2021-12

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ウォーカー〜ジョー・ストラマーが音楽を担当したアレックス・コックス監督作

『レポマン』(1984) 『シド・アンド・ナンシー』(1986) 『ストレート・トゥ・ヘル』(1987)と、立て続けに熱い作品を放っていたアレックス・コックス監督が手掛けた4作目『ウォーカー』(Walker/1987)。 まるで世界の中心にいて、それが全てであるかのようなアメリカ合衆国の価値観や世界観に反抗心を抱いていたイギリス出身のコックスは、自身の作品にアメリカ批判を反映することでも知られているが、「のけ者にされたアウトローを描くこと」も彼特有のもう一つの重大なテーマ。『ウォーカー』はその両面が痛烈に描かれた映画となった。 コックスが目をつけたのは、19世紀半ばのニカラグアで冒険家から独裁者に変貌したウィリアム・ウォーカー。アメリカ史ではページから完全に抹殺された男だったが、ニカラグアでは「悪のアメリカの象徴」として忘れられることはなかった。 法律・医学・ジャーナリズムを身につけていたウォーカーは、その行動力と実績から財界の大物ヴァンダービルトに気に入られ、植民地化政策のもと小国ニカラグアを攻めて支配するように依頼される。美しい婚約者のいるウォーカーは、権力を持つことよりもっと高尚な目的を人生に見出しており、この話をきっぱりと断った。 しかし、愛する人が病で息を引き取った時、絶望したウォーカーは過去と決別してこの任務へと向かう。アメリカは「我々は神の啓示により、隣接国の経済・政治の文明化に努める権利を持っている」というマニフェスト・デスティニーに傾いた時代。領土拡張という侵略は大義名分になった。 1855年。58人の不死隊を率いてニカラグアに渡ったウォーカーは、32歳にしてニカラグアの大統領の座につき、次第に非情な指導者となり2年に渡って統治。狂信的な振る舞いと抑圧ぶりは現地民たちの怒りを蓄積していく。そしてエゴイズムは内部からの反感を買い、遂には支援者ヴァンダービルトと対立。炎が舞い上がり銃声が飛び交い始める……。 ウォーカーの最期は1860年、36歳の時にホンジュラスにて処刑されて終わる。コックスはこの実話を映画化するにあたって、撮影当時のレーガン政権のあり方とニカラグア情勢が、1世紀以上前のウォーカーの時代と何ら変わっていないことを知る。そこで皮肉を込めて、19世紀半ばの舞台に自動車やヘリコプター、コンピュータやニューズウィーク、マルボロやコカコーラを小道..
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オー・ブラザー!〜ブルーズやカントリーが育まれた南部の音風景をとらえた傑作

2枚目スター俳優として知られていたジョージ・クルーニーは当時、新しい映画の出演企画が持ち込まれると、それがコーエン兄弟のものだと知って脚本も読まずに役に飛びついた。読んでみると笑い転げてしまった。 ヒステリックなまでにおかしな話だし、とても知的だ。「俺はなんてラッキーなんだ」と思ったよ また、コーエン兄弟の常連俳優ジョン・タトゥーロ。 あの兄弟の企画なら僕は何でも引き受けるよ。主演だろうがワンシーンだけだろうがね ティム・ブレイク・ネルソンは最初、出演依頼はなくただ脚本を渡されてアドバイスが欲しいと言われただけだった。そして自分に役が付いていることを知らされるとびっくりした。 僕みたいな無名の俳優にこんな大きな役をやらせるなんて!! 『バートン・フィンク』『ファーゴ』などで熱い注目を集めていたジョエル&イーサン・コーエン兄弟。北部生まれの彼らは南部のことなど詳しくは知らなかったそうだが、長いロケハンの旅を重ねながら心に風景を描いていった。そしてミシシッピ州ジャクソンヴィル周辺で理想の絵が出来上がった。 『オー・ブラザー!』(O Brother, Where Art Thou?/2000)は、1930年代のアメリカ南部を舞台にしたロードムービー。原案は古代ギリシャの吟遊詩人ホメロスの『オデュッセイア』で、最古の叙事詩と言われている冒険物語。 物語中、二人の実在した人物が登場する。一人は銀行強盗で有名なジョージ・ネルソン。土地を地主から借りていたり、借金の担保にしていた農民たちは、銀行にすべてを取られて路頭に迷っていた。スタインベックの小説『怒りの葡萄』や映画『俺たちに明日はない』などで描かれた大不況の30年代。銀行強盗はヒーローのように“活躍”した。 もう一人は、十字路でヒッチハイクするトミー・ジョンソン。「悪魔に魂を売ったんだ」と言ってギター片手に車に乗り込む姿に、思わずニヤッとした音楽ファンは少なくない。あのロバート・ジョンソンで有名になったブルーズの伝説は、実はこのトミー・ジョンソンが最初なのだ。(詳しいことはこちらで。ロバート・ジョンソンの“クロスロード伝説”や“悪魔との契約説”はなぜ広まったのか?) 1930年代、アメリカ南部ミシシッピ州。強制労働を強いられている囚人たち。そんな中、綿花畑を鎖で繋がれた足で逃げて来る囚人服を着たままの3人組の男た..
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伝説の白人ソウルシンガーの栄光と挫折

