女は1968年に公開された映画『あの胸にもう一度』で、裸に黒革の衣装をまとってアラン・ドロンと共演し、日本の人気漫画『ルパン三世』に登場する峰不二子のモデルとなったと言われている女性だ。 1964年のデビュー当初、そのロリータ的な美貌と透き通るような歌声で一躍英国を代表するカルチャーアイコンとなった彼女。 そしてザ・ローリング・ストーンズのミック・ジャガーとの交際が発端となり、酒とドラッグに溺れ、波乱の時期を経ながら…現在も音楽活動を続けながら女優としても活躍している。 今日はこれまで彼女がどんな人生を歩んできたのか?その生い立ちや足跡をご紹介します。 ──彼女は1946年12月29日にイギリスのロンドンで生まれた。 父親が英国人で母親はオーストリアの名門貴族の家系出身だという。 “マゾヒズム”という言葉の由来となったレオポルド・フォン・マゾッホを親戚に持つことでも有名である。 幼いころに両親が離婚し彼女は修道院で育つ。 16歳の頃には男の子たちの憧れの的になり、ボーイフレンドに誘われて大学のパーティーに行き、美術商だった最初の夫ジョン・ダンバーに出会う。 17歳でいわゆる“出来ちゃった婚”をして、1963年の11月に長男ニコラスを出産。 夫は美術商ということもあり幅広い人脈を持っており、その中にローリング・ストーンズのマネージャーを担当していたアンドリュー・オールダムがいた。 アンドリューは彼女を見て「この容姿なら売れる!」と確信し、ミック・ジャガーとキース・リチャーズに曲を作るよう指示。 翌1964年に、ミックとキースが手がけた楽曲「As Tears Go By(涙あふれて)」で、に歌手デビューを果たす。 その後、ジャン=リュック・ゴダールに見出されて映画デビ..
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ウルフ・オブ・ウォールストリート〜実在した破天荒な株式ブローカーの成り上りと破滅

マーティン・スコセッシ監督がレオナルド・ディカプリオと5度目のタッグを組んだ『ウルフ・オブ・ウォールストリート』(The Wolf of Wall Street/2013)は、実在したウォール街の株式ブローカー、ジョーダン・ベルフォートのクレイジーな成り上り、放蕩ぶり、そして逮捕までの道程を描いた衝撃のエンタテインメントだった。 原作はベルフォートが綴った回想録『ウォール街狂乱日記〜「狼」と呼ばれた私のヤバすぎる人生』。わずか26歳で証券会社を立ち上げ、貯金ゼロから年収49億円を荒稼ぎするまでに至り、36歳の若さで楽園を追放された男の破天荒な人生が描かれていく。ちなみにやってることはメチャクチャ。これが面白くないわけがない。 一攫千金を夢見るベルフォート(レオナルド・ディカプリオ)は、学歴なしコネなしの不安要素を乗り越え、24歳の時にウォール街の歴史ある証券会社に潜り込むことに成功。電話の取り次ぎ役としてスタートする。 右も左も分からない新人をランチに誘ってくれたのはカリスマブローカーとして君臨するマーク(マシュー・マコノヒー)。酒と女とコカインに明け暮れる上司の姿に圧倒されるベルフォートに、マークは業界のルールを叩き込む。 いいかい。君がもしウォーレン・バフェット(世界で最も成功した投資家。その資産約約8兆9000億円)だとしても、株が上がるか下がるなんてそんなことは誰にも分からない。それは幻だ。存在しないんだ。客が儲けたらまたその金ですぐにまた投資させろ。観覧車に乗せ続けるんだ。それを繰り返せ。客は金持ちになった気分でいる。紙の上でね。君は客のためではなく、君と君の家族のために、何があっても“手数料”で稼ぎ続けることだけに専念しろ。 そして1987年10月19日(月曜)、半年間の修行期間を経たベルフォートのデビューの時がやって来る。しかしその日は1929年以来の大暴落が勃発。「ブラックマンデー」と呼ばれることになった。1899年創業の会社は脆くも破綻してしまい、ベルフォートは元の生活に戻った。 ある日職探しをしていると、妻が見つけた新聞の求人広告に目がとまる。すぐに面接に出向くと、そこはガレージ規模の中小企業を扱う、いわゆる店頭公開のペニー株専門会社だった。客はこんな会社に投資してもまず儲かることはない。だが会社の手数料が驚異の50%であることを聞かされると..
