2021-01

未分類

これが本当の80年代サウンド⑥〜忘れられたヒット曲にもう一度スポットライトを

80年代の洋楽をまとめたネットコンテンツやラジオ番組や雑誌には、いつもお決まりのアーティストやヒット曲だけがラインナップされている。それは同時代のコンピレーションがリリースされても同じこと。今回の企画はそんなありきたりの選曲ではなく、聞くだけで(観るだけで)「ああ! いた!! あった!!」と歓喜するようなアーティストやヒット曲を思いつくままに集めてみた。題して「これが本当の80年代サウンド」。そろそろマドンナやマイケル・ジャクソンの呪縛から解放されよう。ドライブや通勤タイム、懐かしの音源探しに活躍すること間違いなし。(選曲/中野充浩) アラーム「68 Guns」(1983年・全英17位) アイルランドのU2と比較されることもあったウェールズ出身の硬派ロックバンド。1983年にEP『The Alarm』でデビュー。翌年には代表作の一つ『Declaration』をリリース。収録された「68 Guns」がヒット。アルバムは長年入手困難だったが、最近になって無事再発。久しぶりに聴くと胸が熱くなった。 スミザリーンズ「Strangers When We Meet」(1987年) ニュージャージー出身のバンド。インディーズシーン/カレッジチャートから飛び出し、この美しい曲を含むアルバム『Especially for You』で1986年にデビュー。R.E.M.が切り拓いた次世代のロックとして期待された。バンドのフロントマンであり、ソングライターのパット・ディニジオは、2017年12月に62歳で亡くなった。 マレー・ヘッド「One Night in Bangkok」(1984年・全米3位) ABBAのビョルン・ウルヴァースとベニー・アンダーソンが作曲、ティム・ライスが作詞を担当したミュージカル『チェス』の上演に伴ってリリースされたコンセプトアルバムに収録されていたナンバー。マレー・ヘッドは、1970年のロックミュージカル『ジーザス・クライスト・スーパースター』で「Superstar」を歌っていた人。 ファルコ「Rock Me Amadeus」(1985年・全米1位) 瞬発的に大ヒットしたアメリカ以外の曲の中でもこれは有名。オーストリアのウィーン出身のこのアーティスト名を忘れていても、曲を聴けばなぜか一発で思い出す。前年にアメリカでは映画『アマデウス』がアカデミー賞作品賞に輝..
未分類

ビッグ・メイベルを偲んで〜アレサ・フランクリンなど後進のソウルクイーン達にも多大な影響を与えた歌姫の功績と軌跡

1972年1月23日、女性R&B シンガーのビッグ・メイベルがオハイオ州クリーヴランドで糖尿病のため死亡した。 若い時代から薬物問題を抱えつつも…47年間の短くも華やかな歌手人生を全うしたという。 あのジェリー・リー・ルイスが長年に渡って“十八番(おはこ)”にしてきた名曲「Whole Lotta Shakin’ Goin’ On」のオリジナル録音(1955年)をした歌手として知られる彼女は、死後27年経った1999年にグラミー賞を受賞。 その巨体をいかした迫力のシャウト、そして多彩な表現力と豊かな歌声で、アレサ・フランクリンなど後進のソウルクイーン達にも多大な影響を与えたと言われている。 1925年にテネシー州ジャクスンで生まれた彼女は、10歳の頃に教会で歌っているところをDave Clark’s Memphis Band のバンドリーダー、デイヴ・クラークによって発掘される。 翌1936年、同バンドに加入。 その後、The Sweethearts Of Rhythmというバンドで経験を積み、1944年、彼女は19歳の若さでデッカレコードと契約を結ぶ。 初めてのレコーディングは、クリスティン・チャットマン(Christine Chatman)というバンドを従えてのことだった。 1947年、22歳になった彼女はキングレコードからでソロ名義でレコードを発表。 27歳を迎えた1952年には、CBSレコードの傘下であるOkeh(オーケー )レーベルと契約を結ぶ。 同年、ソングライターのローズ・マリー・マッコイとパートナーを組んだ「Gabbin’ Blues」を発表し、スマッシュヒットを記録する。 Okeh(オーケー )レーベルからSavoy(サヴォイ)レコードへ移籍した後、1956年に発表した曲「Candy」がキャリア最高位の売り上げを記録する。 1959年にはニューポート・ジャズ・フェスティバル(Newport Jazz Festival)を記録した映画『Jazz on a Summer’s Day』にも登場し、彼女の名は世界中の音楽ファンに知れ渡ることとなる。 1950〜1960年代、黒人ミュージシャンが演奏するクラブにおいて彼女はまさに“スター的存在”だった。 情緒的なバラードから明るいブギ、時にはコメディタッチの歌まで、あらゆるパフォーマンスをこなす彼女の歌声..
未分類

