2022-03

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カリフォルニア・ドリーミング〜“夢の終わり”を象徴していた隠れた名作

かつて“約束の地”としてのカリフォルニアを背負っていた二つの都市、サンフランシスコとロサンゼルス。 ──サンフランシスコは1950年代にビート詩人たちがノース・ビーチ地区に集まり始めたのを機に意識革命が起こり、60年代後半にはヒッピーたちが髪に花を飾りながら、ヘイト・アシュベリー地区でサイケデリックロックやドラッグとともに愛の夏を過ごした場所。1967年に大ヒットしたスコット・マッケンジーの「San Francisco(Be Sure to Wear Flowers in Your Hair)」(花のサンフランシスコ)がそんな世界へ誘っていた。 また、航空や映画産業が背景にあったロサンゼルスは、太陽の陽射しや青空、解放的なビーチやサーフィンといった風景が、1962年に登場したビーチ・ボーイズというポップグループによって確立されて以来、世界中の若者たちが夢や憧れを抱くようになった場所。1965年にデビューしたママス&パパスのデビュー曲「California Dreamin’」(夢のカリフォルニア)は、冬の薄暗い都会からまだ見ぬカリフォルニアを想う歌だった。 この二つの曲、カウンターカルチャーが生んだ永遠のスタンダードを書いたのは、ニューヨークのグリニッチ・ヴィレッジのフォーク・シーン出身でママス&パパスのリーダー、ジョン・フィリップス。 のちにイーグルスを結成するドン・ヘンリーやグレン・フライは、まだ10代だった頃、テキサスやデトロイトという遠く離れた場所から「西に沈む太陽を眺めながら、あの向こうでは何が起こっているのか、いつも胸をときめかせていた。いつか必ずあそこへ行くぞ」と心に誓ったという。彼らが選んだ先はロサンゼルス。二人ともラジオから流れる「夢のカリフォルニア」を何度も聴いていたに違いない。 映画『カリフォルニア・ドリーミング』(California Dreaming/1979)は、シカゴからバスで憧れのカリフォルニアへやって来た若者の物語だった。 到着したTT(デニス・クリストファー)がまず向かった先はデュークの店。色白で不健康そうなTTは、ジャズ・ミュージシャンの兄を亡くしたばかりでどこか落ち込んでいる。デュークはTTを居候させることに決めるが、年頃の娘のコーキー(グリニス・オコーナー)の反感を買う。TTは彼女に一目惚れした。 それから新しい生活が始まる。..
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レスター・ヤングを偲んで〜スイングジャズからモダンジャズへ、時代の橋渡しをした異端児

「彼はサックスを斜めに傾けて吹いた。そして興が乗ってくると、それは更に少しずつ水平方向に傾き、最後にはフルートのように真横になった。でも、彼が楽器を高く持ち上げているという風には見えなかった。というより、楽器そのものがどんどん軽くなっていくみたいに見えた。楽器が勝手に宙に浮かんでいるみたいに。そしてもし楽器が宙に浮かびたいと望むのなら、それをわざわざ押さえつける必要はないではないか。」 <ジェフ・ダイヤー(著)/村上春樹(訳)『バット・ビューティフル But Beautiful』新潮社より> レスター・ヤングはとても不思議なサックスの吹き方をするジャズメンだった。 決しておどけているわけではない。 まだ駆け出しの頃、楽団などで演奏する際にステージが狭かったためテナーサックスを人のいない場所に向けて吹くようにしているうちに癖になってしまったというのだ。 かつて1930年代から1940年代初めにかけて大流行したスウィングジャズの黄金時代から、モダンジャズの時代へと移行していった変遷期があった。 当時活躍したチャーリー・パーカーらの偉大なジャズメンたちにとって、彼は大きな目標となった人物の一人だったと言われている。 映画『ラウンド・ミッドナイト』の中で、デクスター・ゴードンが演じる主人公が、演奏中に「歌詞を忘れたから吹けない」と、テナーサックスを置いて出て行く場面がある。 これは実際に、レスター・ヤングが言った言葉である。 彼は、歌うようにサックスを吹くジャズメンだった。 いや、彼は本当にテナーサックスを吹きながら歌っていたのだ。 彼の演奏スタイルの最大の特徴は、音色もさることながら、その前人未踏のユニークなフレージングにあった。 彼は4小節や8小節単位の型にはまったフレーズ作りを嫌っていた。 わざと1小節を1音で吹いたり、あえて無音の小節をやり過ごしたと思えば、一聴無意味な同一音をくり返したあとに、突如スムーズな均整のとれたメロディーへとつないでして周囲を驚かせた。 絶頂期のソニー・ロリンズがこれに通ずるプレイを駆使してモダンジャズのアドリブの可能性に新風を吹き込んだが、その源はすべてレスター・ヤングが生み出したものだった。 また彼はクラリネットの達人でもあり、その奏法においてもまったく独自のものであった。 1938年~1939年に彼が行ったクラリネットの仕事は、ベイ..
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沢田研二27歳〜海外進出、結婚、そしてキャリア最大のヒット曲

