2021-02

未分類

これが本当の80年代サウンド⑭〜忘れられたヒット曲にもう一度スポットライトを

80年代の洋楽をまとめたネットコンテンツやラジオ番組や雑誌には、いつもお決まりのアーティストやヒット曲だけがラインナップされている。それは同時代のコンピレーションがリリースされても同じこと。今回の企画はそんなありきたりの選曲ではなく、聞くだけで(観るだけで)「ああ! いた!! あった!!」と歓喜するようなアーティストやヒット曲を思いつくままに集めてみた。題して「これが本当の80年代サウンド」。そろそろマドンナやマイケル・ジャクソンの呪縛から解放されよう。ドライブや通勤タイム、懐かしの音源探しに活躍すること間違いなし。(選曲/中野充浩) リチャード・マークス「Don’t Mean Nothing」(1987年/全米3位) 1987年からわずか3年の間に、3つのナンバーワン・ヒットと4曲のトップ5ヒットを放ったリチャード・マークス。ライオネル・リッチーやケニー・ロジャースとの仕事で鍛え上げ、満を持してのデビューだった。当時はAORファンからも支持が高く、バラード歌手として日本の女性からも人気があった。94年の「Now and Forever」が最後のヒット。その後、ソングライターやプロデューサーとして活躍の場を移すが、自身のアルバムもコンスタントにリリースし続ける。 ジュース・ニュートン「The Sweetest Thing (I’ve Ever Known)」(1981年/全米7位) 70年代半ばにジュース・ニュートン&シルヴァー・シュプールとしてデビュー。しばらくは不遇の時代を送ったが、1981年に「Angel of the Morning」(4位)、「Queen of Hearts」(2位)、そしてこの曲が立て続けにカントリーチャートとポップチャートでクロスオーバーする特大ヒットを記録。一躍注目を集めた。メランコリックな歌声が活かされた名曲だ。 ネイキッド・アイズ「Always Something There to Remind Me」(1983年/全米8位) この「僕はこんなに」と続く「プロミセス・プロミセス」が連続してアメリカでヒットした彼らは、イギリス出身のシンセポップデュオ。いわゆる「第2次ブリティッシュ・インヴェイジョン」の波に乗って束の間の人気を博した。80年代前半から半ばは、この種のUK/ニュー・ウェイヴ系バンドがチャートを駆け上がることが珍しく..
未分類

これが本当の80年代サウンド⑬〜忘れられたヒット曲にもう一度スポットライトを

80年代の洋楽をまとめたネットコンテンツやラジオ番組や雑誌には、いつもお決まりのアーティストやヒット曲だけがラインナップされている。それは同時代のコンピレーションがリリースされても同じこと。今回の企画はそんなありきたりの選曲ではなく、聞くだけで(観るだけで)「ああ! いた!! あった!!」と歓喜するようなアーティストやヒット曲を思いつくままに集めてみた。題して「これが本当の80年代サウンド」。そろそろマドンナやマイケル・ジャクソンの呪縛から解放されよう。ドライブや通勤タイム、懐かしの音源探しに活躍すること間違いなし。(選曲/中野充浩) ビリー・アイドル「Rebel Yell」(1984年/全米46位) ジェネレーションX解散後、渡米したビリーは1982年にソロデビュー。翌年には相棒のギタリスト、スティーヴ・スティーヴンスと共作したセカンドが大ヒットする。これは最初にシングルカットされた曲。まさにビリー・アイドルの世界だ。なお、同アルバムからは「Eyes Without a Face」のヒット(全米4位)も生まれた。余談だが、1998年の映画『ウェディング・シンガー』に出演している。 リタ・フォード&オジー・オズボーン「Close My Eyes Forever」(1989年/全米8位) ランナウェイズの二人のギタリストといえば、ジョーン・ジェットとリタ・フォード(少女たちのストーリーは2010年の映画『ランナウェイズ』に詳しい)。バンド解散後、リタは1983年に初ソロ作をリリース。続くセカンドもチャート・セールス両面振るわなかったが、サード作からこの曲と「Kiss Me Deadly」(全米12位)がヒットして、彼女の名前を久しぶりに聞くことになった。帝王オジーとのデュエットだ。 リンダ・ロンシュタット&ジェームス・イングラム「Somewhere Out There」(1986年/全米2位) 忘れられた名曲の代表格。スピルバーグ製作総指揮のアニメ映画『アメリカ物語』の主題歌としてヒットしたこの曲は、日本では当時FM番組「アメリカントップ40」で紹介されていたことを思い出す。寒い季節に流れてくるリンダの歌声。これは旅立ちの歌だ。デュエット・ソングとしても超一級作。知らない人はぜひ聴いてほしい。 エクスポゼ「Seasons Change」(1987年/全米1位) ..
未分類

