2021-02

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ニーナ・シモン27歳〜一夜にして彼女をスター歌手にした伝説のコンサート、その後一変した生活

1959年9月12日、当時26歳だった彼女はニューヨークのTown Hallで初のホールコンサートを成功させる。 それまでクラブでの活動が中心だった彼女にとって、このステージは大きな転機となった。 「その日、私は舞台袖から満席になった客席を見渡したわ。観客はきちんと並んで席に付き、飲み物のグラスを手にした人など一人もいなかった。煙草売りの女の子がステージの前を横切ることもない。これまでやってきたグラブでの仕事は、すべてこの日のためのリハーサルだった。何年もかけて経験を重ね、確固とした自信が持てる演奏テクニックとステージでの振る舞い方は身につけていたわ。」 当時彼女が所属していたコルピックスレーベルは、その日のステージをライブアルバム『Nina Simone at Town Hall』として発売した。 彼女はこのコンサートによって絶賛され、一大センセーションを起こしたのだ。 「まるで映画のストーリーのように、私は一夜にしてスターになった。」 翌1960年2月、彼女は27歳を迎える。 あのTown Hallでのコンサートから約5ヶ月間、様々なマスコミが彼女を取り上げ、街を歩けば声をかけられ、アメリカ中からコンサートの依頼が殺到した。 彼女がそれまで作ってきたレコードはヨーロッパでも発売された。 「確かにあの夜の客席の反応はいつもと違っていたわ。何年もステージの仕事をしてきたけれど、あんな大喝采は初めてだった。」 伝説となったTown Hallでのコンサート以降、音楽評論家たちは彼女の音楽がどのジャンルに属するのか議論し始めた。 クラシックピアノの技術を用いてポピュラーを演奏し、そこにナイトクラブでの経験で得たジャズのテイストを織り交ぜていた彼女の音楽。 さらに黒人霊歌や、当時頭角をあらわしていたフォークミュージックも歌っていたのだから…議論は尽きなかった。 結局、彼女は“ジャズのようなものを歌う歌手”として分類されることとなった。 「私にとってジャズとは生き方だった。あるいは歩き方、話し方、考え方、行動のとり方、アメリカの黒人がする全てのことを意味するものだった。その点では私をジャズシンガーと呼んでも問題なかったけど、他のあらゆる点で私はジャズミュージシャンではなかった。」 彼女の身辺は劇的に変化していった。 頻繁にツアーに出るようになり、新しいアルバムの..
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Drift Away〜自由!さすらい!ロック黄金期を讃える歌

さあビートをくれ!俺の魂を自由にしてくれ! ロックンロールの海に溺れ、さすらいながら流れていくんだ! 「自由!さすらい!ロックンロール!」 古き良きロック黄金期を象徴するようなフレーズが歌のサビで繰り返される名曲「Drift Away (明日なきさすらい)」は、70年代〜80年代に多くのアーティスト達がコンサートで取り上げた“ロックンロール讃歌”だ。 1972年にメンター・ウィリアムスが作詞作曲し、同年に“スワンプロック”の雄ジョン・ヘンリー・クルツがアルバムに収録したものが初出となった。 メンター・ウィリアムスと言えば、ロジャー・ニコルスと組んで数々の名曲を残したポール・ウィリアムスの弟であり(The Holy Mackerel“ホリー・マッケレル”では兄弟で在籍)、黒人カントリーアーティストのドビー・グレイやキム・カーンズらを手がけたカントリー界の名プロデューサーでもある。 彼はA&M、MCA、RSO、CBSなど大手のレコード会社と契約し、ロッド・スチュアート、ローリング・ストーンズ、ウェイロン・ジェニングス、リンゴ・スターetc.に曲を提供している。 ところで前出の“スワンプ”という言葉にどんな意味があるのだろうか? それはアメリカ南部の“湿地帯”を指す言葉で、R&B、ブルース、カントリー、ゴスペルなどアメリカ南部をルーツとした音楽をごった煮にしてできた泥臭いロックを“スワンプロック”という。 そんなバックボーンから生まれた「Drift Away (明日なきさすらい)」を1973年にドビー・グレイが歌い、全米ビルボードチャート5位という大ヒットを記録した。 後にこの“ロックンロール讃歌”は、ロッド・スチュワート、ブルース・スプリングスティーン、ロイ・オービソン、レイ・チャールズ、ドゥービー・ブラザーズ(タイトルが「Give me the beat, boys」)、ボン・ジョヴィ、そしてローリング・ストーンズ(海賊盤track from the “It’s Only Rock & Roll” sessions 1974に収録)といった大物アーティスト達から挙ってカヴァーされ、世界中のロックファン達に愛されることとなる。 心が自由なら メロディが胸を揺さぶる 憂鬱な時は ギターの音が慰めてくれる こちらのコラムの「書き手」である佐々木モトアキの音楽活動情報..
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ナインハーフ〜ミッキー・ロークとキム・ベイシンガーが演じた“9週間半”の男女関係

