2021-05

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ムーラン・ルージュ〜“秘密の歌”とボヘミアンたちの世紀末

人がこの世で知る最高の幸せ それは誰かを愛し、その人から愛されること ナット・キング・コールで有名な「Nature Boy」の歌詞の一節に導かれて物語が始まる『ムーラン・ルージュ』(Moulin Rouge!/2001)は、ちょっと変わった作りの悲喜劇でありながら、永遠の愛を謳った忘れ得ぬミュージカル映画だった。 この作品の撮影に入る前に私がしたことは、脚本を読んで頭の中のイメージを絵本にしていったんだ。20世紀のあらゆるものを切り取ってコラージュした。例えば、ニコール・キッドマン演じるサティーンは、1940年代の映画スター、グレダ・ガルボやマレーネ・ディートリッヒ、あるいはマリリン・モンローなどのイメージを使って生み出したんだ。 監督のバズ・ラーマンが言うように、この映画の舞台は1889〜1900年という19世紀末のパリであるにも関わらず、ヴィジュアルも音楽も20世紀の既存のポップカルチャーから数多く引用されている。台詞も名曲の歌詞から取られているので、観る者は耳慣れた歌の言葉によって感情移入しやすいという利点が生まれた。 また、ジャン・ルノワールの映画『フレンチ・カンカン』、ブッチーニのオペラ『ラ・ボエーム』、ギリシャ神話『オルフェウス』からのインスピレーションも強い。あらゆる文化に触れた結果、企画から完成まで4年の歳月を費やしたという。このような過去作品へのオマージュから創作を組み立てていく世界観は、思わずゴダールのあの『気狂いピエロ』を思い出した。 人生とは愛する人の死やうまくいかない人間関係などで自分にはコントロールできない出来事を僕たちに投げ掛けてくる。オルフェウスの神話によると、人はそのような出来事によって破滅するか、アンダーワールドに入ってそのようなことに直面し、成長して地上に戻っていくかのいずれかだ。 監督が話すアンダーワールドとは、つまり(赤い風車)のこと。1889年にパリのモンマルトルに開場したナイトクラブ(ダンスホールやキャバレーとも呼ばれる)だ。退廃的な世紀末において、そこは金持ちと権力者が、若者と美女と文無しに出逢う場所でもあった。 そしてモンマルトルの安アパートには画家、小説家、音楽家、詩人、劇作家など多くの貧しい芸術家が住んでいて、毎晩のように禁断の酒アブサンを酒場で傾けながら、真実・自由・美・愛といったボヘミアン精神を胸に..
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Alison〜ウディ・アレンの映画のような傑作ラブソング

エルヴィス・コステロ。 彼の本名はデクラン・パトリック・アロイシャス・マクマナスという。 1954年8月25日、ロンドンで生まれた彼のステージネームは、憧れのエルヴィス・プレスリーと父方の祖母の旧姓に由来している。 彼の血統(ルーツ)でもあるコステロの姓は、アイルランド系に多い苗字。 ミュージシャンだった父親がもらってくる大量の試聴用レコードに囲まれて育った彼は、幼少から音楽に慣れ親しんでいたという。 1977年、当時23歳だった彼はアルバム『マイ・エイム・イズ・トゥルー(My Aim Is True)』でデビューを果たす。 そのアルバムジャケットには“KING ELVIS”という文字が市松模様の中に小さく散りばめられている。 当時のコステロは“怒れる若者の代表”として音楽シーンに姿を現し、小気味いいビートと良質なメロディーで、パンク全盛期を迎えようとしていたロンドンに新風を吹かせたのだ。 君と再会するなんて可笑しいね ずいぶん久しぶりじゃないか 僕にはわかるよ…君は何とも思っていないってね でも聞いたよ…あいつが君のパーティードレスを脱がしたんだってね 君が誰を愛しているかなんて知ったことじゃないさ 僕は未練がましい元恋人のように感傷的になったりはしない だって、君が誰かを愛しているとしても… それが僕じゃないってことだけははっきりしてるからね そんな彼のデビューアルバムに収録された曲の中でも“白眉”と言われているのが「アリソン(Alison)」というラブソングである。 その歌詞の中には、アルバムタイトルでもある“My Aim Is True(僕は真実を求めているだけだ)”というフレーズがくり返し使われている。 一部のファンの間では「ダブルミーニングなどが含まれていて詞が難解だ」と言われるが…その真相は謎のままである。 コステロの歌詞は、日常を生きる人たちの“ある情景”を切りとったものが多い。 この「アリソン」は、ある男がパーティ会場のような場所でばったり昔の恋人に再会した場面からはじまる。 彼女は彼と別れた後(よりによって)彼の友人とくっつき…結婚をする。 一方、彼の方は未練タラタラで、久しぶりの再会なのにネチネチと嫌みを言いはじめる…。 どうしょうもなく情けない男と、そんな彼にうんざりしている元恋人との寸劇はまるでウディ・アレンの映画の一場面のようで…ある..
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Danny Boy〜アイルランドで生まれた珠玉のメロディーに込められた平和への願い

