2021-11

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時代おくれ〜バブル景気の真っ只中に阿久悠が見据えていた“日本の姿”とは?

目立たぬように はしゃがぬように 似合わぬことは無理をせず 人の心を見つけつづける 時代おくれの男になりたい 1986年(昭和61年)と言えば、日本がバブル景気に突入した年。 そんな時代に河島英五がCBS・ソニー移籍第1弾として発表したのがこの「時代おくれ」だった。 発売当初の売り上げは芳しいものではなかったというが、白鶴酒造のコマーシャルソングに起用され、サラリーマン世代やシニア層に支持された結果、同年の『日本有線大賞』で特別賞を受賞した。 作詞は阿久悠、作曲は森田公一によるもので、二人は1972年にヒットを記録した和田アキ子の「あの鐘を鳴らすのはあなた」を手がけたコンビでもある。 この歌詞について、阿久悠はこんなことを語っている。 「バブル景気に浮かれた社会ではなく、あえてそんな景気に左右されない人たちに目を向けました。しかし、その姿勢は過去ではなくて“その先に来る未来”に向けたものだったんです。」 数年後、株価は市場最高値(3万8,915円)を記録。 都心の地価は一気に3~4倍に高騰。 日本では、多くの企業や個人が“財テク”に狂奔する時代が到来した。 しかし、1990年代に入るとバブル経済は一気に崩壊し、1992年には株価が1万4,309円と63%も下落することとなる。 地価も下落し、それから日本経済は“失われた10年”と呼ばれる長い不況の時代に突 入していく。 阿久悠は、そんな“狂騒の果て”を見越していたかのように、バブル期を振り返りながらこんな発言を残している。 「多くの人が好景気に浮れて自信満々で闊歩していた時代でした。日本が世界一の金持ちということを信じて疑わなかった。それなのに、なぜかそういう人の姿も国の有り様もどこか似合わない感じがしてならなかったんです。人は新しいもの、おもしろいもの、贅沢なものを狂ったように追い求めていました。しかし、そんな時代の空気に疑問を持つ男もいるのではないかと思ってあの曲を書きました。」 発売から5年経った1991(平成3)年、バブル崩壊が少しずつ表面化しはじめた頃に、NHK総合で放送された特別番組『阿久悠 歌は時代を語り続けた』(6月15日放送)で、河島英五が披露した同曲が脚光を浴びる。 同年の9月21日には再リリースされ、年末のNHK紅白歌合戦で唄われることとなる。 阿久悠は、この楽曲があの時期に再注目されたことに..
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エリック・クラプトンのFirst Step〜1930年代ロバート・ジョンソンが録音した29曲

彼の生い立ちは複雑だった… 母親のパトリシアは彼を産んだ当時、未婚の16歳だったという。 父親は英国に駐留していた既婚のカナダ兵だった事から、彼は祖母に預けられて彼女の再婚相手の子供(実母とは異父兄弟)として育てられたのだ。 彼は13歳の誕生日に祖父母から本物のガットギターをプレゼントしてもらい、ギタリストとしてのキャリアをスタートさせる。 毎日のように家の階段の最上段に座っては、レコードで聴いたものとソックリな“響き”を作り出して楽しんでいた。 ギターを弾き始めた頃のエリック・クラプトンに影響を与えたのは、ビッグ・ビル・ブルーンジーだった。 「彼が演奏していた“ヘイ・ヘイ”という曲にノックアウトされたんだ。メジャーとマイナーの間を行き来するブルーノートノートスケールがたくさん出てくる複雑な曲なんだ。その後、ロバート・ジョンソンを聴いた時“ロックンロールは、さらに言えばポップミュージックのすべてのルーツはここから生まれている”と確信したんだ。」 音楽が生活のほとんどを独占しはじめると、当時通っていたキングストン・スクール・オブ・アート(キングストン大学のデザイン科)での勉強が犠牲になりだした。 ある時、彼は学校側から「これ以上、やる気のない人間を置いておくことはできない」と宣告される。 「僕にとってアートスクールを追い出されたのは通過儀礼の一つだった。これからの人生、すべての扉が自分のために開くわけではなく、実際にはそのいくつかが閉じようとしていることに気づかされたんだ。僕を育ててくれた祖父母はがっかりしていたよ。そして落伍者となった僕は、家に一緒に住むつもりなら働いて金を入れるように!と言われたんだ。」 彼は翌日から祖父がやっていた仕事の助手として働くことにした。 祖父は左官屋兼大工の親方で、レンガ職人としても仕事を請け負っていた。 程なくして、彼は祖父母をどうにか説得してエレキギターを買ってもらう。 彼が選んだのは、ロンドンにある楽器屋のショーウィンドウで目をつけていた“KAY”というメーカーのセミアコギターだった。 「アレクシス・コーナーが弾いていたものと同じで、ダブルカッタウェイの最新モデルだった。当時としてはかなり先をいっていた楽器だったが、基本的にはギブソンのES-335のコピーにすぎないものだった。ギブソンは100ポンド以上したから手が届かなか..
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尾崎豊Oh My Little Girl〜本人亡き後にして“最大のヒット”となったラヴソングはデビュー前の大学ノートの中で産声をあげていた

