ビング・クロスビーを偲んで〜20世紀を代表する“最高の白人エンターテナー”と呼ばれた男の輝かしい足跡と功績
1977年10月14日、20世紀を代表する“最高の白人エンターテナー”と呼ばれた男ビング・クロスビー(享年77)がスペインのマドリードで死去した。
死因は心臓麻痺と公表された。
その日、彼はマドリード郊外モラレハにあるゴルフ場で、プロゴルファーのマヌエル・ピエロらとコースを回った直後、午後6時30分頃にクラブハウスから20ヤード近くの場所で胸の痛みと呼吸の苦しさをうったえながら倒れた。
直ぐにクラブハウス内や救急車内で蘇生処置が行われたが…搬送された病院で息を引き取ったという。
歌手としては全米No.1に輝いたヒット曲が41曲というから、ビートルズですら追いつけなかった歴代最多1位の記録を持っていたと言われている。
ビング・クロスビーといえば、音楽史上においていち早くマイクロフォンを用いることで、新しい時代の歌い方を確立し人物である。
彼は自分の歌について、自伝の中でこう綴っている。
「僕は歌い手じゃない、語り手なんだ。」
ほとんど楽譜が読めなかったという彼は、黒人ジャズ歌手の歌を聴き、盗み取ることで歌唱を磨いていったという。
その生い立ちをさかのぼると、彼が如何に“選ばれし逸材”だったかがわかる。
1903年5月2日、彼はワシントン州タコマ市で生まれる。
ピルグリム・ファーザーズ(アメリカに渡ったイギリスの清教徒)直系の子孫にあたる彼の父親は、イエズス会に所属するクリスチャンで、母親はアイルランド系のカトリック教徒だった。
高校時代から演劇や音楽に関心を持ってはいたものの…厳格なキリスト教徒だった両親のもとで育った彼にとって、将来ミュージシャンや歌手になるなどあり得ないことだったという。
両親が敷いたレールに乗ったまま、彼はゴンザガ大学の法学部で司法を学び、弁護士など法律の専門家になることを目指していた。
しかし、学生時代にジャズと出会ったことをきっかけに、彼は音楽の魅力に惹かれてゆく。
大学の友人たちとジャズバンドを結成して歌い始めたのが歌手キャリアの第一歩目だった。彼は親の反対を押し切り、司法の道を捨て、歌手として生きる決意を固める。
大学を中退し故郷を離れてロサンゼルスへと旅立ち、本格的に音楽活動をスタートさせる。
1926年、26歳の時にジャズオーケストラ、ポール・ホワイトマン楽団に専属歌手として入団。
翌1927年にはホワイトマン楽団内で結成された男..