アイルランドの北西部に位置する港町、ロンドンデリーには“アイリッシュ”と呼ばれるケルト人の子孫が多く暮しているという。 この町名、350年ほど前までは単に“デリー”だった。 1618年に、この地に勢力をのばしたジェームズ一世がロンドンの名を冠にして“ロンドンデリー”と呼ばせるようにしたという。 イギリスにとって最初植民地となったアイルランドは、12世紀から800年間に渡って、その宗教と言語(ゲール語)に対して信じられないほどの差別と抑圧を受けた。 1800年頃になると、その地に暮す人々によって幾つもの民謡が生み出されるようになる。 それらは支配していたイギリス人が聴けば、ただの“愛の歌”に過ぎないが…アイルランド人たちにとっては別の意味も含ませた内容だったという。 17世紀頃から歌い継がれてきたこの「Londonderry Air(ロンドンデリーの歌)」も、そうした特別な歌の一つだった。 哀愁漂うメロディーが印象的なこの楽曲には作者のクレジットが存在しない。 19世紀にジミー・マッカリーという盲目のヴァイオリニスト(アイルランド人)が路上で演奏していたものを、ジェイン・ロスという女性の民謡収集家(アイルランド人)が聴き取って採譜したという。 ジェインは、その譜面を同じ収集家仲間のジョージ・ペトリに預け、その後、彼の編纂によって1855年発行の『The Ancient Music of Ireland(アイルランドの古代音楽)』に収録された。 この書物の中では無名の曲として紹介されていたが、注釈として“ロンドンデリーのジェイン・ロスの収集によるもの”とつけられていた。 この歌のタイトルにある“Air(エアー)”とは、独唱曲(詠唱曲)を意味する音楽用語らしく、歌い手が自由に歌詞をつけたり、バージョンを変えたりしながら歌われる楽曲のことを表す言葉なのだそうだ。 辛く悲しい運命に翻弄されながら…ケルト人たちは、このメロディーにさまざまな詞(ことば)をのせて子孫へと歌い継いできた。 現在でも数多くのタイトルと歌詞(バージョン)が存在する中、ダブリン生まれでアイルランドの文芸復興運動などでも活躍したアルフレッド・グレイブスという人物が編集した本『The Irish Song Book』(1894年出版)で、この歌に“成長して家を出て行った息子を想う母の気持ち”をのせて歌詞を完..
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ボノ27歳〜ヨシュア・トゥリーの大ヒット、アカデミー賞授賞式で語った印象的なスピーチ

1987年3月、ボノが27歳を迎える2ヶ月前にU2の5thアルバム『The Joshua Tree(ヨシュア・トゥリー)』は発表された。 前作『The Unforgettable Fire(焔-ほのお)』からの3年間、彼らはアフリカ救済、エイズ撲滅などのチャリティーイベントに参加して国際的な知名度を得つつあった。 『The Joshua Tree(ヨシュア・トゥリー)』はリリースされた直後からたちまち世界中でNo.1ヒットとなり、フロントマンであるボノは名実ともに“トップアーティスト”として注目を浴びるようになった。 アルバム発売当時、アメリカの『TIME』誌はU2の写真を表紙に載せて”Rock’s Hottest Ticket”という見出しを付けた。 その年、U2は間違いなく世界で一番影響力のあるバンドになった。 同年の5月10日、ボノの27歳の誕生日、彼はニューヨークで記者会見を受けていた。 集まった記者たちは、ボノに心境を聞いてきた。 「今までで最高の誕生日です。ご機嫌だよ。ナンバーワンのアルバムに、ナンバーワンのシングル、これ以上何を望めっていうんだい?」 その会見の3日後には、アルバム『The Joshua Tree』がRIAA(アメリカレコード協会)よりマルチプラチナアルバムに認定されることが決まっていた。 その週、ボノはニューヨークからダブリンに戻り、アルバムの大ヒットとワールドツアー開始を祝うイベント出席した。 祝賀ムード一色のその会場には、当時のアイルランド首相チャールズ・ホーヒーの姿もあったという。 翌月の6月2日、ロンドンのウェンブリーアリーナでいよいよツアーの火蓋が切って落とされた。 ワールドツアーは大盛況となり、U2は各国各地で自己動員記録を次々に塗り替えて行った。 1988年、目まぐるしい一年を終えたU2はオーストラリアツアーの延期を発表した。 ボノは少しの間だけクールダウンして、大衆の目のない場所でドキュメンタリー映画『U2/魂の叫び』の制作プロジェクトを進めようと考えたのだ。 1月、年明け早々この映画作りのためにU2のメンバーはロサンゼルスへ(一時的な)移住をする。 ボノ、アダム、ラリーの三人はビバリーヒルズの隣にある高級住宅地ベル・エアで家を1軒借りて共同生活を、エッジは家族と共にハリウッド・ヒルズで家を借りた。 このLA滞在..
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テルマ&ルイーズ〜大人の女の中に潜む自由な少女