♪「You Are So Beautiful」/ジョー・コッカー  イギリス出身のブルー・アイド・ソウル・シンガー、ジョー・コッカーが2014年12月22日に現在自宅のあるアメリカ・コロラド州で死去した。 ハスキーなしわがれ声と独特の歌唱が持ち味で、多くのファンを惹きつけ唯一無二の輝きを放っていた彼…。 ジョーのレーベルとなるソニー・ミュージックでは次のように声明を発表している。 「ジョーは長く肺小細胞がんとの闘病を続けていました。今年で70歳でした。彼は20代前半までイギリスに住み続けていましたが、1978年以降はのちに妻となるパム・ベイカーとアメリカに移住しました。2007年にはイギリスの女王からOBE(オフィサー)を叙勲されました。1964年以来、ブルースやソウルの歌い手として各国で活躍し、今日まで活動を続けていました。これまで40枚以上ものアルバムを発表し、世界中を精力的にツアーして回り続けていました。」 この訃報を受けて…多くのアーティストたちからメッセージが寄せられている。 「ジョーが亡くなったと聞いて本当に悲しいよ。ジョーは本当に気のいい北部のあんちゃんで大好きだったし、他のたくさんの人と同じで僕もジョーの歌声が大好きだったんだ。特に“With A Little Help Of My Friends ”をカヴァーしてくれて嬉しかったし、ジョンとデニー・コーデル(当時のプロデューサー)がサヴィル・ロウのスタジオ(アップルレコードのスタジオ)に来てくれて、レコーディングしたものを聴かせてくれたんだけど、これがもう本当にとんでもなくて、この曲をソウルアンセムへと完全に作り変えてあって、ジョーに対してそのことでいつまでも頭が下がる思いだよ。それからはずっと親友だと思っていたし、だから、体調を崩していると聞いて心配だったし、今日亡くなったと聞いてとっても悲しいよ…。とってもいいやつだったし、気のいいやつで、この世の中にたくさんのものをもたらしてくれただけに、惜しまれるよ…。」ポール・マッカートニー(ビートルズ) 「彼の友人のひとりとしてこう言うよ。さようなら。そして神の祝福がありますように。ピース&ラブ」リンゴ・スター(ビートルズ) 「みんなジョー・コッカーのレコードを聴いていたんじゃない。一緒に歌っていたんだ。素晴らしい音楽と友情に感謝。」ジョー・ウォルシュ..
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ダーティハリー〜映画史に残る名台詞を生んだクリント・イーストウッドの代表作

