2021-03

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銀河鉄道999(The Galaxy Express 999)〜あの感動のクライマックスシーンは主題歌の歌詞に合わせて変更された!?ある世代を夢中にさせた名曲の魅力

“ある世代”にとってはたまらなくノスタルジックな気持ちにさせられる名曲がある。 この「銀河鉄道999(The Galaxy Express 999)」も、そんな歌の一つだろう。 1979年7月1日に、当時人気絶頂だったバンド、ゴダイゴがリリースしたシングルである。 松本零士のSF漫画『銀河鉄道999』を原作とした、劇場版アニメ作品の主題歌として起用されたもの。 クレジットを見れば、作詞は奈良橋陽子(英語詞)・山川啓介(日本語詞)、作曲はタケカワユキヒデ、編曲はミッキー吉野と記されている。 オリコンチャート最高順位は週間2位、1979年度年間14位、当時の売り上げは60万枚を超えたヒットソングである。 この歌は“アニメ史に残る名曲”として多くの人に愛されてきた。 一体何がそんなにまで琴線に触れるというのだろう? それはこの映画を観たほとんどの人が、主題歌が流れるラストシーンの印象を強く覚えているからだと言われてている。 当時、ゴダイゴの事務所の専務だった加藤悠は当時のことをこう振り返っている。 「あれは少年が大人の男に成長してゆくプロセスを描いた作品であって、たくさんの子供達が観るアニメでもありました。たしか当初のラストシーンはメーテルが去って行ったあとは鉄郎がただただ悲しみに落ちるという話だったんですが…主題歌を製作するにあたってタケカワやミッキーを中心に作詞作曲チームで考えたんです。彼らの凄いところはテーマをとことん突きつめて曲を仕上げるというところなんです。別れは確かに悲しいことではあるけれども、同時に“希望”でもあるのだと。そうしないと絶望のまま終わってしまう。それで歌のテーマを“過去を振り捨てて、明日に向かう”という設定にしたんです。」 なんと映画のラストシーンは、この主題歌に合わせて変更されたという。 映画の最後に描かれる鉄郎とメーテルの別れ。 メーテルが999に乗って旅立ってゆく。 鉄郎は「メーテル!」と叫んで涙を流す…。 999が空の彼方に消えた瞬間にこの曲のイントロが流れ出す。 さあ行くんだ その顔をあげて  新しい風に心を洗おう 古い夢は置いて行くがいい  ふたたび始まるドラマのために メーテルは999に乗る直前に鉄郎に別れのキスをする。 鉄郎にとっては、メーテルとの別れであるのと同時に、少年期との別れでもあることを、このラストの展開は物語って..
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ジョニー・キャッシュ〜“本物”を伝え続けた奇跡のTVショー

「俺はここ以外で、やらないよ」 ジョニー・キャッシュは自身の名前がつけられたTVショーの収録会場について話し合っている時、キー局のお偉方にそう言い放った。“ここ”とは、ナッシュビルのライマン公会堂。『グランド・オール・オプリー』の本拠地であり、“カントリー・ミュージックの聖地”と言ってもいい場所だった。 当時のキャッシュは、刑務所でのライブアルバム『At Folsom Prison』の成功によってキャリアの全盛期。収録場所に拘ったのは単なるスターのわがままではなく、キャッシュのカントリー・ミュージックに対する心に、深い愛情と敬意があったからこそだろう。“ここ”でないと、やる意義がなかったのだ。 こうして1969年6月7日、『ジョニー・キャッシュ・ショー』は始まった。 ライマン公会堂は古くて狭く、全米ネットの番組を制作できるほどの十分な環境設備がなかったにも関わらず、キャッシュはもちろん、レギュラー出演者やスタッフたちの絶え間ない努力と情熱で、週に一度のショーは感動的なものへと姿を変えていく。 名場面は数えきれない。カントリーを中心にしつつも、様々なジャンルのゲストたちが集った。 TV出演とは無縁で数年間人前に出ることのなかったボブ・ディランの登場。 政治的な物議をかもしかねないフォーク・シンガー、ピート・シーガーの出演。 引退状態だったジャズのルイ・アームストロングがカントリーのジミー・ロジャースの歌を歌い、オリジナル・カーター・ファミリーのマザー・メイベルが独創的な演奏を披露した。 「カントリーゴールド」というコーナーでは、伝説的なブルーグラスの創始者ビル・モンロー、亡くなったハンク・ウィリアムスの歴史的な映像が紹介されたこともある。 「ライド・ジス・トレイン」では幻想的なナレーションとともに、アメリカの過去の壮大な音楽の旅へと導いた。 「オン・キャンパス」ではベトナム戦争に反対する学生たちと意見交換もした。 それは良質なエンターテイメントであり、カントリー入門であり、音楽的オアシスと言えた。ただ楽しませるだけでなく、人々の良心に訴えて物事について深く考えさせてくれる機会となり、同時に様々なミュージシャンの意外なつながりや影響関係が、キャッシュの番組を通じて知ることができるようになった。 キャッシュの長年曲げることのなかった音楽に対する誠実さは、ゴールデンタイム..
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マドンナのスーザンを探して〜強烈な“80年代臭”を放つマドンナ初主演作