幼い頃、例えばディズニーアニメが描くようなシンデレラストーリーを観た経験があると思う。あの虹色の世界観に掻き立てられる想像力の旅。圧倒的な憧れを抱いたままベッドの眠りの中で物語が続けられた静かな夜。 そして……時は重なって社会との交流を経ながら、少女はやがて現実というものが決してアニメのようなファンタジーではないことを悟る。少なくとも他人の心の痛みが分かるようになり、世の中のシステムに気付くような大人になる。自由な夢の世界に彷徨っていた少女が、今、タフな現実の中で大人の女として存在する。 リドリー・スコット監督『テルマ&ルイーズ』(THELMA&LOUISE/1991)を観ると、そんなことを想ってしまう。独り身になって生活をすることの重み。お金を稼ぐための労働。結婚生活は何も幸せのゴールではなく、それが愛のないものであるなら空しい毎日の始まりに過ぎない。こんな日々から抜け出して何かをやってみたいと思うのは、心がまともな証だろう。 1969年に『イージー・ライダー』で描かれたキャプテン・アメリカとビリーの旅は、アメリカの自由とアメリカの現実との闘いだった。自由とは自らの信念に従い貫くことだとすれば、彼らの自由は現実にとって脅威であり不安に映った。二人の旅は死で終わったが、テルマとルイーズの旅はどうなのか? 舞台はアーカンソー州のスモールタウン。ウェイトレスで生計を立てるルイーズ(スーザン・サランドン)と専業主婦のテルマ(ジーナ・デイヴィス)は親友の仲。ルイーズはまるで家政婦のような扱いを受けて暮らすテルマを誘って、友人の山荘にドライブ旅行へ出掛ける。息抜きのヴァカンスになるはずだったが、自宅からなぜか銃を持ち出したテルマにルイーズは驚く。テルマは自由を満喫していた。 途中で立ち寄った酒場で見知らぬ男とダンスするテルマ。その後、駐車場で男は嫌がるテルマをレイプしようとする。脅しのために銃を向けたルイーズ。しかし男は侮辱の言葉を浴びせニヤつくだけ。ルイーズの銃弾が男をブチ抜いた。彼女たちのヴァカンスは一転して逃避行の旅に変わった。警察に事情なんて話しても無駄だとルイーズには分かっていた。 次の日、殺人を犯した現実と少ない所持金に苛つく彼女たちの関係。ルイーズはオクラホマ州で昔の恋人ジミーと落ち合って自分の全財産6700ドルを立て替えてもらう。それは新しい目的地となったメキ..
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友川カズキ物語〜デビューまでの道のり、映画“戦メリ”の主役を蹴った過去、怒れる詩人としての信念

1980年代の初頭、映画監督・大島渚はある無名のシンガーソングライターを呼び出した。 それは新作映画への出演依頼だった。 しかも主役という大抜擢。 共演者はデヴィッド・ボウイだという。 ただし、出演にあたって一つだけ条件があったという。 それは“秋田なまり”を直すことだった。 「なまりを直す気はありますか?」 監督にこう問われた男は、なんの躊躇もなく答えた。 「ありません。」 数ヶ月後…彼の代わりに坂本龍一が抜擢され映画『戦場のメリークリスマス』はクランクインした。 ビッショリ汚れた手拭いを 腰にゆわえてトボトボと 死人でもあるまいに 自分の家の前で立ち止まり 覚悟を決めてドアを押す 地獄でもあるまいに 生きてるって言ってみろ 生きてるって言ってみろ 生きてるって言ってみろ その男の名は友川カズキ。 1974年のデビュー以来「友川かずき」として活動をしてきたが、2004年から名前をカタカナ表記にして活動をしている。 本名は及位典司(のぞきてんじ)。 1950年生まれ(現在66歳)の秋田県生まれで、中学時代に詩人・中原中也の作品に衝撃を受けて詩の創作を始めたという。 1969年、19歳のときに集団就職で上京する。 彼の物語はここから始まった。 「高校を卒業して浅草の婦人服店に就職したんですが、半年しか続かなかったね。秋田なまりが強いのに接客をやらされたもんだから。最初のうちはなまりを直そうと努力したんですけどね…。トイレに隠れて“いらっしゃいませ”って何度も練習しました。でも、やっぱりダメだった。サラリーマンには向いてなかったみたいだね。そもそも、婦人服店に就職した理由ってもの、東京へ出るのが目的だったし。」 その後、新聞配達や喫茶店のボーイなどアルバイト先を転々とするが、最終的には日給のよい土木作業員をすることが多かったという。 自分の名を「友川かずき」と名乗ったのもこの頃からだった。 なぜ偽名を名乗ったのか? 「本名の及位(のぞき)ってのをいちいち笑われて面倒だったから…。」 そんな中、彼は行きつけの赤提灯で岡林信康の歌を初めて耳にする。 それは「三谷ブルース」と「チューリップのアップリケ」だった。 今日の仕事はつらかった あとは焼酎をあおるだけ どうせどうせ山谷のドヤ住まい 他にやることありゃしねえ うちのお父ちゃん 暗いうちからおそうまで 毎日くつを ..
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浅川マキ27歳〜新宿に惹かれた女、新宿が生んだアングラの女王

