2022-04

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パープル・レイン〜真のスーパースター誕生の瞬間を描いたプリンスの自伝的映画

2016年はデヴィッド・ボウイやイーグルスのグレン・フライなど大物ミュージシャンが相次いで亡くなったが、その度に彼らの過去の代表作やベスト盤を購入する人が多かったようだ。同年4月21日に亡くなったプリンスも、直後の5/7付のビルボードチャートで1位・2位・6位とTOP10に3枚も突如ランクインした。1位と6位はベスト盤で、2位が『パープル・レイン』。これはプリンスと言えば、やはり『パープル・レイン』を思い浮かべる人が多いことを証明した結果だろう。 1984年のリリース当時を思い返すと、あの衝撃の大きさは凄かった。前作『1999』によって機は熟していたことは追悼コラム「プリンスの足跡〜アーティストとしての“自由と権利”を守り貫いた孤高の天才」でも触れた通りだが、プリンスが真のスーパースターになったのは紛れもなく『パープル・レイン』。 MTV時代が本格的に幕開けてヴィジュアル性に富んだアーティストたちが増殖し、現在よりも“洋楽”が若者文化に深く浸透・作用していた1980年代。デュラン・デュランやカルチャー・クラブやワム!といったUKポップ、ヘヴィメタル勢、サントラ映画群、そしてマイケル・ジャクソンやシンディ・ローパーやマドンナらの動向を追いかけることがポップカルチャーの最先端だったあの時代。そんな頃にプリンスはあまりにも眩しくブレイクしたのだ。 ミック・ジャガーはその数年前から「プリンスがどんなに凄い奴か君らには分からないだろう」と言っていたし、デヴィッド・ボウイは「彼は今、一番気になる存在だ」とコメントした。ここで1983年と1984年のビルボード・チャートでナンバーワンを記録したアルバムを並べて、あの時代の風景を再生してみよう(数字は1位を獲得した週数) ○1983年 Business as Usual/Men at Work ⑮*前年分含む Thriller/Michael Jackson ㊲*翌年分含む Flashdance/Soundtrack ② Synchronicity/The Police ⑰ Metal Health/Quiet Riot ① Can’t Slow Down/Lionel Richie ③ ○1984年 Footloose/Soundtrack ⑩ Sports/Huey Lewis & the News ① Born in the ..
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プリンスの足跡〜アーティストとしての“自由と権利”を守り貫いた孤高の天才

1983年。マイケル・ジャクソンが『スリラー』で世界を席巻している頃、彼と同い年の二人のアーティストが翌年迎えることになる大ブレイクを前に、その魅力をゆっくりとポップミュージックの最前線に浸透させていた。 一人はニューヨークのダンスフロアを揺るがせていたデビューしたてのマドンナ。そしてもう一人は、1982年にリリースされたアルバム『1999』やシングル「Little Red Corvette」で初のTOP10ヒットを放っていたプリンス。その妖しげなルックスと独創的なサウンドで異端扱いを受けていたプリンスだったが、開局したばかりのMTVに慣れ親しんでいた若い世代ならみんなこう思ったはずだ。「この男はきっと何かをやってくれる」「次で必ず大きく化ける」と。 プリンス・ロジャー・ネルソンは、1958年6月7日にアメリカの中西部ミネソタ州ミネアポリスで生まれた。複雑な家庭環境によって孤独な幼少時代を過ごすが、彼には音楽があった。と言ってもミネアポリスは白人の土地であり、黒人の人口比率はわずか3%。ネットやSNSなどなかった1970年代、プリンスの耳と心は自然にラジオから流れてくるロック・ミュージックを捉えていく。中でもカルロス・サンタナのギターがお気に入りだった。 1978年4月、19歳の時にアルバム『For You』でワーナーからデビュー。新人としては異例のセルフ・プロデュース権を得て、アレンジ、作詞作曲、歌、演奏すべてを一人でやってのけた(単独多重録音)。経費削減のためにシンセサイザーを活用してファルセット・ヴォイスを多用したこの作品はヒットこそしなかったものの、早熟の孤高の天才として忘れてはならない原風景だ。 その後年1枚のペースでアルバムを発表。しかし、ジャンル分けなどできない唯一無比なサウンドに加え、官能的すぎる歌詞やヴィジュアルワークは当時のメインストリームの音楽ファンには理解不能だった。1981年にローリング・ストーンズの公演の前座を2日間経験して、大ブーイングを喰らってモノを投げつけられて開始20分でステージを下りたのは有名な話だ。プリンスは屈辱に耐えられずに人知れず涙していたという。 だが、自らのバンドを“ザ・レヴォリューション”と名づけた『1999』から一気に状況が変わっていく。一部のヒップな若者たちから支持されていたプリンスは、遂に1984年『Purpl..
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沢田研二の「危険なふたり」が発売された日

