2021-11

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アルバム復活の時代は来るのか?〜世界のベストセラーアルバムリスト

2015年グラミー賞の授賞式で、今は亡きプリンスが「“アルバム”って覚えてる?」と皮肉を放って歓声と拍手を浴びたことがあった。【アデルの輝きと歌の力──時代を超えた1000万枚以上ベストセラーアルバムの変遷】では、CDやアルバムが以前より売れなくなった今の時代、例外的にアデルの『21』がビッグセールスを記録したことについて触れた。彼女の個人体験に基づいた失恋アルバムとも言われるその作品は、「歌の力、音楽の繋がりや物語を放つ作品は、やはり時代を超える」ということを教えてくれた。 そして、2015年11月20日にリリースされたアデルの新作『25』の初週売上が300万枚を超え、アメリカでの新記録を樹立した。「アルバム不況」と言われる現在においてこれは奇跡的な出来事だ。今回はそれに因んで世界編をまとめてみた(前回は全米編)。ここでは2000万枚以上を売った、世界中の人々に愛聴されたアルバムたちの足跡を辿りたい。 *このコラムは2015年2月24日に初回公開されたものに、下記データを更新(2021年11月)したものです。 まずはトータルでのトップ10 ❶7000万枚/マイケル・ジャクソン『Thriller』(1982) *1億3000万枚説あり ❷5000万枚/ピンク・フロイド『The Dark Side of the Moon』(1973) ❷5000万枚/AC/DC『Back in Black』(1980) ❹4500万枚/ホイットニー・ヒューストン『The Bodyguard』(1992) ❺4400万枚/イーグルス『Their Greatest Hits (1971–1975)』(1976) ❺4400万枚/ミートローフ『Bat Out of Hell』(1977) ❼4200万枚/イーグルス『Hotel California』(1976) ❼4200万枚/サウンドトラック『Dirty Dancing』(1987) ❾4000万枚/フリートウッド・マック『Rumours』(1977) ❾4000万枚/ビー・ジーズ『Saturday Night Fever』(1977) ❾4000万枚/シャニア・トゥエイン『Come On Over』(1997) 続いては各時代別 【1950/60年代】 ●3200万枚/ビートルズ『Sgt. Pepper’s Lonely Heart..
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ウィルコ・ジョンソン27歳〜ロンドンのパブロックシーンを席巻したドクター・フィールグッド

70年代初頭からイギリスのパブロック・シーンを牽引し、後のパンク・ロック・ムーブメントの火付け役となったドクター・フィールグッドから始まり、ソリッド・センダーズ、ザ・ブロックヘッズ、そしてソロ名義での活動と、長いキャリアを通してロックシーンの大きな足跡を残してきたウィルコ・ジョンソン。 “マシンガンギター”の異名を持つ彼のピックを使わない鋭いカッティングとリードを同時に弾く奏法は、世界中で数多くのフォロワーを生み、世代を超えてリスペクトされ続けている。 彼は27歳の頃にどんな日々を過ごしていたのだろう? 1947年7月12日、彼はイギリスのエセックス州キャンベイ・アイランドで産声をあげた。 ガス工事業者の父と元看護婦の母親の間に生まれた3人兄弟の長男だった彼は、幼少期にあまり親からの愛情を受けることなく育ったという。 十代の頃に楽器店でフェンダーテレキャスターを買ったことをきっかけに彼は音楽にのめり込むようになる。 学生時代にバンドを結成し地元の労働者向けのパブなどで演奏していたが、成績優秀だった彼は、ニューカッスル大学で英文学を学ぶために地元を後にし、しばらくギターから遠ざかる。 教師になる夢を抱いていた彼は、在学中(1968年・当時21歳)にティーンエイジャー時代からのガールフレンドと結婚し2人の息子をもうける。 大学卒業後、ヒッピーとしてインドとネパールを放浪し…帰国後、地元の高校で母国語教師をしていたが、1971年(当時24歳)リー・ブリローやジョン・B・スパークスに誘われドクター・フィールグッドを結成する。 ──それはバンド結成から3年目の頃だった。 ウィルコ・ジョンソンは27歳だった当時のことを鮮明に憶えているという。 「ロンドンのパブロックシーンが盛り上がっているという話は俺達の耳にも入っていたよ。単にビールを提供するだけでなく、客にいいバンドの音楽を楽しんでもらうことに重きを置いたパブが増え、新たなライブスポットとして機能し始めていたんだ。すでにその名が知られていたマーキーや100クラブに加え、ディグウォールやホープ&アンカーなどが人気だったよ。」 こういったパブでライブを行なっていたミュージシャンの中には、有名どころも多く、出演者の音楽性は多様を極めていたという。 ロック、カントリー、ジャズ、伝統音楽…質の高いバンドのパフォーマンスも聴けたが、..
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Woodstock 〜ジョニ・ミッチェルが60年代“最後の夏”に捧げた鎮魂歌

