2021-12

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音故知新①〜カントリーミュージックが生まれた場所

「カントリーミュージックのルーツをさかのぼると、アイルランドやスコットランドからアメリカ東部の僻地山岳帯アパラチアに入植した移民たちの歴史に辿り着く…」 まず、「カントリーミュージック」という呼び名は1940年代に入ってから用いられるようになったという。 日本が敗戦した第二次世界大戦後にアメリカの音楽産業は再編成され、ヒルビリーなどのマイナーな音楽もこれまで以上に全米のラジオ番組で放送されるようになる。 ところが、もともとアパラチア山脈周辺に住む山岳民に対する蔑称(差別用語)だった「ヒルビリー」という呼び方を嫌う演出家やメディアも現れ、当時はこのジャンル名をめぐる混乱がおきていた。 アパラチアンミュージック、マウンテンミュージック、カントリー&ウエスタン…その呼び方は様々だった。 カントリーミュージックの最初の商業録音(レコード作品)といえば、1923年にフィドリン・ジョン・カーソンという音楽家による「The Little Old Log Cabin In The Lane」という楽曲だと言われている。 フィドリン・ジョン・カーソンといえば、ブルースの最初のレコード作品をリリースしたオーケー・レーベルとも深く関わりのある人物である。 このカントリーミュージックとブルースの“初のレコード作品”に関しては、同レーベルのプロデューサー、ラルフ・ピアというと男が重要な役割を果たしたと言われている。 またカントリーミュージックの中心的都市といえば、一般的にテネシー州のナッシュビルを思い浮かべる人が大多数だと思うが、実は発祥地は同じテネシー州にあるブリストルという小さな町なのだ。 1927年にジミー・ロジャースやカーターファミリーが、この町にあったスタジオで録音したことをきっかけに、現在もブリストルの町はbirthplace of country music(カントリーミュージック発祥の地)と呼ばれており、今では“カントリーミュージック発祥の地同盟”なる組織も存在している。 では、何故ナッシュビルがカントリーミュージックの聖地などと言われるようになったか? それはWSMという小さなラジオ局がこの町にあったことに端を発する。 開局は1925年、このラジオ局で毎週末に生放送された『バーンダンス・ショウ』という番組の登場がカントリーミュージックをアメリカ全土に広げるきっかけをつく..
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ブルーバレンタイン〜多くの夫婦やカップルがいつか必ず直面する現実について

『ブルーバレンタイン』(Blue Valentine/2010)を初めて劇場で観た時、そのリアルさに胸が締め付けられるようになり、どうしようもない気持ちになった。そこには愛の始まりだけでなく、終わりも描かれていたからだ。 ネットでこの映画を検索すると、「これから結婚する人や結婚したばかりの夫婦は絶対に一緒に観てはいけない」と警告する人も結構いるほど。でもこれだけは言える。夫婦生活はいつまでもロマンチック・コメディとはいかない。誰にでも平等に試練やその瞬間は訪れる。 世の中には、若い男女が紆余曲折を経て結ばれるまでを描いたストーリーで溢れ返っているが、その後の続きを誰も知ろうとしない。SNSで結婚報告する人はたくさんいても、離婚報告する人は滅多にいない。だが、この映画は続きを描く。多くの夫婦が直面する現実をこれでもかと伝えてくる。 特に離婚したことのある人、あるいは大恋愛の末に別れたことのある人なら、この映画のどこかに必ず自分の姿を見つけるはずだ。カッコつけることは誰にでもできる。でもみっともないくらいカッコ悪いことは、とことん人を好きにならなきゃできないとも思う。 縮めようとすればするほど、離れていく心。 埋めようとすればするほど、深まっていく溝。 そう、あの惨めな気持ちを経験したことがあるなら、あの自己嫌悪と後悔に覆われた夜を過ごしたことがあるなら、『ブルーバレンタイン』はとっておきの映画になる。 ドキュメンタリー畑出身のデレク・シアンフランス監督は、このインディーズ映画を完成させるのに12年も費やした。その間、66回も脚本を書き直し、1224枚も絵コンテを描いたそうだ。 撮影は結婚前〜結婚後の順に進めたが、主演した二人=ライアン・ゴズリングは役のために額の毛を抜き、ミシェル・ウィリアムズはだらしなく太ってみせた。しかも監督は夫婦役の二人には「共通の想い出」が必要だと考え、実際に一ヶ月同じ家で暮らしてリアルを追求した。 物語はディーン(ライアン・ゴズリング)とシンディ(ミシェル・ウィリアムズ)の出逢い/喜び、別れ/苦しみが同時進行しながら交錯する。その対比が切なく、そのどちらの描写も静かに胸を打つ。 流れる音楽もパット・ベネターの「We Belong」やペニー&ザ・クォーターズの「You and Me」といった今どきこんな選曲あるか的なのもいい。ちなみにゴズリング..
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ラ・ラ・ランド〜“誰も知らない音楽”だからこそミュージカル映画の新たな指標になった