1982年のデビュー以来、マドンナは常にポップ・ミュージック界のトップランナーとして、数々の話題を提供しながら伝説化してきた。例えばチャートやセールス上の数字を見るだけでもその凄さが分かる。歴代1位となる38曲のトップ10ヒット(うち12曲がナンバーワン)、同じく歴代7位となる21枚のトップ10アルバム(うち8枚がナンバーワン)を放ち、世界での売上総数は何と3億枚以上。 ワールドツアーを行えば、そのエンターテインメント性溢れるステージで莫大な興行収入を叩き出す。経済誌フォーブスが毎年発表するセレブランキングは常連。映画出演や出版活動にも積極的で、年齢を重ねてもファッションや音楽性に最先端の動向を取り入れることを忘れない。“クイーン・オブ・ポップ”として彼女をリスペクトする女性アーティストは数知れず。 どんなスターにも無名の時代がある。マドンナも例外ではない。母親を幼い頃に亡くした彼女は、いつしか独創的で野心の強い女の子になっていた。そして大学を中退してデトロイトの実家を飛び出し、グレイハウンドバスに乗ってニューヨークへ渡る。手元にはわずか35ドル。タクシーに乗って「一番華やかな場所へ行って!」と運転手に告げ、人々が行き交うタイムズスクエアで「神よりも有名になる!」と人知れず誓ったエピソードは有名だ。 しかし、現実は生きるためにアルバイトで食いつなぐ日々。ヌードモデルや成人映画に出たこともある。強気な性格はダンスや恋を失う羽目にもなった。バンド活動でギターを弾いているうちに、歌手になることがスターへの近道だと自覚した。 ニューヨークの“アンダーグラウンド”や“クラブカルチャー”の体臭を嗅ぎ分ける能力や感覚を持っていた彼女は、どんな曲やパフォーマンスがヒップな連中に支持されるかはっきりと見えていたのだろう。恩知らずな人付き合いもあったようだが、とにかく1982年10月、24歳のマドンナはシングル「Everybody」で念願のデビューを果たした。 「Holiday」「Lucky Star」「Borderline」といったヒット曲でダンスフロアを揺るがした1983年、最初のアルバム『Madonna』をリリース。MTVの影響も好作用してチャートを駆け上がった。このアルバムこそが“クイーン・オブ・ポップ”の原点であり、今も色褪せない魅力が詰まった名盤として評価が高い。 そんなマ..
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ロックンロールの種を撒いた男〜伝説のカントリー歌手ハンク・ウィリアムスの偉大な功績

1940年代〜50年代の初期──“カントリーの開拓者”と呼ばれた男ハンク・ウィリアムスは、それまでの伝統的なカントリー音楽にPOPSの感覚とBLUESのテイストを加味し、より親しみやすく調理してみせた。 1923年9月17日アラバマ州で生まれた彼は、10代の頃より地元モンゴメリーのラジオ番組に歌と司会で出演していたという。 第二次世界大戦以降は苦難に直面するも、1948年に「Move It On Over」が大ヒット。以降1953年までの6年間で、ビルボードのカントリー&ウェスタン・チャート1位に11曲を送り込み、メインストリームにのし上がった“伝説のミュージシャン”である。 「Move It On Over」/ハンク・ウィリアムス だが、そんな順風満帆な日々は続かなかった…。 健康不安の解消や鎮痛のために摂取したアルコールやモルヒネに依存するようになり、ラジオ番組からも解雇され…1953年1月1日、コンサートに向かうキャデラックの後部座席で心臓発作をおこし29歳の若さで他界する。 カントリー音楽に新風を吹き込み“ロックンロールの種”を撒いた彼自身が、その後の音楽史においてROCKが開花してゆく姿を見ることは叶わなかった。 しかし彼の死から半世紀以上の時が流れても、多くのミュージシャン達が彼をリスペクトし、彼の歌は今も唄い継がれているのだ。 これまでも、彼の偉業を称えるベスト盤や企画アルバムが多く発表されてきたが、2001年にリリースされたトリビュート盤は特に秀逸だといわれている。 そこにクレジットされた錚々たるミュージシャンの名前を見るだけでも、世代やジャンルを超えて彼が現在の音楽史に与えた影響の大きさがわかる。 ジョニー・キャッシュを筆頭に、ボブ・ディラン、キース・リチャーズ、シェリル・クロウ、BECK、エミルー・ハリス、マーク・ノップフラー、トム・ぺティ、KEB’ MO’、ライアン・アダムス、ルシンダ・ウィリアムス…そして実際に彼の遺伝子の継承者である孫ハンク・ウィリアムス3世も参加している。 また、ルシンダ・ウィリアムスはたまたま同姓であって血の繋がりはないものの、彼女が産声をあげた1953年1月といえば…ハンク・ウィリアムスがこの世を去った同年同月であったりして、何か因縁めいたものを感じずにはいられない。 「Cold Cold Heart」/ルシンダ・ウ..
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ジョニー・キッド〜英国が誇るパブロックの雄ジョニー・キッド&ザ・パイレーツの足跡と功績