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We Are The World〜チャリティソングの金字塔となった歌がレコーディングされた日

それはMTV全盛期と言われた80年代中頃の出来事だった。 ──1984年の12月24日にボブ・ゲルドフ(ブームタウンラッツ)とミッジ・ユーロ(ウルトラボックス)の呼びかけで、アフリカの飢餓と貧困を解消する目的で作られた歌「Do They Know It’s Christmas?」が発表され“バンド・エイド”というチャリティーキャンペーンが大きな成功を収めた。 参加ミュージシャンは、ポール・マッカートニー、フィル・コリンズ、デヴィッド・ボウイ、U2、カルチャークラブ、デュランデュラン、バナナラマ、ビッグカントリー、ポール・ヤング、ポリス、スタイルカウンシル、ウルトラボックスなどイギリス〜アイルランド系の新旧アーティストによるものだった。 それに呼応するようにしてアメリカで発表されたのがこの「We Are The World」だった。 “USAフォー・アフリカ”という旗の下、マイケル・ジャクソンとライオネル・リッチーの呼びかけに応じたのは、アメリカのポップス界を代表するアーティスト達だった。 人種、性別、音楽ジャンル、宗教、キャリアもそれぞれ異なる彼らの“想い”は、国境を超えてその夜一つになった。 そこにはバンド・エイドの中心人物ボブ・ゲルドフの顔も含まれていた。 普段は高額な出演料や印税をもらっている総勢45人のトップスターが、エチオピア難民救済のためにノーギャラで集結したのだ。 【参加アーティスト(五十音順)】 アル・ジャロウ ウィリー・ネルソン ウェイロン・ジェニングス キム・カーンズ クインシー・ジョーンズ(プロデューサー及び指揮) ケニー・ロギンス ケニー・ロジャース ジェフリー・オズボーン ジェームス・イングラム ジャッキー・ジャクソン シンディ・ローパー シーラ・E スティーヴィー・ワンダー スティーブ・ペリー スモーキー・ロビンソン ダイアナ・ロス ダリル・ホール&ジョン・オーツ ダン・エイクロイド ディオンヌ・ワーウィック ティト・ジャクソン ティナ・ターナー ハリー・ベラフォンテ ヒューイ・ルイス&ザ・ニュース ビリー・ジョエル ブルース・スプリングスティーン ベット・ミドラー ポインター・シスターズ ボブ・ゲルドフ ボブ・ディラン ポール・サイモン マイケル・ジャクソン マーロン・ジャクソン ライオネル・リッチー ラトーヤ・ジャクソン ランディ・ジ..
