2021-01

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これが本当の80年代サウンド⑪〜忘れられたヒット曲にもう一度スポットライトを

80年代の洋楽をまとめたネットコンテンツやラジオ番組や雑誌には、いつもお決まりのアーティストやヒット曲だけがラインナップされている。それは同時代のコンピレーションがリリースされても同じこと。今回の企画はそんなありきたりの選曲ではなく、聞くだけで(観るだけで)「ああ! いた!! あった!!」と歓喜するようなアーティストやヒット曲を思いつくままに集めてみた。題して「これが本当の80年代サウンド」。そろそろマドンナやマイケル・ジャクソンの呪縛から解放されよう。ドライブや通勤タイム、懐かしの音源探しに活躍すること間違いなし。(選曲/中野充浩) ロクセット「Dangerous」(1989年/全米2位) スウェーデン出身の二人組(ペール・ゲッスルとマリー・フレデリクソン)。隠れロクセット・ファンは多いと信じている派だが、さすがにここ10数年は話題にも上がらない。FMから流れると歓喜ものだ。80年代後半から90年代前半にかけて世界規模でヒットを連発。キャッチーな楽曲は昼下がりのドライブにも最適だった。 フィッシュボーン「Party at Ground Zero」(1985年) このバンドを知ってる人はかなりの音楽好きなはず。タイトル画像はこのLA出身のミクスチャーバンド。当時はレッチリよりも人気があった。と言っても時代は80年代。彼らのような一歩も二歩も先を行く感性が大衆に理解されるのにはまだまだ早すぎた。日本では2トーンやジャマイカン・スカなんかを聴いていた元祖クラブピープルに人気があった。 ティファニー「I Think We’re Alone Now」(1987年/全米1位) かつてブリトニー・スピアーズやテイラー・スウィフトがデビューした頃、いつも1987年のこのティファニーを思い出していた。80年代後半に突如として吹き荒れたティーン・ポップ/ティーン・アイドル旋風。アメリカのショッピングモールを巡る画期的なツアー。日本でも大人気となり来日公演も行った。そんな彼女も間もなく50歳。 デビー・ギブソン「Out of the Blue」(1988年/全米3位) そのティファニーとライバル視されたのが、同年にデビューしたデビー・ギブソン。しかし彼女はアイドルというよりは優れたシンガー・ソングライターでもあった。大名曲「Lost In Your Eyes」がリリースされるのは..
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ウィルコ・ジョンソン27歳〜ロンドンのパブロックシーンを席巻したドクター・フィールグッド

70年代初頭からイギリスのパブロック・シーンを牽引し、後のパンク・ロック・ムーブメントの火付け役となったドクター・フィールグッドから始まり、ソリッド・センダーズ、ザ・ブロックヘッズ、そしてソロ名義での活動と、長いキャリアを通してロックシーンの大きな足跡を残してきたウィルコ・ジョンソン。 “マシンガンギター”の異名を持つ彼のピックを使わない鋭いカッティングとリードを同時に弾く奏法は、世界中で数多くのフォロワーを生み、世代を超えてリスペクトされ続けている。 彼は27歳の頃にどんな日々を過ごしていたのだろう? 1947年7月12日、彼はイギリスのエセックス州キャンベイ・アイランドで産声をあげた。 ガス工事業者の父と元看護婦の母親の間に生まれた3人兄弟の長男だった彼は、幼少期にあまり親からの愛情を受けることなく育ったという。 十代の頃に楽器店でフェンダーテレキャスターを買ったことをきっかけに彼は音楽にのめり込むようになる。 学生時代にバンドを結成し地元の労働者向けのパブなどで演奏していたが、成績優秀だった彼は、ニューカッスル大学で英文学を学ぶために地元を後にし、しばらくギターから遠ざかる。 教師になる夢を抱いていた彼は、在学中(1968年・当時21歳)にティーンエイジャー時代からのガールフレンドと結婚し2人の息子をもうける。 大学卒業後、ヒッピーとしてインドとネパールを放浪し…帰国後、地元の高校で母国語教師をしていたが、1971年(当時24歳)リー・ブリローやジョン・B・スパークスに誘われドクター・フィールグッドを結成する。 ──それはバンド結成から3年目の頃だった。 ウィルコ・ジョンソンは27歳だった当時のことを鮮明に憶えているという。 「ロンドンのパブロックシーンが盛り上がっているという話は俺達の耳にも入っていたよ。単にビールを提供するだけでなく、客にいいバンドの音楽を楽しんでもらうことに重きを置いたパブが増え、新たなライブスポットとして機能し始めていたんだ。すでにその名が知られていたマーキーや100クラブに加え、ディグウォールやホープ&アンカーなどが人気だったよ。」 こういったパブでライブを行なっていたミュージシャンの中には、有名どころも多く、出演者の音楽性は多様を極めていたという。 ロック、カントリー、ジャズ、伝統音楽…質の高いバンドのパフォーマンスも聴けたが、..
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これが本当の80年代サウンド⑩〜忘れられたヒット曲にもう一度スポットライトを