日本の都市で暮らす紳士淑女たちが札束とかくれんぼしたり、消費という名のパーティ・デイズに明け暮れたバブル時代──。 男と女はスタイリッシュな出逢いやゲーム感覚の恋愛を気にかけるようになり、それに紐づくファッションやレストラン、住空間と健康管理、音楽やアートといった情報にやたらと詳しくなっていた。彼ら彼女らが一番恐れたこと。それは流行に遅れてしまうことだった。 『ナインハーフ』(NINE 1/2 WEEKS/1986)はそんな時代の幕開けに日本で公開された。この映画で描かれたのは、まさに享楽的で虚飾的な男女関係における重要なコミュニケーション=セックス。 都市生活を謳歌する怖い者知らずの若い世代が見逃すはずがない。中でも、氷を身体の上で滑らす「ナインハーフごっこ」が話題になった。ハリウッド映画が日本のポップカルチャーに及ぼす影響がまだ強かった頃の話だ。 監督は『フォクシー・レディ』(1980)や『フラッシュダンス』(1983)で女性の目覚めや成長を描いたヒットメーカー、エイドリアン・ライン。様々な企画が持ちかけられる中、次に選んだのがこの『ナインハーフ』だった。 原作はNY在住の若い女性エグゼクティヴ、エリザベス・マクニールの『ある愛の記憶~飼われた猫のように』。本当は中年の男が書いたとされるエロティックな小説だ。監督は舞台を当時のNYに置き換え、ヤッピーとキャリアウーマンを登場させた。 原作では男が女を征服、支配するという歴史的なパターンのメタファーとして描かれているけど、映画では女は被害者ではなく、新しい目覚めの儀式に参加する、男と同格の参謀者として映るように手を加えた。物語の終わりにはエリザベス(女性の主人公)は自分で心を決めるんだ。 ストーリーはセックスに虜になった男と女の9週間半を追う。謎多き証券会社のヤンエグ(ミッキー・ローク)は「君は僕の分身だ」と言って、アートギャラリーで働くエリザベス(キム・ベイシンガー)にあらゆるエロティックを仕掛ける。時には男装や万引きを強要するが、女は戸惑いや怒りを感じながらも自己を解放するかのように受け入れていく。しかし、世話好きでサディスティックな男の要求は次第にエスカレートしていって……。 肉体関係による孤独や空虚の穴埋めは『ラスト・タンゴ・イン・パリ』のようだ。ミッキー・ローク演じるウォール街の成功者の奇行は、一歩間..
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未来世紀ブラジル〜サンバの名曲「Brazil」が流れる傑作は今の世界を予言していた!

テリー・ギリアムは『未来世紀ブラジル』(Brazil/1985)の脚本や撮影に取り組む前、あるイメージが頭からずっと離れなかったという。 誰かが石炭がらで真っ黒になった浜辺に腰掛けていると、コンベアベルトや醜い鉄の塔の向こう側には緑溢れる素晴らしい世界がきっとどこかにあるって、現実から逃避するようなロマンチックな歌がラジオから聞こえてくる。 あらゆる情報や個人のプライバシーが政府とコンピュータの支配下におかれた世界。自由を求めて巨大権力と闘いながらも、敗北して犯罪者の烙印を押されて抹殺される結末。そんな灰色の近未来を舞台にしたこの作品は、まるで我々が生きる現在の世界を描いていたかのような、予言的映画のように思える。公開から30年。『未来世紀ブラジル』が放つ“すでに起こっている”メッセージが、今心に響く。 監督/脚本は『モンティ・パイソン』シリーズのライター、テリー・ギリアム。製作費は2000万ドルで、ロケにはロンドンのスタジオ、工場や発電所、邸宅、パリ郊外の団地などが使われた(ちなみに南米のブラジルは関係ない)。映像美や風刺やブラックユーモアなども見逃せないが、この映画最大の魅力は、当初は体制側にいながらも一人の女との出逢いによって次第に反体制へと目覚めていく主人公サムの姿。ジョージ・オーウェルが描いた『1984年』の監視管理社会下での、現実と幻想が交錯する「ウォルター・ミティ」(映画『虹を摑む男』『ライフ』の原作)のような展開だ。 情報省記録局に勤務する役人サム(ジョナサン・プライス)は、亡き大臣の父と美容整形に熱中する母を持つ裕福な青年。しかし現実の仕事がつまらないので、いつも自分が空飛ぶ騎士となって天使のような美女を悪から救出するという白昼夢に耽っている。 サムが生きているのは、政府がすべてをコンピュータで管理している都市。人々が怯える一方で、反体制派はテロ行為に走って爆弾騒ぎが日常茶飯事だった。保安警察は騒音を抹殺するため躍起になる。そしてクリスマスの日。一匹のハエが原因でコンピュータにミスが起こり、“タトル”と“バトル”という人違いの事件が発生。靴職人がテロリストとして誤認逮捕されてしまう。それを目撃していたのは上の階に住むトラック運転手の若い女ジル(キム・グライスト)。 サムは誤認逮捕のトラブルを上司から相談されると、手際よくキーボードを叩いて問題を..
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ロスト・ハイウェイ〜たった1シーンに凝縮されたデヴィッド・リンチの世界

