2021-09

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コバルトの季節の中で〜ジュリーが作曲し、稀代の演出家・久世光彦が歌詞を手掛けた“秋の名曲”

数々のヒットソングを放ってきたジュリー。 彼が27歳になる年に唄った「時の過ぎゆくままに」(1975年)は、自身が主演を務めたテレビドラマ『悪魔のようなあいつ』の挿入歌として大ヒットし、自己最高記録(累計91.6万枚)となる売り上げを叩き出した。 その頃、彼の才能と可能性を最大限に引き出した仕掛人がいたという。 当時TBSの演出家でプロデューサーだった久世光彦。 彼こそが“ジュリーを売った男”である。 1977年にリリースした「勝手にしやがれ」(累計89.3万枚)で、日本レコード大賞・大賞、日本有線大賞・大賞、東京音楽祭国内大会・ゴールデンカナリー賞、東京音楽祭世界大会・銀賞と、文字通り賞レースを“総なめ”にする。 いずれも彼が30歳を迎える前の出来事だった。 ──今回ご紹介するこの「コバルトの季節の中で」は、まさに黄金期を迎えようとしていた彼の17枚目のシングルとして1976年に発表されたもの。 クレジットには作曲:沢田研二、作詞:小谷夏と記されている。 小谷夏とは演出家の久世光彦のペンネームである。 ジュリー自身が書き下ろした曲に久世が詞を乗せるという、並々ならぬ“思い入れ”を感じずにはいられない楽曲である。 「時の過ぎゆくままに」と「勝手にしやがれ」の2曲のビッグヒット間(はざま)で、フランスでのリリースも合わせて数曲のシングルがリリースされているが…何れも「連続ヒット!」というわけにはいかなかった。 そんな数曲の中でも、この「コバルトの季節の中で」は1971年のソロデビュー以降、ジュリーが最初に自分で作曲したシングル曲としてファンの間では非常に人気の高い曲だという。 久世が乗せた歌詞には、主人公が愛する人をすべて肯定し、ずっと見守っていきたいという思いが綴られている。 それはまさにジュリーに心から惚れ込んだ久世の気持ちが、そのまま投影されているかのような内容だった。 髪形がかわりましたね 秋風によく似合いますね 何か悲しいこと あったのでしょうか コバルトが目にしみますね 誰だって秋はひとりですね だから今朝はなにも 話しかけません 彼はこの時期、プライベートでも“変化の時期”を迎えていた。 この「コバルトの季節の中で」を発表した前年の1975年6月4日に、7年間の交際を経てザ・ピーナッツの伊藤エミ(当時34歳)と入籍する。 その直後に若気の至りで2度の暴..
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カリフォルニアの歌〜ママス&パパスの名曲にまつわる時代背景と誕生秘話

「California Dreamin’」/ママス&パパス 木の葉はみんな枯葉色、そして空はどんより鉛色 そんな冬の日、僕は散歩していたんだ もしロスにいれば気持ちが安らぎ暖かいのに… こんな冬の日にはカリフォルニアを夢見るよ 1965年のこと。 ミシェル・フィリップス、キャス・エリオット、デニー・ドハーティ、ジョン・フィリップスという、一組の夫婦を含んだ男女4人によってママス&パパスは結成される。 彼らが同年に放ったデビューシングル「California Dreamin’(夢のカリフォルニア)」は、たちまちヒットチャートを駆け昇り、時代を代表する一曲となる。 その“時代”とはどんな時代だっのか? ―――彼らは、当時ウェストコーストロックの特徴でもあった“フォークロック”の先駆者であり、サンフランシスコを中心に全米に広がっていったフラワームーブメント(平和運動)の中心にいた。 ベトナム戦争を背景に、平和と愛の象徴として花で身体を飾っていた若者達は“フラワーチルドレン”と呼ばれた。 『武器ではなく、花を』をスローガンに掲げた約10万人の若者達が、サンフランシスコのヘイト・アシュベリー周辺に集まり“サマー・オブ・ラブ”という社会現象まで巻き起こすこととなる。 サンフランシスコ以外にも膨大な数のヒッピー達がニューヨーク、ロサンゼルス、フィラデルフィア、シアトル、ポートランド、ワシントンD.C.、シカゴ、カナダのモントリオール、トロント、バンクーバーやヨーロッパの各都市に集った。 当時のサンフランシスコは音楽、ドラッグ、フリーセックス、表現、政治的意思表示の中心地、ヒッピー革命の本拠地となっていた。 1967年、リーダー的存在だったジョン・フィリップスが史上初の野外ロックコンサート『モンタレー・ポップ・フェスティバル』のプロデュースに関わり、ママス&パパスは時代を象徴するグループとなった。 彼らはその後、クロスビー,スティルス&ナッシュの結成を応援したり、ジョニ・ミッチェルのデビューに貢献したりもする。 さかのぼること数年…1962年のある日の出来事だった。 まだハイスクールの学生だったミッシェルはカリフォルニアのライヴハウスで、フォークバンド“ニュージャーニーメン”のステージを観に行く。 彼女はそこで演奏していた背の高いギタリストのジョン・フィリップスに一目惚れした。..
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カルメン・マキ物語〜高校中退、寺山修司アングラ劇団との出会い、紅白歌手、そしてロックへの転向

