2021-10

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エリック・クラプトンとブラッキー〜ドラッグと酒に溺れた“失われた数年間”から彼を支え続けた相棒

「私はそのギターに“ブラッキー”という愛称をつけた。1956年製の黒のフェンダー・ストラトキャスターだった。デレク&ザ・ドミノスとのツアー中だったある日、白いストラトを持っているスティーヴ・ウィンウッドを見た。彼に触発されてナッシュビルのギターショップに行くと、店の奥にストラトがたくさんあった。当時ストラトの人気はすっかりすたれていて、私は一本100ドルそこそこの安い値段で6本のストラトを買った。イギリスに戻った時に、ジョージ・ハリスンとピート・タウンゼントとスティーヴに1本ずつあげて、残りの3本の一番いい部分を組み合わせて一本のギターを作った。本当はもう1本、あげるべき友がいたんだけれど…それは叶わなかった。」 1970年、エリック・クラプトンはデレク&ザ・ドミノスのメンバーとしてアルバム『Layla and Other Assorted Love Songs(いとしのレイラ)』のレコーディングを終えてすぐにツアーをスタートさせようとしていた。 記録によれば9月20日のロンドン公演が初日となっている。 その二日前の18日…クラプトンにとって大きなショックとなる訃報が飛び込んでくる。 ジミ・ヘンドリックスの急死。 友人でもあったジミがライブパフォーマンスでよくギターを壊すことから、クラプトンはジミへのプレゼントとして、ツアー先で楽器店に立ち寄る都度に程度の良いストラトキャスターを見つけては購入していたという。 しかし…ナッシュビルで買い求めたストラトをプレゼントする直前に、ジミがオーバードーズで急死してしまったため、結局プレゼントするにはいたらなかったのだ。 マイアミにあるクライテリアスタジオでデレク&ザ・ドミノスがジミの曲「Little Wing」をレコーディングしたのは9月8日のことだった。 ジミはデレク&ザ・ドミノスのバージョンを耳にすることなく逝ってしまったのだ。 「もともと私はストラトを弾くプレイヤーだったバディ・ホリーとバディ・ガイに憧れていたにも関わらず、初期の私は主にギブソン・レスポールを使っていた。」 同じギタリストとして、ミュージシャンとして、尊敬し合い交友もあったジミの死は、クラプトンに打撃を与えた。 親友ジョージ・ハリスンの妻パティ・ボイドとの“報われぬ愛”の結末。 さらに私生児だった自分を育ててくれた祖父の死にも直面して、精神的な支え..
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伝説のカントリー歌手ロレッタ・リン〜炭坑夫の娘として生まれて

「Coal Miner’s Daughter(炭坑夫の娘)」/ロレッタ・リン 私は炭坑夫の娘として生まれたの ブッチャーホラーの丘の上のキャビンで 私たちは貧しかったけれど愛があったわ 父さんは貧しい暮らしを支えるために シャベルで石炭を掘ってくれたわ カントリーミュージック。 それは、アメリカ合衆国南部で発祥した音楽である。 「アパラチアンミュージック」、「マウンテンミュージック」、「ヒルビリー」、「カントリー&ウエスタン」などと呼ばれた時期を経て、現在の名称となった。 ヨーロッパの伝統的な民謡やケルト音楽が、ゴスペルなど霊歌・賛美歌の影響を受けて1930年代に誕生したものと云われている─── ロレッタ・リンはそんなアメリカの音楽=カントリーの代表的な女性歌手の一人だ。 今から80年前…1935年にケンタッキー州の小さな炭鉱町ブッチャーホラーで、彼女は炭坑夫の娘として生まれた。 8人兄弟の2番目(次女)という大家族の中、貧しい環境で育つ。 母方からは、スコットランド人、アイルランド人、そしてチェロキーの血を引いているという。 (※現在ブッチャーホラーにあった彼女の生家は、ケンタッキーの観光名所となっている) 1949年、わずか13歳にして結婚。 18歳にして、すでに4人の子供の母となっていた。 幼い頃の彼女は、教会や地域のコンサートで歌う音楽好きな女の子だった。 結婚後は苦難の生活の中、その情熱は家族に向けられるように。 そんな中、5回目の結婚記念日に夫から安物の古いギターをプレゼントされる。 独学でギターを練習しながら二十代から歌い始めた彼女は、やがて歌手になる夢を抱くようになる。 夫と二人三脚で地道な売り込み活動や、ローカルクラブへの出演を続けていると、彼女の歌は次第に認められるようになってゆく。 そんなある日、彼女はテレビのコンテストに出演した。 その放送を見たレコード会社(Zero Records) の社長の目に留まって、ハリウッドでのレコーディングのチャンスを得る。 25歳を目前にした1960年3月に、その音源が1stシングルとしてリリースされる。 その2年後、大手レコード会社のデッカとの契約を手にし、60年代前半にはスター歌手の仲間入りを果たす。 60年代後半になると、彼女はそれまでカントリーの世界で聴かれることのなかった“女性ならではの視点”から..
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オリビアを聴きながら〜六本木・芋洗坂での一人暮らしから生まれた珠玉のメロディー