1966年10月7日、英国が誇るパブロックの雄ジョニー・キッド&ザ・パイレーツのフロントマン、ジョニー・キッド(享年30)がランカシャー州で自動車事故により死去した。 1959年に1stシングル「Please Don’t Touch」でデビューした彼らは、若かりし頃のビートルズやストーンズのメンバーにも大きな影響を与えたと言われている。 バンドはジョニーの死亡によって解散してしまうが…1976年にギタリストのミック・グリーンを中心にザ・パイレーツとして再結成を果たす。 彼らのロックロールは後にロンドンの音楽シーンを席巻したパンクバンドにも多大な影響を与えることとなる。 ザ・クラッシュのジョー・ストラマーは当時、こんな発言を残している。 「困ったことに、ライブで自分たちの前にザ・パイレーツが演奏すると観客が燃え尽きてしまうんだ。」 また彼らの存在は、ウィルコ・ジョンソン(ドクター・フィールグッド)の人生を変えたとも言われている。 「俺には偉大なギターヒーローがいたんだ。ジョニー・キッド&ザ・パイレーツでプレイしていたミック・グリーンだ。初めて彼のギターを聴いた日のことは今でも忘れられないよ。ラジオで“I’ll Never Get Over You”を聴いた時、俺は静止画像のように身体を一時停止させたんだ。歯切れのいいコードプレイ、シンプルで力強いギターソロ、そしてリズムとリードのパートを一人二役でこなすテクニック。最高にイカしていたよ!俺は自分がやるべきことがはっきりわかったんだ!」 ビートルズが活躍する以前のイギリスのミュージックシーンにおいて彼らの存在は異質だったと言われている。 海賊をモチーフにしたメンバーのステージ衣装、そしてアイパッチ姿で歌うジョニー・キッドの存在感は強烈だった。 元々はジョニーがギターの弦で目を怪我して眼帯をつけて登場したところ、ことのほかウケが良かったのがきっかけだったという。 1960年にリリースした「Shakin’ All Over」が英国チャートの1位に上りつめ、後にザ・フーの名盤『Live at Leeds』(1970年)に収録されたことで彼らの名前は海外のロックファンにも知られるようになる。 この「Shakin’ All Over」は当時の批評家たちからこんな言葉で評された。 「クリフ・リチャードの“Move It”に..
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ビッグ・リボウスキ〜怠惰な男たちをチャンドラーの世界に放り込んだコーエン兄弟作品

何もをやっても、例えそれがどんな駄作であっても、一定の評価を得る人がいる。熱狂的かつ影響力の強いファンに支えられ、持ち上げられるからだ。小説や音楽の分野に限らず、映画の世界でもこの領域に達することのできる作り手はごくわずか。ジョエル&イーサン・コーエン兄弟は間違いなくそんな映画監督/脚本家だろう。 1980年代から助手や低予算インディーズで活動していた二人の名が知れ渡ったのは、90年代になってから。独特のムードを漂わせる『ミラーズ・クロッシング』(1990)やカンヌでパルム・ドールや監督賞を受賞した『バートン・フィンク』(1991)だった。映画作りを楽しむその姿勢はその後、アカデミー賞の脚本賞を獲った『ファーゴ』(1996)、大ヒットした『オー・ブラザー!』(2000)と続き、 『ノーカントリー』(2007)では遂にアカデミー賞の作品賞・監督賞・脚色賞の三冠に輝く。他にも作品を発表するたびに必ず話題になるチームである。 『ビッグ・リボウスキ』(The Big Lebowski/1998)は、コーエン兄弟らしさが光るカルトムービーとして知られる。「レイモンド・チャンドラーの探偵小説世界を湾岸戦争の真っ最中の1991年に設定」して描いてみせたという話にもあるように、兄弟がこれまで影響を受けてきたロサンゼルスを舞台にしたポップカルチャーや風景が全編に散りばめられた、壮大な映画愛を感じずにはいられない傑作となった。 この映画がチャンドラーの大きな影響のもとにあることは間違いない。主人公がいくつものエピソードを演じながら、自分の知らなかった世界へ入り込んでいき、それまで会ったこともなかったようなタイプの人間たちに出会っていきながら、謎を解いて、ある人間を探し出そうというものだ。奇妙な旅と言ってもいい。明るいLAではなく、罪深いLA。これも我々の興味を引いた点だ。 ロケーションから衣装や小道具に至るまで、細部へのこだわりもハンパないのがコーエン映画の特徴の一つ。使用する音楽もボブ・ディラン、キャプテン・ビーフハート、エルヴィス・コステロ、ニーナ・シモン、ケニー・ロジャース、ジプシー・キングス、ヘンリー・マンシーニ、タウンズ・ヴァン・ザント、ブッカー・T&ザ・MG’s、CCR、サンタナ、イーグルスとあらゆる音楽が聴こえ、統一感とは無縁のカオス状態。 主演したジェフ・ブリッジズ..
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ヒップホップ/ラップのベストセラーアルバム〜ランDMCからドレイクまでの30年

