2021-04

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スーパースターの沢田研二による膨大なる音楽映像の記録

日本のエンターテイメントビジネスにおいて、レジェンドと呼べる存在として筆頭にあげられるのは、1971年のソロ・デビューから50周年を迎えた沢田研二だろう。 彼はソロになる前、GSのザ・タイガースの時代から「ジュリー」の愛称で呼ばれて、若い女性の間では圧倒的に人気があった。 それから日本のエンターテイメント界において、50年間にわたってトップの座を維持しながら、休むことなく活動し続けてきたスーパースターである。 4月28日に発売されたソロ・デビュー50周年記念DVD BOX『沢田研二 TBS PREMIUM COLLECTION』を観ると、彼が成し遂げて来た活動の記録があまりにも膨大で、そのことに圧倒された。 7枚のDVDには合わせて488分、およそ8時間の映像作品が収録されていたのだ。 『8時だョ!全員集合』や『ザ・ベストテン』などの人気番組から、久世光彦がプロデュースした伝説の『セブンスターショー』、『キラリ・熱熱CLUB』などに出演した地味だが味わい深い映像、『そして毎年のように緊張を強いられた日本レコード大賞』での映像を観てわかるのは、完璧なプロフェッショナルとしての仕事ぶりであった。 常に全身を使って表現に挑む姿と真摯な心構えからは、華やかなオーラを放ちながらも、このうえもなく誠実な人物であることがわかった。 京都のバンドだったファニーズが渡辺プロダクションと契約し、1967年の2月に「僕のマリ―」でレコード・デビューしてスターになった時から、沢田研二は若い女性ファンの熱い視線をあつめていた。 しかしソロになってからは、次第に大人の男性からも注目されるようになっていった。 それはTBSの演出家だった久世光彦や作詞家の阿久悠、映画監督の長谷川和彦などのクリエイターたちが、それぞれに時代を表現するアーティストとして、沢田研二が醸し出す不思議な魅力に気づいたからだった。 ソロになって50年を迎えた2021年の春、週刊文春の4月15日号では3週にわたって、ノンフィクションライターの島崎今日子氏による連載『沢田研二を愛した男たち』が掲載された。 その書き出しはこんなふうにして始まっていた。 1960年代後半から80年代初頭。音楽やファッションが革新を遂げ、サブカルチャーが花開き、BLが生まれる。その中心には必ず彼がいた――。 BLは和製の英語で「boys’lo..
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マディ・ウォーターズを偲んで〜伝説のブルースマンと呼ばれた男の偉大な功績と足跡

ロックンロールの創始者と言われたあのチャック・ベリーは、生前にこんな貴重なエピソードを語っている。 それはまだ彼が世に出る前(デビュー前)の出来事だったという。 「ある日俺は新車の遠乗りがしたくなって、シカゴに親戚がいるという友達のラルフと2人でシカゴへとドライブしたんだ。ラルフの親戚の家でご馳走になった後、俺達はシカゴのサウスサイドのブルースの生演奏が聴けるクラブをハシゴしてまわった。そこでハウリング・ウルフ、エルモア・ジェームスのステージを観たんだ。とても感動したし!興奮して聴き入ったよ!そして、今度は憧れのマディ・ウォーターズが出演するクラブへ行ったんだ!マディは最後のセットのラストナンバー“Got My Mojo Working”を演奏中だった。演奏が終わると群がるファンをかきわけ、マディのサインを貰うために突進してくれたラルフのおかげで、俺はマディと口をきくチャンスができた。大統領か法王にでもお目どおりするような気分だった俺は、曲の素晴らしさを褒めた後、単刀直入に“レコードをつくるにはどうすればいいのか?”と訊いてみた。大勢のファンが声をかけようとひしめく中で、マディは俺の質問に答えてくれたんだ。“レナード・チェスに会ってみろ!そう47丁目とカテッジの角にあるチェスレコードさ!”俺に音楽を愛することを教えてくれた人。俺の音楽に最も大きな影響を与えた人。それがブルース界のゴッドファーザー、マディだ!」 マディ・ウォーターズから“人生を変えるアドバイス”をもらったチャック・ベリーは、その直後にブルースの名門チェスレコードとの契約を結びレコードデビューを果たす。 ローリング・ストーンズのキース・リチャーズもまた、あるインタビューでこんな貴重なエピソードを語っている。 「1964年、チェススタジオでレコーディングした時の話さ。白いオーバーオールを着てハシゴに乗っかってるおっさんを紹介されたんだ。誰だ?ってその顔を見たら、マディ・ウォーターズだったのさ!なんと!あのマディ・ウォーターズが俺達のスタジオのペンキ塗りをしてたんだぜ!どうやらチェスじゃレコードの売れない奴はどんな仕事でもしなきゃいけないようだった。俺達が何曲もカヴァーして神様だと思っている男が天井にペンキを塗ってるんだぜ!」 マディ・ウォーターズ。 1915年4月4日、ミシシッピ州ローリング・フォー..
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あの頃洋楽ファンが夢中になった“パワーバラード”の名曲②

