2022-09

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ジョン・レノン27歳〜敏腕マネージャーの死、インド哲学への傾倒、そしてヨーコとの関係を深めていく日々〜

1967年10月9日、ジョン・レノンは27歳の誕生日を迎えた。 この頃のジョンは深い悲しみの中にいた。 “ビートルズを売り出した男”として知られる男、敏腕マネージャーのブライアン・エプスタインはロンドンの自宅のベッドの上で死体となって発見されて…まだ2ヶ月も経っておらず、ビートルズは混乱と不安を抱えながら日々を過ごしていた。 ブライアンがこの世を去った1967年8月27日。 それは“ビートルズの崩壊が始まった日”とも言われている。 この日ビートルズの4人は、北ウェールズのバンゴールで超越瞑想の指導者マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーの講義を受けている最中だった。 数日後、4人はポールの家に集まり、ブライアン亡きあとの方針について話しあう。 再び予定していたインド行きを延期し、映画『マジカル・ミステリー・ツアー』の企画を進めることを決める。 ジョンは、彼の死を振り返りながらこんなコメントを残している。 「エプスタインが死んだ時、もうビートルズは終わったと思ったよ…。」 10月17日、ビートルズメンバーはアビイ・ロードスタジオ近くにあるユダヤ教会ニュー・ロンドン・シナゴーグで行なわれたブライアンの葬儀に4人そろって出席をする。 「Jai Guru De Va, Om」神に感謝を… 何ものにも僕の世界を変えることはできない どんなものも僕の世界は変えられない この「Across The Universe」は、ビートルズが1970年にリリースしたアルバム『Let It Be』に収録されたもの。 “レノン=マッカートニー”としてクレジットされているが、実質的にはジョン・レノンの手によるもので、彼の楽曲の中でも特に歌詞が印象的な作品で、ジョンがメンバーと共にインド哲学に傾倒していった時期(1967〜68年頃)に書いた楽曲である。 そう、つまりジョンが27歳の時に紡いだ作品なのだ。 また、この歌はオノ・ヨーコがジョンに紹介した松尾芭蕉の俳句にも影響を受けているとも云われている。 「有限と無限」、「ミクロとマクロ」、そして「自己の内なる真理の追究と悟り」など、この歌詞にはジョンが求めた“東洋的な観念”が色濃く反映されているようだ。 「ジョン・レノン」と「オノ・ヨーコ」。 「ビートルズ」と「インド」。 その出会いは偶然ではなく、やはり“運命”という不可思議な力によって導かれたものだっ..
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【5 PICS・音楽②】あの名曲を5枚の絵にしました。曲名は?

Q 5枚の絵であの名曲を表現しました。曲名は何でしょう? まずはノーヒントで挑戦! ★ヒント 「1970年代、日本の曲」です。 ※答えは後日↓↓↓に掲載します。 ※これらの絵はあくまでも個人的なイマジネーションであり、聴く人それぞれによって感じ方や見え方は異なります。 ※このコンテンツは2022年9月30日に出題されました。 出題/解説:中野充浩 イラスト:いともこ 企画:ワイルドフラワーズ ■5 PICSとは? The post 【5 PICS・音楽②】あの名曲を5枚の絵にしました。曲名は? appeared first on TAP the POP.
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「さよならウサギ」という歌