80年代の洋楽をまとめたネットコンテンツやラジオ番組や雑誌には、いつもお決まりのアーティストやヒット曲だけがラインナップされている。それは同時代のコンピレーションがリリースされても同じこと。今回の企画はそんなありきたりの選曲ではなく、聞くだけで(観るだけで)「ああ! いた!! あった!!」と歓喜するようなアーティストやヒット曲を思いつくままに集めてみた。題して「これが本当の80年代サウンド」。そろそろマドンナやマイケル・ジャクソンの呪縛から解放されよう。ドライブや通勤タイム、懐かしの音源探しに活躍すること間違いなし。(選曲/中野充浩) ビーチ・ボーイズ「Getcha Back」(1985年/全米26位) 1983年末にデニス・ウィルソンを失ったビーチ・ボーイズが、MTV時代にリリースした最初のアルバムからのシングルカット。打ち込みなどを取り入れて80年代仕様に。ビーチ・ボーイズの歴史からみれば何の変哲もない曲かもしれない。でもヘヴィメタルやイギリス勢が活躍していた1985年、この曲をMTVで耳にした時はすっかり心奪われた。最高の一曲だ。なお、意外な事実として、アルバムにはボーイ・ジョージが曲を提供、ゲイリー・ムーアが録音に参加している。 ジョーン・ジェット&ザ・ブラックハーツ「I Need Someone」(1984年) R&R界の姐御ジョーン・ジェットをこの企画に入れるのはやや抵抗を感じるものの、忘れられたという観点ではこれを機にぜひ聴いてほしい曲。1961年のベルモンツのヒット曲のカバーで、はっきり言ってこのブラックハーツ版がめちゃくちゃカッコイイ。当時MTVで観た時は瞬間的にやられてしまい、次の日にタワーレコード(もちろん輸入盤専門店時代)へアルバムを買いに行ったことを思い出す。 マイアミ・サウンド・マシーン「Words Get in the Way」(1986年/全米5位) こちらもグロリア・エステファンという観点でなく、彼女があくまでもメンバーの一人だった頃のMSMの名曲バラード。夏の終わりにリゾートホテルのバーで耳にしていたい曲。夜風の中で80年代の風景も蘇ること間違いなし。もちろんグロリアのベスト盤ではなく、必ずオリジナルアルバムの流れで聴いてほしい曲だ。 プリミティヴズ「Crash」(1988年/全英5位) 紅一点トレイシー・トレイシーを看板に..
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Che sarà・後編〜琴線に触れるイタリアのメロディー、日本人は“超訳”がお好き!?

イタリアでこの歌「Che sarà(ケ・サラ)」が発表された1971年、日本では学生運動や安保闘争の火が燻っていた。 当時、にしむらよしあきが自身の政治思想を基に超訳した歌詞を、権力と闘いながら平和と自由を訴えていた学生達が集会や歌声喫茶などで合唱していたという。 「ケ・サラ」日本語訳:にしむらよしあき 押さえ切れない怒り こらえ切れない悲しみ そんなことのくり返しだけど 決して負けはしないさ ケサラ ケサラ ケサラ 僕たちの人生は 平和と自由もとめて    生きてゆけばいいのさ 日本語歌詞としては作詞家・訳詞家・詩人の岩谷時子の手によって訳された歌詞を越路吹雪が唄ったものが一般的に広く知られている。 「ケ・サラ」日本語訳:岩谷時子 平和で美しい国 信じあえる人ばかり だけど明日は どうなることやら 誰もわかりはしないさ ケ・サラ ケ・サラ ケ・サラ 私たちの人生は 階段を手さぐりで歩くようなもの エ・サラ  サラケル  ケ・サラ 越路吹雪『愛の生涯』 (2005/EMIミュージックジャパン) iTunes Amazon 2011年には、漫画家・西原理恵子が毎日新聞に連載する人気コミックを実写映画化した『毎日かあさん』(主演:小泉今日子、永瀬正敏)の主題歌として、憂歌団の木村充揮(あつき)が2006年に発表したアルバム『小さな花』に収録していたバージョン「ケサラ~CHE SARA~」が起用されて話題となった。 【木村充揮 オフィシャルサイト】 http://dandylion.info 「ケサラ~CHE SARA~」日本語訳:木村充揮 海を見てると 君のことを思い出す 振り向きざまの あの笑顔 この胸に広がる 楽しい楽しい日々を 辛く切ない日々を 君と共に暮らした日々を 忘れられない日々を ケサラ ケサラ ケサラ 今日の一日を 雨の日も風の日も ケサラ ケサラ ケサラ 原詞の中に登場する主人公(青年)の胸中によぎる、先の見えない不安とやりきれない気持ち。 自分たちの暮している国で目の当りにする経済格差。 家族と離れて単身赴任で働く人達もいる。 孤独、焦燥、守りたいもの…そしてわずかな希望。 異国の地で生まれた名曲を、これまで数多くの作詞家やアーティストが訳してきた。 物語や童話が語り継がれてきたように、そのメロディーに想いを乗せて…。 そう、..
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Che sarà・前編〜イタリア移民の不安と希望を哀愁のメロディーに乗せて

