2021-06

未分類

20センチュリー・ウーマン〜1979年に生きる女たちと音楽を描いたマイク・ミルズ監督作

『20センチュリー・ウーマン』(20th Century Women/2016)は、母と息子、そして女たちの物語でもあると同時に、社会や文化の変革期を捉えた作品だった。“時代の空気”という本来目に見えないはずのものが観ているうちに手に取れるような、そんな体験をさせてくれる119分間。優れた映画というのはエンディングロールで終わらない。観る者の心に枝葉を広げる。 アメリカの100年の歴史を大まかに辿ってみると、好景気に沸いたローリング・トゥエンティーズで幕開け、30年代の大恐慌、40年代の第二次世界大戦を経て、その後マイホーム主義の中でティーンエイジャーが台頭する50年代、ポップアートやヒッピーやロックといったカウンターカルチャー全盛の60年代が過ぎていった。 『20センチュリー・ウーマン』の舞台となるのは70年代の終わり。当時のアメリカ大統領ジミー・カーターは、任期最後となる1979年の夏に「自信喪失の危機スピーチ」として知られるTV演説を行った。 国民は今や人生の意義を見出せず、国のために団結することもない。我々の多くが崇拝しているのは贅沢と消費です。しかし、確かなのは、物質や消費行動だけでは生きがいは得られない、ということ。我々は長年、人類の偉大な歩みに貢献すべく自由を追い求めてきました。今、国は歴史の岐路にある。分裂と利己主義の道を選べば、誤った“自由”に囚われ、衰退の一途をたどるでしょう。(ジミー・カーター) アメリカはこの後ロナルド・レーガン政権が生まれ、富への欲望が膨らんで、ヤッピーとエイズとMTVの80年代に突入。さらに90年代のインターネット革命、ゼロ年代の9.11や経済格差、現在のトランプ政権……といったように混沌とした時代の中を猛スピードで進んで行く。 脚本/監督はマイク・ミルズ。もともとデザイナーやアーティストとしての一面も持ち、NYアートシーンや郊外(サバービア)の風景を描くのがうまい人。前作『人生はビギナーズ』(2010)では、75歳でゲイであることをカミングアウトした父親と自身の関係を反映させて話題になったが、本作では母親に視点を移した。 「母を太陽とすれば、太陽の周りを回る惑星にはいろんな人たちがいる。なんだかちょっと凸凹な人たちがいる。それを1970年代後半のカルチャーも含めたポートレイトにしたいなと、ぼんやりだけど最初から考えて..
未分類

ティム・バックリィを偲んで〜“フォーク界のカルト的ヒーロー”と呼ばれた男の足跡と功績

1975年6月29日、米国カリフォルニア州サンタモニカで“フォーク界のカルト的ヒーロー”と呼ばれた男が28歳という若さでこの世を去った。 死因はアルコール及びヘロインの過剰摂取だったと言われている。 彼の名はティム・バックリィ。 フォーク、ロック、ジャズ、そしてサイケデリックまでを取り入れた幅広いサウンドで、後のミュージックシーンにも大きな影響を与えた存在である。 その死から17年後…1992年、彼のトリビュートコンサートに、最初の妻との間の息子であるジェフ・バックリー(当時25歳)が出演した。 ジェフはその公演での演奏をきっかけにレコードデビューを果たす。 しかし…オリジナルアルバムを1枚リリースしただけで、ジェフは水難事故により急死してしまう。 ジェフもまた父親と同じく30歳という若さでの死だった。 夭折したジムへの注目と共に、父ティムへの再評価の機運が高まってゆく。 本人達がこの世にいないにも関わらず、バックリー親子が遺した足跡(作品)は今も多くの音楽ファンを魅了し続けているのだ。 UKインディーズシーンの“良心”とも言うべきレーベル4ADのディス・モータル・コイルが1983年にティムの楽曲「Song To The Siren」をカヴァーし、スマッシュヒットを記録。 後(1997年)に、このカヴァーがデヴィッド・リンチ監督の映画『Lost Highway』で使われたことで、ティムの名が次世代にも広く知られることとなる。 2006年、オーストラリア映画『Candy』では、同曲のオリジナルヴァージョンが挿入歌として使用され話題となる。 時代がサイケデリック最盛期を迎えていた1967年、ビートルズが『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』を発表。 同年、ティムは2ndアルバム『Goodbye And Hello』を完成させる。 収録された全10曲には、孤独で、寂しくて…どこか人を信じる事が出来ないティムのパーソナリティが散りばめられている。 反戦への思いを込めた爆発音から始まる本作は「Summer in the City」や「Do You Believe in Magic(魔法を信じるかい?)」の大ヒットで知られるラヴィン・スプーンフルのジェリー・イースターがプロデュースを担当。 多用されたストリングスやティム自身による12..
未分類