スティーヴ・マックィーンやポール・ニューマンと並ぶ1970年代の映画スターと言えば、クリント・イーストウッドの名を挙げる人は多いだろう。90歳近くになった今も精力的に映画製作に携わり、監督として、プロデューサーとして、そして俳優としても現役を貫き続ける映画人。リビング・レジェンド。 1930年にサンフランシスコで生まれたイーストウッドは、高校卒業後に木材工場で働いていたが、転機が訪れたのは20歳の時。入隊した陸軍で知り合った映画助監督の勧めで俳優の夢が芽生える。除隊後は大学で演技を学び、54年頃から数本の映画に端役で出演するも鳴かず飛ばず。オーディションにも落ちまくる。29歳の時にTVシリーズ『ローハイド』でようやく陽の目を見た。 だが番組の人気もやがて低迷。そこでアメリカからイタリアへ渡り、セルジオ・レオーネ監督の『荒野の用心棒』(1964)『夕陽のガンマン』(1965)といったマカロニ・ウエスタンに主演。人気を得る。68年にハリウッドに戻ったのは37歳の時だった。長い苦難の末に掴んだ栄光。映画スター“クリント・イーストウッド”はこうして誕生した。 そんな彼の新境地となったのが『ダーティハリー』(Dirty Harry/1971)。その後の犯罪映画や刑事アクション映画に多大な影響を与え、現在につながる一つの大きな流れを作ったとも言われる。マックィーンの『ブリット』が切り拓いた新しい刑事像=一匹狼的なアウトローは、賞金稼ぎ役から転身したイーストウッドの『ダーティハリー』で完全到達した。 監督はドン・シーゲル。イーストウッドとは『マンハッタン無宿』(1968)、『真昼の死闘』(1970)、『白い肌の異常な夜』(1971) に続く4度目の顔合わせ。二人の信頼関係は厚く、撮影中にシーゲルが突然の高熱で倒れた時、イーストウッドは演出を買って出たという。二人にとってハリウッドでの最初の大ヒット作になった。 もともとはフランク・シナトラが主演を務める予定だったが、ポール・ニューマンに話が移る。断った彼は代わりにイーストウッドを推薦。そのため脚本も最終稿まで何度も書き直され、ジョン・ミリアスやテレンス・マリックも関わったとされている。ロケのほとんどはサンフランシスコで行われた。 映画が生んだキャラクター、ハリー・キャラハン刑事。汚い仕事ばかり任される彼を、人は「ダーティハリー」と..
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ジョー・コッカーが世界に名を知らしめるきっかけとなったアメリカツアーの伝説

2014年12月22、イギリス出身のブルー・アイド・ソウル・シンガー、ジョー・コッカー(享年70)がアメリカ・コロラド州の自宅で死去した。 死因は肺癌と公表された。 ハスキーなしわがれ声と独特の歌唱が持ち味だった彼には、世界に名を知らしめるきっかけとなったターニングポイントがあった。 1960年代初頭、15歳となった彼はガスの配管工として働きながら“ヴァンス・アーノルド”という芸名を名乗り、労働者達が集う酒場(パブ)で音楽活動を始めた。 大好きなレイ・チャールズやチャック・ベリーの曲をカヴァーし、ジョン・リー・フッカーやマディー・ウォーターズなどのブルースを多く歌っていたという。 1963年、ジョーは19歳にしてザ・ローリング・ストーンズのサポートを務めた後、デッカレコードと契約を結び、翌年ビートルズの「I’ll Cry Instead」のカヴァーしたレコードをリリースすることとなる。 しかし、セールスは伸びることなく…彼のデビュー作は不発に終わる。 地元シェフィールドでライヴ活動を地道に続け1968年(当時24歳)にA&Mレコードから再デビューを果たす。 同年、ビートルズの「With A Little Help Of My Friends」をカヴァーしたシングルがイギリスでトップ10入り一躍人気歌手の仲間入りを果たす。 そして、1969年8月ウッドストック・フェスティヴァルに参加し、彼は成功への階段を登り始める。 このステージでのパフォーマンスが話題となりアメリカでも注目を集めるようになった彼は、その翌年、レオン・ラッセルがバンドリーダーを担当したマッド・ドッグス&イングリッシュメンをバックに従えて全米ツアーを実施する。 同バンドは、60年代後半~70年代に巻き起こったスワンプロックムーヴメントの立役者として知られるデラニー&ボニー&フレンズから抜けてきた(レオン・ラッセルが引き抜いた)腕利きのミュージシャン達に加え、実力派のシンガー達がバックコーラスを固める21人編成となった。 そのメンバーリストには、主役のジョー・コッカー(ボーカル)、バンドリーダーのレオン・ラッセル(ギター/ピアノ)、クリス・ステイントン(ピアノ/オルガン)、カール・レイドル(ベース)、ジム・ゴードン(ドラムス)、ドン・プレストン(ギター)、ジム・ケルトナー(ドラムス)、チャック・ブラック..
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華麗なるギャツビー〜愛する人を取り戻すために、ただそれだけのために