アメリカでは2016年末、日本では2017年2月に公開された『ラ・ラ・ランド』(LA LA LAND/2016)は、ミュージカル映画としては珍しく幅広い世代の間で話題になった。映画界に一筋の希望を与え、何の興味もなかった(敬遠や偏見含む)人々にミュージカル自体に関心を持たせ、SNSで世界へ拡散させたという意味でも「ミュージカル映画の新たな指標」的作品と呼んでもいい。 とは言え、ゼロ年代以降、スクリーンの中でのミュージカルは別に死に絶えたわけではなかった。我々はそれなりに楽しみ、感動していたはずだ。例えば、『レ・ミゼラブル』のような誰もが知る人間ドラマから、『ムーラン・ルージュ』(2001)や『マンマ・ミーア!』(2008)のような恋愛もの。さらには『ドリームガールズ』(2007)や『ロック・オブ・エイジズ』(2012)といった音楽もの。 それでも『ラ・ラ・ランド』がこんなにも騒がれたのは、この作品が過去の名作のリメイクでもなく、既存のヒット曲で綴られるジュークボックス・ミュージカルでもなく、ブロードウェイの舞台での実績が一切ない“オリジナルの曲と歌”を使用して大ヒットしたからだ。「誰も知らない音楽でいきなりミュージカル映画を作る」のは、無謀な賭けすぎる。 この死にかけたクリエイティヴを復権させたのは、自ら脚本も手掛けたデイミアン・チャゼル監督。もともと大学の卒業制作で低予算のミュージカル映画を製作したほどの愛情の持ち主。『ラ・ラ・ランド』の企画は無名時代から温めていたものの、当然無視された。ところがデビュー作『セッション』が思わぬ成功を収めて実績ができた。今度は断られる理由はなかった。作曲は学生時代からの友人ジャスティン・ハーウィッツが担当。 重要なのは、夢を追う者たちの映画を作ることだった。大きな夢を持つ二人。その夢が彼らを突き動かし、一緒にし、そして別れさせもする。 この作品の本当の素晴らしさは、「夢への挑戦とそこから生まれるロマンス」を描き出した点に尽きる。そして「二人が幸せに結ばれました」ではないリアルな結末が、多くの人々の心を打って共感を呼んだ。 現在進行形の時代を描いているのに、観る人によってはどこか懐かしさを感じられるのもいい。往年のMGMミュージカル映画の洗練さが漂う場面もあれば、フレッド・アステアとジンジャー・ロジャースのように伝説のカップルが..
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音故知新③〜こうしてR&Bが誕生した

今回の音故知新は、R&B(リズム・アンド・ブルース)のルーツに迫ります。 このジャンルは時代と共に洗練され、進化も著しく、その特徴を一言で言い表すのは難しい。 R&Bといえば、後に発展するロックンロールなどにも多大な影響を与え、現代でも様々なアーティスト達が“表現(パフォーマンス)の基礎”としている音楽ジャンルである。 黒人系大衆音楽として今や世界中で愛されているこの「R&B」という呼称は、ビルボード誌の編集者だったジェリー・ウェクスラーというユダヤ系白人の男によって作り出されたといわれている。 後にアトランティックレコードの経営者となるウェクスラーがこの呼称をつけるまでは、一切の黒人音楽は「レイスミュージック」と呼ばれていた。 1920年代のブルースのレコードにはレイスミュージックと記されており、その他ジャズやゴスペルなども含めてあらゆる黒人音楽がそのように呼ばれていたのである。 それまではビルボード誌でも黒人音楽のチャートを“レイスミュージック・チャート”として発表していたという。 しかし1947年の或る週末「もう、こういう名前で呼ぶ時代ではないだろう」「何か違う名前で呼ぼう、週末の間に皆で考えよう」と、ビルボード誌編集部で話が出たのをきっかけに、次の火曜日にウェクスラーが「R&B(リズム・アンド・ブルース)っていうのはどうだろうか?」と提案し、それが採用されたというのだ。 それともう一つ、このR&Bというジャンルの誕生にはラジオの存在が深く関わっていた。 第二次世界大戦後、全米に白人経営による黒人音楽を流すラジオ局が爆発的に増加したという。 連邦通信委員会によってそれまで規制されていたラジオ局の数が緩和されたのだ。 テレビの普及と共に、中流階級の白人を中心に“ラジオ離れ”が進む。 ラジオは少しずつマイノリティーに特化したメディアとして生き残りをかけるようになる。 小規模なラジオ局はレコードを用いた番組編成に慣れており、DJ(ディスクジョッキー)の重要性が高まっていったという。 リスナーの趣向を見極めつつ強烈な個性で番組を率いるDJが、レコードのセールスマンでありヒットを作り出すキーパーソンとなっていた。 ──それは1951年の夏の出来事だった。 オハイオ州クリーブランドで『レコード・ランデヴー』というクラシックレコード専門番組を担当していたDJアラン・フリー..
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フレディ・キングを偲んで〜“テキサスの弾丸”と呼ばれたブルースマンの偉大な足跡と功績