「高校をやめてどうするの!?」 1968年のある日、彼女の母は語気を強めて言った。 カルメン・マキことマキ・アネット・ラブレイスは当時まだ17歳の高校二年生だった。 ただ意味もなく退学したわけではなかった。 「イラストレーターか役者になりたいという夢があったし、その頃は土方巽(ひじかたたつみ)さんの暗黒舞踏にも興味を持っていたわ。どうすればその夢に近づけるか?まだわからなかったけど…。」 アイルランド人とユダヤ人の血を引くアメリカ人の父と日本人の母との間に神奈川県鎌倉市で生まれた彼女は、都内のお嬢様系ミッションスクールとして有名な私立香蘭女学校高等学校に通っていた。 高校2年で中退し、新宿や渋谷のJAZZ喫茶やディスコに入り浸りだし、いわゆる“不良生活”を始めるようになる。 当時よく行っていた渋谷の百軒店にあった喫茶店で寺山修司主宰の劇団・天井桟敷のポスターを見て興味を覚え…青山の草月ホールでの公演を一人で観に行ったという。 彼女の物語はここから始まった。 ──ホールへ入ろうとすると、スタッフらしき人に「天井桟敷 A LABORATORY OF PLAY」と表記されたパンフレットを渡された。 表紙をめくった見開きには次のように書かれていた。 入団の手びき ■怪優奇優侏儒巨人美少女等募集 天井桟敷は制作部、文芸演出部、舞台美術部、演技部員を募集しています。 〔手続き〕 1.写真と履歴書を添えて劇団宛にお申込み下さい。 2.教養、面接試験を実施した上で入団合格者を決定します。 3.合格者は入団金10000円納入と同時に団員の資格を得ます。 4.劇団員としての維持費は月額2000円です。 この当時の1万円(入団金)は、現在では約7万円くらいだろうか…。 興味はあったけど、大金を払ってまで劇団員になろうとは思わなかった。 「くしゃくしゃっと丸めてポケットねじ込んでやったわ(笑)でも、そのあとに観た舞台の内容は素晴らしかった!一生忘れられないって思えるほど深く感動して、涙が止まらなかったのを憶えてるわ。さっきまでただの紙くずにしか思えなかったパンフレットが、まるで夢に向かうための列車の切符のように見えたの。こんなに素晴らしい劇団に入れるならば1万円どころか、2万円だって3万円だって払っていいと思ったわ。」 その夜“入団の手びき”のパンフレットを抱きしめながら帰った彼..
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アフター・アワーズ〜落胆中のスコセッシ監督が初心に戻って取り組んだNYムービー

1983年。マーティン・スコセッシ監督は情熱を捧げた『最後の誘惑』が頓挫してしまい、映画界での自らの無力さを感じて落ち込んでいた。 一方、仕事が暇な俳優グリフィン・ダンは映画製作に着手。無名の大学生が書いた『LIES』という脚本と巡りあう。主人公の男が次々と不運に見舞われるという、NYを舞台にした斬新なブラックコメディに可能性を感じたダンは、自ら主演して映画化を進めることにした。 監督選びの筆頭に上がったのはもちろんNY派のスコセッシ。だが返事はすぐに来ない。そこで気鋭のティム・バートン監督に打診する。ところが順調に事が運んでいたある日、スコセッシ側から「引き受ける」との連絡が入った。 ダンは悩んだ挙句、バートンに正直に話すことにした。するとバートンはこう言ったという。 「スコセッシだって!? 素晴らしいじゃないか。それなら喜んで僕が身を引くよ」 スコセッシは水を得た魚のように、初心に戻って映画作りに取り組むことにした。ストーリー通りに夜間撮影を貫き、8週間無我夢中になった。クランクアップの時になると、スタッフやキャストと幸福感を分かち合った。 こうしてできあがった『アフター・アワーズ』(After Hours/1985)は評判を呼び、スコセッシはカンヌ映画祭で監督賞を受賞。インディー感覚あふれるこの作品は一つの転機になった。 映画のストーリーはシンプルだ。都市生活の孤独を感じながらアップタウンの会社に勤めるコンピュータ・エンジニアが、ある夜美女に出逢ったことから始まる一夜の出来事。限りのない夜の期待を抱いてダウンタウンへ向かった男に降りかかる不条理の数々。家に帰りたくてもどうしても帰ることができない。 観る者はまるでNYの裏通りを舞台にしたロールプレイングゲームで遊んでいるような感覚になる。身に覚えのない罪を着せられる設定は、ウィリアム・アイリッシュ/コーネル・ウールリッチが描いた短編的世界観にも通じる。あるいはジェイ・マキナニーが『ブライト・ライツ、ビッグ・シティ』で綴った言葉を思い出す。 夜は君の知らない何処かを中心にして回転し、午前2時を指していた時計の針はもう5時を回っている。そうやって時が過ぎ去っていくのを、君は何度も見てきた。でも君は致命的な痛手は負っていない。麻痺と廃疾が待ち受ける最後の一瞬だけは超えていない、そう言いたいのだ。 サウンドトラック..
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マイルス・デイヴィスを偲んで〜スピリチュアル(霊的)とフィーリング(感覚)、晩年に語った音楽への意欲