哲学的な歌〜The Origin Of Love(愛の起源)

♪「The Origin Of Love〜愛の起源〜」/映画『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』の1シーンより 昔々の話… 地球がまだ平らで 雲は炎でできていて 山は空へと伸びていた もっと高くへと 1997年よりオフ・ブロードウェイで上演され、熱狂的な支持を集めたロック・ミュージカル『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』をご存知だろうか? オリジナルの舞台では主人公・ヘドウィグ役を演じた俳優で、物語の原案者でもあるジョン・キャメロン・ミッチェルの作品だ。 この「The Origin Of Love〜愛の起源〜」は、本作のテーマソングとも云える名曲。 古代哲学者プラトンの著作『饗宴』の中で、アリストパネスという喜劇詩人が語ったギリシャ神話が、この楽曲や脚本のモチーフとなっているという。 自分の“片割れ(Better half)=愛”を探して各地を巡る物語は、当時ニューヨーカーやセレブの間で一躍話題になり、主人公ヘドウィグの髪型を真似て何度も劇場へと足を運ぶ“HED HEAD”と呼ばれる熱狂的なファンをも作り出した。 また、マドンナが劇中歌の利用権を申請したり、デヴィッド・ボウイがグラミー賞の授賞式をすっぽかしてまで観劇し、舞台への出資を決めたことなどでも話題となった。 当時、タイムアウト誌やローリング・ストーン誌など一流メディアも特集を組むなど、幅広いジャンルから評価され、まさに“アメリカンドリーム”を叶えた作品である。 2001年には映画化もされており、サンダンス映画祭最優秀監督賞、最優秀観客賞、ベルリン国際映画祭テディ・ベア賞、ドービル映画祭グランプリ、最優秀批評家賞、最優秀新人監督賞、サンフランシスコ国際映画祭最優秀観客賞、シアトル国際映画祭最優秀主演男優賞など数々の賞を受賞している。 同作はイギリス、カナダ、ドイツ、日本、韓国など世界各地でロングラン上演され、初演から17年経った今も“伝説の舞台”として再演され続けている。 ちなみに日本では三上博史(2004年・2005年)、山本耕史(2007年・2008年・2009年)、森山未來(2012年)が、それぞれに主人公・ヘドウィグ役を好演した。 ■映画『Hedwig and the Angry Inch』2001年公開時の予告編(約2分半) 二つに切り裂かれたとき 君は僕を見ていた 僕は君を見ていた ..
未分類

欲望〜スウィンギング・ロンドンと60年代ポップカルチャー

1960年代のある特定の時期(つまり1965年〜67年頃)におけるロンドンは「スウィンギング・ロンドン」と呼ばれて、間違いなく世界のポップカルチャーの中心だった。それはファッション、デザイン、映画、文学、アート、写真、そして音楽などに携わる人々やそれらを支持する人々が醸し出した一つの確固たる文化革命ムードであり、ロンドンが最も輝いていた時代として今でも伝説のように語られる。 それまでヨーロッパではパリがモードやカルチャーの権威だった。しかし、この時期はロンドンに眩しいくらいのスポットライトが当たる。その起爆剤になったのは「若者」「音楽」「ファッション」の三つだった。 第二次世界大戦後のベビーブームの影響で、60年代はティーンエイジャー人口が増加。その消費力はいよいよ無視出来なくなってくる。いわゆる「ティーンエイジャー」という存在が都市ロンドンでも浮上して、コリン・マッキネスの小説『アブソリュート・ビギナーズ』(アラン・シリトー『土曜の夜と日曜の朝』をはじめとする“怒れる若者たち”の作家の一人)で描かれたようなモッズ族が全盛期に入る。 “完璧な10代のライフスタイル”を追求したモッズたちはドラッグをやり、イタリアン・ルックに拘り、何よりも音楽を愛した。モダン・ジャズ〜R&B〜ロンドンのビートバンド〜モータウン・ソウル〜ブルービート/スカといった彼らがクラブで聴いて踊りまくった音楽は、そのまま「スウィンギング・ロンドン」のサウンドトラックと言える。 大人気だったTV番組『レディ・ステディ・ゴー』でザ・フーやヤードバーズはTV初出演を果たしたし、ローリング・ストーンズ、ビートルズ、キンクス、スモール・フェイセズ、エリック・クラプトン、ロッド・スチュワート、デヴィッド・ボウイ、スティーブ・ウィンウッド、ダスティ・スプリングフィールド、マーク・ボラン、ジミ・ヘンドリックス、ピンク・フロイド、ドノヴァンもすべてが「スウィンギング・ロンドン」の一部だった(イミディエイト・レーベルも)。 ファッション界ではミニスカートとボブ・ヘアーが革命を起こした。デザイナーのマリー・クワントやピエール・カルダン、あるいはヴィダル・サスーン。ジーン・シュリンプトン、ツィギー、アニタ・パレンバーグ、マリアンヌ・フェイスフル、パティ・ボイドといった可憐なモデルたち。「ヒズ・クローズ」「ビバ」「バザール..
未分類

カサブランカ・ダンディ〜男がピカピカのキザでいられた時代とは?