“洋楽初心者”を心から祝福してくれた80年代の『ミュージック・ライフ』

「音楽に本格的に目覚め始めたのは?」と訊かれた時、多くの人は「中高時代かな」と答えるかもしれない。それまでTVのベストテン番組で「歌謡曲」や「ニューミュージック」に慣れ親しんでいた少年少女が、ある日をきっかけに「洋楽」に魅せられていく……これは現在のように、ネットやSNSでの情報収集やコミュニケーションがまだなかった時代の話だ。 「洋楽デビュー」のきっかけは1981年、中学1年の時のクラスメイト。音楽一家で育った彼は母親がピアノの先生ということもあり、みんながアイドルに夢中になっていた頃、すでにYMOやイージーリスニングを愛聴していて、仲良くなった自分にその魅力を話してくれたのだ。 次第に近藤真彦や松田聖子より、坂本龍一やシャカタクの名の方がメジャーになっていった。ステレオの使い方、ギターの弾き方、テープのダビングのやり方を教えくれた友人は、放送部に入って好きな音楽だけを学校の昼休みにかけ続けた。 そんな少年たちが「洋楽」の扉を叩くのは当然のこと。1983年にはもうYMOすら聴かなくなっていた。その年、マイケル・ジャクソンの『スリラー』や『フラッシュダンス』が世界的ヒット。MTVにはカルチャー・クラブやデュラン・デュランが頻繁に映り、シンディ・ローパーとマドンナがデビューした。そしてポリスの『シンクロニシティ』やLAメタルのクワイエット・ライオットのアルバムがナンバーワンになった。すべて1983年の出来事だ。 この頃になると、輸入レコード店、ライナーノーツ、ラジオ番組『ダイヤトーン ポップスベストテン』、『FMファン』や『FMステーション』といったFM情報誌、『ベストヒットUSA』や『SONY MUSIC TV』などの深夜番組、あるいは大学生の家庭教師や年上の親戚のお兄ちゃんまで、「洋楽」の情報源はそれなりに出揃っていた。 待っていても何も来ない。ならば自ら取りに行く。時間を掛けて手に入れた情報には、今と比べものにならないくらい愛着があり、思い入れも深かった。 中でも雑誌『ミュージック・ライフ』(シンコー・ミュージック発行)は、月に一度のお楽しみ。誌面は10代を中心とした若い世代の洋楽ファンに向けて作られているが、英米アーティスト混在の情報量の多さやバラエティに富んだコーナー作りで限りのない世界が広がっているように思えた。 今風に言えば、コンテンツが豊富。めくってい..
未分類

あのバンドや歌手のアルバム売上枚数は?〜セールスランキングTOP 30発表

2000年代半ば以降、ダウンロード購入による単曲買いやストリーミングサービスや動画サイトが基準化し、「アルバム不況」と呼ばれる時代に突入した。そんな状況の中、2011年2月にリリースしたアデルの『21』は音楽賞を総ナメ。チャートの記録を塗り替えるだけでなく、全米で1400万枚以上/世界で3000万枚以上をセールスするという“異変”を起こした。 アデルの歌には時代や世代を超える魅力があることは確かだ。今回はそれに因んで、RIAA(全米レコード協会)が発表する「アルバムセールスにおけるアーティスト・ランキング」(あのアーティストはアメリカでどれだけアルバムを売っているか)を振り返ってみたい。 まずは30位〜21位まで。 ㉚ 4650万枚 アラバマ、エミネム ㉘ 4750万枚 ケニー・ロジャース ㉗ 4800万枚 ジャーニー、ケニー・G、シャニア・トゥエイン ㉔ 4950万枚 ニール・ダイアモンド ㉓ 5000万枚 セリーヌ・ディオン ㉒ 5100万枚 U2 ㉑ 5450万枚 フリートウッド・マック 90年代の女性アーティストで最もCDを売った一人であるシャニア・トゥエイン、80年代のスーパースターであるケニー・ロジャースやアラバマといったカントリー勢。ジャーニー、マック、U2など各時代を代表するロックバントがランクイン。再結成ツアーを実施したフリートウッド・マックは新作が待たれる。その他シャニアと並ぶ90年代の歌姫セリーヌ・ディオン、日本では馴染みの薄いニール・ダイアモンドやケニー・Gといった顔ぶれも。2000年代のスーパースター、エミネムのランクインも凄い。 続いては20位〜11位まで。 ⑳ 5650万枚 ヴァン・ヘイレン ⑲ 6000万枚 ホイットニー・ヒューストン ⑱ 6300万枚 メタリカ ⑰ 6450万枚 マドンナ ⑯ 6550万枚 ブルース・スプリングスティーン ⑮ 6650万枚 ローリング・ストーンズ、エアロスミス、マライア・キャリー ⑫ 6850万枚 バーブラ・ストライサンド ⑪ 6900万枚 ジョージ・ストレイト 1000万枚以上のベストセラー作を保持する顔ぶれが並ぶ。ヴァン・ヘイレン、メタリカ、エアロスミスといったハードロック勢、あるいはホイットニー、マライア、マドンナといった同時代の歌姫たちがランクイン。カントリーのジョージ・ストレイトは80年代か..
未分類