今日まで二人は 恋という名の 旅をしていたと 言えるあなたは 年上の女 美し過ぎる あゝあゝ それでも 愛しているのに 1973年(昭和48年)4月21日、沢田研二の6枚目のシングル「危険なふたり」(ポリドールレコード)が発売された。 同年の国内ヒットチャートといえば… 1位「女のみち」/宮史郎とぴんからトリオ 2位「女のねがい」/宮史郎とぴんからトリオ 3位「学生街の喫茶店」/ガロ 4位「喝采」/ちあきなおみ 5位「危険なふたり」/沢田研二 6位「神田川」/かぐや姫 7位「心の旅」/チューリップ 石油ショックによる物価急上昇、トイレットペーパーや洗剤などの買いだめ騒動、日本電信電話公社が電話ファックスサービスを開始、ノストラダムスの大予言が出版され、オセロゲームが流行した年でもある。 リリース直後にはオリコンチャート1位を記録した「危険なふたり」。 ソロ名義のシングルとしては、初の首位獲得となった。 クレジットには作詞:安井かずみ、作曲:加瀬邦彦、編曲:東海林修の名が記されている。 この曲の歌詞に登場する“年上の人”とは誰のことなのか? 当時は結婚前だったザ・ピーナッツの伊藤エミ(7歳年上)という説もあったが… これはまさに作詞家自身(9歳年上)だったということを、安井本人が明かしている。 当時、熱愛中だったジュリーを助手席に乗せて車で走っていたとき、浮かんだ詞だったという。 ZUZUの愛称で知られ、お洒落で“時代の最先端”を行く女性だった安井かずみ(1977年に加藤和彦と結婚)は、自身の著書にこんな記憶を綴っている。 ジュリーのために作詞をしてから、もう何年になるでしょうか… ジュリーの歌詞を書きながら、ジュリーの歌を聴きながら、音楽の世界を歩き続けて来たのは。 その過程に、彼の音楽意識が前後左右したりすることはあっても、必ずどこかで一体感、連帯感が持てるのです。 ジュリーの音楽に対する姿勢に、いつも感動と拍手をしてしまうのです。 ボブ・ディランを除いて、殆どの世界中のアーティストのステージを見て来ましたけれど、日本でジュリーのステージを見られる私たちは最高に倖せだと思います。 本当に彼のステージは素晴らしいのです。 海外渡航が珍しかった1960年代に、ヨーロッパの上流社会の暮らしを経験し、イヴ・サンローランのオートクチュールを着こなしていた..
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I’ve Got Life!私は生きている!〜伝説の歌手ニーナ・シモンのドキュメンタリー映画&トリビュートアルバムの誕生秘話

「Ain’t Got No…I’ve Got Life」/ニーナ・シモン 私には家がない 靴もない 金もなければ 品もない 土地もなければ 信じるものもない 頼る教会もないし 祈る神もいない じゃあ、私には何があるの? 私には何があるのか教えて 私はなんで生きてるの? 時代を越えて、人々を惹きつけて止まないニーナ・シモン。 黒人女性としての誇りと尊厳を歌いあげた伝説のシンガーソングライターとして音楽史にその名を刻んだアーティストである。 “ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー”では第29位に選ばれている。 1933年にアメリカ南部の貧しい黒人家庭のもとに生まれた彼女。 60年代には公民権運動に積極的に参加し、様々なメッセージを込めたシニカルで大胆な楽曲を数多く残した。 2003年に乳ガンで息を引き取るまで力強く生き抜いた人である。享年70だった。 他界から12年後…2015年、そんな彼女の歌手という側面だけではない、真の姿に迫ったドキュメンタリー映画『What Happened, Miss Simone?』が米国の動画配信サービス“Netfilx”にてストリーミング公開された。 ドキュメンタリー『What Happened, Miss Simone?』Official Trailer 映画のタイトルになったこの“What Happened, Miss Simone?”という言葉は、アメリカの活動家であり詩人のマヤ・アンジェロウが書いた記事から引用したものだという。 監督に抜擢されたのは、これまでにも数々のドキュメンタリー映画を手がけたリズ・ガルバスという女性監督だ。 彼女は、ルイジアナ州刑務所の暴走的な日々の様子を囚人の視点から描いた『The Farm: Angola USA』(1988年)や、伝説のチェスプレイヤーのドキュメンタリー『Bobby Fischer Against the World』(2011年)、そして日本でも公開され話題となった『マリリン・モンロー 瞳の中の秘密』(2013年)などで高い評価を受けてきたベテラン監督である。 ほとんどの伝記的なドキュメンタリーは、対象に起きた良い出来事と悪い出来事を年代順に並べ、誰かが対象について褒めたり業績を讃えたりする映像を入れ込んだ“四角四面”の表現で作られていることが多いのだが..
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アニー・ホール〜アカデミー賞授賞式の夜、NYでクラリネットを吹いていたウディ・アレン