こんなにも騒がしい街並に たたずむ君は とても小さく とっても寒がりで 泣きむしな女の子さ この「Oh My Little Girl」は、尾崎豊の13枚目(企画作品を含むと15枚目)のシングルとして1994年の1月21日に発表された。 記録によると、自身最大のヒット曲だという。 当時26歳だった尾崎が他界したのが1992年の4月25日だから…本人亡き後にしての異例の再リリース→大ヒットというわけだ。 きっかけはテレビドラマのタイアップだった。 1994年の1月10日から3月28日までフジテレビ系列“月9枠”で放送されたドラマ『この世の果て』の主題歌となり、放送に合わせシングルカットが決定したのだ。 発売初週のオリコンシングルチャートでは、初登場2位を記録。 発売2週目には1週目を上回る売り上げを記録し、尾崎にとって初のオリコンシングルチャート1位を獲得することとなった。 その後も順調に売り上げを伸ばし、最終的に107.8万枚を売り上げ、オリコン、日本レコード協会双方の集計でミリオンセラーを達成するまでに至ったという。 2001年公開の映画『LOVE SONG』では「Forget-me-not」と供に主題歌として使用され、2014年公開の映画『ホットロード』でも主題歌として抜擢され話題となった。 尾崎の死からすでに二十数年…時代を超えて愛され続けるこのラヴソングは、どんな経緯で誕生したのだろう? もともとは尾崎のデビューアルバム『十七歳の地図』(1983年)に収録されており、2枚目のシングル「十七歳の地図」(1984年)のB面曲としても収録されていたもの。 原題は「セーラー服とリトルガール」で、デモテープ完成時には「となりのリトルガール」となり、プロデューサーの須藤晃の助言で「Oh My Little Girl」となったという。 1981年。 尾崎豊は、16歳の時にCBSソニーが行なっていたオーディションに応募する。 そのオーディションを主宰していた稲垣博司(当時ソニーミュージックに在籍)は、当時の尾崎の印象をこう語る。 「それまで過去3回の優勝者は、全てスタッフの紹介者だったが、彼は一般公募から初めて誕生した記念すべき優勝者だった。ほとばしる若さ、そのベースにある若者の傷ついたメンタリティを感じた。」 初のオープン応募から合格者となった尾崎豊のディレクター兼プロデ..
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トミー・ドーシーを偲んで〜チャック・ベリーやフランク・シナトラにも多大な影響を与えた白人ジャズ音楽家の足跡と功績

1956年11月26日、ジャズ史上最も美しい音でトロンボーンを吹き “センチメンタル・ジェントルマン”という愛称で親しまれたトミー・ドーシー(享年51)がコネチカット州グリーンウッチにある自宅で死去した。 死因は睡眠薬の過剰摂取とされている。 1930年代から1940年代はスイングジャズの最盛期だった。 この時代、生演奏でダンスをするボールルーム(舞踏場)もアメリカ全土に広がり、数多くのバンドが個性を競い合いながら人々のハッピーな時間を盛り上げていた。 その中でも、頭ひとつ抜けて人気を博していたのが白人系のビッグバンド、トミー・ドーシー楽団だった。 炭鉱夫だった彼の父親は音楽好きで、吹奏楽器を一通りこなし、人に教えたり、町の行事になくてはならないブラスバンドのリーダーを引き受けるほどの人物だったという。 彼は1歳年上の兄ジミーと共に幼いころからトランペットを習い始める。 後に兄はサックスやクラリネットに、彼はトロンボ-ンに専念するようになる。 高校時代は兄弟それぞれ別に学生バンドを作り、人気者だったという。 学校を卒業すると、兄は父親と同じ炭鉱に勤め、彼は配達夫として働きだす。 しかし、父親の助言を受けて二人は音楽で身を立てていく事を決意する。 二十歳になった彼は兄と共にデトロイトの有名バンドジーン・ゴールドケットの楽団に加入し、次第にジャズミュージシャンとして認められるようになっていった。 1934年、29歳の時にドーシーブラザーズ・オーケストラを結成。 後に“スウィングジャズ界の巨匠”と呼ばれることとなるグレン・ミラーは、1934年から1935年までこのオーケストラに在籍していた。 翌年、兄弟は音楽性の違いを巡って大喧嘩をして、それぞれバンマスになって独立した活動を始めるようになる。 その後は、彼のテーマソングとなった「I’m Getting Sentimental Over You」やルイ・アームストロング楽団のテーマ曲でもある「On the Sunny Side of the Street(明るい表通りで)」など、ビルボードチャートに137曲ものヒットソングを送り込む人気者となっていった。 ロックンロールの創始者の一人であるチャック・ベリーは、少年時代に音楽の道を選んだきっけとなった人物としてトミー・ドーシーの名前をあげている。 「マディ・ウォーターズ、..
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オジー・オズボーン27歳〜酒に溺れてゆく日々、ブラック・サバスからの脱退、危篤状態の父が口にした最期の言葉