この歌は、イタリアの北西部リグリーア州インペリア県にある小さな町で毎年開催されているサンレモ音楽祭で1971年に準優勝を受賞したポップナンバーで、いわゆるカンツォーネ(イタリア民謡)をベースに紡がれた楽曲だ。 タイトルの「Che sarà(ケ・サラ)」という言葉は、日本語に訳すと“どうなってしまうんだろう?”という意味を持つという。 この音楽祭の採点システムは、イタリアのシンガーと国外のアーティストが一組になり、あらかじめエントリーされた同一曲を歌うという変則的なものだった。 毎年入賞した曲は世界中でヒットする傾向にあり、若手アーティストにとってはスターに駆け上がる登竜門的なコンテストでもあった。 今回スポットをあてるこの歌は、イタリアを代表する男女混合の4人組コーラスグループ、リッキ・エ・ポーヴェリ、そしてプエルトリコ出身の盲目の天才ギタリスト/歌手、ホセ・フェリシアーノの二組によって歌唱されて入賞に至った。 これからどうなってしまうんだろう  僕の人生がどうなるのか誰もわからない 何だってできるのか?何もなしえないのか? 明日、僕はそれを知るだろう なるようにしかならないものさ サンレモといえば隣国フランスのニースやモナコに隣接し、平らな土地は少なく、ちょっとした高台や丘からは海がよく見える港町だ。 この町は、第二次世界大戦後にイタリアの戦後復興を目指し、観光客を招致して外貨を稼ぐ目的でカジノが作られ、1951年から音楽祭が開催されるようになった。 実はイタリア全土へのラジオとテレビの放送は、この音楽祭の歴史と共にあるという。これまでコニー・フランシスやポール・アンカ、そしてあのイギリスの伝説的なロックバンド、ヤードバーズまでが出場し、日本からも伊東ゆかりや岸洋子が参加したという記録が残っている。 ちなみにヤードバーズの出演は、エリック・クラプトン脱退後の1966年の回で、新しく加入したジェフ・ベックはこのサンレモ音楽祭への出場に不満を持ち、ステージにはかろうじて立ったものの、あらかじめ行われる課題曲「Questa Volta」のレコーディング当日に雲隠れする事件を起こしたというエピソードが残っている。 1960年代には世界的に“カンツォーネブーム”がおこり、サンレモ音楽祭は最盛期を迎えたのだが…70年代を迎える少し前あたりからイタリア経済が衰退しはじめ、規..
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“音楽探求の壮大な旅”が詰まったボックスセットの世界

どんなに単曲ダウンロードやストリーミングや動画サービスが普及しようと、心からの音楽ファンなら絶対に手元に残しておきたいもがある。その一つが「ボックスセット」だ。数枚組の中身は、まさに“壮大な音楽探求の旅路”そのもの。若い時には高価でとても手が出なかったという声も多い。でも大人になった今、それは十分に揃えるべき価値のあるもの。中古ショップで見かけたら迷わず手に取り、ネットで見つけたらとりあえずカートに保存してほしい。今回は厳選した5タイトルを紹介。 『The BLUES:A Musical Journey』 2003年のマーティン・スコセッシ監修による「ブルース・ムービー・プロジェクト」では7本の映画が作られた(最下段にリスト化)。このボックスもその一環。中身が凄い。ブルーズの歴史を5枚組・全116曲に包括。レーベルを超えた夢のようなコンピレーション。日本盤はブックレット、歌詞とも翻訳対応。発売当初は1万円弱だったが、今では中古で倍額以上のプレミアになっている。 ディスク1はカントリー・ブルーズやクラシック・ブルーズなど1920年代。ディスク2は30〜40年代、ディスク3は40〜50年代、ディスク4は60年代、ディスク5は70年代以降の代表曲で構成。ブラインド・レモン、リロイ・カー、チャーリー・パットン、サン・ハウス、ロバート・ジョンソン、ビッグ・ビル・ブルーンジー、Tボーン・ウォーカー、エルモア・ジェイムズ、ギター・スリム、マディ・ウォーターズ、ハウリン・ウルフ、ボビー・ブランド、オーティス・ラッシュ、バディ・ガイ、マジック・サム、B.B.キング、ジョン・リー・フッカー、ジョニー・ウィンター、スティーヴィー・レイ・ヴォーンなど全部入っていてまとめて聴ける。 (こちらのコラムもオススメです) キャデラック・レコード〜ビヨンセも出演した伝説のレーベル“CHESS”の物語 『The DOO WOP Box』 ドゥーワップのグループばかりを集めた4枚組・全101曲。ライノの素晴らしい仕事の一つ。ディスク1は「ドゥーワップの誕生1948-1955」、ディスク2は「ロックンロールの爆発1955-1957」、ディスク3は「ドゥーワップの黄金期1957-1959」、ディスク4は「ドゥーワップ・リヴァイヴァル1959-1987」という構成。代表的名曲からマニア向けまで選曲も抜群だ..
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We Are The Worldの舞台裏で…

