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ルーファス・トーマスを偲んで〜底抜けに明るいキャラクターでメンフィスを元気にした男の功績と軌跡

2001年12月15日、“The world’s oldest teenager(世界で一番歳を取った十代)”と呼ばれた人気黒人歌手ルーファス・トーマス(享年84)がテネシー州メンフィスの病院で静かに息を引き取った。 亡くなる3年前に心臓の手術を受けており、死因は心臓の衰弱からくる心不全と発表された。 ユーモラスな歌とダンスが特徴の「Walking The Dog」「Do The Funky Chicken」などの代表曲で幅広いファン層に親しまれた彼は、歌手としてだけではなくタップや漫才などマルチタレントぶりを発揮してお茶の間でも人気のエンターテイナーだった。 芸歴70年を超えた晩年でも、ステージではお馴染みのホットパンツ姿で登場して観客を沸かせていたという。 1917年、彼はミシシッピ州にあるケイスという小さな町で生まれた。 彼が3歳の頃に一家は仕事を求めてテネシー州メンフィスへと移り住むこととなる。 当時のメンフィスと言えば、綿花と木材の集散地として多くの黒人労働者が暮らす街だった。 そんな街で育った彼は、10歳頃からタップダンサーとして歓楽街のキャバレーなどで踊るようになる。 ハイスクールを卒業した後は、ミンストレル・ショーの一座に加わり南部を旅して回ったという。 1943年(当時26歳)に、初めて歌手としてレコーディングを経験したが…鳴かず飛ばずのまま地元のクラブなどで細々と活動を続けていた。 1952年、彼が35歳の時に転機がおとずれた。 当時、まだ人種差別が激しかった地元メンフィスの黒人向けラジオ番組のDJに抜擢されたことで、彼の名前は南部中に知れ渡るようになる。 彼は南部で初めてエルヴィス・プレスリーを黒人リスナーに紹介したり、まだビッグネームになる前のBBキングを発掘して広めた人物としても知られている。 番組は人気を呼び、しだいに彼は歌手としても注目を浴びるようになってゆく。 1953年、メンフィスで設立されたばかりのSun Recordsからビッグ・ママ・ソーントンという女性新人歌手がデビューする。 彼女はジェリー・リーバーとマイク・ストーラーが書いた「Hound Dog」を歌い、R&Bチャートの首位を7週間も奪取するという快挙を遂げる。 このヒットを受けて、ルーファス・トーマスが“アンサーソング”として「Bear Cat」という曲をヒットさせ..
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デヴィッド・ボウイ 死を迎えるまでの日々

2016年1月10日、デヴィッド・ボウイが旅立った。 彼はその二日前の1月8日、69歳の誕生日に最新シングル「Lazarus」のミュージックビデオを公開したばかりだった。 同時発売されたアルバム『★(Blackstar)』は、発売一週目で14万6千枚(UK)18万1千枚(US)を売り上げ、「Lazarus」の動画はダウンロード数1千7百万に達した。 なんというタイミングなのだろう… 自らが演出したかのようなその死は、まさに“彼らしい”最期だった。 Lazarusとは聖書に登場するイエスが蘇生させたユダヤ人の男である。 このミュージックビデオに出てくる顔の覆いや白い服、そしてラストシーンでクローゼットの中に戻ってゆくボウイの姿は、洞穴に葬られたLazarusのイメージと重なってゆく… <新約聖書―ヨハネによる福音書11章・Lazarusの復活> http://art.pro.tok2.com/Bible/CLater/17Lazarus/17Lazarus.htm その死からさかのぼること9年… 2007年1月、彼は60歳の誕生日を迎えた。 妻のイマン・アブドゥルマジドによると、彼が誕生日を特別騒ぎ立てるようなことはなかったという。 「たぶん幸せだったからじゃないかしら。私たちはごくシンプルに家庭生活を送っていたわ。その頃、彼はもうアルコールも絶っていたし、日常的に運動もしていたわ。」 この年、彼はイギリスの人気俳優リッキー・ジャーヴェィスのTVドラマ『Extras(スターに近づけ!)』にゲストとしてカメオ出演した。 主人公のリッキーに“哀れな小太り男”の歌を弾き語るシーンは、同ドラマの全話の中で最も面白かったシーンとして批評家達に称賛されたという。 当時、彼は自分自身に起きた心臓発作や母親の死をめぐり、人は誰もがいつかは死ぬ運命にあると感じるようになっていた。 「終わりというのがおぼろげに姿を見せはじめているのを実感している。僕にはあとどれだけの人生が残されているのだろう?これ以上に悲しいことはないよ。妻や幼い子供、愛するものすべてといつかは別れを告げなければならないことがわかっているんだから…」 2010年、63歳になった彼はカリブ海に浮かぶセントルシア島に別荘を購入した。 その家は、ピトンの火山を望む最高のロケーションに建っていて、ボウイと妻イマンはその..
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デヴィッド・ボウイを偲んで~センセーションとクリエイションを極めた男