1976年12月28日、ブルースの“3大キング”の一人フレディ・キング(享年42)がテキサス州ダラスで出血性潰瘍と心不全のため急逝した。 B.B. キングよりも9歳年下で、アルバート・キングよりも11歳若かった彼は、250パウンド(110Kg以上)の巨体と、愛機チェリーレッドのギブソンES-345TDから織りなすダイナミックなプレイから“Texas Cannonball(テキサスの砲弾)”と呼ばれていた。[※1970年代に入ってからはギブソンES-355TDSVも愛用していた] エリック・クラプトン、デュアン・オールマン、ジェフ・ベック、スティーヴィー・レイ・ヴォーンなど、多くのギタリストに影響を与えた彼の演奏スタイルの特徴といえば、テキサス掛けと言われた(たすき掛けにしない)ストラップ、金属製のサムピックとフィンガーピックで弦を弾(はじ)く太く歪んだサウンド、そして躍動的なチョーキングだった。 彼の死後、エリック・クラプトンはこんな言葉で彼の功績を讃えた。 「フレディから教わった一番重要なこと、それは、ギターと弾き手が愛し合って一つになることさ。」 1934年9月3日、彼はテキサス州のギルマーで生まれた。 祖父はネイティヴアメリカンのチョクトー族で、彼が誕生する前、娘(フレディの母親)にこんな予言を伝えていたという。 「お前が授かる子供は、将来何百万という人々の心をかき乱し、同世代に大きな影響を与えることになるだろう。」 6歳からギターに触れるようになった彼は、母親とその兄弟(伯父)の教えでカントリーブルースを演奏するようになる。 最初はライトニン・ホプキンスやジョン・リー・フッカー、ルイ・ジョーダン、そしてB.B.キングのレコードを繰り返し聴きながら、同じタイミングで弾けるように必死に練習したという。 彼が初めて手にしたギターは、シルバートーン製のアコースティックモデルだった。 少しずつ上達していくにつれて、彼は新しいギターを手に入れたくなる。 「自分でギターを購入するために、綿摘みの仕事をしていたよ。」 次に自分で稼いだお金で彼が買ったギターは、ロイ・ロジャース製のアコースティックモデルだった。 彼が10代の頃、一家はシカゴに移住する。 1950年代初頭、時代はシカゴブルース全盛期を迎える直前だった。 ブルースの聖地となりつつあったその街で、彼は多感..
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音故知新②〜ブルースってどんな音楽?

ブルースのルーツをさかのぼると、古くは西アフリカ、そして17世紀から19世紀の間にアメリカ大陸に連行された黒人奴隷の歴史に辿り着く。 現在、我々が耳にしているほとんどのロック系サウンドには「ブルースの血が流れている」と言っても過言ではないだろう。 では、そのブルースとは一体どんな音楽なのだろう? 多くの文献では、それを「アフリカ音楽を起源とするもので、アメリカ南部の黒人達が辛い労働環境や境遇を背景に生みだした音楽」とされている。 当時、奴隷として連れてこられた彼らのほとんどがガンビア、セネガル、ナイジェリア、ガーナなど、西アフリカの海岸地域の出身だった。 もともとこの地域では、GRIOT(グリオ)と呼ばれる世襲制の音楽家が存在し、彼らが口承(口伝えで音楽を演奏・伝承)してきた音楽こそが“ブルースのルーツ”と言われている。 太古よりアフリカでは「音」と「言語」が密接に結びついており、かつては打楽器をコミュニケーションの手段として使っていた。 そこに「音調」や「音色」が加わって進化していったものが、ブルースの演奏技巧に受け継がれている。 もともとバンジョーはアフリカから持ち込まれた弦楽器であり(ウォロフ族の間でバンジョールと呼ばれていた楽器)初期のブルースのギター伴奏スタイルと西アフリカのバンジョーを指で弾くスタイルはよく似ている。 西洋の音階で言う三度の音、すなわち「ド」に対する「ミ」が、クラシック音楽の感覚で正しいとされる音程よりフラットになるブルーノートスケール(ブルース特有の音階)は、黒人がアフリカ音楽から持ち込んだ要素である。 また、当時のアメリカにおいて奴隷達はドラムやラッパの使用を禁じられたという。 それは、反乱を煽るために使われるのではないかと奴隷主たちが恐れたからだった。 では、ブルースが発祥した場所はどこなのだろう? いくつかの説がある中、ミシシッピ川とヤズー川に挟まれたこの地帯にあったアメリカで最初の綿農園ドッケリーファームが“ブルース生誕の地”とされている。 農作業の際に歌われた「ワークソング」または「フィールドハラー」と呼ばれる労働歌がブルースの原型ということは広く知られている。 それらは、過酷な労働をほんの少し我慢しやすくしてくれただけだったが、コール&レスポンス(呼びかけ応答)と呼ばれる歌詞を繰り返す手法は、やがてブルースに受け継がれる..
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音故知新⑤〜ジャズの源流を辿る旅