1984年、マイケル・ジャクソンは名実ともに絶頂期を迎えていた。 当時、彼はテキサス州のがん研究施設から救い出された3歳のチンパンジーを引き取って、どこへ行くときも同行させていた。 “バブルス”と名付けたそのチンパンジーに自分とおそろいの服を着せてパーティーや報道機関向けのイベントに連れて行き、ムーンウォークの踊り方も教え込んだという。 そんな彼のエキセントリックな行動は、音楽への評価とは別のところで大いに世間からの注目を集めていた。 エレファントマンやマリリン・モンローの骨を手に入れたがっているという噂や、酸素テントの中で睡眠をとっている、肌が白くなっている、鼻が細くなり唇が薄くなっているなどなど…。 下世話なタブロイド誌は“ワッコー・ジャッコー(変人マイケル)”などと見出しに踊らせて彼を揶揄するようになっていた。 そんな中、彼は事態を静観していたという。 1984年11月、ハリウッドの“ウォーク・オブ・フェイム”の星が彼に授与される。 その翌月の12月24日に、ボブ・ゲルドフ(ブームタウンラッツ)とミッジ・ユーロ(ウルトラボックス)の呼びかけで、アフリカの飢餓と貧困を解消する目的の下にイギリスのアーティスト達が集結した。 そのテーマソング「Do They Know It’s Christmas?」が、またたく間に収益を上げ“バンド・エイド”というチャリティーキャンペーンは大きな成功を収めた。 この動きに呼応するかのように“USAフォー・アフリカ”という旗の下、マイケル・ジャクソンとライオネル・リッチーの呼びかけに応じたのは、アメリカのポップス界を代表するアーティスト達だった。 テーマソング「We Are The World」の作詞作曲はマイケルとライオネルが共作で行い、プロデュースはクインシー・ジョーンズが担当した。 なんと彼らはこのアイディアが出てから12時間も経たないうちに曲を書き上げたという。 1985年1月28日の夜、その奇跡のようなレコーディングは実行された。 人種、性別、音楽ジャンル、宗教、キャリアもそれぞれ異なる彼らの“想い”は国境を超えて…普段は高額な出演料や印税をもらっている総勢45人のトップスター達が、エチオピア難民救済のためにノーギャラで集結したのだ。 ボブ・ディランからダイアナ・ロス、シンディ・ローパーやブルース・スプリングスティーンなど..
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これが本当の80年代サウンド⑨〜忘れられたヒット曲にもう一度スポットライトを

80年代の洋楽をまとめたネットコンテンツやラジオ番組や雑誌には、いつもお決まりのアーティストやヒット曲だけがラインナップされている。それは同時代のコンピレーションがリリースされても同じこと。今回の企画はそんなありきたりの選曲ではなく、聞くだけで(観るだけで)「ああ! いた!! あった!!」と歓喜するようなアーティストやヒット曲を思いつくままに集めてみた。題して「これが本当の80年代サウンド」。そろそろマドンナやマイケル・ジャクソンの呪縛から解放されよう。ドライブや通勤タイム、懐かしの音源探しに活躍すること間違いなし。(選曲/中野充浩) ビッグ・オーディオ・ダイナマイト「C’mon Every Beatbox」(1986年・全英51位) ザ・クラッシュを脱退したギタリスト、ミック・ジョーンズの新たな出発となったBAD。ヒップホップやハウス等を取り入れた最先端のアプローチは、偉大なバンドの幻影に囚われずに自らを成長させていくパンクの精神そのものだった。1985年にファーストをリリース。これはジョー・ストラマーとの共同プロデュース、ソングライティングが話題になったセカンドからのシングル。 ジェフ・ヒーリー・バンド「Angel Eyes」(1989年・全米5位) カナダ出身の盲目ギタリストが放ったヒット。ブルーズやジャズに影響を受けた渋いルーツロックを聴かせる。膝上にギターを置き、弦を押さえながらの特殊な奏法で、本物志向のファンに支えられ活動を続けた。ジェフは病と闘いながら2008年に41歳で死去。 マイケル・ダミアン「Rock On」(1989年・全米1位) 人気若手俳優による忘れられたナンバーワン・ヒット。と聞けば、少し前のジャック・ワグナーの「All I Need」なんかを思い出す人もいるはず。この曲はイギリスのデヴィッド・エセックスのカバー。こちらは1973年にビルボードチャートで5位まで上昇。ダミアンのバージョンも今聴いてみると、かなりカッコイイ。 ブリーズ「Hands to Heaven」(1987年・全米2位) これも記憶してる人は少ないはず。イギリス出身のポップバンドが放ったバラード・ヒット。同時期のカッティング・クルーもそうだが、何とも言えない切ないムードが80年代の風景や空気感を漂わせてくる。これはずばり名曲だ。他に「How Can I Fall?..
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クリッシー・ハインド27歳〜ハイスクール時代に描いた夢を10年後に叶えた彼女のロックな履歴書

