2022-06

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アメリカン・グラフィティ~あの伝説のDJが流す41曲の珠玉のオールディーズ・ナンバー

『アメリカン・グラフィティ』(American Graffiti/1973) ラジオ局のジングルが聞こえ、夕暮れ空やネオンサインに輝くドライブインが映し出される。そして、突然ビリー・ヘイリー&ザ・コメッツの「Rock Around the Clock」が流れ出す。 夜明けまでロックンロールで踊り明かそう! 映画『アメリカン・グラフィティ』(American Graffiti/1973)はこうして始まる。日本でも1974年に公開されて大ヒット。80年代には何度かTV放映されたので(吹き替えにはサザンオールスターズの桑田佳祐も参加)、特に50代の人には思い出深い作品かもしれない。「アメグラ」なんて言い方もされたくらいだ。この世代の男性なら、映画の真似をしてTシャツの袖に煙草をくるんだことは一度くらいはあるだろう。 数ある青春映画の中でも、特に高校生を主役にしたような学園映画のすべてのルーツは、この作品にあると言っても過言ではない。それほど伝説的な存在になった。 キャラクターが異なる登場人物たちの青春群像、時代設定に見合った全編に流れるポップミュージック、その後の人生をテロップで紹介するエンディングといった手法は、1973年当時としては画期的に新しく、やがて80年代になって作られることになる学園映画の傑作たち(キャメロン・クロウ『初体験リッジモント・ハイ』やジョン・ヒューズ作品)に余りにも大きな影響を与えた。そしてその流れがまた次の新しい時代へと受け継がれていった。 監督はあの『スターウォーズ』シリーズのジョージ・ルーカス。デビュー作『THX 1138』が興行的失敗に終わる中、自身が高校時代を過ごしたカリフォルニアの地方都市を舞台にした『アメリカン・グラフィティ』のアイデアを思いつく。それはベトナム戦争やビートルズがやって来る前の60年代前半のティーンエイジャーの光景。ルーカスはこの作品を通じて、一つの時代の終わりを描きたいという想いがあった。 しかし、頭の硬い映画会社の重役には理解を得られず、資金も引き出せず、誰からも断られる始末。そこで『ゴッドファーザー』で名声の中にいたフランシス・フォード・コッポラに協力してもらいプロデューサーになってもらうと、難なくGOサインが出たという。 とはいえ低予算映画。集められたのは無名の若者たちばかり(現在では大名優リチャード・ドレ..
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ラストタンゴ・イン・パリ〜マーロン・ブランドが『ゴッドファーザー』の次に選んだ衝撃作

『ラストタンゴ・イン・パリ』(Last Tango in Paris/1972) ベルナルド・ベルトルッチ監督の『ラストタンゴ・イン・パリ』(Last Tango in Paris/1972)を2度観たことがある。最初は10代後半の頃にビデオで。はっきり言ってアメリカ文化に傾倒した都心在住のティーンのハートに響くわけがなかった。時代はバブル経済真っ盛り。この映画を貫く気怠いムードやラストの哀しみとは無縁の世界の空気が、窓の外を覆っている。「ヨーロッパ映画=芸術・知性」などという拭い切れない思い込みもあり、やや気負いもあったのか。 でも、同時期に小さな映画館(確か早稲田あたり)で観たフェリーニの『甘い生活』、ゴダールの『勝手にしやがれ』や『気狂いピエロ』、ルイ・マルの『死刑台のエレベーター』、ジャック・タチの『ぼくの伯父さん』、アントニオーニの『欲望』、そしてヴェンダースのロードムービーは楽しめたし、その世界観が好きになった。リアルタイムで観たジャン=ジャック・ベネックスの『ディーバ』、リュック・ベッソンの『グラン・ブルー』は心地よかったし、『ニュー・シネマ・パラダイス』には号泣もした。 あれから30年の歳月が流れた。『ラストタンゴ・イン・パリ』を今回改めて観て、最初に拒絶した理由が分かった。あの頃は同世代の若い女の子が50歳近いオヤジと戯れるという内容に嫌悪感を抱いていたのだ。 今は違う。“オヤジ側”の立場で鑑賞する。マーロン・ブランドの心境が分かるようになった。最後のどうしようもない情けない姿に“人間らしさ”を感じた。音楽的には、男と女にねっとりと絡みつくようなガトー・バルビエリのサックスの存在感……ヨーロッパ映画を難しく語る必要はないし、誰かに語るために同じ映画を何十回も観なくていい。 公開当時は大胆な性描写が話題となり、イタリアでは公開すぐに上映禁止。日本でも「あの『ゴッドファーザー』のマーロン・ブランドが衝撃のポルノ映画に主演」と騒がれたこともある。しかし、今では驚くべき画など何もない。 ただ、より深みを増した点はある。「名前も名乗らず、素性も明かさず男女関係を持つ」ことが、SNSやスマホを使った“常時接続”コミュニケーションにどっぷりと浸る現在では、何か強いメッセージを放つように思えたこと。 (以下ストーリー) パリのアパートの空室。同じタイミングで部屋..
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ラブ IN ニューヨーク〜音楽はバート・バカラック&キャロル・ベイヤー・セイガー夫妻