「あなたはもっと“やるべきこと”をしなきゃ!時間ってあるようでないのよ…」 「あたしササくんがまた歌うのを楽しみにしてるからネ」 最後に会った夜、彼女が僕に言った言葉を憶えている。 奈緒ちゃん、そっちでは歌ってる?映画を撮ってるの?それとも踊ってる? 今から10前の2012年9月29日に彼女はこの世を去った。 44歳だった。 この写真の中で笑うように…「バイバイ!またね!」って。 彼女は僕の恋人だったわけではない。 だけど、出会ったときから“特別な友達”だった。 そして、会えなくなった今も“特別な友達”だと思っている。 2016年の夏、僕は新しい曲を紡いだ。 それは僕が「書いた」のではなく「書かされた」のかもしれない。 きっと彼女が天国で退屈してたのかな? 「そろそろ私のことを歌にしてよね!」とでも言っているかのように。 “特別な友達”、冴島奈緒へ 君が僕に「書かせた」歌、これから大切に唄っていくけん。 僕が色んな街や場所で唄う姿、時々観においでよ。 【冴島奈緒の写真付きで読めるブログ記事】 https://ameblo.jp/sasakimotoaki/entry-12005020096.html 【ガンを隠しながらの…彼女の最後となった活動の記事】 http://www.zakzak.co.jp/entertainment/ent-news/news/20101214/enn1012141602012-n1.htm 彼女と僕は同い歳だった。 恋人とか“男と女の関係”ではなく、特別な友達だった。 出会って約20年間…互いにそう思っていた。 久々に再会したのは、彼女が旅立つちょうど一年前…2011年の秋。 大きなサングラスに(相変わらず)ブッ飛んだ映画から抜け出してきたような姿で、彼女は待ち合わせ場所に現れた。 「ササくん!ご無沙汰ぁ~!また会えて嬉しいわぁ~!!!」 「結婚したんだよね!パパにもなったんだよね!おめでとう!」 大きな目をいっぱいに見開いて、でっかい口で笑う。 彼女は昔から、人目や世間体を気にすることを無意味だと思っている。 あの頃と同じように日本人離れした(!?)ハグをしてきた彼女の身体は、病魔との闘いで痩せ細っていた…。 「あたし今日はお酒飲まないけど、ササくんは遠慮なくどうぞ!」 その日は、僕も酒を飲まないって決めていた。 二人で食事をし..
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ファイブ・イージー・ピーセス〜ドロップアウトの空虚を描くジャック・ニコルソン初主演作

『ファイブ・イージー・ピーセス』(Five Easy Pieces/1970) この十数年、ネットメディアやマーケティング界隈で「若い世代の○○離れ」というフレーズが頻繁に使われるようになった。TVを観ない、車を買わない、酒を飲まない、恋愛をしないなど何でもありだ。だが、それを言うなら「アメリカ文化離れ」を真っ先に挙げるべきだろう。60年代・70年代・80年代・90年代と、日本の若者文化やライフスタイルはずっとアメリカの影響を強く受けずにはいられなかったのだから。 そんな状況が明らかに変わり始めたのはゼロ年代。ネットが人々の生活や社会のインフラとして確立していくと、世界のどこにいようが同じ情報をリアルタイムでつかめるようになった。あれほどヒエラルキーがあった女子高生のクチコミさえ崩壊し、都市と地方の情報格差はなくなった。そしてスマホやSNSが完全浸透した現在において、アメリカ文化はもはや憧れでも追いかける対象でもなく、一つの選択肢になった……。 60年代後半〜70年代前半。社会のシステムを疑い、自己否定して、すべてを捨て去り、新しい価値を見出す。そんな「ドロップアウト」という生き方が日本の若者たちを魅了した。影響元はもちろんアメリカ。ヒッピーや学生運動、ロックやドラッグはカウンターカルチャーを象徴する体験であり、ドロップアウトすることはそのすべてに触れられる魔法の扉だった。恵まれた環境にいる者ほど、放浪の世界に取り憑かれた。 『イージー・ライダー』(1969)や『真夜中のカーボーイ』(1969)といったアメリカン・ニューシネマの影響も大きく、今回紹介する『ファイブ・イージー・ピーセス』(Five Easy Pieces/1970)もその一つ。ジャック・ニコルソン演じる主人公は、約束された将来に背を向け、エリートコースからドロップアウトした若者だった。 『イージー・ライダー』で弁護士役で出演したニコルソンは本作が初主演。娼婦役だったカレン・ブラックもリアルな演技で強烈な存在感を残す。映画には印象的なセリフがいくつか聞こえてくる。 どうしてこんな環境を捨てたのか、俺には分からない。 この一言だけでも分かるように、主人公はとてつもない虚無感に覆われている。おめでたい野心などあるはずもなく、かといって誰かの役に立ちたいという志を持つまで成熟していない。ドロップアウトした..
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ストレンジャー・ザン・パラダイス〜ヒップな連中は必ず観るジム・ジャームッシュの世界