クリッシー・ハインド。 ロック界の姉御的存在として常に第一線で活躍してきた彼女は27歳で大きな転機を迎え、翌年にプリテンダーズとしてデビューを果たした。 プリテンダーズはイギリスのロンドンで生まれたバンドにも関わらず、彼女自身はアメリカ北部オハイオ州アクロンの出身だ。 彼女は故郷で過ごしたハイスクール時代を振り返りながらこう語ってる。 私は高校生活をおもしろいと感じたことがなかったわ。 つまり、ダンスに行ったこともなかったし、デートに行ったこともなかったし、恋人もいなかったの。 かなり酷かった毎日だったけど…バンドを観に行くことはできたので、それが元気の素だったわ。 私は会ったこともないバンドの男性に恋をしていたの。 ブライアン・ジョーンズやイギー・ポップに興味をもつ私を周りの人は“難しい存在”として見ていたみたい。 そんな中、私は「将来は自分のバンドを組んでデビューする!」という目標を持ったの。 卒業後も彼女はヒッピーカルチャーや東洋の神秘主義、菜食主義に興味を持つようになったという。 ケント州立大学美術学部の学生時代に“Sat. Sun. Mat. ”という名前のバンドに加入。そのバンドには後にディーヴォを結成するマーク・マザーズボーが在籍していた。 彼女はイギリスの音楽誌『NME(ニュー・ミュージカル・エクスプレス)』に興味をもち、22歳を迎えた1973年にロンドンへ移り住むようになる。 簡単な着替えとイギー・ポップのレコードを持ってアメリカからロンドンに渡ったのよ。 まずは建築会社で仕事をしたが8ヶ月後に辞めてしまった。 あるきっかけで『NME』記者のニック・ケント(シド・ヴィシャスにチェーンで殴られたことのある男)と出会い、仕事を紹介してもらってライターとして働くようになる。 しかし、この仕事も長くは続かずに…当時はまだあまり知られていなかったマルコム・マクラーレンとヴィヴィアン・ウエストウッドのブティック『SEX』で働くようになる。 そこで2~3週間働いた後、彼女はフランスに渡ってバンドを結成しようと奔走する。 その後ロンドンに戻り、様々なミュージシャンと交友関係を深めながらも…なかなか実現しない夢に、彼女は焦燥を感じ始める。 そんな中、彼女に好転のきっかけを与えたのは、プロデューサーのクリス・トーマスだった。 サディスティック・ミカ・バンドを世..
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これが本当の80年代サウンド⑧〜忘れられたヒット曲にもう一度スポットライトを