ボギー ボギー あんたの時代はよかった 男がピカピカのキザでいられた 1979年2月1日、沢田研二の26枚目のシングル「カサブランカ・ダンディ」がポリドールレコードから発売された。 この年のジュリーと言えば同曲に始まり「OH!ギャル」を経て「ロンリー・ウルフ」、そして年末にはアルバム『TOKIO』をリリースし、とにかくノリにノッていた時期である。 さかのぼること4年… 彼は公私共に“変化の時期”を迎えている。 1975年6月4日、7年間の交際を経てザ・ピーナッツの伊藤エミ(当時34歳)と結婚。同年7月20日、比叡山延暦寺で結婚式を行った。 同日、沢田の比叡山フリーコンサートにおいて夫婦揃ってステージに上がり、ファンに対して結婚報告を行う。 彼はそのコンサートでブルーのラメ入りのアイシャドウをしてファンの前に現れる。 お茶の間に流れるテレビ番組では控えていた奇抜なヴィジュアルも、この時期から徐々にエスカレートさせていく。 1977年に一世を風靡した「勝手にしやがれ」ではパナマ帽を客席に飛ばすというパフォーマンスを、「サムライ」ではナチスを彷彿とさせる衣装に刺青、「ダーリング」では水兵のセーラー衣装、「LOVE (抱きしめたい)」ではスタジオに雨を降らせ血で染まった包帯を手に巻いた。 さらに「カサブランカ・ダンディ」ではウイスキーを口にふくんで霧のように吹き、「OH! ギャル」では女優マレーネ・ディートリヒを真似たメイクで登場。 そして「TOKIO」では250万円の電飾衣装にパラシュートを背負い、「恋のバッド・チューニング」では青や金色のカラーコンタクトを装着するパフォーマンスを披露し、日本中に“ジュリー旋風”を巻き起こしてゆく。 そんな“黄金時代”の代表曲の一つ「カサブランカ・ダンディ」。 タイトルの“カサブランカ”は、1942年度のアカデミー作品賞を受賞した名画『Casablanca』に由来するもの。 曲のサビで繰り返される“ボギー”という男性の名前が、映画の主演を務めた名優ハンフリー・ボガードのニックネームだということは、ジュリーファンならずとも多くの人が知っている話だ。 この時代のジュリーが歌う曲の歌詞のほとんどを手がけているのが阿久悠。 この楽曲の他にも「勝手にしやがれ」「サムライ」「ダーリング」はすべて映画の題名からとったものだという。 曲のモチーフになっ..
未分類

デイヴ・バーソロミュー追悼〜“ニューオーリンズ音楽の巨人”と呼ばれた男の偉大な足跡と功績

2019年6月23日の午前中、“ニューオーリンズ音楽の巨人”と呼ばれたデイヴ・バーソロミュー(享年100)がニューオーリンズ郊外メテリーのイースト・ジェファーソン総合病院にて心不全のため死去した。 1950年代以降のニューオーリンズ音楽の形成に大きく貢献した彼は、“ロックンロールの創始者の一人”と言われた男ファッツ・ドミノの育ての親であり、ジャンプブルースやビッグバンドスウィングがR&B、R&Rに発展していく過程で主動的な役割を担った人物である。 トランペット奏者であり、ソングライターであり、バンドリーダーであり、プロデューサーでもあった彼が手がけた作品(作曲や編曲をした楽曲)が、後進のエルビス・プレスリーやビートルズなど多くのアーティストに影響を与えた影響・功績は計り知れない。 1918年12月24日、彼は米ルイジアナ州のエドガーという街で生まれた。 10代の頃からディキシージャズバンドでチューバを吹いていたが、のちにトランペットをメイン楽器に変更し、アルヴィン”レッド”タイラー(サックス)、アール・パーマー(ドラムズ)、リー・アレン(サックス)らと共に新しいバンドを結成する。 同時期、ニューオーリンズでレコーディングエンジニア/スタジオ経営者コジモ・マタッサ(リトル・リチャード、レイ・チャールズ、ドクター・ジョンなどを手がけた才人)と出会ったことをきっかけに彼はプロとしてのキャリアを本格的にスタートさせる。 1947年、28歳の時に彼はDELUXEレコードで初のレコーディングを経験するが、すぐに会社が倒産してしまい…不発に終わる。 30代となった1949年あたりから彼はインペリアルレコードの下で、編曲家、バンドリーダー、およびタレントスカウトとして活動するようになる。 ファッツ・ドミノを筆頭に、彼がスカウトしてプロデュースしたアーティスト達(アール・キング、トミー・リッジリー、ロバート・パーカー、フランキー・フォード、クリス・ケナー、スマイリー・ルイス、シャーリー&リー)が次々にヒットを飛ばし、その手腕と才能は音楽家としてだけではとどまらずビジネスマンとしても高い評価を得る。 1960年代半ばになると、彼はインペリアルを離れて自分のレーベル“ブロードムアレコード”を立ち上げる。 このレーベル名は当時彼が住んでいたニューオーリンズのブロードムア地域に因んで名付け..
未分類