『ラブ IN ニューヨーク』(Night Shift/1982) 80年代ブームはこれまでに幾度となく訪れてきた。そしてその10年間には大きく分けて前半の「アーリー80’s」と後半の「バブル80’s」があり、同じディケイドでも表情の違う2つの時代が存在する。 *このあたりについては中野充浩監修『バブル80’sという時代 1983-1994 TOKYO』に詳しいので、興味ある方は中古本でチェックしてみてください。 80年代の音楽には「邦楽」「洋楽」、映画には「邦画」「洋画」といった明確な線引きがあった。SNSやネットが当たり前になった今、こういった区別はほとんど意味を持たなくなったが、この時代に青春期を送った世代にとっては、目の前の邦楽・邦画を取るか、それとも洋楽・洋画に走るかのチョイスは、友達作りや恋愛面にも影響を及ぼすほど重要なこと。 特に1985年くらいまでの「アーリー80’s」はその傾向が強く、どちらに進むかによって会話の内容や物事への感性に随分と違いが出ていた(どちらが良いか悪いかの問題ではなく)。今から思えば、日本の若者文化がアメリカナイズされていた最後の時代。後者を選択することにワクワクする気持ちを抑えきれなかった。 洋楽や洋画に夢中だった人にとって、『ラブ IN ニューヨーク』(Night Shift/1982)は忘れてはならない作品の一つ。 日本公開は1983年。個人的には「バブル80’s」になってレンタルビデオで借りて観たのが最初。軽いタイトルからは想像できないほど素敵な余韻を残してくれる作品で、「アーリー80’s」における都会の空気が全面に漂っている点がこの映画最大の魅力。東京の都心で暮らす若者にもそれくらいは分かった。 映画が撮られることになったきっかけは、「二人の若者が死体安置所で売春組織を作っていた」という小さな新聞記事。これを見たプロデューサーのブライアン・グレイザーが、ロン・ハワード監督に話を持ちかけたのが始まり。 主演はヘンリー・ウィンクラー、シェリー・ロング、そしてこれが映画初出演だったマイケル・キートン。数年後『バットマン』で大ブレイクする俳優だ。 音楽を担当したのは当時夫婦だったバート・バカラックとキャロル・ベイヤー・セイガー。オープニングで流れるクォーターフラッシュの「Night Shift」なんてまさに「アーリー80’s」..
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伝説の歌姫・越路吹雪〜シャンソンとの出会い、ピアフとの出会い

越路吹雪。 彼女は、日本の元号が「昭和」になる前の「大正」の13年(1924年)に生まれた。 戦中から戦後は宝塚男役スターとして活躍し、1951年に宝塚を退団した後は“日本のシャンソンの女王”と呼ばれるまでとなった稀代の歌手である。 独身時代は“恋多き女”といわれ、作家・三島由紀夫の恋人として取り沙汰されたこともある。 作曲家の内藤法美との結婚後は、内藤がステージの構成や作曲などを手がけ、彼女が亡くなるまで連れ添った。 1980年11月7日、胃がんのため56歳でこの世を去った。 彼女にはいくつもの浮世離れした逸話が残っており、その“伝説”は今も語り継がれている。 今回は伝説の歌姫・越路吹雪とシャンソン、そしてエディット・ピアフとの出会いにまつわるストーリーをご紹介します。 ──フランス留学の経験もあり声楽家創作オペラ協会会長でもあった佐藤美子は、越路吹雪が歌うシャンソンについてこんな言葉で礼賛している。 「日本人のシャンソン歌手といったら大半が外国人のマネですが、越路さんは“日本のシャンソン”が歌える貴重な人です。」 越路のシャンソンを聴いて「パリのムードを感じる」と言う人は少ない。 それはまさに、日本語で日本人に聴かせるための“越路シャンソン”だった。 もっと正確に言うと、フランス産のシャンソンを“越路節”という自己流の歌い方で日本風にくずして歌った人とも言える。 越路吹雪の盟友であり、マネージャーでもあり、越路が歌うほぼ全てのレパートリーの訳詞・作詞を手掛けた岩谷時子は、1953年に越路(当時28歳)が初めてフランスに一人旅をした際に送ってきた手紙を大切に保管していたという。 「私は日に二、三回ずつ腹を立て、毎日パリの何かしらに抵抗し、自分の何かしらと闘って過ごしています。このまま長くパリにいてキャバレー歌手になって暮そうかと思うけれど、フランスのシャンソンはフランスだけのもの。そのメロディーは世界で歌われていても、フランス人の歌うシャンソンは彼らの生活から生まれた歌なんだからフランスだけのものよ。」 当時、まだ“越路節”も未完成であったと思われるが、彼女はこの頃からすでに“しょせん本物のシャンソンはフランス人にしか歌えないもの”と悟り、自分流のシャンソン、日本のシャンソンを歌ってやろうとしたたかに模索していたという。 その後、何度もパリへ足を運んだ彼女..
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ドゥ・ザ・ライト・シング〜無関心のままじゃヤバイんだよ、そろそろ真剣になろうぜ