80年代の洋楽をまとめたネットコンテンツやラジオ番組や雑誌には、いつもお決まりのアーティストやヒット曲だけがラインナップされている。それは同時代のコンピレーションがリリースされても同じこと。今回の企画はそんなありきたりの選曲ではなく、聞くだけで(観るだけで)「ああ! いた!! あった!!」と歓喜するようなアーティストやヒット曲を思いつくままに集めてみた。題して「これが本当の80年代サウンド」。そろそろマドンナやマイケル・ジャクソンの呪縛から解放されよう。ドライブや通勤タイム、懐かしの音源探しに活躍すること間違いなし。(選曲/中野充浩) カウボーイ・ジャンキーズ「Misguided Angel」(1988年) タイトル通り、トロンチのホーリー・トリニティ教会での録音セッションの模様を伝えた『The Trinity Session』からのシングルカット。このアルバムは1988年当初は自身のレーベルからインディーリリース。その後メジャーのRCAによって再発されてベストセラーになった。ハンク・ウィリアムスやヴェルヴェット・アンダーグラウンドのカバーも収録。2017年に来日公演を行ったことも記憶に新しい。 ザ・ウォーターボーイズ「Fisherman’s Blues」(1988年・全英32位) スコットランド出身のロックバンド。代表作は何と言ってもアイルランド音楽に傾倒した『Fisherman’s Blues』。土地の風景や匂いや風が全編に漂う名盤。中心人物のマイク・スコットは2016年、アーティストのろくでなし子こと五十嵐恵と結婚したことでも話題に。現在も精力的に活動中だ。 エディ・ブリケル&ニュー・ボヘミアンズ「What I Am」(1988年・全米7位) 引き続き1988年から。こちらはテキサス州ダラス出身のオルタナ系バンド。デビュー作の『Shooting Rubberbands at the Stars』(邦題『星に輪ゴムを』)からのナンバー。アルバムジャケットのイラストはブリケルによるもの。彼女は1992年にポール・サイモンと結婚した。不思議な魅力を持った楽曲だ。 デニス・デ・ヤング「Desert Moon」(1984年・全米10位) 80年代は有名バンドのメンバーのソロ活動が目立った時期。中でも84年は豊作でスティクスの中心人物デニス・デ・ヤングやトミー・ショ..
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マヘリア・ジャクソンを偲んで〜浅川マキも心酔したゴスペルの女王

まず…浅川マキが著書に残した言葉をご紹介します。 この体験をした当時、彼女はまだ29歳だったという。 1971年4月、60歳を迎えたゴスペルの女王マヘリア・ジャクソンが日本(渋谷公会堂)にやって来た。 記者や評論家の質問に対して彼女はこう言った。 「どうか、難しいことは聞かないでください。ただ私の歌を聴いて下さい。」 そしてこう付け加えて笑ったという。 「歌っている時、私の胸の中は空っぽなんです。」 10年前、初めてマヘリアのレコードを手にした時、その魂の歌は、ひどく私をがんばらせてくれた。 またある時は心を洗ってくれた。 しかし、生活に疲れはじめた頃…ひどく私の体の中を犯してきたのは、ビリー・ホリデイだった。 だからこの10年間、私はマヘリア・ジャクソンとビリー・ホリデイの間を揺れていたのかもしれない。 60歳になって日本にやって来たマヘリアがやはり偉大であったのを思えば、ビリー・ホリデイは最後まで“街の歌手”であったのだろう。 その時、マヘリアと写真を撮ったのだけれども、英語のよくわからない私は、ただ一言だけ口にした。 「おっかさん…」 マヘリアは喜んで私を抱きしめてくれた。 マヘリア・ジャクソン。 アメリカの音楽史において“ゴスペル界最高峰の歌手”として君臨した伝説の黒人歌手だ。 1911年、ルイジアナ州ニューオーリンズにあるウォーター街で生まれた彼女は、黒人、クリオール人(フランスもしくはスペイン系の移民)、イタリア人たちが共に暮す貧しい環境で育ちながら教会で歌い始める。 16歳の若さで単身シカゴへ移り住み、ゴスペルグループ“ジョンソン・ブラザーズ”のメンバーとして音楽キャリアをスタートさせる。 1937年、26歳にしてソロ名義で初の音源をリリースするが…売上は芳しくなかった。しかしこのレコーディングを切掛けに、音楽関係者たちから実力を認められるようになる。 その後はコンサート活動に専念し、暫くレコーディング活動から離れるが、1946年 (当時35歳)にアポロレコードと契約し、幾つかの音源作品をリリースする中、1948年に発表した楽曲「Move on up a Little Higher」のヒットによって(デビュー来初めて)商業的な成功を収めることとなる。 その後、アメリカだけにとどまらずヨーロッパでも知名度を上げながら、自身のラジオ番組を持つまでになる..
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ファンダンゴ〜観る者の心に“小さな宝物”が届けられる青春ロードムービーの傑作

