エルトン・ジョンのFirst Step〜ロンドンでの下積み時代、ようやく手にしたレコード発売のチャンス
彼が15歳を迎えた1962年、両親は離婚を決意する。
彼にとってはとても辛い時期だった。
両親の離婚は悲しい出来事だったけれど、彼にとっては独裁者だった父の存在に怯えていた頃よりも家庭でリラックスできるようになったのも事実だった。
当時、彼は地元のグラマースクールとロンドンにある名門の音楽家養成学校(王立音楽院)学校に通いながら、スチュアート・ブラウン(Vo)を含む友人達と4人組のバンド“ブルーソロジー”を結成する。
モータウン系のサウンドを中心に、週末の夜だけホテルのラウンジで演奏をし始める。
彼はツイードのジャケットやタートルネックのセーターなど、ビートルズを真似たような服を着て、伊達眼鏡をかけてピアノを弾いた。
それは当時彼が英雄のように崇めていたバディ・ホリーへのリスペクトだったという。
1965年3月5日、彼はグラマースクールを中退する。
それは18歳の誕生日を迎える3週間前のことだった。
時を同じくして、彼はロンドンのウエストエンドにある音楽出版社「ミスル・ミュージック」で見習い社員の職を得ていた。
「音楽にたずさわりながら働く日々は楽しさとはほど遠かった。好きな仕事をしているという充実感もなく、日中のほとんどはオフィスでダラダラと過ごしていた。そして夜になるとブルーソロジーのメンバーとしてホテルやキャバレーで細々と演奏しながら、レコード会社から注目される日が来るのを辛抱強く待ち続けていたんだ。」
そんな日々の中、彼に願ってもないチャンスがおとずれる。
その年の7月、ブルーソロジーのデビューシングル「Come Back Baby」がフォンタナレコーズからリリースされる。
翌1966年の年明けには、2ndシングル「Mr Frantic」が発売され、同曲のクレジットには“作曲者/リードボーカル”としてReg Dwight(=エルトン・ジョン)の名前が印刷されていた。
これら二枚のシングルは、イギリスの音楽評論家たちから好意的な評価を得たにも関わらず、世間からはあまり注目されなかったという。
同年(1966年)の年末から、彼はロッド・スチュアートをはじめローリング・ストーンズやジェフ・ベックなど多くの英国ミュージシャン達にとって“兄貴分的”な存在として君臨していた歌手ロング・ジョン・ボルドリーのバック演奏をつとめるようになる。
そのことをきっかけに、彼の..