お気に入りの歌 一人聴いてみるの オリビアは淋しい心 なぐさめてくれるから ジャスミンティーは 眠り誘う薬 私らしく一日を 終えたいこんな夜 この歌は京都出身のシンガーソングライターの尾崎亜美が、17歳で歌手デビューのチャンスを手にした杏里のために書き下ろした楽曲だ。 神奈川県立希望ヶ丘高等学校(定時制)に通っていたの美しい少女のデビューシングル「オリビアを聴きながら」は1978年11月5日にリリースされた。 尾崎と杏里が初めて会ったのは、その年の春だった。 方や当時16歳の人気モデル、方や21歳にして既に“ヒットメーカー”として注目され始めていた実力派ソングライター。 「創作に取りかかる前に彼女と会って打ち解けて話したい。」と、尾崎は担当者にリクエストをだした。 その頃、尾崎は上京以来“間借り”して暮していた街・六本木から白金台にあるマンションに引っ越したばかりだった。 尾崎は杏里を新居に招待し、16歳の少女がリラックスできるように手料理をふるまったという。 「普段はどんな音楽を聴いているの?」 「オリビア・ニュートン・ジョンが好きです。」 趣味の話、恋愛の話、将来の夢の話…二人の会話は弾んだ。 その後、尾崎はすぐに作曲にとりかかる。 年齢よりも大人っぽくみえた杏里が時折見せた年相応のあどけなさと、自然体でやわらない表情。 その印象から尾崎は、ある女性の姿を想像し、歌を作り上げてゆく。 一人暮らす部屋で、オリビアの曲を聴きながら自分を見つめ直す。 少し前に別れたばかりの恋人を強く拒絶している…。 尾崎は作曲当時のことをこんな風に振り返る。 「歌詞のハイライトで使っている“二度とかけてこないで”という強い言葉も、彼女の柔らかい空気感があれば、とんがった印象は残さない。彼女の笑顔が、逆に強い女性を描く勇気を与えてくれたんです。」 女性が男性を“振る”という設定の歌詞自体が珍しかった当時、10代の女性歌手のデビュー曲としては異例の作品となった。 杏里自身も、この歌を受け取った時は少し戸惑ったという。 いわゆる“箱入り娘”だった彼女は、当時帰宅が遅くなると仕事の現場や遊び場まで、わざわざ兄が迎えにきていたという。 歌詞の内容は何となくイメージできるが、深く感情移入してまでは歌えなかったという。 「まだ10代で、ちゃんとした恋愛経験がなかったこともありますが、詞の意味が深..
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誰かに見られてる〜ジョージ・ガーシュインの曲に触発された都会のためのサスペンス

1987年といえば、日本ではバブル経済が幕開けたばかり。それはとてつもなく華やかで、余りにも眩しすぎる時代の始まりだった。1980年代の中でも特別な輝きを放つことになった数年間──「バブル80’s(バブル・エイティーズ)」という狂乱のパーティが開場した瞬間。そして「リッチ」と「トレンディ」がドレスコードになった。 特に都市部の20〜30代の男たち女たちは、流行や情報に心地よく踊らされることを歓迎した。最新を追求して余分なモノを買い持って満足感を得ることも、スタイリッュで少し虚飾じみた恋愛をすることも、全てが許されてカッコ良く映り始めた頃。DCブランドのソフトスーツを着て通勤するような男たちは「ビジネスマン」「ヤンエグ」と呼ばれ始め、異性コミュニケーション手段としての夜遊びやレストラン事情にやたらと詳しくなった。 一方でワンレン髪の女たちは、恋愛の成功服/仕事の勝負服としてのボディコンを装ってアフター5を謳歌。高級ブランドで統一されたファッションや年数回に及ぶ海外旅行は、次第に「ニューリッチOL」とマーケティングされるようになった。さらに1986年に施行された男女雇用機会均等法によって、一般職の腰掛け~寿退社~主婦といったお決まりのコース以外にも、総合職に就くキャリアウーマンの選択肢も現れた。 この頃についてもっと詳しく知りたい方はこちらのコラムで(外部サイト)。 史上最もリッチな青春~狂乱バブル80’sの男と女たち 『誰かに見られてる』(Someone to Watch Over Me/1987)は、日本ではまさにそんな頃(1988年3月)に公開された。主演は『プラトーン』でブレイクしたトム・ベレンジャーと、トム・クルーズと結婚していたミミ・ロジャース。監督は『ブレードランナー』のリドリー・スコット。 同時期には大ヒットしたミッキー・ローク/キム・ベイシンガー主演の『ナインハーフ』(1986)やマイケル・ダグラス/グレン・クローズ主演の『危険な情事』(1987)があり、こうしたエロティックでアーバンなサスペンスは、好景気に沸く都市生活を享受する20〜30代の男女にとって十分にフォローする価値があった。 そして何よりもスクリーンに映るニューヨークの光景=レストラン、ホテル、高級アパート、地下鉄、舗道、公園、夜景の美しさなどが、東京のそれとシンクロしているように見えたの..
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ボブ・ディランの少年時代〜耳を傾けた列車の音、ラジオで聴いた音楽、ひたすら読み漁った本