春を想う歌・後編 〜イルカのなごり雪

1975年、かぐや姫は解散することとなる。 このとき「イルカに“なごり雪”を是非歌わせたい」と名乗り出たのがイルカの夫・故神部和夫だった。 イルカは19歳で神部と結婚、夫婦でデュオを組んで活動していた。 1974年、当時24歳だったイルカはソロ活動を始め、神部はプロデューサーとしてイルカを支えた。 イルカとかぐや姫といえば、イベント等のステージで一緒に歌ってきた音楽仲間でもあった。 だが、彼女は「なごり雪」を歌うことにためらいがあった。 かぐや姫の名曲を今の自分では恐れ多くて歌えない…と。 しぶしぶ連れて行かれたスタジオで、伊勢は彼女にこう言ったという。 「なごり雪」が好きなら歌えばいい。 僕はうれしい、好きなように歌えばいい。 彼女は伊勢の言葉に背中を押されながらマイクの前に立った。 歌うつもりはなかったから、ちゃんと練習をしていなかったという。 そして意を決した彼女は、音符ではなく言葉(歌詞)を追って心を込めて歌った。 後で聴くと原曲の「きれいになった」が「きれいにーなった」と1拍分多くなっていた。 イルカの「なごり雪」の誕生であった。 伊勢が生み、イルカが育て、そして「なごり雪」は日本を代表するフォークソングとなった。 大人になってゆく少女との淡い別れを歌ったこの名曲は、時代を超えて“春の定番”の歌となった。 <前編 〜伊勢正三のなごり雪〜はコチラ> ♪「なごり雪」/イルカ 時は流れ…2002年、この歌のたった1拍の違いに注目した映画監督がいた。 大林宣彦である。 大林は伊勢が作った「なごり雪」をモチーフに同名の映画を作り上げた。 伊勢の出身地からほど近い大分県臼杵の古い街並みが残る二王座でのうすき竹宵や、臼杵磨崖仏での石仏火祭りなど、臼杵各地で撮影が行われたほか、大分市や旧宇目町(現佐伯市)でもロケが行った。 登場人物のセリフとして「なごり雪」の歌詞をそのまま使うという実験的な試みにもトライした。 この映画を作るにあたって大林が選んだキーワードは“断絶”だった。 「君はきれいになったが、もう僕とはいっしょにはいない」断念の気持ちだという。 そして大林は、伊勢が歌う1拍少ない「なごり雪」にこだわった。 1970年代の日本は高度成長時代。モノとカネがあれば幸せになれると人々は信じた。 しかしモノとカネを得た代わり失ったものも大きいと大林は映画で表現した。 ..
未分類

春を想う歌・前編 〜伊勢正三のなごり雪

♪「なごり雪」/かぐや姫 1974年、かぐや姫の代表作となったアルバム『三階建の詩』に収録されたこの「なごり雪」。 翌年、伊勢正三が作詞作曲をしたこの曲をイルカがカヴァーし、1976年のオリコンの集計で55万枚近いセールスを記録した。 今春が来て君は きれいになった 去年よりずっと きれいになった このフレーズを一番先に思いついたのだと、伊勢はあるインタビューで語っている。 春が待ち遠しいこの時期…淡く切ないメロディと歌詞のリフレインと共に、ほろ苦い青春時代の思い出や、旅立ちの日の記憶に浸る人も少なくはない。 1973年の秋、かぐや姫は「神田川」をリリースし、自己最大のヒットを飛ばしながらも…歌詞変更の要求によるNHK紅白歌合戦の出場辞退や、楽曲の映画化を巡ってレコード会社とのトラブルを抱えていた。 そんな中、リーダーの南こうせつが、かぐや姫の活動を“3階建”にしようと提案した。 “3階建”とは、それまでのワンマン体制ではなく“3人が対等に活躍する”という意味だった。 伊勢も作詞作曲を担当することになったのだ。 それは伊勢にとって初めてのチャンスだった。 伊勢は大分県津久見市の出身、高校は大分市の大分舞鶴高校。 応援団の勧誘を逃れるためとっさに入ったクラブが音楽部だった。 そのクラブの部長が南だった。 大分舞鶴高校は当時遠隔地の生徒のための寮があり、週末は自宅の津久見へ帰る生活だったという。 しかし伊勢は厳格な校風になじめず、日曜の夜、汽車で寮に戻るのが嫌でたまらなかった。 地元の友人や、恋心を抱いていたガールフレンドとのホームでの別れがつらかった。 このときの“気持ち”がモチーフとなり「なごり雪」に繋がったという。 しかし、この歌はその後意外な展開を見せる。 動き始めた汽車の窓に顔をつけて 君は何か言おうとしている 君のくちびるが「さようなら」と動くことが こわくて下を向いてた 【伊勢正三オフィシャルサイト】 http://www.ise-shozo.com/ かぐや姫『KAGUYAHIME Best Dreamin‘』 (2010/日本クラウン) iTunes Amazon こちらのコラムの「書き手」である佐々木モトアキの音楽活動情報です♪ 宜しくお願い致します。 【山部“YAMAZEN”善次郎×佐々木モトアキ ダブルネーム弾き語りTOUR “..
未分類