ティファニーで朝食を〜名曲「ムーン・リバー」を歌ったオードリー・ヘプバーン主演作

その印象的なタイトル、そしてオードリー・ヘプバーン主演作として知られ、映画ファンをはじめ今も多くの人々から愛され続ける『ティファニーで朝食を』(Breakfast at Tiffany’s/1961)。 ヒロインのホリー役には当初セクシーで色気漂うマリリン・モンローという話もあったが、娼婦という設定に女優生命に傷がつくという理由で断られてしまう。そこで今度はオードリーにこの役がまわってくるのだが、彼女はモンローとは真逆の可愛らしく気品がある妖精のようなイメージ。 こちらも当然のように代理人からは難色を示されるが、1958年に発表されたトルーマン・カポーティの原作小説を映画用にアレンジした独自のストーリーが魅力を放ったこともあり、結果的に30歳代に突入したオードリーのキャリアを磨くことに成功した。 この映画の名シーンと言えば、何よりもあの冒頭の光景を思い浮かべる人が多い(上画像)。早朝、NY5番街のティファニー本店前でコーヒー片手にクロワッサンを頬張るオードリーの姿に、ヘンリー・マンシーニの甘美なメロディ「ムーン・リバー」が重なるあのシーン。 長い映画史に残る秀逸なオープニングだ。これだけで『ティファニーで朝食を』はロマンチック・コメディのクラシックに到達したと言っても過言ではない(ちなみにこのシーンは撮影初日に撮られた)。舗道に立つのは、オードリー・ヘプバーンでなければならなかった。 ミッキー・ルーニー演じる日系人の滑稽な描写が人種差別的だとして物議を醸し出した時期もあったが、ティファニーでわずか10ドルの買い物をしようとするところ、NY近辺の840匹から選ばれた“名前のないネコ”との数々の絡み、そして窓辺でギターを弾きながら「ムーン・リバー」を歌う……今ではそんなことは気にならない。 漂う二人 世界を見ようと 胸をはずませて 共に追う 遥かな虹 その河の角に待つ 幼い想い出の友 ムーン・リバー 心の夢 名曲「ムーン・リバー」(ジョニー・マーサー作詞/ヘンリー・マンシーニ作曲)を一度も耳にしたことのない人はいないだろう。映画会社の重役は試写を観て、あろうことか窓辺の歌唱シーンをカットしようと提案。オードリーは「そんなの許さないわ!」と強く抵抗したという。なのでサントラ盤を入手する際は、ぜひオードリーの歌声が入っているバージョンを。 物語は、NYの同じアパートに住..
未分類

ジェリー・マリガンを偲んで〜バリトンサックスを相棒に“ジャズ人生”を見事に全うした男の足跡

作家の村上春樹は著書の中でジェリー・マリガンについてこんな風に綴っている。 たしかレコードジャケットの写真で最初に彼の姿を目にしたとき、なんだかひどく眩しく感じたことを憶えている。 金髪をクールカットにした長身の青年──アイヴィースーツをばっちり着こなし、白いボタンダウンシャツに、黒の細身のニットタイという格好だった。 どことなく頑固そうな角張った顎と、若々しい淡いブルーの瞳。 手にはピカピカと光る巨大なバリトンサックス。 そこにあるすべてがスマートで、クリーンで、クールだった。 <引用元『ポートレイト・イン・ジャズ』(新潮文庫)/村上春樹・和田誠著> 彼の人生は決してスムーズなものではなかった。 むしろ他のミュージシャンよりも険しく、困難だったと言えるだろう。 麻薬、生活苦、精神的挫折…そして刑務所に入った経験もある。 しかし彼はバリトンサックスという楽器をパートナーとして、自身の人生を見事に全うした。 1996年1月20日、膝の外傷が元でコネチカット州ダリエンにて死去。68歳だった。 彼が長年愛用した金色のバリトンサックスは、現在、アメリカ議会図書館に保管されているという。 彼亡き後、ジャズファンたちはこんな風に評価している。 「もしもマリガンがいなかったら…ジャズ界におけるバリトンサックスの位置づけは変わっていたかもしれない」 ジャズ界では数少ないバリトンサックス奏者であり、ピアニストしても活躍した男、ジェリー・マリガン。 命日にあたる今日は、彼を偲んでその軌跡と功績を振り返ってみたいと思います。 ──1927年4月6日、彼はニューヨークのクイーンズ区で生まれる。 エリー鉄道に勤務していた父の仕事の都合で、幼い頃にオハイオ州のマリオンという街に移り住む。 10代で作曲活動をスタートさせ、18歳で参加したエリオット・ローレンス楽団を皮切りにジーン・クルーパ楽団、クロード・ソーンヒル楽団などでバリトンサックスと作編曲で活躍するようになる。 ソーンヒル楽団で知り合ったギル・エバンス(ユダヤ系カナダ人のジャズピアニスト・編曲者)との縁からマイルス・デイヴィスが1949年に発表した歴史的名盤『Birth Of The Cool(クールの誕生)』に参加。 彼は単なるプレイヤーにはとどまらず、ここでも作編曲の才能を見せて一躍その名を轟かせた。 1952年、25歳となった彼..
未分類