1991年9月28日午前10時40分、カリフォルニア州サンタモニカの入院先の病院にてマイルス・デイヴィス(享年65)が亡くなった。 肺炎を悪化させ呼吸不全となり…関係者の見守る中、息を引き取ったという。 臨終に立ち会ったアシスタントマネージャーのゴードン・メルツァーは、当時の状況をこんな風に語っている。 「肺炎でサンタモニカの病院に入院したんだ。数日間に渡って精密検査をしたあと、肺に水がたまってきたことが確認された。呼吸を楽にするために肺に管を入れることになった。管が入っているから声はちゃんと出ないが、彼は泣きながら“死にたくない”と言った。管が入ったことによるパニックと恐怖が心臓発作につながって、そのまま1か月近く昏睡状態に陥ってしまったんだ。そして危篤状態になって意識が戻らないまま逝ってしまった。」 その年の7月8日、マイルスはスイスで行われたモントルー・ジャズ・フェスティバルのステージに立った。 クインシー・ジョーンズの指揮で、総勢50名近いミュージシャンで結成されたオーケストラをバックに、彼は30年ぶりにギル・エヴァンスとの共演作を再現する。 それまで決して過去を振り返ることをしなかった彼が、その日は自分の足跡を辿るように往年の曲をプレイしている。 そして、その2日後に行われたパリのコンサートでは、キャリアの節目となった楽曲を可能な限り当時のメンバーを集めて再演したのだ。 ジャッキー・マクリーン、ハービー・ハンコック、ウエイン・ショーター、チック・コリア、ジョー・ザヴィヌル、ジョン・マクラフリンといった過去に共演してきた主要メンバーに囲まれて、マイルスは時折笑顔を見せながら嬉しそうに演奏したという。 そんなステージを終えて7月末にアメリカに戻った彼は、体調不良を理由にいくつかのコンサートをキャンセルする。 翌8月末にロサンゼルス行われたハリウッドボウルのコンサートでは、なんとかステージに立ったものの終演直後に意識不明となり緊急入院をすることとなる。 その後、一時意識を取り戻してトランペットを手にしたりするが…容態が回復することはなかった。 亡くなる約2年前(当時63歳)に、彼は自伝の中で音楽への意欲についてこう語っている。 「俺は霊の存在については信じるが、死については考えもしない。だが音楽の本質はスピリチュアル(霊的)なことでありフィーリング(感覚..
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Autumn In New York(ニューヨークの秋)〜天才作曲家ガーシュウィンの愛弟子が書いた秋の名曲

