2021-08

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What’s Going On〜この世界はどうなっているの?何が起こっているの?

ねぇ母さん たくさんの人たちが涙を流しているよ 兄弟たちが次々と死んでいくよ 僕たちの手でなんとかしないと ここに今、愛をもたらすために ねぇ父さん これ以上戦争の被害を広げないで 戦争は何も解決してくれない 愛だけが憎しみに勝つ 何とかして見つけだそう この世界に愛をもたらす方法を これはマーヴィン・ゲイの名曲「What’s Going On」が誕生するまでの話である。 ──1970年3月16日、マーヴィン・ゲイ(当時30歳)にとって最高のデュエットパートナーだったタミー・テレル(当時24歳)が、脳梗塞によってこの世を去る。 タミーの死後、彼はショックから立ち直ることができず…しばらく隠遁生活を送っていた。 対人恐怖症に陥り、自宅に引きこもり、所属していたモータウンレコードへの不信感も募り、薬物依存への道を辿ってゆく。 モータウンの創業者ベリー・ゴーディの姉にあたる17歳年上のアンナと21歳の時に結婚して、幸せと成功を掴んだ彼だったが…すでにこの頃は夫婦関係も冷めていたという。 当時、タミーの死が彼にとってどれほどの出来事だったのか? あるインタビューで語られた言葉がそれを物語っている。 彼女の死は本当に辛かった。 彼女と僕が恋人だったからじゃない。 そうだったらよかったと思うが、僕達の関係はプラトニックなものだった。 辛かったのは、あんなに才能のある美しい人が、あんなに若くして死んだということだ。 この世で自分が愛していた人、好きだった人、仲が良かった人を失うのはなかなか大変なことだよ。 それに僕らは二人共まだ若かったし…ものすごい打撃だった。 また別の女性と一緒に仕事をするなんて考えられない…。 僕は本当に彼女を愛していたよ。 彼はタミーの死によって物事を哲学的に捉えるようになり、音楽以外のことにも関心を向けるようになっていった。 愛する者の死が、彼の心に新たなインスピレーションを与えたのだ。 そして翌年の1971年、数ヶ月に渡って音楽活動から遠ざかっていた彼は、アルバム『What’s Going On』で復活を果たす。 そのオープニングを飾ったタイトルナンバーは、次世代のスティーヴィー・ワンダー等が切り拓いていくこととなる“ニューソウル”の起点となってゆく。 アルバムのジャケットに写る彼は“モータウンの貴公子”と呼ばれた60年代の頃の雰囲気とは違っていた。..
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ビートルズの4人とエルヴィス・プレスリーが一堂に会した夜

「史上最も成功したソロ・アーティスト」とギネスに認定されたエルヴィス・プレスリー。 そして「史上最も成功したグループ・アーティスト」とギネスに認定されたビートルズ。 新旧を代表するスーパースター同士による面会が実現したのは、1965年8月27日のことだった。 この年の夏、ビートルズは全米ツアーの真っ最中だった。 8月15日にはニューヨークのシェア・スタジアムでコンサートをし、5万6千人という当時としては前人未到の動員数を記録している。 母国イギリスのみならず、アメリカにおいてもビートルズの人気は圧倒的だった。 一方のエルヴィスは人気絶頂だった1958年に徴兵され、2年後に除隊してからはステージを離れて映画の世界に活動の場を移し、スクリーンの向こう側のスターとなっていた。 ビートルズを乗せたリムジンが、ロサンゼルスにあるエルヴィス邸に到着したのは、夜の10時頃だった。 極秘での面会だったにも関わらず、門の前には数百人のファンが集まっていたが、警察による厳重な警備が敷かれていたこともあり、スムーズに事は進んでいった。 円形のリビングルームへと招き入れられたビートルズの4人は、ひどく緊張していた。彼らにとってエルヴィスは最大のアイドルだったからだ。 中でもジョン・レノンはエルヴィスの「ハートブレイク・ホテル」を初めて聴いたときに、「世界が変わってしまった」というほどの衝撃を受けたという。 彼らはスタジオ・アルバムでこそエルヴィスのナンバーをカバーしていないが、デビュー前は何十曲もレパートリーに入れていた。 エルヴィスは音の出ていない大型のカラーテレビを眺めながら、ソファーに座ってベースを弾いていた。 顔を合わせた彼らは、取り巻きも含めて自己紹介をすませたが、その後は中々会話が続かず、しばし沈黙が流れるのだった。 やがてエルヴィスが「君たちがただ座って僕を見ているだけなら、僕は寝てしまうよ」と言って笑うと、「それならちょっと楽器を弾いたり歌ったりしてみようか?」と提案した。 そうして楽器が用意されてセッションが始まると、ようやく緊張の糸も切れていった。 エルヴィスはギターでなく、練習中だというベースを手にしていたのでポール・マッカートニーはここぞとばかりに話しかけた。 「彼がベースにハマっているのはこの上なく嬉しかったよ。 それで『僕にもちょっと弾かせてもらえないかな、エル..
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エリー・グリニッチを偲んで〜60’sアメリカンポップスの金字塔「Be My Baby」を生んだ女性ソングライターの足跡と功績