ピート・タウンゼンド〜真冬のコテージで綴り始めた『四重人格』

1973年初め。暗く冷たい、冬の週末の夜。 27歳のピート・タウンゼンドは自宅のコテージに一人座り、逆巻く川や隙間風の音を聞きながら記憶の旅に耽っていた。ここ数ヶ月もの間、家族や友人、バンドとステージにいる時でさえ、新しく生まれつつある“音楽と物語”のことが頭と心から離れない。しかし、今夜は違った。 1964年。私はアートスクールの友人と一緒に、ブライトンの桟橋の下で数時間眠ったところだった。友人の名前はリズ・リード。ストロベリー・ブロンドの可愛い子だった。 突如として、19歳だったあの日が蘇ってきた。二階には妻や子供たちが眠っている。ピートはノートをつかむと、何かに取り憑かれるように走り書きを始めた。この悲しくロマンチックな気持ちのまま綴りたかった。ジミーという名のモッズ少年の物語。ロックオペラ『四重人格』の誕生だ。 それは海岸でモッズとロッカーズの乱闘が起きた夜でもあった。まだ暗い中、しょぼしょぼと降る雨を避けながら桟橋の下の浜辺を歩いていると、モッズの一団と出くわした。私たちは一緒になってしばらく腰をおろした。みんな、当時流行していたアッパー系のドラッグ、パープル・ハーツから醒めようとしているところだった。 私たちは恋に落ちていた。なのに私はその後、リズとはデートなどしなかった。ただの一度も。彼女と一緒にいた時間は、あのときのまま静止し、高められ、私にとって永遠に特別なものとなった。 ピート・タウンゼンド。ザ・フーのギタリストであり、バンドのほとんどの曲を生み出すソングライター。ステージに立つと「怒れるゴロツキ」となって、風車のように腕を回すウインドミル奏法や跳躍と破壊のパフォーマンスで観客を魅了する男。 ザ・フーが持つ様々な表情──ハードな「My Generation」、ポップな「The Kids Are Alright」、バラードの「So Sad About Us」といったナンバーを量産したマキシマムR&B/モッズバンド時代。モンタレー、ウッドストック、ワイト島、リーズでは史上最高のライブバンドとして伝説化。ロックオペラ『Tommy』の知的な文学性。シンセサイザーをロックに取り入れた『Who’s Next』の開拓。ピート・タウンゼンドは26歳までにこれらのことすべてをやり遂げてしまった。 しかし、一方でロックスターにはつきもののドラッグやアルコール..
未分類

デビルズ・ファイヤー〜“悪魔の音楽”と言われたBLUESの魔力とは?