2016年1月10日、デヴィッド・ボウイが旅立った。 日本時間では、1月11日15時30分に更新されたFacebookの公式アカウントで「18ヶ月におよぶ癌との勇敢な闘いの末、家族に見守られながら静かに死去しました」と告知された。 ボウイは1月8日、69歳の誕生日に通算25作目となるニュー・アルバム『★(Blackstar)』をリリースして、最新のミュージックビデオも公開されたばかりだった。 見上げてみな、俺はここ、天国にいる 俺には傷跡がある、見えないけど ドラマがある、決して奪えない 今や皆が俺を知っている 見上げてくれよ、もう死にそう 失うものなんてもう無い アルバム『★(Blackstar)』 の第2弾先行シングル「Lazarus(ラザロ)」は、1976年の映画『地球に落ちて来た男』でデヴィッド・ボウイが演じたホームシックの宇宙人、トーマス・ジェローム・ニュートンの目線で描かれているという。 “ラザロ”とは、聖書に登場するイエスが蘇生させたユダヤ人の男である。 このミュージックビデオに出てくる顔の覆いや白い服、そしてラストシーンでクローゼットの中に戻ってゆくボウイの姿は、洞穴に葬られたラザロのイメージと重なってゆく…。 <新約聖書―ヨハネによる福音書11章・ラザロの復活> http://art.pro.tok2.com/Bible/CLater/17Lazarus/17Lazarus.htm 1970年代初頭、ビートルズという一つのアイコンを失ったロンドンの若者たちは、新たなポップスターの出現を待望していた。 そして彼らが選んだのは、妖艶なメイクを顔に施し、ラメやスパンコール、孔雀の羽根などを身にまとう中性的な魅力に満ちたグラマラスで神秘的な男たちだった。 突如として出現した“彼ら”の姿は、かつてのビートルズのマッシュルームカットなどを“昔のもの”にしてしまう程のインパクトを持っていた。 ──デヴィッド・ボウイとマーク・ボラン。 共に1947年生まれのロンドンっ子である。 少年時代はエルヴィス・プレスリーやリトル・リチャードのロックンロールに夢中になり、ハイティーンの頃には映画『さらば青春の光』に登場する青年のごとく“スインギンロンドン”のお洒落なモッズで、両者ともこの頃から音楽活動をスタートしたという。 そのすぐ後に、ボブ・ディランやドノヴァンから影響..
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ニコ27歳〜ブライアン・ジョーンズが参加したデビューシングル、そしてアンディ・ウォーホルとの出会い