2009年8月26日、ニューヨークの聖ルカ・ルーズベルト病院でエリー・グリニッチ(享年68)が死去した。 数日前に肺炎で入院し、そのまま心臓発作で亡くなったという。 彼女は夫のジェフ・バリーとの作曲チームを組んで60’sアメリカンポップスのヒット曲を量産したソングライターだった。 代表作にはフィル・スペクターと共に作り上げたザ・ロネッツの「Be My Baby」や、ザ・クリスタルズの「Da Doo Ron Ron」、そしてトミー・ジェイムス&ザ・ションデルズが歌って全米1位を獲得した「Hanky Panky」などがある。 1940年10月23日、彼女はニューヨークのブルックリンで生まれる。 父親は敬虔なカトリック信者で電気技師を仕事としならが絵描きでもあった。 母親はロシア系ユダヤ人で百貨店の支配人をしていた。 音楽好きだった両親の影響で、幼い頃からアコーディオンを弾いていたという。 彼女が10歳になった年に、一家はニューヨーク郊外のレヴィットタウンに引っ越しをする。 まだ十代にも関わらず、彼女はピアノを独学でマスターし、作曲を始める。 高校時代には友人と3人組のグループ“ジヴェッツ”を結成して、地元のダンスパーティなどで歌うようになる。 高校を卒業すると大学に通いながら自作の曲をレコーディングし、“エリー・ゲイ”という芸名でRCAからリリースもしたが…結果は芳しいものではなかった。 大学で英文学を専攻し、卒業後は数週間ほど英語教師として務めていたという。 しかし、子供の頃から続けてきた作曲への想いを捨て切れずに、教職でなく音楽の道へ踏み出すこととなる。 ちょうどその頃、彼女は叔父が開いた感謝祭の夕食会の席でジェフ・バリーと出会う。 二人は遠縁だったので子供の頃からお互いに存在は知っていたが、ちゃんと話をしたのはこの時が初めてだった。 彼女よりも二つ歳上だったジェフは当時すでに最初の妻と結婚していたので、二人は特に異性として意識し合うことはなかったという。 その後、ジェフの離婚をきっかけに二人は惹かれあうようになり、運命の糸に導かれてゆく。 1963年10月28日(当時23 歳)に二人は結婚すると、パートナーとして楽曲を合作するようになる。 当時プロデューサーとして頭角を現し始めていたフィル・スペクターとロネッツやクリスタルズなどに楽曲を提供するようになり、彼ら..
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スローなブギにしてくれ〜気弱で強がりなハードボイルドの世界観を見事に仕立て上げた南佳孝と松本隆の手腕

この南佳孝が作曲した「スローなブギにしてくれ(I want you)」は1981年1月21日にリリースされた。 作詞はこの当時からヒットメーカー(作詞家)として快進撃を始めていた松本隆。 その春に公開された片岡義男の小説を原作とした同名の角川映画『スローなブギにしてくれ』(浅野温子主演)の主題歌として起用され累計枚数40万枚を超える大ヒットとなった。 1979年に南が発表した「モンロー・ウォーク」を、郷ひろみが「セクシー・ユー」のタイトルでカバーしてヒット。 徐々に脚光を浴び始めていた南にとって、この映画主題歌での抜擢はまさにチャンスだった。 南は当時のことをこんな風に述懐している。 「あの曲がヒットして浮上できたけど、それまでの路線とは違うじゃない。本来、シコシコやってる方が好きな人間だからね。だけど映画の仕事は一度やってみたかったからチャレンジしてみたんだ。正直言って…角川商法みたいなものをうまく利用しようという気持ちもあったね。」 またレコーディング中には角川春樹がスタジオに来て製作の様子を伺うほどの熱の入れようだったという。 作詞を任された松本は角川から直接「映画のタイトルを曲のタイトルにすること」と依頼され、ストーリーに添った“ハードボイルド”な世界を要求されたという。 松本はあるインタビューで、その世界観についてこんなことを語っている。 「作家のレイモンド・チャンドラーなんかが描いたハードボイルドってのはね、けっこう気弱なんですよ。そのくせ強がってる感じが“それ”なんですよ。」 Want you 俺の肩を抱きしめてくれ 生き急いだ男の夢を憐れんで Want you 焦らずに知り合いたいね マッチひとつ摺って顔を見せてくれ この歌の歌詞に「生き急いだ男の夢を憐れんで」という1節がある。 【生き急ぐ】一見聴き慣れた言葉のように聞こえるが、実はこの曲から生まれた松本による“新しい言葉”だったという。 「“死に急ぐ”という日本語はあるが“生き急ぐ”というのは、あまり聞いたことがないから僕の造語のような気がしますね。」 Want you want you 俺の肩を抱きしめてくれ 理由なんかないさ おまえが欲しい 当時、南のディレクターを担当していた高久光雄はこう振り返っている。 「都会の音楽がやりたい。都会の音楽があってもいいじゃないかと思って佳孝をやること..
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ファイト!〜中島みゆき流の応援歌を読み解けば、理不尽だらけの世の中や歪(いびつ)な村社会が見えてくる