ジャズのスタンダードナンバーとして人気の高いこの名曲「Autumn In New York(ニューヨークの秋)」は、作曲家ヴァーノン・デュークが作詞も手掛けた作品で1934年に書き下ろされたもの。 同年に公開されたミュージカル『Thumbs Up!』の劇中歌として使用されたのが初出だと言われている。 時を経て…13年後にフランク・シナトラがヒットさせたのをきっかけに、50年代以降、多くのジャズ・ポピュラー歌手が取り上げるようになった。 ニューヨークの秋 なぜこんなにも心惹かれるのだろう 初日の舞台を迎えるような 胸の高鳴りをおぼえる ニューヨークの秋 天才作曲家ジョージ・ガーシュウィンの愛弟子としても知られている作者のヴァーノン・デュークとは一体どんな男だったのだろう? 1903年、ロシアで生まれた彼の本名はヴラジーミル・アレクサンドロヴィチ・ドゥケーリスキーという。 家系はグルジア系、オーストリア系、スペイン系の血を引いており、祖母がロシア帝国の貴族で、御曹司として生まれた彼は幼い頃からキエフ音楽院でクラシックを学ぶ。 同級生には、あの“鍵盤の魔術師”ヴラジーミル・ホロウィッツがいたという。 混沌とした時代の中、ロシア革命を逃れ、イスタンブール避難し、そこで詩人として活動を始める。 1921年にはアメリカに亡命する。 以降、祖国を追われた彼はロンドン、パリ、NYを股にかけた“国際人”となり、芸術やファッションの先端を行くセレブたちと親交を深める。 彼を取り巻く交遊関係の中には、ピカソやジャン・コクトー、ココ・シャネルなどもいたという。 1929年、26歳の時にガーシュインにその才能を見出された彼は“ヴァーノン・デューク”と名乗るようになり、ブロードウェイミュージカルの曲を手掛けるようになる。 平行して、クラシック界では本名を英語読みにした“ウラディミール・デュケルスキー”として活躍し、パリで大ブームを巻き起こしたディアギレフのロシアバレエ団のために作曲をしたりもしている。 この「Autumn In New York(ニューヨークの秋)」は、彼がコネチカットで休暇を過ごしていたときに書いたといわれている。 成功を夢見る人たちが憧れる エキゾチックな土地 それがニューヨークの秋 さぁ素晴らしい季節を楽しもう こちらのコラムの「書き手」である佐々木モトアキの音楽..
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ベッシー・スミスを偲んで〜ブルースの女王と呼ばれた伝説的な黒人歌手の足跡と功績

1937年9月26日、ブルースの女王と呼ばれた伝説的な歌手ベッシー・スミス(享年43)が、巡業の途中、ミシシッピー州コアホマ付近で交通事故に遭い死亡した。 亡くなった当時、人気の絶頂にあった彼女の葬儀は派手に行われたらしいが、なぜか夫が墓石を買い供えるのを拒んだため、墓石は無いままだった。 その悲運の死から33年が経った1970年…彼女を崇拝していたジャニス・ジョプリンとジョン・ハモンド(音楽プロデューサー)の寄付によって、ペンシルベニア州にあるマウント・ローン墓地に墓石が立てられた。 ジャニスは彼女のために墓を建てた2カ月後に世を去っている… ベッシー・スミスと言えば、ビリー・ホリデイ、マヘリア・ジャクソン、ノラ・ジョーンズ、そして日本の浅川マキなどにも大きな影響を与えた人物として知られる伝説の歌手である。 1894年4月15日(生年月日には諸説あり)、彼女はテネシー州チャタヌーガで生まれる。 幼い時に両親を亡くした彼女は、姉や兄と力を合わせながら貧しい幼少期を送ったという。 8歳の頃から日々の糧を得るために兄のギター伴奏に合わせてストリートで歌うようになる。 その後、ヴォードヴィルショーで踊り子などの経験を重ねた彼女は、15歳の時に黒人女性歌手マ・レイニーと出会い大きな転機を迎える。 マ・レイニーは彼女の歌の才能を見出し、ラビット・フット・ミンストレル(当時“テント・ショー”と呼ばれた旅興行一座)に参加させる。 その後、アトランタ、メンフィス、シカゴなどで劇場歌手としてキャリアを重ねた彼女は、1923年(当時29歳)にコロンビアレコードからスカウトされる。 契約直後、ニューヨークに移ってリリースした「Downhearted Blues」がヒットし、彼女は一躍スター歌手の仲間入りを果たす。 20世紀に入り、レコードやラジオという新しいメディアが急速に発展してゆく。 メディアの発展によりメジャーレコード会社がブルースを扱うようになったのは、全米各地で盛んになりはじめていたWBSやWSMなどの地方ラジオ局が黒人向け音楽を頻繁に流し、高い人気を得ていたのが理由だった。 1920年8月10日、メイミー・スミスが「Crazy Blues」を含む数曲をレコーディングする。 これは音楽史上初めてのブルースの録音となっただけでなく、歴史上初めて黒人女性の声がレコード化された..
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風立ちぬ〜大瀧詠一と松本隆による“はっぴいえんどタッグ”が紡いだヒット曲の誕生秘話