メタル界のレジェント的存在として絶大な人気を誇る歌手オジー・オズボーン。 幾度もの変遷を経ながら…約50年に渡って活動し、レッド・ツェッペリン、ディープ・パープルと並ぶ“三大ハードロックバンド”に数えられるブラック・サバスの創設メンバー(在籍期1968年-1977年、1978年-1979年、1985年、1997年-2017年)としても知られる男である。 ブラック・サバスは2017年に活動を終えたことを正式に発表している。 オジーはブラック・サバスとしての最後のツアーについて『フィラデルフィア・インクワイアラー』紙に次のように語っている。 「素晴らしい時間を過ごせたわけではなかったんだ。俺は9年か10年をブラック・サバスに費やしたわけだけど、20年近くバンドからは離れていたわけだからね。彼らといる時の俺は単なるシンガーでしかないんだ。自分1人であれば、やりたいことをできるわけでね。オジーでいると、彼らとは馬が合わなくてね。分からないんだけどさ、一体他に誰になればいいんだっていうね。」 オジーが26歳の時に発表した6thアルバム『Sabotage』(1975年)まで、バンドは全英・全米ともにアルバムチャート上位にランクインしている。 特に5thアルバム『Sabbath Bloody Sabbath(血まみれの安息日)』(1973年)までの作品は、いずれも全米で100万枚以上の売り上げを記録。 そして、オジーが27歳となった1976年頃から、新たな音楽の波“パンク/ニュー・ウェイヴ”のムーブメントが到来する。 それまでのロックミュージックは徐々に勢いを失ってゆく。 ブラック・サバスも例外ではなく…当時、方向性の相違からメンバー間に不協和音が漂い始める。 当時、オジーは重度のアルコール問題を抱えていた… 「バンド内でもめ事が起こっている一方で、俺達は7作目となるアルバムの制作に取りかかっていた。マイアミのスタジオを押さえ、機材もスタッフも全部イギリスからアメリカに持ち込んでやろうとしていた。新作のタイトルは“Technical Ecstasy”に決まった。この頃になると、俺達のアルバム制作費用は馬鹿馬鹿しいほどの金額になっていたよ。」 音楽シーンの過渡期も重なり…この頃からブラック・サバスのアルバム売り上げは下降線を辿ってゆく。 レコード会社も徐々に予算を渋りはじめ、..
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生きながらブルースに葬られ〜ジャニス・ジョプリン27歳、彼女が死んだ夜の足跡

それはジャニス・ジョプリンの遺作となったアルバム『PEARL』のレコーディング中におきた悲劇だった。 1971年にリリースされた本作は、ジャニスが新たなバックバンド“Full Tilt Boogie Band(フル・ティルト・ブギー・バンド)”を従えての期待作として注目を集めていた。 プロデューサーは、長い間ドアーズを手掛けてきたポール・A・ロスチャイルド。 1970年の9月からロサンゼルスのスタジオで開始されたレコーディングは、完成に向けて快調に進められていた。 そして、いよいよ最終局面を迎えた10月3日、アルバムのA面ラスト(5曲目)に収録された「Buried Alive In The Blues(生きながらブルースに葬られ)」のオケの録りが行われる。 翌日に行われるジャニスのボーカル録音の準備を整え、メンバーは23:00にスタジオをあとにして帰宅した。 ジャニスは泊まっていたランドマークホテルに戻る前、いつものようにBarney’s Beanery(バーニーズ・ビーナリー)というバーに立ち寄った。 レコーディング中もスタジオで酒を飲んでいたのだが…彼女はカウンターで2杯だけSouthern Comfort(サザン・カンフォート)を流し込んでホテルに戻る。 彼女は普段、仕事の後にホロ酔いのままホテルのプールでくつろぐことも多かったが、その夜は午前1時頃に煙草を買いにロビーへ行っただけで部屋から出ることはなかったという。 自分の部屋に戻ったあと、彼女はブラウスにパンティという姿でベッドに座って…眠る前の“儀式”に耽る。 そしてベッドの横にあったテーブルに煙草を置き、お釣のコインを手に持ったまま前に倒れた。 その時、顔がテーブルにぶつかり唇を切る。 10月4日、ジャニス・ジョプリンの死亡が確認された。 検死の結果、彼女が眠る前に使用したヘロインが通常のものより高純度であったため、致死量を越えたことが死因であるとされる。 それは奇しくも、ローリング・ストーンズの創設者ブライアン・ジョーンス(1969年7月3日)やジミ・ヘンドリックス(1970年9月18日)に続く“27歳の死”だった。 ジャニス・ジョプリン──誕生から60年を迎えたロック史上で、ひときわ異彩を放った女性シンガーである。 その個性的な声質とブルージーな歌唱法は、まさに“唯一無二”だった。 生前、米紙ニュー..
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キャブ・キャロウェイを偲んで〜大恐慌の嵐が吹き荒れたアメリカで黒人エンターテイナーとして最大級の人気を博した男の軌跡〜