『ストレンジャー・ザン・パラダイス』(Stranger Than Paradise/1984) 僕はキャリア・アスピレーション(出世)を目指している人の映画を撮ることにまったく興味がない。僕のどの映画にもテーマとしてあるのが、そうしたキャリア・ハッスル(出世主義)の外側にいる人たちなんだ。 出世しなきゃ、稼がなきゃ、いい暮らしをしなきゃ、モテなきゃ、といった思考に呪縛された「スクエア」な人たち(システム社会の奴隷とも言われる)とは対照的な連中が好む映画がある。『ストレンジャー・ザン・パラダイス』(STRANGER THAN PARADISE/1984)は、紛れもなくそんな1本だった。 1980年代後半、まだ10代の時に映画館へ行ったことがある。この映画の存在を教えてくれ一緒に誘ってくれたのは、「ヒップ」に生きる決意をしたばかりの友達だった。彼はその精神を忘れることなく、今ではスクエアな人たちが望んでいた成功を手にした。もちろん本人には成功という感覚はない。そんなことはどうでもいいのだろう。 アメリカは高い地位を戦って取る人々の国だということが普通になっている。この映画の中の金銭の考えというのは、全身をかけてそれを得ようとするのではなく、騙したり罠にはめたり、偶然によってそれを掴むことだ。 監督のジム・ジャームッシュは、17歳でニューヨークに出てバンド活動を開始。その後、作家を志すためにコロンビア大学文学部へ入学した。故郷のオハイオでは映画はあまり観ていなかったが、1974年にパリに9ヶ月滞在した時にゴダールや小津安二郎といったヨーロッパや日本人の映画作家を発見。同時にサミュエル・フラーなどのヒップなアメリカ映画にも触れた。 ニューヨークに戻ったジャームッシュは、作家として物語を綴り始めるが、それが極めて視覚的なものに変化したことを自覚。1975年になるとニューヨーク大学大学院の映画学科へ再入学する。ここで師となる伝説のニコラス・レイ監督と出逢い、助手を務めることになった。 そして在学中に最終学期の学費をすべて注ぎ込んで、『パーマネント・ヴァケーション』という16ミリを撮影。これを高く評価したロードムービーの映画作家ヴィム・ヴェンダースから、40分ほどの量の余ったフィルムを譲り受けたジャームッシュは、ニューヨークを舞台にした30分の短編作品を撮り上げる。ヴェン..
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パラダイス・アレイ〜スタローンが主題歌を歌ったトム・ウェイツの俳優デビュー作

『パラダイス・アレイ』(Paradise Alley/1978) 民放のロードショー番組にまだ色気や体臭が漂っていた1980年前後。日本の家族が今よりもまだ健全だった頃。 リビングで父親が黙って映画を観ている姿が好きだった。自分の部屋にテレビなど置いてもらえない息子は、何も言わず隣に座って画面を眺める。会話は少ない。家で一緒に映画を観ているだけなのに、夜9時から11時前までのひとときがなぜか心地良かった。終わるとテレビを消して、「おやすみ」と言ってゆっくりと寝室へ上がっていく父親。そんな姿を何度見たことだろう。 あれから40年近くが経った。あの頃のロードショー番組で放映された数々の70〜80年代産の映画は、今ではいつでもどこでも好きな時に気軽に観ることができる。日本の子供たちはテレビよりスマホの画面と向き合う。そしてリビングから父親たちの姿が消えた……。 こんなことを考えていると、あの頃の映画が蘇ってくる。それは誰もが知るヒット作や有名作ではなく、どちらかというとB級映画。少なくともネット環境が整うまでは一般的には忘れ去られていた映画。中でも『スラップ・ショット』(1977)や『カリフォルニア・ドールズ』(1981)はそんな筆頭格。そして今回紹介する『パラダイス・アレイ』(Paradise Alley/1978)も、“テレビを眺める息子たち”に強い印象を残してくれた1本だった。 脚本・監督・主演は、『ロッキー』(1976)の成功でアメリカン・ドリームを掴み取ったシルヴェスター・スタローン。これが初監督作。ニューヨークのスラム街で過ごした自らの日々を取り入れた内容で、現状打破の世界を再展開。おまけにビル・コンティによる主題歌まで歌った。オープニングで流れる「Too Close to Paradise」というその曲は、はっきり言って下手だけど素晴らしい。 1946年、終戦後のニューヨーク。ヘルズ・キッチンと呼ばれるスラム街で暮らすイタリア系の3兄弟。映画は彼らの人間関係や苦悩を軸に、やがて賭けプロレスで夢や希望を勝ち取ろうとする姿を描く。 日本ではプロレスのNWA世界チャンピオン、テリー・ファンクの出演も話題になった。ザ・ファンクスとして兄ドリーとタッグを組み、ゴールデンタイムのプロレス放送でお馴染みだった親日家のプロレスラー。また、1983年5月に放送されたロードシ..
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ベッシー・スミスを偲んで〜ブルースの女王と呼ばれた伝説的な黒人歌手の足跡と功績