『アニー・ホール』から僕は監督として成熟し始めたんだ。 「ウディ・アレン」の名を知らない映画ファンはいないだろう。50年以上に及ぶキャリアと70本以上の作品で、「監督」「脚本」「俳優」として関わってきた映画作家。自ら生まれ育ったニューヨークを心から愛する人。彼の作る映画は決して驚異の興行収入を叩き出すわけではないが、それでもアカデミー賞のノミネート回数は最多を誇るし(監督賞1回、脚本賞3回受賞)、ウディ・アレン映画への出演でスターになった俳優たちはたくさんいる。そして何よりも、彼はハリウッド産業に背を向け続け、賞レースに興味がない。 ウディ・アレンは1935年12月にニューヨークのブルックリンにユダヤ系の両親の長男として生まれた。幼い頃から映画やコメディ、マジックやジャズに親しむようになり、クラリネットなどの楽器も演奏するようになった。ギャグ・ライターの仕事を得ると、ニューヨーク大学の映画学科を中退。1960年頃にはスタンダップ・コメディアンとして、自らナイトクラブの舞台に立つようになる。TVの仕事も増えて顔が売れ始めた。 1964年に脚本と出演を兼ねた『何かいいことないか小猫チャン』で映画デビュー。しかし、映画製作はいろんな連中によって作家性をメチャクチャにされるという経験から、1969年には『泥棒野郎』で監督デビューを果たす。ハチャメチャなコメディ映画を何本か撮る傍ら、ブロードウェイの戯曲や雑誌に短編小説を発表して作家性も高めていった。そして、女優ダイアン・キートンとの実生活と別離からヒントを得て作ったのが『アニー・ホール』(Annie Hall/1977)だった。 ウディ・アレンのターニング・ポイントとなったこの作品は、それまでの定番路線からコメディも含んだ独自のラブストーリーへと昇華。「映画作家ウディ・アレン」誕生のきっかけとなった。別れていたダイアン・キートンとは4回目の共演で、彼女が映画で着こなすラルフ・ローレンなどのファッション/スタイリングは「アニー・ホール・ルック」として話題にもなり、映画はアカデミー賞の作品賞・監督賞・脚本賞・主演女優賞を獲得。 特筆すべきは、ウディ・アレンが『アニー・ホール』でニューヨークの街を物語の一部として描いたことにある。ニューヨークの風景や喧騒、クラブやレストランや映画館といった場所までもが、映画の重要な要素として機能..
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神田川〜安保闘争・学生運動の熱が冷めてゆく中で生まれた“三畳一間”のラブストーリー

貴方はもう忘れたかしら 赤い手ぬぐいマフラーにして 二人で行った横丁の風呂屋 一緒に出ようねって言ったのに 1970年代初頭の日本では、安保闘争・学生運動の熱が少しずつ冷めてゆく中、一部の若者たちの間で得も言われぬ敗北感と挫折感が漂い始めていたという。 そんな時代に、この「神田川」は生まれた。 南こうせつ、伊勢正三、山田パンダからなるフォークグループかぐや姫が1973年に発表したもので、45年経った今でも“昭和の代表曲”として愛され続けている名曲の一つである。 当初はアルバムの一曲として収録されていた歌だったがラジオで大反響を呼び、急遽、シングルカットされて160万枚を売り上げる大ヒットを記録した。 楽曲のクレジットには作曲:南こうせつ、作詞:喜多條忠(きたじょうまこと)と記されている。 歌詞を書いた喜多條と言えば、1960年代の終り頃に浅川マキと出会ったことをきっかけに、劇団・天井桟敷を旗揚げしたばかりの寺山修司などとも親交のあった作詞家で、第一期がくや姫のシングルのB面曲「マキシーのために」で作詞を担当した人物でもある。 1970年のデビュー以来、ヒット曲にめぐまれなかった南は、かぐや姫の3rdアルバムを製作するにあたって文化放送で放送作家をしていた喜多條に作詞の依頼をした。 あるインタビューで、喜多條は当時のことをこう語っている。 「締め切りは今日なんですけどねって平気な顔して言うんです。」 急な依頼に何も浮かばなかったという。 その日の帰宅途中に彼は神田川沿いを歩きながら…ふと数年前のことを思い出す。 彼女とアパートで同棲していた学生時代。 大学の近くにあった三畳一間の小さなアパート。 窓の下には神田川が流れていた。 60年代、キャンパスには学園紛争の熱が渦巻いていた。 「あの暮らしは一体何だったのか…」 喜多條は、依頼された歌詞にその思い出を書こうと決意した。 大学時代には頻繁にデモ運動にも参加していた。 ある日、疲れ果ててから帰るとカレーライスを作っている彼女の後ろ姿を見る。 コトコトと包丁で刻む、ささやかな幸せの音。 貧しくとも、かけがえのない時間。 このまま彼女と結婚して、社会人として安穏に人生を生きてゆく。 「俺はそれでいいのか?彼女の優しさ、そして平凡な暮らしの中に埋もれていく自分…そういうのが怖かった。」 書き終えた歌詞の最後に「ただ貴方のや..
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Drift Away〜自由!さすらい!ロック黄金期を讃える歌