ニコ…本名はクリスタ・ペーフゲン。 彼女は生まれながらの嘘つきだった。 幼い頃からたくさんの嘘をついていたという。 彼女はそれを“お話”と呼んでいた。 その嘘は大人達から“ロマンティックな夢想”と呼ばれ、笑顔で見逃されていた。 友人達は皆、その“ちょっと変わった癖”を許した。 両親がロシア人なのか?それともロシアとトルコのハーフなのか?ロシアとポーランドとドイツとトルコのクオーターなのか? 出生、生い立ち、家族、年齢…彼女はいつも謎のベールに包まれていたという。 10代の頃から身長が180cmあった彼女は、パリを中心に『VOGUE』『ELLE』などの人気ファッション誌のモデルとして活動していた。 1960年(当時21歳)にはフェデリコ・フェリーニ監督の映画『甘い生活』に端役で出演。 彼女はこの頃からニューヨークに移り、しばらくの間はヨーロッパとアメリカを行き来しながら活動を行う。 1965年3月のある夜、彼女はローリング・ストーンズと出会う。 それは彼らのオーストラリアツアーの成功と、2ndアルバムの発売を祝うために、レコード会社が開いたパーティーの席だった。 ストーンズの初代マネージャーとして知られるアンドリュー・ルーグ・ オールダムが「スター候補の女の子を探している」という話の流れから、彼女が紹介されることとなる。 モデルの仕事のこと、フェリーニ監督の映画に出演したこと、ボブ・ディランと友達関係だということ…薄暗いVIP席で煙草を燻らせながら話す彼女に、オールダムはたちまち興味を持った。 オールダムが振り返ると、同じテーブルに座っていたブライアン・ジョーンズが彼女に熱い視線を注いでいたという。 その数秒後…ニコ(当時26歳)とブライアン(当時22歳)は、その場で直接言葉は交わさずとも特別なアイコンタクトを交わすこととなる。 彼女は当時、モデルや女優以外の新しいキャリアを必要としていた。 歌手という肩書きをいかにして手に入れるか? 「ブライアンのセクシーな魅力に惹かれたの…」 “若き大物”の近くに自分の位置を確保するため…彼女はブライアンのサディスティックな性癖や気紛れな行動に耐えた。 オールダムが彼女のために選んだ楽曲は、カナダ人作曲家ゴードン・ライトフットの作品「I’m Not Sayin」だった。 当時のライトフットといえば、エルヴィス・プレスリーやボブ・..
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音故知新①〜カントリーミュージックが生まれた場所

「カントリーミュージックのルーツをさかのぼると、アイルランドやスコットランドからアメリカ東部の僻地山岳帯アパラチアに入植した移民たちの歴史に辿り着く…」 まず、「カントリーミュージック」という呼び名は1940年代に入ってから用いられるようになったという。 日本が敗戦した第二次世界大戦後にアメリカの音楽産業は再編成され、ヒルビリーなどのマイナーな音楽もこれまで以上に全米のラジオ番組で放送されるようになる。 ところが、もともとアパラチア山脈周辺に住む山岳民に対する蔑称(差別用語)だった「ヒルビリー」という呼び方を嫌う演出家やメディアも現れ、当時はこのジャンル名をめぐる混乱がおきていた。 アパラチアンミュージック、マウンテンミュージック、カントリー&ウエスタン…その呼び方は様々だった。 カントリーミュージックの最初の商業録音(レコード作品)といえば、1923年にフィドリン・ジョン・カーソンという音楽家による「The Little Old Log Cabin In The Lane」という楽曲だと言われている。 フィドリン・ジョン・カーソンといえば、ブルースの最初のレコード作品をリリースしたオーケー・レーベルとも深く関わりのある人物である。 このカントリーミュージックとブルースの“初のレコード作品”に関しては、同レーベルのプロデューサー、ラルフ・ピアというと男が重要な役割を果たしたと言われている。 またカントリーミュージックの中心的都市といえば、一般的にテネシー州のナッシュビルを思い浮かべる人が大多数だと思うが、実は発祥地は同じテネシー州にあるブリストルという小さな町なのだ。 1927年にジミー・ロジャースやカーターファミリーが、この町にあったスタジオで録音したことをきっかけに、現在もブリストルの町はbirthplace of country music(カントリーミュージック発祥の地)と呼ばれており、今では“カントリーミュージック発祥の地同盟”なる組織も存在している。 では、何故ナッシュビルがカントリーミュージックの聖地などと言われるようになったか? それはWSMという小さなラジオ局がこの町にあったことに端を発する。 開局は1925年、このラジオ局で毎週末に生放送された『バーンダンス・ショウ』という番組の登場がカントリーミュージックをアメリカ全土に広げるきっかけをつく..
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ブルーバレンタイン〜多くの夫婦やカップルがいつか必ず直面する現実について

