エディット・ピアフ27歳〜ユダヤ人作曲家との戦火の恋、運命のメロディーPadam Padam
稀代のシャンソン歌手、エディット・ピアフ。
本名はエディット・ジョヴァンナ・ガシオン。
1915年12月19日、彼女はパリ20区の貧しい地区ベルヴィル街で生まれた。
父親は大道芸人で、母親はカフェや酒場などで歌う歌手だった。
幼少期は孤独で、親戚から親戚へと転々とし、祖母の経営する売春宿で育てられた時期もあったという。
幼い頃から“唄うこと”が大好きだった彼女は、13歳で親戚の家での肩身の狭い生活を離れ、パリの道端で歌う仕事を選択する。
パリのあまり裕福でない地区ピゲールの路上で、観光客や住人相手に歌い続け、聴き入る人たちに使い古しの帽子をまわして生活費を得る暮らしを何年もの間続けていたという。
その小さな体で歌う姿から“ラ・モム・ピアフ(小さなスズメ)”と呼ばれたことをきっかけに、ピアフ(スズメ)という芸名がつけられた。
──第一次世界大戦の真っ只中に生まれた彼女がやっと独り立ちをしちようとしていた頃…ヨーロッパには“次の戦争”の足音が忍び寄っていた。
そしていよいよ歌姫となって飛躍を遂げようとしていた1940年(当時24歳)といえば、パリがナチスドイツの占領下に置かれるという最悪の状況だった。
自由な言論の一切が禁じられることとなった戦火の下で、彼女はウクライナ(当時オーストリア=ハンガリー帝国領)生まれの作曲家ノルベルト・グランツベルクと出会う。
生後すぐにヴュルツブルク(ドイツ連邦共和国バイエルン州ウンターフランケン行政管区の郡独立都市)に移り住んで育ったという彼は、ピアフよりも5つ歳上のユダヤ人だった。
ドイツの大手映画会社UFA専属の作曲家・ピアニストとして活躍していた彼は、ゲシュタポの手から逃れてパリに移り住んでいた。
パリでは亡命者への労働許可書はなく、彼は危険でいかがわしい街の一角で、鉛筆や消しゴムを売りながら日々をしのいでいたという。
着の身着のままで逃亡してきた彼は、数ヶ月後にやっとの思いでアコーディオンを手に入れて、路上で演奏したり、ダンス音楽の伴奏をしたり、小さなオーケストラと共演しながら作曲を買い取ってもらったりしながら徐々に音楽で生計を立ててゆく。
場末の小さな楽団の固定メンバーとしてピアノを弾いていた時に出会ったのがピアフだった。
彼女は歌い終わるとブリキの皿をもって客席を回り、僅かばかりのチップを集めていたという。
グランツベルクは..