1941年5月24日、彼はミネソタ州の北東部に位置する街ダルースで生まれる。 出生名はロバート・アレン・ジマーマン。 祖父母はロシアのオデッサ(現ウクライナ)やリトアニアからの移民であり、父エイブラハム・ジマーマンと母ビアトリス・ストーンはアシュケナジム(東欧系)ユダヤ人だった。 彼が6歳になる頃、弟のデイヴィッドを含む一家はメサビ鉄山の鉱山町ヒビングに引っ越しをする。 「ヨーロッパでは第二次世界大戦が激化しており、アメリカも参戦しだした時代に私は生まれた。世界は分裂し、新しく生まれたきた者すべて顔に混沌が拳をくらわせた。」 1951年、10歳になった彼は学校に入学した。 当時学校では、ロシアの爆弾が落ちてくることを想定して、空襲警報が鳴ったら机の下に隠れる訓練が行われていたという。 「その脅威は恐ろしかった、アメリカがロシア人をそこまで怒らせる何をしたのか?私たちにはわからなかった。血に飢えたアカ(共産主義者)がそこいらじゅうにいると、私たちは教えられた。」 彼は子供の頃によく通過する列車を眺めながら、その音を聞いていたという。 大きな有蓋貨車、鉄鉱石運搬車、貨物車、客車、寝台車。 彼が育った町では、どこへ行くにも踏切で止まって長い列車が通り過ぎるのを待たなくてはならなかった。 線路は田舎道と交差していたり、道路に沿って続いていた。 「遠い列車の音を聞いていると、心が落ち着いた。」 ♪Lonesome Whistle(淋しき汽笛) 音楽に興味を持ち始めた彼にとって初めてのアイドルとなったのは、カントリーミュージックの大御所ハンク・ウィリアムズだった。 彼は家にあったピアノを独習し、頻繁にラジオを聴いていた。 列車の音と同じように、ラジオ放送は彼の生活のサウンドトラックだった。 「ある日ダイヤルを回していると、小さなスピーカーからロイ・オービソンの声が飛び出してきた。新曲の“Running Scared”が部屋に響き渡った。この頃私はフォークに関連のある曲をたくさん聴いていたが、ロイ・オービソンは、フォーク、カントリー、ロックンロールなどあらゆるジャンルを超越していた。さまざまなスタイルを混ぜ合わせていた。時に聴こえるか聴こえないかくらいの低い声で歌い、時にフランキー・ヴァリなみのファルセットで歌う。彼にかかるとマリアッチを聴いているのか?オペラを聴い..
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母に捧げるバラード〜沈みかけた海援隊の船を救った“九州弁”の名曲

1972年、武田鉄矢率いる海援隊はアルバム『海援隊がゆく』でエレックレコードからデビューを果たす。 この「母に捧げるバラード」は、翌年にリリースされた2ndアルバム『望郷篇』からシングルカットされた楽曲で、彼らにとって起死回生を賭けた歌となった。 デビューして10ヶ月ほど経った1983年の8月のある日、彼らは当時所属していたエレックレコードの担当プロデューサー浅沼勇から呼び出された。 「お前ら、レコードの売り上げがあまりにも悪過ぎる!今、うちの会社は減益経営になりつつある。そんな時期だから、次作が売れないとお前ら田舎に帰ってもらうことになるぞ!」 本人達の予想に反してデビューアルバムはまったく売れず、地元福岡では大いに盛り上がっていたコンサートも東京ではまったくウケなかったという。 「何とかしなければ!」 武田は焦っていた。 ある意味“売り”でもあった博多弁も、当時はステージで喋れば喋るほどシラけるばかりだった。 一年前に故郷の福岡を出た時は、希望と自信に満ちあふれていた彼らだったが…当時は絶望感と焦燥感でいっぱいだったという。 ちょうど同時期に同郷のライバルグループ、チューリップが「心の旅」をヒットさせチャートのトップを獲ったというニュースが飛び込んできた。 「チューリップだけには負けられん!」 意気消沈していた武田は、気を取り直して作詞ノートを開き無我夢中でペンを走らせた。 そして武田は一曲の歌に“すべての想い”を込めて最後の賭けに出た。 東京では博多弁は通用しないと身をもって知っていたので、曲の冒頭部分ではあえて標準語を使った。 お母さん、今ぼくは思っています。 ぼくに故郷なんかなくなってしまったんじゃないかと。 そして残っている故郷があるとすれば…それはお母さん、あなた自身です。 そして途中から母親の台詞として九州弁を一気にたたみかけるという斬新な手法を使った。 コラ! 鉄也!何ばあんたしようとかいな!あんた! はようあんた大学へ行ってこんね!あんた! どうしてまたこげん頭の悪か子のできたとかいな…ほんなことおまえは。 あーも、父ちゃんがあんた、あの日酒ば飲んで帰ってこんかったら お前のごたあバカ息子はできとらんかったとに! こうしてできあがった「母に捧げるバラード」は、その年の年の瀬(12月15日)にリリースされ、当初は忘年会用の面白ソングとして..
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ハロウィンの歌〜あのマリリン・マンソンもカヴァーした異形の(!?)劇中歌