『ブルーバレンタイン』(Blue Valentine/2010)を初めて劇場で観た時、そのリアルさに胸が締め付けられるようになり、どうしようもない気持ちになった。そこには愛の始まりだけでなく、終わりも描かれていたからだ。 ネットでこの映画を検索すると、「これから結婚する人や結婚したばかりの夫婦は絶対に一緒に観てはいけない」と警告する人も結構いるほど。でもこれだけは言える。夫婦生活はいつまでもロマンチック・コメディとはいかない。誰にでも平等に試練やその瞬間は訪れる。 世の中には、若い男女が紆余曲折を経て結ばれるまでを描いたストーリーで溢れ返っているが、その後の続きを誰も知ろうとしない。SNSで結婚報告する人はたくさんいても、離婚報告する人は滅多にいない。だが、この映画は続きを描く。多くの夫婦が直面する現実をこれでもかと伝えてくる。 特に離婚したことのある人、あるいは大恋愛の末に別れたことのある人なら、この映画のどこかに必ず自分の姿を見つけるはずだ。カッコつけることは誰にでもできる。でもみっともないくらいカッコ悪いことは、とことん人を好きにならなきゃできないとも思う。 縮めようとすればするほど、離れていく心。 埋めようとすればするほど、深まっていく溝。 そう、あの惨めな気持ちを経験したことがあるなら、あの自己嫌悪と後悔に覆われた夜を過ごしたことがあるなら、『ブルーバレンタイン』はとっておきの映画になる。 ドキュメンタリー畑出身のデレク・シアンフランス監督は、このインディーズ映画を完成させるのに12年も費やした。その間、66回も脚本を書き直し、1224枚も絵コンテを描いたそうだ。 撮影は結婚前〜結婚後の順に進めたが、主演した二人=ライアン・ゴズリングは役のために額の毛を抜き、ミシェル・ウィリアムズはだらしなく太ってみせた。しかも監督は夫婦役の二人には「共通の想い出」が必要だと考え、実際に一ヶ月同じ家で暮らしてリアルを追求した。 物語はディーン(ライアン・ゴズリング)とシンディ(ミシェル・ウィリアムズ)の出逢い/喜び、別れ/苦しみが同時進行しながら交錯する。その対比が切なく、そのどちらの描写も静かに胸を打つ。 流れる音楽もパット・ベネターの「We Belong」やペニー&ザ・クォーターズの「You and Me」といった今どきこんな選曲あるか的なのもいい。ちなみにゴズリング..
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ラ・ラ・ランド〜“誰も知らない音楽”だからこそミュージカル映画の新たな指標になった

アメリカでは2016年末、日本では2017年2月に公開された『ラ・ラ・ランド』(LA LA LAND/2016)は、ミュージカル映画としては珍しく幅広い世代の間で話題になった。映画界に一筋の希望を与え、何の興味もなかった(敬遠や偏見含む)人々にミュージカル自体に関心を持たせ、SNSで世界へ拡散させたという意味でも「ミュージカル映画の新たな指標」的作品と呼んでもいい。 とは言え、ゼロ年代以降、スクリーンの中でのミュージカルは別に死に絶えたわけではなかった。我々はそれなりに楽しみ、感動していたはずだ。例えば、『レ・ミゼラブル』のような誰もが知る人間ドラマから、『ムーラン・ルージュ』(2001)や『マンマ・ミーア!』(2008)のような恋愛もの。さらには『ドリームガールズ』(2007)や『ロック・オブ・エイジズ』(2012)といった音楽もの。 それでも『ラ・ラ・ランド』がこんなにも騒がれたのは、この作品が過去の名作のリメイクでもなく、既存のヒット曲で綴られるジュークボックス・ミュージカルでもなく、ブロードウェイの舞台での実績が一切ない“オリジナルの曲と歌”を使用して大ヒットしたからだ。「誰も知らない音楽でいきなりミュージカル映画を作る」のは、無謀な賭けすぎる。 この死にかけたクリエイティヴを復権させたのは、自ら脚本も手掛けたデイミアン・チャゼル監督。もともと大学の卒業制作で低予算のミュージカル映画を製作したほどの愛情の持ち主。『ラ・ラ・ランド』の企画は無名時代から温めていたものの、当然無視された。ところがデビュー作『セッション』が思わぬ成功を収めて実績ができた。今度は断られる理由はなかった。作曲は学生時代からの友人ジャスティン・ハーウィッツが担当。 重要なのは、夢を追う者たちの映画を作ることだった。大きな夢を持つ二人。その夢が彼らを突き動かし、一緒にし、そして別れさせもする。 この作品の本当の素晴らしさは、「夢への挑戦とそこから生まれるロマンス」を描き出した点に尽きる。そして「二人が幸せに結ばれました」ではないリアルな結末が、多くの人々の心を打って共感を呼んだ。 現在進行形の時代を描いているのに、観る人によってはどこか懐かしさを感じられるのもいい。往年のMGMミュージカル映画の洗練さが漂う場面もあれば、フレッド・アステアとジンジャー・ロジャースのように伝説のカップルが..
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音故知新③〜こうしてR&Bが誕生した