ジャズの起源・発祥については諸説あり、現在でもはっきりとは断定されていない。 一般的に多くの文献では19世紀末から20世紀初頭が起源とされており、アメリカ・ルイジアナ州のニューオーリンズを発祥地として南部の都市を中心に発展した音楽形式と記されている。 ニューオーリンズといえば、かつてスペインやフランスから移住した人々やクレオール(欧州系白人と黒人の混血)、そして奴隷制があった時代にアフリカから労働力として強制的に連行された人々など多種多様な人種が集まった港町で、新たな文化が生まれやすい土地だった。 20世紀初頭、アメリカでは過酷な労働を強いられた黒人労働者が怒りや苦悩、不満といった自らの感情を表現する手段として用いた音楽が労働歌=ブルースへと発展する。 これに加えて、ニューオーリンズでは“ストーリーヴィル”と呼ばれた歓楽街の酒場などで演奏されていた“ラグタイム”が人気を集め、アフリカ系の人々もトランペット、トロンボーン、クラリネットといった西洋楽器を使ったマーチングバンドによる街頭演奏を行うようになる。 ■ラグタイムについては、こちらのコラムで詳しくご紹介してます♪ 【The Entertainerを聴きながら〜“ラグタイムの王”と呼ばれたスコット・ジョプリンの偉大なる功績〜】 http://www.tapthepop.net/day/43484 当時、ニューイングランドからニューオリンズにかけてのすべての歌と旋律(賛美歌、民謡、黒人霊歌、ワークソング、ゴスペル、ブルース、ラグタイム)が混ざり合い発展・融合し“化学反応”を起こしていた。 南部地方では、これにアフリカの太鼓のリズムが織り込まれて「ジャズ(Jazz)」と呼ばれる音楽が誕生したのだ。 この太鼓のリズムこそがジャズを他の音楽と区別させる重要な特徴ともいわれている。 では、この「ジャズ(Jazz)」という言葉は、いつから使われるようになったのだろう? ──1913年、シカゴの人気者だったボードビリアン(軽演劇俳優)ジョー・フリスコがニューオーリンズでショーを開催したとき、トム・ブラウンというトロンボーン奏者が彼のバックバンドを務めるためにミュージシャンを集めた。 ジョーは、彼らの演奏のベースとされていたジャス・ミュージック(Jass Music)に感銘を受け、シカゴに帰って仲間や記者にその話をした。 この時、..
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キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン〜16歳で映画会社の重役になりすましたスピルバーグ