1969年、浅川マキは劇作家・寺山修司によってその才能と存在感を見出され、シングル「夜が明けたら/かもめ」で再デビューを果たす。 それは、彼女が27歳になった年の出来事だった。 学生運動、70年安保闘争という時代の中、彼女は「アングラの女王」と呼ばれるようになる。 そんな“再デビュー”に至るまで彼女はどんな日々を過ごしてきたのだろう? ──1942年1月27日、彼女は石川県石川郡美川町という漁師町で生まれる。 家が五軒しかないという集落で、妹と共に過ごした幼い頃に「美空ひばりを聴いて育った」という。 高校を卒業した彼女は町役場に就職し、国民年金の窓口係を担当する。 しかし、ほどなくして役場を辞め、夜行列車に乗って東京に向かった。 「法律の勉強をするため」と言い残すも…ただ町を出たかったのかも知れない。 彼女は、新宿の街に惹かれた。 思い切り裾の広がったドレスを買うと、あちこちのキャバレーの裏口のドアを叩いた。 「あの、こちらで歌手としてオーディションをしてみてもらえないかしら?」 一枚だけのドレスは、日を追うごとに汗のにおいがしみつく。 それを大きなバッグに詰め込んで、新宿の街を歩く…。 彼女はよく深夜のジャズ喫茶の片隅に座った。 始発が出る頃まで目を閉じている。 黒いスピーカーから大音量で流れているモダンジャズの中で、時には奇妙な安らぎのような不思議な眠りに落ちた。 ジョン・コルトレーンやチャーリー・パーカーのサキソフォン…それは黒人の男の体温だった。 そしてマへリア・ジャクソンが歌う黒人霊歌と、ビリー・ホリディの歌声にのめり込んでいった。 その後、彼女は沖縄米軍キャンプや新宿の歌声喫茶『灯』でゴスペルやブルース、ジャズを歌い始めた。 1967年、当時25才だった彼女は“最初のデビュー”を経験する。 しかしそのデビュー曲「東京挽歌」は、彼女が歌いたかった世界とはあまりにかけ離れていた。 デビューはしたものの…レコードの売り上げも芳しくなく、彼女が歌う場所はキャバレーが主で、それも月に3回くらいしか仕事がない状態にあった。 寺山修司が知人の音楽プロデューサー、寺本幸司に誘われて銀座にあったシャンソン喫茶『銀巴里』に出かけたのは、1968年の秋口のことだった。 「ちょっと面白い歌手がいるから見に来てくれないか」 寺山修司はひと目で浅川マキを気に入った。 「“夜が明け..
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シング・ストリート〜80年代にMTVを見つめバンドを組んだ人たちに捧ぐ“未来へのうた”