あたし中卒やからね 仕事をもらわれへんのやと書いた 女の子の手紙の文字は とがりながらふるえている ガキのくせにと頬を打たれ 少年たちの眼が年をとる 悔しさを握りしめすぎた こぶしの中 爪が突き刺さる 中島みゆきの名曲「ファイト!」は、1983年に発表された自身のアルバム『予感』に収録された楽曲で、1994年に住友生命ウィニングライフのCMで起用されたことをきっかけに多くの人が知ることとなった。 同年には、31作目の両A面シングル「空と君のあいだに/ファイト!」としてリリースされている。 その後も、大塚製薬カロリーメイトCMなどでもタイアップ曲となり、女優の満島ひかりが歌うバージョンが話題となる。 「ファイト」という言葉は、日本語では主に「頑張れ!」と応援や鼓舞するような場面で使われることが多いが、「闘え!」といった直接的な意味もある。 この歌詞には、どちらの意味も見事に凝縮され、より具体的なエピソードと共に表現されている。 生きていれば闘う相手・対象に事欠かない。 この歌詞の冒頭で語られているような、学歴を重視する社会。 子供や若者たちの反論を許さない大人の態度。 我々が生きる世の中には、そういった理不尽が其処彼処に溢れている。 あたし中卒やからね 仕事をもらわれへんのやと書いた 女の子の手紙の文字は とがりながらふるえている 聴き手の心を一気に引きつけるこの強烈なフレーズは、中島みゆきのラジオ番組に届いたリスナーからの手紙が元になっているという。 実際に届いた手紙には、こんなことが綴られていた。 私は中学を出てすぐに働いて2年になる17歳の女の子です。 この間、私の勤めている店で、店の人が私のことを「あの子は中卒だから事務は任せられない」と言っているのを聞いてしまいました。 私、悔しかった。 悔しくて、悔しくて、泣きたかった。 「中卒のどこが悪い!」と、言いたかった。 私だって高校行きたかった。 だけど家のこと考えたら、私立に行くなんて言えなかったし…高校に入る自信もなかった。 なのに、こんなふうに言われるなんて酷い。 ごめんなさい。 愚痴を書いてしまって…またお便りします。 (P.N.私だって高校行きたかったさん) この頃はまだインターネットやSNSもない時代。 一般人が自分の気持ちを誰かに聞いてもらったり、心の叫びを訴えたりするためには、こういったラジ..
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ルイ・プリマを偲んで〜スウィングジャズの代名詞「Sing Sing Sing」を生んだ稀代のエンターテイナー

1978年8月24日、スウィングジャズのパイオニア的存在だったルイ・プリマ(享年67)がニューオーリンズの病院のベッドで息を引き取った。 亡くなる3年前に脳腫瘍の摘出手術を受けた彼だったが、術後も快方には向かわず、植物人間状態に陥り…最終的には肺炎を悪化させたことが死因だったという。 スウィングジャズには「王様」と呼ばれた二人の男がいた。 一人はクラリネット奏者でありビッグバンドを率いたベニー・グッドマン。 もう一人はトランペッターでありヴォーカリスト、そして作曲家として活躍したルイ・プリマ。 スウィングジャズの代名詞とも言われ、ベニー・グッドマンのレパートリーとしても広く知られる「Sing, Sing, Sing」は、彼の手によって書かれた楽曲なのだ。 この「Sing, Sing, Sing」は、ニューオーリンズ・ ギャング(ルイ・プリマのバンド)の演奏よって1936年2月28日にブランズウィック・レコードから発表されたのが初出である。 ブランズウィック・レコードと言えば、創業された1920年代に電気蓄音機を開発したレコードレーベルで、もともとボウリングなどの娯楽商品を扱うメーカーだったという。 レコードがまだSP盤の時代から音楽事業に参入しており、デッカ(後のMCA)の配給を得てビング・クロスビーなどのトップスターを輩出した名門レーベルとしても知られている。 同曲のヒットによって、彼の人生は大きな転機を迎えることとなる。 1910年12月7日、彼はルイジアナ州ニューオーリンズで生まれる。 両親はイタリアのシチリア出身の移民で、母親はクラブ歌手だった。 親の勧めで7歳の時からヴァイオリンを学んでいたが、当時本人は野球好きの少年だったため、あまり練習に身が入らなかったという。 生まれ育った場所がニューオーリンズだったため、彼は日常の中でジャズに親しむようになり、13歳の時にはトランペットを手にして兄のバンドで演奏するようになる。 23歳の時には自身のバンド、ニューオーリンズ・ギャングを結成。 1934年にはニューヨークに行き、耳の肥えたジャズファンが集まるクラブで定期的にステージ活動を始める。 1936年、25歳の時に自身が作曲した「Sing, Sing, Sing」がヒットする。 これを転機に彼は一躍人気者となり、多くのファンを魅了するようになる。 同郷出身で9..
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人の心を動かす歌〜ヨイトマケの唄