日本を代表する歌手、沢田研二。 彼はザ・タイガースでデビューした19歳から現在に至るまでの50年以上、毎年欠かすことなくレコーディングし、作品を発表し、ツアーを行ってきた。 この実績は、日本はおろか海外でも類を見ない偉業といえるだろう。 還暦を過ぎて“言いたいこと”を歌うスタイルをより濃く打ち出しながら現在もコンサートを中心とした活動を続けている。 そんな彼が長いキャリアを通じて、一度だけ海外進出を試みた時期がある。 1973年、25歳の時に歌った「危険なふたり」で日本歌謡大賞の大賞を受賞し“タイガースのジュリー”からソロ歌手・沢田研二へと転身した翌年以降、彼は“次へのステップ”を強く意識しはじめていた。 1974年1月にフランスに渡り、MIDEM(毎年1月カンヌで開催される世界最大規模の国際音楽産業見本市)に参加するのを皮切りに、9月には再びヨーロッパを訪れ、ロンドンのポリドールで12曲、フランスのポリドールにて3曲レコーディングを行う。 そして1975年1月、イギリスにてシングル「The Fugitive(愛の逃亡者)」と同タイトルのアルバムを、フランスにてシングル「Mon amour, je viens du bout du monde」をリリースし海外デビューを果たす。 それは彼が27歳を迎えた年の出来事だった。 振り返ればこれまでもピンクレディー、矢沢永吉、松田聖子、久保田利伸、 NOKKO、ドリームズ・カム・トゥルーなど、国内で一定の成功を収めたポップス系歌手が海外進出を試みてきたが…誰一人として異国の地でヒットを飛ばすことはなかった。 ところが“KENJI SAWADA”こと沢田研二の海外進出は、他の歌手とは違うものだった。 フランスで「Mon amour, je viens du bout du monde」に火がつき、ラジオのチャート番組で最高第4位を獲得、レコード会社の発表ではフランス国内のみで20万枚を売り上げたという。 これは、日本とフランスの人口を比較すれば充分な成績といえる。 同曲はフランスでのヒットに伴って、スイス、カナダ、オーストリア、ギリシャ、ノルウェー、ベルギー、オランダなどヨーロッパ他各国でリリースされている。 また、国内では作詞家・山上路夫が日本語詞をつけた「巴里にひとり」もオリコンで最高5位、20.3万枚の売り上げを記録し..
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黒人の“ブルース”に呼応したアイルランド系移民の“ハイロンサム”

広大なアメリカ大陸の音楽を見渡す時、アイルランド系移民の存在を避けて通ることはできない。その果たした役割はあまりにも大きい。しかし、その文化的栄光の影には、想像を絶する苦難の歩みがあった。 1775年にアメリカで独立戦争が始まった頃、宗教的迫害によってアイルランドからの出国を余儀なくされた最初の移民が東部の僻地山岳帯アパラチアに入植した。「スコッツ・アイリッシュ」と呼ばれた彼らは異国の地でも独自の文化を守り、ウイスキーの密造や祖国の音楽やダンスを通じて、過酷な現実から生じる疲れた心と身体を癒すことになった。また、強い反英感情を持った彼らは独立戦争でも果敢に戦って、新しい国で自分たちの存在意義を見出していった。 もう一つ特筆すべきは、19世紀半ば頃から大量に流れてきた移民たち。1845年、アイルランドでは農業の要だったジャガイモの胴枯れ病が原因で未曾有の大飢饉が発生。死と疫病が国全体に広まり、10年間で死者100万人以上を出した。多くの人々は生計の手だてを失う中、イギリス政府は渡航費をわずか2ポンドに設定して、「土地がたっぷりとあって、地主も存在せず地代は無料、家族を十分に養って行ける」新大陸への移住を意図的に促した。それは自ら望んだ道というより、“祖国からの追放”だった。これにより800万を超えていたアイルランドの人口は、死者と移民の影響で19世紀末には400万人にまで落ち込んだ。 しかし、アイルランド系移民たちが抱いた約束の地での新たな野心は、もろくも崩れ去る。彼らの多くは農村共同体での生活しか知らなかったため、新大陸の産業社会に順応できるわけもなく、アパラチア山地で小屋を建てて自給自足の生活を送るか、すでに富を築き上げて既得権を守ろうとする旧移民のアングロサクソン系からの差別を受けながら、安い賃金と奴隷のような扱いの中で炭坑や鉄道の労働に従事するしかなかった。 1917年、アメリカは第一次世界大戦の戦勝国となって好況に沸くが、それは同時に貧富の格差が決定的になった瞬間でもあった。マンハッタンでは摩天楼が次々と背を伸ばしていた時代に、アイルランド系の農民も南部の黒人も、100年前と変わらない貧困生活を送っていた。 さらに1929年の大恐慌が彼らを襲う。1930年代になると、オクラホマのダストボウル(砂塵地帯)からアイルランド系の貧農たちが強制退去させられ、家族単位..
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ワイルド・スタイル〜HIP HOPの原風景が描かれた伝説のマスターピース