2003年。アメリカでは「BLUES生誕100年」と称して、CD・書籍・番組・ラジオ・コンサートといったメディアミックスを通じて“魂の音楽”を伝えるプロジェクトが展開された。中でも音楽ドキュメンタリー『THE BLUES』は、総勢7名の映画監督が様々な角度から“魂の音楽”をフィルムに収めて大きな話題を呼んだ。 今回紹介するのは『デビルズ・ファイヤー』(Warming By The Devil’s Fire/チャールズ・バーネット監督)。“悪魔の炎で暖を取る”はシリーズ唯一のドラマ形式で、ミシシッピへやって来た11歳の少年がブルーズに取り憑かれた叔父と過ごす日々を通じて、ブルーズの真髄や黒人のアイデンティティに目覚めていくというもの。聖と俗の関係がこの作品のテーマ。 「ブルーズはあらゆる感情をカバーする。人がブルーズを聴くのは、それが本能との折り合いをつけさせてくれるからだ」と、ミシシッピで少年時代を過ごした監督のチャールズ・バーネットは言う。戦前ブルーズを取り巻く環境は、南部の人種差別、刑務所の強制労働、農園での重労働、搾取、貧困、暴力、犯罪、殺人、セックス、愛の喪失、放浪、死などが交錯する。 例えば、あのロバート・ジョンソンにギターを教えたことでも知られる伝説のミシシッピ・デルタ・ブルーズマン、サン・ハウスは、こんなことを言っている。 ブルーズは人が思うようなオモチャじゃない。最近の若い奴らは何でも素材にしてブルーズを作る。何とかブルーズとか。違うんだ。ブルーズは一つしかない。それが生まれるのは恋する男女の間だけだ。二人が愛し合っているはずの状態で、どちらか一人がもう一人を振る。愛を裏切る。何があってもおかしくない。心の問題だ。それがブルーズだ。人は孤独な気分からブルーズになる。一人寂しく腰を下ろし、頭を抱えて涙を流す。そんな荒んだ心がブルーズを生むんだ。 物語の舞台は1950年代。ブルーズは悪魔の音楽。最初は母親の教えに忠実でありながらも、叔父に連れられてその目でいろんな風景や人物──ミシシッピ川、叔父の女たち、盲目のブルーズマン、酒場、深夜の十字路、息子に会いに刑務所まで長い道のりを歩く老人──と接していくうちに、ブルーズに目覚めていく少年の姿と眼差しが忘れられない。 ブルーズに関する物語を執筆しているという叔父の汚い部屋は、ブルーズマンの切り抜きやSP盤..
未分類

T2 トレインスポッティング〜“どうしようもない奴ら”が未来を選んで大人になるということ

前作は若さの祝福だった。本作は大人になるということ。またいかに僕たちはそれに対処するのが下手か、についての映画だ。そして子供がいるということ、いないこと。もしくは父親たちに失望させられる子供たちの物語だ。 日本でも4月8日に劇場公開された映画『T2 トレインスポッティング』は、ある世代のための映画のように思える。それは20代の多くを1990年代に過ごし、30代をゼロ年代、そして10年代は40代として生きている世代。 1993年に出版されたアーヴィン・ウェルシュの小説『トレインスポッティング』がダニー・ボイル監督によって映画化されたのは1996年。当時のイギリスはブリット・ポップやクラブ・カルチャーの全盛期。この映画も大ヒットした。 日本(とりわけ東京)では渋谷のミニシアターの記録を塗り替え、渋谷系な人々を中心にファッションやストリートカルチャーにも多大な影響を与えた。何よりも『トレインスポッティング』に登場する“どうしようもない奴ら”の言動が、バブル崩壊後の不景気感、オウム事件などが漂わせる世紀末感に覆われた東京の風景ともどこかシンクロしていた。元気だったのはコギャルの女子高生くらいだ。 『T2 トレインスポッティング』(T2 Trainspotting/2017)は、前作から20年後の“どうしようもない奴ら”の姿を描いた続編。イギリスでは1月に公開され、相変わらずチャンスと裏切りに振り回される登場人物たちに絶賛の嵐。舞台はスコットランドのエディンパラ。20代半ばだった彼らは、40代半ばになって“再会”。 レントン(ユアン・マクレガー) 20年前、4人で手に入れた大金を持ち逃げしてオランダのアムステルダムに渡った。ドラッグと縁を切り、ジムで汗を流すような人間に変わっていたと思いきや、急性肝不全を患い、結婚生活や仕事も破綻。自分を取り戻すために、過去の件を清算しようと、故郷エディンバラへと戻って来る。 シック・ボーイ(ジョニー・リー・ミラー) 母親から継いだ潰れかけのパブを経営する裏で、金欲しさにパートナーのヴェロニカと組んで、金持ち相手に売春現場の恐喝を繰り返す日々。ビジネスを拡大するため、アダルトサウナへの進出を見計らっている。レントンとの腐れ縁でそれが現実に動き始める。 スパッド(ユエン・ブレムナー) 相変わらずジャンキー。妻子とは別居中。自殺を試みている最中..
未分類