トレインスポッティング/ドラッグストア・カウボーイ〜英米ジャンキーたちの末路

ジャンキー(いわゆる薬物中毒者)を主役にした英米産の映画はこれまで数々と製作されてきたが、良質な作品に共通するのは、例外なく登場人物が悲惨な風景の中を彷徨うことになるという点だ。今回はそれを象徴した2本の作品を比較紹介したい。 まずはアメリカ。『ドラッグストア・カウボーイ』(DRUGSTORE COWBOY/1989)は、ガス・ヴァン・サント監督の35㎜デビュー作として知られる伝説的な作品。公開当初はマット・ディロンやケリー・リンチのイケてるヴィジュアルもあって、日本ではストリート/ファッショナブルな扱いをされたが、今観直してみると、けっこうヘヴィーな内容だ。 ボブ(マット・ディロン)とその妻ダイアン(ケリー・リンチ)は、自分たちが楽しむためのドラッグを手に入れるために、時々薬局を襲ってはアパートやモーテルを転々としている夫婦。幼馴染みのリックも仲間で、最近は若い彼女のナディーンも一緒に行動している。大抵のジャンキーはドラッグを買う金欲しさに宝石強盗をするが、彼らはどうせやるなら直接と、薬局(ドラッグストア)ばかり狙っている。 舞台は1971年のオレゴン州ポートランド。ロックの世界で言えば、ローリング・ストーンズが「Brown Suger」をリリースした頃だ。ボブたちは警察に目をつけられていて、その夜ガサ入れを喰らう。ボブは異常にジンクスに拘る男で、その一つに「ベッドに帽子を置くな」があった。 だが、新米で仲間外れ意識を抱いたナディーンは、ベッドに帽子をワザと置く。その日、珍しくドラッグ入手に失敗したボブが目にしたのは、モーテルでドラッグ過剰摂取が原因で冷たくなったナディーンの姿だった。しかもモーテルは地元警察の集会に使われる日で、窓の外はパトカーだらけ。死体を運び出すボブは、この時人知れず心に誓う。 どうかこの死体を無事に埋めさせてください。ブタ箱は勘弁です。この願いを聞いてくれたら、感謝の印に田舎へ帰ってカタギになります。 願いが叶ったボブはダイアンと別れて、薬物中毒更生プログラムに参加。工場で働きながら真面目に金を稼ぎ、荒んだ暮らしを改める。しかし、再会したダイアンとやり直す気持ちを告白した矢先、顔馴染みだったゴロツキにあっけなく撃たれてしまう。ボブは自分の身体が運ばれる救急車の中で、迫り来る死を前に「俺は生きていたい」と想う。 服役していたジェームス・フ..
未分類

ニーナ・シモン27歳〜一夜にして彼女をスター歌手にした伝説のコンサート、その後一変した生活

1959年9月12日、当時26歳だった彼女はニューヨークのTown Hallで初のホールコンサートを成功させる。 それまでクラブでの活動が中心だった彼女にとって、このステージは大きな転機となった。 「その日、私は舞台袖から満席になった客席を見渡したわ。観客はきちんと並んで席に付き、飲み物のグラスを手にした人など一人もいなかった。煙草売りの女の子がステージの前を横切ることもない。これまでやってきたグラブでの仕事は、すべてこの日のためのリハーサルだった。何年もかけて経験を重ね、確固とした自信が持てる演奏テクニックとステージでの振る舞い方は身につけていたわ。」 当時彼女が所属していたコルピックスレーベルは、その日のステージをライブアルバム『Nina Simone at Town Hall』として発売した。 彼女はこのコンサートによって絶賛され、一大センセーションを起こしたのだ。 「まるで映画のストーリーのように、私は一夜にしてスターになった。」 翌1960年2月、彼女は27歳を迎える。 あのTown Hallでのコンサートから約5ヶ月間、様々なマスコミが彼女を取り上げ、街を歩けば声をかけられ、アメリカ中からコンサートの依頼が殺到した。 彼女がそれまで作ってきたレコードはヨーロッパでも発売された。 「確かにあの夜の客席の反応はいつもと違っていたわ。何年もステージの仕事をしてきたけれど、あんな大喝采は初めてだった。」 伝説となったTown Hallでのコンサート以降、音楽評論家たちは彼女の音楽がどのジャンルに属するのか議論し始めた。 クラシックピアノの技術を用いてポピュラーを演奏し、そこにナイトクラブでの経験で得たジャズのテイストを織り交ぜていた彼女の音楽。 さらに黒人霊歌や、当時頭角をあらわしていたフォークミュージックも歌っていたのだから…議論は尽きなかった。 結局、彼女は“ジャズのようなものを歌う歌手”として分類されることとなった。 「私にとってジャズとは生き方だった。あるいは歩き方、話し方、考え方、行動のとり方、アメリカの黒人がする全てのことを意味するものだった。その点では私をジャズシンガーと呼んでも問題なかったけど、他のあらゆる点で私はジャズミュージシャンではなかった。」 彼女の身辺は劇的に変化していった。 頻繁にツアーに出るようになり、新しいアルバムの..
未分類