80年代に洋楽デビューした人に捧げるこの企画。音楽雑誌のグラビア切り抜き。FMのエアチェックとカセットレーベル作り。輸入盤のジャケットの匂い。MTVを眺め続けた深夜帯。プログレハードやヘヴィメタル/ハードロックのトキメキ。 アルバムを買うと、必ず1曲は入っていたバラードナンバーを楽しみにしていた人も多いはず。今回はそんな「パワーバラード」の世界から名曲を厳選してみました。ドライブや通勤タイム、懐かしの音源探しに活躍すること間違いなし!! (選曲/中野充浩) エイリアス「More Than Words Can Say」(1990年・全米2位) シェリフとハートの元メンバーらによるスーパーグループ。と言ってもピンと来ないかもしれない。シェリフは1988年に「When I’m with You」が全米ナンバーワンになったカナダ出身のロックバンド。だがこの時既にバンドは解散しており、1982年にリリースした曲の特大リバイバルヒットだった。エイリアスのこの曲はまさにその続編的な響き。力強く美しい。まさにパワーバラードの見本。忘れられた名曲でもある。 ボン・ジョヴィ「Bed of Roses」(1993年・全米10位) 日本で人気が先行した彼らは、1986年のサード作『Slippery When Wet』で遂に全米を制覇。続く88年の『New Jersey』はデフ・レパードやガンズ・アンド・ローゼズらとチャートのトップを入れ替わり争った。4年後の『Keep The Faith』リリース時はグランジやオルタナロック全盛期。80年代に栄華を極めたHR/HMはアウトなもの、時代遅れなものとされる中、ボン・ジョヴィの信念・美学を感じさせるこの曲は本当に感動的だった。彼らの数あるバラードの中でも一番の出来だろう。 ガンズ・アンド・ローゼズ「November Rain」(1992年・全米3位) 1987年にリリースしたアルバムが次第に評判を呼び、その後1年掛りでチャートのトップに到達。80年代後半の音楽シーンは彼らの話題が絶えなかった。そして4年後に同時リリースされた新作2枚はまさに王者の風格。唯一、グランジ/オルタナ勢に対抗できたHR/HMバンドだった。この曲はガンズらしいパワーバラード大作。スラッシュのギターソロが泣ける。 エアロスミス「Angel」(1987年・全米3位) 70..
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ロックンロールがやってきた時代に生まれた西城秀樹

ロックンロールの幕開けを象徴する映画として知られるアメリカ映画『暴力教室』が、日本で公開されたのは1955年8月のことだった。 しかし子どもへの悪影響を危惧した教育団体やPTAなどから、各地で上映禁止運動が起こる。 そうした騒ぎがマスメディアに取り上げられて、ロックは日本でも社会現象に押し上げられていった。 西城秀樹の誕生日は1955年4月13日、まさにロックが日本に上陸した時代に生まれた。 やがてアメリカではエルヴィス・プレスリーがロックの代名詞のような存在になり、その影響で世界の各地で感化された若者たちがロックンロールやカントリー、ブルース、R&Bのレコードを聴くようになった。 彼らはギターを手にしてコピーし、バンドを組んで音楽活動を始めていく。 エルヴィスが全世界に認められた1956年のヒット曲は「ハウンド・ドッグ」と「ハートブレイク・ホテル」だった。 エルヴィスの影響下に育ったという意味では、ビートルズもローリング・ストーンズも、ボブ・ディランもロックの申し子たちといえる。 そして「ハートブレイク・ホテル」に心を撃ち抜かれた少年少女は、日本各地にもたくさんいた。 その中のひとり、横浜のフェリス女子学院に通っていた安井かずみは、やがて作詞家になって成功する。 1972年にデビューした西城秀樹のために、ロック衝動に満ちた「ちぎれた愛」や「激しい恋」の歌詞を書いた作詞家も、エルヴィスを通してロックの申し子になったのである。 日本でオリジナルのロックナンバーが誕生したのは、1958年から59年にかけて大ヒットした水原弘の「黒い花びら」が最初だった。 これは8分の6拍子で書かれた3連符のロッカバラードだが、1959年に制定された第一回の日本レコード大賞ではグランプリに選ばれている。 なお日本で最初のロッカバラードとなった「黒い花びら」は、その後の音楽シーンにも大きな影響を与えている。 エレキを持った若大将の加山雄三が唄った「君といつまでも」、森進一のむせび泣くような「女のためいき」、前川清のヴォーカルがダイナミックなクールファイブの「長崎は今日も雨だった」、藤圭子のブルース「圭子の夢は夜ひらく」などは、いずれも「黒い花びら」から始まった三連符のロッカバラードだ。 そんな「黒い花びら」を聴いて育ったのが、幼稚園児だった西城秀樹である。 先ごろ復刻された著書「誰も知ら..
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二人の友情〜ジョン・レノンの名盤『Rock ’n’Roll』の選曲にミック・ジャガーも関わっていた!?