さあビートをくれ!俺の魂を自由にしてくれ! ロックンロールの海に溺れ、さすらいながら流れていくんだ! 「自由!さすらい!ロックンロール!」 古き良きロック黄金期を象徴するようなフレーズが歌のサビで繰り返される名曲「Drift Away (明日なきさすらい)」は、70年代〜80年代に多くのアーティスト達がコンサートで取り上げた“ロックンロール讃歌”だ。 1972年にメンター・ウィリアムスが作詞作曲し、同年に“スワンプロック”の雄ジョン・ヘンリー・クルツがアルバムに収録したものが初出となった。 メンター・ウィリアムスと言えば、ロジャー・ニコルスと組んで数々の名曲を残したポール・ウィリアムスの弟であり(The Holy Mackerel“ホリー・マッケレル”では兄弟で在籍)、黒人カントリーアーティストのドビー・グレイやキム・カーンズらを手がけたカントリー界の名プロデューサーでもある。 彼はA&M、MCA、RSO、CBSなど大手のレコード会社と契約し、ロッド・スチュアート、ローリング・ストーンズ、ウェイロン・ジェニングス、リンゴ・スターetc.に曲を提供している。 ところで前出の“スワンプ”という言葉にどんな意味があるのだろうか? それはアメリカ南部の“湿地帯”を指す言葉で、R&B、ブルース、カントリー、ゴスペルなどアメリカ南部をルーツとした音楽をごった煮にしてできた泥臭いロックを“スワンプロック”という。 そんなバックボーンから生まれた「Drift Away (明日なきさすらい)」を1973年にドビー・グレイが歌い、全米ビルボードチャート5位という大ヒットを記録した。 後にこの“ロックンロール讃歌”は、ロッド・スチュワート、ブルース・スプリングスティーン、ロイ・オービソン、レイ・チャールズ、ドゥービー・ブラザーズ(タイトルが「Give me the beat, boys」)、ボン・ジョヴィ、そしてローリング・ストーンズ(海賊盤track from the “It’s Only Rock & Roll” sessions 1974に収録)といった大物アーティスト達から挙ってカヴァーされ、世界中のロックファン達に愛されることとなる。 心が自由なら メロディが胸を揺さぶる 憂鬱な時は ギターの音が慰めてくれる こちらのコラムの「書き手」である佐々木モトアキの音楽活動情報..
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アンダー・ザ・シルバーレイク〜LAとポップカルチャーと陰謀論を描く新感覚サスペンス