1937年9月26日、ブルースの女王と呼ばれた伝説的な歌手ベッシー・スミス(享年43)が、巡業の途中、ミシシッピー州コアホマ付近で交通事故に遭い死亡した。 亡くなった当時、人気の絶頂にあった彼女の葬儀は派手に行われたらしいが、なぜか夫が墓石を買い供えるのを拒んだため、墓石は無いままだった。 その悲運の死から33年が経った1970年…彼女を崇拝していたジャニス・ジョプリンとジョン・ハモンド(音楽プロデューサー)の寄付によって、ペンシルベニア州にあるマウント・ローン墓地に墓石が立てられた。 ジャニスは彼女のために墓を建てた2カ月後に世を去っている… ベッシー・スミスと言えば、ビリー・ホリデイ、マヘリア・ジャクソン、ノラ・ジョーンズ、そして日本の浅川マキなどにも大きな影響を与えた人物として知られる伝説の歌手である。 1894年4月15日(生年月日には諸説あり)、彼女はテネシー州チャタヌーガで生まれる。 幼い時に両親を亡くした彼女は、姉や兄と力を合わせながら貧しい幼少期を送ったという。 8歳の頃から日々の糧を得るために兄のギター伴奏に合わせてストリートで歌うようになる。 その後、ヴォードヴィルショーで踊り子などの経験を重ねた彼女は、15歳の時に黒人女性歌手マ・レイニーと出会い大きな転機を迎える。 マ・レイニーは彼女の歌の才能を見出し、ラビット・フット・ミンストレル(当時“テント・ショー”と呼ばれた旅興行一座)に参加させる。 その後、アトランタ、メンフィス、シカゴなどで劇場歌手としてキャリアを重ねた彼女は、1923年(当時29歳)にコロンビアレコードからスカウトされる。 契約直後、ニューヨークに移ってリリースした「Downhearted Blues」がヒットし、彼女は一躍スター歌手の仲間入りを果たす。 20世紀に入り、レコードやラジオという新しいメディアが急速に発展してゆく。 メディアの発展によりメジャーレコード会社がブルースを扱うようになったのは、全米各地で盛んになりはじめていたWBSやWSMなどの地方ラジオ局が黒人向け音楽を頻繁に流し、高い人気を得ていたのが理由だった。 1920年8月10日、メイミー・スミスが「Crazy Blues」を含む数曲をレコーディングする。 これは音楽史上初めてのブルースの録音となっただけでなく、歴史上初めて黒人女性の声がレコード化された..
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スティング〜スコット・ジョプリンのラグタイムを復活させた名作