『ドゥ・ザ・ライト・シング』(Do The Right Thing/1989) パブリック・エナミーの「Fight the Power」が全編に鳴り響く映画『ドゥ・ザ・ライト・シング』(Do The Right Thing/1989)は、「黒人の映画監督として黒人たちのために映画を作る」と断言したスパイク・リー監督による4作目だった。 なあ、みんな、俺たちは同じ人間なんだぜ。 だけどどこかが違ってる。 目を覚ませ、無関心のままじゃヤバイんだよ。 一体何事だ?ってお前らはそう問いかけるけど、 そろそろ真剣になろうぜ。 俺たちなりの自己防衛を本気で考えよう。 お遊び気分の連中をつまみ出せ。 あとはお前らの意識の問題さ。 俺たちをがんじがらめにする圧力と闘うために、 世の中が目を覚まさなきゃ。 お前らも声を大にして叫んでくれよ。 俺たちを虐げ続ける権力と闘おうぜ。 『ジョーズ・バーバーショップ』『シーズ・ガッタ・ハヴ・イット』『スクール・デイズ』を経て、遂に人種差別と向き合ったこの作品は、ハリウッドの権威筋がお決まりの無視を決め込むのを横目に、その年のカンヌ映画祭や世界中のヒップな人々の間で大絶賛された。 それにしてもこのラップ、ここ数年の日本に間違いなく漂い始めた空気感とシンクロしているような気がしてならない。しかし、公開当時はバブルの絶頂期。そんな中でヒップホップ/クラブカルチャー、ファッションなどに興味のある一部の若者たちが劇場に詰めかけていたことを覚えている。それでも立ち見が続出するくらい、この映画は熱かった。 物語はブルックリンのスタイヴェサント通りのレキシントンからクインシーまでという、たったワンブロックの中だけを設定。スパイク曰く「そこには貧困、失業、麻薬など、都市の不幸がすべて揃っていたから」 女の子がボクサーのファイティングポーズやパンチを繰り出しながら踊るオープニングは、これから観る者に過激な出来事を予感させるが、物語が始まると、不器用な登場人物の誰もが、実は愛と憎み(LOVE/HATE)の狭間で揺れていることに気づく。 サルは潜在的人種差別主義者かもしれないけど、彼は人種差別主義者じゃないんだ。ムーキーは将来のことなんて考えちゃいない。彼は親友のラジオ・ラヒームに起こることを目の当たりにする時だけ、政治的になるんだ。 うだるような暑さ、ブルッ..
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In the summertime〜Skiffle(スキッフル)ってなに?Jug(ジャグ)ってなに?ちょっと気になる音楽用語の夏期講習♪

イエイ!夏だぜ!お天道様はカンカン照り! 思いっきり手を伸ばせば空に届きそうだぜ! あんまり天気がいいから お前さんにも彼女ができたぜ!心の中にな! 一杯飲んでドライブして何が見つかるか探しに行こうぜ! 「In the Summertime」という歌をご存知だろうか? この理由(わけ)もなく小躍りしたくなるようなお気楽で能天気なリズムとメロディー。 いつの時代に誰が歌ったのか知らないが「いつかどこかで耳にしたことがあるような…」と感じる人も多いのではないだろうか? これはマンゴ・ジェリーというイギリスのスキッフルバンドのデビュー曲として1970年の夏にリリースされ、イギリスでは7週連続でチャートの首位をマークし、アメリカや日本でも3位まで駆け上った流行歌なのだ。 まず“Skiffle(スキッフル)”とは一体どんな音楽なのだろう? これには諸説あるのだが…音楽のジャンルというよりバンド構成を表す用語なのだという。 元々は20世紀前半のアメリカで生まれたものらしいが、1950年代にイギリスで流行したことによって“一つのスタイル”として確立される。 それはアメリカの古き良き時代の音楽、ジャズ、ブルース、フォーク、R&B、カントリーミュージックを現代(1950年代当時)に甦らせるきっかけとなり、多くのイギリスのロックミュージシャンたちに影響をあたえたと言われている。 このスキッフルバンドのルーツをさかのぼれば“Jug(ジャグ)”という古い音楽に辿り着く。 では“Jug(ジャグ)”とは一体何を表す言葉なのだろう? ジャグとはもともと取っ手付きの瓶(水差し)のことで、これを吹いてベースやチューバの代用品にしていたころから、その楽器を使用するバンドが“ジャグバンド”と呼ばれるようになったという。 その空き瓶楽器に加えて、洗濯板を使ったパーカション、洗濯桶を使ったベース、そしてカズーやバンジョー、フィドルなどの弦楽器でバンドが編成されていた。 それは開拓時代のアメリカで、身近にある生活用品を使うことから生まれたアメリカンミュージックの原点だったとも言われている。 天気が良けりゃ海に釣りにもいくし泳ぎにも行くさ 俺たちゃいつでもハッピーさ! 人生はなるようになる イエイ!それが俺たちの哲学さ! 日本の江戸時代末期に民衆が仮装するなどして集団で町々を巡って熱狂的に踊ったあの“ええ..
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ロッカーズ〜『ハーダー・ゼイ・カム』に続くジャマイカとレゲエを描いた名作