アメリカ映画には「時」と「場所」が大きく作用する。何年頃? 季節は? 朝それとも夜? ニューヨーク? ロサンゼルス? それとも北部や南部?…… この“いつ・どこで”を経て魅力的な「人物」や興味深い「出来事」が描かれていく。特に場所や土地は映画全体のムードを示すこともある。誰もが特定の風景を思い浮かべるからだ。 LAは美しさと恐怖、異常なほどの富とその真逆の貧困が混在している街だ。ハリウッドヒルズには豪邸が立ち並ぶ一方、小さなアパートからその豪邸を眺めるだけの人たちもいる。 例えば、デヴィッド・ロバート・ミッチェル監督はある日そんなことを考えながら、『アンダー・ザ・シルバーレイク』(Under the Silver Lake/2018)の脚本を一気に書き上げた。 主人公のサムはロサンゼルスに住む33歳。もっと意味のある人生を送ることを渇望している。本で読んだりTVで観たりするような人生だ。サムは我々の代弁者だ。自分の中には優れた何かがあると信じており、自分が特別な存在であることを気づかない世界に対して憤りを感じている。 デヴィッド・ロバート・ミッチェルの頭の中には、デヴィッド・リンチの『マルホランド・ドライブ』、ロバート・アルトマンの『ロング・グッドバイ』、ロマン・ポランスキーの『チャイナタウン』、コーエン兄弟の『ビッグ・リボウスキ』などがあったに違いない。どれもロサンゼルスを舞台にした“人探し”映画だ。 これはサムの堕落した生活が行き詰まった頃に起こるミステリーとの遭遇の物語。サラという名の失踪した女性を探す。彼が彼女を愛しているからではなく。捜索という行為がサムの血を騒がせる。 『アンダー・ザ・シルバーレイク』はさらにもう一つ、ポップカルチャーへのオマージュや憎しみも込める。大量の音楽、映画、TVドラマ、コミック、TVゲーム、雑誌、広告、都市伝説などがサンプリング&コラージュされる様子は、ゴダールの『気狂いピエロ』やタランティーノの『パルプ・フィクション』の系譜だ。 それだけじゃない。流行や消費というものはすべて秘密結社に操られていて、我々はその巨大な権力に支配されているという陰謀論まで登場する。 「ソングライター」と名乗る怪物のような老人が、「君の父親が若い頃に聴いた曲も、君が幼い頃に聴いた曲も、現代のティーンが踊っている曲も、何もかも私が作った曲だ..
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ヒプノシス〜アルバムジャケットでROCKに革命を起こしたデザイン集団

僕たちはいつも自分たちに言い聞かせてきた。自分たちの作品は音楽そのものに匹敵するようなアートだって。音楽による聴覚的な経験と同じくらい、芸術的な価値のある視覚的な経験を創造することを常に考えてきたんだ。(ストーム・トーガソン) 1968年のある日のこと。ロンドンの安アパートに友人たちと同居していた金欠の美術学生ストーム・トーガソンは、アパートの住人の絵描きが成功したばかりのロックバンドのアルバムカバーの仕事を断ったのを見て、代わりに自分にやらせてくれと頼み込んだ。 ストームはすぐに「誰か一緒にやらないか?」と友人たちに話を持ちかけた。するとオーブリー・パウエルがやりたいと言ってきた。ストームとオーブリーは二人で仕事に取りかかることにした。 正直、目の前のチャンスをつかんだものの、何をどうすればいいのか分からなかったが何とか仕上げてみた。それは同年に『A Saucerful of Secrets』(神秘)というタイトルでリリースされた。バンドの名前はピンク・フロイド。 これをきっかけに僕たちは一緒にビジネスを立ち上げ、ヒプノシス(Hipgnosis)と名乗ることにしたんだ。これは僕たちが住んでいたアパートのドアに誰かが引っ掻くようにして殴り描いた文字だった。(ストーム・トーガソン) Hip(新しいもの)とGnosis(霊的意識)の合成語。Hipnosisであれば催眠術という意味になり、別のスペルではHiP&Newという意味にもなる。二人はこの言葉が気に入った。 その後、大学を卒業した二人は1970年、ロンドンのソーホーの東にあるデンマーク・ストリート6番地にオフィスとスタジオ用に2フロアを借りた。デザインの仕事場というよりは、みすぼらしい衣料品工場のように見えた。打ち合わせの広間は、いつも暗室から漏れる定着液のきつい臭いに支配されていた。 だが、この場所で伝説的で独創的な仕事のアイデアが次々と生まれていったのだ。バンドの写真をカバーにするというお決まりのやり方を避けたからこそ、革新的にもなった。まずは手掛けるアーティストの音楽を聴いて歌詞を読んだ後、二人でアイデアを交換して練り上げていく。 それが固まるとスケッチに起こしていくのだが、実は二人とも絵が下手だったので友人のイスラトレーターに頼んで描き出してもらう。そしてアーティスト側へ説明し、正式に話が決まればスケ..
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伝説のデザインチーム「ヒプノシス」