Drift Away〜自由!さすらい!ロック黄金期を讃える歌

さあビートをくれ!俺の魂を自由にしてくれ! ロックンロールの海に溺れ、さすらいながら流れていくんだ! 「自由!さすらい!ロックンロール!」 古き良きロック黄金期を象徴するようなフレーズが歌のサビで繰り返される名曲「Drift Away (明日なきさすらい)」は、70年代〜80年代に多くのアーティスト達がコンサートで取り上げた“ロックンロール讃歌”だ。 1972年にメンター・ウィリアムスが作詞作曲し、同年に“スワンプロック”の雄ジョン・ヘンリー・クルツがアルバムに収録したものが初出となった。 メンター・ウィリアムスと言えば、ロジャー・ニコルスと組んで数々の名曲を残したポール・ウィリアムスの弟であり(The Holy Mackerel“ホリー・マッケレル”では兄弟で在籍)、黒人カントリーアーティストのドビー・グレイやキム・カーンズらを手がけたカントリー界の名プロデューサーでもある。 彼はA&M、MCA、RSO、CBSなど大手のレコード会社と契約し、ロッド・スチュアート、ローリング・ストーンズ、ウェイロン・ジェニングス、リンゴ・スターetc.に曲を提供している。 ところで前出の“スワンプ”という言葉にどんな意味があるのだろうか? それはアメリカ南部の“湿地帯”を指す言葉で、R&B、ブルース、カントリー、ゴスペルなどアメリカ南部をルーツとした音楽をごった煮にしてできた泥臭いロックを“スワンプロック”という。 そんなバックボーンから生まれた「Drift Away (明日なきさすらい)」を1973年にドビー・グレイが歌い、全米ビルボードチャート5位という大ヒットを記録した。 後にこの“ロックンロール讃歌”は、ロッド・スチュワート、ブルース・スプリングスティーン、ロイ・オービソン、レイ・チャールズ、ドゥービー・ブラザーズ(タイトルが「Give me the beat, boys」)、ボン・ジョヴィ、そしてローリング・ストーンズ(海賊盤track from the “It’s Only Rock & Roll” sessions 1974に収録)といった大物アーティスト達から挙ってカヴァーされ、世界中のロックファン達に愛されることとなる。 心が自由なら メロディが胸を揺さぶる 憂鬱な時は ギターの音が慰めてくれる こちらのコラムの「書き手」である佐々木モトアキの音楽活動情報..
未分類

ナインハーフ〜ミッキー・ロークとキム・ベイシンガーが演じた“9週間半”の男女関係

日本の都市で暮らす紳士淑女たちが札束とかくれんぼしたり、消費という名のパーティ・デイズに明け暮れたバブル時代──。 男と女はスタイリッシュな出逢いやゲーム感覚の恋愛を気にかけるようになり、それに紐づくファッションやレストラン、住空間と健康管理、音楽やアートといった情報にやたらと詳しくなっていた。彼ら彼女らが一番恐れたこと。それは流行に遅れてしまうことだった。 『ナインハーフ』(NINE 1/2 WEEKS/1986)はそんな時代の幕開けに日本で公開された。この映画で描かれたのは、まさに享楽的で虚飾的な男女関係における重要なコミュニケーション=セックス。 都市生活を謳歌する怖い者知らずの若い世代が見逃すはずがない。中でも、氷を身体の上で滑らす「ナインハーフごっこ」が話題になった。ハリウッド映画が日本のポップカルチャーに及ぼす影響がまだ強かった頃の話だ。 監督は『フォクシー・レディ』(1980)や『フラッシュダンス』(1983)で女性の目覚めや成長を描いたヒットメーカー、エイドリアン・ライン。様々な企画が持ちかけられる中、次に選んだのがこの『ナインハーフ』だった。 原作はNY在住の若い女性エグゼクティヴ、エリザベス・マクニールの『ある愛の記憶~飼われた猫のように』。本当は中年の男が書いたとされるエロティックな小説だ。監督は舞台を当時のNYに置き換え、ヤッピーとキャリアウーマンを登場させた。 原作では男が女を征服、支配するという歴史的なパターンのメタファーとして描かれているけど、映画では女は被害者ではなく、新しい目覚めの儀式に参加する、男と同格の参謀者として映るように手を加えた。物語の終わりにはエリザベス(女性の主人公)は自分で心を決めるんだ。 ストーリーはセックスに虜になった男と女の9週間半を追う。謎多き証券会社のヤンエグ(ミッキー・ローク)は「君は僕の分身だ」と言って、アートギャラリーで働くエリザベス(キム・ベイシンガー)にあらゆるエロティックを仕掛ける。時には男装や万引きを強要するが、女は戸惑いや怒りを感じながらも自己を解放するかのように受け入れていく。しかし、世話好きでサディスティックな男の要求は次第にエスカレートしていって……。 肉体関係による孤独や空虚の穴埋めは『ラスト・タンゴ・イン・パリ』のようだ。ミッキー・ローク演じるウォール街の成功者の奇行は、一歩間..
未分類