今も聞こえる ヨイトマケの唄 今も聞こえる あの子守唄 工事現場の昼休み たばこふかして 目を閉じりゃ 聞こえてくるよ あの唄が 働く土方の あの唄が 貧しい土方の あの唄が “ヨイトマケ”とは、「重い物を滑車で上げ下げしたり、網で引いたりする動作を、大勢で一斉にするときの掛け声。転じて、そのような労働、主に地固めなどの仕事を日雇いでする人。(広辞苑)」とある。 1965年7月、丸山明宏(現:美輪明宏)が作った名曲「ヨイトマケの唄」がキングレコードから発売され翌年(1966年)のヒット曲となった。 しかし、程なくしてこの歌は放送禁止となる。 歌詞の中にある “土方”という言葉がいけないという理由からだった。 1966年(昭和41年)といえば石炭産業のスクラップ・アンド・ビルド政策(閉山合理化)が進められていた時代であり、その国策により多数の炭鉱労働者が職を失った。 そして、旧産炭地の救済処置として道路や公園の整備など公共事業に失対の土木作業員として元炭鉱労働者等が従事した。 「自分が今あるのはヨイトマケをやってくれたお母さんのおかげだ」という内容のこの名曲がなぜ当時理解されなかったのか? 一部の大人たちの身勝手な言葉の解釈が、かえって差別を生みだしたようにも思える。 1964年(昭和39年)に、この歌は誕生した。 美輪は作曲当時のことをこんな風に振り返る。 「曲を作る時の伴奏には、幼い頃うちの(近所の)お風呂屋があった遊郭辺りを、夕方になると流していた豆売りの大正琴や竪琴の音色を使いたいと思った。」 作ってはみたものの…彼はこの歌をすぐに人前で歌うことはなかったという。 しばらく経って、自身の自宅で開いたささやかな誕生日パーティーの場で、彼はこの歌を初めて弾き語りした。 そこに集まっていた親しい友人達は口々にこう言ったという。 「どうして今まで歌わなかったの?」 「こんな良い歌、もっといろんな所で歌って、大勢の人達に聴かせてあげなきゃ駄目じゃないの!」 彼はまず手始めに、シャンソン喫茶などで歌い始めた。 冒頭の田舎っぽい掛け声に、皆はじめはコミックな歌かと思って笑い出した。 その笑いの中に“ヨイトマケ”、つまり土方仕事というものに対する色眼鏡が感じられた。 その職業に携わる若者達への軽蔑と優越感、それらが吹き出したその人達の笑いを卑しいものにしていた。 歌い進..
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ミスター・タンブリン・マン〜フォークとロックの境界線に橋を架けた名曲

1965年6月26日、ザ・バーズのデビュー曲「ミスター・タンブリン・マン」がビルボード全米シングルチャートで1位を獲得した。 ボブ・ディランが作詞作曲した歌として広く知られている名曲だ。 数あるディランの楽曲の中で初の首位となった記念すべき作品であり、それまでなかった“フォークロック”という言葉を誕生させるきっかけとなった歌ともいわれている。 この歌は一体どんな背景で生まれヒットに至ったのだろう? 当時は、エレキ楽器を演奏するロックとアコースティックギターでメッセージソングを歌うフォークとの間に“はっきりとした境界線”があったという。  まだ無名だったバーズが目指したサウンドは“ロックとフォークの融合”だった。 具体的にはビートルズとボブ・ディランの中間を表現しようと模索していたのだ。 ロジャー・マッギン(g,vo)を中心に、クリス・ヒルマン(b,vo)、デヴィッド・クロスビー(g,vo)、ジーン・クラーク(vo,g)らによってザ・バーズが結成されたのは前年(1964年)のこと。 結成のきっかけは、マッギンがビートルズの映画『ビートルズがやってくる!ヤア!ヤア!ヤア!』に影響されてのことという。 彼らはバンドとしての演奏力を高める目的もあってサンセット・ストリップ(ロサンゼルスの主要道路の一つ、サンセット・ブールヴァードのほぼ中心に位置する約2.5キロの区間)のクラブで連日演奏をしていた。 彼らの噂や評判は日に日に広がりをみせ、南部や東部、中西部、カナダで暮らす若者たちを刺激したという。 ある日、そんな彼らのもとに1枚のアセテート盤(デモテープのようなもの)が舞い込んでくる。 それはボブ・ディランと、フォークの大御所ランブリン・ジャック・エリオットが「ミスター・タンブリン・マン」を演奏している幻の録音だった。 ジャック・エリオットと言えば、ディランが敬愛するウッディ・ガスリーと一緒に仕事をしていた名ギタリストだ。 だが、その盤に収録されていた内容は…エリオットが酔っぱらって歌詞を憶えておらず、ディランもレコーディング中に酔っぱらってしまい、ボツになったものがなぜか流出してしまったという“曰く付き”の音源だった。 だが、それを聴いたザ・バーズのメンバーにはひらめくものがあったという。 「これにロックのビートをつけたらかっこよくなるぞ!」 こうして誕生したのがザ・バー..
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心の旅〜チューリップを一躍人気アーティストにした楽曲の誕生秘話