今回の音故知新は、R&B(リズム・アンド・ブルース)のルーツに迫ります。 このジャンルは時代と共に洗練され、進化も著しく、その特徴を一言で言い表すのは難しい。 R&Bといえば、後に発展するロックンロールなどにも多大な影響を与え、現代でも様々なアーティスト達が“表現(パフォーマンス)の基礎”としている音楽ジャンルである。 黒人系大衆音楽として今や世界中で愛されているこの「R&B」という呼称は、ビルボード誌の編集者だったジェリー・ウェクスラーというユダヤ系白人の男によって作り出されたといわれている。 後にアトランティックレコードの経営者となるウェクスラーがこの呼称をつけるまでは、一切の黒人音楽は「レイスミュージック」と呼ばれていた。 1920年代のブルースのレコードにはレイスミュージックと記されており、その他ジャズやゴスペルなども含めてあらゆる黒人音楽がそのように呼ばれていたのである。 それまではビルボード誌でも黒人音楽のチャートを“レイスミュージック・チャート”として発表していたという。 しかし1947年の或る週末「もう、こういう名前で呼ぶ時代ではないだろう」「何か違う名前で呼ぼう、週末の間に皆で考えよう」と、ビルボード誌編集部で話が出たのをきっかけに、次の火曜日にウェクスラーが「R&B(リズム・アンド・ブルース)っていうのはどうだろうか?」と提案し、それが採用されたというのだ。 それともう一つ、このR&Bというジャンルの誕生にはラジオの存在が深く関わっていた。 第二次世界大戦後、全米に白人経営による黒人音楽を流すラジオ局が爆発的に増加したという。 連邦通信委員会によってそれまで規制されていたラジオ局の数が緩和されたのだ。 テレビの普及と共に、中流階級の白人を中心に“ラジオ離れ”が進む。 ラジオは少しずつマイノリティーに特化したメディアとして生き残りをかけるようになる。 小規模なラジオ局はレコードを用いた番組編成に慣れており、DJ(ディスクジョッキー)の重要性が高まっていったという。 リスナーの趣向を見極めつつ強烈な個性で番組を率いるDJが、レコードのセールスマンでありヒットを作り出すキーパーソンとなっていた。 ──それは1951年の夏の出来事だった。 オハイオ州クリーブランドで『レコード・ランデヴー』というクラシックレコード専門番組を担当していたDJアラン・フリー..
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フレディ・キングを偲んで〜“テキサスの弾丸”と呼ばれたブルースマンの偉大な足跡と功績

1976年12月28日、ブルースの“3大キング”の一人フレディ・キング(享年42)がテキサス州ダラスで出血性潰瘍と心不全のため急逝した。 B.B. キングよりも9歳年下で、アルバート・キングよりも11歳若かった彼は、250パウンド(110Kg以上)の巨体と、愛機チェリーレッドのギブソンES-345TDから織りなすダイナミックなプレイから“Texas Cannonball(テキサスの砲弾)”と呼ばれていた。[※1970年代に入ってからはギブソンES-355TDSVも愛用していた] エリック・クラプトン、デュアン・オールマン、ジェフ・ベック、スティーヴィー・レイ・ヴォーンなど、多くのギタリストに影響を与えた彼の演奏スタイルの特徴といえば、テキサス掛けと言われた(たすき掛けにしない)ストラップ、金属製のサムピックとフィンガーピックで弦を弾(はじ)く太く歪んだサウンド、そして躍動的なチョーキングだった。 彼の死後、エリック・クラプトンはこんな言葉で彼の功績を讃えた。 「フレディから教わった一番重要なこと、それは、ギターと弾き手が愛し合って一つになることさ。」 1934年9月3日、彼はテキサス州のギルマーで生まれた。 祖父はネイティヴアメリカンのチョクトー族で、彼が誕生する前、娘(フレディの母親)にこんな予言を伝えていたという。 「お前が授かる子供は、将来何百万という人々の心をかき乱し、同世代に大きな影響を与えることになるだろう。」 6歳からギターに触れるようになった彼は、母親とその兄弟(伯父)の教えでカントリーブルースを演奏するようになる。 最初はライトニン・ホプキンスやジョン・リー・フッカー、ルイ・ジョーダン、そしてB.B.キングのレコードを繰り返し聴きながら、同じタイミングで弾けるように必死に練習したという。 彼が初めて手にしたギターは、シルバートーン製のアコースティックモデルだった。 少しずつ上達していくにつれて、彼は新しいギターを手に入れたくなる。 「自分でギターを購入するために、綿摘みの仕事をしていたよ。」 次に自分で稼いだお金で彼が買ったギターは、ロイ・ロジャース製のアコースティックモデルだった。 彼が10代の頃、一家はシカゴに移住する。 1950年代初頭、時代はシカゴブルース全盛期を迎える直前だった。 ブルースの聖地となりつつあったその街で、彼は多感..
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音故知新②〜ブルースってどんな音楽?