挫折を知る者の歌〜それはスポットライトではない〜

器用には生きれない人。 挫折を味わったことのある者だからこそ唄える“歌”がある。 彼等だけが知っている。 本当の優しさ、本物の強さを。 そして“あの光”の正体を。 2010年1月17日、浅川マキは心不全でこの世を去った。享年67。 「アングラの女王、逝く」と、翌日の新聞に訃報記事が小さく載った。 もしも光がまたおいらに…当るならそれをどんなに待ってるさ ずっと以前のことだけれどその光に…気付いていたのだが逃がしただけさ だけどふたたび、いつの日にか…あの光がおいらを照らすだろう 1976年、当時33歳だった浅川マキが「It’s Not The Spotlight」という曲を日本語詩で歌った。原詞は“スポットライトみたいに輝く瞳の彼女と別れてしまった〜でもまたいつか彼女とよりを戻したい”という内容の未練節。彼女は、それを自己流に訳し“永遠に失ってしまったもの〜輝いていたあの頃の光”として、器用には生きれない男の心情を歌に込めた。 さかのぼること三年…その曲はアメリカで誕生した。キャロル・キングの元夫でもあるジェリー・ゴフィンと、敏腕セッション・キーボーディストのバリー・ゴールドバーグによって共作された。ジェリー・ゴフィンのアルバム『It Ain’t Exactly Entertainment』(1973年)に収録されたのが初出。 翌年、ボブ・ディランのプロデュースによってバリー・ゴールドバーグが発表したアルバム『Barry Goldberg』(1974年)にも収録された。 程なくして、英国の人気ロックアーティスト、ロッド・スチュワートが本格的アメリカ進出を賭けて発表したアルバム『Atlantic Crossing』(1975年)の中でカバーし、広く知られるようになる。 その翌年に浅川マキが歌った日本語詩は、こんな風に続く…。 あの光そいつは…古びた町のガス燈でもなく月灯りでもない スポットライトでなくローソクの灯じゃない…まして太陽の光じゃないさ 「器用じゃないのかもしれない…でもやっぱり自分で納得のいかないものは歌いたくない。メロディーっていうより詞の方ですね。やっぱり詞が納得いかないものっていうのはとても嫌ですね。だからワタシは売れない。」 ゆっくりとタバコを燻らせながら…彼女はそう言った。 1942年1月27日、彼女は石川県石川郡美川町という漁師町で生ま..
未分類

ピアノ・ブルース〜野生動物をも魅了したファッツ・ドミノのニューオーリンズR&B

2003年。アメリカでは「BLUES生誕100年」と称して、CD・書籍・番組・ラジオ・コンサートといったメディアミックスを通じて“魂の音楽”を伝えるプロジェクトが展開された。中でも音楽ドキュメンタリー『THE BLUES』は、総勢7名の映画監督が様々な角度から“魂の音楽”をフィルムに収めて大きな話題を呼んだ。 今回紹介するのは『ピアノ・ブルース』(Piano Blues/クリント・イーストウッド監督)。カントリー、ジャズ、ブルーズのマニアとしても知られる名優イーストウッドが、ピアノだけにスポットライトをあて、伝説的なミュージシャンたちを迎え入れながら話し、時には演奏してもらう。そして偉大なプレーヤーの顔触れやつながりを紹介していくというもの。本作はブルーズマンだけでなく、ジャズやR&Bにも視点を広げている。 ジャズ畑からは「神」と呼ばれたアート・テイタムのほか、デューク・エリントン、カウント・ベイシー、オスカー・ピーターソン、セロニアス・モンク、ピート・ジョリー、そしてトリオ時代のナット・キング・コールなどが紹介される。中でも年老いたデイヴ・ブルーベックの演奏は涙が出るくらい美しい。 ブギウギからはパイン・トップ・スミス、アルバート・アモンズ、ピート・ジョンソンの名が登場。ジャンプからはジェイ・マクシャンやビッグ・ジョー・ターナーらの映像も流れる。また、チャールズ・ブラウンの都会的で洗練されたブルーズも印象的だ。 R&Bではレイ・チャールズ。イーストウッドの友人ということもあり、先人や自らの貴重なエピソードが語られる。 幼少時代、まだ失明する前のレイは、ワイリー・ピットマンの食料雑貨店から聞こえてくるブギウギ・ピアノの音に魅了された。店に忍び込んだ小さなレイに気づいたピットマンは、膝の上に抱え上げてピアノに触らせてやった。レイは鍵盤に指を走らせ、その温かい感触が忘れられなかった。それをきっかけにレイはピットマンからピアノを学ぶようになる。 シカゴ・ブルースからはマディ・ウォーターズやウィリー・ディクソンとプレイしていたオーティス・スパンやヘンリー・グレイ。スパンにはエピソードがある。子供の頃、フライデイ・フォードという男の膝に乗ってピアノを弾くのを見ていた。 「こうやってピアノの前に座ってるのは、お前がいつか弾けるようにしてやるためなんだぞ」 しかし、フォードは亡く..
未分類