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レ・ミゼラブル〜世界中を魅了したロングラン・ミュージカルの映画化と驚きの録音方法

1985年のロンドンでの初演以来、世界中を魅了してきた超ロングラン・ミュージカル『レ・ミゼラブル』。1987年にはブロードウェイで開幕。その年のトニー賞8部門を独占し、キャストアルバムも400万枚以上をセールス。2012年の段階で6000万人以上もの動員記録を誇る。ミュージカルに興味がなかったり、観劇する機会がなかった人でも、そのタイトルくらいは耳にしたことはあるはず。 原作は、フランスの作家ヴィクトル・ユゴーが1862年に発表した5部仕立ての大河小説。刊行当時、フランスはナポレオン3世の独裁時代。その政権に反対していたユゴーは、イギリス領の島に亡命中だった。第1部が刊行された直後、パリに滞在中の妻は夫に手紙を送る。 労働者たちが1フラン(工場の日給の半分)ずつ出し合い、12フランで『レ・ミゼラブル』を買いに行きます。みんなでクジ引きをして当たったものが、みんなが回し読みした後に自分のものにできるのだそうです。『レ・ミゼラブル』は社会のあらゆる階層で感動を呼び起こしています。 産業革命が進行すると同時に、都市には劣悪な環境で生きる労働者が増加。飢えと戦っていた。貧困撲滅と社会改革が信念だったユゴーは、壮大な創作に取り組んで変革の物語を人々の心に形成しようとしたのだ。『レ・ミゼラブル』は19世紀の大ベストセラーになった。 当然、映画化もこれまで何度かされてきた。ジャン・ギャバン、ジャン=ポール・ベルモンドらのフランス製作。1998年にはアメリカ製作もされた。そんな中、最高傑作として知られているのがイギリス製作の『レ・ミゼラブル』(Les Misérables/2012)。冒頭のミュージカルの映画化だ。 80年代から映画化の話はあったものの、約30年間実現には至らず。アラン・パーカー、スピルバーグ、オリバー・ストーンなど錚々たる監督たちがメガホンを取る可能性があった。だが、製作者のキャメロン・マッキントッシュは、トム・フーパー監督で成功を確信した。 監督が拘ったのは、歌の録音方法。従来のミュージカル映画の場合、撮影に入る前にあらかじめ歌を収録して現場で口パクを取る方法が当たり前。しかし、今回は俳優たちが演技しながら歌うライブの声を録音するという前代未聞のやり方。 この方法が上手くいくと分かった時は本当に興奮した。テンポやリズムを変えることでちょっとしたバリーエーシ..
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ゴロワーズを吸ったことがあるかい〜ムッシュかまやつのセンスが光る名曲の誕生秘話

ゴロワーズというタバコを吸ったことがあるかい ほらジャン・ギャバンがシネマの中で吸ってるやつさ よれよれのレインコートの襟を立てて 短くなるまで奴は吸うのさ そうさ短くなるまで吸わなけりゃダメだ 短くなるまで吸えば吸うほど 君はサンジェルマン通りの近くを歩いているだろう この曲は、もともと“ムッシュかまやつ”ことかまやつひろしが1975年に大ヒットさせたシングル「我が良き友よ」のB面に収録されていた。 A面は、当時フォーク界の大スターだった吉田拓郎による作詞作曲。 日系二世のジャズマン“ティーブ釜萢”の息子として生まれたムッシュと言えば、60年代に伝説のバンド“ザ・スパイダース”のメンバーとしての輝かしいキャリアを持っており、カントリー、ウエスタン、ジャズ、ロック、フォークまでこなせる実力の持ち主である。 そんな彼にとって、レコード会社が決めた拓郎節全開のA面曲に対して「僕の世界じゃない!」と、個人的にはあまり気に入っていなかったらしい。 そこで「それじゃB面はオレの好きに作らせてくれ!」と、交換条件を出したのだ。 面白いのはここからだった。 ムッシュは当時のことをこんな風に述懐している。 その当時、僕はフェイセスが好きで、ロッド・スチュワートを気取っていたから「我が良き友よ」の“ゲタ履いて腰に手ぬぐいぶら下げて”っていう詞を歌うのにすごく抵抗があったわけ。 じゃあB面は自分がやりたいことをやるんだってことになってね(笑) そんな啖呵を切りつつも…実際のところ曲も作っておらず「さて、何をやろうか?」という状態だったらしい。 その頃ちょうどアメリカのファンクバンドの至宝、タワー・オブ・パワーが来日していることを聞きつけたムッシュは、ダメもとで「オレの新曲のバックの演奏をしてくれないか?」とオファーしたという。 本人も驚くくらいにあっさりと快諾の返事をもらい、トントン拍子で作業に取りかかることになる。 「レコーディングは明日か明後日」ということになり、その時点では曲も歌詞もできていなかったので慌てて“それらしいコード進行”をバンドに渡したという。 レコーディングは明後日からというのに曲なんかないわけ(笑) しょうがないから、眠っていても勝手にできるようなコード進行を書いて渡して、そのオケを聴きながら「ここからここの部分は歌ね」ってメロディーを作って(字余りなんか気に..