1981年8月1日、午前零時過ぎ。『Music Television』(以下MTV)の放送がスタートした時、80年代の音楽シーンは幕開けたと言えるかもしれない。前年にはジョン・レノンが逝き、この年にはストーンズが史上最大規模の全米メガツアーを開始。かつて反体制の象徴だったロックスターたちは、遥か遠い世界に去ってしまった。それで充分だった。 “見えるラジオ”をコンセプトにした音楽ビデオを24時間流し続けるプログラムの登場は、アメリカやイギリスの若い世代の間に漂う空気を次第に変えていく。特に広大なアメリカではMTV観たさにCATVの加入が急激に伸び、その動きは田舎町から都市へと広がった。 音楽ビジネスやマーケティングももちろん変わった。レコード会社にとってMTVは、新たなプロモーションメディアに位置づけられた。売り出したいアーティストがいたら地道に各地をツアーで回るようなリスクや時間を取らせなくても、印象的なビデオさえ制作すれば、それ以上の効果が素早く期待できるようになったのだ。 その一番の恩恵を受けたのは、デジタル機材を活用したポップなサウンドを奏でるヴィジュアル性に富んだイギリスの若手アーティストたち。デュラン・デュランやカルチャー・クラブらニューロマンティクス勢がヒットチャートを独占する、いわゆる「第二次ブリティッシュ・インヴェイジョン」と呼ばれる動きは、MTVが巻き起こしたムーヴメントだった。こうしてMTVは若者文化/ポップカルチャーの主役に一気に躍り出る。 ミュージック・ビデオやビデオ・クリップなどと呼ばれた映像は予算化・作品化し、マイケル・ジャクソンやプリンスやマドンナといったスターを育み、青春映画がMTV化してサウンドトラックにも続々ベストセラーが生まれた。 日本においても、80年代に十代の多くを過ごし、洋楽に慣れ親しんだ世代にとって、MTVは特別な輝きを放っていた。現在40代後半〜50代前半の人々なら、『ベストヒットUSA』『SONY MUSIC TV』『ザ・ポッパーズMTV』の名を知らない人はいないだろう。真夜中に放送されたそれらの情報番組は、音楽を愛する少年少女たちにとって、親が寝静まった後に訪れる夢のような時間だった。印象的なジングルとMTVのロゴは今でも強烈なクリエイティヴだ。 *このあたりのことは以下のコラムで。 8月1日にMTVが開局して僕た..
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雨の歌〜Have You Ever Seen the Rain(雨を見たかい)

♪「Have You Ever Seen the Rain(雨を見たかい)」/クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル 晴れているのに雨が降るんだ 雨のように光って落ちてくるんだ ねえ、知りたいんだよ 君はその雨を見たことがあるの? ねえ、知りたいんだよ 君はその雨を見たことがあるの? 1971年にCCRが発表したこの歌は、60年代末から70年代前半にかけてアメリカが介入したベトナム戦争の頃にリリースされました。 だが、当時、アメリカ政府はこの歌を放送禁止にした。 その理由は、この歌がベトナム戦争で使われた無差別大量殺戮兵器・ナパーム弾を連想させるためだった。 ナパーム弾が落下するときに、空気との摩擦で、雨粒のように青白く輝くということに由来しているからだという。 水のようにきらめきながら“降り注ぐ雨(the rain)”にも見えるナパーム弾(ゲル化油脂焼夷弾)のスラングとして取られ、当時のアメリカ人、そして兵士達が持ち始めていたベトナム戦争に対する疑問の気持ちや、罪の意識を代弁することになった。 だが、作詞作曲者ジョン・フォガティ自身は1997年にオフィシャル・ウェブサイトで次のように発言し、反戦歌であることを否定している。 バンドのメンバーだった弟トムの突然の脱退宣言を「(いきなり降ってくる)雨」に喩えたという説である。 「このことは、ベイエリアでは他の地区よりもよく起こるんだ。陽が照っているのに雨が、虹と雨粒が降ってくることがある。風が吹くと、雨が金門橋を越えてサンフランシスコ湾に飛ばされて来るんだ。『雨を見たかい』はCCRの崩壊についての歌なんだ。“Have you ever seen the rain coming down, sunny day?”の部分は、sunny dayが黄金時代のクリーデンスを示唆している。しかし、ぼくたちに雨が降り掛かって来るのが見えたということを言っているんだ」 真偽は謎のままですが…多くの人たちは、ベトナム戦争を歌ったものだと信じています。 曲の発売から30年後…2001年4月4日に“最後のナパーム弾”が処分されました。 その後もアメリカ軍がナパーム弾や、これに代わる非人道的な無差別大量殺戮兵器をアフガニスタンやイラクで使用したとの報道もありました。 アメリカ国防総省の公式見解は「ナパームのように見えるナパームとは違う..
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コールマン・ホーキンスを偲んで〜失敗を怖れずに果敢に腕を磨き続けたジャズメンの偉大な功績と足跡