1960年代、イギリスで誕生したビートルズとローリングストーングは人気を二分しながらもよきライバル関係でもあった。 ミック・ジャガーはジョン・レノンと初めて会った時に、とても謙虚さを感じたことを憶えているという。 「1963年、俺達はまだレコードを作る前で、何者でもなかった。当時、彼らはすでに超大物だった。ミュージシャンというだけじゃなく、まるでアイドルのようでね。確か革のコートを着てたよ。そう、俺達にはまだ買えなかった革のコートをね。」 その年の出来事だった。 結成してまだ間もないローリングストーンズがリッチモンドのクラブでR&Bやブルース、そしてチャック・ベリーの楽曲を中心に演奏していたある夜に(革のトレンチコートを着た)ビートルズのメンバーが突然現れて観客の傍らに立っていたという。 ミックはステージ上で彼らの存在に気がついてはいたものの、目を合わせることはしなかった。 ステージ後に、関係者から互いのメンバーを紹介される。 ミックはジョンと初めて交わした言葉を憶えていた。 ミック 「君がハーモニカを吹いているんだよね?」 ジョン 「いや、僕は君らのようには吹けないよ。吸って吹くだけ。僕達はブルースはたいしてできないんだ。」 それが初めて出会いだった。 以降、ビートルズはストーンズの演奏を聴きにやってきたという。 とくにジョンは他のメンバーよりも頻繁に現れた。 ストーンズも人気者になり始め、少しずつ距離を近めていく両バンド。 ある夜、ジョージ・ハリスンがミックに向かってビートルズがストーンズよりいかに多くのレコードを売っているか熱弁をふるった。 ミックはその時のことを鮮明に憶えていた。 「確かにそれは疑いようのない事実だったよ。ジョージはとてもそのことを強調したがっていたんだ。」 その時、ジョージの隣りにいたジョンがミックにこんな一言をかけてきたという。 「ジョージのことは気にすんなよ。こいつレコードが売れていることがまだ嬉しくてしかたないんだ。」 ミックはこのことをきっかけにジョンに好意を抱くようになった。 「俺はジョンが大好きだったよ。ビートルズのメンバーの中で一番気の合った男だった。大の親友ってわけじゃないけど、いつもフレンドリーだったよ。でもビートルズもストーンズもクラブで演奏をするのをやめると、お互いにあまり合わなくなったんだ。」 ..
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仰げば尊し〜昭和世代の“大定番”卒業ソングのルーツを辿る

今では世代によって卒業ソングも様々でしょうが…40代以上の人達に「卒業式に唄った曲は?」と問えば、大多数がこの「仰げば尊し」をあげるのではないだろうか? 今日はこの(明治〜昭和世代の)卒業ソングとして大定番として知られる「仰げば尊し」の誕生エピソードをご紹介します。 まず、日本においてこの歌が初めて唄われたのは、今から130年以上も前にさかのぼる1884年(明治17年)。 その年に発刊された『小学唱歌集第三編』での紹介が初出だったという記録が残っている。 当時の日本といえば、まだ音楽教育制度が十分でなかった時代。 欧米諸国から大きく遅れを取っていたこともあり、日本政府はアメリカのボストンから音楽教育者として実績のあったルーサー・ホワイティング・メーソンメーソンを招聘する。 メーソンの指導の下、西洋音楽の中から日本人に親しみやすい曲を選び、そのメロディーに日本語の歌詞を付けて、音楽教育(唱歌)の教材としたのだ。 現在でも唱歌として親しまれている「ちょうちょう」や「ふじの山」と共に、この「仰げば尊し」も明治時代に生まれた歌の一つだった。 この歌はこれまで映画やドラマでも数多く用いられており、特に木下恵介監督の名作『二十四の瞳』(高峰秀子主演/1954年公開)で生徒達が唄うシーンは、日本の映画史に残る名場面と言われている。 研究者の間でも長い間“作者不詳”とされてきたこの「仰げば尊し」。 その起源を辿ると…古いスコットランド民謡説や、前出の『小学唱歌集』を編纂した人物でもある伊沢修二(近代日本の音楽教育の第一人者)が作ったという説などがあったが、いずれも決定的な証拠がなかった。 しかし2011年1月に「仰げば尊し」の原曲が発見されるニュースが流れ、それまでの謎が解明されることとなる。 1871年にアメリカで出版された楽譜(音楽教材)に収録されていた「Song for the Close of School」という楽曲のメロディーと歌詞の内容を聴けば誰もがうなずくことだろう。 今日別れる私たちは やがて神様のお導きによってまた巡り合う この教室から旅立ち それぞれ自分たちの道をゆく 記憶の中で生きる 幼い頃の友だち 光と愛の国で 私たちは再会する さようなら古き学び舎 過ぎ去りし楽しき集い 懐かしき朝の歌声 午後の賛美歌 私たちはいつか思い出す 愛と真実の場を この教室..
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カンザス・シティ〜レスター・ヤングやチャーリー・パーカーが呼吸したジャズの街