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酒とバラの日々〜アルコールに溺れてあらゆるものを失う男と女の物語

『酒とバラの日々』(Days of Wine and Roses/1962)は、アルコールに溺れた夫婦が何もかもを失いながらも、最後の一滴のような愛を見つけ出して、必死に現実と未来に向き合おうとする姿を描いた名作だった。 酒や薬物やギャンブルに過度に溺れ、葛藤と苦悩を繰り返す人間の姿──これまでTAP the SCENEで紹介してきた映画の中にはそんなシーンがたくさんあったことに気づく。 例えば酒一つとっても、『バーフライ』の作家は酒のせいで都会の掃き溜めで才能を浪費する日々を送っている。『クレイジー・ハート』のミュージシャンは酒による失敗で運命の女性から愛想を尽かされる。そして『リービング・ラスベガス』の脚本家は、すでに覚悟を決めて死ぬために飲み続けていた。モンマルトルのボヘミアンたちのように禁断の酒アブサンに浸りながら芸術作品を生み出した時代と違っていたのは、登場人物たちがみんな孤独だったということだ。 自己嫌悪に陥るたびに、自己再生を誓う姿。にも関わらずそれを得るためなら周囲に嘘をつき、自分を哀れみ、正当化し、大切な人を裏切る姿。仕事や金を失い、家庭やロマンスを失い、時間と健康を失い、信頼と未来を失い……得るものといえば、卑劣な思考と悪夢のような幻覚、そして人生に対する不安だけだ。 経験したことのある人なら分かるだろう。これは暗闇の中をずっと手探りで浮遊しながら彷徨うようなものだ。そこから抜け出す方法はただ一つ。光を見たければ、結局は「こんなことに屈してはならない」という自らの意思で壁をぶち壊すしかない。なぜならそこは出口のない迷路。圧倒的な孤独な世界。人間的成長が一時停止されている状況下では、他人の人生のナビゲーションなどBGMにしか聞こえない。 『酒とバラの日々』の主人公、ジョー(ジャック・レモン)の仕事はPR会社のサラリーマン。PRと言っても名だけで、実際は担当するアラブの石油会社の王子たちのために船上パーティを開き、プロの女の子たちを供給するのが役割の日々。「企業がいいことをしたらそれを広めるのがPRの仕事」と説明できるが、「悪いことをしたら?」の問いには思わず言葉が詰まってしまう。独身でパートナーもなく、都会の生活で仕事にもロマンスにも満足していない。だから酒の量が増えている。 ある夜、大会社の秘書カーステン(リー・レミック)をエスコートクラブのプロ..