以前、デヴィッド・リンチ作品について触れた時、その独特の世界観に好き嫌いがはっきり分かれると書いた。色彩感覚溢れる映像美、拘り選び抜かれた音楽から、普通ではないクセの強い登場人物、暴力や死やセックスの表現方法まで、まさに唯一無比のリンチ・ワールドとでもいうべき時間と向き合えるかどうか。 好きな人にとっては、デヴィッド・リンチは最高の監督に違いない。小説の1ページ目から読者をがっつり引きつける作家がいるのと同じように、リンチは最初のワンカットから観る者をその強烈な世界に誘える希少な映画作家といえる。「この人にしか作れない映画」「誰にも真似できない映画」を作れる人。かといってアートフィルムと呼ぶような非商業主義でもない。 例えば『ブルー・ベルベット』『ツイン・ピークス』『ワイルド・アット・ハート』で“やられた”人は多い。言ってみれば、リンチ映画は常用性・中毒性が高いドラッグのようなもの。作品をまともに理解しようとすれば、それは虚しい努力に終わる。謎は永遠に解決されない。大事なのは全編を貫く一つの確固たるムードやイメージであり、理解や解決といった答えを求める類いではない。 デヴィッド・リンチ監督は、「映画の半分は映像で、もう半分がサウンドだ」と言い切るように、音楽をとても大事にする映画作家でもある。『ブルーベルベット』ではロイ・オービソンの「In Dreams」、『ワイルド・アット・ハート』ではエルヴィス・プレスリーの「Love Me Tender」が効果的に使われた。 音に語らせ、音を感じ取らなければならない。私は非常に多くの音楽を耳にした。その中の幾つかはこのシーンにはこの曲、あのシーンにはこれをと、語りかけてくる。なぜかは分からないけど、各々の曲はシーンをサポートし、全体をより素晴らしいものにしてくれた。 『ロスト・ハイウェイ』(Lost Highway/1997)の制作における言葉だ。突然、全く異なる人格・友人などを持ってしまう病「サイコジェニック・フーガ」(心因性記憶喪失)を取り入れたこの作品も、当然のように理解や解決を期待してはいけない。つまり、ムードやイメージを心地よく感じるためには、音楽のチカラが必要不可欠なのだ。本作ではデヴィッド・ボウイ、トレント・レズナー/ナイン・インチ・ネイルズがそれにあたる。 また、1997年といえば、あの『タイタニック』が公..
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イギー・ポップ〜狂気と覚悟の27歳

♪「Search And Destroy」/イギー&ザ・ストゥージズ この曲は、とても危険な定義を唱えている。 影響力のあるアートを作りたいのなら、健全で理性的な生活を放棄することだ。 すべてに『NO!』と言い、ブチ壊さなければいけない。 レコーディングに入る前から、俺はキャリアの終わりを覚悟した。 『この曲は俺を葬るだろう』と…。 社会に批判されることは分かっていた。 だけど、そんなことはどうでもよかった。 『作る!』と決めたんだ。 イギー・ポップは50歳を迎えた頃のインタビューの中で、当時を振り返りながらそう語った。 1973年、イギー&ザ・ストゥージズが放った曲「Search And Destroy」は、彼の代名詞となった3rdアルバム『Raw Power』のオープニング曲として収録され、リスナー達の脳天を直撃した。 この1曲が持つ影響力の凄さは、この錚々たるフォロワー達の言動を見れば明らかだろう。 プライマル・スクリームのボビー・ギレスビーは「人生を変えるほど影響を受けた曲」として挙げている。カート・コバーンは、このアルバムを「最も好きなアルバム」として公表しており、ガンズ・アンド・ローゼズもまた「自分たちのルーツ」として挙げている。レッド・ホット・チリ・ペッパーズが自分たちのライブでこの曲を十八番にしていることはロックファンにの間では有名な話だ。そしてヘンリー・ロリンズは両肩いっぱいに「Search&Destroy」と入れ墨を刻んでいるほどだ。 俺は原子爆弾の申し子なんだ! 俺は世界が見捨てた子供 探し出しては壊すだけ だれか俺を助けてくれ だれか俺の心を救ってくれ… (アムバム『Raw Power―レガシー・エディション―』歌詞カードより/2010年・ソニーミュージックエンターテイメント) その歌には危険で過激な表現が剥き出しのまま詰め込まれていた。 それは世界に警鐘を鳴らす強烈なメッセージでもあった。 割れたガラス瓶の破片の上を転げまわり、血まみれとなって救急車で運ばれるなど、当時のイギーのステージ・パフォーマンスは狂気に満ち、破滅へと向かっていた。 そして翌年、27歳になった彼は、薬物中毒に陥り※音楽活動ができない状態となってしまう。 ♪「Search And Destroy」/レッド・ホット・チリ・ペッパーズ 原子力利用の歴史は一般に、193..
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スティーヴン・タイラー27歳〜酒とコカインに狂いながらロックスターへと躍進を遂げた日々