「映画製作に自分の金は注ぎ込むな」──早熟の天才スティーブン・スピルバーグは16歳の時に巨匠ジョン・フォードから忠告されたことを、ハリウッドで仕事するようになってからずっと守り続けることにした。そして30年後、46歳の時に遂に資産1000億円以上を持つビリオネアになった。 自分の金は一切出さない代わりに、作品の所有権は放棄する。しかし作品に対する権利は違う。自分の映画が大ヒットする保証はしないけれども、もし成功した場合は大きな取り分を与えられることを主張するのだ。映画が公開されると興行収入の5〜15%を受け取る。どんなに映画がヒットしなくても必ず金は入ってくる仕組みだ。こうして1993年(46歳)に監督した『ジュラシック・パーク』でスピルバーグが稼いだ金額は驚異の262億円。当時、一本の映画からこれだけの利益を得た者は誰もいなかった。 非凡な才能があったスピルバーグは20歳の若さでTVディレクターとなった。そして1974年に映画に進出し、翌年に監督した『ジョーズ』がそれまでの映画興行の全ての記録を塗り替える大ヒットを記録する。まだ20代後半の時だ。普通なら名声に溺れ、パーティ三昧の中で若い女優と浮かれてスキャンダル沙汰になるのがオチだろう。だが彼はハリウッド帝国の金の動きを冷静に見つめることを忘れなかった。 次作『未知との遭遇』(1977年)では決定的な学習をする。利益の17.5%を受け取る契約を交わしたものの、手にしたのはわずか5億円。いくら大ヒットした映画でも様々なコストを差し引くと、利益は残らない。そこで意味のある金とは? それは興行収入からの分配だと気づく。 有名な『E.T.』では、ビデオの売り上げからも分配を受け取る契約を結んだ。ビデオ時代が来ることを見抜いたのだ。この項目だけでスピルバーグは70億円を手に入れた。ちなみに『ジュラシック・パーク』の続編『ロスト・ワールド』(1997年)では、何と340億円を稼いだ。 『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』(Catch Me If You Can/2002)は、巨額の金を手にしたスピルバークらが1994年に設立した製作会社「ドリームワークスSKG」のヒット作の一つ。16歳という若さで大胆不敵にも世界を欺いた詐欺師フランク・アバグネイルの自伝の映画化だ。実は本作を監督したスピルバーグも同じ16歳の時、アバグネイ..
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ロッド・スチュワートの「アイム・セクシー」が日本で発売された日

1978年(昭和53年)12月26日、ロッド・スチュワートの「アイム・セクシー」(ワーナー・パイオニア)が発売された。 同年の国内ヒットソングといえば… 1位「UFO」/ピンク・レディー 2位「サウスポー 」/ピンク・レディー 3位「モンスター」/ピンク・レディー 4位「君のひとみは10000ボルト」/堀内孝雄 5位「微笑がえし」/キャンディーズ 60階建の超高層ビル「サンシャイン60」が開館、新東京国際空港(現成田国際空港)開港、24時間テレビ「愛は地球を救う」放送開始、ディスコブーム、日中平和友好条約調印、サーフィンファッション大流行して、原宿に竹の子族登場した年でもある。 「俺がこれまで書いてきた曲の中で、これほど商業的に成功したものはない。アメリカでは200万枚以上、イギリスでは50万枚が売れて世界中でヒットした。俺が行ったことのない国や聞いたことのない街でもヒットしたんだ。当時、ワーナー史上最速で売れたシングルとなったよ。その記録は6年後にマドンナの“Like a Virgin”によって破られたけどね。」 この「Da Ya Think I’m Sexy?(アイム・セクシー)」は1979年にロッド・スチュワートとドラマーのカーマイン・アピス(ハードロックの分野におけるドラミングのパイオニア)が共作した楽曲で、レコーディングにはアメリカ音楽界きっての名プロデューサー、トム・ダウドが起用された。 同曲が収録されたアルバム『Blondes Have More Fun(スーパースターはブロンドがお好き)』 日本のオリコンアルバムチャートでも2位まで上昇する大ヒットとなった。 1975年にワーナーブラザースレコードに移籍して、「Sailing」を含むアルバム『Atlantic Crossing』でアメリカ進出を果たしたロッドは、同曲によって名実ともに世界的な“スーパースター”となったのだ。 「この曲を書いた頃、俺がよく聴いていたのは1977年にデビューしたバンド、シックのアルバム“Chic(ダンス・ダンス・ダンス)”や“C’est Chic(エレガンス・シック)”だった。それとオデッセイがヒット曲“Native New Yorker”とストーンズの“Miss You”もお気に入りだったよ。特にストーンズみたいなロックバンドがディスコビートに手を出したことが俺に..
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ゴダイゴの「モンキー・マジック」が発売された日