ブルースのルーツをさかのぼると、古くは西アフリカ、そして17世紀から19世紀の間にアメリカ大陸に連行された黒人奴隷の歴史に辿り着く。 現在、我々が耳にしているほとんどのロック系サウンドには「ブルースの血が流れている」と言っても過言ではないだろう。 では、そのブルースとは一体どんな音楽なのだろう? 多くの文献では、それを「アフリカ音楽を起源とするもので、アメリカ南部の黒人達が辛い労働環境や境遇を背景に生みだした音楽」とされている。 当時、奴隷として連れてこられた彼らのほとんどがガンビア、セネガル、ナイジェリア、ガーナなど、西アフリカの海岸地域の出身だった。 もともとこの地域では、GRIOT(グリオ)と呼ばれる世襲制の音楽家が存在し、彼らが口承(口伝えで音楽を演奏・伝承)してきた音楽こそが“ブルースのルーツ”と言われている。 太古よりアフリカでは「音」と「言語」が密接に結びついており、かつては打楽器をコミュニケーションの手段として使っていた。 そこに「音調」や「音色」が加わって進化していったものが、ブルースの演奏技巧に受け継がれている。 もともとバンジョーはアフリカから持ち込まれた弦楽器であり(ウォロフ族の間でバンジョールと呼ばれていた楽器)初期のブルースのギター伴奏スタイルと西アフリカのバンジョーを指で弾くスタイルはよく似ている。 西洋の音階で言う三度の音、すなわち「ド」に対する「ミ」が、クラシック音楽の感覚で正しいとされる音程よりフラットになるブルーノートスケール(ブルース特有の音階)は、黒人がアフリカ音楽から持ち込んだ要素である。 また、当時のアメリカにおいて奴隷達はドラムやラッパの使用を禁じられたという。 それは、反乱を煽るために使われるのではないかと奴隷主たちが恐れたからだった。 では、ブルースが発祥した場所はどこなのだろう? いくつかの説がある中、ミシシッピ川とヤズー川に挟まれたこの地帯にあったアメリカで最初の綿農園ドッケリーファームが“ブルース生誕の地”とされている。 農作業の際に歌われた「ワークソング」または「フィールドハラー」と呼ばれる労働歌がブルースの原型ということは広く知られている。 それらは、過酷な労働をほんの少し我慢しやすくしてくれただけだったが、コール&レスポンス(呼びかけ応答)と呼ばれる歌詞を繰り返す手法は、やがてブルースに受け継がれる..
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音故知新⑤〜ジャズの源流を辿る旅