エアロスミスのフロントマンとして長年ロック界を牽引してきたスティーヴン・タイラー。 ロックスター然としたその風貌、そのイメージ通りに型破りな逸話に事欠かない人物として知られている彼は、27歳の頃どんな日々を送っていたのだろうか? ──1973年1月、エアロスミスは1stアルバム『Aerosmith(野獣生誕)』でデビューした。 収録曲の「Dream On」がアメリカ東海岸地区を中心に注目され、全米シングルチャート59位まで上昇するヒットとなる。 1974年3月に、2ndアルバム『Get Your Wings(飛べ!エアロスミス)』を発表。 1年以上に渡って全米アルバムチャート200位圏内に入り続けるロングセラー作品となった。 そしてスティーヴン・タイラーが27歳となった1975年4月、3rdアルバム『Toys in the Attic(闇夜のヘヴィ・ロック)』を発表。 当時彼は、リリースしたばかりのアルバムについてこんな発言を残している。 「まず、タイトルの意味は“屋根裏のオモチャ箱”っていうんだ。1960年にトニー賞にノミネートされ1963年に映画化されたブロードウェイミュージカルと同名とは知らなかったよ。まぁ知ってたところで関係ないさ。これは世界でただ一つの、セクシーで心揺さぶるエアロスミスのアルバムなんだ。」 「屋根裏には思い出の品が詰まってるんだ。昔から懐かしい場所だ。古いテディベア、漫画本、バネのオモチャ、先祖の宝物、虫食いのあるお気に入りのセーター、幼い頃の写真、古いローラースケート、ストーンズのコンサートチケット…このタイトルに決めた理由は“バンドの成功”だった。俺は宇宙人にも知られたくて岩に名前を刻んだ。長く生きたいことへの表明だ。死んだ後もレコードは長く聴き継がれる。片時も忘れることのなかったお気に入りの品と一緒に、俺達のアルバムも屋根裏にしまわれるんだ。エアロスミスはそういうバンドになったんだ。ビートルズやアニマルズ、キンクスは歌詞とタイトルの上手さで成功した。俺はイカれた頭でなく、ちゃんと考えて作品を創ってるんだ。」 同アルバムに収録されていた「Walk This Way」や「Sweet Emotion」がシングルヒットし、アルバムも全米チャート11位を記録し、彼らは初のプラチナディスクを獲得することとなる。 この勢いで前2作のアルバムの..
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フットルース〜2011年にリメイクもされたMTV感覚満載の80年代大ヒット作

1981年に開局したMTVは1983〜1986年頃に全盛期を迎えていた。その影響でヴィジュアル性に富んだカルチャー・クラブやデュラン・デュランといったイギリスのNew Waveグループ、ヴァン・ヘイレンを筆頭とする長髪メイクのHeavy Metal勢がヒットチャートの常連に。 そしてマイケル・ジャクソン、プリンス、マドンナ、シンディ・ローパーなど時代の顔となるアーティストたちの登場。巨額の費用を掛けたストーリー性あるビデオ製作も当たり前になり、1984年からはMTVアワードの開催がスタート。 中でもMTV人気の一番の恩恵を受けたのは、ティーンエイジャー向けに作られたダンスシーン満載の青春映画だったかもしれない。1983年の『フラッシュダンス』はその先駆けとなって大ヒット。当然サウンドトラックも売れまくり、80年代のサントラブームもここから始まった。 『フットルース』(FOOTLOOSE/1984)はまさにそんな時代を象徴する1本。ハーバート・ロス監督は「MTVの感覚を念頭に置いて作った」と言うし、サウンドトラックはすべての撮影を終えてから、各場面のイメージに合わせてアーティストたちが曲作りをしたそうだ。ドラマの展開や人物との動きに音楽が見事に一致していたのはそういうわけだ。 出演はケヴィン・ベーコン、クリストファー・ペン(兄はショーン)、サラ・ジェシカ・パーカー(映画観ていて大発見!)ほか。脚本家ディーン・ピッチフォードがオクラホマの田舎町で現実にあった新聞記事をヒントにシナリオを書いた。 ユタ州の田舎町バーモント。この保守的な場所では教会や牧師が絶大な力を持っている。都会のシカゴから転校してきた高校生のレン(ケヴィン・ベーコン)は、クワイエット・ライオットを大音量で聴きながら登校。いきなり警察にカセットテープを取り上げられる。この町では5年前にロック音楽に夢中になっていた高校生たちが酒に酔って事故死。以来、公序良俗の名のもと、若者たちのダンスが全面的に禁止されていたのだ。 友達もでき、牧師の娘アリエルにも恋心を抱くレン。しかしアリエルには地元の彼氏がいて反感を買ってしまう。レンの当たり前の言動は、田舎町にとっては脅威に映って誤解を生んでいく。さらに5年前に亡くなった高校生がアリエルの兄であることも判明。法律は父親が先導して取り決めたことだった。 レンの大人たちへの..
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ウェインズ・ワールド〜みうらじゅんも思わず宣伝部長を買って出た“ヒップなお馬鹿”映画