神の子に出会った 彼は歩いてどこかへ行く途中 どこに行くのかと尋ねると 彼はこう言った ヤスガー農場に行くんだよ そこでロックンロールバンドに加わり 自然の中でキャンプをして 魂を解放しようと思ってるのさ 「“自分は行けなかった”という喪失感が、ウッドストックに対する強烈な観点を私に与えてくれたのよ」 当時、あるインタビューでジョニ・ミッチェルが語った言葉である。 この歌を書いた彼女は、ウッドストックのステージには立っていない。 TV出演があった為、その場にも行ってはいないのだ。 では彼女は、この歌をどのようにして紡いだのだろう? 当時、このフェスに出演していたグラハム・ナッシュ(クロスビー,スティルス,ナッシュ&ヤング)と恋仲だった彼女は、彼からフェスの様子を聞きつつ、ニューヨークのホテルの部屋でフェスについて報道するテレビを見ながらこの歌を書き下ろしたのだという。 また、この歌はフェスの翌年に公開されたドキュメンタリー映画『ウッドストック 愛と平和と音楽の3日間』でクロスビー,スティルス,ナッシュ&ヤングが“テーマ曲”としてカバーしシングルヒットとなった。 それは60年代最後の夏の出来事だった。 “平和と音楽の3日間”と言われたウッドストック・フェスティバル(Woodstock Music and Art Festival)は、当時のアメリカのヒッピー文化を象徴する巨大な野外コンサートとなった。 その“約束の地”には、主催者側が予想した20万人を大きく上回る50万人もの観客が全米各地から集まった。 もともとはボブ・ディランら多くのアーティストが住んでいたニューヨーク州にあるアルスター郡の“ウッドストック”というリゾート地で行われる予定だったが、直前になって住民や市当局の反対で同州サリバン郡ベセルにあるヤスガー農場に変更されたという。 8月15日(金)の午後5時7分からスタートしたリッチー・ヘブンスのステージで幕を開け、最終日とされていた17日(日)の日付を越えて18日(月)の朝方に登場したジミ・ヘンドリックスがパフォーマンスした(あの有名な!)アメリカ国歌「星条旗よ永遠なれ」を最後にステージから降りるまでの3日半に及んだ。 主な出演者は、ジョーン・バエズ、サンタナ、ジャニス・ジョプリン、ジョー・コッカー、ザ・バンド、スライ&ザ・ファミリー・ストーン、グレイト..
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グリーンブック〜黒人天才ピアニストとイタリア系用心棒が“南部”を旅するロードムービー