1930年代、大恐慌の嵐が吹き荒れたアメリカで“黒人エンターテイナー”の代名詞的な存在だったキャブ・キャロウェイ。 “ズート・スーツ”なる膝まである長い上着と、先細りになっただぶだぶのズボンという奇抜なステージ衣装。 ハンサムですらりとした長身で指揮棒を振るい、オーケストラを指揮するというよりは踊り狂っているような仕草。 これまでに誰も目にしたこともないアクの強いショーダンス、そして優れた美声の持ち主であり、そのバリトンボイスは張りがあって艶っぽく、高く澄んだ歌声で聴衆を魅了するヴォーカリトでもあった。 響き渡る声で朗々と歌ったかと思うと一変、今度は機関銃のような早口でまくしたてるスキャット、軽妙なダンスステップを踏みながら楽団の演奏を自在に操る姿は正に“エンターティンメント真髄”だった。 彼は1994年6月12日、自宅でテレビを見ている最中に脳梗塞で倒れ入院。 その後デラウェア州ホーケシンの養護施設に移された。 同年の11月18日、脳梗塞が原因となり…家族が見守る中86歳の生涯を閉じた。 彼は亡くなる直前まで演奏活動を続けていたという。 1930年代初頭から1940年代後半にかけて、黒人エンターテイナーとしてアメリカ最大級の人気を博したといわれている彼の軌跡をあらためてご紹介します。 ──1907年12月25日のクリスマス、彼はニューヨーク州ロチェスターで産声を上げた。 キャベル・キャロウェイIII世という本名が示すように、両親は中産階級で裕福な家庭環境で育つ。 10歳になる頃に、彼の家族はメリーランド州ボルチモアに移住。 両親は彼の音楽的才能に気づいて、歌のレッスンなど教育環境を整えた。 当初はクラシックを学ばせたかったようなのだが、彼自身はそれに従わず、両親が嫌うジャズに惹かれていく。 姉が先にジャズシンガーとして売り出していたこともあり、彼も大学を中退して姉に合流する形でプロになる。 シカゴを拠点としていた彼は、ルイ・アームストロングとも共演を果たし、彼からスキャットを習ったというエピソードが残っている。 彼に大きな転機が訪れたのは1930年だった。 ニューヨークに進出していた彼は、バンドを転々とするうちにリーダーに納まったのだが、そのバンドが当時一世を風靡していたデューク・エリントン楽団の代役としてコットンクラブに出演することとなる。 そこは当時“黒人が出..
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Big Yellow Taxi〜環境問題に鋭く切り込んだジョニ・ミッチェルの名曲はこうして生まれた