『ロッカーズ』(Rockers/1978) ジャマイカの心臓の鼓動をとらえたレベル・ミュージック=レゲエが、世界に放たれたのは1972年のこと。初の自国製作映画『ハーダー・ゼイ・カム』と、翌年にリリースされることになるザ・ウェイラーズの『Catch a Fire』が録音されたのだ。 ローリング・ストーンズもエリック・クラプトンもスティーヴィー・ワンダーも、この新しい音楽に魅了された。そして映画に主演してサウンドトラックも歌ったジミー・クリフや、ラスタファリアニズムやドレッドロックスを広めたボブ・マーリィらが有名になった。また、イギリスのロンドンやバーミンガムではジャマイカ移民たちをルーツとしたブリティッシュ・レゲエ・シーンが活発化。同時期のパンクやニュー・ウェイヴ(例えばザ・クラッシュやブロンデイやポリスなど)にもその影響は浸透していった。 かつてアメリカのR&Bやソウルに影響を受けながら進化したジャマイカのローカル音楽(スカやロックステディ)だったが、このレゲエによって遂に世界的な音楽へと昇華していく。さらにサウンドシステム/DJ/ダブなどは、今度はNYでのヒップホップ/ラップ誕生への大きな要素にもなった。70年代はレゲエの黄金期でもあった。 そんな1978年、ジャマイカ映画『ロッカーズ』(Rockers)は公開された(アメリカや日本は1980年)。監督はギリシャ出身のテッド・バファルコス。特別な場所と特定の時期の重要性と神秘性を知っていた監督は、レゲエの持つ力をフィルムに収めるべくドキュメンタリーを撮ろうとするが、次第にストーリー性のある映画に取り組むことにした。 登場するのはバーニング・スピア、グレゴリー・アイザックス、ジェイコブ・ミラー(インナー・サークル)といったジャマイカで活躍するミュージシャンたち。みんな実名で出演した。主演を務めたのはリロイ・“ホースマウス”・ウォレス。 バファルコス監督によると、普通の撮影では生じない問題が相次いで起きて苦労したという。出演者の多くはゲットーに暮らしており(NYのそれではなく、掘立小屋が連なる風景をイメージしてほしい)、電話連絡など到底望めない。強烈なジャマイカ訛りの英語(パトワ語)の理解に悪戦苦闘するスタッフ。ロケ隊は金を持っているという噂を聞きつけ、ギャングにピストルで襲撃された夜もあったらしい。 それでも撮影..
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RCサクセションのヒット曲〜サマーツアーの歌詞に秘められたソウルフルな“隠し味”とは!?