2019年2月下旬に行われた第91回アカデミー賞の授賞式。作品賞に輝いたのは『グリーンブック』だった。同部門で有力視されていたスパイク・リー監督の『ブラック・クランズマン』や黒人ヒーローを描く『ブラックパンサー』を抑えての受賞に一部批判があったようだが、本作は人種差別問題を描きつつ、あくまでも“人間の尊厳”を描こうとした点が支持された。 と書くと、何だか難しい作品に思えるが、ストーリーは至ってシンプル。観ているうちに心がジワジワと温まってくる実話だ。実在した黒人ピアニスト(ドン・シャーリー)とイタリア系の用心棒(トニー・バレロンガ)が、キング牧師が先導した公民権運動真っ盛りの1962年、自分たちのいるニューヨークからディープサウスと呼ばれる人種差別が激しい南部へコンサートツアーを巡るというもの。 1930年生まれのトニー・バレロンガは、トニー・リップという名で親しまれた下町ブロンクス出身のイタリア系。『グッドフェローズ』などマフィア映画を中心に俳優としても活躍した人。 60年代前半にNYの一流ナイトクラブ「コパカバーナ」で最強の用心棒として働いていた頃、店が改装のため閉店。失業で職を探しているところに、ドン・シャーリーの仕事が舞い込んだ。裕福ではないが、妻や息子たちなどファミリーの結束を大切にするバレロンガ。しかし言葉遣いが荒く、黒人に対する偏見が拭い切れない。 一方、1927年生まれのドン・シャーリーはジャマイカ系。わずか9歳でレニングラード音楽院に学び、クラシック音楽の英才教育を受けてきた。「神の域の技巧」と絶賛され、18歳でボストン・ポップス・オーケストラをバックにピアニストとしてコンサートデビュー。1955年には『Tonal Expressions』でレコードデビューも果たし、ビルボードチャートで14位を記録。 多言語を話し、音楽や心理学の博士号を持つシャーリーは知性と教養に溢れていた。カーネギー・ホールの上にある高級アパートに執事を雇って独り暮らし。ケネディ大統領からホワイトハウスに招かれて演奏するほど北部の都会ではVIP扱い。 だが、黒人であるという理由だけで「クラシックの世界で芸術家として名声を得ることは困難」な状況に直面し、ジャズやポピュラーを取り入れたピアノ・チェロ・ベースのトリオ編成で「エンターテイナー」路線をレコード会社から強いられている。ちな..
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正しい作品名は?ラッセンより普通にゴッホが好きなら分かるクイズ

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雨の歌〜Have You Ever Seen the Rain(雨を見たかい)

♪「Have You Ever Seen the Rain(雨を見たかい)」/クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル 晴れているのに雨が降るんだ 雨のように光って落ちてくるんだ ねえ、知りたいんだよ 君はその雨を見たことがあるの? ねえ、知りたいんだよ 君はその雨を見たことがあるの? この「Have You Ever Seen the Rain」(1971年)は、60年代末から70年代前半にかけてアメリカが介入したベトナム戦争の頃にリリースされた。 当時、アメリカ政府はこの歌を放送禁止にした。 その理由は、この歌がベトナム戦争で使われた無差別大量殺戮兵器・ナパーム弾を連想させるためだった。 ナパーム弾が落下するときに、空気との摩擦で、雨粒のように青白く輝くということに由来しているからだという。 水のようにきらめきながら“降り注ぐ雨(the rain)”にも見えるナパーム弾(ゲル化油脂焼夷弾)のスラングとして取られ、当時のアメリカ人、そして兵士達が持ち始めていたベトナム戦争に対する疑問の気持ちや、罪の意識を代弁することになった。 だが、作詞作曲者のジョン・フォガティは1997年にオフィシャル・ウェブサイトで次のように発言し、反戦歌であることを否定している。 バンドのメンバーだった弟トムの突然の脱退宣言を「(いきなり降ってくる)雨」に喩えたという説である。 「このこと(現象)はベイエリアでは他の地区よりもよく起こるんだ。陽が照っているのに雨が虹と雨粒が降ってくることがある。風が吹くと雨が金門橋を越えてサンフランシスコ湾に飛ばされて来るんだ。『雨を見たかい』はCCRの崩壊についての歌なんだ。“Have you ever seen the rain coming down, sunny day?”の部分は、sunny dayが黄金時代のクリーデンスを示唆している。しかし、ぼくたちに雨が降り掛かって来るのが見えたということを言っているんだ。」 その真偽は謎のまま…現在も多くの人たちは、ベトナム戦争を歌ったものだと信じている。 曲の発売から30年後…2001年4月4日に“最後のナパーム弾”が処分された。 その後もアメリカ軍がナパーム弾や、これに代わる非人道的な無差別大量殺戮兵器をアフガニスタンやイラクで使用したとの報道もあった。 アメリカ国防総省の公式見解は「ナパームの..
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失われた週末〜人はなぜアルコールや薬物やギャンブルに依存するのか?