ああだから今夜だけは 君を抱いていたい ああ明日の今頃は 僕は汽車の中 「ビートルズの影響です。最初の部分の“ああ”は歌詞が一音足らなかったんです。英語だと一音で“You”とか言えますけど、日本語は一文字しか歌えなくて…」(財津和夫) 1973年4月21日にリリースされたチューリップの3rdシングル「心の旅」。 彼らにとって初のヒットとなったこの歌は、イントロ抜きでいきなりサビから始まるという、当時としては斬新な楽曲だった。 チューリップは前年(1972年)に1stシングル「魔法の黄色い靴」でデビューを果たす。 デビュー曲も2ndシングルも売れず…リーダーの財津は追い込まれていたという。 「これでダメなら福岡に帰るつもりでした。」 まさに“背水の陣”の覚悟で曲作りに取り組んだ時に思い浮かべたのは、上京前の博多時代の心境だった。 その時期を振り返りながら財津はこう語る。 「上京前、当時憧れていた女性に“一晩だけ一緒にいて欲しい”と思いを伝えたことがありまして…まぁ一晩は付き合ってくれませんでしたが(笑)食事をしながら話だけは聞いてくれたんです。その時の思い出を膨らませてこの曲を書きました。」 “別れた彼女への想い”をテーマにしているが、財津はあるラジオ番組で真相を告白している。 歌に出てくる女性は財津の恋人ではなかったというのだ。 片思いの女性がいて、上京する前日にその女性と食事をしたという。 東京に行く決意は伝えたが…結局彼女への思いを伝えられないまま、食事が終ると女性は帰ってしまう。 歌の歌詞に『遠く離れてしまえば、愛は終ると言った』とあるが、彼女はそんな台詞を一言も言っていないというのだ。 愛が終る以前に、始まってもいなかったのだ。 また、この曲を作るに当たって財津が意識したのは、はしだのりひことクライマックスの「花嫁」という曲だった。 その歌詞で歌われている“汽車の旅のロマン”が、幅広い層に受け入れられるのではと考えたという。 花嫁は 夜汽車に乗って 嫁いでゆくの あの人の 写真を胸に 海辺の街へ ようやく完成した“勝負作”のメインボーカルはギタリストの姫野達也が担当することとなった。 当時、彼らが所属していたレコード会社(東芝EMI)の社内にも「チューリップに何とかヒット曲を!」という空気があったという。 もともとは作詞作曲した財津が歌うはずであったが..
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ジム・モリソン27歳〜“終わりの歌”が放つ永遠の閃光