★ダウンロード/ストリーミング時代の色彩別アルバムガイド 「TAP the COLOR」連載第31回 ヒプノシスは、ストーム・トーガソンとオーブリー・パウエルによって結成された英国のデザインチーム(1968年〜1983年解散)。トーガソンは、ピンク・フロイドのシド・バレットやロジャー・ウォーターズと学生時代より親交があり、彼らのアルバムのジャケットデザインを手掛けるようになった。フロイドとヒプノシスは、ロックにヴィジュアル革命を起こす。 フロイドの作品群に象徴されるように、アーティスト名やタイトルの文字を排除した、演出された写真や斬新なデザインだけの表現手段はヒプノシスの真髄であり、ロックのレコードジャケットが芸術的なキャンバスとなり得ることを証明した歴史的な仕事だった。70年代にはコンピュータ処理に対応するため、ピーター・クリストファーソンが新たに加入。 70年代ロックの肥大化するビジネス(レコード売り上げや大掛かりなツアー)と向き合いながらも、本来の“夢や物語”を綴ったアートワークは、ロックファンたちの胸に永遠に展示されることになった(日本でも実は松任谷由実の作品で慣れ親しんでいる人も多数)。そして80年代半ばにはMTV時代を見据えてビデオ制作会社へとシフトチェンジするも、あえなく倒産。 トーガソンはデザイン仕事を再開。90年代以降もフロイドのほか、オーディオスレイヴ、マーズ・ヴォルタ、ミューズなどの新世代バンドのヴィジュアル世界を創造した(2013年4月死去)。また、2012年のロンドン五輪開会式イベントでは、ヒプノシスとフロイドの作品群(『狂気』『あなたがここにいてほしい』『アニマルズ』など)がオマージュされていたことは有名。(中野充浩) (ヒプノシスが手掛けた主なアーティスト)*アルファベット順 10CC、AC/DC、バッド・カンパニー、シド・パレット、ブラック・サバス、ブランドX、デフ・レパード、ELO、EL&P、ピーター・フランプトン、ピーター・ガブリエル、ジェネシス、デイヴィッド・ギルモア、サミー・ヘイガー、ロイ・ハーパー、レッド・ツェッペリン、松任谷由実、ポール・マッカートニー、ナイス、アラン・パーソンズ・プロジェクト、ピンク・フロイド、ロバート・プラント、プリティ・シングス、レインボー、トッド・ラングレン、スコーピオンズ、アル・スチュワート、ステ..
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酒と泪と男と女〜“孤高の音楽家”河島英五という生き方

昭和を代表するこの名曲「酒と泪と男と女」は、1975年にリリースされた河島英五とホモ・サピエンスのデビューアルバム『人類』に収録されたのが初出。 作詞作曲は河島英五。 翌1976年には河島英五のソロ名義でシングルリリースされ、オリコン週間ランキング9位のヒットを記録した。 ──1952年、大阪府東大阪市で生まれた河島英五。 1969年、17歳の頃からフォークソングを歌い始める。 大阪府立花園高校を卒業後、ホモ・サピエンスというグループで本格的に音楽活動をスタートさせる。 そのスタイルは“支離滅裂派フォーク”とも呼ばれ、あのねのねらと活動を共にした時期もあった。 また、その風貌と歌唱スタイルから「吉田拓郎の再来」などと騒がれていたという。 1973年、21歳でホモ・サピエンスを解散した彼はソロ活動開始させる。 「音楽が好きだから、売れる売れないに関係なく歌い続けたい!」 そんな気持ちのまま1975年にソロ名義で再デビューを果たす。 翌1976年6月、シングル「酒と泪と男と女」を発表し大きな注目を集める存在となる。 当時、彼はこんな本音を語っている。 「いきなり売れなくてもいいから、ライブを積み重ねてゆくことによって少しずつ支持者を増やしていきたい。」 しかし、本人の望みに反して彼は一躍“時の人”となる。 コンサート会場はどこに行っても満員。 行く先々に彼の周りには人だかりができるようになったという。 普通のアーティストならば「ナンバーワンを目指して!」「次なるヒットを狙って!」となるところだが…彼の場合は違った。 彼は独自の活動を望み、それを行動にうつしたのだ。 まずはインド、アフガニスタン、ペルー、トルコ、ネパール、ケニアなどへと“一人旅”をした。 1980年には四国八十八カ所を巡礼しながら“お遍路ライブツアー”を決行。 翌1981年には、東北〜北海道への全行程3,000kmにもおよぶ“円空仏(えんくうほとけ)探訪ツアー”をバイクで制覇。 その後も彼は独自の音楽活動を展開し、日本の音楽界において“唯一無二”の世界観を築き上げる。 「酒と泪と男と女」のヒットに流されることなく、彼は庶民の暮らしに触れ、音楽を通して共に喜怒哀楽を共有し合うことにこだわり続けたのだ。 コンサート活動は、大都市だけでなく山間部や僻地でも行い、音楽を通じてファンと交流することに主眼を置い..
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カラーズ/天使の消えた街〜生まれながら犯罪環境に置かれ育つということ