前回の『酒とバラの日々』(1962)では、アルコールに深く溺れて何もかもを失っていく男と女の姿、それでも現実を直視しながら未来のために生きようとする人間の尊厳について考えた。 酒、薬物、ギャンブル……もう一度記しておこう。人はそれに取り憑かれてしまうとどうなるのか? 自己嫌悪に陥るたびに、自己再生を誓う。にも関わらずそれを得るためなら周囲に嘘をつき、自分を哀れみ、正当化し、大切な人を裏切る。仕事や金を失い、家庭やロマンスを失い、時間と健康を失い、信頼と未来を失い……得るものといえば、卑劣な思考と悪夢のような幻覚、そして人生に対する不安だけだ。 やめたくてもやめられない。暗闇の中をずっと手探りで浮遊しながら彷徨うこの状況。人間的成長が一時停止されているこの苦境。そこは出口のない迷路。圧倒的な孤独な世界。抜け出す方法はただ一つ。光を見たければ、結局は自らの意思で壁をぶち壊すしかない。 アルコール依存症と真正面に向き合った最初の映画『失われた週末』(The Lost Weekend/1945)にも、そんな葛藤と苦悩を繰り返す男の姿が描かれていた。 舞台はニューヨーク。主人公ドン・バーナム(レイ・ミランド)は33歳で小説家。と言ってもそれで生計を立てているわけでもなく、書いている様子が一向にない。もちろん収入もあるはずがなく、早い話が兄のアパートに転がり込み、援助を受けながら居候している身だ。そして酒がないと生きていけない極度のアル中でもある。 この週末、兄の計らいで旅行に発ち、自然の中で酒のない生活を送る予定でいる。しかし荷造りをしながら、ドンは窓の外に隠してある酒のボトルが気になって仕方がない。恋人のヘレン(ジェーン・ワイマン)はそんなドンを献身的に支え、自分の問題のようになって考えてくれる天使のような存在。それでもドンは旅行や恋人より酒を選ぶ愚かな選択をする。 行きつけのバーでツケで飲もうとする。断られると、書き手の命であるタイプライターを質に入れようとする。金がないので、人の持ち物に手を出す。他人から金を借りる。悪循環が尽きた時、アル中専門の病棟に隔離されているドン。他の患者の様子を見て怖くなり逃げ出すものの、アパートでは遂に幻覚に襲われる。どうしても酒がやめられない。ドンは自殺することを決断するのだが、そこへヘレンが戻ってくる……。 どうしようもない姿に苛つく人も..
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Lullaby of the Leaves(木の葉の子守歌)〜アメリカのポピュラー音楽の礎を築いた“ティン・パン・アレー” から生まれた名曲

何万という星が見下ろす南部の空の下で 僕をゆりかごに眠らせて歌っておくれ 木の葉よ…子守唄を歌っておくれ この「Lullaby of the Leaves(木の葉の子守歌)」は、今から85年前の1932年にジョー・ヤングの作詞、そして女性作曲家のバニーズ・ペトカーの作曲によって作られた楽曲である。 バリトンサックスの名手ジェリー・マリガンのレパートリーとしてジャズファンから愛され、1962年にベンチャーズがリバイバルヒットさせたことで日本人にも広く知られるようになった曲だ。 もともとは19世紀末から20世紀前半のアメリカのポピュラー音楽の礎を築いた“ティン・パン・アレー(Tin Pan Alley)”が楽譜出版したものだった。 当時、アメリカのポピュラー音楽の多くがミュージカルや映画のために製作されていた中、この楽曲は(珍しく)商業的な絡みもなくラジオ番組で演奏されたのが初出だったという。 このメロディーを作曲したバニーズ・ペトカーと言えば、シカゴ出身で主に1930年代に活躍した音楽家。 彼女は5歳からシカゴのボードビル(流行歌入りの軽喜劇)で歌い、98年間の生涯をショウビジネスに捧げた人だった。 1931年、ニューヨークのジャズバーでピアノを弾いていたところをアーヴィン・バーリンに見出される。 それをきっかけにビング・クロスビーの曲を書いたところ、立て続けにヒットを記録し、一躍売れっ子作曲家となる。 彼女はいつしか“ティン・パン・アレーの女王”と呼ばれるようなり、多くのミュージカルや映画作品に関わってゆく。 アメリカのポピュラー史に必ず登場する“ティン・パン・アレー”とは一体なにを指す言葉なのだろう? レコードが一般に広く浸透する前の時代、歌は楽譜の形で流通し、アメリカでは大衆音楽の楽譜が飛ぶように売れたという。 流行歌の出版競争は音楽産業を一気に活性化させ、その後のアメリカ大衆音楽の基盤を築くこととなる。 ニューヨークのブロードウェイと五番街にはさまれた通りの一帯は、19世紀末から楽譜(シートミュージック)を売る店が軒を並べ、ポピュラー音楽の出版社が集まっていた。 人々はその一帯を“ティ ン・パン・アレー”と呼び、後にアメリカの大衆音楽業界の通称として使われるようになった。 そこで楽曲の制作から出版・流通までを掌握していたのが、東欧にルーツをもつユダヤ系移民..
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過去1カオスになるんじゃない…?チャンピオンだらけの『ドキュメンタル』シーズン10。あなたの予想は誰?