映画『カンザス・シティ』(Kansas City/1996)は、同地を故郷とするロバート・アルトマンが監督し、少年時代に聴いていたジャズへの愛が溢れた作品。と言っても自伝的要素はなく、あくまでも独自のストーリーに徹底する。 1970年代の『M★A★S★H』『ロング・グッドバイ』『ボウイ&キーチ』『ナッシュビル』といったアルトマン作品にファンは多い。だが『ザ・プレイヤー』『ショート・カッツ』『プレタポルテ』と続く1990年代も、まぎれもなく同監督のキャリアのハイライト。本作もそんな時期に撮られた傑作だ。 物語の舞台となるのは1930年代前半のアメリカ中西部ミズーリ州、カンザスシティ。アメリカ中が大恐慌に覆われる中、この地だけは活気があった。民主党の悪徳政治のドン、トム・ペンダーガストによって街やビジネスが牛耳られる代わりに、ギャング仕切りのナイトスポットが続々開店し、至る所からジャズが響いていたのだ。 もちろん仕事を求めて腕のあるジャズ・ミュージシャンたちが集まって切磋琢磨する。こうして素朴なニューオーリンズ・スタイルとも、洗練されたニューヨーク・スタイルとも違う、リフ中心に強烈なスウィング感覚を持つビッグバンド・サウンド=カンザス・シティ・ジャズが確立していく。 その中にはベニー・モーテン楽団を引き継ぐことになるカウント・ベイシーやサックス吹きのレスター・ヤングがいた。ヤングはコールマン・ホーキンス、ベン・ウェブスターと並ぶモダンテナーの創始者であり、カンザス・シティで生まれ育ったチャーリー・パーカーの少年時代の憧れでもあった。 映画はそんなジャズが鳴り響き、選挙を前日に控えた1934年のカンザス・シティの二日間を描く。 選挙は不正が行われることは前提で、街には暴力的なムードで漂っている。そんなある日、一人の若い女ブロンディのチンピラ夫が黒人組織の金を略奪。あえなく捕まってギャングのボス(この役にはハリー・ベラフォンテがキャスティング)に監禁される。そこでブロンディは愛する夫を取り戻す材料にするため、大統領の側近の妻キャロリンを誘拐する。 しかし、キャロリンの結婚生活からはすでに愛が消えており、退廃的な生活の中でアヘン中毒者になっている。経済格差のある二人が行動を共にしていくうち、奇妙な友情のようなものが芽生える。 貧しくても「愛とは相手が自分の中にいるような気持ち..
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エディット・ピアフ27歳〜ユダヤ人作曲家との戦火の恋、運命のメロディーPadam Padam