何もかもが、これで終わる これで終わりだ、美しき人よ これで終わり…ただ一人の友よ、終わりなんだ 自由は君を傷つける 君は決して僕にはついて来ない その微笑みも、心優しい嘘も…これで終わる 僕らが死のうとした夜も…これで終わる 何もかもが、これで終わる 1966年、23歳のジム・モリソンが書いた別れの詩だ。 この翌年、ザ・ドアーズが発表したデビュー・アルバム『The Doors』のラストに「The End」として収録された。 約12分にも及ぶこの楽曲は、後にフランシス・F・コッポラの映画『地獄の黙示録』の挿入歌として使用され、強烈な印象を世界中に放った。 ジムとコッポラ監督はUCLA映画学科時代の同級生だった。 1971年7月3日。 ジムはパリの自宅アパートのバスタブで“終わり”を迎えたと言われている。 27歳の謎の死だった。 遺体の第一発見者は、恋人のパメラ・カーソン。 その年の春、ジムは詩作の環境を求めてパメラと共にアメリカからパリに移住してきたばかりだった。 “客死”として扱われ検死が行われなかったことから、ヘロインの過剰摂取だったと囁かれながらもその死因は未だ明らかにされていない。 3年後…パメラもオーバードーズで“終わり”を迎えた。 奇しくも、ジムの後を追うようにこの世を去った彼女も27歳だった。 デビュー以降、ドアーズは破竹の勢いでトップバンドとなり、革パンツでフェロモンを炸裂させるジムはセックスシンボルとして注目を集めた。 一方で、ジムは過度の飲酒癖とドラッグ漬けで様々な問題を起こす。 中でも1969年、マイアミのステージ上でズボンを下げ自慰行為を見せたのはシャレにならず、ジムは史上初めてライブ本番中に逮捕されたミュージシャンとなった。 バンドは反社会的とレッテルを貼られ、クラブハウスが会場の貸出しを渋るなど、次第に活動が困難になっていく。 そして1970年12月12日、27歳の誕生日を迎えた数日後に行われたニューオーリンズ公演が、ジムにとって最後のライブとなった。 ジムの死から22年が経った1993年、ドアーズはロックの殿堂入りを果たした。 その授賞式のステージ上で、ブルース・スプリングスティーンがメンバーに歩み寄って、こんな言葉で称賛した。 「The Endの演奏は、静寂の中で炸裂する爆弾のようだ!」 今改めて聴くと、それはジムの死を物語っている..
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越路吹雪と岩谷時子〜宝塚時代から厚い友情を重ねつづけた二人の出会い

1939年の春、宝塚歌劇学校を卒業して初舞台を踏んだばかりの越路吹雪は岩谷時子と出会う。 「彼女が永眠するまで、ただ一度も争うことなく、時の流れと共に厚い友情を重ねてこれたのは宿縁としか考えようがない。」(岩谷時子) その年の秋、岩谷は宝塚歌劇団出版部へ就職し、社会人としてのスタートを切ったばかりだった。 宝塚ファンに向けて出版されている『歌劇』『宝塚クラブ』誌を編集するのが彼女の仕事だった。 幼い頃から母親に連れられて宝塚歌劇を観ていた彼女は、やがて文学少女になり、二つの劇団誌に詩や短編小説を投稿していたという。 そのことをきっかけに編集部から声がかかったのだ。 宝塚では稽古場と編集部の部屋は近く、岩谷が仕事をしていると、出場(でば)の少ない初舞台生たちがデスクに遊びに来ることが日常だった。 その中に仲間たちから“コーちゃん”と呼ばれる背の高い越路がいた。 本名が河野美保子なので、そう呼ばれていたのだ。 彼女たちは初舞台を踏むと芸名がつくので、いつかサインを求められるスターになれることを夢見ながら、それぞれ芸名の書体を考えながら楽しんでいる頃だった。 「ある日、越路さんが私のところに一人で来てサインの見本を書いて欲しいと言ってきたのです。彼女に与えられた芸名(越路吹雪)は字画が多いので苦労しましたが、私なりに一生懸命考えて書いてみました。彼女が生涯使っていたサインは、この時に二人で考えた合作なんです。」 当時、二人はまだ親しい関係ではなかった。 岩谷も新米で、まだ慣れない仕事をこなすのに精一杯の時期だったし、女性ばかりの集団の中で特定の誰かと親しくなると仕事がやりづらくなる…そんな意識があったという。 越路の同期には、乙羽信子、月丘夢路をはじめ素晴らしい才能と美貌を持ち合わせた“金の卵”がいて、一級下には将来スター女優となる淡島千景の姿もあった。 当時は背が高ければ男役と決まっていて、越路が女役を演じることは一度もなかった。 「彼女はとにかく醒めた人で“私はスターになれる人間じゃない”と言っていたんです。舞台のことよりも阪急百貨店のライスカレーを食べに行くのが生きがいみたいで、エンジンのかかるのが遅い生徒でした。」 第二次世界大戦の影が忍び寄る中、越路がもらう役は軍国少年や水兵という凛々しい男性ばかりだった。 不思議なことに、そんな越路に大人の女性ファ..
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伝説の歌姫・越路吹雪〜死期を悟って逝くこと、知らぬふりをして逝くこと、それを伝えることなく見送った人たちのエピソード