RCサクセションが1982年の6月にリリースした12枚目のシングル「サマーツアー」にまつわる逸話をご紹介します♪ この楽曲のクレジットは忌野清志郎と仲井戸麗市の共作となっている。 同年10月にRCがリリースしたアルバム『BEAT POPS』にも、この「サマーツアー」のライブバージョンが収録された。 このアルバムバージョンは、梅津和時や片山広明らによる“ブルーデイ・ホーンズ”のホーンセクションが足されたアレンジになっており、よりソウルフルな仕上がりとなっている。 ソウルフルといえば…この曲の歌詞の中にはレイ・チャールズへのオマージュが隠されており、アルバムバージョンでは、オーティス・レディング的な歌詞変更も見られるという。 一体どの部分なのだろう? 離ればなれ No No Baby プールサイドではぐれた とぎれとぎれ No No Baby 噂を拾い集めて Oh サマーツアー 急いで旅立てジャック 甘い唇 No No Baby 忘れるなんてできっこない 誰にも まず、この歌詞に何度も出てくる“旅立てジャック”というフレーズとレイ・チャールズの代表曲「Hit the road Jack」の邦題が一致していることは“ただの偶然”なのだろうか? 清志郎もチャボも明言こそしていないが、これはRC流のソウルミュージックへのオマージュの一つと考えても不自然ではないだろう。 さらに!清志郎は後半の一節“ビキニスタイル No,No, Baby抱きしめたい濡れたまま”という部分をアルバムバージョンで”ミニスカート No,No,Baby抱きしめたいそのまま”と、歌い変えているのだ。 それは、オーティス・レディングがあの名曲「Try a Little Tenderness」の冒頭の歌詞で、オリジナルでは“シャギードレス”と録音したものをライブテイクで“ミニスカートドレス”と歌い変えていることを意識してのアプローチだったのではないだろうか? Wearing that same old *shaggy dress(→Miniskirt dress) 当時のRCの歌にこんなソウルフルな隠し味があったことを理解して聴いていた人がどれくらいいたのだろうか? いずれもソウルミュージックファンにとっては、思わず「ニヤリ」とさせられる逸話である。 歌謡曲と演歌とニューミュージックがチャートに混..
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ミスター・タンブリン・マン〜フォークとロックの境界線に橋を架けた名曲

1965年6月26日、ザ・バーズのデビュー曲「ミスター・タンブリン・マン」がビルボード全米シングルチャートで1位を獲得した。 ボブ・ディランが作詞作曲した歌として広く知られている名曲だ。 数あるディランの楽曲の中で初の首位となった記念すべき作品であり、それまでなかった“フォークロック”という言葉を誕生させるきっかけとなった歌ともいわれている。 この歌は一体どんな背景で生まれヒットに至ったのだろう? 当時は、エレキ楽器を演奏するロックとアコースティックギターでメッセージソングを歌うフォークとの間に“はっきりとした境界線”があったという。  まだ無名だったバーズが目指したサウンドは“ロックとフォークの融合”だった。 具体的にはビートルズとボブ・ディランの中間を表現しようと模索していたのだ。 ロジャー・マッギン(g,vo)を中心に、クリス・ヒルマン(b,vo)、デヴィッド・クロスビー(g,vo)、ジーン・クラーク(vo,g)らによってザ・バーズが結成されたのは前年(1964年)のこと。 結成のきっかけは、マッギンがビートルズの映画『ビートルズがやってくる!ヤア!ヤア!ヤア!』に影響されてのことという。 彼らはバンドとしての演奏力を高める目的もあってサンセット・ストリップ(ロサンゼルスの主要道路の一つ、サンセット・ブールヴァードのほぼ中心に位置する約2.5キロの区間)のクラブで連日演奏をしていた。 彼らの噂や評判は日に日に広がりをみせ、南部や東部、中西部、カナダで暮らす若者たちを刺激したという。 ある日、そんな彼らのもとに1枚のアセテート盤(デモテープのようなもの)が舞い込んでくる。 それはボブ・ディランと、フォークの大御所ランブリン・ジャック・エリオットが「ミスター・タンブリン・マン」を演奏している幻の録音だった。 ジャック・エリオットと言えば、ディランが敬愛するウッディ・ガスリーと一緒に仕事をしていた名ギタリストだ。 だが、その盤に収録されていた内容は…エリオットが酔っぱらって歌詞を憶えておらず、ディランもレコーディング中に酔っぱらってしまい、ボツになったものがなぜか流出してしまったという“曰く付き”の音源だった。 だが、それを聴いたザ・バーズのメンバーにはひらめくものがあったという。 「これにロックのビートをつけたらかっこよくなるぞ!」 こうして誕生したのがザ・バー..
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ストレート・トゥ・ヘル〜ジョー・ストラマーやエルヴィス・コステロらが出演したB級映画