ハロウィンですね。 その語源は、Hallow(神聖な)+een(even=evening)。 万聖節ではAll Hallow’sと言い、その前日である事からAll Hallow’s Eveと呼ばれていたのがHallow E’enとなり、さらに短縮されてHalloweenと呼ばれるようになったというのが有力な説とのこと。 その起源は古く、古代ケルト民族のドルイド教の収穫祭の行事に、ローマの果家女神Pomonaの祭が加味されたものらしいです。 その後、キリスト教が伝来していき、現在のHalloweenという名前になったのです。 つまり、Halloweenは、古代ケルト・古代ローマ・キリスト教という3つの要素が混合したものなのです。 ハロウィンで使われるカボチャをくり抜いたちょうちんは“ジャック・オ・ランタン=ジャックのちょうちん”と言います。  ジャックとは、昔アイルランドの国に住んでいた酒好きの悪人です。 ジャックはハロウィンの日に悪霊を騙してしまった事がある為、死んでしまった後天国にも地獄にも行けずに世界中をさまよい続ける羽目になってしまった男です。 その時にジャックの足下を照らしてくれたのが、カブをくり抜いたちょうちんだそうです。 アイルランドでは、いつしかジャックの持つちょうちんが死んだ人々の魂のシンボルとなりました。 このお話がカブに馴染みのないアメリカに伝わると、カブがカボチャに変わり、アメリカでたくさん採れるカボチャでちょうちんを作るようになったそうです。 今回の<季節(いま)の歌>は、奇才ティム・バートンの最高傑作とも云われているミュージカル映画『ナイトメア・ビフォア・クリスマス』のオープニングを飾った異形の(!?)劇中歌をご紹介します♪ ♪「This Is Halloween」/ 映画『ナイトメア・ビフォア・クリスマス』オープニングソング(日本語版) のぞいてみないか?不思議すぎる世界を 案内するよ ぼくらのハロウィン これがハロウィン 楽しいハロウィン かぼちゃは悲鳴を上げる これがハロウィン 街中騒ぐ トリックオアトリート みんなが死ぬ日まで 1993年にアニメーション作品として初めて公開され、2006年には3D化された奇才ティム・バートンの“最高傑作”とも云われているミュージカル映画『ナイトメア・ビフォア・クリスマス』(原作:ティム・バート..
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ファッツ・ドミノ〜“ロックンロールの創始者の一人”と言われた男の偉大な功績と足跡〜