12月3日にAmazon Prime Videoから独占配信される『HITOSHI MATSUMOTO Presents ドキュメンタル』シーズン10。今回は歴代の王者が集まるチャンピオンシップで、過去一番レベルの“笑わせ合いバトル”になりそうです…! View Entire Post ›
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デビュー作『レス・ザン・ゼロ』で新世代の代弁者に祭り上げられた20歳の大学生

「ロスのフリーウェイって、合流するのが怖いわね」 1985年。そんな台詞から始まる小説『レス・ザン・ゼロ』が発表された。20歳の大学生ブレット・イーストン・エリスが書いたこの作品は、たちまち大きな話題を呼んだ。 NYタイムズは「こんな不穏な小説を読むのは実に久しぶりのことだ」と困惑し、保守的で辛口のニューヨーカー誌は「実に完成度の高いデビュー作」と絶賛。LAタイムズが「これこそ現代の『ライ麦畑でつかまえて』だ」と言えば、ニューズウィーク誌は「『プレッピー・ハンドブック』の汚れた裏の部分」と書いた。 また、淡々と話が描写されていくだけの文体や結局最後まで大したことも起こらない点が「MTV感覚」と呼ばれた。TVモニターから何となく流れているミュージック・ビデオのクールさや虚無感と似ていたからだ(小説には無数のポップソングやアーティスト名も出てくる/文末にまとめ)。 エリスは一躍、アメリカの新しい世代の代弁者に祭り上げられた。それは「ニュー・ロスト・ジェネレーション(あらかじめ失われた世代)」と呼ばれ、新しい感覚を持った書き手たちが続々と衝撃的な文学作品を発表するようになる。1920年〜30年代に「ロスト・ジェネレーション(失われた世代/迷える世代)」と称された作家たち(フィッツジェラルドやヘミングウェイなど)がいたが、まさにその再構築的なムーヴメントだったわけだ。 中でも『レス・ザン・ゼロ』はベストセラーを記録し、LAを舞台にした“カジュアル・ニヒリズム”の金字塔的作品として知られることになった(1987年には映画化)。なお、日本語訳版は中央公論社より1988年に刊行されて92年に文庫化(その後2002年にハヤカワ文庫に移行/中江昌彦訳)。 物語は、語り手の18歳のクレイが東部の大学からクリスマス休暇で故郷のLAに戻って来るところから始まる。冒頭の恋人ブレアの台詞から、この物語が何かとてつもない力を秘めているという予感がしたことを覚えている。 登場人物の多くが映画界の重役の子弟たちで、みんなプール付きの豪邸に住んでいたり高級車を乗り回しているようなリッチに環境にいる。主人公のクレイは恋人ブレアや親友ジュリアンらとその場限りのような空虚な会話を交わしながら、パーティ、ドラッグ、音楽、セックス、クラブ、レストラン、ビーチといった行動や場所を延々とループ(繰り返す)。そこに若..
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レス・ザン・ゼロ〜青春文学と映画に衝撃を与えたカジュアル・ニヒリズムの極致