世界的な文学を振り返ろうとする時、1920年代のアメリカの好景気の幕開けと同時に華々しくデビューして、現在のポップスターやロックスター並みに新しい世代の代弁者に祭り上げられ、やがて訪れる1930年代の大恐慌と歩調を合わせるかのように自らを暗闇の中で静かに崩壊させていった、美しく呪われた作家の名を避けて通ることはできない。 ──F・スコット・フィッツジェラルドなくして「ロスト・ジェネレーション」もアーネスト・ヘミングウェイも語れないし、フィッツジェラルドが遺した長編や短編小説に触れることは、上昇と下降が交錯する人生そのものを深く体験できると言っても過言ではない。 フィッツジェラルドは自分の人生の破片や挫折を両極的な二重ヴィジョンで作品に投影させ続けたことでも有名で、その切なさと儚さの極致とも言える描写の数々と滅びゆく者の美学は、日本でも野崎孝氏や村上春樹氏らの紹介によって広く知られることにもなった。 中でも1925年に発表された『華麗なるギャツビー(The Great Gatsby)』はフィッツジェラルド文学の最高傑作として世界中の言語で翻訳されている物語なので、一度は手にとって読まれたことのある人は多いと思う。 ニック・キャラウェイとジェイ・ギャツビーの姿はフィッツジェラルドの分身であることは言うまでもないし、ギャツビーの夢の象徴であるデイジーは彼の妻ゼルダを思わせる(事実、フィッツジェラルドは売れっ子作家になる前にゼルダに求婚しているが、ゼルダは「金持ちではない」ことを理由に拒絶した)。 1922年の春。30歳のニック・キャラウェイは好景気に沸くNYの証券会社に職を見つけて中西部から出てきたばかり。住居はロング・アイランドのウエスト・エッグにある月80ドルの小さな家を借りた。すぐ隣には大豪邸が建っていて、ジェイ・ギャツビーという主人が週末になると豪華絢爛なパーティを繰り返していた。ギャツビーは密売やスパイで巨万の富を築いたといった噂が飛び交う謎めいた人物だった。 海の向こう側にはイースト・エッグと呼ばれる高級住宅街が望め、そこにはニックのまた従妹のデイジーが夫のトムと住んでいる。名家の出身で有閑階級である二人はニックと再会の喜びを分かち合うが、トムにはどうやら愛人がいて夫婦仲に亀裂が生じていることを、ニックはその場にいたデイジーの女友達ジョーダンから聞かされる羽目..
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卒業〜「結婚式の最中に花嫁を奪う映画」からの脱却

『卒業』(The Graduate/1967)を初めて観たのは、1980年代後半頃。レンタルビデオで借りてきたのが最初だったと思う。高校時代にデザイナーの叔父から勧められた『イージー・ライダー』(1969)で衝撃を受けていたにも関わらず、何せ生まれる前の映画であり、観終わってもどこか古臭い感覚を拭い切れなかったのを覚えている。要するに「結婚式の最中に花嫁を奪う映画」「サイモン&ガーファンクルの有名な主題歌が流れる映画」程度の感想しか持てなかったのだ。 しかし大人になるにつれ、それなりの経験を積み、傍らで映画の時代背景や歴史を深掘りしていくうちに、『卒業』の捉え方も次第に変わっていった。そこには目標を失った金持ち青年の喪失感があり、ユダヤ系とWASP系のダブル・ヴィジョンがあり、1967年のアメリカの若者社会のスピリットがあることを知った。こうしてアメリカン・ニューシネマの草分けを、自分自身の中のイノセンスが減少していく過程と比例するかのように、徐々に理解できるようになった。 今回改めて映画を観たところ、特典映像の中で、原作小説を書いたチャールズ・ウェッブがこのストーリーの真髄を語っているところを見つけた。 子供の頃は誰もが純粋さを持っている。だが本人の意思とは関係のない出逢いや経験を通じて、その純粋さは失われる。誰にとっても“ロビンソン夫人”がいて、そういう人と出逢って気づくことになる。人は見た目では分からない。そういった経験が誰にでもあると思う。 『卒業』における印象的なシーンは数多い。例えば、花嫁奪還後のバスの後部座席。ベンジャミン(ダスティン・ホフマン)とエレイン(キャサリン・ロス)から笑顔が消え、不安な表情に囚われていくラストシーンは、観る者がよほど鈍感でなければ今でもかなりのインパクトがある。 あるいは生みの親ウェッブが言うように、この映画で重要な役割を果たすロビンソン夫人(アン・バンクロフト)が絡むシーン。父親のビジネスパートナーの妻である彼女はすでに夫を愛しておらず、東部のエリート大学を卒業したばかりの将来有望の青年、ベンジャミンに愛の空虚の穴埋めをさせる。それまで純粋だったベンジャミンは、この情事を通じて汚れの経験と自己嫌悪を繰り返す。自分の心には同年代の娘エレインがいるのに、その母親とホテルでのセックスに人知れず耽る日々。 このどうしようもない..
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冬のリヴィエラ〜大滝詠一&松本隆という名コンビが生み出した“異色のヒットソング”の誕生秘話