死んだ男の残したものは〜鉄腕アトムの主題歌で知られる詩人・谷川俊太郎が書いた反戦歌

死んだ男の残したものは ひとりの妻とひとりの子ども 他には何も残さなかった 墓石ひとつ残さなかった この「死んだ男の残したものは」という歌は1965年(昭和40年)に生まれた。 作詞は、あの「鉄腕アトム」の主題歌を手掛けた日本を代表する詩人・翻訳家・絵本作家・脚本家の谷川俊太郎(当時34歳)によるもの。 1965年といえば…アメリカがベトナム戦争に本格的軍事介入した年で、海の向こうではビートルズが「イエスタディ」を、ローリング・ストーンズが「サティスファクション」を、そしてボブ・ディランが「ライクアローリングストーン」をリリースし、日本では美輪明宏(当時・丸山明宏)が「ヨイトマケの唄」を発表し、加山雄三が「君といつまでも」を大ヒットさせた年でもある。 谷川は、その年の4月に東京で開かれる“ベトナム平和を願う市民の会”のためにこの詞を書いたという。 「明日の市民集会のために曲をつけてほしい!」 谷川が依頼したのは、世界的に知られた現代音楽の作曲家の武満徹(たけみつとおる・当時35歳)だった。 無茶ぶりとも言える急な作曲を依頼された武満は、たった1日で曲を完成させたという。 さらに谷川は、依頼の際にこんな手紙を添えて渡している。 「メッセージソングのように気張って歌うものでなく、映画『愛染かつら』の主題歌(旅の夜風)のような感じで歌える曲にしてほしい。」 武満が仕上げた短調の曲は、日本人の琴線に触れる切なくも力強いものだった。 4月24日(資料によっては22日)お茶の水の全電通会館ホールで行なわれた集会で、バリトン歌手の友竹正則の歌唱によって初めて披露されたという記録が残っている。 ベトナム反戦を訴えるさまざまな団体やグループを結集したこの日の集会で“ベトナムに平和を!市民文化団体連合”という名称の組織が結成される。 彼らの運動は、既存政党とは一線を画した無党派の反戦運動であり、基本的に「来る者は拒まず・去る者は追わず」の自由意思による参加が原則だった。 そこには労働組合や学生団体などの様々な左翼団体のみならず、学生、社会人、主婦など、職業や社会的地位、保革などの政治的主張を問わず、多くの参加者が集まったという。 翌1966年には、名称を“ベトナムに平和を!市民連合”に変更し、略称「ベ平連」で広く知られるようになる。 反戦運動の集会のために書かれたこの歌は、その後、..
未分類