『スティング』(The Sting/1973) 当初は酷評されながらも名作となった『明日に向かって撃て!』(1969)から4年。ジョージ・ロイ・ヒル監督がポール・ニューマンとロバート・レッドフォードを主演に迎え、再び組んだのが『スティング』(The Sting/1973)。 説明するのも野暮なほどこちらも名作だが、大恐慌時代のシカゴを舞台に大仕掛けの詐欺を描いたこの物語は、演出も脚本も美術も衣装も音楽もすべてが“完璧”で、今でも観る者に映画の楽しさを理屈抜きにプレゼントしてくれる超一級作品。 アカデミー賞7部門(作品/監督/脚本/美術/編集/編曲/衣装)を受賞したのは当然のことながら、ロバート・ショウ、レイ・ウォルストン、チャールズ・ダーニング、アイリーン・ブレナンといった名バイプレイヤーの存在がこの作品の評価を高めたことを忘れてはならないだろう。 2人のスターも刺激を受けたに違いない。ニューマンはカードゲームのイカサマ行為を技術コンサルタントからマスターして代役なしで撮影に挑んだというし、三流詐欺師役のレッドフォードは当時のインタビューでこんなことを話している。 あえてカッコよく演じようとしないことでしか、いい演技は生まれない。カッコ悪く演じるというリスクを冒した分だけ、いい俳優になるんだ。 1936年のシカゴ。その日、フッカー(ロバート・レッドフォード)が裏通りで男を騙して手にしたのは思いもよらぬ大金。ベテランの相棒ルーサーは悪い予感を覚えるが、若いフッカーは調子に乗ってギャンブルですべてを使い果たしてしまう。 ルーサーの読み通り、それは大物ギャングのロネガン(ロバート・ショウ)の組織の金だったことから、二人の命は狙われる。無惨にもルーサーは消され、悲しみの中で復讐を誓ったフッカーは大物詐欺師ゴンドーフ(ポール・ニューマン)の元へ向かう。しかし、頼みのゴンドーフは酒浸りで売春宿に身を隠している有様だった。 物語は、結束したフッカーとゴンドーフが別人になりすまし、昔の仲間たちの協力を得ながら、大物ギャング相手に競馬絡みの大詐欺(約10億円)を仕掛けるというもの。そこにフッカーの顔を知る刑事や殺し屋、FBIが追ってきて……という流れ。間を挟んでくる構成も見事だ。 そして、とどめの一撃(クライマックス)まで映画の世界にどっぷり浸れるのは、やはりあのピアノの響き。ス..
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明日に向かって撃て!〜批評家たちの“知的想定内”を外れて酷評された伝説の名作

『明日に向かって撃て!』(Butch Cassidy and the Sundance Kid/1969) ポール・ニューマンは自ら主演した映画『明日に向かって撃て!』(Butch Cassidy and the Sundance Kid/1969)を振り返ってこう言った。 当時は人々はまさに映画を撮っていた。 今ではまず予算とスケジュールだ。誰かのボーナスや封切り日を気にかける。 この映画が色褪せないのは、映画を作ることの喜びだ。 映画とは喜びなんだ。 仲間意識が感染しなきゃダメなんだよ。 公開当時、この映画は批評家たちから酷評された。ユーモアやロマンス、悲劇や友情が絡み合った物語が、彼らの“知的想定内”を大きくはみ出していたことも理由の一つだが、何といってもそれまでの西部劇では考えられなかった「主人公が逃亡する」という姿が信じられなかったのだ。勇敢なジョン・ウェインやゲイリー・クーパーなら目の前の追っ手から逃げ出したりするだろうか? しかし、1969年という時代に生きる大衆の見方は違った。『明日に向かって撃て!』が持つ“想定外”のストーリーと人間臭さに多くの人々は共感した。アメリカン・ニューシネマを代表する傑作となった大きな要因はこの点にこそある。 ウィリアム・ゴールドマンは、1890年代にアメリカ西部から南米にかけて悪名を轟かせた実在のアウトロー、ブッチ・キャシディとサンダンス・キッドの物語を8年もの歳月を掛けて脚本にした。監督のジョージ・ロイ・ヒルは、その脚本を新しい感覚でフィルムに捉えた。 映画の始まりからしばらくはセピア色だが、やがて観る者を当時の風景へ誘うように徐々に色が付けられていく。物語途中でもセピア色の演出は活用されているが、1911年に南米ボリビアで射殺される壮絶なクライマックスとの対照的な時間の流れが心から離れない。 主演はポール・ニューマンとロバート・レッドフォード。まだ売れていなかったレッドフォードの起用は映画会社から猛反対にあうが、ニューマンの妻や監督の強い推しの甲斐あって無事キャスティング。本作で大スターとなった。レッドフォードと言えばサンダンス映画祭でも知られるが、その名はこの映画で演じたサンダンス・キッドに由来する。なお、このトリオはのちに『スティング』でもオスカーを獲得した。 数々の銀行や列車強盗を繰り返すリーダーのブッチ・..
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ハスラー〜35歳のポール・ニューマンが映画俳優として覚醒した名作