『ストレート・トゥ・ヘル』(Straight to Hell/1987) それは1986年、映画『シド&ナンシー』がカンヌ映画祭に招待された時から始まっていた。監督のアレックス・コックスが宿泊先のホテルで休んでいると、激しいノックの音がした。ドアを開けると、ジョー・ストラマー、俳優兼脚本家のディック・ルード、カメラマンのトム・リッチモンドが勢いよく転がり込んできた。3人は部屋で酒を飲み続け、喋りまくり、酔っ払って、そして静かになった。 アレックスが朝目覚めると、窓を閉め切ったままエアコンも止まっていて酷い空気が充満していた。インタビューを受ける仕事があったので、3人を残したまま窓を開けて部屋を出た。 戻って来たら、ホテルのプールサイドで二日酔いの彼らが、黒いスーツを着たままヘロヘロでコーヒーを飲んでいた。まるでジム・ジャームッシュの映画に出てくるような登場人物たちに思えたよ。それで人を殺し損ねた人殺しのイメージが思い浮かんだってわけさ。 スペインのアルメニアに出向いて“それらしい”風景を目にすると、そこが昔、チャールズ・ブロンソンの映画で使われた砂漠のセットの廃墟であることを知る。ロケ地としては文句がない。構想は映画化へと向けて始動。アレックスとディックは3日間で脚本を書き上げた。『ストレート・トゥ・ヘル』(Straight to Hell/1987)の誕生だ。 出演するのはクセが強すぎる連中ばかり。サイ・リチャードソン、ディック・ルード、ジョー・ストラマーの主役3人をはじめ、エルヴィス・コステロ、ザ・ポーグス、コートニー・ラヴ、グレイス・ジョーンズ、ジム・ジャームッシュ、デニス・ホッパーらがキャスティングされた。 アレックスはスペイン当局から「過酷な環境下の撮影でみんな気が狂って監獄行きになる」と警告されたが、そんなことよりもミュージシャンの連中が本当に演技できるのか心配だったという。しかし、ジョーは拳銃を扱う特訓を3週間も受ける熱の入れようだった。 『ストレート・トゥ・ヘル』のシムズは、俺のために書かれた役なんだ。服を変えないところなんかさ。『シド&ナンシー』で仕事している時、俺とアレックスは毎日のように会っていた。しばらくすると彼は俺が服を変えないことに気づいた。あの時の俺は何の拠り所もなくて、考えてる間くらい同じ服でいようと思ってたんだ。(ジョー・スト..
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ブレードランナー〜続編公開! あらゆるカルチャーを圧倒した「奇跡的な作品」

『ブレードランナー』(BLADE RUNNER/1982) 21世紀初め。 アメリカのタイレル社は、人間そっくりのネクサス型ロボットを開発。 それらは「レプリカント」と呼ばれた。 特にネクサス6型レプリカントは、体力も敏しょうさも人間に勝り、 知力もそれを作った技術者に匹敵した。 レプリカントは地球外基地での奴隷労働や 他の惑星の探検などに使われていたが、 ある時、反乱を起こして人間の敵に回った。 地球に来たレプリカントを処分するために、 “ブレードランナー特捜班”が組織された。 2019年11月、ロサンゼルス。その暗黒都市の姿がスクリーンいっぱいに映し出される。数百階建ての不気味なビル群。吹き出す炎。飛び交う車。瞳に映る光景。もうその瞬間、魅了される──映画『ブレードランナー』(BLADE RUNNER/1982)はこうして始まっていく。 近未来SF映画の金字塔としてその名を永遠に刻むであろう本作は、「最後のアナログSF映画」とも言われる。つまり、デジタル処理が一切施されていないのだ。CGなどまだなかった時代に、気が遠くなるような繊細な模型やセット作り、根気強いテイクの積み重ねといった“人間の力”だけで仕上げた「奇跡的な作品」でもある。 私は決してセットや舞台に妥協しない。セットは景観(ランドスケープ)だ。私の作品のすべてだ。景観と舞台はキャラクターだ。 監督はリドリー・スコット。『エイリアン』(1979)で映画監督としての評価を得ていたイギリス人にして完全主義者。『ブレードランナー』の一番の特徴=荒んだ街並、降り続ける酸性雨、煙と光、漢字やカタカナのネオン看板、コカコーラや芸者が映るヴィジョン広告、薄汚れた雑踏などに、監督は拘り続けた。 コミック誌『Heavy Metal』にインスピレーションを受けたり、工業デザイナーのシド・ミードに信頼を寄せていたリドリーは元美術監督でもあった。美術スタッフが総力を決してセットを組み終わったある日、やって来たリドリーは見渡しながらこう言ったそうだ。「よし、この調子で作り続けてくれ!」 膨れ上がる予算(当時で2000万ドル以上)と何度も遅延するスケジュール。資金提供者からのプレッシャーに、まるで12ラウンドを闘い抜く傷だらけのボクサーのように、監督は攻めながら耐え続けていた。昼間はいい映像が撮れずに時間が掛かるという理由..
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デイヴ・バーソロミューを偲んで〜“ニューオーリンズ音楽の巨人”と呼ばれた男の偉大な足跡と功績