稀代のシャンソン歌手、エディット・ピアフ。 本名はエディット・ジョヴァンナ・ガシオン。 1915年12月19日、彼女はパリ20区の貧しい地区ベルヴィル街で生まれた。 父親は大道芸人で、母親はカフェや酒場などで歌う歌手だった。 幼少期は孤独で、親戚から親戚へと転々とし、祖母の経営する売春宿で育てられた時期もあったという。 幼い頃から“唄うこと”が大好きだった彼女は、13歳で親戚の家での肩身の狭い生活を離れ、パリの道端で歌う仕事を選択する。 パリのあまり裕福でない地区ピゲールの路上で、観光客や住人相手に歌い続け、聴き入る人たちに使い古しの帽子をまわして生活費を得る暮らしを何年もの間続けていたという。 その小さな体で歌う姿から“ラ・モム・ピアフ(小さなスズメ)”と呼ばれたことをきっかけに、ピアフ(スズメ)という芸名がつけられた。 ──第一次世界大戦の真っ只中に生まれた彼女がやっと独り立ちをしちようとしていた頃…ヨーロッパには“次の戦争”の足音が忍び寄っていた。 そしていよいよ歌姫となって飛躍を遂げようとしていた1940年(当時24歳)といえば、パリがナチスドイツの占領下に置かれるという最悪の状況だった。 自由な言論の一切が禁じられることとなった戦火の下で、彼女はウクライナ(当時オーストリア=ハンガリー帝国領)生まれの作曲家ノルベルト・グランツベルクと出会う。 生後すぐにヴュルツブルク(ドイツ連邦共和国バイエルン州ウンターフランケン行政管区の郡独立都市)に移り住んで育ったという彼は、ピアフよりも5つ歳上のユダヤ人だった。 ドイツの大手映画会社UFA専属の作曲家・ピアニストとして活躍していた彼は、ゲシュタポの手から逃れてパリに移り住んでいた。 パリでは亡命者への労働許可書はなく、彼は危険でいかがわしい街の一角で、鉛筆や消しゴムを売りながら日々をしのいでいたという。 着の身着のままで逃亡してきた彼は、数ヶ月後にやっとの思いでアコーディオンを手に入れて、路上で演奏したり、ダンス音楽の伴奏をしたり、小さなオーケストラと共演しながら作曲を買い取ってもらったりしながら徐々に音楽で生計を立ててゆく。 場末の小さな楽団の固定メンバーとしてピアノを弾いていた時に出会ったのがピアフだった。 彼女は歌い終わるとブリキの皿をもって客席を回り、僅かばかりのチップを集めていたという。 グランツベルクは..
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ベイ・シティ・ローラーズの大ヒット曲「Saturday Night」

ロックンロールで踊り続けるんだ 土曜の夜に そう土曜の夜はね 体の奥から湧き上がるリズムに合わせて踊るのさ 土曜の夜に 土曜の夜にさ 僕はもう待ちきれないよ! 僕はデートの約束したのさ! クイーン、カーペンターズ、ビリー・ジョエル、KISS、ABBAなどなど…1970年代と言えば、魅力的で個性的なスタイルのグループやアーティストが次々と登場した時代だった。 ティーンエイジャーの少女達を中心としたファンの熱狂振りから「ビートルズの再来」とも言われたベイ・シティ・ローラーズ(スコットランド・エジンバラ出身)もまた、70年代の音楽を語る上では外せないバンドだった。 ポップなロックサウンドとタータンチェックがトレードマークだった彼らは、日本でも一大旋風を巻き起こすこととなる。 この歌がヒットしたのは、1973年に公開された映画『アメリカン・グラフィティ』(日本公開は1974年12月)のヒット後で、50〜60年代のオールディーズポップスに注目が集まっていた。 古きよき時代のロックンロールやオールディズポップスのエッセンスを備えた彼らのサウンドは、当時の若者達にとってこの上なくキャッチーなものだった。 なんでもOK!パーティさ! 土曜の夜に 土曜の夜にはね そう!土曜の夜なんだ! 今夜が土曜の夜なんだ! 1975年、彼らはこの「Saturday Night」で初の全米チャート制覇を果たす。 しかし…実はその2年前(1973年/リードボーカルはノビー・クラーク)に発売した本国イギリスでは、当時全くヒットしていなかったという。 翌1974年に、新しいヴォーカリストとして加入した甘いマスクのレスリーマッコーエンがバンドの流れを大きく変えることとなる。 レスリーのボーカルに差し替え、アメリカでシングルとして発表したところ、一気にブレイクを果たす。 首位の座にあったのがたったの1週間だけだったとは言え、同曲はゴールドディスク認定となった。 後にも先にも、彼らが全米チャートを制した唯一の曲となった。 同曲の大ヒットからさかのぼること10年… 1965年に、ベースのアラン・ロングミュアーとドラムのデレク・ロングミュアーの兄弟と4人の友人によりThe Saxonsというバンドが結成された。 彼らは1968年、Bay City Rollers(ベイ・シティ・ローラーズ)に改名..
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平成はここから始まった!〜“バブル時代”の本当のサウンドトラックとは?(後編)