『カラーズ/天使の消えた街』(Colors/1988)が日本で劇場公開されたのは1988年の秋。映画はデート向けでもファミリー向けでもないので、ほんの一部で話題になっただけだったと記憶している。当時、狂乱のバブル経済に浮かれまくっていた日本の都市部のメインストリームの青春からは、ロサンゼルスのあまりにも厳しい現実は歓迎されなかったのだ。 ほんの一部とは、ヒップホップ/クラブカルチャーに関わる人々や真夜中の渋谷に集う少年たちのこと。感度の高い彼らは音楽やファッションに反応しつつ、近い将来、日本の都市部にも似た光景が描かれることを予感していたに違いない。事実、この後に起こったチーマー現象、カラーギャング、半グレ集団といったアンダーグラウンドな動きはそれを証明した。 アメリカではこの映画はかなりの衝撃を与え、同年のギャングスタラップの礎、N.W.A.のデビュー作『ストレイト・アウタ・コンプトン』と並んでストリートギャングの代名詞となっていく。 この時期のロサンゼルスにはすでに約600組織・約7万人のギャングがいて、1987年だけでも387件ものギャング絡みの殺人事件が発生していた。 中でも青いバンダナのクリップスと赤いバンダナのブラッズなどの対立が激化。住宅街であるにも関わらず、日常的に絶え間なく暴力が起こる荒廃エリア。空き地に死体、子育てを放棄してドラッグに溺れる母親、強盗や銃声は当たり前。そのど真ん中にいたのが、黒人やヒスパニックの若者たちだった。 警察や郡保安局も黙っていたわけではない。CRASH(Community Resources Against Street Hoodlums)やOSSといった捜索チームで対策にあたるが、その数わずか250人。 『カラーズ/天使の消えた街』は、このCRASH視点からギャングたちの抗争を追及していくストリート・ムービーの傑作。企画段階から関って主演したショーン・ペンは、ハリウッドのアウトサイダーとして知られたデニス・ホッパーを監督に推薦。音楽はハービー・ハンコックが担当。ロス・ロボスのオープニング曲やアイスTのテーマ曲が耳に残る。 また、脚本家のマイケル・シファーはテレコ片手にCRASHやOSSのパトロールに24時間体制で密着。ストリートギャングの実態に肉迫した。 自分の予備知識がほとんど吹っ飛んだ。生まれながらにして犯罪環境..
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ロックンロール・ハイスクール〜最初は『ディスコ高校』にされたラモーンズ出演作

映画のタイトルが『ディスコ高校』(Disco High)だって? ディスコ音楽じゃ学校なんて破壊できない。ロックじゃなきゃダメですよ!! アラン・アーカッシュは初めての監督作品である映画のタイトルを、上司でありプロデューサーでもあるロジャー・コーマンから聞いて呆れ返った後に強気で反対した。 ロジャーはちょうどディスコが大ブームだったので若者に受けると思っていたが、部下の様子を見て考え直すことを決意。それは滅多にない例外的なことだったが、タイトルは『ロックンロール・ハイスクール』(Rock ‘n’ Roll High School/1979)へと無事に変更された。 ロジャー・コーマン。アメリカ映画界では「B級映画」「低予算映画」「カルト映画」の帝王として君臨する伝説的映画人。監督としてだけでなくプロデューサーとしても400作品以上を手がけたと言われている。 ハリウッドシステムと真逆を行くような独立精神/金をかけない精神は、多くのキャリアのない若者たちにチャンスや経験を与えることになり、“ロジャー映画学校”ではコッポラ、スピルバーグ、スコセッシ、ボグダノヴィッチといった監督や、デニス・ホッパー、ピーター・フォンダ、ジャック・ニコルソン、ロバート・デ・ニーロらの俳優も多くを学んだという。アランもそうした若者の一人だった。 アランは映画に出演させるバンドを探さなければならなかった。レコード会社からはDEVOやヴァン・ヘイレンを推薦されたらしいが、その時、スタッフから「NYのラモーンズがいいんじゃない!?」と言われてピンと来た。 1968〜1971年頃にライヴハウスのフィルモア・イーストで働いていたアランは、ジミ・ヘンドリックスやドアーズやザ・フーのステージを生で体験していた。「ポップスをチェーンソーで演奏してるみたい」なラモーンズには、ロックの持つ破壊力や神秘性や反逆精神を十分に感じたに違いない。それに楽曲使用を含めた出演料をたったの2.5万ドルで受諾してくれたのだから。ロジャー・コーマンも反対するはずがなかった(ちなみにチープ・トリックという話もあったらしい)。 こうしてラモーンズが出演する学園コメディ映画が撮影されることになったが、ジョーイ、ジョニー、ディー・ディー、マーキーらの演技は酷かったらしく(当たり前だ)、台詞は大幅にカットされた。しかし、そのぶん演奏シーンが..
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フラッシュダンス〜ジョルジオ・モロダーと80年代MTV/サントラブームの幕開け