「とてもいい曲だと思いますが…私には向いていないと思います。」 それは1981年8月の出来事だった。 東京の信濃町にあったレコーディングスタジオで、デビュー2年目の19歳の人気アイドル歌手が制作スタッフを困惑させた。 2ヶ月後…そこでレコーディングされた「風立ちぬ」は、彼女の7枚目のシングル曲としてリリースされた。 そもそもは、彼女を発掘し育ててきたCBSソニーのディレクター若松宗雄が、堀辰雄の小説『風立ちぬ』が大好きだったという“強い想い”から楽曲制作がスタートしたという。 当時、彼女が出演していたグリコポッキーの新作CMのために書かれたタイアップソングとして準備は進められていった。 作曲は大瀧詠一、そして作詞が松本隆という“はっぴいえんどタッグ”が、若松の想いを見事に形にした。 「まぁ、あなたなりに歌ってごらんなさい。この楽曲はあなたの歌だからね。」 大瀧は、まずは短いCMバージョンから録音することを提案した。 浮かない表情でスタジオに入っていく彼女をスタッフは心配そうに見守っていた。 ところが、いざ歌い始めてみれば…取り越し苦労だった。 大瀧は『EIICHI OHTAKI Song Book I 大瀧詠一 作品集Vol.1(1980-1998)』のライナーノーツで当時のことをこんな風に回想している。 「たぶん1回か2回しか歌わなかったと思いますが“歌えました!”と声を弾ませて嬉しそうにスタジオを出てきた彼女の笑顔が印象的でした。」 彼女自身も自著『夢で逢えたら』で、こんな告白をしている。 「レコーディングも佳境に入った頃には、完全にこの曲のとりこになっていました。」 彼女がこの楽曲を歌うことを強く望んだディレクターの若松も、こんな言葉で当時を振り返っている。 「彼女はこの重厚なサウンドに抵抗を感じていたようでした。きっと曲に歌手が食われてしまうって思ったのでしょうね。」 実は、若松はわざと彼女が抵抗を覚えるように仕向けたのだという。 ただのアイドルではすぐに飽きられる。 だから、一流ミュージシャンとの仕事でセンスを磨いて欲しかったのだと。 「歌手は皆、自分の好みでない曲は歌いたがらない。でも、それを歌いこなした時その歌手の新たな魅力が広がるのです。この歌をきっかに、歌手としての内面をより深めて欲しかったのです。」 7枚目シングル「風立ちぬ」で狙ったのは、文学..
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ジョージ・ハリスンの「バングラ・デシ」が日本で発売された日

1971年(昭和46年)9月25日、ジョージ・ハリスンの「バングラ・デシ」(東芝音工)が日本で発売された。 同年の洋楽/邦楽ヒットソングといえば… 【洋楽】 1位「Joy To The World 」/ スリー・ドッグ・ナイト 2位「Maggie May」/ロッド・スチュワート 3位「It’s Too Late」/キャロル・キング 【邦楽】 1位「わたしの城下町」/小柳ルミ子 2位「知床旅情」/加藤登紀子 3位「また逢う日まで」/尾崎紀世彦 1971年、日本では学生運動や安保闘争の火が燻っていた。 NHK総合テレビが全番組カラー化を実施し、『仮面ライダー』の放映がスタート、第48代横綱・大鵬が引退表明し、マクドナルド日本第1号店が銀座にオープン、そしてアポロ14号の月着陸に世界中が湧いた年でもある。 ビートルズの解散直後、ジョージ・ハリスン(当時28歳)のもとに友人でありシタールの師でもあったインドの音楽家ラヴィ・シャンカール(ノラ・ジョーンズの父親)が訪ねて来た。 「瞳に悲しみを溢れさせた友達がやって来て、助けが欲しいと僕に訴えたんだ。僕は彼の悲しみを実感することは出来なかったけど、何かしなければと思った。」 1971年、バングラデシュではパキスタンからの激しい独立運動が起こっていた。 何百万もの避難民が、飢餓、病気、洪水に苦しみ、多くの子どもたちが命を落としていた。 ニューヨーク在住のラヴィは祖国インドの隣国バングラデシュで発生している難民の飢餓を訴えるためにジョージのもとを訪れたのだ。 インドの音楽家としてはモントレー・ポップ・フェスティバルやウッドストック・フェスティバルといった大規模なロックフェスティバルに参加したこともあるラヴィであったが、自分一人の力では大したことが出来ないと感じていたのだ。 「我々がバングラデシュのためにできることはないだろうか?」 「それじゃ彼らのためにチャリティーコンサートをやって、世界にこの現状を知らせ、そして寄付を募ろう!」 チャリティーコンサートといえば、慈善・博愛・同胞愛の精神に基づいてミュージシャンたちがノーギャラで出演し、その収益金を寄付するものである。 今では普通に行われていることであるが、これを最初に提唱したのがこの時のジョージ・ハリソンだった。 後にライブエイド(1985年7月13日に行われた20世..
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Dancing In The Street〜最も多くのアーティストにカヴァーされたモータウンソング