バブル──今から想えば、それはとてつもなく華やかで眩しくて、余りにもワイルドで切なかったパーティのような時代。「平成の序章」とでもいうべきあの頃に戻ろうとする時、一体どんな歌が聴こえてくるのだろう? だが、音楽そのものを振り返るだけでは、この時代の音楽は決して鳴り響いてくれない。大切なのは、都市部の街を舞台に心象を描いてきた若い世代の動向を捉えること。当時、人口的にもピークを迎えつつあった若者の視点に立つことによって、ポップカルチャーとしてのバブルの本質が見えてくる。音楽が聴こえてくる。 日本中が踊り狂った“バブル”。そしてそんな時代に刻まれたサウンドトラックとは? 前編(第1〜2章)はこちらから。 ──第3章 J-POPとミリオンセラーの量産 昭和と平成の境目、1989年。多くのメディアが「さよなら80年代」特集を組む中(同年に昭和歌謡の象徴・美空ひばりが死去)、制御不能なバブル経済はさらに膨らみ続け、日経平均株価は年末には3万8915円の最高値を記録した。しかし、パーティを繰り広げる世代には1989年も1990年も別に変わりはなかった。時代は決して十年単位で区切れない。 音楽業界が数年間の歳月を掛けて浸透させていくことになる「J-POP」を掲げ始めたのも、ちょうどこの頃だ。CDの売り上げがアナログ盤を上回ったのは1986年。そして1989年にはアナログ盤の生産がストップして時代は完全にCDへ。 音楽を取り巻く環境にも変化が起こり、大型店舗(タワーレコード、HMV、ヴァージン・メガストアズなど)の出店、カラオケボックスの登場、レンタル店やコンサート施設の拡大、安価なCDラジカセの販売といった影響もCD普及と市場活性に一役買っていた。 歌が自分たちのライフスタイルを彩ってくれるという感覚は、CDというパッケージを得ることでより強まった。TOKYOにおいて音楽は、消費と流行に明け暮れるための“気分作り”であり、パーティを共有するための“マストアイテム”だった。若い世代はCDを毎月何枚も買うことが当たり前になった。1983年以来途絶えていたミリオンセラーが1990年以降になって量産されるのは、こうした経緯があったからだ。 きっと君は来ない 一人きりのクリスマス・イブ Silent Night Holly NIght 1989年から数年間、クリスマスシーズンになる..
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平成はここから始まった!〜“バブル時代”の本当のサウンドトラックとは?(前編)

バブル──今から想えば、それはとてつもなく華やかで眩しくて、余りにもワイルドで切なかったパーティのような時代。「平成の序章」とでもいうべきあの頃に戻ろうとする時、一体どんな歌が聴こえてくるのだろう? だが、音楽そのものを振り返るだけでは、この時代の音楽は決して鳴り響いてくれない。大切なのは、都市部の街を舞台に心象を描いてきた若い世代の動向を捉えること。当時、人口的にもピークを迎えつつあった若者の視点に立つことによって、ポップカルチャーとしてのバブルの本質が見えてくる。音楽が聴こえてくる。 日本中が踊り狂った“バブル”。そしてそんな時代に刻まれたサウンドトラックとは? ──第1章 歌い手から“聴き手”の時代へ 1980年代〜90年代の中でも特別な輝きを放っていた数年間──バブルの定義は、一般的には旧経済企画庁がバブル景気と定めた1986年12月~1991年4月の53ヶ月間とされている。その間、大人たちは株や不動産の動向に一喜一憂して、投資という名のマネーゲームに明け暮れていた。 東京の街々には大資本が投下され、遊び心を満たしてくれるスポットやオシャレな店が空間プロデュースの名のもとに乱立。建設中のインテリジェンスビルも至る所で背を伸ばし始めた。都市化が謳われた東京は、日本だけでなく世界中からの情報を一極集中させようとする。こうして巨大なメディアとしての「TOKYO」が誕生した。 そんな時代のヴィジュアルイメージを担ったのは、TOKYOを舞台に行き来する情報や流行に最も敏感だった10代や20代の若者たち。 誰もが次々と起こるムーヴメントやファッション、スタイリッシュな夜遊びや恋愛に次第に心を奪われるようになり、気がつけば消費マーケットの中心に祭り上げられた。札束とかくれんぼしていたような大人たちは、若い世代が集う渋谷や六本木に漂う甘い空気が、一夜にして大金に化けることを知っていたのだ。 音楽業界もこの空気や光景をいかに嗅ぎ付けるかが重要になってきた。いつまでもTVの音楽番組やバラエティ番組といったマスメディアから発信される“作られたアイドル”を提供するだけでは、新しい時代の中で特別な青春を謳歌しようとする若い世代の気分を捉えられるはずがなかった。 そしてTOKYOというパラレルワールド(同時並行世界)において、主役は歌い手ではなく、“聴き手”に他ならなかった。 も..
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ガーランド・ジェフリーズの名盤〜ニューヨークで生まれた混血アーティストによる“80’sストリートロック”の金字塔