ヒップホップ/R&Bの売り上げが初めてロックを超えて、音楽マーケット全体のトップシェアに立ったのが2017年。今回は300万枚以上を売ったヒップホップ/ラップのアルバムをリスト化。80年代にはプラチナディスク(100万枚)を獲得すること自体が珍しかったジャンルだが、今ではポピュラー音楽の中心を形成するまでに至った。ただ売り上げ順に並べても面白くないので、年度別に並べることにしてみよう。さて、このデータをどう読み解くか。 【1986年】 ●1000万枚/ビースティ・ボーイズ『LICENSED TO ILL』(1986) ●300万枚/ランD.M.C.『RAISING HELL』(1986) やはり起爆剤は彼らだった。 【1987年】 該当なし 【1988年】 ●300万枚/DJ・ジャジー・ジェフ&ザ・フレッシュ・プリンス『HE’S THE DJ, I’M THE RAPPER』(1988) ●300万枚/N.W.A.『STRAIGHT OUTTA COMPTON』(1988) 西海岸ギャングスタ・ラップの先駆け。今や伝説だ。 【1989年】 該当なし 【1990年】 ●1000万枚/MCハマー『PLEASE HAMMER DON’T HURT ‘EM』(1990) ●700万枚/ヴァニラ・アイス『TO THE EXTREME』(1990) 突発的にポップ・ラップが大ヒット。 【1991年】 ●300万枚/ハマー『TOO LEGIT TO QUIT』(1991) 【1992年】 ●400万枚/アレステッド・ディベロップメント『3 YEARS, 5 MONTHS AND 2 DAYS IN THE LIFE OF…』(1992) ●400万枚/クリス・クロス『TOTALLY KROSSED OUT』(1992) ●300万枚/ドクター・ドレー『THE CHRONIC』(1992) 一世を風靡したGファンク。 【1993年】 ●500万枚/ソルト・ン・ペパー『VERY NECESSARY』(1993) ●400万枚/スヌープ・ドギー・ドッグ『DOGGYSTYLE』(1993) ●300万枚/サイプレス・ヒル『BLACK SUNDAY』(1993) ●300万枚/ウータン・クラン『Enter the Wu-Tang (36 Chambers)』(1993) ..
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木村充揮の歌ルーツ〜日本を代表する“稀代の唄うたい”が、若かりし頃に憧れた歌手、刺激を受けた音楽体験

木村充揮。 1975年、憂歌団のボーカルとしてデビュー以来“天使のダミ声”と称される独特の声とブルースフィーリング溢れる独特の歌い回しで絶大な人気を誇ってきた。 現在はソロ活動を中心にロック、ジャズ、ブルースにとどまらず演歌や民俗音楽にいたるまで、あらゆるカテゴリーを包括したボーダーレスなシンガーとして多方面で活躍している。 その唯一無二のライブパフォーマンスは数多くの若いアーティストからのリスペクトも集め、音楽ファンを魅了し続けている。 今回は、そんな日本を代表する“稀代の唄うたい”が、若かりし頃に憧れた歌手、そして刺激を受けた音楽体験をご紹介します。 「まず小学校の頃、僕が好きだったのは美空ひばり、越路吹雪、西田佐知子、そしてアストラッド・ジルベルト。中でもジルベルトの鼻歌に近いチカラの抜けた歌い方が好きだった。憂歌団でよく一緒のステージに出してもらった浅川マキさんもその系列だ。あの力の抜き方、あの感情、あの色合い、あの匂い…すべてが素敵だった。マキさんの歌を聴いた時、あぁええなぁと思った。歌謡曲とかと全然違う感じ。当時、マキさんは30代、僕は二十歳そこそこのガキだった。」 1970年代、大阪ミナミの島之内教会で3日間連続の浅川マキ単独公演が行われた。 バックミュージシャンとして憂歌団のギタリスト・内田勘太郎が呼ばれ、木村はそれを観に行ったという。 浅川マキは客席にいる木村を見つけると、ステージに上げて歌わせたのだ。 「一曲だけ“サマータイム”を歌わせてもらって、嬉しかった。マキさんはその時も、アカペラで何曲か歌ってた。時には1ステージまるまるアカペラでやるという。僕はこの歳になってもアカペラでやれるのはせいぜい5分くらい。やっぱりマキさんは凄い!」 彼は、これまでに様々な歌手を“お手本”にして歌を磨いてきたという。 エラ・フィッツジェラルド、ハリー・ベラフォンテ、ビートルズのジョンとポール、ミック・ジャガー、ボブ・マーリー、そしてレイ・チャールズ。 「色んな歌手が僕の歌の“先生”だった。だけど、レイ・チャールズだけは真似ようとは思わなかった。僕なんかにとても真似ができるとは思わなかったからだ。ビートルズは歌の上手さもさることながら、一曲の中の歌の構成が抜群だった。ストーンズはレコードがどれもライブっぽく聴こえた。一度だけ東京ドームで観たけど、やっぱり凄い..
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追悼・萩原健一~ショーケンが歌った「神様お願い」から始まったテンプターズの快進撃