ポップカルチャーの足跡を振り返る時、1983年はとても興味深いことに気づく。日本/東京では、その年にディズニーランドの開園があった。女子大生ブーム、ファミコンの発売、レンタルレコード店やウォークマンの普及、『戦場のメリークリスマス』の公開、尾崎豊のデビューといった出来事もすべてこの年だ。 音楽シーンでは、マイケル・ジャクソンの『スリラー』が世界規模で大ヒットし、マドンナやシンディ・ローパーがデビューした。1981年に開局したMTVの力が一気に高まった時代でもあり、その影響でヴィジュアル性に富んだイギリスのNew Waveグループや長髪メイクのヘヴィメタル勢もヒットを連発し始めた。 そして映画では、多くのYAスターを生んだ『アウトサイダー』が思春期の少年少女たちを魅了する中、女性たちに支持されたのが『フラッシュダンス』(FLASHDANCE/1983)だった。この映画をきっかけにエアロビクスやジャズダンスを始めた女たちは数知れず。TVドラマやアイドルにも影響をもたらし、小さな女の子までもが家庭のリビングでレオタードと椅子を用意して「フラッシュダンスごっこ」に夢中になった。 『フラッシュダンス』は映画興行的に成功した。4000人以上の中から選ばれたヒロイン、ジェニファー・ビールスはこの映画のおかげでスターとなった。肝心のダンスシーンは別人が踊っていたらしいが、楽しむ側にとってそんなことは気にならないもの。 ストーリーは、プロのダンサーになることを夢見る18歳の女の子が、昼は製鉄所の溶接工、夜はナイトクラブのショーダンサーとして働きながら、恋や友情や死を乗り越えて、やがて名門舞踏学校のオーディションに受かるまでを描くもの。ヒップホップのブレイクダンスやアイススケートのステップ、交通整理の警官の仕草といったヒロインが日常生活で目にしていた動きがクライマックスに集約されているところは秀逸だった。 しかし、この映画にはダンス以上に音楽こそが生命だった。むしろ、サントラを売るための映画だったのかもしれない。MTVのビデオクリップ的な映像を1本の作品にした功績(あるいは功罪か)は大きく、これ以降メジャーな映画でCMやMTVディレクター出身の監督が起用されることが多くなったのだ。 音楽は、ディスコ・クイーンことドナ・サマーを世に送り出し、映画『アメリカン・ジゴロ』でブロンディの「Ca..
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パーシー・スレッジを偲んで〜希代の名曲「男が女を愛する時」の誕生秘話

ビートルズが初来日し、武道館で行われた歴史的なコンサートに日本中の若者達が熱狂した1966年。 そのコンサートよりも数ヶ月前に、海の向こうのアメリカやカナダの音楽ファンを夢中にさせた名曲があった。 今日はアメリカの黒人歌手パーシー・スレッジ(享年74)の大ヒット曲「When a Man Loves a Woman(男が女を愛する時)」の誕生秘話をご紹介します。 「When a Man Loves a Woman」/パーシー・スレッジ 男が女を愛する時 他のことには見向きもしなくなる たとえ悪い女でも、彼の目にはそう映らない もし彼女を悪くいう奴がいたら 彼は自分の親友にさえ背を向ける 1966年の4月にシングルリリースされたこの歌は、発売の翌週からアメリカのR&Bチャートで4週間、全米チャートでは2週間に渡ってNo.1の座をキープし、隣国カナダでも同じく首位を独占した。 発売元のアトランティック・レコードではこれが3枚目の全米トップで、“初のゴールドディスク”となったという伝説のヒットソングである。 約20年の歳月を経て…同曲はイギリスで1987年にジーンズブランド“Levi’s(リーバイス)”のCMソングに起用され全英チャートでNo.2を記録する。 さらには、R&Bに深く傾倒しているアメリカの歌手マイケル・ボルトンが1991年にこの曲をカヴァーし、オリジナル同様、全米チャートでNo.1に輝くなど、まさに時代を超えて愛されつづけてきた“希代の名曲”なのだ。 「When a Man Loves a Woman」/Levi’s 501 コマーシャル (1987) 「When a Man Loves a Woman」/マイケル・ボルトン(LIVE) パーシー・スレッジは、1940年11月25日(長く1941年生まれとされていたが、最近になって訂正された)アラバマ州レイトンの田舎で生まれた。 幼い頃からラジオでカントリーミュージックを聴きながら育ち、21歳になるまでプロの黒人歌手がいることを知らなかったという。 高校時代には野球の才能を開花させ、ハイスクールチームの選手として活躍していた野球少年だった。 しかし、卒業後は野球で生活できる訳でもなく、しばらくはブルーカラー(労働者)の仕事をしていた。  そして1965年の終り頃、彼に二つの不運が訪れる。 ある日突然、働..
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