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カーティス・メイフィールドを偲んで〜ソウルミュージック史上最高の天才と言われた男の少年時代からソロデビューまでの足跡

1999年12月26日、ソウルミュージック史上最高の天才と言われたカーティス・メイフィールド(享年57)がジョージア州アトランタ郊外にあるロズウェルの病院で死去した。 死因について関係者からの直接的な発表はなかったが、晩年は健康状態がかなり悪化していたと言われている。 1990年、当時48歳だった彼はニューヨークでのコンサートのリハーサル中に照明機材の下敷きになるというアクシデントで、首から下がマヒする大怪我を負い、車椅子の生活を余儀なくされる。 病院の医師の話によれば、その後糖尿病の進行により亡くなる一年前には片足を切断する手術を受けていたという。 1942年、彼はイリノイ州シカゴで生まれた。 多くのソウル系アーテイストたちがそうであるように、彼も幼い頃から教会の聖歌隊で歌っていたという。 彼の祖母は教会の説教師でゴスペル歌手だったこともあり、彼にとって教会は音楽活動の原点となった。 「私は祖母の影響で7歳の頃からゴスペルに触れていたんだ。当初は従兄弟たちや伯父と一緒にザ・ノーザン・ジュビリーズという名前のグループで歌っていました。聖職者だった祖母は“トラヴェリング・ソウル”という名前で知られていました。幼い頃に教会で聴いた音楽や聖書の言葉は私の基礎となりました。」 母親はクラシックからR&Bにいたるまでありとあらゆる音楽を好む人で、彼はゴスペルだけではなく様々な音楽に触れながら成長してゆくこととなる。 学校に通うようになり、幼い頃から歌ってきたゴスペル(宗教音楽)と地元の仲間たちとR&B(世俗音楽)を同時進行で歌い始めた彼に、大きな転機が訪れることとなる。 1957年、15歳になった彼は聖歌隊で知り合い意気投合したジェリー・バトラーとインプレッションズを結成する。 ジェリー・バトラーを中心にカーティス・メイフィールド、サム・グッデン、リチャード・ブルックス、アーサー・ブルックスの5人組みのグループで、1958年に発表したデビュー・シングル「For Your Precious Love」がいきなり大ヒットし、当時の主流だったR&Bコーラスグループの中でも頭一つ抜けた存在となる。 この頃グループ内において彼は、リードのジェリー・バトラーを引き立てる黒子役で、それほど重要なポジションではなかった。 彼が存在感をあらわしてきたのは、グループの大黒柱だったジェリー・..
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なかにし礼が失意の底で遺言歌として書いた「さくらの唄」は美空ひばりの絶唱となったが‥‥

美空ひばりの27回忌を迎える前の日、東京・港区にある日本コロムビアのスタジオで、マスターテープから起こしたばかりの状態にあるハイレゾ音源で、名曲の数々を聴かせていただく機会に恵まれた。 これまで経験したことのない最高レベルの状態で聴いた歌声の数々のなかでも、とりわけ素晴らしかったのが1976年に録音された「さくらの唄」だった。 当時はアナログ・テープを使ったレコーディングの技術が完成の域に達していたので、24bit/96khzのハイレゾ音源はマスターテープに録音されていた音を、ほぼ完全に再現していたのだ。 ハイレゾでよみがえった美空ひばりの「さくらの唄」が誕生して後に、レコーディングに至るまでのエピソードをお届けしたい。 作詞家のなかにし礼は1970年代に入ってまもなく、実の兄の莫大な借金をまるごと抱え込んで失意の底に沈んでいた。 逃げ出すことができない現実のあわれな自分の身代わりに、もう一人の自分をあの世に送り出すための唄、いわば遺言として書いたのが「さくらの唄」だという。 曲を頼まれた三木たかしは作った作品に惚れこんで、それを自らが歌ってレコードにして発表した。 そこまでするほどその歌に対して、強い思い入れがあったのかもしれない。 だがあまりにも感傷的な歌い方だったせいか、レコードは全くといっていいほど売れなかったという。 それからだいぶ月日が流れてそんな歌があったことを誰もが忘れた頃になって、その歌を耳にしたのがTBSの演出家だった久世光彦である。 「なぜか聴くたびに泣けてしまう」とこの歌に惚れ込んだ久世は、世の中に受け入れられずに眠っていた歌を何とかして蘇らせようと考えた。 そして美空ひばりに歌ってもらおうと思いついた。 そのためには歌を聴かせる場が必要なので、歌と同じタイトルの連続ドラマ『さくらの唄』を企画する。 この歌だけは泥水を飲んだことのない人には歌えないし、歌って欲しくないと思ったのである。 生きている日々の中で、顔も上げられないくらい恥ずかしい思いを幾つも重ね、重ね重ねた恥の数がとっくに年齢(とし)の数を越え、それでもまだ懲りないで、という厄介な奴が伏し目がちに歌ってくれてはじめて「さくらの唄」はほんのりと匂うのである。 ちょっと大袈裟に言えば、この歌は地獄を覗いて、そこから命からがら、這うように逃げかえった卑怯未練の歌なのである。 ドラマ..