ビートルズの来日公演に影響を受けたグループサウンズのブームの中に、ロカビリー時代の反社会的で危険な香りを持ち込んだのは、萩原健一(ショーケン)という稀有な表現者が持っている本質によるものなのだろう。 テンプターズの「神様お願い」が発表された1968年3月、18歳のショーケンの歌声やその立ち居振る舞いからは、ロックンロールの初期衝動とも重なる不良っぽさがブラウン管を通してでも伝わってきた。 それはちょうど10年前、熱狂的なムーブメントとなったロカビリーブームのなかで、なんとも言えない不良っぽいカッコよさを漂わせていた、山下敬二郎に通じるものがあった。 ショーケンと呼ばれる前、小学生だった萩原浩三は年が離れた兄や姉とともに育ったが、いつも向かいの酒屋さんの家に遊びに行っていたという。 目的は姉の同級生の娘さんが持っていたレコードで、「監獄ロック」や「ハートブレイク・ホテル」といったエルヴィス・プレスリーの歌を聞かせてもらうことだった。 その2曲が音楽に関するもっとも古い記憶だというのだから、7、8歳のころには早くもロックンロールに出会っていたのだ。 高校生だったかまやつひろしはエルヴィスが登場したときに、「すごいのが出てきたなぁ」と感心したと語っている。 「エルヴィス・プレスリーの登場がショッキングな出来事だったことはたしかだ。 彼はロックを若者の音楽にした革命児で、怒れる若者の代弁者のような反モラル的な匂いを発散していた」 1958年にロカビリーブームが巻き起こると、夢中になっていた姉たちと一緒に浩三も、地元の埼玉会館で開かれたコンサートに足を運んだ。 有楽町の日劇ウェスタンカーニバルにも連れて行ってもらって、姉に肩車されてステージの山下敬二郎に歓声をあげていた。 家にあるほうきをギター代わりにして山下敬二郎のアクションを真似をすると、兄や姉にウケるので嬉しかったという。 1965年、中学3年生のときに地元の埼玉でエレキバンドのテンプターズをバックに飛び入りし、ゲスト・ヴォーカルとしてビートルズの「マネー」とアニマルズの「悲しき願い」をうたった浩三は、ギタリストの松崎由治から「一緒にやんない?」と誘われた。 その後、自分で芸名を萩原健一(ショーケン)と決めてテンプターズに参加し、翌年から渋谷や赤坂、六本木でパーティーやジャズ喫茶のステージに立つようになった。 ..
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オー・シャンゼリゼ〜ロンドンで誕生したメロディーが辿った運命、そもそもフレンチポップでもシャンソンでもなかった!?