年末年始の深夜帯になると、だらだらとTVを観ていてそのまま眠ったり、いつの間にか朝の眩しい光を浴びていたり、そんな経験をしたことがある人は多いと思う。でもこれは「TV離れ」とはまだ縁がなかった1980年代〜90年代の頃の話。この時代に青春期を過ごした人なら、きっとたまたまやっていた「洋画」が意外に面白かったり、自分と同世代を描いた「青春映画」にけっこう感動した夜もあったはずだ。 劇場までわざわざ出向かなかったタイトルや存在さえ知らなかったタイトルが、数年後にはTVでひっそりと深夜放映(もしくはビデオ化)されている。何の知識も期待もないのに、思わず最後まで付き合った映画がたくさんある。こうした時間はその場限りの快楽に思えるが、大人になって仕事や家庭を持つようになると、それは実は「特別な体験」だったことに気づく。 『ファンダンゴ』(FANDANGO/1985)も、深夜放映されていたら思わず最後まで見てしまう青春ロードムービーだった。無名時代のケビン・コスナーが見られるという点でも大いに興味が沸くが、オープニングのパーティやキャデラックの路上シーンには「これはこのまま観るべきだ!」と思わせしまう何かがあった。そして馬鹿騒ぎが続いていく中で、最後になって心に小さな宝物が届けられた。 監督は本作が長編デビューとなるケビン・レイノルズ。スティーブン・スピルバーグによるアンブリン・エンターテイメントの第1回作品。はっきり言ってB級の出来栄え。しかし、だからこそのリアリティと情熱がある。青春映画はそれでいいのだ。ロケはテキサス州やオクラホマ州で行われ、ケビン・コスナーの初主演作となった。 1971年、テキサスのとある大学の寮内で卒業パーティが行なわれている。仲の良いグルーバーズの5人組にとっては、結婚を控えた仲間の一人の独身最後を祝うパーティでもある。だが時代はベトナム戦争の最中。招集を原因に結婚中止が宣言されると、リーダー格のカードナー(ケビン・コスナー)は他の4人を強引に連れて、バカ騒ぎ(ファンダンゴ)の旅へと出ることにした。就職、結婚、徴兵と、みんなが変わってしまう前に。 テキサスの道を猛スピードで走るキャデラック。「メキシコ国境でDOM(ドム)に会いに行く」ことが目的だ。途中ガス欠でなす術もなくなって無謀な試みをしたり、墓場で花火合戦に興じたり、危ないパラシュート体験をした..
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白雪姫の毒リンゴ〜泉谷しげるのデビューアルバムの1曲目を飾った“ディラン風”の名曲

「1971年頃だったかな…渋谷に“青い森”っていう、いわゆる今でいうライブハウスの前身みたいな所があったんだ。昼は喫茶店で、夜は生演奏をやっている感じ。当時俺は通いつめててね。そこで初めてRCサクセションと古井戸を観たんだ。とにかく強烈だった。RCと古井戸はね!凄まじかったね!それまで岡林信康とか高石友也を観て凄いなとか思っていたけれど、あの程度なら俺でもやれるだろうと、どっかで高をくくっていたわけ。でもRCはそう簡単にいかねぇなって思ったもんな。アコースティックでありながらロックなわけよ!ウッドベースなんかスリリングで、すんげぇソウルフルなんだよ!でさぁ、客に対する態度が悪いわけ(笑)可愛い顔してるのに、客を客とも思わないあの態度(笑)その辺も気持ちよくてね。」 1970年代初頭、日本では安保闘争・学生運動の熱が少しずつ冷めてゆく中、一部の若者たちの間には得も言われぬ敗北感と挫折感が漂い始めていたという。 そんな中、泉谷しげるのデビューアルバム『泉谷しげる登場』(1971年)が発売される。 本作は目黒区杉野講堂で開催されたコンサートの模様を収録したライブ盤だ。 スタジオレコーディングした作品ではなく“ライブ”にこだわってデビューを果たした泉谷は、当時の音楽シーンに鮮烈な爪痕を残した。 A面の1曲目を飾ったこの「白雪姫の毒リンゴ」は、まさに若き日の泉谷しげるを象徴する名曲として今もファンから愛され続けている。 作詞作曲は泉谷本人によるものではなく、門谷憲二(かどやけんじ)という長崎県出身の作家・作詞家が手掛けたものだった。 門谷は早稲田大学中退後、1971年にライブハウス(青い森と推測されている)で偶然出逢った泉谷しげると共に音楽制作集団“サイクル・ギス”を設立し、その事務所の代表を務めた人物である。 泉谷の他に仲井戸麗市“チャボ”が在籍した古井戸や、佐藤公彦“ケメ”が在籍したピピ&コットといったアーティストを抱えてマネージメント業をスタートさせる。 事務所設立直後に才能あふれる彼らのデモテープを製作したところ、自身も作詞作曲家としてエレックレコードに認められる。 現在まで1000曲を越える作品を残しており、2014年にはミステリー作家としてもデビューを果たしている才人なのだ。 この楽曲について泉谷はあるインタビューでこんなことを語っている。 「門谷も最初は自分で..
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歌追い人〜アパラチアの美しい風景の中で歌い継がれた“幻の歌”を集める