ある音楽ジャンルの歴史を人間の年齢に例えた場合、今のロックは、すでに60歳を過ぎて間もなく年金生活の仲間入りといったところだろうか。1950年代半ばに産声を上げたロックンロールは、米国の黒人にとっては数あるダンススタイルの一つにしか過ぎなかったが、英米の白人にとっては大きな意味を持っていたのはその後の流れを見ても明らかだ。 大雑把な言い方をするなら、ロックは10代に入って急激に成長し始め、ティーンエイジャーとなって長髪化した60年代後半〜70年代前半に黄金期を迎え、20代でビジネスを覚えたり(英国では破壊運動が起きたが)、30代でテクノロジーやMTVを取り込む遊び心も身につけた。一転して40代はオルタナティヴでストイックに原点回帰。50代以降は落ち着いた大人の道を歩んでいる。 ロックが若者を象徴する時代はとっくに終わったし、この先何か大きなムーヴメントが起こる確率は低い(信じたいけれど)。いずれはジャズやブルーズやソウルのように、細く長く愛される音楽スタイルになっていく可能性が高い。 その点、ヒップホップはまだ成長を止めていない。試行錯誤しながら現在新光景を塗り替えている。年齢にすると40歳前後。脂の乗り切った時期だ。ヒットチャートを見てもヒップホップが聴こえてこない週はないし、むしろゼロ年代以降は完全に主流をなしている。「ヒップホップは音楽ではなくゲーム」という感覚を持ったデジタル・ネイティヴ世代には、なくてはならない“遊び”となった。 そんなヒップホップもロック同様、これまで様々な人生を歩んできた。まずはロックファンにもお馴染みのランDMC、LLクールJ、ビースティ・ボーイズらによるデム・ジャム勢の隆盛。パブリック・エナミーやKRS・ワンのように政治/社会色を打ち出した者。デ・ラ・ソウルらによるネイティヴ・タン/ニュースクールの振動。『Yo! MTV Raps』の放映開始。MCハマーのように“売り”に出る者。 そしてロサンゼルスからはN.W.A.を筆頭とするギャングスタ・ラップの衝撃。ドクター・ドレーのGファンク旋風。デス・ロウとバッドボーイの台頭。東西抗争に巻き込まれた2パックとノートリアスB.I.G.の死。ソウルとの融合。女性ラッパーの登場。サウスへの移動。ジェイ・Zやエミネムのデビュー……すべてヒップホップがまだ10〜20代だった頃の出来事だ。 『ワイルド..
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歴史的なロックンロールの名曲「ジョニー・B.グッド」の誕生秘話