『ハスラー』(The Hustler/1961) 最初はわざと負け、勝つにしてもギリギリ。相手には「運が良い奴」とだけ思わせる。それから相手を称賛したり、挑発したりして、賭け金を上げさせたところで本領発揮。最後にすべてをかっさらう。これは騙しだ。心理戦だ。まんまとハスラーに仕組まれたのだ。 ハスラーは下調べにも余念がない。金になりそうなカモを探し出して順番をつけたり、その町に何ヶ月も住んで大物の探りを入れることもある。そしてたった1日で彼らから大金を奪っていく。顔が知れ始めたら潮時。静かに町を去るのが怪我をしないための唯一のルールだ。 『ハスラー』(The Hustler/1961)はビリヤードのプールゲームで稼ぎ歩く孤独な男の物語だった。それまでマーロン・ブランドやジェームズ・ディーンの亜流と評価の低かったポール・ニューマンの出世作として、あるいはトム・クルーズを加えた25年ぶりの続編『ハスラー2』(1986)やそれに続く日本での空前のビリヤードブームといった視点で語られがちな作品だが、実はベンチャー起業家のビジネス書や自己啓発書など足元にも及ばない“人生の教え”が描かれた名作でもある。 原作はウォルター・テヴィスが1959年に発表した同名小説で、監督・脚本はロバート・ロッセン。全編にジャズが流れ、あえてモノクロで撮影。プールの大勝負の舞台はセットではなく、NYにあった本物の店を使用。低予算映画にも関わらず一切の妥協を許さないプロの仕事によってこの映画は大ヒット。当時35歳だったポール・ニューマンがスターとなるきっかけを作った。共演にはTVスターとして有名なジャッキー・グリーソン、舞台俳優として存在感のあったジョージ・C・スコット、紅一点のパイパー・ローリー。 パリにいて別の映画に出演する予定だったというニューマンは、脚本を半分読んだところでエージェントに電話。「全部読むまでもない。今すぐ引き受けてくれ」と言ったそうだ(フランク・シナトラが演じていた可能性もあった)。本作に出演するまでビリヤードのキューを握ったこともなかったが、17年間王座に君臨した伝説の世界チャンピオン、ウィリー・モスコーニから特訓を受けて演技に挑んだ。 (以下ストーリー・結末含む) 物語は、“疾風(はやて)のエディ”として知られる若きハスラー、エディ・フェルソン(ポール・ニューマン)が、不敗..
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炎のランナー〜ヴァンゲリスのシンセサイザーと英国トラッドの香り

『炎のランナー』(Chariots of Fire/1981) 2012年のロンドン五輪。開会式や閉会式に登場するアーティストの演奏や様々な文化的/歴史的事象での名曲使用に、多くの音楽やロックファンはきっと反応したことだろう。 中でも面白かったのは開会式の祭典で、英国映画『炎のランナー』のタイトル曲がオーケストラによって演奏。そこに印象的なシンセサイザーのあの音が絡んでくる場面。弾いているのはヴァンゲリスではなくMr.ビーンということが分かって歓声が沸く。ビーンが退屈そうにシンセサイザーの鍵盤を押し続けながら、海辺を走る有名なシーンのパロディまであった。 『炎のランナー』(Chariots of Fire/1981)は極めて英国的な映画だった。信念を突き通した人間ドラマを探していたプロデューサー、デヴィッド・プットナムがLAに滞在した時のこと。借りた家に一冊の本が置き去りにされていた。それはオリンピックの歴史が綴られた本で、特にエリック・リデルの記事に心奪われたことから始まる。 映画のオープニングとエンディングは、ゴルフの発祥地と全英オープンでも有名なセント・アンドリューズの海辺。曇り空と静かな波に見守られながら渚を走る若者たちの姿。 現在のような商業主義にまみれた五輪とは表情がまったく違った1920年代の五輪。短距離走で金メダルを獲得することを夢見た二人の若者が目の前の試練を克服しながら、やがて実現するまでの姿を描く。その普遍的なテーマと静かな描写はとても味わい深く、ハリウッド映画や民放のTVドラマを見慣れた目には妙な心地よさ、喜びを感じる。 実在した二人のイギリス人青年が描かれるが、一人はエリック・リデルというスコットランド人、もう一人はハロルド・エイブラハムズという名のユダヤ人というのもこの映画の見所の一つだろう。宣教師の家系に生まれたリデルは神のために走り、差別や偏見と闘うエイブラハムズは勝利するために走る。 ギリシャ生まれのシンセサイザーの巨匠ヴァンゲリスが音楽を担当。風景や心情を見事に奏でたサウンドトラック盤はナンバーワンになり、タイトル曲も世界的ヒットに。『ブレードランナー』への仕事に繋がっていく。 また、英国トラッド・ファッションの着こなしや美しさにも思わずため息が出てしまう。どんな貧しくても男たちはスーツやネクタイを着ることを忘れなかったと言われ..
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エディ&ザ・クルーザース〜その正体はジョン・キャファティ&ザ・ビーバー・ブラウン・バンド