未来世紀ブラジル〜サンバの名曲「Brazil」が流れる傑作は今の世界を予言していた!

テリー・ギリアムは『未来世紀ブラジル』(Brazil/1985)の脚本や撮影に取り組む前、あるイメージが頭からずっと離れなかったという。 誰かが石炭がらで真っ黒になった浜辺に腰掛けていると、コンベアベルトや醜い鉄の塔の向こう側には緑溢れる素晴らしい世界がきっとどこかにあるって、現実から逃避するようなロマンチックな歌がラジオから聞こえてくる。 あらゆる情報や個人のプライバシーが政府とコンピュータの支配下におかれた世界。自由を求めて巨大権力と闘いながらも、敗北して犯罪者の烙印を押されて抹殺される結末。そんな灰色の近未来を舞台にしたこの作品は、まるで我々が生きる現在の世界を描いていたかのような、予言的映画のように思える。公開から30年。『未来世紀ブラジル』が放つ“すでに起こっている”メッセージが、今心に響く。 監督/脚本は『モンティ・パイソン』シリーズのライター、テリー・ギリアム。製作費は2000万ドルで、ロケにはロンドンのスタジオ、工場や発電所、邸宅、パリ郊外の団地などが使われた(ちなみに南米のブラジルは関係ない)。映像美や風刺やブラックユーモアなども見逃せないが、この映画最大の魅力は、当初は体制側にいながらも一人の女との出逢いによって次第に反体制へと目覚めていく主人公サムの姿。ジョージ・オーウェルが描いた『1984年』の監視管理社会下での、現実と幻想が交錯する「ウォルター・ミティ」(映画『虹を摑む男』『ライフ』の原作)のような展開だ。 情報省記録局に勤務する役人サム(ジョナサン・プライス)は、亡き大臣の父と美容整形に熱中する母を持つ裕福な青年。しかし現実の仕事がつまらないので、いつも自分が空飛ぶ騎士となって天使のような美女を悪から救出するという白昼夢に耽っている。 サムが生きているのは、政府がすべてをコンピュータで管理している都市。人々が怯える一方で、反体制派はテロ行為に走って爆弾騒ぎが日常茶飯事だった。保安警察は騒音を抹殺するため躍起になる。そしてクリスマスの日。一匹のハエが原因でコンピュータにミスが起こり、“タトル”と“バトル”という人違いの事件が発生。靴職人がテロリストとして誤認逮捕されてしまう。それを目撃していたのは上の階に住むトラック運転手の若い女ジル(キム・グライスト)。 サムは誤認逮捕のトラブルを上司から相談されると、手際よくキーボードを叩いて問題を..
未分類