2019年6月23日の午前中、“ニューオーリンズ音楽の巨人”と呼ばれたデイヴ・バーソロミュー(享年100)がニューオーリンズ郊外メテリーのイースト・ジェファーソン総合病院にて心不全のため死去した。 1950年代以降のニューオーリンズ音楽の形成に大きく貢献した彼は、“ロックンロールの創始者の一人”と言われた男ファッツ・ドミノの育ての親であり、ジャンプブルースやビッグバンドスウィングがR&B、R&Rに発展していく過程で主動的な役割を担った人物である。 トランペット奏者であり、ソングライターであり、バンドリーダーであり、プロデューサーでもあった彼が手がけた作品(作曲や編曲をした楽曲)が、後進のエルビス・プレスリーやビートルズなど多くのアーティストに影響を与えた影響・功績は計り知れない。 1918年12月24日、彼は米ルイジアナ州のエドガーという街で生まれた。 10代の頃からディキシージャズバンドでチューバを吹いていたが、のちにトランペットをメイン楽器に変更し、アルヴィン”レッド”タイラー(サックス)、アール・パーマー(ドラムズ)、リー・アレン(サックス)らと共に新しいバンドを結成する。 同時期、ニューオーリンズでレコーディングエンジニア/スタジオ経営者コジモ・マタッサ(リトル・リチャード、レイ・チャールズ、ドクター・ジョンなどを手がけた才人)と出会ったことをきっかけに彼はプロとしてのキャリアを本格的にスタートさせる。 1947年、28歳の時に彼はDELUXEレコードで初のレコーディングを経験するが、すぐに会社が倒産してしまい…不発に終わる。 30代となった1949年あたりから彼はインペリアルレコードの下で、編曲家、バンドリーダー、およびタレントスカウトとして活動するようになる。 ファッツ・ドミノを筆頭に、彼がスカウトしてプロデュースしたアーティスト達(アール・キング、トミー・リッジリー、ロバート・パーカー、フランキー・フォード、クリス・ケナー、スマイリー・ルイス、シャーリー&リー)が次々にヒットを飛ばし、その手腕と才能は音楽家としてだけではとどまらずビジネスマンとしても高い評価を得る。 1960年代半ばになると、彼はインペリアルを離れて自分のレーベル“ブロードムアレコード”を立ち上げる。 このレーベル名は当時彼が住んでいたニューオーリンズのブロードムア地域に因んで名付け..
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ろくでなし〜ベルギーの人気歌手アダモが二十歳の時に書いた、ヤケクソ気分の失恋ソング

あの日、古い酒場で… あんまり良く憶えてないんだけれど 呑み過ぎてしまったんだ もう何も考えられなくなって 酔いつぶれてしまったんだ 仕方がなかったんだよ… 誰もが一度は耳にしたことがあるだろうメランコリックで親しみやすいメロディー。 この「ろくでなし(Le mauvais garçon)」は、ベルギーの歌手サルヴァトール・アダモの代表曲の一つ。 「雪が降る(Tombe la Neige)」「サン・トワ・マミー(Sans Toi M’amie) 」などのヒット曲と同じく、アダモ自身が作詞作曲を手がけたもの。 彼がまだ二十歳だった1964年に発表されて以来、シャンソンの名曲として人々に愛されつづけてきた歌だ。 1964年といえば、東京オリンピックが開催された年でもあり、同年に日本でも紹介される。 原題の「Le mauvais garcon」は、フランス語で“不良少年”という意味だが、日本では岩谷時子による日本語詞で越路吹雪(当時40歳)が歌唱し、“ろくでなし”というタイトルで親しまれることとなる。 以降、越路はこの歌を自身のリサイタルやステージなどで必ず披露し、「愛の讃歌」や「ラストダンスは私に」などと共に“十八番”として晩年まで唄いつづけたという。 岩谷による訳詞は主人公を女性に置き換えた内容で、アダモの原詞と比べるとかなり意訳されたものになっている。 古いこの酒場で たくさん飲んだから 古い思い出は ボヤケてきたらしい 私は恋人に捨てられてしまった 人はこの私を ふだつきと云うから ろくでなし ろくでなし なんてひどい アーウィ!云いかた 二十歳にしてこの名曲を書き上げたアダモはどんな生い立ちを持つ歌手なのだろう? 彼は1943年11月1日、イタリアのシチリア島で炭坑夫の長男として生まれた。 彼が4歳になる年に一家はフランス国境に近いベルギーの炭坑町に移住する。 祖父からギターをもらった彼は、14歳から作詞作曲を始めたという。 15歳で民放ラジオのコンクールで優勝し、歌手になる決心を固める。 そして1961年、18歳を迎えた彼はフィリップスレコードからデビューするも不発に終わる。 翌1962年になってポリドールからリリースした曲も売れず、起死回生を賭けてEMI傘下のレコード会社に移籍し「ブルー・ジーンと皮ジャンパー(En Blue Jeans Et Blou..
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スラップ・ショット/カリフォルニア・ドールズ〜隠れファンが多いカルトムービー