それはローリング・ストーンズがまだデビューして間もない頃の出来事だった。 ある日、ミック・ジャガーは歌詞が聞き取りにくいというリスナーからの苦情を受ける。 それに対してミックは得意気にこう答えたという。 「それでいいんだ!俺はファッツ・ドミノの歌を聴いて独特のサウンドを習得したんだ!」 後日、あるインタビューでそのエピソードを聞いたファッツはこんな風に答えた。 「奴がどうしてそんなこというのかわからんな。俺はいつも客にわかってもらえるように演っているつもりだ。聴こえんようなやり方などしちゃいないぜ!歌詞を聴いてもらいたいからな。マイクの調子が悪いってこともあるかもしれん。ああ、きっとそうだ!」 そうい言って、すぐにマネージャーに電話したという。 「マイクの調子をちゃんと調べといてくれよ。」 ファッツ・ドミノ。 1928年2月26日 、ルイジアナ州ニューオーリンズで生まれた彼の本名はアントワーヌ・ドミニク・ドミノ。 彼はストライド奏法とブギウギの影響を受けた独自のピアノ演奏スタイルで、白人からも支持された黒人ミュージシャンだ。 愛嬌のある笑顔、軽やかに鍵盤を叩く指先、甘く親しげな声…その巨体を揺らしながら奏でるブグウギのリズムで“ロックンロールの創始者の一人”と言われた男である。 代表曲と言えばエルヴィス・プレスリーがカヴァーした「Blueberry Hill」や「Ain’t That A Shame」「Walking To New Orleans」「I’m Walkin’」「Blue Monday」など多数あり、ミリオンセラーになった楽曲は実に23曲にも及ぶ。 RIAA(全米レコード協会)の統計によれば、1970年代の終わりまでの彼のレコード売り上げ枚数の累計はエルヴィス、ビートルズに次ぐ第3位だという。 この記録からも、彼の人気が黒人層やマニアックな一部の白人愛好家たちだけに限定せずに、全米のお茶の間レベルにまで浸透していたことが良くわかる。 彼は21歳を迎えた1949年にインペリアルレコードから「Detroit City Blues」でデビューを果たす。 B面に収録された「The Fat Man」が、いきなりR&Bチャート2位の大ヒットを記録し、彼の名はまたたく間に全米に知れ渡ることとなる。 そんな彼の成功を語るにあたって忘れてはいけない男がいるとい..
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I Wanna Be Your Man〜ジャガー/リチャーズ(グリマー・ツインズ)が作曲をはじめたきっかけ

この「I Wanna Be Your Man(彼氏になりたい)」は、ローリング・ストーンズの2ndシングル曲として1963年11月1日にリリースされた。 クレジットには作詞・作曲レノン=マッカートニーと記されている。 同曲は1963年11月22日に発売されたビートルズの2作目のイギリス盤公式オリジナルアルバム『With the Beatles』にも収録された。 当時ストーンズのマネージャーだったアンドリュー・オールダムは、元々ビートルズのマネージャーのブライアン・エプスタインの下でビートルズのパブリシスト(宣伝係)をしていたという。 まだデビュー前のストーンズのステージを見ていたビートルズのメンバーから「君が彼らを売り出せばいい!」と薦められてオールダムはマネージャーに就くことになった。 1963年6月7日、ストーンズはチャック・ベリーのカヴァー曲である「Come On」でレコードデビューを果たす。 オールダムの指示でファンクラブの会員がシングルを購入し、彼らの記念すべきデビュー盤はイギリスのシングルチャートで21位までに上昇した。 オールダムは“次の一手”となる2作目のシングルをどうするべきか悩んでいる時に、ジョンとポールに偶然出くわしたという。 当時ストーンズにはオリジナル曲がなく、もっぱらお気に入りのブルースの曲などをカヴァーしていた。 なんとか売り出し中のストーンズにヒット曲(しかもストーンズらしい曲)を持たせたいと考えたオールダムは、ジョンとポールにストーンズへの楽曲提供を頼んだ。 早速ジョンとポールはスタジオでリハーサル中のストーンズのもとへ行き「君たち向きかもしれない」と言って、まだ未完成の曲をざっと弾いて聴かせたという。 するとストーンズのメンバーが口を揃えて「いいね!俺たちのスタイルだ!」と気に入っため、ジョンとポールはスタジオの隅にあった椅子に腰掛けて一時間もかけずにその曲を仕上げた。 その様子を見ていたミック・ジャガーとキース・リチャーズは、彼らの作曲能力に大変な感銘を受けたという。 そう、この日のことがきっかけとなって後に“ジャガー/リチャーズ(グリマー・ツインズ)”としてオリジナル曲を作るようになったのだ。 ミックはあるインタビューで当時のことをこう振り返っている。 「ポールとジョンの曲づくりは見事だった。かなり売れ線のメロディーだったし、..
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エルトン・ジョンとバーニー・トーピン〜出会ったその日に意気投合したソングライティングコンビ