『エディ&ザ・クルーザース』(Eddie and the Cruisers/1983) 1983年9月、アメリカで1本の映画がひっそりと公開された。タイトルは『エディ&ザ・クルーザース』(Eddie and the Cruisers)。主演はTVドラマで人気が出始めていたマイケル・パレと、70年代から何本かの映画に出演していたトム・べレンジャー。後にパレは『ストリート・オブ・ファイヤー』、べレンジャーは『プラトーン』で誰もが知るスター俳優となる。 映画は本国でヒットしなかったことから、日本での劇場公開は見送られた。しかし翌年、この映画をサウンドトラックが救う。劇中歌を担当したのはジョン・キャファティ&ザ・ビーバー・ブラウン・バンド。全曲に渡って彼らがオリジナルやカバーを演奏し、収録曲の「On the Dark Side」が全米7位の再ヒットを記録。彼らの名は一気に知れ渡り、全盛期に入っていたMTVでも頻繁に流れ始めた。 その声やサウンドが、当時『Born in The U.S.A.』で頂点にいたブルース・スプリングスティーン&ザ・Eストリート・バンドにあまりにもそっくりだったため、日本の音楽メディアもそれに便乗した取り上げ方ばかりだったのは残念だが、確かにスプリングスティーンの世界的ヒットがなければ、彼らにスポットが当たることはなかったのかもしれない。 だが、今聴きなおしてみると、「Tender Years」や「Wild Summer Nights」なんて心にグッとくる名曲だし、けっこう優れたサウンドトラックだったことも解る。映画は無事に日本版DVDも発売されたので、マイケル・パレの口パク演技の上手さも楽しんでほしい。音楽ファンならかなり入り込めるストーリーだ。 ニュージャージーのローカルバンドながら全米ナンバー1ヒットを放ち、1964年に2枚目のアルバムを録音した直後にリーダーが事故死。アルバムのマスターテープもなぜか消え、バンドはそのまま解散。あれから18年が経ち、伝説となっているエディ&ザ・クルーザース。 TV局のリポーターのマギー(エレン・バーキン)は、当時死体はあがらなかったエディが実は今も生きていて、幻のセカンドアルバム『シーズン・イン・ヘル』もどこかに存在しているのではないかと、追跡ドキュメントを企てている。アルチュール・ランボーの詩から取られた作品..
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レミー・キルミスター27歳〜初めて踏んだアメリカの地、L.Aのホテルで書いた楽曲“モーターヘッド”

ヘヴィメタル界の重鎮モーターヘッドのボーカル&ベースを担当し、HR/HMシーンにおけるカリスマ的存在だったレミー・キルミスター。 1945年、彼はイギリスのスタフォードシア州ストークオントレントで生まれ、ウェールズのアングルシー島で育った。 少年時代からライヴ通いし、駆け出し時代のザ・ビートルズのステージを実体験している。 1960年代、マンチェスターでバンド活動をスタートさせた彼はロンドンに出ると、ジミ・ヘンドリックスのローディーを経験することとなる。 北インドの太鼓の一種“タブラ”を使用した異色ロックバンド、サム・ゴパルでボーカルとギターを担当した後に、1972年(当時26歳)にサイケデリックロックバンド、ホークウインドにボーカル&ベーシストとして加入する。 翌1973年(当時27歳)から約2年間にわたり同バンドの全盛期を支えたが、ドラッグの問題などで1975年に解雇される。 「ホークウインドってのは、当時としちゃドえらい見世物だったと思う。いわゆるピッピー風のラブ&ピース的グループとは一線を画してたんだ。強烈な色とりどりの照明を大量に使いながら、バンド自体はショーの間ほぼ全編暗闇の中に居たんだよ。俺達の頭の上では壮大なライトショーが展開していた。18のスクリーンを使って、溶けてゆくオイルとか、戦争や政治的なシーン、奇妙な標語やアニメーションなんかを次々に流すんだ!」 彼らがステージに登場すると、大音量の演奏が響く中、ダンサー達がメンバーの横でのたうち回り、アシッドで飛びまくったオーディエンスがフロアで踊りまくっていた。 「あのバンドに入って一番良かったことは、イングランド以外の場所で沢山プレイする機会を得られたことだ。俺はそれまでほとんど長期で旅をするなんて経験がなかったからな。俺にとって人生初の海外ライブは、パリのオランピア劇場だった。機動隊がゲシュタポみたいに出動してきやがって暴動になりかけてたショーを中断させたんだ。」 1973年、彼は27歳を迎えた年に初めてアメリカへと渡った。 「あれは確かアルバム“Spase Ritual”をリリースした直後だった。俺はすぐにアメリカが好きになった!際限のない馬鹿騒ぎだったぜ!イギリス人の俺にとっちゃ、とてつもねぇエルドラド(黄金郷)に辿り着いたような気分だったよ!」 彼らの最初の全米ツアーは、フィラデル..
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【5 PICS・音楽】あの名曲を5枚の絵にしました。曲名は?