1969年5月19日、“ジャズ・サックスの父”と呼ばれた男コールマン・ホーキンスが肺炎を悪化させこの世を去った。享年64。 スウィングジャズ世代のミュージシャンとしては珍しく、第二次世界大戦後はビ・バップの分野で活躍し、サックス奏者に限らず多くの後進ミュージシャンに影響を与えた。 “Hawk”や“Bean”という愛称で親しまれた彼は、どんな音楽人生を歩んだのだろう? 今日は彼を偲んで、その偉大な足跡と功績をご紹介します。 1904年11月21日、ミズーリ州のセントジョゼフで産声を上げた彼は、音楽家の母と電気工事作業員の父のもとで大事に育てられたという。 一人息子だった彼は、母親の影響もあって5歳からチェロとピアノをみっちり稽古し、9歳の時にプレゼントにもらったサックスとの出会いをきっかにジャズに興味を持つようになる。 十代の前半にもかかわらず、劇場のオーケストラやヴォードヴィル楽団に駆り出され、周囲の大人達を驚かせていたという。 息子を音楽学校に通わせて、立派なチェリストにしたいと思っていた母親は黒人でも一流の教育が受けられるシカゴへ息子を送り出す。 その後、カンザス州都トペカのハイスクールに進学した彼は、日に日にジャズの魅力に取り憑かれてゆく。 トペカから車で1時間ほど飛ばすと、そこはジャズのメッカと言われたカンザスシティだった。 そこで彼は、ルイ・アームストロングやキング・オリヴァー等がニューオーリンズから持ち込んだエッセンスを吸収し、将来ジャズメンとして生きる夢を抱くようになる。 十代の後半になると「サックス奏者としてもっと腕を磨きたい!」と決意し、ジャズの道に進むことに反対する母親を説得する。 18歳になった彼は念願叶ってニューヨークに移り住む。 当初、ミズーリ州の田舎者だった彼は、周りのミュージシャンたちから“Greasy(脂ぎった奴)”と呼ばれ馬鹿にされていたという。 数ヶ月もすると彼はすっかり都会に馴染み、後にはジャズ界を代表する“洒落男”と言われるまでとなる。 ジャズメンとして人一倍身なりにも気を使っていたという彼には、野球をする時でさえタキシードを着ていたという逸話が残っている。 1923年にフレッチャー・ヘンダーソン楽団のメンバーとして演奏するようになる。 翌年、同楽団に加入してきたルイ・アームストロングから大いに刺激と影響を受けたという。 荒々..
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ロケットマン〜珠玉の名曲を送り出した作曲家エルトン・ジョンと作詞家バーニー・トーピン

エルトン・ジョンの半生を描いた映画『ロケットマン』(Rocketman/2019)が公開された。 2018年に大ヒットした同じ英国人ミュージシャン、フレディ・マーキュリーの『ボヘミアン・ラプソディ』の後だけに賛否両論はある様子。でも自腹鑑賞してきた感想は、観る者がどこに軸を置くかによって楽しみ方がいかようにでも変わり広がる作品だということ。 物語はエルトンの幼少期からデビュー時期、そしてアルバム7作連続1位という黄金時代を築き上げた1970年代と嵐が去った後の1983年の姿を描く。つまり、派手な衣装とメイクのポップスター街道真っ只中と、それ以前・直後のエルトン。90年代以降の特大ヒットを入口にした世代には疑問だらけかもしれないが、ソングライティングにおける生涯の相棒バーニー・トーピンとの関係性を見れば、この時代設定以外はあり得ない。 エルトン・ジョンが世に送り出した珠玉の名曲の数々は、作詞家バーニー・トーピンなくして生まれなかった。まずバーニーが歌詞を書き上げ、それからエルトンがピアノで曲をつける。70年代にリリースしたアルバムのブックレットには二人が並んだ写真がメインに登場することが多く、いかに強い絆で結ばれたソングライターチームであったかが分かる。 最初に歌詞をもらうんだ。彼が曲のシナリオを書いて、僕がそれを仕上げるという変わった形を取っている。彼が歌詞を書くのにどれくらい時間が掛かっているか分からない。尋ねたことがないからね。でも歌詞を受け取ると、それをすぐに理解できれば、もうキーボードに手を置いて開始する。大抵、できるまで長い時間は掛からない。 両親から満足な愛を得られなかったこと。同性愛者のポップスターとなり、孤独な人生を歩んでいたこと。その同性の恋人から金銭的に利用されてきたこと。アルコール、ドラッグ、過食といった依存症の悪夢にうなされてきたこと……ショッキングな場面が流れていく中、バーニーとの出逢いや創作活動、ブレない友情こそが、映画『ロケットマン』の真髄だ。 製作総指揮を担当したエルトンは、この映画で正直であることに拘った。「彼はこんなに素晴らしかった。こんなに偉大だった」という描写だけは避けたかったという。 この映画を通じて理解してほしかったのは、名声と引き換えになった途方もない代償、子供時代が自分に与える大きな影響、中毒や自分の行動が引き起..
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雨の歌〜雨あがりの夜空に