受験生ブルース〜日本のフォークソングの源流を創った男、高石ともやの偉大な足跡

この歌の原作者は中川五郎。 訳詞家としてボブ・ディランのすべての楽曲の歌詞を翻訳しているほか、フォークシンガー、翻訳家、小説家としても活動する人物だ。 かつて“関西プロテストフォークの旗手”といわれた彼がこの歌を創作したのは1967年(当時18歳・高校3年生)だった。 「夏休みの補修授業中、日本史の講義になんとなく身が入らずにボヤっとしいた時でした。その当時よく大阪のフォークソング集会で歌われていた炭坑街のブルース(ボブ・ディランの“North Country Blues”に日本語の歌詞を乗せた替え歌)のメロディーにのせて突然言葉が浮かんできたんです。僕は授業に使われていたプリントの裏に一節を書き始め…それにつられてスラスラと瞬く間に12番まで作ってしまったんです。」 曲のタイトルは歌詞の内容通り、ズバリ「受験生ブルース」とした。 翌1968年から中川はステージで歌い始めるが、曲調が暗過ぎたのか…当時はあまりウケなかったという。 中川が歌うその曲を聴いて「これは面白い!」と、気に入った男がいた。 当時、すでに関西フォークシーンで活躍していた高石ともや(本名・尻石友也)は、自分のコンサートでも「受験生ブルース」を取り上げるようになる。 高石は北海道で生まれ、地元の高校を卒業した後、1960年に立教大学文学部日本文学科に入学をする。 学費を稼ぐため、新潟県赤倉スキー場や、大阪の釜ヶ崎で土木作業員、屋台のラーメン屋などをやりつつ、ピート・シーガーやボブ・ディランらの歌を訳してフォークソングを歌い始める。 1966年、大阪YMCAキャンプで歌ったのが“初めて人前で歌う経験”だったという。 “生活の中から生まれる歌” 関西フォークの原点とも言えるそんな考え方は彼から始まったのだ。 彼のステージを見て感動し、ギターを持ち始めたのが中川五郎であり、後に“フォークの神様”とよばれた岡林信康だった。 そんな高石が、この「受験生ブルース」を自分が歌うにあたってメロディーを作り直したのだ。 「当時、五郎が作っていたメロディーは、ゆっくりと足を引きずるような三拍子の短調で暗いイメージがあったんです。これでは広まりにくいと思ったのでC調の二拍子にしたんです。」 軽快なメロディーに編曲された「受験生ブルース」は、高石のコンサートでたちまち人気の曲となる。 それにいち早く目をつけたビクターレ..
未分類

センセーショナルな歌〜Personality Crisis

♪「Personality Crisis」/ New York Dolls (live at Musik Laden 1973) 1973年、トッド・ラングレンのプロデュースによって世に放たれたこの「Personality Crisis(邦題:人格の危機)」は、アメリカのバンド、ニューヨーク・ドールズのデビューアルバム『New York Dolls』(1973年)のオープニングを飾ったナンバーだ。 NYパンクの先駆に位置づけられるエポックメイキングな楽曲で、ローリング・ストーン誌が選ぶ“最も偉大な500曲”では第271位にランクインした。 それはラモーンズやセックス・ピストルズなど、後のパンクシーンに大きな影響を与えた重要な1曲でもあった。 とは云え、発売当時はTOP40にしかランクインせず、一部のマスコミからは酷評を受けるほどだった。 ニューヨーク・ドールズのフロントマンを務めたデヴィッド・ヨハンセンは、バンドがデビューする直前の時期をこう振り返る。 コロンバス通りの82番街あたりに自転車屋があったんだけど、冬は店もあんまり忙しくなかったから、そこで練習したんだ。その店のオーナーが巨大なフェンダーアンプと機材を持っていたんでね。俺達は真夜中に行き、5〜6ドル払い、ヒーターをつけっぱなしで空が白んでくるまで演奏した。オーナーは俺達が何も盗めないようにと、その古い店の錠を下し、明け方にやって来て俺達を出してくれたよ。バンドの格好がつくまで、何ヶ月か毎晩6〜7時間はリハーサルをしてたよ。 彼等は同じニューヨークのシーンでも、当時“アートロック”と呼ばれたヴェルヴェット・アンダーグラウンドよりは、イギー・ポップが率いたストゥージズに近かった。 他に影響されたミュージシャンと云えば、ローリング・ストーンズ、ザ・フー、キンクス、ヤードバーズなど英国からアメリカに侵略してきた“ブリティッシュ・インヴェイジョン”をはじめ、ボ・ディドリー、ソニー・ボーイウィリアムソン、ジョームズ・ブラウン、チャック・ベリー、オーティス・レディングなど黒人R&B、そしてアーチ・ベル&ドレルズ、ディオン&ベルモンツなどのドゥーワップ系のグループだった。 彼等の目的は単純で、FMラジオからプログレロックやセンチメンタルなポップスが聴こえてくる時代に、“グッドオールド・ロックンロール”を演奏することだ..
未分類