クリス・クリストファーソン〜デビューするために“空から売り込み”をした男

ある日、自宅で昼寝をしていると、ジューンが叫んだ。『ヘリコプターが庭におりてくるわ!』 外に出ると、クリスがヘリコプターから出て来て僕に言ったんだ。『どうしてもこの曲を渡したかった』って。 1965年のある日、突如として空軍の任務と結婚生活を放り出したクリス・クリストファーソンは、そのままテネシー州ナッシュビルに移り住み、コロンビアスタジオの守衛や清掃(ボブ・ディランの灰皿を片付けた!)、沖合までヘリコプターを飛ばす仕事などで生活費を稼ぎながら、自分のバンドを結成する。 「何度もジョニー・キャッシュに売り込んだよ。そのうちスタジオの関係者から『売り込んでも無駄だ。ジョニーの邪魔をしたらクビにするぞ』って言われてね」 それでも今度はキャッシュの妻ジューンにテープを渡すようになり、それは山のようになった。チャーターしたヘリコプターを使ったという、伝説的な冒頭のエピソードはこの頃の出来事だ。その時はソングライターとしての経験を積むように励まされただけだった。 しかし1970年、その売り込んだ曲が『ジョニー・キャッシュ・ショー(*1)』という大舞台で全米に届けられることになる。だが歌詞にドラッグを連想させる部分があるとして、テレビで歌うことを局側に問題視され、ソングライターにとっては屈辱的とも言える代案の歌詞が用意された。 クリストファーソンは、収録場所であるライマン公会堂の二階席から心配そうにステージを見守る羽目になった。そしてキャッシュはヘリコプターの時と同様、今度は二階席にいる“売り込み男”を見上げることになった。 日曜の歩道 “ストーン(*2)”なままだったら良かったのに 日曜のこの雰囲気 たまらなく寂しくなってしまう 死んでしまうなんて この半分の切なさでしかないよ 覚めやらぬ歩道 虚ろな日曜がやって来た 「ジョニーは僕を見上げながら、元通りの歌詞を歌ったんだ! 彼はこの歌を救った。変えていたら違う歌になっていた。彼は恩人だよ」 この曲「Sunday Morning Coming Down」は、キャッシュのバージョンでカントリーチャートの1位を記録し、CMA(カントリーミュージック協会)の最優秀歌曲賞を受賞。 また、同年にリリースされたクリストファーソンのデビューアルバムにも収録され、彼はロックやフォークを取り入れた斬新な音楽性と小説描写にも似た歌詞で、長髪..
未分類

Before The Rain〜雨音も爽やかに聴こえるハーモニカの調べ

「Before The Rain」/リー・オスカー デンマークのコペンハーゲン出身のハーモニカの名手リー・オスカー(67歳)が、37年前に発表した名曲である。 1969年、彼はアニマルズ解散直後のエリック・バートンとの出会い新バンド“War(ウォー)”を結成する。 ジャズ、ロック、ファンク、レゲエ、リズム&ブルースを融合したクロスオーバーなバンドとして、長く音楽ファンから愛され続ける存在となった。 バンド活動と平行してソロプレイヤー・作曲家としても才能を発揮する。 TVのCMや番組のBGM、そして映画のサントラ用にリー・オスカーの楽曲が起用されることが多く、日本では1977年に資生堂の人気CM(うれしくて、バラ色)で「The Promised Land (約束の地)」が使われて一躍注目を浴びた。 40代から50代の人には、聴き憶えのある懐かしいメロディなのかもしれない。 「The Promised Land (約束の地)」/リー・オスカー 資生堂 CM(1977年)うれしくて、バラ色 今回ご紹介するこの曲は、彼がWar在籍時に出したソロアルバム『Before The Rain』(1978年)に収録されたもの。 バンドでのファンキーなアプローチは違い、抒情的な美しいハーモニカの音色が心を癒してくれる。 「Before The Rain」/リー・オスカー 1994年、彼を初めWarの主だったメンバーはプロデューサーであるジェリー・ゴールドスタインの元を離れる。 Warというグループ名の権利がジェリー・ゴールドスタインにあった為、彼らのヒット曲「Low Rider」からとった“Lowrider Band”として現在も活動している。 結局Warに残ったのがロニー・ジョーダン(keyboards)のみという事を考えれば、Lowrider BandこそがWar の本流と言えるだろう。 「Low Rider」/ War(ウォー) リー・オスカーと云えば、ハーモニカの設計者としても知られており、彼の作ったハーモニカは日本でも発売されている。(現在の代理店は島村楽器) 【Lee Oskar Harmonicas】 http://www.leeoskar.com リー・オスカー『Before The Rain』 (1978/ Elektra) iTunes Amazo..
未分類

アイアン&ワイン〜アメリカンロック&フォークの伝統を受け継ぐ“最も重要なアーティスト”として注目される男の魅力とは!?