「Les Champs-Élysées 」/フランス語訳:ピエール・ドラノエ 僕は通りを散歩した 知らない人に心を開き 「こんにちは」と言いたかったんだ 誰にでもね だからたまたま君にもあいさつしたってわけさ 君と適当な話題でおしゃべりしたね 僕達が知り合うにはそれで充分だったんだ 誰もが一度は耳にしたことがあるだろう、このポップなメロディー。 「オー・シャンゼリゼ(原題:Les Champs-Élysées)」は、パリのシャンゼリゼ通りをモチーフとした歌曲として広く知られている。 1969年にニューヨーク生まれ人気歌手ジョー・ダッサンが大ヒットさせて世の中に定着した。 日本では、1971年に“歌うフランス人形”として売り出されたモロッコ生まれのフランス人歌手ダニエル・ビダルが唄ったバージョンが大ヒットを記録する。 この歌の日本語訳では安井かずみのものが有名だが、当時シャンソン歌手として人気絶頂だった越路吹雪が歌った岩谷時子の訳詞もまた秀逸である。 この歌の誕生のきっかけを紐解いてゆくと…なんと!?そもそも歌詞の舞台はパリでもなければ、フランスで産まれた曲でもないというのだ。 一体この歌はどんな風にして誕生し、どんな運命を辿ってきたのだろう? ──それは1968年の出来事だった。 イギリスのロンドンにJason Crest(ジェイソン・クレスト)というバンドがいた。 サイケデリック路線で売り出そうとしてはいたものの…今ひとつ方向性を見出せないまま燻っていた。 当時、そんな“鳴かず飛ばず”のバンドのプロデューサーを担当していたのが、フリッツ・フライヤーという男だった。 彼は後にモーター・ヘッドなどのプロデューサーとして名を馳せた人物でもある。 ある日、フリッツはジェイソン・クレストの作曲能力に限界を感じ、かつて自分が在籍していたバンドThe Four Pennies(ザ・フォー・ペニーズ)のメンバーだったマイク・ウィルシュと、ミュージシャン仲間のマイク・ディーガンの二人に楽曲を発注した。 そこで出来上がってきた「Waterloo Road」という楽曲が、ジェイソン・クレストの4thシングルとして発表された。 「Waterloo Road」/作詞作曲:マイク・ウィルシュ&マイク・ディーガン 今日通りを歩いていたら 女の子を見かけたんだ どこに行くのか訪ねたら 「一..
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お下がりだったデビュー曲のショックを、長い年月を経て自分のロックとして完成させた西城秀樹

2015年4月13日、この日に還暦を迎えた西城秀樹は、それを記念したアルバム『心響 -KODOU-』をリリースした。 それまでに2度の脳梗塞を乗り越えて復活した西城は、過去のヒット作のセルフカバーに加えて、新曲「蜃気楼」にもトライしている。 この作品は結果的に最後のアルバムになってしまったが、どの曲からもポジティブなチャレンジ精神が感じられて、実に力強い内容に仕上がっていた。 そして『心響 -KODOU-』は意外なことに、1972年3月25日に発売されたデビュー曲の「恋する季節」から始まっている。 今剛のアコースティック・ギターを主体として、山木秀夫のドラムとだけで構築したアレンジが冴え渡って、アルバムの中ではもっともアグレッシブな出来映えであった。 まだ少年だった木本龍雄が、歌手として成功することを夢見て、広島から上京したのは1971年の秋、高校1年のときだった。 広島出身でロカビリー歌手だった藤本好一にスカウトされた木本少年は、父親の強い反対を振り切るようにして、夜逃げ同然の形で上京してきた。 そこからはヴォイストレーナーの先駆者、大本恭敬に師事して厳しい歌のレッスンを受ける一方で、縄跳びなどの運動による体力づくりにも励んだ。 そうした日課が終わったら、3畳にも満たない狭い部屋で寝るだけの日々が続いた。 そんな木本少年のもとに、念願のデビュー曲が届く。 曲名は「恋する季節」。作詞が麻生たかしで編曲は高田弘、そして作曲を手がけたのが筒美京平だった。 1968年にいしだあゆみの「ブルーライト・ヨコハマ」が大ヒットしたのを機に、筒美京平は歌謡曲の第一線で活躍する、もっとも勢いのあるヒットメーカーになっていた。 とくに1971年に尾崎紀世彦が歌って大ヒットした「また逢う日まで」は、木本少年がドラマーから歌手になるきっかけになった作品である。 ロックの世界でドラマーとして成功することを夢見て、中学生の頃からバンドの一員としてドラムを練習していた木本少年は、テレビから流れてきた「また逢う日まで」を聴いて、それまでの歌謡曲のイメージが一変したという。 そこでドラムからボーカルへと、大きく転向したのである。 それだけにおなじ筒美京平の楽曲でデビューすることがわかったときは、喜びもひとしおだったであろう。 うれしくて楽譜を神棚にささげ、それこそ一日中歌っていた。 部屋の中より響..
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あのサントラ盤はどれだけ売れているのか〜世界で4500万枚を売った女性歌手は?