彼女(あいつ)によろしく伝えてくれよ 今ならホテルで寝ているはずさ 泣いたら窓辺のラジオをつけて 陽気な唄でも聴かせてやれよ イタリア語で海岸を意味する“リヴィエラ”を舞台に、何とも切ない大人の歌物語が描かれた名曲である。 一般的にリヴィエラというとイタリア北西の海岸沿いを指すという。 この「冬のリヴィエラ」は森進一のシングル曲として1982年11月リリースされ、サントリーのウインターギフトのタイアップソングとして幅広い世代に愛された“冬ソング”である。 森にとっては1974年に発表した「北航路」以来、実に9年ぶりのオリコントップ10入りを果たしたヒットソングとなった。 作曲は大滝詠一、そして作詞は松本隆という名コンビによるもの。 日本語によるロック・ポップスの礎を築いたとされる伝説のグループはっぴいえんどが1972年に解散した後、大瀧は新たな創作活動に邁進し、松本は売れっ子作詞家として頭角を現していた。 この歌がヒットする前年(1981年)に、大瀧は松本がほぼ全曲作詞を手がけたソロアルバム『A LONG VACATION』(愛称:ロンバケ)を発表し、日本のポップス史に金字塔を打ち立てている。 同年、大ヒットを記録した松田聖子の「風立ちぬ」もこのコンビが手掛けたものだった。 そんな二人が紡いだ歌なだけに、唄い手が演歌スターであっても“大滝サウンド”全開の60年代アメリカンポップ風の曲となっている。 二人に曲を依頼した森のレコード会社は“異色の組み合わせ”を狙ってのことだったという。 「森進一に演歌とは全く違うロンバケの世界観を歌わせたい!」 当時、大瀧は作詞を自分で手掛ける時は曲を先に完成させ、人に作詞を任せる際には歌詞が先で後から曲をつけていたという。 「先に好きなように歌詞をつくっていいよ。」 松本はあるインタビューで当時のことをこんな風に振り返っている。 「もし演歌を、という注文だったら引き受けなかったな。僕は演歌を聴いて育ってないので言葉の選び方がわからなくて。でもサルヴァトール・アダモの“雪が降る”のような大人のポップスを、演歌の人が歌うのだったらありえると思ったんです。例えばアダモからもしも作詞の依頼を受けたら…とイメージして作ってみました。」 意識したのはロンバケの中の一曲「カナリア諸島にて」だったという。 松本はそこで描いた大西洋上の島から、実際に..
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アルバート・キングを偲んで〜ロック界にも影響を与えたブルースマンの偉大な足跡と功績

1992年12月21日、ブルースの“3大キング”の一人アルバート・キング(享年69)がメンフィスで心臓発作のため急逝した。 死の2日前にはロサンゼルス郊外での公演をこなし、自宅に戻ってきた矢先の出来事であった。 彼の葬儀に参列したB.B.キングは、その死を悼み…こんな弔辞を述べたという。 「私たちは“血縁”という意味では兄弟ではなかったが、ブルースにおいては間違いなく兄弟だった。」 1923年4月25日、彼はミシシッピ州インディアノラで13人兄弟の一人として生まれた。(本名アルバート・ネルソン) 父親が教会でギターを弾いていたこともあり、彼は幼い頃から音楽に親しんでいたという。 彼が最初に手にした楽器はギターではなく、当時アメリカ南部の黒人の子供がオモチャ代わりにしていた“ディッドレイ・ボウ”という一弦楽器だった。 彼がまだ幼い頃に両親が離婚し、母親と共にアーカンソー州フォレストシティに移住している。 彼はしだいにブルースに興味を持ち始め、ブラインド・レモン・ジェファーソンやロニー・ジョンソンといったブルース初期のスター達のレコードを熱心に聴くようになる。 貧しい家計を助けるために綿花プランテーションで働きながら、彼は(左利きのまま)独学でギターを習得していく。 18歳の時に友人からギルド製アコースティックギターを1ドル25セントで譲ってもらう。 手に入れたギターは右利き用のものだったが、彼は左利き用に弦を張り替えることなどせずに、そのままギターをひっくり返して弾き始めたのだ。 1950年、彼はメンフィスとセントルイスのオセオラという街で本格的に音楽キャリアをスタートさせる。 当時の主な仕事は『T-99』というナイトクラブのハウスバンド(イン・ザ・グルーヴ・ボーイズ)でギターを弾くことだった。 オセオラで数年活動した後、彼はインディアナ州ゲイリーに拠点を移し、ジミー・リードやジョン・ブリムらと活動するようになる。 両者ともギタリストであったため、彼はドラムを担当していたという。 彼がアルバート・キングという芸名を名乗るようになったのはこの頃で、当時「Three O’clock Blues」をヒットさせたB.B.キングの成功にあやかってのことだった。 この一曲のヒットによりブルース界のスターとなったB.B.キングのスタイルを参考に、彼はダイナミックなスクイーズ系チ..
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ビル・ワイマンが始めたローリング・ストーンズの記録と収集は気づくと30年を超えていた