1980年代後半、日本でもちょっとした話題になったアメリカ発の新しい文学の動きがあった。それは「ニュー・ロスト・ジェネレーション(あらかじめ失われた世代)」と呼ばれ、新しい感覚を持った書き手たちが続々と衝撃的な小説を発表するようになった。この動向は当時、トラベル作家の故・駒沢敏器さんが編集者で参加していた頃の雑誌『Switch』が積極的に紹介していた。 アメリカには1920年〜30年代に「ロスト・ジェネレーション(失われた世代/迷える世代)」と称された作家たち(フィッツジェラルドやヘミングウェイなど)がいて、まさにその再構築的なムーヴメントだったわけだ。 ジェイ・マキナニーの『ブライト・ライツ、ビッグ・シティ』はNYを舞台にした20代のための甘い生活を描いた救済物語だったが、今回紹介するブレット・イーストン・エリスの『レス・ザン・ゼロ』はLAを舞台にした10代のための“カジュアル・ニヒリズム”の金字塔的作品。 1985年に刊行(日本訳版は1988年)されてベストセラーになった本作は、語り手の18歳のクレイが東部の大学からクリスマス休暇で故郷のLAに戻って来るところから始まる。書き出しの「ロスのフリーウェイって合流するのが怖いよね」という恋人ブレアの台詞から、この物語が何かとてつもない力を秘めているという予感がしたことを覚えている。 登場人物の多くが映画界の重役の子弟たちで、みんなプール付きの豪邸に住んでいたり高級車を乗り回しているようなリッチに環境にいる。主人公のクレイは恋人ブレアや親友ジュリアンらとその場限りのような空虚な会話を交わしながら、パーティ、ドラッグ、音楽、セックス、クラブ、レストラン、ビーチといった行動や場所を延々とループ(繰り返す)。そこに若さの特権とも言える前向きな姿勢や欲望など一切ない。あるのは金と時間だけだ。 多発する犯罪や売春といったLAの汚れた光景や、冷め切った関係の両親や妹たちのせいか、クレイは女の子たちを見ると、“あいつも売りに出ているのか”と思わずにはいられない。そして仲間たちの最悪の事態を期待している自分もいたりする。恋愛にも深入りしない。好きにならなきゃ、苦しまなくてすむ。嫌な思いなんかしたくない。 その反面、高校時代のことや祖父母との想い出は純粋すぎるほど大切に回想もできる。そんな現実と過去を行ったり来たりしながら、クレイは何も..
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デヴィッド・ボウイが憧れのエルヴィスからもらった手紙

──1950年代の中頃、アメリカはもちろんのこと、イギリスの女性たちもラジオから次々と流れてくるエルヴィス・プレスリーの声に心を奪われていた。 デヴィッド・ボウイの母ペギーは、自分の息子の誕生日がエルヴィスと同じということから、勝手に運命的なものを感じていたという。 「母から繰り返しエルヴィスの曲を聴かされたよ。母はその勝手な思い込みのおかげで、すっかり有頂天になっていたよ(笑)」 発売されたばかりのエルヴィスの「Hound Dog」に合わせて、母や叔母が体を激しくゆらして踊る姿を見て、彼は今まで感じたことのない感覚を感じたという。 「当時8歳だった僕にとって彼の歌は衝撃的だったよ。音楽の持つパワーを生まれて初めて実感した瞬間だった。そのあとすぐにレコードを集め始めたんだ。」 その後、二十歳にしてデビューを果たした彼は、1970年以降、ギタリストのミック・ロンソンをサウンド面での相棒として迎えグラムロックへと傾倒してゆく。 1972年に発表した5thアルバム『The Rise and Fall of Ziggy Stardust and the Spiders from Mars(ジギー・スターダスト)』で、ロックスターとしての地位を確立。 当時、スターダムにのしあがろうというその時でもなお、彼はエルヴィスをリスペクトしていたという。 “ギング”の姿、歌声を前にすると、一瞬でファンの立場に戻ってしまうほどだった。 1972年6月、当時25歳だった彼は、ミック・ロンソンと共にイギリス(ヒースロー空港)からニューヨークに向けて出発した。 目的はエルヴィスのショーを観るためだった。 昼の便に乗り“キング”の登場にちょうど間に合うようにマディソンスクエアガーデンに到着するつもりだったが、飛行機の都合で少し遅れて到着した。 二人が会場に入ると、ショーはもう始まっていたという。 当時、デヴィッド・ボウイはエルヴィスと同じレコード会社(RCA)に属していたため、彼らには特等席が用意されていた。 エルヴィスが「Proud Mary」を熱唱している最中に、厚底のロンドンブーツを履いて、髪の毛を真っ赤に染めたデヴィッドが“ジギー”の格好で入ってきたものだから、客席はざわめき、ショーは中断されたも同然だったという。 後年、デヴィッドはその日のことをこんな風に語っている。 「僕には..
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私は泣いています〜あの魅惑のハスキーボイスは深酒のせいだった、不況の時代にヒットする歌の方程式とは!?