1978年(昭和53年)12月25日、ゴダイゴの「モンキー・マジック」(日本コロムビア)が発売された。 同年の国内ヒットソングといえば… 1位「UFO」/ピンク・レディー 2位「サウスポー 」/ピンク・レディー 3位「モンスター」/ピンク・レディー 4位「君のひとみは10000ボルト」/堀内孝雄 5位「微笑がえし」/キャンディーズ 60階建の超高層ビル「サンシャイン60」が開館、新東京国際空港(現成田国際空港)開港、24時間テレビ「愛は地球を救う」放送開始、ディスコブーム、日中平和友好条約調印、サーフィンファッション大流行して、原宿に竹の子族登場した年でもある。 1978年はゴダイゴにとって大きな転機となった年である。 6月末から9月にかけて全国ツアー『Char Super Concert with Godiego in Summer』を行い、ここで彼らは初めて日本武道館のステージに立つことになった。 同年に発表したこの「モンキー・マジック」は、日本テレビ系ドラマ『西遊記』『西遊記II』のオープニングテーマとしてタケカワユキヒデが作曲を手掛け奈良橋陽子が作詞をしたもので、全部英語詞の楽曲がベストテンに入るほどの大ヒットとなったのは、当時としては極めて異例な出来事だった。 ゴダイゴのメンバーにはアメリカ人と日本人の間に生まれたスティーヴ・フォックス(Ba)と、アメリカ人のトミー・スナイダー(Dr)というメンバーが在籍していた上、北米での生活が長かった奈良橋陽子がプロデューサー兼作詞家であったことで、彼らにとって英語詞で歌うことは自然なことだったという。 歌詞の内容は、一匹の猿 (monkey) が仙術(魔法=magic)で好き勝手なことをして、天の怒りに触れて罰せられるが、優しい僧侶に救われて西方への旅が始まるという『西遊記』の物語そのものである。 ある日、彼らのもとに日本テレビの開局25周年ドラマ『西遊記』の音楽担当のオファーが届く。 それは物語を彩るサウンドトラックに加えて、オープニングテーマ曲、エンディングテーマ曲までを手掛けるという大がかりなものだった。 ドラマ『西遊記』が放送された1978年は、日中平和友好条約が調印された年であり、当時としては画期的な中国ロケが中華人民共和国中央広播事業局の協力のもと行なわれたという。 放送枠は、大河ドラマ(NHK)..
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Silent Night(きよしこの夜)〜ネズミにかじられて壊れたオルガンのおかげで!?誕生したメロディー

クリスマスキャロルの中でも最も親しまれている歌と言えば、この「Silent Night(きよしこの夜)」だろう。 このシーズンになると世界中の教会(キリスト教の礼拝)で合唱されるという聖歌だ。 一説によると、イタリアのシシリー島に古くから伝わる民謡がルーツともされているらしい。 実はこの歌には、誕生にまつわるちょっと面白いエピソードがある。 ある資料によると…1818年のクリスマス(12月25日)に、オーストリアのオーベルンドルフという村にあった聖ニコラウス教会で初めて演奏されたという。 オーベルンドルフは、モーツァルトの生誕地として有名なザルツブルクから車で北へ20分ほどの山間地にあり、ザルツァハ川をはさんでドイツ国境に接している小さな村だ。 それは(前日の)24日の朝の出来事だった。 当時、その村に一台しかなかった教会のオルガンがネズミにかじられて使い物にならなくなっていたことが発覚する。 助任司祭だったヨゼフ・モール(当時36歳)は、この事態を知り困り果てていた。 「明日はクリスマス!このままではミサができない!」 彼は頭を抱えながら2年前(1816年)に、いつか子供達に唄わせようと自作していた歌詞(原詞はドイツ語)があったことを思い出す。 「いつもオルガンで伴奏している讃美歌は無理でも、この歌詞に何とか曲をのせて唄えば形になるかもれない!」 彼はさっそく、教会専属のオルガン奏者で小学校教師でもあったフランツ・クサーヴァー・グルーバーに自作の歌詞を渡して作曲の依頼をした。 曲をのせるにあたって、ちょっと“無茶ぶり”とも言える2つの注文がつけられたという。 「明日のミサに間に合うように24時間以内に完成させて欲しい。」 もう一つの注文は、オルガン奏者のフランツに対して… 「ギターで唄える讃美歌として伴奏アレンジを仕上げて欲しい。」 当時、ギターは宗教行事で使われる楽器ではなかったので、それを聞いたフランツは「教会でギターを弾くなんて…」と懸念したという。 ヨゼフの熱心な説得もあって、その“無茶ぶり”を了承したフランツは、一晩中懸命に取り組み…約束通りに曲を完成させた。 ヨゼフの手元に譜面が届いたのは、教会でミサが始まるわずか数時間前のことだったという。 25日、いよいよクリスマスのミサの当日の夜となった。 ギター演奏による「Silent Night(きよしこの..
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ジャンゴ 繋がれざる者〜歴史の犠牲者たちに映画の中で復讐させるタランティーノの世界