梅雨です。 紫陽花が綺麗な季節です。 自然界、農作物にとっては恵みの雨ですね。 このジメジメをブッ飛ばす“スカっとする歌”でも聴きたいものです♪ ♪「雨あがりの夜空に」/RCサクセション 1970年代の終わり。 RCサクセションは、フォークグループからロックバンドへと変貌を遂げようとしていた。 この楽曲は、当時、忌野清志郎が乗っていたオンボロ自動車(日産サニー)が雨で壊れてしまった事と、女の子の事をダブルミーニングで歌いあげた“日本のロック史上で最も偉大な一曲”である。 仲井戸“CHABO”麗市は、今もライブでこの曲を演奏するときには、こんな感じのステージMCで曲の紹介をしてくれる。 この歌が出来たのは80年代に入ろうとする頃。 俺が当時住んでた渋谷のちっこいちっこいリビングルームで、あいつが言ったんだ。 「なぁチャボよ、ライブのケツの方で盛り上がる曲、一曲欲しくねぇか?」 「そうだな、清志郎!じゃあこんなリフはどうだぁ?」 そんな風にして(この歌は)生まれたんだ。 歓声と共に観客の耳には、天国から“あのシャウト”が聴こえてくる。 「OK!チャボ!!!」 そして、もはや“伝説”とも云えるあのイントロ(リフ)が鳴り始めるのだ。 この雨にやられてエンジンいかれちまった 俺らのポンコツとうとうつぶれちまった どうしたんだHey Hey Baby バッテリーはビンビンだぜ いつものようにキメて ブッ飛ばそうぜ オリジナルのレコーディング版(発売直後のライブ)だと「Ohどうぞ勝手に降ってくれポシャルまで Wooいつまで続くのか見せてもらうさ」となっているのだが、数年後のライブなどでは“ここ”はカットされ、代わりに最後の部分で「Oh雨上がりの夜空に吹く風がWoo早く来いよとオレ達を呼んでる」と歌われている。 これは“後から変えたもの”ではなく、レコーディング前にライブハウスで演奏し始めた当初の歌詞に“戻したもの”だと云われている。 レコーディング時、プロデューサーによる歌詞への“ダメ出し”に対して、清志郎がその場で“当てつけ”の皮肉も込めて変更したという逸話もあったり…真相は謎のまま。 この「雨あがりの夜空に」は、1980年1月21日、RCサクセションの9枚目のシングルとしてリリースされ、ライブでは終盤で必ず演奏される彼らの代表曲となった。 現在ではロックイベントなどのフ..
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歌い継がれるシェナンドー・前編〜その川の源流はネイティブアメリカンの心に

■美しい写真の裏に隠された白人とネイティブアメリカンの黒歴史(CINRA.NETより) 15世紀末、コロンブスの新大陸発見以来、ヨーロッパから移住してきた白人とアメリカ先住民は大小の衝突を繰り返してきたが、1830年に「インディアン移住法」が可決されてからの約100年間は、先住民たちにとって真に苦難の時代だった。大陸南部を中心とした故郷の大地を奪われ、西部への強制移住を余儀なくされた。その道程で各部族は分裂し、多くの血が流れた。豊かな自然とともに生きる先住民の文化は、近代化の影響を受けて徐々に失われつつあった。19世紀を通じて多くのアメリカ先住民を迫害・殺戮した白人社会は、20世紀前半において今度は彼らの文化や伝統を消失させようとしていたのである。 ♪「Shenandoah」/トム・ウェイツ&キース・リチャーズ これまで幾度かの共演を果たし、現在もお互いにリスペクトしあっているというトム・ウェイツとキース・リチャーズ。 彼等の共演作と云えば…トムの名盤『Rain Dogs』(1985年)にキースがギタリストとして参加したことや、そしてストーンズのアルバム『Dirty Work』(1986年)の「Harlem Shuffle」あたりが有名なところだろう。 2013年2月、ジョニー・デップが中心となって制作した“船乗り歌”コンピレーションアルバム『Son of Rogue’s Gallery: Pirate Ballads, Sea Songs and Chanteys』がリリースされた。 そこには二人を筆頭に、イギー・ポップ、パティ・スミス、ショーン・レノン、ポーグスのシェーン、マリアンヌ・フェイスフル、トッド・ラングレンなど豪華な面々が参加している。 その中でもこの「Shenandoah」を歌う二人が、何とも強烈な存在感を醸し出している。 おお、シェナンドー 逆巻く川よ… おまえのもとを去ってはいるが おまえを忘れたりしない おまえを最後に見てから7年の月日が流れた… この曲は、様々な時代、様々な歌手によって唄われてきた。 それは19世紀前半から唄い継がれている民謡で、アメリカ大陸を流れるシェナンドー川にまつわる歌だ。 ヴァージニア州周辺で川を行き来する貿易船の舟歌(river chantey)として歌われていたという。 この曲の歌詞には様々なバリエーションが存..
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歌い継がれるシェナンドー・後編〜もう一つの流れを辿るとアイルランド系移民の心に