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LIFE!〜人生で遭遇する“あの瞬間”と偉大なるクレイジーな人たち

映画『LIFE!』(THE SECRET LIFE OF WALTER MITTY/2013)は、2010年代に公開された映画の中でも極上の1本であることは間違いない。実に味わい深くて、観る者を幸せで優しい気持ちにさせてくれる。原作は1939年に書かれたジェイムズ・サーバーによるわずか12ページの短編で、1947年のハリウッド映画『虹を掴む男』のリメイクだが、監督・主演のベン・スティラーのフィルターを通して、まったく新しく見応えのある人間ドラマとなった。 いい映画というのは、その人にとって何度も観たいと思わせる強い力を持っている。そして観終わった後に訪れる余韻。しばらくその物語のことを考え、自分の生活や人生の活力として生まれ変わってくるような作品だ。その場だけ楽しめるような大予算超娯楽映画やTV局や広告代理店主導の製作委員会方式の映画をすべて否定するつもりはないが、それでもこういった映画の前では何の力も意味も持たないことが分かる。 雑誌『LIFE』の写真部に管理係として16年間勤務している42歳のウォルター・ミティ(ベン・スティラー)。独身の彼は密かに職場の同僚でシングルマザーのシェリル(クリスティン・ウィグ)に恋心を抱いていて、ネットの恋人紹介サービスを利用しているのも彼女が登録しているからだ。 しかし、内気な彼にはプロフィールに書き込むような体験談や冒険談が何一つない。少年時代に地元のスケートボード大会で優勝して新聞に載った程度で、最近は自分がヒーローだったらと妄想ばかりしている。告白する資格もないと気落ちするばかりか、年老いた母親(シャーリー・マクレーン)の施設の保証金や生活費に頭を悩ます毎日でもある。 そんなある朝、通勤したウォルターに時代の現実が突きつけられる。ネット企業による出版社買収とデジタル化の知らせだった。これにより80年もの歴史ある雑誌は廃刊。今後はWeb版のみでの運営になるという。 自分も真っ先に対象に入ったリストラも始まる中、写真部のウォルターには最終号の表紙写真用のネガを探さなければならない大仕事が与えられる。というのも、大物写真家ショーン・オコンネル(ショーン・ペン)から「LIFE誌の真髄がそこにある。最終号はその写真を絶対に使ってくれ」とメッセージがあったからだ。 だがそのネガはどこにも見当たらない。金儲けのことしか頭にないネット企業の..