彼らは楽園を掘りおこし舗装して 駐車場とピンクのホテル それにブティックとディスコを建てた でもそれってよくある話じゃない? 失ってはじめて気づくなんてね… 彼らは楽園を掘りおこし舗装して駐車場を作った この「Big Yellow Taxi」は、ジョニ・ミッチェルが1970年の4月に発表した3rdアルバム『Ladies of the Canyon』からシングルカットされた楽曲だ。 環境問題をテーマにした歌で、彼女が自身で吹き込んだ曲としては最初にヒットしたシングルとなった。 曲がヒットする前年の1969年11月29日に、マサチューセッツ州ウースターで行ったコンサートのステージ上で彼女はこんなことを語った。 「2週間前ハワイ(ワイキキ)に行ったの。ハワイに行くのは初めてで、できたら島をもっと見たかったのだけれど…なんだかがっかりして実は2日間しか滞在しなかったの。夜の11時に着いて、翌朝ホテルの窓のカーテンをさっと引いたら案の定そこは天国だったわ。生い茂った緑の丘。すりばち状の山がそびえ、鳥たちは低く飛び回り、インドハッカ(スズメ目ムクドリ科ハッカチョウ属に分類されるアジア産鳥類の1種)がいたるところにいたわ。ところがその美しい景色の真ん中に位置していたのは巨大な駐車場だった…。それで私はこの曲を書いたの。」 大気汚染が進み、自然が破壊されてコンクリートやアスファルトに変わってゆく… 20世紀以降、人類が繰り返してきた過ちを、彼女は「それってよくある話じゃない?」と歌い、そしてこう付け加えた。 「失ってはじめて気づくなんてね…」 当時、ワイキキのフォスター植物園では、自然に生えているヤシの木を引っこ抜いて温室の中に閉じ込めて、入場料を取って観光客に見せていた。 歌の中で彼女はそのことを皮肉ったあとに、視点をハワイからリンゴ農家へと移し、農薬漬けとなった農作物を嘆く。 ねえねえ、お百姓さん DDT(毒性農薬)を使わないで! 林檎にまだら斑点があるのは普通のこと 鳥や虫たちを殺さないで!どうかお願い! でもそれってよくある話じゃない? 失ってはじめて気づくなんてね… 彼らは楽園を掘りおこし舗装して駐車場を作った 単に果実の見た目をよくするために使われる農薬は、害虫を駆除するだけではなく、それを食べる鳥の体内にも入る。 歌詞に登場するDDTという農薬は第二次大戦後、ア..
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Lullaby of the Leaves(木の葉の子守歌)〜アメリカのポピュラー音楽の礎を築いた“ティン・パン・アレー” から生まれた名曲

何万という星が見下ろす南部の空の下で 僕をゆりかごに眠らせて歌っておくれ 木の葉よ…子守唄を歌っておくれ この「Lullaby of the Leaves(木の葉の子守歌)」は、今から85年前の1932年にジョー・ヤングの作詞、そして女性作曲家のバニーズ・ペトカーの作曲によって作られた楽曲である。 バリトンサックスの名手ジェリー・マリガンのレパートリーとしてジャズファンから愛され、1962年にベンチャーズがリバイバルヒットさせたことで日本人にも広く知られるようになった曲だ。 もともとは19世紀末から20世紀前半のアメリカのポピュラー音楽の礎を築いた“ティン・パン・アレー(Tin Pan Alley)”が楽譜出版したものだった。 当時、アメリカのポピュラー音楽の多くがミュージカルや映画のために製作されていた中、この楽曲は(珍しく)商業的な絡みもなくラジオ番組で演奏されたのが初出だったという。 このメロディーを作曲したバニーズ・ペトカーと言えば、シカゴ出身で主に1930年代に活躍した音楽家。 彼女は5歳からシカゴのボードビル(流行歌入りの軽喜劇)で歌い、98年間の生涯をショウビジネスに捧げた人だった。 1931年、ニューヨークのジャズバーでピアノを弾いていたところをアーヴィン・バーリンに見出される。 それをきっかけにビング・クロスビーの曲を書いたところ、立て続けにヒットを記録し、一躍売れっ子作曲家となる。 彼女はいつしか“ティン・パン・アレーの女王”と呼ばれるようなり、多くのミュージカルや映画作品に関わってゆく。 アメリカのポピュラー史に必ず登場する“ティン・パン・アレー”とは一体なにを指す言葉なのだろう? レコードが一般に広く浸透する前の時代、歌は楽譜の形で流通し、アメリカでは大衆音楽の楽譜が飛ぶように売れたという。 流行歌の出版競争は音楽産業を一気に活性化させ、その後のアメリカ大衆音楽の基盤を築くこととなる。 ニューヨークのブロードウェイと五番街にはさまれた通りの一帯は、19世紀末から楽譜(シートミュージック)を売る店が軒を並べ、ポピュラー音楽の出版社が集まっていた。 人々はその一帯を“ティ ン・パン・アレー”と呼び、後にアメリカの大衆音楽業界の通称として使われるようになった。 そこで楽曲の制作から出版・流通までを掌握していたのが、東欧にルーツをもつユダヤ系移民..
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デビュー作『レス・ザン・ゼロ』で新世代の代弁者に祭り上げられた20歳の大学生