1974年、日本では田中角栄首相が「節約は美徳」と提唱し、石油ショックの影響もあり高度成長期半ばにして“待望の時代”から“忍耐の時代”へと移り変わりつつあった。 世の中に不況の風が吹くとどんな曲調が流行るのだろう? 戦後の不況時代の流行歌を調べてみると…笠置シヅ子の「買物ブギ」などのジャズっぽシャッフル系のリズムの曲が浮び上がってくるのだ。 1974年3月5日、りりィが5thシングル「私は泣いています」をリリースして85万枚の大ヒットを記録した。 プロデューサーを担当していた寺本幸司は、当時りりィを歌手としてステップアップさせるために時代とのマッチングを思案していたという。 1972年に「にがお絵」でデビューを果たした福岡県出身の20歳のハーフ美人。 魅惑のハスキーボイスで話題となり、3rdシングル「心が痛い」は有線放送のリクエストから火が着きスマッシュヒットとなった。 そんな上り調子の状況を寺本は一気に波に乗せたいと目論んでいた。 「りりィにとって今がチャンスだと思い、彼女にパッパをかけたんです。そうしたら、すぐに彼女から“曲ができたから聴いて欲しい”と連絡があり、すぐに聴かされたのがこの歌だったんです。さっそく当時のレコード会社(東芝EMI)のディレクター武藤敏史氏にも聴いてもらい、アレンジャーの木田高介氏も含めて、かねてから武藤氏と考えていた“方程式”を試すことにしたんです。」 プロデューサーの寺本とディレクターの武藤が仕掛けたこと。 それは“不況の時代にはジャズっぽいシャッフル系のリズムがヒットする”という実験でもあり、ある意味“狙った”アレンジだった。 当人だったりりィは、その頃のことをこう振り返っている。 私がギターを覚えたのは中学3年の時でした。 福岡の中洲でバーをやっていた母が亡くなって…それと同時に兄も行方不明になって。 米軍将校だった父は、私が生まれてくる前に朝鮮戦争で戦死したと聞かされてましたし…もう天涯孤独なのだから地球上のどこにいても同じという気持ちがありました。 新宿の街角でギターを搔き鳴らして歌うようになってました。 私より少し上の世代がフォークミュージック歌いながら安保闘争に闘志を燃やしていた時代です。 私は一匹狼で他のフォークの人たちと交わることもなく、路上で歌い続けていました。 そこで事務所の人に「プロにならないか?」とスカウト..
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8 Mile〜マイクを一度握ったら“裁かれる世界”を舞台にしたエミネム主演作

