私は泣いています〜あの魅惑のハスキーボイスは深酒のせいだった、不況の時代にヒットする歌の方程式とは!?
1974年、日本では田中角栄首相が「節約は美徳」と提唱し、石油ショックの影響もあり高度成長期半ばにして“待望の時代”から“忍耐の時代”へと移り変わりつつあった。
世の中に不況の風が吹くとどんな曲調が流行るのだろう?
戦後の不況時代の流行歌を調べてみると…笠置シヅ子の「買物ブギ」などのジャズっぽシャッフル系のリズムの曲が浮び上がってくるのだ。
1974年3月5日、りりィが5thシングル「私は泣いています」をリリースして85万枚の大ヒットを記録した。
プロデューサーを担当していた寺本幸司は、当時りりィを歌手としてステップアップさせるために時代とのマッチングを思案していたという。
1972年に「にがお絵」でデビューを果たした福岡県出身の20歳のハーフ美人。
魅惑のハスキーボイスで話題となり、3rdシングル「心が痛い」は有線放送のリクエストから火が着きスマッシュヒットとなった。
そんな上り調子の状況を寺本は一気に波に乗せたいと目論んでいた。
「りりィにとって今がチャンスだと思い、彼女にパッパをかけたんです。そうしたら、すぐに彼女から“曲ができたから聴いて欲しい”と連絡があり、すぐに聴かされたのがこの歌だったんです。さっそく当時のレコード会社(東芝EMI)のディレクター武藤敏史氏にも聴いてもらい、アレンジャーの木田高介氏も含めて、かねてから武藤氏と考えていた“方程式”を試すことにしたんです。」
プロデューサーの寺本とディレクターの武藤が仕掛けたこと。
それは“不況の時代にはジャズっぽいシャッフル系のリズムがヒットする”という実験でもあり、ある意味“狙った”アレンジだった。
当人だったりりィは、その頃のことをこう振り返っている。
私がギターを覚えたのは中学3年の時でした。
福岡の中洲でバーをやっていた母が亡くなって…それと同時に兄も行方不明になって。
米軍将校だった父は、私が生まれてくる前に朝鮮戦争で戦死したと聞かされてましたし…もう天涯孤独なのだから地球上のどこにいても同じという気持ちがありました。
新宿の街角でギターを搔き鳴らして歌うようになってました。
私より少し上の世代がフォークミュージック歌いながら安保闘争に闘志を燃やしていた時代です。
私は一匹狼で他のフォークの人たちと交わることもなく、路上で歌い続けていました。
そこで事務所の人に「プロにならないか?」とスカウト..