「ロスのフリーウェイって、合流するのが怖いわね」 1985年。そんな台詞から始まる小説『レス・ザン・ゼロ』が発表された。20歳の大学生ブレット・イーストン・エリスが書いたこの作品は、たちまち大きな話題を呼んだ。 NYタイムズは「こんな不穏な小説を読むのは実に久しぶりのことだ」と困惑し、保守的で辛口のニューヨーカー誌は「実に完成度の高いデビュー作」と絶賛。LAタイムズが「これこそ現代の『ライ麦畑でつかまえて』だ」と言えば、ニューズウィーク誌は「『プレッピー・ハンドブック』の汚れた裏の部分」と書いた。 また、淡々と話が描写されていくだけの文体や結局最後まで大したことも起こらない点が「MTV感覚」と呼ばれた。TVモニターから何となく流れているミュージック・ビデオのクールさや虚無感と似ていたからだ(小説には無数のポップソングやアーティスト名も出てくる/文末にまとめ)。 エリスは一躍、アメリカの新しい世代の代弁者に祭り上げられた。それは「ニュー・ロスト・ジェネレーション(あらかじめ失われた世代)」と呼ばれ、新しい感覚を持った書き手たちが続々と衝撃的な文学作品を発表するようになる。1920年〜30年代に「ロスト・ジェネレーション(失われた世代/迷える世代)」と称された作家たち(フィッツジェラルドやヘミングウェイなど)がいたが、まさにその再構築的なムーヴメントだったわけだ。 中でも『レス・ザン・ゼロ』はベストセラーを記録し、LAを舞台にした“カジュアル・ニヒリズム”の金字塔的作品として知られることになった(1987年には映画化)。なお、日本語訳版は中央公論社より1988年に刊行されて92年に文庫化(その後2002年にハヤカワ文庫に移行/中江昌彦訳)。 物語は、語り手の18歳のクレイが東部の大学からクリスマス休暇で故郷のLAに戻って来るところから始まる。冒頭の恋人ブレアの台詞から、この物語が何かとてつもない力を秘めているという予感がしたことを覚えている。 登場人物の多くが映画界の重役の子弟たちで、みんなプール付きの豪邸に住んでいたり高級車を乗り回しているようなリッチに環境にいる。主人公のクレイは恋人ブレアや親友ジュリアンらとその場限りのような空虚な会話を交わしながら、パーティ、ドラッグ、音楽、セックス、クラブ、レストラン、ビーチといった行動や場所を延々とループ(繰り返す)。そこに若..
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デヴィッド・ボウイが憧れのエルヴィスからもらった手紙

──1950年代の中頃、アメリカはもちろんのこと、イギリスの女性たちもラジオから次々と流れてくるエルヴィス・プレスリーの声に心を奪われていた。 デヴィッド・ボウイの母ペギーは、自分の息子の誕生日がエルヴィスと同じということから、勝手に運命的なものを感じていたという。 「母から繰り返しエルヴィスの曲を聴かされたよ。母はその勝手な思い込みのおかげで、すっかり有頂天になっていたよ(笑)」 発売されたばかりのエルヴィスの「Hound Dog」に合わせて、母や叔母が体を激しくゆらして踊る姿を見て、彼は今まで感じたことのない感覚を感じたという。 「当時8歳だった僕にとって彼の歌は衝撃的だったよ。音楽の持つパワーを生まれて初めて実感した瞬間だった。そのあとすぐにレコードを集め始めたんだ。」 その後、二十歳にしてデビューを果たした彼は、1970年以降、ギタリストのミック・ロンソンをサウンド面での相棒として迎えグラムロックへと傾倒してゆく。 1972年に発表した5thアルバム『The Rise and Fall of Ziggy Stardust and the Spiders from Mars(ジギー・スターダスト)』で、ロックスターとしての地位を確立。 当時、スターダムにのしあがろうというその時でもなお、彼はエルヴィスをリスペクトしていたという。 “ギング”の姿、歌声を前にすると、一瞬でファンの立場に戻ってしまうほどだった。 1972年6月、当時25歳だった彼は、ミック・ロンソンと共にイギリス(ヒースロー空港)からニューヨークに向けて出発した。 目的はエルヴィスのショーを観るためだった。 昼の便に乗り“キング”の登場にちょうど間に合うようにマディソンスクエアガーデンに到着するつもりだったが、飛行機の都合で少し遅れて到着した。 二人が会場に入ると、ショーはもう始まっていたという。 当時、デヴィッド・ボウイはエルヴィスと同じレコード会社(RCA)に属していたため、彼らには特等席が用意されていた。 エルヴィスが「Proud Mary」を熱唱している最中に、厚底のロンドンブーツを履いて、髪の毛を真っ赤に染めたデヴィッドが“ジギー”の格好で入ってきたものだから、客席はざわめき、ショーは中断されたも同然だったという。 後年、デヴィッドはその日のことをこんな風に語っている。 「僕には..
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イヴ・モンタンを偲んで〜34年間連れ添った最愛の妻と眠る墓地に、元恋人のエディット・ピアフも埋葬されている偶然と運命