それは1980年11月7日の出来事だった。 東京・中目黒にある東京共済病院の待合室を3人の男が慌ただしく駆け抜け、エレベーターの中に消えた。 待合室にいた数名の患者や付き添い人たちが「何ごとか?」と、走り去ってゆく男達の背中に一瞬視線を投げたが、数秒後には再び静かな待合室に戻った。 一時間後、その待合室の様相が一変する。 大きなカメラを肩や首にかけた男達や、一目で報道記者とわかる腕章をつけた取材陣が待合室に集まりだしたのだ。 病院の前には新聞社やテレビ局の旗をつけた車が並び、病院内や周囲にあった公衆電話は、彼らに占領されて殺気だっていた。 ゆっくりと開いたエレベーターのドアから、一時間前に駆け込んでいった男の一人が飛び出してきて、すぐ左側にあった赤電話のダイヤルを慌てて回し、受話器の向こうの相手に小声で伝えた。 「意識が不明で、先生や看護婦がマッサージをしているんですが…はい、時間の問題だと思います。はい!わかりました…すぐ来られた方が…はい!はいっ!」 その隣りで電話をかけていた腕章をまいた記者が、右手で受話器を押さえながら耳をそばだてている。 電話をしていた男が受話器を置くと同時に、記者が早口で問いかける。 「越路さんでしょ?容態はどうなんですか?時間の問題なんですか?」 数秒後には報道関係者たちが男を取り囲む。 「ええ…。」 うつむきかげんに応えて、男は足早にエレベーターに乗り込んでいった。 その頃、3階にある個室301号室では、医師と看護婦たちが7〜8人で越路吹雪の全身をマッサージしていた。 時々少しだけ開く唇からは、何を言おうとしているのか?言葉にならない言葉が溢れていたという。 そのやせ細った手先を夫の内藤法美が握りしめている。 やがて…彼女の身体からは何の反応もなくなった。 「コーちゃん!!!」 付き添いの人たちの叫びにも似た呼びかけが病室に響く。 最後に、ほんの一瞬だけ…そのノドが微かに動いたという。 そこにいた全員が息をのむ。 次の瞬間、脈をとり続けていた医師が目をつむった。 午後3時2分、“日本のシャンソンの女王”と呼ばれた稀代の歌手・越路吹雪が56歳でこの世を去った。 その日の夕方、彼女の亡骸は渋谷区桜丘にあった自宅マンションに帰ってきた。 マンションの前には報道関係者たちが群れをなして集まっていた。 テレビニュースの速報でも彼..
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伝説の歌姫・越路吹雪〜どんなに売れてもオンボロの車を乗り回していたスター歌手の金銭感覚

越路吹雪。 彼女は、日本の元号が「昭和」になる前の「大正」の13年(1924年)に生まれた。 戦中から戦後は宝塚男役スターとして活躍し、1951年に宝塚を退団した後は“日本のシャンソンの女王”と呼ばれるまでとなった稀代の歌手である。 独身時代は“恋多き女”といわれ、作家・三島由紀夫の恋人として取り沙汰されたこともある。 作曲家の内藤法美との結婚後は、内藤がステージの構成や作曲などを手がけ、彼女が亡くなるまで連れ添った。 1980年11月7日、胃がんのため56歳でこの世を去った。 彼女にはいくつもの浮世離れした逸話が残っており、その“伝説”は今も語り継がれている。 今回は伝説の歌姫・越路吹雪の金銭感覚にまつわるストーリーをご紹介します。 ──越路吹雪が他界した直後、ある週刊誌に“骨肉の争い”という見出しが躍った。 その記事を読んだ政治評論家の細川隆元は、出版元の編集部に電話をかけてこう言い放った。 「越路には争うほどの財産なんかないぞ!」 細川の妻が彼女のファンだったということもあり、夫妻は越路と深い親交を持ちながらその私生活を知る存在でもあった。 細川の発言通り、彼女はいくつかの宝石と毛皮しか残さなかったのだ。 全盛期の越路は文字通り“トップクラス”のスター歌手だった。 圧倒的な表現力と歌唱力。 一流の劇場で、一流のドレスを身にまとって行なうコンサート。 「越路吹雪の公演チケットは日本一手に入れにくい」とも言われるほどの人気ぶりだった。 その出演料も高く、おそらく(当時)他の歌手の追従を許さなかった。 とくにホテルでおこなわれるディナーショーやクリスマスショーのギャラは一晩で数百万円だったとも言われている。 彼女がもしも“その気”になったら、高価な外車や、高級マンションは簡単に買えたに違いない。 しかし、彼女は平凡なサラリーマンが住むようなマンションに住み、乗っていた愛車も古い国産車だったという。 美容室では新人の女優や若い歌手の方がよっぽどいい車に乗って来ていたという。 彼女が通ったヘアサロンのスタッフがそのことを証言している。 「駐車場の中で、とにかく一番ボロっちい車が越路さんの愛車でした。」 越路は取材などで何度もこんな質問を受けた。 「越路さんらしく豪華な車を買われたらいかがですか?」 いつも答えは決っていた。 「オンボロの方が私にピッタリだか..
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山口冨士夫の少年時代〜孤児院での日々、ラジオ番組から受けたロックの洗礼、ビートルズの衝撃