世界中に大声で叫ぼう 新しいビートに乗る用意はできた? 今は夏 ストリートで踊るための“時は今” みんなシカゴで踊ってる ニューオーリンズの田舎でも ニューヨークの都会でも この「Dancing in the Street」は、数あるモータウンのヒット曲の中で、最も多くのアーティストにカヴァーされた曲だという。 キンクス、カーペンターズ、ザ・フー、ママス&パパス、グレイトフル・デッド、ヴァン・ヘイレン、そしてミック・ジャガー&デビッド・ボウイなど錚々たる顔ぶれがカヴァーしてきた名曲だ。 作詞作曲のクレジットには、モータウンを代表する人気歌手マーヴィン・ゲイ、そしてモータウン専属ソングライターだったウィリアムス”ミッキー”スティーヴンソンとアイヴィ・ジョー・ハンターの名が記されている。 当時ソングライターとしてはまだ“駆け出し”だったマーヴィン・ゲイがペンを取った珍しい一曲としても知られている。 1964年にこの曲を最初に歌ったマーサ&ザ・ヴァンデラスのリード・ボーカルのマーサ・リーブスは、1963年にグループとしてデビューするまでモータウン所属のアーティストのバックコーラスをつとめながら、レコード会社(モータウン)の秘書としても働いていたという。 念願叶ってのデビュー後に「Come and Get These Memories」(全米29位)「Heat Wave」(全米4位)など次々と発表し、ついにこの「Dancing in the Street」で全米2位を記録し、トップアーティストの仲間入りを果たしのだ。 当時、彼女たちが歌った軽快なダンスナンバーは、とりわけイギリスの若者に強く支持され“ノーザン・ソウル黄金期”の下地を作ったとも言われている。 また、この曲がヒットした時期といえば…アメリカ国内では公民権運動の行き詰まりに苛立ちを感じていた黒人たちが各地で暴動を起こす事態となっていた。 それにともなって、この曲は「ストリートでの暴動を煽る危険性がある」と、あらぬ誤解を受け、全米各地で一時放送禁止となってしまう。 逆にそれが作品の売り上げを加速させることとなったのは、モータウンにとっては“嬉し誤算”だった。 マーサ・リーブスは当時、そんな現象に対してこんな言葉を残している。 「この歌は人々が立ち上がって踊りたくなる。ただそれだけのものよ。」 <引用元・参考..
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Save The Last Dance For Me(ラストダンスは私に)〜車椅子の作詞家が最愛の妻に贈った究極のラブソング

あなたの好きな人と 踊ってらしていいわ やさしいほほえみも その方におあげなさい けれども 私がここにいることだけ どうぞ忘れないで (日本語詞:岩谷時子) この「Save The Last Dance For Me(ラストダンスは私に)」は、越路吹雪の十八番(おはこ)として広く知られていたため、日本ではシャンソンと思っている人が多くいるという。 越路のマネージャー兼生涯の親友だった岩谷時子が、多くのシャンソンに日本語訳をつけていたことが理由とされている。 しかし、この歌はフランスで生まれのシャンソンではなく、アメリカ産のポップスなのだ。 また、オリジナルを唄ったのがベン・E・キングも在籍していた人気コーラスグループのザ・ドリフターズ(The Drifters)で、アトランティックレコードから発売されたということで、黒人音楽のヒット曲と思い込んでいる人も多いという。 ところが、この楽曲を手掛けたドク・ポーマス(作詞)もモルト・シューマン(作曲)も白人なのだ。 後にエルヴィス・プレスリーへの楽曲提供で名を馳せたポーマスとシューマンの二人は、1950年代末から作家チームとして活動を始めている。 男性アイドル歌手フェビアンや、ロック&ロール・ヴォーカルグループとして人気を誇ったディオン&ザ・ベルモンツに書いた楽曲がスマッシュヒットを記録し、徐々に注目を集めてゆく。 そんな彼らの名声を決定づけたのが、この「Save The Last Dance For Me(ラストダンスは私に)」だった。 元々は白人アイドル歌手のジミー・クラントンのために書き下ろした曲だったが、アトランティックから「ドリフターズに唄わせて欲しい!」と頼まれ、それを了承。 ラテン風のテイストがほのかに香るドゥーワップソングとしてアレンジされ、ベン・E・キングのリードヴォーカルを軸に“おなじみの”テイクが完成した。 1960年にリリースされたこの歌は、一気にヒットチャートを駆け上がり3週連続全米一位を記録。 ビートルズのポール・マッカートニーは、この曲を聴きながら「Hey Jude」を作ったという。 そんな秘話を元に日本の人気コーラスグループ、ザ・キングトーンズが大滝詠一プロデュースで、2つの楽曲をシンクロさせた「ラストダンスはヘイジュード」(1981年)をリリースしている。 作詞者のドク・ポーマスは幼..
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ブルース・スプリングスティーンが迎える68歳の誕生日によせて(Photo by 井出情児)