今回は「映画のサウンドトラック盤」に絞り込んだセールスランキングをお届け。 サントラは複数のアーティストが参加するVarious Artistsタイプと、単独かメインのアーティストが立つものに大きく分けられる。さらに前者は映画のために新たに録音されたもの、古いヒット曲を集めたもの、両者をミックスしたものなどがある。後者はそのアーティストが映画に主演しているケースもある。音楽を聴きながら映画のワンシーンが思い浮かぶのも、サントラの楽しみ方の一つだ。 *セールス枚数はRIAA(全米レコード協会)などのデータ(2021年3月現在)を参考にした全米編。()内の数字はビルボード最高位とリリース年度。なお、2枚組は1セットではなく2枚分としてカウントされている。今回はディズニーアニメやTV映画も含んだ。 まずは300〜700万枚を売ったのは? 【300万枚】  ○『ウエスト・サイド物語』(1位/1961) ○『アメリカン・グラフィティ』(10位/1973) *2枚組 ○『アーバン・カウボーイ』(3位/1980) *2枚組 ○ジョン・キャファティ&ザ・ビーヴァー・ブラウン・バンド『エディ&ザ・クルーザーズ』(9位/1983) ○ベット・ミドラー『フォーエバー・フレンズ』(2位/1988) ○『プリティ・ウーマン』(4位/1990) ○『美女と野獣』(19位/1991) ○『ブーメラン』(4位/1992) ○『アラジン』(6位/1992) ○『パルプ・フィクション』(21位/1994) ○『クロウ/飛翔伝説』(1位/1994) ○『デンジャラス・マインド/卒業の日まで』(1位/1995) ○『ポカホンタス』(1位/1995) ○ホイットニー・ヒューストン『天使の贈り物』(3位/1996) ○『メン・イン・ブラック』(1位/1997) ○『ハイスクール・ミュージカル 2』 (1位/2007) *TV映画 日本では劇場未公開だった『エディ&ザ・クルーザーズ』 【400万枚】 ○バーブラ・ストライサンド&クリス・クリストファーソン『スター誕生』(1位/1976) ○『特捜刑事マイアミ・バイス』(1位/1984) *TVドラマ ○『モア・ダーティ・ダンシング』(3位/1987) ○『カクテル』(2位/1988) ○『めぐり逢えたら』(1位/1993) ○『ロミオ+ジュリエット』(2位/..
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ハイ・フィデリティ〜音楽を聴くことの素晴らしさや興奮をもう一度取り戻したい人たちへ

音楽を聴くこととは、一体何なのだろう? 「毎日の生活のテンションを上げたい」「楽しみが欲しい」「勇気や力をもらいたい」「救われた気持ちになる」「疲れが癒される」「大切な人と共感したい」「みんなで一緒に歌いたい」「あの頃の自分が蘇る」「仕事や企画のアイデアになる」……それぞれの想いが音楽を必要としている。 特に15歳〜25歳くらいまでは、音楽や映画や小説や漫画などの文化に対する欲求は高く、その時代の「若者」として世の中の流行や情報はごく自然に吸収消化できたはずだ。ところが社会に出たり、結婚して家庭を持ったりすると、仕事に追われる日々や世の中のしがらみなどで、自分の時間が学生時代や独身時代よりも減ってしまい、経済的な理由からも趣味に使う金額が限られたり、仕事上の付き合いで他の趣味への対応などが起こってしまう。そして気づいた時にはもう「若者」ではなくなっている。   結果、あれほどのめり込んだはずの音楽体験にいつの間にか疎くなり、アンテナを張っていないので最新の音楽シーンの動向も分かるはずがなく、そのまま音楽に対する興味さえも薄れ、ただTVやCMやネット動画から流れるようなもの=最新の音楽と勘違いしてフォローするのが精一杯(時々、昔好きだった当時の洋楽を聴く程度)。今の若者の前では気まぐれに「もう年だから」などと苦笑する。 さらにテクノロジーや販売チャネルの変化が究極に到達した現在、ダウンロード/ストリーミングサービスやネット通販の普及で、あれほど足繁く通っていたCD/レコードショップにもすっかり出向かなくなってしまった。そして、街にはもともと共通文化としてのロックや洋楽に余り思い入れがない若者が闊歩している。このままではいずれ誰もロック/洋楽を聴かなくなる(=売れなくなる)し、アーティスト側も市場としての日本を軽視してツアーにも組み込まれなくなっていく。 TAP the POPはこの危機的状況を救うため、大人たちとその子供たちにロックや洋楽の魅力や興奮をもう一度きちんと伝えていくためのプロジェクトとして始まった。ガンダムで育った世代が今や父親となり、ガンダムで遊ぶ子供たちから「パパ、かっこいい」と言われるのと同様、今やロックや洋楽も「オヤジ、すげえな」と言われるための、その一つの手段なのかもしれない。 ニック・ホーンビィの小説を原作とした映画『ハイ・フィデリティ』(Hi..
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駅〜今はなき東急東横線旧渋谷駅が舞台となった竹内まりやの名曲