ローリング・ストーンズがどこから来て、僕らがどうして一緒になり、歴史上最も変化の激しい時代をどうやって潜り抜けてきたかを、僕はもっと詳細に語りたいと思った。 僕にとっては常に事実だけが重要だった。これまでにもストーンズについては数多くが書かれたが、ほとんどは真実の周辺をうろうろとするか、半分嘘を飾り立てるか、さもなくば全くの嘘だらけだったからだ。 ローリング・ストーンズに書かれた出版物は数多い。しかし、オリジナル・メンバーであるビル・ワイマンが2002年に出版した『ローリング・ウィズ・ザ・ストーンズ(Rolling with The Stones)』(日本語翻訳版は2003年に限定5000部)は、そのヴォリュームだけでなく、信憑性の高さや丁寧かつ緻密な構成といった面も含めて、これ以上のクオリティのものはないだろう。 寡黙だったワイマンは「ストーンズの記録係」としても知られ、デビュー当時から日記を書き溜めていた。本書には彼自身の言葉や文章のほか、初公開となった写真や手紙がふんだんに使われている。さらにポスター、フライヤー、雑誌の表紙といった資料の充実、ツアーや番組出演やレコードデータの記録は圧巻。収支まで記されている。 序文ではワイマンのこんな言葉が綴られる。 僕はストーンズの一員だったことをとても誇りに思っている。だから、僕自身の思い出だけでなく、自分が長年かかって集めてきたものを皆さんと共有したいと思った。 僕がものを集め始めたきっかけは、小さかった息子に父親が何年間かポップグループの一員だったことを証明したかったからだが、その「何年間か」はご存じの通り、31年にも及んだ。 500ページを超えるこの書物を改めてめくっていると、ストーンズというバンドがいかに時代や世代と共にあったかを再認識できる。60年代に70%以上ものページが費やされていることからも分かるように、ストーンズが反体制とロックの象徴そのものだったことが体感できる。吸い込まれるような圧倒的な世界観なのだ。 ロンドンR&Bの顔役だった時代、スウィンギング・ロンドンの華やかさ、1967年の逮捕劇と裁判、1969年のブライアンの死とオルタモントの悲劇、パリへの逃亡、巨大化する70年代のツアー、メンバーの女たち、キースのトラブル、テイラーとウッド、スチュの死……どこをめくっても「ストーンズの真実」と遭遇で..
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ワーキング・ガール〜フェリー通勤で流れるカーリー・サイモンの名曲

「時」と「場所」──これは映画のムードを作るための重要な設定だ。「いつの時代の」「どこを舞台にした」話なのか、これを決めておくことは、作り手あるいは観る者にとっても極めて有効に作用する。映画のジャンル問わずに。 特に広大な土地と多種多様な民族・文化を持つアメリカ映画ではこの点をスルーすることはできない。また、公開当時が最新の時代のものであっても、やがて時間の経過とともにこの点が自然と深みを帯びてきたり、思わぬ付加価値をつけてくれることもある。 例えば「ニューヨークが舞台の映画」といえば、あなたは何を思い浮かべるだろう? 1970年代にはウディ・アレン監督『アニー・ホール』(1977)やマーチン・スコセッシ監督の『タクシー・ドライバー』(1976)が強烈な印象を残した。60年代にはヘプバーン主演の『ティファニーで朝食を』(1961)やニューシネマの『真夜中のカーボーイ』(1969)があった。ジョン・カサヴェテス監督の『グロリア』(1980)やコッポラ監督の『ゴッドファーザー』(1972)が描いたニューヨークも忘れられない。 さらに先へと進んで、80年代後半のバブル経済期はどうか。舞台がその象徴であるウォール街となれば、やはりゴードン・ゲッコーなる非情なキャラクターを生んだオリバー・ストーン監督『ウォール街』(1987)が真っ先に浮かぶ。 『ワーキング・ガール』(Working Girl/1988)はその女性版というには無理があるが、夢と恋とビジネスに奮闘する姿は、男女雇用機会均等法が施行さればかりの当時の日本の働く女性たちにも少なからず刺激を与えた。 はっきり言って映画としては、今観たら平凡な出来かもしれない。企業買収や株式投資といった世界観はその後の経済映画で繰り返し描写されたし、主人公の出身地や学歴もネットがフル機能した今では大して意味を持たない。にしても『ワーキング・ガール』がいつまでも色褪せないのは、ニューヨークの風景や街の臭いが全編に漂っているからだ。 冒頭。スタッテン島からマンハッタンへフェリーで通勤するシーンはその最たる例。そこに流れるのはカーリー・サイモンの「Let The River Run」。これから起こるストーリーやヒロインの奮闘全てを包み込んだこの力強い名曲によって、秀逸なオープニングへと昇華した。 テス(メラニー・グリフィス)は証券会社で働く..
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伝説のブラインド・レモン・ジェファーソンは本当に“盲目”だったのか?