ロスト・ハイウェイ〜たった1シーンに凝縮されたデヴィッド・リンチの世界

以前、デヴィッド・リンチ作品について触れた時、その独特の世界観に好き嫌いがはっきり分かれると書いた。色彩感覚溢れる映像美、拘り選び抜かれた音楽から、普通ではないクセの強い登場人物、暴力や死やセックスの表現方法まで、まさに唯一無比のリンチ・ワールドとでもいうべき時間と向き合えるかどうか。 好きな人にとっては、デヴィッド・リンチは最高の監督に違いない。小説の1ページ目から読者をがっつり引きつける作家がいるのと同じように、リンチは最初のワンカットから観る者をその強烈な世界に誘える希少な映画作家といえる。「この人にしか作れない映画」「誰にも真似できない映画」を作れる人。かといってアートフィルムと呼ぶような非商業主義でもない。 例えば『ブルー・ベルベット』『ツイン・ピークス』『ワイルド・アット・ハート』で“やられた”人は多い。言ってみれば、リンチ映画は常用性・中毒性が高いドラッグのようなもの。作品をまともに理解しようとすれば、それは虚しい努力に終わる。謎は永遠に解決されない。大事なのは全編を貫く一つの確固たるムードやイメージであり、理解や解決といった答えを求める類いではない。 デヴィッド・リンチ監督は、「映画の半分は映像で、もう半分がサウンドだ」と言い切るように、音楽をとても大事にする映画作家でもある。『ブルーベルベット』ではロイ・オービソンの「In Dreams」、『ワイルド・アット・ハート』ではエルヴィス・プレスリーの「Love Me Tender」が効果的に使われた。 音に語らせ、音を感じ取らなければならない。私は非常に多くの音楽を耳にした。その中の幾つかはこのシーンにはこの曲、あのシーンにはこれをと、語りかけてくる。なぜかは分からないけど、各々の曲はシーンをサポートし、全体をより素晴らしいものにしてくれた。 『ロスト・ハイウェイ』(Lost Highway/1997)の制作における言葉だ。突然、全く異なる人格・友人などを持ってしまう病「サイコジェニック・フーガ」(心因性記憶喪失)を取り入れたこの作品も、当然のように理解や解決を期待してはいけない。つまり、ムードやイメージを心地よく感じるためには、音楽のチカラが必要不可欠なのだ。本作ではデヴィッド・ボウイ、トレント・レズナー/ナイン・インチ・ネイルズがそれにあたる。 また、1997年といえば、あの『タイタニック』が公..
未分類

イギー・ポップ〜狂気と覚悟の27歳

♪「Search And Destroy」/イギー&ザ・ストゥージズ この曲は、とても危険な定義を唱えている。 影響力のあるアートを作りたいのなら、健全で理性的な生活を放棄することだ。 すべてに『NO!』と言い、ブチ壊さなければいけない。 レコーディングに入る前から、俺はキャリアの終わりを覚悟した。 『この曲は俺を葬るだろう』と…。 社会に批判されることは分かっていた。 だけど、そんなことはどうでもよかった。 『作る!』と決めたんだ。 イギー・ポップは50歳を迎えた頃のインタビューの中で、当時を振り返りながらそう語った。 1973年、イギー&ザ・ストゥージズが放った曲「Search And Destroy」は、彼の代名詞となった3rdアルバム『Raw Power』のオープニング曲として収録され、リスナー達の脳天を直撃した。 この1曲が持つ影響力の凄さは、この錚々たるフォロワー達の言動を見れば明らかだろう。 プライマル・スクリームのボビー・ギレスビーは「人生を変えるほど影響を受けた曲」として挙げている。カート・コバーンは、このアルバムを「最も好きなアルバム」として公表しており、ガンズ・アンド・ローゼズもまた「自分たちのルーツ」として挙げている。レッド・ホット・チリ・ペッパーズが自分たちのライブでこの曲を十八番にしていることはロックファンにの間では有名な話だ。そしてヘンリー・ロリンズは両肩いっぱいに「Search&Destroy」と入れ墨を刻んでいるほどだ。 俺は原子爆弾の申し子なんだ! 俺は世界が見捨てた子供 探し出しては壊すだけ だれか俺を助けてくれ だれか俺の心を救ってくれ… (アムバム『Raw Power―レガシー・エディション―』歌詞カードより/2010年・ソニーミュージックエンターテイメント) その歌には危険で過激な表現が剥き出しのまま詰め込まれていた。 それは世界に警鐘を鳴らす強烈なメッセージでもあった。 割れたガラス瓶の破片の上を転げまわり、血まみれとなって救急車で運ばれるなど、当時のイギーのステージ・パフォーマンスは狂気に満ち、破滅へと向かっていた。 そして翌年、27歳になった彼は、薬物中毒に陥り※音楽活動ができない状態となってしまう。 ♪「Search And Destroy」/レッド・ホット・チリ・ペッパーズ 原子力利用の歴史は一般に、193..
未分類