“アイアン&ワイン”ことサム・ビームという男をご存知だろうか? 彼は今、アメリカンロック&フォークの伝統を受け継ぐ最も重要なアーティストとして注目される存在だ。 この“アイアン・アンド・ワイン”とは、彼のステージングネームであり、プロジェクト的なものではなく、基本シンガー・ソングライターとしての性質を帯びる。 2002年に老舗レーベル(Sub Pop)からデビューして以来、これまでにスタジオアルバムを5枚リリースしていて、2011年にリリースした『Kiss Each Other Clean』は全米チャートで2位を記録した。 現在「中堅」と言われる域に達してきた彼は、アメリカントラディショナル・ミュージックからMPB(ブラジリアンポピュラー・ミュージック)、レゲエ、多くの国の音楽を摂取したメロディーメイカーとしての評価も高く、アメリカのインディーズシーンにおいて孤高にして不思議な立ち位置にいる存在といえるだろう。 2005年にはCalexico(キャレキシコ)[※1]とのコラボレーションEP『In the Reins with Calexico』を発表し話題となる。 2007年にはキャレキシコとのカップリングツアーで一度だけ来日も果たしている。 そんな彼の魅力は、なんと言ってもそのウィスパーボイスとシンプルで信頼できる曲作りだ。 元々アコースティックギター1本での弾き語りで注目を集めてデビューした彼。 キャリアを重ねるごとにキーボードやホーン隊を起用してファンを驚かせたが、元の楽曲が良いので、一貫性を保ったまま広く受け止められる音楽を創り出してきた。 彼は1974年6月26日に生まれた。 幼少の頃は両親が働くサウスカロライナ州のコロンビアで過ごす。 父親は土地管理の仕事に携わり、母親は学校の教員をしていた。 大学に通うようになるまでの間、彼はコロンビアのレストランでウェイターをしていた。 その後、彼はフロリダ州立大学で芸術学の修士号を取得する。 やがて2人の娘の父親となり、アイアン・アンド・ワインのファーストアルバムが発売されるまではマイアミ大学などで映画・映画撮影技術の教師として働いていた。 28歳でデビューするまで、彼は7年間以上も歌を書きつづけていたという。 ある日、彼の友人が彼の作ったデモをコピーしてレコード会社(Sub Pop)の人間に聴かせ、それがデビュ..
未分類

スティング〜ポリス結成物語

1976年5月1日、スティング(当時24歳)は北アイルランド出身の舞台女優フランシス・トメルティと結婚をする。 二人の出会いはスティングがまだ小学校の国語教師と並行して“ラスト・イグジット”というバンドで活動していた時期だった。 当時スティングは、音楽活動と教師のどちらが本当にやりたいことなのか?日々迷っていたという。 妻フランシスは、そんな夫に助言をした。 「彼は地元ニューカッスルを離れたがっていたわ。そこでの将来は目に見えていた。音楽でやっていくならロンドンに行かなきゃ!私のお腹には生まれてくる赤ちゃんがいたけど、彼の背中を押したわ。」 スティングは音楽一本でやっていく決心をした。 同年の11月、二人の間に長男が生まれる。 先のことは何も決まっていなかった… 生後間もない息子と少しばかりの荷物をオンボロ車に乗せて夫婦はロンドンを目指して出発した。 ロンドンではまず、フランシスの知り合いのアパートに転がり込んだ。 週16ポンドの失業手当が生活費のすべてだった。 「金がなくて人参ばかり食べていたよ。人生の中で、あの時ほど未来を不安に思ったことはなかった。」 ラスト・イグジットは、他のメンバーがロンドンで活動することを渋って…翌1977年の年明け早々に解散してしまう。 その解散の区切りとして、最後に地元ニューカッスルで行ったクリスマスライブの観客席に(後にポリスで活動を共にする)スチュワート・コープランドが座っていた。は、その日スチュワートのことを鮮明に憶えているという。 「ボーカルのスティングに強い印象を受けたよ。不思議な存在感があったんだよ。ステージ後、彼に連絡先だけを聞いて会場を出たんだ。」 1977年1月、スチュワートはスティングに「一緒にバンドをやってみないか?」と誘いの電話をかける。 スチュワートもまた、それまで活動していたバンドが解散し、新たに自分のバンドを作ろうとしていたのだ。 最初に声をかけたのがスティングだったという。 スチュワートはまだメンバーも揃っていない状況にも関わらず、すでにバンド名を考えていた。 誰もが新聞やテレビを見るたびに目にする言葉、それが“ボリス(警察)”だった。 スティングは、その面白い発想(バンド名)とスチュワートの熱意につられるように、彼の仲間に入ることにした。 数日後、3人目となるメンバー、ヘンリー・パドヴァー..
未分類