1991年11月9日、フランスを代表する俳優・歌手として活躍したイヴ・モンタンがこの世を去った。 遺作となった映画『IP5/愛を探す旅人たち』の撮影直後に心臓発作で倒れ、パリから約40マイル北にあるサンリスという静かな町の病院で息を引き取ったという。 シャンソンの女王エディット・ピアフにその才能を見出され、一時期は彼女の恋人でもあったイヴ・モンタンが歩んだ人生をご紹介します。 1921年、彼はイタリアのトスカーナ州ピストイア県にあるモンスンマーノ・テルメという小さな町で産声をあげた。 農民だった彼の父は強固な共産主義支持者で、母は敬虔なカトリック教徒だった。 彼が2歳の頃、ムッソリーニのファシスト政権から逃れるために、一家はフランスのマルセイユに移り住む。 家庭が貧しかったこともあり、彼は11歳から働き出したという。 港で働いたり、美容師の見習いやトラック運転手など職を転々とし、18歳の頃からマルセイユの小劇場やキャバレーで歌い始める。 1944年、23歳となった彼は歌手での成功を夢見て単身パリに移り住む。 程なくしてその才能をエディット・ピアフに認められ、スターへの階段を駆け上ってゆく。 パリの老舗キャバレー“ムーラン・ルージュ”のステージにピアフの前座として出演するようになり、その名を知られるようになる。 当時既にスター歌手だったピアフは、彼を一流のシャンソン歌手に育て上げるための“特別なレッスン”を始める。 まずはジャズやポップス系といったアメリカ音楽から影響を受けていた彼の歌唱法とカウボーイファッションをやめさせ、口に鉛筆を喰わえさせて訛りを直したという。 一から歌を訓練して、一緒のステージに立たせて、彼にスター歌手としての“いろは”を教え込んだ。 そのやり方は、パリの名門クラブのオーナーだったルイ・ルプレがピアフの才能を見出し、作詞・作曲家のレイモン・アッソが厳しい特訓によってピアフを一流歌手に育て上げた手法と同じだった。 一つだけ違っていたのは…ピアフとモンタンは師弟にして恋愛関係にあったと言うところだった。 彼女は映画『枯葉〜夜の門〜』(1945年公開)にイヴ・モンタンを推薦し、映画の成功を願って2年間も酒を絶つまでして彼に入れ込んでいた。 彼女の願いは叶い、映画の主題歌は大ヒットを記録。 モンタンが世界的なスターになった頃「もはや彼には自分が必要..
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防人の詩〜さだまさしが万葉集を基にして紡いだ究極の反戦ソング

尊い命、そして平和への想いを込めて…今日は、さだまさしの名曲「防人の詩」をご紹介します。 この歌は日露戦争の旅順攻囲戦における日露両軍の攻防を描いた東宝映画『二百三高地』の主題歌として1980年7月10日に発売された。 海、山、空、季節、そして人間…すべてのものに宿る生命の限り、命の尊さを切々と歌い上げたその歌詞は奈良時代の末期に成立したと言われている『万葉集』の第16巻第3852番に基づいて作られたという。 鯨魚取 海哉死為流 山哉死為流 死許曽 海者潮干而 山者枯為礼 鯨魚(いさな)取り  海や死にする  山や死にする  死ぬれこそ  海は潮干て  山は枯れすれ (大意:海は死にますか?山は死にますか?いいえ、海も山も死にます。死ぬからこそ潮は引き山は枯れるのです) この曲を発表した当時、さだはまだ28歳だったというから驚きだ。 「〜は死にますか」と何度も繰り返し問いながら悲痛な想いを歌ったその曲は、幅広い年齢層に感銘を与え、オリコン最高順位2位、1980年度オリコン年間順位18位という記録を残した。 映画の中で効果的に使われ多くの感動を呼んだこの歌。 さだ本人は“反戦ソング”として創作したものだったが… 映画の内容を「どんなに犠牲が出ても自衛のために開戦はやむを得ない、悲惨な戦争だったが結果は勝利だ」と解釈する人もいて、ある方面からは「これは戦争肯定映画だ!」という風評が公開前から広まってもいたという。 映画の内容は、あくまで戦争に突き進んでしまった当時の風潮を描いたのであって、それが正当とした当時の政治について肯定などしておらず、むしろそうした時代や体制に対して批判の意図が込められていた。 しかし、歌がヒットすると同時に「さだまさしは右翼歌手だ!」とバッシングを受けることとなる。 さだはあるインタビューで当時を振り返って、こんな言葉を残している。 「あの歌は、人間の命の尊さや愛おしさを歌いたかったんですよね…。それを逆説的に映画の殺戮シーンで歌えば上手く伝えられると思ったんです。ところが一部からは浅い理解でしか取られませんでした。だったら“戦争反対”とストレートに歌った方がいいのかな?とも思いましたが…それでは僕の美学が許さないんです。だから、あの事に関しては“美学の違い”としか言いようがないんですね。僕は理論武装してまで歌を作りたくはないですし、歌って..
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ジョニ・ミッチェルが恋した詩人レナード・コーエン