■みんなアイリッシュだった~アイルランド系特集(TAP the POPより) ♪「Shenandoah」/シセル ノルウェーの女性歌手、シセルによるバージョンで、アイルランドの音楽大使に認定されている伝統音楽バンド、チーフタンズ(The Chieftains)のリーダー、パディー・モローニが笛で参加している。 おお、シェナンドー 逆巻く川よ… おまえのもとを去ってはいるが おまえを忘れたりしない おまえを最後に見てから7年の月日が流れた… この曲はアイルランド系移民達にとっても深い意味を持つ歌だとも云われている。 この歌詞に出てくる「7年の月日」とは、当時の法律に関わる年数で、誰も住まない土地を開墾(かいこん)して7年暮らせば、そこが所有地と認められたという“七年法”のことを歌っているもの。 この“七年法”が適用されたのは、19世紀になってからアメリカに渡って来たアイルランド系移民でした。 裕福な土地はすでに先住民が占拠しており、当時のアイルランド系移民は辛く厳しい日々を送っていたという。 7年間の苦労を経て「住む土地も出来ましたから、あなたのお嬢さんをください」と求婚に行くラブソングとして歌われた歌詞もある。 ♪「Shenandoah」/ヴァン・モリソン シェナンドー酋長よ 私はお嬢さんを愛しています 彼女を連れていきたいです どんなに反対されたとしても 川の船乗りたちが歌う古い舟歌(労働歌)は、いつしかアイルランド系白人の男性が酋長の娘に恋をするラヴソングへとなり、長い間に歌い継がれていくうちには様々な歌詞がつけられてきた。 そのメロディを聴くだけでも、甘いラヴソングというよりは、去りゆかざるを得なくなった者のそこはかとない哀愁を感じる… ♪「Shenandoah」/キース・ジャレット キース・ジャレット 『The Melody At Night, With You』 (1999/ ECM Records) iTunes Amazon こちらのコラムの「書き手」である佐々木モトアキの音楽活動情報です♪ 宜しくお願い致します。 【佐々木モトアキ独り唄いTOUR“歌ものがたり2021”春夏】 5月1日(土)岡山Desperado  5月2日(日)島根(出雲)Bar Soul   5月3日(月・祝)鳥取(米子)シンワンメイク 5月4日(火・祝)..
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フランク・シナトラのように歌いたかったジム・モリソン

1960年代後半のアメリカにおけるロック・シーンで、セックスシンボルとなったドアーズのジム・モリソン。 その最期は27歳の若さで不慮の死を遂げるという、破滅的なロック・スターの典型ともいうべき生涯だった。 しかしジム自身はというと、その生い立ちにおいてロックからそれほど影響を受けてこなかったようである。 少年時代から家にこもって本を読んでばかりいたというジムは、ウィリアム・バロウズやジャック・ケルアックといったビート・ジェネレーションの文学にのめり込み、その影響は彼の詩にあらわれている。 一方で歌い方はというと、ときおり激しくシャウトすることもあるが、普段はなめらかな歌声で、バリトン・ボイスをソフトに響かせる。 これは1930~40年代に流行したクルーナー唱法という歌い方に近く、ロック・シンガーが用いる歌い方ではない。 ジム・モリソンは、あるときインタビューでレッド・ツェッペリンについて訊かれたときに、こう答えている。 「実を言うと、俺はそんなにロックンロールを聴かないんだ。 だから彼らの音楽も聴いていないんだよ。 普段はクラシックとかペギー・リーとか、フランク・シナトラ、あとはエルヴィス・プレスリーなんかを聴いている」 父親が海軍の軍人という、保守的な環境で生まれ育ったジム。 両親との関係は決して良好ではなかったが、音楽的な嗜好に関していえば、親の好みが反映されていたようである。 1965年に大学でレイ・マンザレクに誘われたことで、突然バンドのヴォーカルをやることになったジム・モリソンが、歌の手本としたのがフランク・シナトラだった。 ドアーズのレコーディングを手がけたエンジニアのブルース・ボトニックは、はじめてスタジオでジム・モリソンに会ったときのことを、のちにインタビューで語っている。 ジムはヴォーカル・ブースに入ると、固まって動かなくなり、少し間をおいてこう口にしたという。 「フランク・シナトラだ」 ボトニックがブースに用意していたマイクは、テレフンケン社のU-47というマイクで、シナトラがよく使っていたもののひとつだった。 「U-47は『シナトラズ・スウィンギング・セッション』のジャケットにキャピトルのロゴと一緒に映っているんだが、そのときジムがシナトラのファンなんだと気づいたよ」 学者肌だったジムは、シナトラの歌い方を研究する中で、マイクにも秘密がある..
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