1966年の年末から、当時19歳だったエルトン・ジョンはロッド・スチュアートをはじめローリング・ストーンズやジェフ・ベックなど多くの英国ミュージシャン達にとって“兄貴分的”な存在として君臨していた歌手ロング・ジョン・ボルドリーのバック演奏をつとめるようになる。 そのことをきっかけに、彼の名はイギリスの音楽シーンで知られるようになってゆく。 「エルトン・ジョン」というステージネームは、ロング・ジョン・ボルドリーの名前をモチーフにして、当時、自ら付けた名前だという。 「名前を知られる一方で、僕は強い劣等感に悩まれていたんだ。なにしろ体重が90キロ近くもあるんだから。ロング・ジョンの音楽性は、僕が目指すものとは違っていたし…ストレスが溜まる一方だったよ。でも、その翌年に僕は運命的な出会いを果たしたんだ。」 バーニー・トーピンと出会ったのは、彼が二十歳を迎える年だった。 それは1967年の7月の出来事だった。 17歳だったバーニー・トーピンは、読書にのめり込んでいた。 イングランドの東部リンカンシャーのアンウェック村とスリーフォードタウンの中間に位置する電気も通らない農場で育ったバーニーは、子供の頃から本を読むことが大好きだった。 格調高い文学作品から児童書「くまのプーさん」(A・A・ミルン)、アメリカ西部開拓時代の英雄ビリー・ザ・キッドの物語など、ジャンルを問わず様々な本を読みあさっていた。 やがてバーニーは本に刺激されて、自らも詩(ポエム)を書くようになる。 ところが、15歳、16歳、17歳とラジオなどでロックやポップスを聴くようになる頃には「自分が書いているのは詩でなく歌詞だ」と気づいたという。 バーニーが表現する詩世界は、ボブ・ディランやビートルズなどに代表される、ポピュラー音楽の歌詞にピッタリだった。 ある日、バーニーは『ニュー・ミュージカル・エクスプレス』紙に掲載されていた小さな募集広告を目にする。 「有能なソングライターとタレントを求む!(リバティ・レコーズ)」 同時期に、その広告をエルトンも目にしていたという。 バーニーは何編かの歌詞を送ってみた。 するとロンドンのリバティ・レコーズから「一度本社に顔を出してみませんか?」という趣旨の返信が届いた。 エルトンもまた何曲かのデモテープを送り、同じような返信をもらっていた。 20歳のエルトンと17歳のバー..
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ロカビリーの女王ワンダ・ジャクソンの偉大な足跡と功績

2019年3月27日、“ロカビリーの女王” ワンダ・ジャクソン(現在84歳)がライブ活動からの引退を表明した。 彼女のFacebookには、マネージメントからの言葉としてファンへのメッセージが綴られた。 「60年以上にわたるツアー生活を終え、ワンダ・ジャクソンはパフォーマンスから引退します。今回の引退は単に彼女の健康と安全を考えてのことです。これまでワイルドな道程でしたが、長年にわたりサポートして下さったファンの皆様に感謝しております。しかしながら、これで終わった訳ではなく、人生の新たな章の始まりに過ぎません。」 2009年、女性ロカビリーシンガーの草分け的存在として活躍していた彼女はロックの殿堂入りを果たした。 彼女が受賞したアーリー・インフルエンス部門とは、現代のロックにインスピレーションと多大な影響を与えた人物が対象となる賞で、過去の受賞者リストにはロバート・ジョンソン、ウディ・ガスリー、ルイ・アームストロング、ピート・シーガー、ベッシー・スミス、マヘリア・ジャクソン、ナット・キング・コール、ビリー・ホリデイなど錚々たるレジェンド達の名が並んでいる。 1950年代の後半から1960年代初頭にかけて人気を博した彼女の歌を聴くと、カントリー&ウエスタンが黒人ブルースなどの影響をうけてヒルビリーが生まれ、それが発展してロカビリーになり、ロックンロール、そして現代のロックになっていく変遷・ルーツ・流れがよくわかる。 目鼻立ちの整った白人女性らしい可愛い顔に反して、感情的で迫力のある黒人のような歌い方をする彼女の歌唱スタイルは、当時の音楽シーンにおいて革新的なことだった。 1955年にデビューした彼女は、ロックンロールをレコーディングした初めての女性アーティストとして知られている。 もともとカントリーシンガーだった彼女は、エルヴィス・プレスリーに勧められてロックンロールに転向したという。 1937年10月20日、彼女はオクラホマ州にあるモードという小さな町で生まれた。 父親は理髪師をしながらセミプロのフィドル奏者(カントリーミュージシャン)でもあった。 彼女が幼い頃、一家はカリフォルニアに移住する。 それは父親が音楽の夢を追っての引っ越しだったという。 子供時代の彼女にとって、父親は最初の音楽の先生でもあった。 父親は幼い彼女にウエスタン・スイング(スイングとカント..
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笠置シヅ子27歳〜ジャズが御法度とされた戦時中、警視庁が彼女に禁じたものとは?