ローリング・ストーン誌『The 500 Greatest Albums of All Time』において、女性ソロアーティスト最高位(30位)に選ばれたジョニ・ミッチェルのアルバム『Blue』。 カナダからニューヨークに移り住み、24歳でデビューした彼女。 “恋多き女”と呼ばれた彼女が1971年(27歳)に放った、この名盤のオープニングを飾る「All I Want」の歌詞にはこんな言葉が並ぶ。 一人で旅をしているの、自由になる鍵を探して… 嫉妬と貪りの糸はほどけない ジュークボックスのある安酒場でストッキングを破りたいわ それは、彼女と同じカナダ出身のレナード・コーエンとの恋を赤裸々に綴った歌だった。 ミッチェル(当時23歳)とコーエン(当時32歳)が出会ったのは、1967年の夏、ニューポート・フォーク・フェスティバルのバックステージだった。 ジュディ・コリンズが開催したソングライターのワークショップで、二人は初めて顔を合わせる。 「レナードと出会った時、私は彼にこんなリクエストをした。“基本的に私は教育を受けていないから、あまり本も読んでこなかったの。こういうものを読んだらいいっていうリストを作ってくれない?”」 レナードはミッチェルの曲を聴いて、こんな風に答えたという。 「君の曲は十分素晴らしいものだし、君が読書をすることでそのオリジナリティーが損なわれる可能性もある。」 しかし、ミッチェルが“どうしても”とせがんだため、結局コーエンは彼女のためにリストを作って渡すこととなった。 そのリストの中には、スペインを代表する詩人/劇作家のフェデリコ・ガルシア・ロルカ、フランスの小説家/劇作家のアルベール・カミュ、そして後にミッチェルが“生涯の友”と呼ぶこととなった古代中国の易経の書物なども含まれていたという。 「彼の洗練されたスマートさはとても魅力的だったわ。彼の持っている教養や世界観の深さは、自分がこれまでの経験からどれだけ豊かなものを掘り出して音楽に反映させることができるか?その可能性を示してくれたの。」 ミッチェルは出会った時のコーエンの印象を、自身の2ndアルバム『Clouds(青春の光と影)』(1969年)に収録した「That Song About the Midway」の歌詞にしたためている。 彼はまるで黒人の男の子が耳につけているルビーみたい..
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レナード・コーエンを偲んで〜ジョニ・ミッチェルとの“短い恋”そして“長い友情

2016年の11月7日に82歳でこの世を去ったレナード・コーエン。 晩年の彼はガンでの闘病生活を続けていた。 健康状態の悪化にも拘らず、彼は死の間際まで精力的に音楽活動を続け、亡くなる前月の10月にリリースされたニューアルバム『You Want It Darker』の他にも2つの音楽プロジェクトと詩集の刊行を予定していたという。 1934年にカナダのモントリオールで生まれた彼が“詩人”としてのキャリアをスタートさせたのは大学時代だった。 カナダの名門公立大学に通いながら詩を書き始める。 在学中、意外なことに彼の成績は英文学が最悪で、逆に数学が得意だった。 さらにディベートに関しての彼の能力は学内でも最高レベルだったという。 この頃から彼はギターを弾きながら詩の朗読を始めている。 1956年、卒業を目前にした22歳の彼は、初の詩集『Let Us Compare Mythologies(神話を生きる)』を出版。 しかし、地元モントリオールを中心とする狭い範囲での活躍に物足りなさを感じていた。 そして彼は、シンガーソングライターとしてのプロデビューを目指し、ビート文化の中心地ニューヨークへと旅立った。 コロンビア大学に入学した彼は、ビート族たちが集まるカフェに入り浸るようになったものの、最後までそこに馴染むことはなかったという。 彼のような名門出のお坊ちゃんを、筋金入りのビート族たちは受け入れてくれなかったのだ。 結局モントリオールに戻った彼は、ジャズバンドをバックに“詩の朗読をする”という新しいスタイルに挑戦した。 しかし、詩人としても朗読者としても、それ以上の活躍や収入は望めず、一時は父親の会社で工員として働く日々を過ごした。 その後、当時のガールフレンドと数年間ギリシャのイドラ島という小さな島に住み着くようになる。 そこは水道設備すら整っていない不便な島だったが、いつしか作家や画家、詩人たちが住み着き始め、後にはアレン・ギンズバーグやブリジッド・バルドー、ソフィア・ローレン、ついにはケネディー一族までもが訪れることになる有名人達の隠れ家的存在となった。 4作目の詩集『Parasites of Heaven』(1966年)に収められた「スザンヌ」が同年11月、ジュディ・コリンズによってカヴァーされる。 それがコロムビアレコードでボブ・ディランのプロデューサーを務めて..
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