夕陽のガンマン〜悪を裁くのは正義でもヒーローでもない。悪を始末するのは“成熟した流れ者”だ。
いつの時代にもやりたい放題の悪というものが存在して、それが謙虚に慎ましく暮らす人たちの脅威となる。正義を掲げて対抗する者もいるが、そのほとんどが邪悪な力によって虫けらのように片付けられてしまう。そんな時、待望のヒーローが突如現れて何もかもを解決する……これまで多くの映画やドラマやコミックで描かれて来た世界だ。勧善懲悪的な結末に、観る側のどんよりとしていた気分も晴れ渡る。
でも現実はそうだろうか? 絵に描いたようなヒーローなど存在するわけがないし、悪特有のずる賢さのもとに、次々と正義が買収されていくのは歴史が証明している。例えば、立派な志を抱いた若き政治家がやがて権力と金に溺れていく羽目を見てきたはずだ。正義が悪に生まれ変わるのは別に珍しくもない。
ではこのどうしようもない世の中に根付く悪を、一体誰が対処するのか? 『夕陽のガンマン』(FOR A FEW DOLLARS MORE/1965)は、そんな疑問に答えてくれる。悪を裁くのは正義でもヒーローでもない。悪を始末することができるのは“流れ者”だということを。50年以上前に作られたこの映画が教えてくれる。
この作品はイタリア製の西部劇、いわゆる「マカロニ・ウェスタン」と呼ばれるものの中でも屈指の名作として再評価されてきた。60年代後半には年間約30本以上もの「マカロニ・ウェスタン」が量産されていたというが(本場ハリウッドでも年間10数本)、そのブームのきっかけとなったのがこの本作だった。
後に『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェスト』や『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』を残すことになる巨匠セルジオ・レオーネのキャリア初期の傑作でもある。クローズアップやフラッシュバックを多用して、顔の表情と目の演技に拘りを見せる監督だ。主演したクリント・イーストウッド(当時35歳)も、この映画の現場では多くを学んだという。
物語の冒頭20分は、二人の流れ者のそれぞれの描写にあてられる。クールな凄腕の賞金稼ぎとして町から町へとさまよう姿。モーティマー(リー・ヴァン・クリーフ)とモンコ(クリント・イーストウッド)はまだ出逢っていない。賞金稼ぎが決して正義ではないのは、彼らの立ち振る舞いからも分かるだろう。汽車は勝手に止めるわ、ホテルの部屋を強引に空けさすわ、子供からの情報を金で買うわ、自由すぎる。しかし、弱き者に対する..