“ブギの女王”と呼ばれ、戦後の日本において一世を風靡した歌姫、笠置シヅ子。 1927年(昭和2年)、彼女は13歳で「松竹楽劇部生徒養成所」(OSK日本歌劇団のかつての養成学校・日本歌劇学校の前身)の受験に合格し、芸名・三笠静子として『日本八景おどり』で初舞台を踏む。 1938年、20代半ばを迎えていた彼女は東京に進出した松竹歌劇団に移籍。 その頃の日本は戦時体制に入り、しだいに反米感情が増す中でジャズが敵性音楽として取締りの対象になり始める。 時を同じくして、彼女は戦後の歌謡界をリードすることになる作曲家、服部良一と出会うこととなる。 いち早くジャズを歌謡曲に取り入れていた作曲家と出会ったことで、彼女の運命は大きく変わる。 服部良一によってコロムビア専属に迎えられ「ラッパと娘」「ホットチャイナ」などがリリースされるが、激しく踊り歌うシヅ子のステージは当局の目に留まるところとなり、マイクの周辺の1メートル前後の範囲内で歌うことを強要されるようになる。 ある日、警視庁に呼び出された彼女は、こんな言葉で注意を受ける。 「戦意を昂揚しないといけない時に、あなたの歌と派手な動きは雰囲気があんまり出過ぎて困る。とうぶん遠慮して直立不動で唄ってくれないか。」 歌と踊りは彼女にとって一体の芸であり、切り離すことなどできない。 動きを禁じられたら“笠置シヅ子”の存在そのものを否定されたものと同様だ。 その時のこと彼女はこう語っている。 「まぁあれは懇談的なもんやったけど、どこかの新聞には“笠置シヅ子叱られる”と大きく書きたてられましたわ(笑)河童が陸に上がったよりも、もっと惨憺たる気持ちでっせ。こんなみじめなもんあらしめへん…。それから5年間、戦中のブランクはアテの地獄でした。」 そしてついに…1941年、彼女が27歳を迎えた年に松竹歌劇団は解散に追い込まれる。 日中戦争から第二次世界大戦中は活躍の場が限られ、彼女は“笠置シズ子とその楽団”を率いて地方巡業や工場慰問などで戦時中を凌ぐこととなる。 敵性音楽のジャズが御法度となったので、服部は彼女のために東南アジアを舞台にした「アイレ可愛や」という曲を与えた。 歌手は持ち歌がないと仕事にならないため、この歌は当時の彼女を救った一曲とも言える。 服部は自伝『僕の音楽人生』の中で、彼女との出会いについてこんな風に語っている。 「大阪..
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名器ギブソンES-335を愛したエリック・クラプトン

ギブソンES-335が発表されたのは1958年で、フライングVやエクスプローラーと同じタイミングだったという。 ボディーの両サイドに空洞を持ち、中央は埋まっているセミアコースティックギター(セミアコ)は、それ以前には存在しなかった。 この「ES」の名は、エレクトリック・スパニッシュ(=横に構えるギター)を意味するもので、1940年代から使われているフルアコースティック・ギター(フルアコ)の型番を受け継いだものなのだ。 愛器“ルシール”をトレードマークにしてきたB.B.キングを筆頭に、ロックンロールの創始者の一人チャック・ベリー、「ミスター335」の異名を持つラリー・カールトン、元アース・ウィンド・アンド・ファイアのアル・マッケイなどなど、このES-335に魅了されたギタリスト達は数々の名演・名盤を残してきた。 そして…若き日のエリック・クラプトンにとってもこのES-335は究極のギターだったという。 2004年のクラプトン主催Crossroads Guitar Auction(クロスロード・ギター・オークション)の時に彼はES-335を愛用していた理由についてこんなことを語っている。 「当時はソリッドボディーであること、ボディーにバインディングがないことなど、今自分が気に入っていること反対の理由でフェンダーよりもギブソンを選んでいたんだ。」 クラプトンは少年時代にチャック・ベリーが弾いていたES-345に憧れていたという。また、フレディ・キングがレコードジャケットでチェリーレッドのES-345を手にした姿を見たときに“ギブソンのセミアコこそ本物のブルース/ロックのギターなんだ!”と、秘かに心に決めていた。 だが、当時のイギリスではアメリカの音楽情報はもとよりレコードすら貴重で、アメリカの楽器などなかなか手に入らなかった。 ヤードバーズの仕事で金を貯めたクラプトンは、ロンドンの楽器屋街チャリングクロスロードで遂に1964年製の新品のES-335を手に入れたのだ。 その40年後…この“ワンオーナー”のギターは前出のオークションで史上最高額のギブソンギターとなったという。 その時に売却されたのが、クラプトンが40年間弾きつづけたES-335だった。 管理人でもあるギターテクのリー・ディクソンはそのギターを「数あるES-335の中でも最高の音を持つ名器だ!」と絶賛している..
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アート・ブレイキーを偲んで〜ピアニストからドラマーへの突然の転身、親日家、後進たちに刻み続けるハートビート(鼓動)