見覚えのある レインコート 黄昏の駅で 胸が震えた はやい足どり まぎれもなく 昔愛してた あの人なのね この楽曲は1986年に竹内まりやが中森明菜のアルバム『CRIMSON』への提供曲として書き下ろしたもの。 翌1987年に自身の16枚目のシングルとしてリリースし、以降、彼女の代表曲として長きに渡ってファンに愛され続けている。 歌詞には、駅で繰り広げられる男女の切ない“すれ違いの情景”が見事に描かれている。 なんとも言えない余韻を残しながら幕を降ろすその物語には、二通りの解釈があるという。 今になってあなたの気持ち 初めてわかるの痛いほど 私だけ愛してたことも… 彼が“私だけを痛いほど愛してくれていた”と気づく。 彼のことを“私だけが痛いほど愛していた”と気づく。 作者の竹内がこの歌詞の込めた思いは前者の方だという。 しかし、中森は後者の解釈で歌唱しているのだという。 私だけ愛してたことも… 実に日本語の面白さを感じる一行である。 もしかすると聴き手の心理状況で、聴こえ方が違ってくるのかもしれない。 後に竹内自身は「楽曲提供の依頼がなければ自分のために書く事はなかったタイプの曲ですね」と語っている。 ラッシュの人波にのまれて消えていく後ろ姿が  やけに哀しく心に残る 改札口を出る頃には 雨もやみかけたこの街に ありふれた夜がやって来る ララララ ラララララ ところで、この歌に出てくる“駅”が実在したことをご存知だろうか? これまでも諸説あったのだが、数年前に作者の夫・山下達郎のラジオ番組によって明らかにされたのだ。 2013年3月17日、山下がパーソナリティを務めるFMラジオ番組に一件のリクエストが届いた。 「あの駅が移設されて寂しいから…かけて下さい」 それは、妻・竹内まりや本人からのリクエストだった。 山下はその日の放送の最後にこの「駅」を流した。 妻が27年前に書いた楽曲の舞台となった場所(駅)がなくなってしまい、寂しがる妻への彼なりのなぐさめだったのかもしれない。 その放送のつい二日前(3月15日)に東急東横線渋谷駅の地上2階にあったホームの使用が終了となり、翌日から地下にもぐることとなった。 85年間使用されたその駅を惜しみ、たくさんの人が渋谷駅を訪れたという。 東京で暮したことのある者、東京を訪れたことのある人にとっては、それぞれに思い出..
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月を追いかけて〜ショーン・ペンとニコラス・ケイジの「原風景」

アメリカには「スモールタウン」と呼ばれる町が数多くある。人口は1万人にも満たず、町のサイズはメイン・ストリートを中心に縦横にわずか数ブロックほど。そこに住んでいる人以外は誰も知らないような、ほんの小さな町。 そんな「スモールタウン」を舞台にした映画といえば、真っ先に『ラスト・ショー』(1971)が思い浮ぶ。2012年に惜しくも亡くなったトラベル作家・駒沢敏器氏は、アメリカを横断しながらスモールタウンだけに立ち寄って短編集のような魅力を放つ物語『語るに足る、ささやかな人生』を描いた。彼は旅の途中、ウィスコンシン州の小さな町で出会った中学生の女の子からこんな声を聞いた。 スモールタウンは、私みたいな作家志望の中学3年生には、最適な場所かもしれません。そもそも都会における情報というのはすべてが断片で、全体としての像を結ばないでしょう? でもこのような小さな町では、ひとりひとりの人生の全体というものが見えるんです。この町の人が喋る言葉には、その人ならではの人生や、静かだけれど確かにその人以外ではありえないような重みがあるんです。 今回『月を追いかけて』(Racing with the Moon/1984)を観て、この少女の言葉が脳裏をよぎった。そして何よりも映画の始まりから終わりまで、何とも言えない心地よさがあった。どうしてだろう? アーバンサスペンスやSFアクションを見慣れてしまった脳には、強くそう感じたのだ。 それは「風景」への憧憬だと思う。家、学校、病院、墓地、図書館、映画館、廃屋。ダイナー、ビリヤード場、ボーリング場、ローラースケート場。森、湖、海、空。ピアノの音、犬の鳴き声、機関車や車やバスの音……それらが「人物」や「ストーリー」と絡み合い、すべてが調和のとれた世界の中で呼吸していた。 日本では、お盆休みや年末年始やゴールデンウィークといった大型連休を使って、故郷へ帰省する人は多い。そこでかつてあった「風景」が失われていく感覚に心を痛めたことはないだろうか。しかし、都市で育った子供世代はそんなことは何も知らない。都市部の人口だけが増え続ける中、そのうち帰省行為すら珍しくなってくるだろう。 常にどこかからタワーマンション工事の騒音が聞こえる“現在新光景”が構築される中、デジタル・ネイティヴの子供たちはゲームとスマホをやりすぎてしまったせいで、もはや何がリアルで否..
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