ダン・エイクロイドとジョン・ベルーシの二人旅がきっかけで生まれた偉大なるバンド=ブルース・ブラザース。そんな彼らを生んだ人気バラエティ番組『サタデー・ナイト・ライブ』(以下SNL)から、1989年に再びエクセレントな二人組が誕生した。 楽天家のウェインに扮するのはカナダ出身のマイク・マイヤーズ。そして小心者でロマンチストなガースに扮するのは物真似の天才ダナ・カーヴィー。というだけでも、エイクロイドとベルーシを彷彿とさせてくれるコンビだが、マイクは1989年より、ダナは1986年よりSNLのレギュラーとして活躍。 ウェインの自宅の地下室をスタジオにしたCATV向けのほとんど海賊放送という設定で、ロックとパーティが大好きな二人がホストになって毎回ゲストを招き(エアロスミスやマドンナも出演)、タイムリーな話題をギャグにする5分間の寸劇トーク『ウェインズ・ワールド』は、たちまち看板コーナーとなった。 これをさらに膨らませたのが映画『ウェインズ・ワールド』(WAYNE’S WORLD/1992)で、SNLから飛び出したキャラクターが映画化されるのは、やはり『ブルース・ブラザース』以来12年ぶりのことだった。製作はSNLの生みの親ローン・マイケルズ。ウェインが口にする「エクセレント!」は全米で流行語にもなった。 ストーリーは、彼らを利用して一儲けを企むTV局のプロデューサー(ロブ・ロウ)への仕返しや、ウェインが恋するジョーン・ジェットばりのロック美女(ティア・カレル)との恋を軸に進められていく。だが正直なところ内容そのものはどうでもよく、ロックでパーティーな世界観とエクセレントなギャグの数々をどれだけ楽しめるかが重要な映画だ。 クイーンの「ボヘミアン・ラプソディ」を仲間たちと車の中で口ずさむシーンは、この曲を全米2位のリヴァイヴァル・ヒットへと押し上げた。本人役でアリス・クーパーがライブを披露し、ミートローフもカメオ出演。楽器屋での「天国への階段」禁止令なんて、ギターを買いに行ったことがある人なら思わずニヤついてしまうだろう。 結果、本国アメリカでは大ヒット。すぐに1億ドル以上の興行収入をたたき出した。しかし当時、日本が誇るヒップスター・みうらじゅん氏がこの“ヒップなお馬鹿”映画の私設宣伝部長を買って出て、メディア出演の度に「エクセレント!」を連発したにも関わらず、日本では彼ら..
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ロビー・ロバートソン27歳〜同い歳だったジャニス・ジョプリンの訃報を聞いた日