アート・ブレイキー。 脈々と続くジャズ史において、輝かしくその名前を刻んだ名ドラマーである。 1919年10月11日 、アメリカ合衆国のペンシルベニア州ピッツバーグで産まれ、71歳を迎えた5日後の1990年10月16日に肺炎のためこの世を去る。 親日家として知られてた彼は、生前、こんな言葉を残している。 「私は今まで世界中を旅してきたが、日本ほど私の心に強い印象を残してくれた国はない。それは演奏を聴く態度は勿論、何よりも嬉しいのは、アフリカを除いて、世界中で日本だけが我々を人間として歓迎してくれたことだ。人間として!」 当時、ジャズ界で大活躍していた彼ですら、本国アメリカでは差別されていたのだ。 そんな中、来日した際に熱心なファンに出迎えられ、彼は心から感激したという。 1961年の初来日以降、何度も日本で演奏を行った。 かつての妻の1人が日本人だったという彼。 演奏したレパートリーの中には「雨月」「京都」「銀座」など、日本をテーマにしたものも存在するほどだ。 1970年代以降、彼が率いたバンド、ジャズ・メッセンジャーズに鈴木良雄、鈴木勲などの日本人がレギュラーまたは客演で加わっている。 また、来日時には日本人ドラマーのジョージ川口、白木秀雄らともドラム合戦を繰り広げることもあったという。 亡くなる間際まで来日を繰り返し、特に夏のフェスティバルでは顔的存在となって多くの日本人に愛され続けた。 彼は一体どんなドラマーだったのだろう? 「ブレーキの壊れたダンプカー」「ナイアガラロール」と異名を取るドラムの連打を武器にジャズシーンを席巻した彼の演奏スタイルは、まさに唯一無二だったという。 そんな彼がドラムを叩き始めたきっかけとして、ある面白い逸話が残っている。 幼い頃からピアノを学んでいた彼は、ある日突然ドラマーに転身したというのだ。 彼は10代後半からジャズピアニストを志してニューヨークへ進出。 ある夜、彼が演奏していたクラブに、ギャングとも交流のあった店のボスが別のピアニストを連れて来て弾かせたところ、彼よりも優れた演奏をしたため、ボスは彼に「お前はタイコでも叩いてな!」と拳銃をちらつかせながら脅したというのだ。 当然ながらドラムの腕は大したことはなく…バンド仲間からは馬鹿にされる日々が続く中、盟友のトランペッター、ディジー・ガレスピーが熱心にアドバイスをし、彼は..
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PANTA27歳〜頭脳警察の解散後のソロワーク、そして新バンドPANTA&HALの始動

1975年12月31日、PANTAは頭脳警察を解散させた。 解散の約4ヵ月後には1tsソロアルバム『PANTAX’S WORLD』(1976年4月5日)をリリース。 それはPANTAが所属していたビクターの新レーベル“フライング・ドッグ”からの第1弾として大きな注目を集めていた。 PANTAが26 歳の時に放った同作には、当時ソロデビュー直前の竹中“チャー”尚人、ウエスト・ロード・ブルース・バンドの塩次伸二、元サウス・トゥ・サウスの井上茂、元フラワー・トラヴェリン・バンドの和田ジョージ、元スモーキー・メディスンの佐藤準、ジョン山崎、妹尾隆一郎、金子マリなど日本ロック界を代表するミュージシャンが参加した。 同年、彼はスージー・クアトロと共に全国ツアーを決行している。 「ウドーから話が来て、ビクターと相談してやることになったんだ。前座じゃなくて“第一部”ってことでね。彼女たちと一緒に車で回ったよ。本当に面白かった。寂びれたドライヴインに入って食事したり、そこでジュークボックスから流れる音楽に合わせてみんなで踊ったりしてね。」 そのツアーは全国23カ所(29回ステージ)にも及ぶものだった。 各地ホールクラスの会場が満席となり、東京公演(中野サンプラザ)では昼・夜と2ステージが行われたという。 その翌年、27歳を迎えた彼は2ndソロアルバム『走れ熱いなら』(1977年3月25日)をリリース。 山岸潤史(元ソー・バット・レヴュー)、国府輝幸(元ソー・バット・レヴュー)、ロミー木下、鳴瀬喜博、ジョニー吉長という手練れのミュージシャン達によるレコーディングで、“パンタックス・ホーンズ”と名付けられたホーンセクションを導入したシンプルでタイトなサウンドを披露した。 「バックバンドじゃない“バンドの音”が欲しくなってきちゃってね。自分自身もバンドの一員である、そういう形のものを作りたいと思ったんだ。」 同年、彼は新バンドPANTA&HALを結成する。 このバンド名の“HAL”は1968年に公開されたスタンリー・キューブリック監督の映画『2001年宇宙の旅』に登場するコンピュータの名前からとったものだという。 PANTA/Vocal 佐藤宣彦/Guitar 今剛/Guitar 村上元二/Bass 浜田文夫/Drums 「このメンバーで2年間、リハーサルとライブだけやったんだ。と..
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