75歳になっても元気にツアーを続けているポール・マッカートニーが9月15日の夜、ニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンで2日間にわたる公演をスタートさせた。 そこにブルース・スプリングスティーンが登場したのは、アンコールのときだったという。 ニューヨーク・ポスト紙によると、ブルースは自らのバンド「Eストリート・バンド」のギタリスト、スティーブン・ヴァン・ザントと共に舞台に現れた。 観客席から驚きの歓声が上がる中で、ポールとブルースはハグをしてから、ビートルズの「i saw her standing there」を披露した。 その短い曲が終わるのを惜しんだポールは、エンディングになって「もう一度やろう!」と呼びかけた。 翌日、ポールが「ザ・ボスとロッキン・アウト――あんまり出来が良くて、2度もやることになった」と、自身のTwitterにコメントを投稿した。 Rockin' out with The Boss–Sounded so good we had to do it twice! #OneOnOne pic.twitter.com/Eb6TSQHini — Paul McCartney (@PaulMcCartney) 2017年9月16日 ボス=ブルース・スプリングスティーンは若い頃からいつも、ライブ・パフォーマンスで圧倒的な存在感を発揮してきた。 1949年9月23日、ニュヨークのマンハッタンから車で1時間ほどの距離にある、ニュージャージー州フリーホールドで生まれたブルースが、エルヴィスのロックンロールと出会ったのは、テレビで見た『エド・サリヴァンショー』を通してだった。 (1956年9月9日、10月28日、1957年1月6日の通算3度出演) 9歳の頃だった。俺がテレビの前に座って、母親がエド・サリヴァンをかけると、エルヴィスが出てきた。確かあの頃からだったが、俺は母親の顔を見るとこう言ってた。 『あんな風になりたいんだ』って‥‥. でも、大きくなると、あんな風にはもうなりたくなくなったけどね。 エルヴィスに憧れてギターを始めたブルースは、地元ニュージャージーでバンド活動に参加して頭角を現し、マネージャーとなるマイク・アペルに見出されて1972年に、CBSレコードのプロデューサーだったジョン・ハモンドのオーディションを受けて認められる。 ..
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耽美な歌〜オスカー・ワイルドの美学に共鳴したグラムロック

「けばけばしい俗物だ!」 「病的で有害だ!」 そんな罵声を浴びながら誕生したグラムロックの歴史は、T・レックスの1sシングル「Ride A White Swan」がリリースされた1970年10月に幕を開けたと云われている。 時を同じくして“ビートルズ”という一つの時代のアイコンを失ったロンドンの若者たちは、新たなポップスターの出現を待望していた。 そして彼らが選んだのは、妖艶なメイクを顔に施し、ラメやスパンコール、孔雀の羽根などを身にまとう中性的な男たちだった。 突如として出現したマーク・ボランやデヴィッド・ボウイの姿は、かつてのビートルズのマッシュルームカットなどを“昔のもの”にしてしまう程のインパクトを持っていた。 彼らの存在は、世間に衝撃をあたえ議論の的となった。 保守的な者たちは「俗悪」「異端」として彼らをなじった。 メディアもまた「一時的なファッションで終わる」として一笑していた。 だがこの“悪の華”は、後に時代を超越し、ロックの流れを大きく変えてしまう原動力となってゆくのだ。 「16歳のときに魔法使いと出会い、一緒に旅行をして魔術を教わったんだ」 これはマーク・ボランがあるインタビューで語った言葉である。 若い頃からファッションモデルの仕事など通じてショービジネスと関わっていたマーク・ボランは、華やかな業界の“裏の世界”で複数の男性と性的関係を持っていたとも云われている。 有用なものを造ることは、その制作者がそのものを賛美しないかぎりにおいて赦される。 無用なものを造ることは、本人がそれを熱烈に賛美するかぎりにおいてのみ赦される。 すべて芸術はまったく無用である。 19世紀に活躍したアイルランド出身の詩人・作家・劇作家オスカー・ワイルドが1890年に発表した長編小説『ドリアン・グレイの肖像』の序章にある有名な一節だ。 ドリアン・グレイという男の肖像画に魂が宿り、本人ではなく肖像画が歳をとり、本人が悪事を重ねるごとに絵が醜く変貌していく、というゴシックホラーのような物語である。 この作品は彼の代表作『サロメ』へと続く“耽美(たんび)小説”と呼ばれ、デヴィッド・ボウイの愛読書でもあったため、1970年代に一世を風靡したグラムロックに多大な影響を与えた原点として知られている。 ワイルドが貫いた美学とも云える耽美主義とは「精神より官能を重んじ、自然や人生よ..
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60年代のフォークリバイバルのムーブメントを牽引したPP&Mの紅一点マリー・トラヴァースを偲んで