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ジェームス・ブラウン/最高の魂(ソウル)を持つ男〜伝説の裏に隠された真実と友情

「ゴッドファーザー・オブ・ソウル」「ファンキー・プレジデント」「ショービジネス界一番の働き者」「ソウル・ブラザー・ナンバー・ワン」などの愛称で知られるあの「JB」こと、ジェームス・ブラウンの伝記映画『ジェームス・ブラウン〜最高の魂(ソウル)を持つ男』(Get on Up/2014)。 ライブシーンが圧巻のエンターテインメント作品というだけでなく、これまでの数々の伝説の裏に隠された真実が描かれつつ、一人の苦悩する男の人間ドラマとして実に見応えあるストーリーとなった。 ジェームス・ブラウンは、俺にインスピレーションを与えてくれた。たくさんのことを彼から学んだよ。彼の動きを真似るということではなく、彼の態度、仕事ぶり、そうしたものを学んだ。彼が成し遂げたことを尊敬している。彼の伝記映画の作り手となれて光栄だ。 プロデューサーの一人としてローリング・ストーンズのミック・ジャガーが参加。監督はテイト・テイラー。16歳から63歳までのJBを演じるのはチャドウィック・ボーズマンで、独自のダンスやシャウト歌唱、南部訛りの話し方、派手な衣装や髪型、スプリット(股割り)まで見事に再現していて凄い。そしてダン・エイクロイドがマネージャー役で出演している。映画はジェームス・ブラウンの音楽を知ったうえで観ると当然何倍も楽しめる。 1956年に「Please, Please, Please」でデビュー。その後「Try Me」などのR&B/アーリーソウル・バラードを連発していくが、決定的なヒットには恵まれなかった。しかし、1962年にアポロ劇場でのライブ録音をレコードにするアイデアを思いつき、会社が反対したために自費で制作したところ、これが大ヒット。「誰かのやり方を追ったり従うのではなく、自分の道は自分で切り開く」信念が本格化する。 1964年にはファンキー・ソウルの出発点である「Out of Sight」、翌年には「I Got You (I Feel Good)」や「Papa’s Got a Brand New Bag」などをリリース。同時代に一大勢力となっていたモータウンのノーザン・ソウルに唯一対抗できるサウンドと言われた。 「It’s a Man’s Man’s Man’s World」「Cold Sweat」「Say It Loud – I’m Black and I’m Proud..
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Xmasがやってくる〜恋とブルーにこんがらがって

ローリング・ストーン誌『The 500 Greatest Albums of All Time』において、女性ソロ・アーティスト最高位(30位)に選ばれたアルバム『Blue』(1971年)。 恋多き女、ジョニ・ミッチェル27歳の頃の作品だ。 その名盤に収録された「River」は、Xmasソングの“隠れた名曲”として知られている。 ジングルベルに似せたピアノのイントロから滑り出す珠玉のメロディ。 そこには、聖夜を迎える数週間前に失恋をした彼女の“女心”が歌われていた。 もうすぐクリスマス 木を切り倒す人々 トナカイを飾り付ける人々 そして、歓喜と平和の歌を歌っている ああ、滑っていける川があればいいのに… 画家としての才能も発揮していた彼女は、この『Blue』というアルバムをキャンバスに見立て、自由で複雑難解な女心をリリカルに歌い描いた。 その鮮烈な青(ブルー)の魅力は、ボブ・ディランをもいたく刺激し、彼に「Tangled Up in Blue(ブルーにこんがらがって)」という曲を書かせたほどだ。 彼を泣かせてしまったのは私 彼にサヨナラを言わせたのも私 私を淫らに愛してくれた彼 膝がガクガクするほど… 川はどこか遠くから流れて来て、彼方へと流れて行く。 恋もいつのまにか始まり、いつの日にか色褪せて行く。 時として激しく、そして、ゆるやかに…すきとおったり、にごったり。 ここでの「川」は、彼女にとっての「時」のようにも聴こえてくる。 時間をさかのぼりたい、時間を進めてしまいたい、という切ない女心なのかもしれない。 ♪「River」/ジョニ・ミッチェル この時期つかえる“Xmas雑学”をちょこっと。 それは12月25日にイエス・キリストの降誕を祝うキリスト教の年中行事。 一説によると、キリスト教伝来以前にゲルマン人やケルト人が盛大に祝っていた冬至の祭が起源で、これと結びついたのではないか?とも言われている。 記録によると、日本で最初にXmasが祝われたのは戦国時代。 ザビエルが日本にキリスト教を伝えた3年後の1552年、山口県で行われた礼拝が最初。 当時はキリスト教の“隣人愛の精神”にのっとって、Xmasには貧しい農民への寄付や救済が行われていたという。 その後、1612年に出された禁教令を皮切りに日本は鎖国。 長崎など一部の外国人居留地をのぞいて、Xmasは..
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