かつてデトロイトは、フォードやゼネラル・モーターズやクライスラーといった自動車産業の本拠地が置かれて栄華を極めていたが、1960年代に入ると人種間の摩擦が起こって暴動沙汰が発生。裕福な白人層は郊外へ逃れ、街の中心部は次第に荒廃化。80年代には産業自体が衰退して失業率や貧困率も上昇。ソウル・ミュージックを牽引したモータウン誕生の地はいつしか荒れ果てた姿に変わり、治安の悪化も問題化していく。 8マイルはデトロイトの境界線だ。俺が育った頃は人種の境界線でもあった。黒人と白人を分離する明確なラインだ。 エミネム自身が言うように、“8マイル”とはアメリカのミシガン州デトロイトに実在するストリートの名前。南側に位置するデトロイト・シティは住民の大半を黒人が占める街で、北側のウォレンは同様に白人が占める街になっていた。ヒップホップに生きる者にとってはシティは本物。郊外は偽物に過ぎない。 1972年10月生まれのエミネムは、父親のいない家庭で育ち、幼年期は生活保護を受ける母親と数ヶ月ごとにカンザス・シティとデトロイトを行き来する生活を繰り返す。転校のために友達もできず、イジメも受けるようになった。そんな14歳の時に転機が訪れる。ヒップホップに目覚めて本格的にラップを始めたのだ。 その後、レストランなどで働きながら、クラブでラップバトルに挑んだ日々をエミネムはこう回想している。 バトルに負けた時は、もう自分の持ってる世界が粉々に砕けていくっていう感じだった。「そんなの大したことない」「また挑戦すればいいだろう」って言われるけど、あの時は人生おしまいだって気がしたよ。バトルは全人生を賭けたスポーツみたいなものだ。馬鹿げているように見えるかもしれないけど、俺たちにとってはこれこそが自分の世界なんだから。 95年には娘の父親にもなり、翌年に地元レーベルからアルバムをリリースするも注目されず。デトロイトの暮らしから抜け出すことを夢見ながら苛立ちが募っていた頃、98年にリリースした自主制作テープ「ザ・スリム・シェイディ EP」(The Slim Shady EP)」がローカルヒット。ドクター・ドレーのレーベル、アフターマスとの契約を勝ち取る。 99年、27歳の時にメジャー・デビューアルバム『ザ・スリム・シェイディ LP』(The Slim Shady LP)をリリース。全米2位を記録し..
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エリック・クラプトン〜愛の告白の失敗と悲劇に取り憑かれた数年間

「人生が深刻な下降線をたどっていった時期の始まりだった」 ──エリック・クラプトンは自らの1970年の後半をそう語った。 それまでは順調なはずだった。1969年、名声を得たクリームでの活動を終えたクラプトンは、次にスティーヴ・ウィンウッドらと“スーパーグループ”のブラインド・フェイスを結成してアメリカツアーを行う。長年憧れ続けたブルース発祥の地(とりわけアメリカ南部)への音楽探究は、彼らの前座だったデラニー&ボニーとの出逢いを経て、いよいよ抑えきれないものとなっていく。 そして、本国イギリスで得た名声を捨て去るかのように、活動拠点をアメリカに移したクラプトン。1970年5月、新しい面々を迎えて放った初ソロアルバムの後、今度はデレク・アンド・ザ・ドミノスとして発表する曲作りに没頭。 しかし、順風満帆に見えた音楽活動の一方で、親友ジョージ・ハリスンの妻パティ・ボイドへの秘かな想いに長い間苦しんでもいた。それは“報われぬ愛”だと知りながらも、クラプトンの心にはいつも彼女がいた。 「彼女が、僕たちの状況を説明する歌詞がたくさん出てくるアルバムを聴けば、愛の叫びに負けて遂にジョージを捨て、自分と一緒になるんだって確信していた」 こうしてパティへの愛は、同年秋にリリースした不朽の名作『Layla and Other Assorted Love Songs』となって告白されることなるが、クラプトンの一途な想いは叶うことはなかった。 「それからしばらく一緒に暮らそうとやみくもに説得し続けたが、成果はなかった。ある日、必死の訴えが無駄に終わった後に『ジョージを捨てなければヘロインを常用する』と言った。彼女が悲しそうに微笑んだ時、ゲームは終わったと思った」 同年9月には、ジミ・ヘンドリックスがドラッグが原因でこの世を去った。同じギタリストとして、ミュージシャンとして、尊敬し合い交友もあったジミの死は、クラプトンに打撃を与えた。さらに私生児だった自分を育ててくれた祖父の死にも直面して、精神的な支えを次々と失っていく。 こうした状況の中、クラプトンは次第にドラッグやアルコールに深く溺れるようになり、現実から孤立してしまう。その影響はデレク・アンド・ザ・ドミノスの2ndアルバム制作中に最悪なものとなった。仕事がまったく手につかず、メンバー間には敵意さえ芽生え、大喧嘩の後、1971年..
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