ロビー・ロバートソン。 ユダヤ人の父とインディアン母を持つ彼は、カナダで生まれたという。 1960年代に音楽仲間たちとロック歌手ロニー・ホーキンスのバックバンドで腕を磨き、その後レヴォン&ザ・ホークスを結成する。 1966年、彼らはボブ・ディランのワールドツアーでバックバンドを務めることとなる。 1968年に“ザ・バンド”と改名し、デビューアルバム『Music From Big Pink』(1968年)を発表する。 当時、ロビーは25歳だった。 1969年8月17日に、ザ・バンドでウッドストックコンサートに出演。 その月の末にはディランと共にワイト島フェスティバルに参加。 ロビーはこのワイト島出演の際にザ・ビートルズのジョン・レノン、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スターと親交を深めたと言われている。 同年9月、2ndアルバム『The Band』を発表。 そしてロビーが27歳を迎えた1970年の夏に3rdアルバム『Stage Fright』を発表。 ボブ・ディランのバッキンググループとして十分な実力をつけた彼らは、アメリカンミュージックの方向性に変化をもたらす重要な役割を果たしていた。 「その夏、僕と妻(ドミニク)の間に次女が生まれたんだ。当時、僕ら家族は地元カナダのモントリオールにあるドミニクの実家の近くのアパートで暮していた。僕は親として成長をするべく新たな階段に踏み出していたんだ。二人の娘の父親になると、自分でも気づいてなかった保護者的な側面が表れてくるものさ。そんな日々の中で、僕は音楽的にも“さらに新たなものを!”と模索していたんだ。」 ザ・バンドは留まることなく野心作『Cahoots』(1971年発表)の制作に取りかかる。 ニューオーリンズの音楽シーンを牽引してきたアラン・トゥーサンを招き、ホーンセクションを取り入れるが、この頃からメンバー間に摩擦が生じだして曲作りもスランプに陥る。 それでも彼らは積極的にステージに立ち、トップクラスのライブバンドとして成長を遂げてゆく。 27歳となり、二人の娘の父親となり、忙しく過ごしていた彼のもとに時代を象徴するような悲しい訃報が届く。 1970年10月のはじめ、作曲用スタジオの増築を考えていた彼はアルバート・グロスマン(ボブ・ディランのマネージャー)からアドバイスをもらうために電話をかけた。 受話器の向こうのアルバ..
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眠れぬ夜のために〜B.B.キングのアーバン・ブルースを聴きながら

夜、眠れない…… 誰もが一度は経験したことはあると思う。甘美な眠りをイメージするあまり、焦る気持ちは高ぶり、あるいは余計なことを考えて心配になり、軽く一杯のつもりがつい深酒になってしまう。そうして時計の針だけが進んでいき、気がつけばカーテンの隙間から訪れる朝の陽射しに目が眩む。新しい一日の始まりから疲労と損失のような気分を抱える羽目になる。 アメリカの伝説的な作家スコット・フィッツジェラルドが自身のエッセイ『崩壊』の中でも描いているように、昼間は何でもないことが、深夜になると忘れてきた荷物だって死刑宣告に劣らぬくらい悲劇的な意味を持つ。“魂の暗闇の中では来る日も来る日も時刻はいつも午前3時だ”という、あの有名な一文も綴られた。 映画『眠れぬ夜のために』(INTO THE NIGHT/1985)は、そうした慢性的な不眠症に陥った都会人の夜の出来事を描いた作品だった。 エド(ジェフ・ゴールドブラム)はベッドの中で今夜も眠れずにいる。そのせいか夫婦生活も会社仕事もうまくいっていない。昼下がりに睡魔に襲われた彼は自宅に向かう。しかし寝室では妻が浮気をしていた。 その夜、どうしようもない気持ちに駆られて一人で車を走らせるエド。ハイウェイで向かった先は意味もなく夜のロサンゼルス空港の駐車場。静けさの中で物思いに耽っていた時、突然一人の美女が助けを求めてきた。「このまま早く逃げて。警察には通報しないで」。何かワケがありそうだ。名前はダイアナ(ミシェル・ファイファー)という。 彼女は帰ろうとするエドを幾度となく引き留める。そして行く先々で謎の連中に追われ、死体も転がり、事件に巻き込まれていく。彼の本当の眠れない夜が始まろうとしていた……。 監督は『ブルース・ブラザース』を撮って1980年代の気鋭の監督として評価されていたジョン・ランディス。ダン・エイクロイドはエドの同僚役で出演。また、ミュージシャンの起用や有名監督たちのカメオ出演も当時は話題になり、特にデヴィッド・ボウイやカール・パーキンスが殺し屋やボディガード役で登場しているのも見逃せない。 ランディスは音楽の使い方も抜群で、本作ではB.B.キングに依頼。エドとダイアナが深夜のLAを彷徨うシーンでは、B.B.の都会的な「Into the Night」や「In the Midnight Hour」「My Lucille」が流れる設..
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クロスファイアー・ハリケーン/25×5〜ストーンズの長い歴史を綴った2本の映像作品