Q 5枚の絵であの名曲を表現しました。曲名は何でしょう? まずはノーヒントで挑戦! ※答えは後日掲載。 ※これらの絵はあくまでも個人的なイマジネーションであり、 聴く人それぞれによって感じ方や見え方は異なります。 ※このコンテンツは2022年9月22日に出題されました。 出題:中野充浩 イラスト:いともこ 企画:ワイルドフラワーズ ★ヒント 「1980年代、日本の曲」です。 ■5 PICSとは? The post 【5 PICS・音楽】あの名曲を5枚の絵にしました。曲名は? appeared first on TAP the POP.
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ランナウェイズ〜平均年齢16歳で男社会に殴り込みをかけた伝説のガールズバンド

『ランナウェイズ』(The Runaways/2010) 私たちは地獄のような苦しみを味わって、音楽業界で女の子たちが楽にやっていけるようにしようとした。兵士みたいに血まみれになって戦って、ボコボコにされたけど、今こうしてここにいる。(シェリー・カーリー) 1975年、ロサンゼルス。16歳のジョーン・ジェットはスージー・クアトロとギターに恋していて、ロックスターになることを夢見ている。だが、ロックはまだまだ男たちのイメージが強く、少女だというだけでギター教室はエレキギターの弾き方さえ教えてくれない。そんなある夜、行きつけのクラブで敏腕プロデューサーのキム・フォーリーと知り合う。キムはジョーンを見て「女の子だけのバンド」が商売になることを思いついた。 一方、15歳のシェリー・カーリーは双子の姉と「普通で可愛い女の子」の日々を送っている。だが、歌うこととデヴィッド・ボウイの物真似が大好きなシェリーはLA郊外の学校では浮いた存在。母親が男を作り、父親は酒浸りで家にも帰ってこないことにも、思春期の少女の心は揺れていた。そんなある夜、行きつけのクラブでキムにスカウトされてジョーンを紹介される。こうしてランナウェイズは始動した。 1970年代半ば〜後半にかけて、日本でも熱狂的な人気を博したガールズバンド、ランナウェイズ。メンバー全員が10代の女の子で、デビュー当時平均年齢16歳ということでも話題になり、来日公演や番組出演や雑誌の取材をはじめ、追っかけのファンたちに追い回され続けるという、本国アメリカとは比べものにならないくらいスーパースターだった5人組。 シェリー・カーリー/Vo ジョーン・ジェット/G&Vo リタ・フォード/G ジャッキー・フォックス/B サンディ・ウェスト/Ds 映画『ランナウェイズ』(The Runaways/2010)は、そんな彼女たちの出逢い、ロックスターの夢の実現、歪んだ音楽ビジネスとの葛藤、そして自分の人生を見つけようとするまでを描いたリアルなストーリーだ。 シェリー・カーリーの自伝『ネオン・エンジェル』を原作に、ジョーン・ジェットが監修。シェリーをダコタ・ファニング、ジョーンをクリステン・スチュワートが演じた。二人の若手女優は役作りのために本人たちに付き添い、クリステンは歌やギター演奏や言い回しなど、ジョーン本人が間違えるほど見事になりきった..
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