2009年9月16日、アメリカの伝説的フォークグループ、ピーター・ポール&マリーのマリー・トラヴァース(享年72)が、コネチカット州のダンベリー病院で亡くなった。 死因は白血病治療の化学療法が引き起こした合併症と発表された。 グループのメンバーだったピーター・ヤローはこんなコメントでその死を悼んだ。 「彼女は悪化する健康状態に想像しうる限り最も勇気ある寛大な方法で対処した。」 続けて、ポール・ストーキーもコメントを残した。 「カリスマ性のある女性で、活動家として勇敢で積極的で人々を奮い立たせた。60年代当時の彼女は抑えることのできない苛立ちのエネルギーに溢れていた。」 1937年11月9日、彼女はケンタッキー州ルイヴィルで生まれる。 両親は共に新聞記者で、彼女が幼い頃に一家はニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジに移り住む。 「両親がジャーナリストだったこともあって、私はとても言葉が好きなのよ。」 小学校に通うようになった彼女は、ワシントン広場周辺で演奏していたミュージシャンたちに興味を持ち始める。 「私の周りはいつも賑やかで、フォークミュージックが好きな人たちでいっぱいだったわ。若い人たちの誰もがウディー・ガスリーやピート・シーガーを聴いていた時代だった。」 14歳になった彼女は、ピート・シーガー率いる“ソング・スワッパーズ”という子供だけのコーラスグループに参加する。 その後、ニューヨーク演劇学校へ入学し女優を目指した時期もあったが、フォークソングを歌うことが大好きだった彼女は、いつの間にかグリニッジ・ビレッジのコーヒーハウスで歌うようになっていったという。 1960年代になって間もない頃、彼女はニューヨークのグリニッジ・ビレッジにあった“コモンズ”というコーヒーハウスでポールと知り合い、当時ボブ・ディランのマネージャーだったアルバート・グロスマンの紹介でピーターと出会う。 アルバートは当時のことを鮮明に憶えているという。 「私は当時無名だったピーター・ヤローのマネージメントをしており、彼のためにキングストン・トリオのような女性を含めたフォークグループを作りたいと思っていました。コモンズの壁に貼ってあったメリーの写真を見て連絡を取ったのがすべての始まりでした。」 1961年の春、ニューヨークを中心に巻き起こっていたフォークリバイバルのムーブメント..
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ロッド・スチュワートの「マギー・メイ」が日本で発売された日

1971年(昭和46年)9月15日、ロッド・スチュワートの「マギー・メイ」(日本フォノグラム)が日本で発売された。 同年の邦楽ヒットソングといえば… 1位「わたしの城下町」/小柳ルミ子 2位「知床旅情」/加藤登紀子 3位「また逢う日まで」/尾崎紀世彦 1971年、日本では学生運動や安保闘争の火が燻っていた。 NHK総合テレビが全番組カラー化を実施し、『仮面ライダー』の放映がスタート、第48代横綱・大鵬が引退表明し、マクドナルド日本第1号店が銀座にオープン、そしてアポロ14号の月着陸に世界中が湧いた年でもある。 「クリーブランドの熱心なDJがレコードをひっくり返してB面だったこの曲をかけてくれなかったら、俺は今でも誰にも知られることのない歌手だったろう。」 ロッド・スチュワートは60年代の初頭から、ロング・ジョン・ボルドリーのバンド「ザ・フーチー・クーチー・メン」をはじめ、「スティーム・パケット」「ショットガン・エクスプレス」と、様々なバンドを渡り歩きながら音楽キャリアを重ねていた。 どのバンドでも成功と言えるほどの結果には至っておらず…1967年に参加した「ジェフ・ベック・グループ」で、ようやく注目を集めるようになってきたという。 ──1969年、スモール・フェイセスのヴォーカリストだったスティーヴ・マリオットは、ピーター・フランプトンと共にハンブル・パイを結成するためにバンドを脱退する。 当時、バンドの存続に一番こだわったキーボーディストのイアン・マクレガンは、新しいスタイルとイメージを取り入れて「新たなバンドとして活動を続けていきたい」と、他のメンバー(ロニー・レーン、ケニー・ジョーンズ)に提案した。 そして3人で話し合った結果、名前を“フェイセズ”にして新たなステップを誓ったという。 彼らは、たとえ名前くらい変えたところで、3人での再スタートが容易ではないこともわかっていた。 ちょうどその頃、ジェフ・ベックグループを離れたロッド・スチュワートとロン・ウッドは3人のフェイセズと友好関係を結び、練習場でセッションをしながら次第にバンドに参加するようになる。 ヴォーカル:ロッド・スチュワート ギター:ロン・ウッド ベース:ロニー・レーン(1973年以降、山内テツ) ドラム:ケニー・ジョーンズ キーボード:イアン・マクレガン 後に英国ロック史に残るスーパーバン..
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