TAP the POP読者にとって、ローリング・ストーンズは説明不要・大前提のような存在であるが、若い世代や音楽体験が浅い人にとって、ストーンズは「世界的に有名でめちゃくちゃ稼ぐバンド」「怖そうなオヤジたちがいるロックバンド」くらいの認識だろう。90年代以降、そういう感覚になった。 例えばもし彼らが次に来日した時、一緒に誘った若い彼女彼氏に「ストーンズってどんなバンドなの? 一体何が凄いの?」と訊かれた時、あなたならどうするか? 黙って音源を流す? 一晩語り尽くす? あるいはキースの分厚い自伝本をプレゼントする? 一番てっとり早いのは、ストーンズの長い歴史を綴ったドキュメンタリー映像作品を観てもらうことかもしれない。いや、それが最もわかりやすい。そこには本人たちのコメントやインタビューがあり、貴重な映像、代表的な音源、バンドを巡る出来事がぎっしり詰まっている。しかも年代順に、物語風にだ。 ストーンズの映像作品はこれまでたくさん上映/リリースされてきた。そのほとんどはツアーやコンサートなど瞬間を記録したもの。しかし今回紹介する2本は、ファンならマストアイテム。ストーンズの魅力が全編に渡って体験できるという意味で、初心者にもオススメできる。 まずは日本でも2012年に公開された『クロスファイアー・ハリケーン』(Crossfire Hurricane/2012)。結成50周年を記念して制作されたドキュメンタリーで、もちろん現在入手可能。 この作品の特徴は、監督がメンバー6人に個別にインタビューし、カメラを持ち込まずに声だけを収録。それを効果的に使用している点。そして編集のテンポの良さ。引用映像も膨大だ。登場するのはミック・ジャガー、キース・リチャーズ、チャーリー・ワッツ、ロン・ウッドの現役メンバーに加え、1992年に脱退したビル・ワイマン、1969〜74年まで在籍したミック・テイラー。彼らのリアルな言葉に(1969年に亡くなったブライアン・ジョーンズは除く)、映像が重なっていく。 1972年、チャーター機を使って各地を飛んだ伝説の北米ツアーの模様から始まるこの作品は、次に60年代半ばのデビューまもないストーンズの若かりし姿とファンの異常な熱狂ぶりをとらえる。そして1967年のミックとキースの逮捕劇。ブライアンの孤立、死。ミック・テイラーの加入、オルタモントの悲劇。高額な税..
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ウィリー・ネルソンとウェイロン・ジェニングス〜カントリーのアウトローたち

1960年代のカントリー界は、商業的成功を第一に掲げたクセのない甘くポップなサウンドが主流となっていた。テネシー州ナッシュビルがすべてをコントロールしていたが、対抗する動きも少なからずあった。 ジョニー・キャッシュはレコード会社の反対を押し切って刑務所での荒々しいライブ録音盤を制作し、刑務所上がりのマール・ハガードはカリフォルニア州ベイカーズフィールドでホンキー・トンク・カントリーを復権。そしてグラム・パーソンズやクリス・クリストファーソンがロックにカントリーの良心を“出逢わせて”いた。 そんな流れが一つになる時がやってきた。ヒッピー運動やベトナム戦争の挫折を経たアメリカ建国200年を背景に、「レッドネック・ロック」「アウトロー・カントリー」と呼ばれるシーンが1970年代半ばに確立。全米規模でムーヴメントを起こすことになる。ナッシュビルの保守的な音楽産業と商業主義に反旗を立て、長髪にカウボーイハットを被ったミュージシャンたちが新たな拠点テキサス州オースティンに集まり始めたのだ。 中でも、1960年代からナッシュビルのシステムと折り合いがつかなかったウィリー・ネルソンとウェイロン・ジェニングス。二人が中心となって制作した1976年のアルバム『Wanted! The Outlaws』やヒットした「Good Hearted Woman」「Mammas Don’t Let Your Babies Grow Up To Be Cowboys」といった曲は、自由と孤独を貫くアウトロー・カントリーの道標となった。 1980年代に不遇の時代を送っていたジョニー・キャッシュを救ったのも、このアウトローたちの結束だった。ウィリー・ネルソンが呼びかけたテキサスでのステージがきっかけとなり、再会した顔役とでも言うべき4人(キャッシュ、ジェニングス、ネルソン、クリストファーソン)は自分たちをハイウェイメンと名乗ることにし、1985年にアウトローの歌を綴ったアルバム『Highwayman』をリリース。アルバム・シングル共にすぐさまカントリー・チャートの1位に上り詰める。好況に浮かれていたアメリカにアウトロー魂が蘇ったのだ。 まだ鉄道がなかった時代。馬に乗って街道に出没し、金持ちから金品を巻き上げたという盗賊を意味するタイトル曲「Highwayman」は、4人が順番に歌っていく。それはアウトロ..
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萩原健一27歳〜ドラマや映画での大活躍を経て、新たに音楽活動を再開させた転換期