ヒトラーをはじめとしたナチスの幹部たちを映画館ごと炎上爆破してしまうという、ユダヤ系の立場からの壮大な復讐制裁劇『イングロリアス・バスターズ』(2009)で、キャリア最高の興行収入を記録したクエンティン・タランティーノ監督。“史実の書き換え”なる新たな手法を見出した彼は、次作で映画オタクである自身のルーツとでもいうべき「マカロニ・ウエスタン」に取り掛かる。 「悪を裁くのは正義ではなく流れ者だ」という世界観を絶対的な美学とするこのジャンルは、言い換えれば監督としての真価が問われる極めてハードルの高い領域。だがタランティーノにとってそれは宿命であり、避けて通れない“映画道”のようなもの。 この愛すべきクレイジーな映画作家は、そこに南部の奴隷制度というアメリカの残虐な過去と向き合うことにも同時に取り組みながら、とんでもなく見応えのある「マカロニ・サザン」を撮り上げた。前作の復讐制裁劇を踏襲した『ジャンゴ 繋がれざる者』(Django Unchained/2012)の完成だ。 アメリカ映画はずっと南部の奴隷制度の実態を描くことを避けてきた。アメリカにとって恥すべき汚点だからだ。俺は歴史の犠牲者たちに、映画の中で復讐させてあげたい。 過去のマカロニ・ウェスタンへのオマージュを忘れることなく、特に本作ではそのタイトルからも分かるように、セルジオ・コルブッチ監督作品(代表作は『続・荒野の用心棒』/原題Django)からの影響が漂う。さらにブラックスプロイテーションやラブストーリーの要素もサンプリングし、唯一無二のクレイジーワールドに到達した。 この種の作品にはお約束の賛否、特に黒人でもあるスパイク・リー監督から猛烈な反論を喰らったりするが、映画に命を捧げるタランティーノはそんなことでは屈しなかった。社会的映画を作ろうとしたんじゃない。誰もやらなかった映画作りに夢中になっただけなのだから。 主役のジャンゴ役はジェイミー・フォックス。ジャンゴを見出すヨーロッパの賞金稼ぎ役にクリストフ・ヴァルツ。さらに映画はもう一組のコンビが登場する。大農園の御曹司役のレオナルド・ディカプリオ、そして奴隷頭役のサミュエル・L・ジャクソン。この4人の凄まじい演技力、そして圧倒的な存在感のおかげで165分の長編も瞬く間に過ぎていく。本作で初の悪役を演じたディカプリオは「この役をやり遂げた今、もうどんな..
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ジョー・コッカーが世界に名を知らしめるきっかけとなったアメリカツアーの伝説

2014年12月22、イギリス出身のブルー・アイド・ソウル・シンガー、ジョー・コッカー(享年70)がアメリカ・コロラド州の自宅で死去した。 死因は肺癌と公表された。 ハスキーなしわがれ声と独特の歌唱が持ち味だった彼には、世界に名を知らしめるきっかけとなったターニングポイントがあった。 1960年代初頭、15歳となった彼はガスの配管工として働きながら“ヴァンス・アーノルド”という芸名を名乗り、労働者達が集う酒場(パブ)で音楽活動を始めた。 大好きなレイ・チャールズやチャック・ベリーの曲をカヴァーし、ジョン・リー・フッカーやマディー・ウォーターズなどのブルースを多く歌っていたという。 1963年、ジョーは19歳にしてザ・ローリング・ストーンズのサポートを務めた後、デッカレコードと契約を結び、翌年ビートルズの「I’ll Cry Instead」のカヴァーしたレコードをリリースすることとなる。 しかし、セールスは伸びることなく…彼のデビュー作は不発に終わる。 地元シェフィールドでライヴ活動を地道に続け1968年(当時24歳)にA&Mレコードから再デビューを果たす。 同年、ビートルズの「With A Little Help Of My Friends」をカヴァーしたシングルがイギリスでトップ10入り一躍人気歌手の仲間入りを果たす。 そして、1969年8月ウッドストック・フェスティヴァルに参加し、彼は成功への階段を登り始める。 このステージでのパフォーマンスが話題となりアメリカでも注目を集めるようになった彼は、その翌年、レオン・ラッセルがバンドリーダーを担当したマッド・ドッグス&イングリッシュメンをバックに従えて全米ツアーを実施する。 同バンドは、60年代後半~70年代に巻き起こったスワンプロックムーヴメントの立役者として知られるデラニー&ボニー&フレンズから抜けてきた(レオン・ラッセルが引き抜いた)腕利きのミュージシャン達に加え、実力派のシンガー達がバックコーラスを固める21人編成となった。 そのメンバーリストには、主役のジョー・コッカー(ボーカル)、バンドリーダーのレオン・ラッセル(ギター/ピアノ)、クリス・ステイントン(ピアノ/オルガン)、カール・レイドル(ベース)、ジム・ゴードン(ドラムス)、ドン・プレストン(ギター)、ジム・ケルトナー(ドラムス)、チャック・ブラック..
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冬のリヴィエラ〜大滝詠一&松本隆という名コンビが生み出した“異色のヒットソング”の誕生秘話