スティーヴン・タイラー27歳〜酒とコカインに狂いながらロックスターへと躍進を遂げた日々

エアロスミスのフロントマンとして長年ロック界を牽引してきたスティーヴン・タイラー。 ロックスター然としたその風貌、そのイメージ通りに型破りな逸話に事欠かない人物として知られている彼は、27歳の頃どんな日々を送っていたのだろうか? ──1973年1月、エアロスミスは1stアルバム『Aerosmith(野獣生誕)』でデビューした。 収録曲の「Dream On」がアメリカ東海岸地区を中心に注目され、全米シングルチャート59位まで上昇するヒットとなる。 1974年3月に、2ndアルバム『Get Your Wings(飛べ!エアロスミス)』を発表。 1年以上に渡って全米アルバムチャート200位圏内に入り続けるロングセラー作品となった。 そしてスティーヴン・タイラーが27歳となった1975年4月、3rdアルバム『Toys in the Attic(闇夜のヘヴィ・ロック)』を発表。 当時彼は、リリースしたばかりのアルバムについてこんな発言を残している。 「まず、タイトルの意味は“屋根裏のオモチャ箱”っていうんだ。1960年にトニー賞にノミネートされ1963年に映画化されたブロードウェイミュージカルと同名とは知らなかったよ。まぁ知ってたところで関係ないさ。これは世界でただ一つの、セクシーで心揺さぶるエアロスミスのアルバムなんだ。」 「屋根裏には思い出の品が詰まってるんだ。昔から懐かしい場所だ。古いテディベア、漫画本、バネのオモチャ、先祖の宝物、虫食いのあるお気に入りのセーター、幼い頃の写真、古いローラースケート、ストーンズのコンサートチケット…このタイトルに決めた理由は“バンドの成功”だった。俺は宇宙人にも知られたくて岩に名前を刻んだ。長く生きたいことへの表明だ。死んだ後もレコードは長く聴き継がれる。片時も忘れることのなかったお気に入りの品と一緒に、俺達のアルバムも屋根裏にしまわれるんだ。エアロスミスはそういうバンドになったんだ。ビートルズやアニマルズ、キンクスは歌詞とタイトルの上手さで成功した。俺はイカれた頭でなく、ちゃんと考えて作品を創ってるんだ。」 同アルバムに収録されていた「Walk This Way」や「Sweet Emotion」がシングルヒットし、アルバムも全米チャート11位を記録し、彼らは初のプラチナディスクを獲得することとなる。 この勢いで前2作のアルバムの..
未分類

フットルース〜2011年にリメイクもされたMTV感覚満載の80年代大ヒット作

1981年に開局したMTVは1983〜1986年頃に全盛期を迎えていた。その影響でヴィジュアル性に富んだカルチャー・クラブやデュラン・デュランといったイギリスのNew Waveグループ、ヴァン・ヘイレンを筆頭とする長髪メイクのHeavy Metal勢がヒットチャートの常連に。 そしてマイケル・ジャクソン、プリンス、マドンナ、シンディ・ローパーなど時代の顔となるアーティストたちの登場。巨額の費用を掛けたストーリー性あるビデオ製作も当たり前になり、1984年からはMTVアワードの開催がスタート。 中でもMTV人気の一番の恩恵を受けたのは、ティーンエイジャー向けに作られたダンスシーン満載の青春映画だったかもしれない。1983年の『フラッシュダンス』はその先駆けとなって大ヒット。当然サウンドトラックも売れまくり、80年代のサントラブームもここから始まった。 『フットルース』(FOOTLOOSE/1984)はまさにそんな時代を象徴する1本。ハーバート・ロス監督は「MTVの感覚を念頭に置いて作った」と言うし、サウンドトラックはすべての撮影を終えてから、各場面のイメージに合わせてアーティストたちが曲作りをしたそうだ。ドラマの展開や人物との動きに音楽が見事に一致していたのはそういうわけだ。 出演はケヴィン・ベーコン、クリストファー・ペン(兄はショーン)、サラ・ジェシカ・パーカー(映画観ていて大発見!)ほか。脚本家ディーン・ピッチフォードがオクラホマの田舎町で現実にあった新聞記事をヒントにシナリオを書いた。 ユタ州の田舎町バーモント。この保守的な場所では教会や牧師が絶大な力を持っている。都会のシカゴから転校してきた高校生のレン(ケヴィン・ベーコン)は、クワイエット・ライオットを大音量で聴きながら登校。いきなり警察にカセットテープを取り上げられる。この町では5年前にロック音楽に夢中になっていた高校生たちが酒に酔って事故死。以来、公序良俗の名のもと、若者たちのダンスが全面的に禁止されていたのだ。 友達もでき、牧師の娘アリエルにも恋心を抱くレン。しかしアリエルには地元の彼氏がいて反感を買ってしまう。レンの当たり前の言動は、田舎町にとっては脅威に映って誤解を生んでいく。さらに5年前に亡くなった高校生がアリエルの兄であることも判明。法律は父親が先導して取り決めたことだった。 レンの大人たちへの..
未分類