唯一無二の個性を持った俳優/シンガーとして愛されている男、萩原健一。 “ショーケン”の愛称で親しまれている彼は、16歳の頃に地元の埼玉県でスカウトされて、当時に人気グループだったザ・スパイダースの弟分的なバンドだったザ・テンプターズのボーカリストとしてデビューを果たす。 「神様お願い!」「エメラルドの伝説」などヒット曲を連発し、その個性的な歌声とカリスマ的な魅力を武器に人気を集めていた。 1970年、ザ・テンプターズはグループサウンズブームの衰退と共に解散してしまうが、翌1971年に彼は沢田研二、井上堯之、大野克夫などと“ニューロック”という新スタイルを掲げて5人組のバンド、PYG(ピッグ)を結成する。 ライブ活動の他、ロックフェスティバルやテレビ番組にも出演し、大きな注目を集める存在となっていた矢先…彼に大きな転機が訪れる。 1972年、当時22歳だった彼は人気ドラマ『太陽にほえろ!』に初代新人刑事のマカロニ役で出演し、一躍全国的な知名度を獲得して俳優としてブレークを果たす。 その年の12月をもって音楽活動を停止(これによりPYGは事実上解散)。 1974年には名匠・神代辰巳 とのコンビによる映画『青春の蹉跌』でキネマ旬報の最優秀主演男優賞を受賞。 続いて『傷だらけの天使』、倉本聰脚本の『前略おふくろ様』と連続してTVドラマ作品の主演をつとめる。 翌1975年には、それまで休止していた音楽活動を再開させて初となるソロアルバム『惚れた』をリリースする。(河島英五の名曲「酒と泪と男と女」を収録) 同年にモデルの小泉一十三と結婚し、娘を一人もうけるが…3年後には破局、離婚することとなる。 そして…27歳を迎えた彼は、あの“男はつらいよ”で人気を博していた渥美清主演の松竹映画『八つ墓村』へ出演し、俳優として役の幅を広げてゆく。 「アレ!“たたりじゃ〜”でヒットはしたけど、変な映画だったぜ。脚本を書いた橋本忍さんから話がきました。どうしようかなぁ…と思いながら“ワンカップ大関”のCM撮影のためオーストラリアに行ったんです。その機内でたまたま手にした雑誌を開いたら、ポール・ニューマンが“タワーリング・インフェルノ”という映画に出演した記事が載っていたんです。ポール・ニューマンと言えば“赤いトタン屋根の猫”や“ハスラー”でしょ!そういう俳優が、高層ビルが火事になるパニック超大..
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ウェディング・シンガー〜間違った結婚相手を選んでしまった二人の運命は?

青春映画や恋愛映画では、その作品で描かれる時代設定が劇場公開時とリアルタイムではないケースがよくある。1970年〜80年代におけるこのジャンルでは50年代や60年代モノが数多く製作されたが、これは作り手たちが自分たちの若かった頃を振り返ろうとする時に起こる必然的なことで、時が流れて作り手たちの世代が変われば、今度は80年代や90年代モノが増えていくことになる。そしてこの種の映画にはなぜか傑作が多い(例えば70年代に公開された『アメリカン・グラフィティ』や『ビッグ・ウェンズデー』、80年代の『君がいた夏』、ゼロ年代『あの頃ペニー・レインと』など)。 90年代後半に作られた『ウェディング・シンガー』(Wedding Singer/1998)もそんな傑作の一つだった。主演のアダム・サンドラー、監督のフランク・コラチ、脚本のティム・ハーリヒ、製作のジャック・ジャラプートらは学生時代からの友人関係。いつか一緒に作品を作りたいと思い続けて10年後に本作で実現した。「僕らは青春時代の多くの時間を80年代の郊外で育ちながら過ごした。この映画では郊外での生活、人間関係、結婚について描きたかったんだ」 この映画には誰もが実行可能な小さな魅力がたくさん詰まっている。だから観る者は段々とハッピーな気持ちになってくる。事実、アメリカでは「大好きな人と一緒に観ると幸せになれる」という噂が広まって大ヒットした。 普遍的な愛や結婚のストーリー、出演者たちの笑顔(特にドリュー・バリモア)や歌声(アダム・サンドラーも歌を披露)、そして80年代のヒット曲を綴ったサウンドトラック。あのビリー・アイドルが自身の役で登場するのもサプライズだが、当時8歳になる息子が『サタデー・ナイト・ライヴ』の人気コメディアン、アダム・サンドラーの大ファンだったので受諾したという。映画に出るとビリーは息子から神様扱いされたとか。 物語の舞台は1985年の郊外の町。ロビー(アダム・サンドラー)はプロのミュージシャンになる夢を捨てきれずに、他人の結婚式を歌と司会で盛り上げるウェディング・シンガーの職で何とか生計を立てている。しかし、自分の結婚式では当日に花嫁からドタキャンされるという最悪なことが起こる。 自暴自棄になっていた時、結婚パーティ会場で働くジュリア(ドリュー・バリモア)と出会って意気投合。3か月後に迫った結婚式の準備を手..
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