ブルーズの壮大な歴史を振り返ろうとする時、その幕開けである20世紀初頭の「カントリー・ブルーズ」を担った男たちの中には視力を奪われた者が多いことに気づく。ブラインド・ウィリー・ジョンソン、ブラインド・ウィリー・マクテル、ブラインド・ブレイク、ブラインド・ボーイ・フラー……そして史上最も重要なブルーズマンの一人とも言われるブラインド・レモン・ジェファーソン。 盲目のパフォーマーが多いのは、ただの偶然と言う人もいれば、南部の盲目黒人は音楽の道に入る以外、暮らしの立てようがなかったという研究者もいる。あるいは残された感覚を研ぎ澄ませて、手と耳と口を使う技術に長けていたという見方も。盲目はハンデなのか、糧なのか。とにかく彼らを録音して“売り出す”ために、南部の風景や苦悩も知らないレコード会社は当たり前のように「盲目」をマーケティングの道具に用いることになった。 ブラインド・レモン・ジェファーソンは1893年9月24日に生まれた。彼の最初期の記録とされている1900年のテキサス州の国勢調査には「盲目」と記載されている。続く1910年の調査の職業欄はまだ「無職」だった。 レモンは生まれつき視力を失っていたとされるが、それを裏付ける医学的記録は残っていない。しかし幼少時代を知っていた住民は、「友達を追いかけ、流れに渡した丸太をみんなが渡る様子を立ち止まって聞き、それからゆっくりと彼らに続いて丸太を渡った。この子は何らかの才能を持っていると思った」と振り返る。 10代の頃にギターを手に入れたレモンは独学で弾き方を習得。毎週土曜日になると、誰かに手を引かれることもあれば、杖を使って独力でフェンスをまたぎ、小川の堤を歩いて町までギターを背負ってやって来ることもあった。そして銀行の前のベンチに座ってずっと演奏し続けた。チップ用のブリキ缶や帽子をそばに置いて。 テクニックに磨きがかかると、演奏する場所は農場での食事会やパーティ、やがて劇場になっていく。1セント硬貨が投げ入れられると、音で判別して投げ返した。お金を入れるようとする人たちに「俺をあなどるなよ」と言うのが決め台詞。5ドル貸してくれと言って1ドル札を渡された時、文句を言ったこともあった。1920年の国勢調査の職業欄には「ミュージシャン」と記された。 1920年代前半、レモンは短期間だけダラスの劇場でプロレスラーをやっていたらしい。..
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プラトーン〜誰のために戦っているのか分からなかったベトナム戦争の若者たち