ラブ IN ニューヨーク〜音楽はバート・バカラック&キャロル・ベイヤー・セイガー夫妻

80年代ブームはこれまでに幾度となく訪れてきた。そしてその10年間には大きく分けて前半の「アーリー80’s」と後半の「バブル80’s」があり、同じディケイドでも表情の違う2つの時代が存在する。 *このあたりについては中野充浩監修『バブル80’sという時代 1983-1994 TOKYO』に詳しいので、興味ある方は中古本でチェックしてみてください。 80年代の音楽には「邦楽」「洋楽」、映画には「邦画」「洋画」といった明確な線引きがあった。SNSやネットが当たり前になった今、こういった区別はほとんど意味を持たなくなったが、この時代に青春期を送った世代にとっては、目の前の邦楽・邦画を取るか、それとも洋楽・洋画に走るかのチョイスは、友達作りや恋愛面にも影響を及ぼすほど重要なこと。 特に1985年くらいまでの「アーリー80’s」はその傾向が強く、どちらに進むかによって会話の内容や物事への感性に随分と違いが出ていた(どちらが良いか悪いかの問題ではなく)。今から思えば、日本の若者文化がアメリカナイズされていた最後の時代。後者を選択することにワクワクする気持ちを抑えきれなかった。 洋楽や洋画に夢中だった人にとって、『ラブ IN ニューヨーク』(Night Shift/1982)は忘れてはならない作品の一つ。 日本公開は1983年。個人的には「バブル80’s」になってレンタルビデオで借りて観たのが最初。軽いタイトルからは想像できないほど素敵な余韻を残してくれる作品で、「アーリー80’s」における都会の空気が全面に漂っている点がこの映画最大の魅力。東京の都心で暮らす若者にもそれくらいは分かった。 映画が撮られることになったきっかけは、「二人の若者が死体安置所で売春組織を作っていた」という小さな新聞記事。これを見たプロデューサーのブライアン・グレイザーが、ロン・ハワード監督に話を持ちかけたのが始まり。 主演はヘンリー・ウィンクラー、シェリー・ロング、そしてこれが映画初出演だったマイケル・キートン。数年後『バットマン』で大ブレイクする俳優だ。 音楽を担当したのは当時夫婦だったバート・バカラックとキャロル・ベイヤー・セイガー。オープニングで流れるクォーターフラッシュの「Night Shift」なんてまさに「アーリー80’s」の至極の響き。 しかしこの映画を支えているメロディといえば、「Tha..
未分類

誰かにこっそり教えたいサム・フィリップス〜名プロデューサー、Tボーン・バーネットとの夫婦愛

♪「How to dream」/サム・フィリップス 私たちは惑星を見つめて星を追いかける 深い愛情に引き寄せられるように 私たちが目をあけて夢を見るとき その瞳は開かれる サム・フィリップスことレスリー・アン・フィリップスは、1962年1月28日にアメリカのカリフォルニア州グレンデールで生まれた水瓶座の女だ。 育ったのはバーバンクとパサディナに挟まれたグランデールという町。 “サム”というのは少女時代からのニックネームだった。 ティーンエイジャーの頃から作詞作曲を始め、シンガーソングライターとしての活動をスタートさせる。 そして21歳を迎えた1983年、本名の“レスリー・フィリップス”としてキリスト教系のレーベルから1stアルバム『Beyond Saturday Night』をリリースしてデビューを果たす。 その後、1984年には2ndアルバム『Dancing With Danger』、1985年には3rdアルバム『Black and White in a Grey World』と順調に発表し、そのどれもが20万枚を超える好セールスを記録する。 そして、25歳となった1987年に“転機”を意味する『The Turning』をリリースする。 この4thアルバムをプロデュースしたのが、今や米音楽界の巨匠といわれているTボーン・バーネット(当時39歳)だった。 1948年1月14日にミズーリ州で生まれたTボーンは、彼女より14歳年上の山羊座の男。 星占いで水瓶座と山羊座の相性を調べてみると…どちらも独りで生きていけるタイプで、お互いの強さに尊敬の念を抱くらしい。 また、多くの共通点を持っていて、お互いから学べることがたくさんある相性だという。 アルバムのタイトル通り、彼女は彼との出会いをきっかけに大きな転機を迎えることになる。 ♪「River of Love」/レスリー・フィリップス Tボーン・バーネットといえば、ボブ・ディランが1975〜1976年に行った歴史的ツアー“Rolling Thunder Revue”のギタリストに抜擢された男である。 その後は自身のバンド〜ソロ活動を経て、エルヴィス・コステロ、ロイ・オービソン、ウォールフラワーズ(ディランの息子ジェイコブのバンド)、ロバート・プラント&アリソン・クラウス、ロス・ロボス、エルトン・ジョン&レオン・ラッ..
未分類