ニューヨークのブルックリンが生んだシンガーソングライター、ガーランド・ジェフリーズをご存知だろうか? 1943年、黒人と白人のハーフの父親とプエルトリカンの母親との間に誕生した彼。 ブルース、ロック、ソウル、フォーク、ジャズ、レゲエなどなど…血も生まれ育った環境も含め、彼の音楽はまさに“人種の坩堝(るつぼ)”を体現しているかのようである。 今日は、そんな彼の作品の中でも“名盤”と言われているアルバム『Escape Artist』(1981年リリース)にスポットをあてます♪ まずは同作をリリースする際に、本人が語った言葉をご紹介します。 このアルバムは、私のレコーディングキャリアの中でもハイライトの一つと言えるだろう。私にとって大事なのはとても単純なこと。それは「歌」と、素晴らしい「ミュージシャン」だ。このアルバムに参加してくれたルー・リード、リントン・クェシ、デニス・ボーヴェル、ウィア・リンド、スティーヴ・グールディング、アンドリュー・ボドナー、マイケル・ブレッカー、ダニー・フェデリッチ、ロイ・ビタン、ビッグ・ユース、G.E.スミス…まったく、なんて顔ぶれだ!こういうメンバーとリハーサルして、ニューヨークとロンドンでテープに吹き込んだ。このアルバムの曲はどれも本当に生き生きした感じになった。まるで生きた人間、現実の風景のよう、力一杯に、生の歌声があふれている。しかも、ミックスはボブ・クリアマウンテンときてる!すごく満足できた完璧なアルバムだ! 本人による紹介文に付けくわえると本作には、エフェクティヴなプレイで当時最も革新的なギタリストだったエイドリアン・ブリュー、マイケル・ブレッカーの兄のランディ・ブレッカー、さらにはニューヨーク・ドールズのデビッド・ヨハンセンやトーキング・ヘッズとの活動でも知られるノーナ・ヘンドリックスなども参加している。 特にリントン・クェシ・ジョンソン、デニス・ボーヴェルといったダブ関係のミュージシャンの参加はかなりの注目と期待を集め、当時の音楽関係者からは同時期に大活躍していたザ・クラッシュの名盤『Sandinista!』(1980年)の“ポップ版”といったような紹介のされ方もしていたらしい。   かつて70年代から80年代にかけて、ブルース・スプリングスティーンを筆頭に“ストリートロック”というジャンルがカテゴライズされつつあった。 そん..
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酒と泪と男と女〜“孤高の音楽家”河島英五という生き方

昭和を代表するこの名曲「酒と泪と男と女」は、1975年にリリースされた河島英五とホモ・サピエンスのデビューアルバム『人類』に収録されたのが初出。 作詞作曲は河島英五。 翌1976年には河島英五のソロ名義でシングルリリースされ、オリコン週間ランキング9位のヒットを記録した。 ──1952年、大阪府東大阪市で生まれた河島英五。 1969年、17歳の頃からフォークソングを歌い始める。 大阪府立花園高校を卒業後、ホモ・サピエンスというグループで本格的に音楽活動をスタートさせる。 そのスタイルは“支離滅裂派フォーク”とも呼ばれ、あのねのねらと活動を共にした時期もあった。 また、その風貌と歌唱スタイルから「吉田拓郎の再来」などと騒がれていたという。 1973年、21歳でホモ・サピエンスを解散した彼はソロ活動開始させる。 「音楽が好きだから、売れる売れないに関係なく歌い続けたい!」 そんな気持ちのまま1975年にソロ名義で再デビューを果たす。 翌1976年6月、シングル「酒と泪と男と女」を発表し大きな注目を集める存在となる。 当時、彼はこんな本音を語っている。 「いきなり売れなくてもいいから、ライブを積み重ねてゆくことによって少しずつ支持者を増やしていきたい。」 しかし、本人の望みに反して彼は一躍“時の人”となる。 コンサート会場はどこに行っても満員。 行く先々に彼の周りには人だかりができるようになったという。 普通のアーティストならば「ナンバーワンを目指して!」「次なるヒットを狙って!」となるところだが…彼の場合は違った。 彼は独自の活動を望み、それを行動にうつしたのだ。 まずはインド、アフガニスタン、ペルー、トルコ、ネパール、ケニアなどへと“一人旅”をした。 1980年には四国八十八カ所を巡礼しながら“お遍路ライブツアー”を決行。 翌1981年には、東北〜北海道への全行程3,000kmにもおよぶ“円空仏(えんくうほとけ)探訪ツアー”をバイクで制覇。 その後も彼は独自の音楽活動を展開し、日本の音楽界において“唯一無二”の世界観を築き上げる。 「酒と泪と男と女」のヒットに流されることなく、彼は庶民の暮らしに触れ、音楽を通して共に喜怒哀楽を共有し合うことにこだわり続けたのだ。 コンサート活動は、大都市だけでなく山間部や僻地でも行い、音楽を通じてファンと交流することに主眼を置い..
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ロッド・スチュワート27歳〜True Blueに込めた自信と自嘲