1987年、バブル経済が幕開けたばかりの春。新宿・歌舞伎町の映画館から出てきた時の、あの何とも言えない気分のことを今でも覚えている。 学校帰りに何となく観ようと思って友達と一緒に入ったのだが、2時間後にはどうしようもない気持ちになっていた。みんな同じだったらしく、あまり会話も弾まなかった。戦争のことなどテレビや映画でしか知らない18歳の少年たちには、あまりに強烈な光景だったのだ。 理性の通じない所を地獄というのなら、ここがそうだ。 一週間でもう嫌になった。 1年も続ける自信がない。来たのが間違いだった。 そんなナレーションから始まる映画『プラトーン』(PLATOON/1986)は、1960年代後半のベトナム戦争の真実を描いた物語だった。監督/脚本はオリバー・ストーンで、15ヶ月のベトナム徴兵の実体験をもとに制作された。退役してすぐの69年に構想し、76年に脚本を書き上げ、映画化までさらに10年。登場人物は所属した部隊にいた人物たちをモデルにした。 ゆえにリアリティの一貫とメッセージ性に満ち溢れ、それまでのベトナム戦争を題材にした映画とは一線を画した。間違ってもハリウッドお得意のアクション映画ではない。それとは真逆のムードが漂う。そこには青春の風景、人間の葛藤、哀しみや虚しさが描かれたノンフィクション・フィルムそのものだった。作品はアカデミー作品賞を受賞。 ──1967年9月、泥沼化するベトナム。裕福な家庭に育ちながらも、大学を中退して両親の反対を押し切って志願兵となり、第25歩兵部隊に配属されたクリス・テイラー(チャーリー・シーン)。 「聞いたこともないような町の出の貧しい家の若者や黒人の若者だけを戦わせるのは不公平だ」「生温い環境で安住する自分が許せない」という強い意志を持っていたにも関わらず、一緒に配属された仲間がいきなり殺される過酷な現実を前に言葉を失う。 クリスのいる小隊には、対立するバーンズ(トム・ベレンジャー)とエリアス(ウィレム・デフォー)という二人のリーダーがいる。最初は鬼のようにタフなバーンズに魅かれていたクリスだったが、何の罪もない村人たちを銃殺隊のように始末していく残虐な行動に耐えられなくなったその時、激怒したエリアスがバーンズに殴り掛かる。 二人の溝は決定的になった。軍人である以前に人間でありたいと悟ったクリスは、レイプされかけた村の少女..
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【激ムズ】究極の5問!パンのドアップ写真だけで名前を当てろ

これが分かったら相当のパン好きか、目がいいかのどちらかです。 View Entire Post ›
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音故知新⑥〜そしてパンクロックが生まれた

「PUNK IS ATTITUDE!NOT STYLE!」 これはイギリスを代表するパンクバンド、ザ・クラッシュのジョー・ストラマーが常々口にしていた言葉だ。 パンク(Punk)とは一体何なのだろうか? 一般的には“音楽ジャンルの一つ”または“反体制的・左翼的なサブカルチャー”として認識されているこのパンクという言葉。 本来は“青二才”“チンピラ”“不健康”などを意味する俗語だという。 その表現形態は、音楽、ファッション、アート、ダンス、文学、映画、イデオロギーにまで及ぶ。 ──それは1970年代の中頃に誕生した。 当時、音楽産業は巨大化の一途を辿っており、コンサートの規模、演奏技術、ステージ演出など、もはや常人には“手の届かない存在”となっていた。 その頃のシーンを席巻していたハードロック、プログレッシブロック、グラムロック…これらのどのジャンルにも馴染めなかった若者達が“等身大の音楽”としてシンプルに楽器を搔き鳴らしたのがパンクロックだった。 そのノイジーでテンポの速い荒削りな演奏と攻撃的な歌詞はロックンロールが本来持っていた野蛮性と未熟性を一気に甦らせた。 そんな衝動的に誕生したと思われるパンクロックにもルーツがあるという。 それは1960年代中頃からニューヨークで活動していたヴェルヴェット・アンダーグラウンドの存在だった。 「あまりの下手さに”俺にも出来る”と勇気が出たよ」とは、後に“パンク界のゴッド・ファーザー”と呼ばれるようになるイギー・ポップの言葉だ。 イギー自身も1967年にザ・ストゥージズを結成し新しい音楽スタイルを模索しようとするが…商業的に成功することなく(イギーを含む)メンバーの薬物依存問題も重なり活動休止状態となる。 そこへ救いの手をさしのべたのが、早くからヴェルヴェット・アンダーグラウンドのルー・リードやイギーの才能に気づいていたデヴィッド・ボウイだった。 ドラッグに溺れ引退状態となっていたイギーは(何度か同じつまずきを重ねながらも)ボウイの手によって再起し、時代も彼に追いつき成功を収めてゆくこととなる。 こういったグラムからパンクへと移行する過渡期に現れたバンドが、1973年に奇才トッド・ラングレンのプロデュースでデビューしたニューヨーク・ドールズだった。 娼婦のようなメイクでド派手な衣装を身にまといながら、シンプルでストレートなロ..
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