『スラップ・ショット』(Slap Shot/1977)と『カリフォルニア・ドールズ』(…All the Marbles/1981) 公開されてからも一部の熱狂的なファンに支持され続ける映画が存在する。いわゆるカルトムービーと呼ばれるもので、次世代の新たなファンを獲得しながら作品は再評価を繰り返してきた。名作には及ばないものの、人々の心に強く不思議な印象を残す映画でもある。 今では劇場公開された映画は、数ヶ月後にDVDやネット配信されることは当たり前だが、1980年代前半くらいまでは、民放のロードショー番組がその役割を果たしていた。日本語吹き替えされ、CM挿入のため編集もされる。だがそれでも、当時の少年少女たちにとっては洋画と向き合うことは興味深い、実りのある時間だったと思う。見逃すと後がなかった。 TAP the POPのこの映画コーナーでは過去多くの作品を取り上げてきたが、1980年代前半までのタイトルは大抵こうした「家のリビングのTVで初めて観た」ものが多い。そしてずっと記憶に残ったものだけが、大人になってビデオやDVDを購入して、今度は吹き替えなしで一人暮らしの部屋で再上映されてきた。久しぶりに観ると感動すら覚える。内容以上に「あの頃の自分」を思い出すからかもしれない。 今回紹介するスポーツを題材にした2本にも、何か特別な思い出を持っている人がいるはずだ。『スラップ・ショット』(Slap Shot/1977)と『カリフォルニア・ドールズ』(…All the Marbles/1981)の最大の魅力は、「強烈な70年代臭」あるいは「淡々とした空気感」に尽きると思う。何度観ても妙な心地よさを感じてしまうのは、過剰な演出や技術、マーケティングやビジネスが詰まったハリウッド超大作(もしくは製作委員会スタイルの邦画)を見慣れてしまった頭と心が、原点回帰を促しているからだ。両作品からは不器用な男と女たちの色気と体臭が画面いっぱいに漂ってくる。 名優ポール・ニューマン主演、ジョージ・ロイ・ヒル監督の『スラップ・ショット』は、マイナー・リーグのアイスホッケー・チームを題材にした人間ドラマだった(当時は卑劣な言葉が飛び交う点でも話題になったそうだが、このリアルな脚本は女性が書いたという意外な事実も最近知った)。カルトムービーになったのは、メガネのハンセン3兄弟というキャラクター..
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伝説の歌姫・越路吹雪〜死期を悟って逝くこと、知らぬふりをして逝くこと、それを伝えることなく見送った人たちのエピソード

それは1980年11月7日の出来事だった。 東京・中目黒にある東京共済病院の待合室を3人の男が慌ただしく駆け抜け、エレベーターの中に消えた。 待合室にいた数名の患者や付き添い人たちが「何ごとか?」と、走り去ってゆく男達の背中に一瞬視線を投げたが、数秒後には再び静かな待合室に戻った。 一時間後、その待合室の様相が一変する。 大きなカメラを肩や首にかけた男達や、一目で報道記者とわかる腕章をつけた取材陣が待合室に集まりだしたのだ。 病院の前には新聞社やテレビ局の旗をつけた車が並び、病院内や周囲にあった公衆電話は、彼らに占領されて殺気だっていた。 ゆっくりと開いたエレベーターのドアから、一時間前に駆け込んでいった男の一人が飛び出してきて、すぐ左側にあった赤電話のダイヤルを慌てて回し、受話器の向こうの相手に小声で伝えた。 「意識が不明で、先生や看護婦がマッサージをしているんですが…はい、時間の問題だと思います。はい!わかりました…すぐ来られた方が…はい!はいっ!」 その隣りで電話をかけていた腕章をまいた記者が、右手で受話器を押さえながら耳をそばだてている。 電話をしていた男が受話器を置くと同時に、記者が早口で問いかける。 「越路さんでしょ?容態はどうなんですか?時間の問題なんですか?」 数秒後には報道関係者たちが男を取り囲む。 「ええ…。」 うつむきかげんに応えて、男は足早にエレベーターに乗り込んでいった。 その頃、3階にある個室301号室では、医師と看護婦たちが7〜8人で越路吹雪の全身をマッサージしていた。 時々少しだけ開く唇からは、何を言おうとしているのか?言葉にならない言葉が溢れていたという。 そのやせ細った手先を夫の内藤法美が握りしめている。 やがて…彼女の身体からは何の反応もなくなった。 「コーちゃん!!!」 付き添いの人たちの叫びにも似た呼びかけが病室に響く。 最後に、ほんの一瞬だけ…そのノドが微かに動いたという。 そこにいた全員が息をのむ。 次の瞬間、脈をとり続けていた医師が目をつむった。 午後3時2分、“日本のシャンソンの女王”と呼ばれた稀代の歌手・越路吹雪が56歳でこの世を去った。 その日の夕方、彼女の亡骸は渋谷区桜丘にあった自宅マンションに帰ってきた。 マンションの前には報道関係者たちが群れをなして集まっていた。 テレビニュースの速報でも彼..
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