“ロックンロール創始者の一人” チャック・ベリーが生み出した代表曲「ジョニー・B.グッド」の誕生秘話をご紹介します。 ルイジアナの奥深く…丸太小屋に住んでいる田舎少年ジョニー・B.グッド 読み書きなんて習ったこともない だけどギターだけはベルを鳴らすみたいに上手に弾けるんだぜ! それゆけ!ジョニー!ゆけゆけ!ジョニー・B.グッド! 1952年、27歳になった彼はピアニストのジョニー・ジョンソン率いるバンドにギタリストとして加入する。 「あれは年の瀬だった。ジョニー・ジョンソンというピアニストから電話があったんだ。大晦日の晩にトリオバンドでギターとヴォーカルをやらないか?ってね。セントルイスにあるコスモポリタンというクラブでの本格的な演奏だ。もちろん引き受けたさ!」 彼にとって、そのステージがプロのミュージシャンとしての第一歩となった。 ジョニー・ジョンソンの理解もあり、彼は徐々に人の曲に新しい歌詞をつけたり、即興の歌詞を歌うようになる。 ギターのアドリブの腕も上達し、ジョニーのピアノとの絡みも客に大ウケしたという。 その後、彼はブルース界の大御所マディ・ウォーターズから人生を変えるアドバイスをもらい、直後にブルースの名門チェスレコードとの契約を結ぶ。 彼は、その運命的とも言える日のことを鮮明に憶えていた。 「ある日オレは新車の遠乗りがしたくなって、シカゴに親戚がいるという友達のラルフと2人でシカゴへとドライブしたんだ。そこで憧れのマディ・ウォーターズが出演するクラブへ行ったんだ!マディは最後のセットのラストナンバー“Got My Mojo Working”を演奏中だった。演奏が終わると群がるファンをかきわけ、サインを貰うために突進してくれたラルフのおかげで、俺はマディと口をきくチャンスができた。大統領か法王に、お目どおりするような気分だった俺は、曲の素晴らしさを褒めた後、単刀直入に“レコードをつくるにはどうすればいいのか?”と聞いてみた。大勢のファンが声をかけようとひしめく中で、マディは俺の質問に答えてくれたんだ。“レナード・チェスに会ってみろ!47丁目とカテッジの角にあるチェスレコードさ!”」 1955年、彼は29歳にしてシングル「Maybellene」で遅咲きのデビューを果たす。 マディ・ウォーターズの推薦でチェスと契約を交わしたのだから…最初はブルーズでデ..
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ロックンロールの創始者チャック・ベリー伝説〜憧れのマディ・ウォーターズと交わした運命の一言、遅咲きのデビューからの快進撃

ロックンロールの音楽を聴かせてくれよ 古くさい方法でもいいからさ 忘れられないようなバックビートを奏でてくれよ 古い風習に縛られていても、その音を聴けば ロックンロールが感じられるように  僕と一緒に踊りたいならさ 僕と一緒に踊りたいんだろう? ボ・ディドリーやリトル・リチャードと並び“ロックンロールの創始者の一人”として知られている伝説の男チャック・ベリー。 ビートルズのジョン・レノンが「ロックンロールに別名を与えるとすれば“チャック・ベリー”だ」と発言しているほど、後進のロックアーティストたちに多大な影響を与えてきた彼。 そんな“生きる伝説”のような彼は一体どんな人生を歩んできたのだろう? ──1926年、彼はミズーリ州セントルイスに住む家庭の6人兄弟の真ん中として生まれる。(一部の伝記ではカリフォルニア州サンノゼ生とする説もあり) 幼いころから聖歌隊に入り音楽に親しんできた彼だったが、高校時代には不良仲間に影響され様々な悪事に手を染めて警察のお世話になったことも数多くあったという。 1953年、27歳になった彼はピアニストのジョニー・ジョンソンが率いるトリオバンドにギタリストとして加入する。 ある日、彼はブルース界の大御所マディ・ウォーターズから“人生を変えるアドバイス”をもらい、その直後にブルースの名門チェスレコードとの契約を結ぶ。 ある日俺は新車の遠乗りがしたくなって、シカゴに親戚がいるという友達のラルフと2人でシカゴへとドライブしたんだ。 ラルフの親戚の家でご馳走になった後、俺達はシカゴのサウスサイドのブルースの生演奏が聴けるクラブをハシゴしてまわった。 そこでハウリング・ウルフ、エルモア・ジェームスのステージを観たんだ。 とても感動したし!興奮して聴き入ったよ! そして、今度は憧れのマディ・ウォーターズが出演するクラブへ行ったんだ! マディは最後のセットのラストナンバー「Got My Mojo Working」を演奏中だった。 演奏が終わると群がるファンをかきわけ、マディのサインを貰うために突進してくれたラルフのおかげで、俺はマディと口をきくチャンスができた。 大統領か法王に、お目どおりするような気分だった俺は、曲の素晴らしさを褒めた後、単刀直入に「レコードをつくるにはどうすればいいのか?」と聞いてみた。 大勢のファンが声をかけようとひしめく中で、マ..
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