ウェインズ・ワールド〜みうらじゅんも思わず宣伝部長を買って出た“ヒップなお馬鹿”映画

ダン・エイクロイドとジョン・ベルーシの二人旅がきっかけで生まれた偉大なるバンド=ブルース・ブラザース。そんな彼らを生んだ人気バラエティ番組『サタデー・ナイト・ライブ』(以下SNL)から、1989年に再びエクセレントな二人組が誕生した。 楽天家のウェインに扮するのはカナダ出身のマイク・マイヤーズ。そして小心者でロマンチストなガースに扮するのは物真似の天才ダナ・カーヴィー。というだけでも、エイクロイドとベルーシを彷彿とさせてくれるコンビだが、マイクは1989年より、ダナは1986年よりSNLのレギュラーとして活躍。 ウェインの自宅の地下室をスタジオにしたCATV向けのほとんど海賊放送という設定で、ロックとパーティが大好きな二人がホストになって毎回ゲストを招き(エアロスミスやマドンナも出演)、タイムリーな話題をギャグにする5分間の寸劇トーク『ウェインズ・ワールド』は、たちまち看板コーナーとなった。 これをさらに膨らませたのが映画『ウェインズ・ワールド』(WAYNE’S WORLD/1992)で、SNLから飛び出したキャラクターが映画化されるのは、やはり『ブルース・ブラザース』以来12年ぶりのことだった。製作はSNLの生みの親ローン・マイケルズ。ウェインが口にする「エクセレント!」は全米で流行語にもなった。 ストーリーは、彼らを利用して一儲けを企むTV局のプロデューサー(ロブ・ロウ)への仕返しや、ウェインが恋するジョーン・ジェットばりのロック美女(ティア・カレル)との恋を軸に進められていく。だが正直なところ内容そのものはどうでもよく、ロックでパーティーな世界観とエクセレントなギャグの数々をどれだけ楽しめるかが重要な映画だ。 クイーンの「ボヘミアン・ラプソディ」を仲間たちと車の中で口ずさむシーンは、この曲を全米2位のリヴァイヴァル・ヒットへと押し上げた。本人役でアリス・クーパーがライブを披露し、ミートローフもカメオ出演。楽器屋での「天国への階段」禁止令なんて、ギターを買いに行ったことがある人なら思わずニヤついてしまうだろう。 結果、本国アメリカでは大ヒット。すぐに1億ドル以上の興行収入をたたき出した。しかし当時、日本が誇るヒップスター・みうらじゅん氏がこの“ヒップなお馬鹿”映画の私設宣伝部長を買って出て、メディア出演の度に「エクセレント!」を連発したにも関わらず、日本では彼ら..
未分類

ロビー・ロバートソン27歳〜同い歳だったジャニス・ジョプリンの訃報を聞いた日

ロビー・ロバートソン。 ユダヤ人の父とインディアン母を持つ彼は、カナダで生まれたという。 1960年代に音楽仲間たちとロック歌手ロニー・ホーキンスのバックバンドで腕を磨き、その後レヴォン&ザ・ホークスを結成する。 1966年、彼らはボブ・ディランのワールドツアーでバックバンドを務めることとなる。 1968年に“ザ・バンド”と改名し、デビューアルバム『Music From Big Pink』(1968年)を発表する。 当時、ロビーは25歳だった。 1969年8月17日に、ザ・バンドでウッドストックコンサートに出演。 その月の末にはディランと共にワイト島フェスティバルに参加。 ロビーはこのワイト島出演の際にザ・ビートルズのジョン・レノン、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スターと親交を深めたと言われている。 同年9月、2ndアルバム『The Band』を発表。 そしてロビーが27歳を迎えた1970年の夏に3rdアルバム『Stage Fright』を発表。 ボブ・ディランのバッキンググループとして十分な実力をつけた彼らは、アメリカンミュージックの方向性に変化をもたらす重要な役割を果たしていた。 「その夏、僕と妻(ドミニク)の間に次女が生まれたんだ。当時、僕ら家族は地元カナダのモントリオールにあるドミニクの実家の近くのアパートで暮していた。僕は親として成長をするべく新たな階段に踏み出していたんだ。二人の娘の父親になると、自分でも気づいてなかった保護者的な側面が表れてくるものさ。そんな日々の中で、僕は音楽的にも“さらに新たなものを!”と模索していたんだ。」 ザ・バンドは留まることなく野心作『Cahoots』(1971年発表)の制作に取りかかる。 ニューオーリンズの音楽シーンを牽引してきたアラン・トゥーサンを招き、ホーンセクションを取り入れるが、この頃からメンバー間に摩擦が生じだして曲作りもスランプに陥る。 それでも彼らは積極的にステージに立ち、トップクラスのライブバンドとして成長を遂げてゆく。 27歳となり、二人の娘の父親となり、忙しく過ごしていた彼のもとに時代を象徴するような悲しい訃報が届く。 1970年10月のはじめ、作曲用スタジオの増築を考えていた彼はアルバート・グロスマン(ボブ・ディランのマネージャー)からアドバイスをもらうために電話をかけた。 受話器の向こうのアルバ..
タイトルとURLをコピーしました