日本が誇る稀代のロックアーティスト、山口冨士夫。 彼の名をロック史に永遠に留めることになったのが1970年に結成され1973年に解散した伝説のロックバンド村八分だ。 村八分、ティアドロップスと、数多くのバンドでギターを弾きながら日本のロックカルチャーを作ってきた彼は少年時代にどんな日々を送っていたのだろう? 「物心ついて間もなく、俺は自分が普通の日本人と違っていることに気づいたのさ。顔のカタチから何から何までが、そこら辺のガキとは違うってね。親父は会ったこともない。おふくろの記憶ぐらいは頭の裏にでも残っていればいいと思ってるよ。」 1949年8月10日、東京都内にて日本人の母と進駐軍の軍人だった父の間に生まれた彼は、家庭の事情で3歳の頃から孤児院で育った。 「ある日何故だか知らないが、おふくろに連れられて駅のホームに置き去りにされたんだ。彼女が道の角を曲がるまで、その後ろ姿を見送っていた。それっきり二度と会えなくなるなんて思ってもいなかったけどね。ガラスが粉々に砕け散るような何かを感じたのを憶えている。それが俺の最初の記憶かな…」 その日から彼は孤児院の職員(愛称オバちゃん)に育てられた。 “富士夫”という名前も、そのオバちゃんが付けたという。 「山がつくヤマグチだから富士ってことになったらしい。美しいだろ?(笑)」 戦後10年も経っていない時代だった。 彼は近所に住む子供達から「鬼畜米兵の子供だ!」と罵声を浴びせられる日もあったという。 「嫌でも他の人とは違うっていう意識を持つようになるってもんだ。俺に罵声を浴びせたガキどもには、片っ端から仕返ししてやったよ。石神井公園にあった防空壕に閉じ込めてやったりしてな(笑)」 彼が育った“ホーム”と呼ばれる孤児院は、保育所から幼稚園までを兼ねていた。 ホームの子供達は6歳になると普通の小学校に通うこととなる。 戦後の貧しい時代、様々な事情を抱えた親達が溢れていたという。 「俺が来た頃のホームは最初5人くらいだった。しだいに10人に増え、15人になり、しまいには60人くらいまでになってたよ。それをオバちゃんが一人でやってたんだから、大変だったと思うぜ。でもその甲斐あって、のちにオバちゃんは天皇陛下から勲章をもらってたよ。」 その頃の日本の教育には、ある特殊なルールがあったという。 日本の上層部からの指示に..
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伝説の歌姫・越路吹雪〜生肉と餅と“虎”のおまじない

“日本のシャンソンの女王”と呼ばれた稀代の歌手、越路吹雪。 彼女にはいくつもの浮世離れした逸話が残っており、その“伝説”は今も語り継がれている。 今回は伝説の歌姫・越路吹雪にまつわる“象徴的なエピソード”を全3回に渡ってご紹介します。 ──全身全霊を込めて歌い、楽屋に戻ってきたときの彼女の背中はいつも汗でびっしょりだったという。 彼女の舞台に漂う、一種独特の熱気。 きらびやかなドレスは、彼女の汗で光る肌にべったりとはりついていた。 それは大スターを照らし出す強いライトのせいかもしれないが、実は極度の緊張によるものだった。 開演1分前になると、いつも舞台のそでで震えていたという。 彼女の写真を撮り続けていたカメラマンの松本徳彦氏は、当時を振り返ってこんな風に語った。 写真家としての僕が一番好きなのは、幕が開く直前の緊張した姿でしたが、彼女の場合はシャッターの音にもこちらが気をつかいたくなるほどでした。 はりつめた空気をほんのちょっとした音でぶち壊すような気がしたんです。 彼女の持つ舞台への緊張感は大変なもので、その日の朝から始まっていたという。 朝食前に紀州産の梅干しを口に入れ、日本茶と京都・伊勢忠の根昆布を漬け込んだ水を飲む。 朝食後、脚を広げてカエルのように前かがみになって何回も屈伸運動をしたり逆立ちをする。 その後、ミキサーで作った野菜の皮や果実がゴロゴロと入っているジュースとハチミツを飲んでから入浴をする。 昨晩の睡眠薬を汗と一緒に排泄し、肝臓の薬とビタミン剤を野菜ジュースと一緒に飲み、ヨーグルトを食べる。 舞台のある日は、朝からよくしゃべった。 特別な発声練習などはしなかったが「ア〜」とか「ミィ〜」とか、車の中で声を出しながら他の人よりも早く楽屋に入り、裏方さんとしゃべりまくる。 彼女は日頃からこんなことを言っていた。 声帯も筋肉と同じで遊ばせておいたらダメ。 使い過ぎてもいけないから、適当に運動させて初日の幕開けに上手に持っていくの。 スタッフとしゃべるのも計算のうちなのよ。 開演前、楽屋に主治医の杉村公美医師が咽喉の診察にやってくる。 次に新宿・小守マッサージの井上良太氏が体を揉みほぐしにくる。 それが終わると、まるで儀式のような食事が始まる。 食べたくないなぁ。 でも今食べないと計算が狂うからね。 ようし!イトちゃん(お手伝いさんの愛称)食べち..
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