アーバン・カウボーイ〜都市開発で失われつつある男たちの“汗の精神”を描いたヒット作

カントリー歌手として鳴かず飛ばずだったミッキー・ギリーに転機が訪れたのは1971年。テキサス州ヒューストンのビジネスマン、シャーウッド・クライヤーと意気投合し、ホンキートンク・クラブの共同オーナーになったのだ。  ヒューストンから車で30分。パサデナという町のハイウェイ沿いにオープンしたこの酒場はフットボール場がまるごと入るほどスケールが大きく8000人を収容でき、カントリー歌手やバンドのライヴ、ダンス、バー、ゲームなどを目的に、地元の人々が集った(ちなみにパートナーシップが解消された1986年にクローズ)。 訪れる人々の多くは地元の石油科学産業で働くブルーカラーの男たちとその連れの女たち。ヒューストンの近代的な高層ビルで働くホワイトカラーに比べて経済格差は一目瞭然だが、体臭と汗と色気にまみれたカウボーイ精神と男気は絵になった(それにしても今の日本の郊外/地方都市の風景に近いことに驚く)。 『アーバン・カウボーイ』(Urban Cowboy/1980) はこの巨大なホンキートンク・クラブ「ギリーズ」を舞台に、男女の関係を通じて「都会のカウボーイ」「現代のカウボーイ」精神を描いたヒット作。 主演はジョン・トラボルタ。ショービジネス界の帝王ロバート・スティグウッドと3本の映画契約を結び、『サタデー・ナイト・フィーバー』『グリース』などでトップスターとなっていた彼は、この役を同時期のスターであるリチャード・ギアと争って勝ち取った。 ストーリーは、田舎町から仕事を求めて伯父を頼りにパサデナにやってきた青年バド(ジョン・トラボルタ)が、昼はヘルメットをかぶって工場で労働し、夜はカウボーイ・ハットを装い「ギリーズ」に繰り出す姿を追う。 バドはそこでシシー(デブラ・ウィンガー)と出逢い、恋に落ちる。男勝りなシシーの言動はバドを困惑させることもあったが、二人は友人たちに祝福されてゴールイン。ローンで購入したトレーラーハウスを新居に新婚生活が始まった。 「ギリーズ」にロデオマシーンが投入され、男と女たちの熱い眼差しが集まる。仮出所中のウェス(スコット・グレン)はロデオの名手。ウェスがシシーに色目を使ったことからバドと殴り合いになるが、シシーはバドを驚かせようとしてウェスの手ほどきを受けながらロデオマシーンの練習を密かに行うのだった。 工場の高い足場からあわや転落死寸前の事故に遭遇した..
未分類

ボヘミアン・ラプソディ〜「グラムロックの残りカス」と酷評されたクイーンの快進撃

クイーン、そしてフレディ・マーキュリーの知られざる姿を描いた映画『ボヘミアン・ラプソディ』(Bohemian Rhapsody/2018)が日本でも大ヒットしている。 クイーンがデビューしたのは1973年。その奇抜なアイメイクやファッションのせいもあって、本国イギリスの音楽メディアからは「グラムロックの残りカス」などと酷評されながらも、日本では女性ファンから火がついたというのは有名な話(ちなみにこれがモデルケースとなり、チープ・トリック、デュラン・デュラン、ボン・ジョヴィなども同じように日本では女性ファンがアイドル的に先導。その後に本国や世界規模でブレイクを果たした)。 音楽雑誌『ミュージック・ライフ』の人気投票ではバンドやメンバーが1位を独占する時期(70年代後半〜80年代前半)もあり、この頃ファンだった人たちの心をしっかり捉えていることも一因だ。また、リアルタイムでクイーンを知らない世代でも、90年代以降にスポーツイベントや映画やCMなどで彼らの曲が繰り返し使用される機会があったことから、CDバブルの時代に実は後追いしていた人も少なくない。 余談だが、90年代に「ボヘミアン・ラプソディ」のリバイバル・ヒットに多大な貢献をした映画『ウェインズ・ワールド』に主演したマイク・マイヤーズが、本作ではフレディたちに嫌われるEMIレコードの社長を演じているのも面白い。 とにかく、改めてクイーンが幅広い世代から愛されている印象を受けた(アメリカのヒットチャートでは過去のアルバムが立て続けに再びランクイン)。仮に彼らの存在をまったく知らなくても、ロックに興味なんかなくても、映画の仕上がりは素晴らしく、大抵の人なら入り込んで楽しめる内容になっている。試写会や招待ではなく、自腹でチケットを買って満員の映画館で観てきた率直な感想だ。 ミュージシャンの伝記映画はこれまでたくさん作られてきたが、残念ながら興行成績に結びつくものは多くなかった。ヒップホップ・グループのN.W.A.の姿を描いた『ストレイト・アウタ・コンプトン』がこれまでそのジャンルのナンバーワン・ヒットらしいが、ロックバンドものでは『ボヘミアン・ラプソディ』がその座につくのは間違いない。 まだ公開されたばかりなので、ここで内容に詳しく触れるのはやめよう。バンドが結成された1970年から伝説となった1985年の「ライヴ・エイド..
タイトルとURLをコピーしました