1972年、ロッド・スチュワートはフェイセズに加入して3年目を迎えた。 1月10日生まれのロッドは、年明け早々に27歳になった。 当時、フェイセズは2ndアルバム『Long Player』のセールスを着実に上昇させながらアメリカツアーを終え、イギリスに戻ってきたばかりだった。 その頃のフェイセズの人気といえば、アメリカの2万席あるスタジアム公演が、ほんの数日間で売り切れるほどの人気だった。 フェイセズに加入してからのロッドは、バンドの活動と平行して、ソロシンガーとしてのアルバムもヒットチャートに叩き込む、まさに“二足のわらじ”をはくスター歌手だった。 この年、ロッドは4枚目のソロアルバム『Never a Dull Moment』を発表し、ソロアルバムとして前作にあたる『Every Picture Tells A Story』(1971年)に続き2作連続で全英アルバムチャート1位獲得を果たすこととなる。 そこにはボブ・ディランの「Mama You Been on My Mind」や、ジミ・ヘンドリックスの「Angel」、エタ・ジェイムズの持ち歌として有名な「I’d Rather Go Blind」、そしてロッド自身が敬愛して止まないソウルシンガー、サム・クックの「Twisting the Night Away」など、ジャンル・国籍・人種を超えた名曲たちが収録されていた。 この頃のロッドのカヴァー選曲、及びアレンジのセンス、そして何より歌唱のクオリティーは、後に更なる成功を遂げてゆく彼の音楽キャリアにおいて“最盛期”と言っても過言ではないくらいに優れている。 前作アルバムからのシングルカット曲「Maggie May」が大ヒットを記録して期待が高まる中、この『Never a Dull Moment』のオープニングナンバー「True Blue」はロッドと盟友ロン・ウッドによって共作された。 そして、この曲はソロとバンドの垣根を超えて、フェイセズの全メンバーが揃った編成でレコーディングされたという。 曲調もサウンドも“完璧”と言ってもいいほどに、当時の彼やバンドの充実振りがうかがえる一曲となっている。 興味深いのは、ロッドが綴った歌詞である。 そこには、彼自身の華々しい成功とかけ離れた感情、そして自分の“生い立ち(労働者階級)”への意識が描かれているかのようだった。 百万..
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知られざる日本の名曲シリーズ~画期的な作曲コンテストから誕生した「片想い」

最初に「片想い」をオリジナル曲として唄ったのは、23歳の槇みちるだった。 大阪出身の彼女は渡辺プロにスカウトされて歌手になり、1965年にビクターから洋楽カバーの「可愛いマリア」でデビューを果たす。 それは渡辺プロにとって、ザ・ピーナッツから始まった王道ともいえる手法だった。 素質ありと見なされた新人歌手は、まず洋楽のカバーポップスでデビューする。 マスメディアへの露出やテレビ出演によって、そこからじっくり知名度を上げていく。 そしてある程度、音楽ファンの間に存在が認知されたところで、オリジナル曲をヒットさせることによって人気を確立する。 それがテレビの黎明期における、若手歌手の成功パターンになっていった。 しかし、槇みちるは歌唱力を認められても、いまひとつ個性を強く打ち出せないまま、次第に存在感が薄くなってしまう。 そんな状況を打破しようとつくられたのが、安井かずみの作詞、宮川泰の作・編曲による「若いってすばらしい」である。 1966年の春に発売されたシングル盤は、槇みちるにとって初めてのヒットになった。 ただし、当時は合格点という程度のヒットにとどまり、そこで一気にブレイクとまではいかなかった。 彼女はそこからふたたび、やや目立たない状態が続いて、2年という時間が過ぎてしまう。 いわゆる器用な順応性性がなかったせいか、タレントとしての人気につながらなかったのだ。 そんな時期に三重県の「ヤマハリゾート合歓の郷」で開催されたのが、日本で最初の作曲家によるコンテスト「合歓ポピュラーフェスティバル‘69」である。 これは当時の音楽シーンで活躍していたフリーの作曲家25名が、イベントのために書き下ろした楽曲を持ち寄って、観客の前で初めて披露するという音楽祭スタイルで、実に画期的な試みになった。 そこで川口真の指名によって唄うことになったのが、安井かずみの作詞による「片想い」だった。 しかし曲調が地味だったせいかコンテストでは、審査員から高い評価を得ることが出来なかった。 そのために彼女は芸能界をひとまず引退し、自分の資質にふさわしい歌手になろうと決意する。 そうした事情もあって、1969年の11月に発売された「片想い」は、「鈴の音がきこえる」のB面という扱いだったので、ほとんど目立たないままに終わった。 ところが槇みちるが「片想い」を唄わなくなるならば、ぜひ自分に唄わせ..
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