彼女(あいつ)によろしく伝えてくれよ 今ならホテルで寝ているはずさ 泣いたら窓辺のラジオをつけて 陽気な唄でも聴かせてやれよ イタリア語で海岸を意味する“リヴィエラ”を舞台に、何とも切ない大人の歌物語が描かれた名曲である。 一般的にリヴィエラというとイタリア北西の海岸沿いを指すという。 この「冬のリヴィエラ」は森進一のシングル曲として1982年11月リリースされ、サントリーのウインターギフトのタイアップソングとして幅広い世代に愛された“冬ソング”である。 森にとっては1974年に発表した「北航路」以来、実に9年ぶりのオリコントップ10入りを果たしたヒットソングとなった。 作曲は大滝詠一、そして作詞は松本隆という名コンビによるもの。 日本語によるロック・ポップスの礎を築いたとされる伝説のグループはっぴいえんどが1972年に解散した後、大瀧は新たな創作活動に邁進し、松本は売れっ子作詞家として頭角を現していた。 この歌がヒットする前年(1981年)に、大瀧は松本がほぼ全曲作詞を手がけたソロアルバム『A LONG VACATION』(愛称:ロンバケ)を発表し、日本のポップス史に金字塔を打ち立てている。 同年、大ヒットを記録した松田聖子の「風立ちぬ」もこのコンビが手掛けたものだった。 そんな二人が紡いだ歌なだけに、唄い手が演歌スターであっても“大滝サウンド”全開の60年代アメリカンポップ風の曲となっている。 二人に曲を依頼した森のレコード会社は“異色の組み合わせ”を狙ってのことだったという。 「森進一に演歌とは全く違うロンバケの世界観を歌わせたい!」 当時、大瀧は作詞を自分で手掛ける時は曲を先に完成させ、人に作詞を任せる際には歌詞が先で後から曲をつけていたという。 「先に好きなように歌詞をつくっていいよ。」 松本はあるインタビューで当時のことをこんな風に振り返っている。 「もし演歌を、という注文だったら引き受けなかったな。僕は演歌を聴いて育ってないので言葉の選び方がわからなくて。でもサルヴァトール・アダモの“雪が降る”のような大人のポップスを、演歌の人が歌うのだったらありえると思ったんです。例えばアダモからもしも作詞の依頼を受けたら…とイメージして作ってみました。」 意識したのはロンバケの中の一曲「カナリア諸島にて」だったという。 松本はそこで描いた大西洋上の島から、実際に..
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ワーキング・ガール〜フェリー通勤で流れるカーリー・サイモンの名曲

「時」と「場所」──これは映画のムードを作るための重要な設定だ。「いつの時代の」「どこを舞台にした」話なのか、これを決めておくことは、作り手あるいは観る者にとっても極めて有効に作用する。映画のジャンル問わずに。 特に広大な土地と多種多様な民族・文化を持つアメリカ映画ではこの点をスルーすることはできない。また、公開当時が最新の時代のものであっても、やがて時間の経過とともにこの点が自然と深みを帯びてきたり、思わぬ付加価値をつけてくれることもある。 例えば「ニューヨークが舞台の映画」といえば、あなたは何を思い浮かべるだろう? 1970年代にはウディ・アレン監督『アニー・ホール』(1977)やマーチン・スコセッシ監督の『タクシー・ドライバー』(1976)が強烈な印象を残した。60年代にはヘプバーン主演の『ティファニーで朝食を』(1961)やニューシネマの『真夜中のカーボーイ』(1969)があった。ジョン・カサヴェテス監督の『グロリア』(1980)やコッポラ監督の『ゴッドファーザー』(1972)が描いたニューヨークも忘れられない。 さらに先へと進んで、80年代後半のバブル経済期はどうか。舞台がその象徴であるウォール街となれば、やはりゴードン・ゲッコーなる非情なキャラクターを生んだオリバー・ストーン監督『ウォール街』(1987)が真っ先に浮かぶ。 『ワーキング・ガール』(Working Girl/1988)はその女性版というには無理があるが、夢と恋とビジネスに奮闘する姿は、男女雇用機会均等法が施行さればかりの当時の日本の働く女性たちにも少なからず刺激を与えた。 はっきり言って映画としては、今観たら平凡な出来かもしれない。企業買収や株式投資といった世界観はその後の経済映画で繰り返し描写されたし、主人公の出身地や学歴もネットがフル機能した今では大して意味を持たない。にしても『ワーキング・ガール』がいつまでも色褪せないのは、ニューヨークの風景や街の臭いが全編に漂っているからだ。 冒頭。スタッテン島からマンハッタンへフェリーで通勤するシーンはその最たる例。そこに流れるのはカーリー・サイモンの「Let The River Run」。これから起こるストーリーやヒロインの奮闘全てを包み込んだこの力強い名曲によって、秀逸なオープニングへと昇華した。 テス(メラニー・グリフィス)は証券会社で働く..
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