アメリカ大衆音楽の形成にあたって、アイルランド系移民たちが果たした大きな役割、その苛酷な歩みは、別コラム「黒人の“ブルース”に呼応したアイルランド系移民の“ハイロンサム”」に詳しい。 ヴァージニア、ケンタッキー、テネシー、ノースあるいはサウスカロライナなどの各州をまたがる山岳地帯アパラチア。人里離れたこの山奥に暮らしていた彼らは「マウンテン・ピープル」と呼ばれ、都市部の文明と接触しないことが原因で「野蛮な人々」と思われていた。 1908年のある日、オリーヴ・キャンベルという女性が夫と共に、ほとんど誰も訪れることのなかったアパラチア一帯を旅して渡り歩いた。彼女が魅了されたのは人々が歌い、踊る音楽。祖国から持ち込み、母から娘へ、祖母から孫へと歌い継がれた歌の数々……そこには“幻の歌”が大量に残されていたのだ。彼女はこの素晴らしさを世に広めようとするが、1915年にイギリスの学者が採譜して出版するまで注目されることはなかった。 『歌追い人』(Songcatcher/2000)はこの事実に心奪われたマギー・グリーンウォルド監督が、念入りなリサーチを重ねて撮りあげた名作。まだ電気録音もなく音楽産業が確立される以前の時代。堅物の音楽学者の女性が山の音楽を採譜し、歌集めをしながら、次第に人々の交流を通じて愛することに目覚め、心で生きていくことを決意するまでの姿を描く。 この映画が素晴らしいのは音楽だけではない。静かな緑、澄んだ川。そこに侵入してくる石炭発掘、森林伐採、鉄道敷設などの文明。そして何よりも人々の暮らしの描写と、音楽が果たす役割、力、想いが観る者の心を打つ。 音楽監督はボブ・ディランの1975年の伝説的ツアー「ローリング・サンダー・レビュー」、ブルース・ホーンスビー&ザ・レインジのメンバーとして知られるデヴィッド・マンスフィールド。“山の音楽”が同じ境遇にいた黒人たちのブルーズと結びつくことは有名だが、映画でもブルーズマンのタジ・マハールが出演。興味深い演奏を披露している。エンディング・ナンバーを歌うのは、良質なカントリー音楽の継承者エミルー・ハリスだ。 その後、マウンテン・ミュージックやバラッドは音楽産業によって1920年代に“発見”。「ヒルビリー」として売り出され、カントリーやブルーグラス、フォーク、そしてロックンロールやロカビリーに発展していく。 アパラチアの孤高..
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Bridge over Troubled Water〜この国、この世界の明日に“希望の橋”が架かりますように

人生が大変で辛いとき 友達も見つからないようなとき 激流に掛かる橋のように 僕が君の支えになるから 激流に掛かる橋のように 僕が君を助けるから この「Bridge over Troubled Water(明日に架ける橋)」は、ポール・サイモンが黒人霊歌の「Mary, Don’t You Weep(マリアよ、嘆かないで)」から着想を得て作詞作曲した歌として知られている。 “Mary”とは、もちろん聖母マリアのことである。 この歌は突然降りてきたんだ。 今まで曲を書いてきた中で最も衝撃的な瞬間の一つだったよ。 「これは、僕が普段書くものよりもかなり良いぞ」と思ったことを覚えているよ。(ポール・サイモン) 1970年にサイモン&ガーファンクルが発表したこの曲は、彼らにとって最大のヒットソングとなった。 アルバムの発売と同時にシングルカットされ1970年2月28日から6週連続1位を記録。 さらにアルバムの方は全米アルバムチャート1位を10週に渡ってキープし、イギリスでは7ヶ月もの間1位となり1100万枚ものセールスを記録する大ヒット作となった。 翌1971年のグラミー賞では、5部門を制覇するという快挙を達成。 歌唱クレジットがサイモン&ガーファンクル名義になっているが、実際はアート・ガーファンクルの独唱によるもの。 皮肉なことに、この曲が大ヒットしていた頃、二人の間では音楽的方向性の差異が生じ、長年コンビを組んできたパートナーシップに亀裂が入ろうとしていた。 ポールは後々まで自らこの曲を歌わなかったことを心の底から後悔していたという。 歌詞だけを読むと、ラブソングや困難や悲しみに直面した人への応援歌(励ましの歌)として解釈するのが普通である。 作者のポール・サイモンも当時はそのつもりで作ったのかもしれないが、この歌が生まれた時代背景を重ね合わせてみれば“ただのヒット曲”ではなかったことがわかる。 その頃のアメリカといえば、ベトナム戦争に対する不安と不満を持った若者達が世の中に大きな潮流をおこそうとしていた。 ヒッピー文化が花開き、フラワーチルドレンが闊歩した“サマー・オブ・ラヴ”の時代である。 そしてスチューデントパワーやブラックパワーが吹き荒れた政治の季節でもあった。 シンガーソングライターたちは、国の政策に抵抗する歌を作り、多くの若者たちがそのメロデーをくちずさみな..
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