ロード・トゥ・メンフィス〜伝説のブルーズマンたちの帰郷

2003年。アメリカでは「BLUES生誕100年」と称して、CD・書籍・番組・ラジオ・コンサートといったメディアミックスを通じて“魂の音楽”を伝えるプロジェクトが展開された。中でもマーティン・スコセッシ監督が総指揮した音楽ドキュメンタリー『THE BLUES』は、総勢7名の映画監督が様々な角度から“魂の音楽”をフィルムに収めて大きな話題を呼んだ。 今回紹介するのは『ロード・トゥ・メンフィス』(The Road To Memphis/リチャード・ピアース監督)。テネシー州メンフィスのビール・ストリートを舞台にしたブルーズマンたちの物語だ。 ビール・ストリートとは、1920〜50年代にかけてストリート・ライヴや劇場でのショーが盛んだったメンフィスの黒人商業地区のメインストリートの名称。現在ではすっかり観光地化されて全盛期の面影はほとんどなくなったそうだが、それでもB.B.キングのクラブをはじめ、ブルーズ発祥の町として多くの音楽ファンを魅了し続けている。 映画はW・C・ハンディ賞での記念ステージを披露するために、この地が育んだブルーズマンたちが各地から帰郷してくる姿を描く。伝説の顔ぶれが同じフィルムに収まっている事実も凄いが、ロードムービー風の追いかけ方も秀逸な傑作となった。 駆け出しの頃のB.B.キングもこの通りに立ってブルーズを歌っていた一人。地元のラジオ局WDIAにDJ兼ミュージシャンとしての職を得ると、「ビール・ストリート・ブルーズ・ボーイ」というニックネームで呼ばれた。長いので「ブルーズ・ボーイ」となり、「B.B.」になった。綿花畑を抜け出した“音楽畑”での新しい人生がスタートした。 そんなB.B.に最初のチャンスを与えたとされるのが、全米で黒人最初のDJとなったWDIA局のナット・D・ウィリアムズ。彼は素人コンテストの司会や150万人以上のデルタ地区の黒人たちに自分たちの音楽を届けた。 また、エルヴィス発掘まではビール・ストリートのブルーズマンたちを録音していたサン・レコードのサム・フィリップス。1951年にメンフィスにやって来たアイク・ターナーは一緒に仕事をしたサムに、当時を振り返ってこう言う。 その頃、黒人たちの音楽は「レイス・レコード」と呼ばれ、白人向けのラジオ局では絶対に流せなかった。そこでサムは閃いたのさ。白人に黒人のように歌わせればいい。R&Rの..
未分類

ぼくの好きな先生〜高校生時代の忌野清志郎が慕った美術部顧問の教師

「ぼくの好きな先生」は、RCサクセションの記念すべき1stアルバム『初期のRCサクセション』からのシングルカット曲として1972年2月5日、アルバムと同日にリリースされた。 RCの黎明期、つまり忌野清志郎、小林和生、破廉ケンチの3人編成によるフォークトリオの時代の作品である。 さかのぼること約2年…そのアクの強さが“売り”だった(はずの!?)彼らは1970年3月5日にリリースしたデビューシングル「宝くじは買わない」がまったく当たらず…同年12月に発表した2ndシングル「涙でいっぱい」も見事に不発に終り、渋谷にあった音楽喫茶『青い鳥』などでの地道なライブ活動を続けていた。 そんな彼らが“次こそは!”と、スタイルを妥協することなく放ったのがこの歌だった。 当時の担当ディレクター新田和長は、当時をこう振り返る。 「とにかく清志郎は初めから“アーティスト”でした。言いたいことは言うし、やりたいことは絶対に妥協しないでやる。そんな個性的なところが魅力的でした。」 清志郎が書いたこの“先生の歌”には、モデルになった人物がいたという。 それは小林晴雄という高校時代の美術部顧問の教師だった。 楽曲がリリースされた3年前(1969年)の秋、朝日新聞にこんな身の上相談が載った。それは清志郎の母、栗原久子(育ての親・伯母)からだった。 「18歳になる私の子供はギターのプロになるのだと申します。私どもには何が何だかわからなくなりました。」 気をもむ母を説得したのが、小林先生だった。   「大学に行っても4年遊ぶんだから、4年は好きなことをやらせてあげましょう。」 彼は1967年、都立日野高校に入学した。 俳優の三浦友和も同じ学年だったという。 当時の彼を知る同級生の証言によると…校内では物静かな生徒だったらしい。 小柄で、華奢(きゃしゃ)で、髪型はマッシュルームカットで、いつも飄々(ひょうひょう)と廊下を歩いていたという。 高校時代にRCサクセションを結成。 活動にのめり込み、欠席や遅刻が相次ぐようになる。 そんな中、彼は美術部顧問の小林先生にだけは心をひらき、絵画製作に熱中したという。 小林先生は他の教師と違って、生徒の話にじっくり耳を傾ける男だった。 “勉強が嫌いだから絵描きになった”という小林先生は、職員室が嫌いで、美術準備室でいつも一人で煙草を吸っていた。 同級生の一人..
タイトルとURLをコピーしました