ジャズの起源・発祥については諸説あり、現在でもはっきりとは断定されていない。 一般的に多くの文献では19世紀末から20世紀初頭が起源とされており、アメリカ・ルイジアナ州のニューオーリンズを発祥地として南部の都市を中心に発展した音楽形式と記されている。 ニューオーリンズといえば、かつてスペインやフランスから移住した人々やクレオール(欧州系白人と黒人の混血)、そして奴隷制があった時代にアフリカから労働力として強制的に連行された人々など多種多様な人種が集まった港町で、新たな文化が生まれやすい土地だった。 20世紀初頭、アメリカでは過酷な労働を強いられた黒人労働者が怒りや苦悩、不満といった自らの感情を表現する手段として用いた音楽が労働歌=ブルースへと発展する。 これに加えて、ニューオーリンズでは“ストーリーヴィル”と呼ばれた歓楽街の酒場などで演奏されていた“ラグタイム”が人気を集め、アフリカ系の人々もトランペット、トロンボーン、クラリネットといった西洋楽器を使ったマーチングバンドによる街頭演奏を行うようになる。 ■ラグタイムについては、こちらのコラムで詳しくご紹介してます♪ 【The Entertainerを聴きながら〜“ラグタイムの王”と呼ばれたスコット・ジョプリンの偉大なる功績〜】 http://www.tapthepop.net/day/43484 当時、ニューイングランドからニューオリンズにかけてのすべての歌と旋律(賛美歌、民謡、黒人霊歌、ワークソング、ゴスペル、ブルース、ラグタイム)が混ざり合い発展・融合し“化学反応”を起こしていた。 南部地方では、これにアフリカの太鼓のリズムが織り込まれて「ジャズ(Jazz)」と呼ばれる音楽が誕生したのだ。 この太鼓のリズムこそがジャズを他の音楽と区別させる重要な特徴ともいわれている。 では、この「ジャズ(Jazz)」という言葉は、いつから使われるようになったのだろう? ──1913年、シカゴの人気者だったボードビリアン(軽演劇俳優)ジョー・フリスコがニューオーリンズでショーを開催したとき、トム・ブラウンというトロンボーン奏者が彼のバックバンドを務めるためにミュージシャンを集めた。 ジョーは、彼らの演奏のベースとされていたジャス・ミュージック(Jass Music)に感銘を受け、シカゴに帰って仲間や記者にその話をした。 この時、..
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キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン〜16歳で映画会社の重役になりすましたスピルバーグ

「映画製作に自分の金は注ぎ込むな」──早熟の天才スティーブン・スピルバーグは16歳の時に巨匠ジョン・フォードから忠告されたことを、ハリウッドで仕事するようになってからずっと守り続けることにした。そして30年後、46歳の時に遂に資産1000億円以上を持つビリオネアになった。 自分の金は一切出さない代わりに、作品の所有権は放棄する。しかし作品に対する権利は違う。自分の映画が大ヒットする保証はしないけれども、もし成功した場合は大きな取り分を与えられることを主張するのだ。映画が公開されると興行収入の5〜15%を受け取る。どんなに映画がヒットしなくても必ず金は入ってくる仕組みだ。こうして1993年(46歳)に監督した『ジュラシック・パーク』でスピルバーグが稼いだ金額は驚異の262億円。当時、一本の映画からこれだけの利益を得た者は誰もいなかった。 非凡な才能があったスピルバーグは20歳の若さでTVディレクターとなった。そして1974年に映画に進出し、翌年に監督した『ジョーズ』がそれまでの映画興行の全ての記録を塗り替える大ヒットを記録する。まだ20代後半の時だ。普通なら名声に溺れ、パーティ三昧の中で若い女優と浮かれてスキャンダル沙汰になるのがオチだろう。だが彼はハリウッド帝国の金の動きを冷静に見つめることを忘れなかった。 次作『未知との遭遇』(1977年)では決定的な学習をする。利益の17.5%を受け取る契約を交わしたものの、手にしたのはわずか5億円。いくら大ヒットした映画でも様々なコストを差し引くと、利益は残らない。そこで意味のある金とは? それは興行収入からの分配だと気づく。 有名な『E.T.』では、ビデオの売り上げからも分配を受け取る契約を結んだ。ビデオ時代が来ることを見抜いたのだ。この項目だけでスピルバーグは70億円を手に入れた。ちなみに『ジュラシック・パーク』の続編『ロスト・ワールド』(1997年)では、何と340億円を稼いだ。 『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』(Catch Me If You Can/2002)は、巨額の金を手にしたスピルバークらが1994年に設立した製作会社「ドリームワークスSKG」のヒット作の一つ。16歳という若さで大胆不敵にも世界を欺いた詐欺師フランク・アバグネイルの自伝の映画化だ。実は本作を監督したスピルバーグも同じ16歳の時、アバグネイ..
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ロッド・スチュワートの「アイム・セクシー」が日本で発売された日

1978年(昭和53年)12月26日、ロッド・スチュワートの「アイム・セクシー」(ワーナー・パイオニア)が発売された。 同年の国内ヒットソングといえば… 1位「UFO」/ピンク・レディー 2位「サウスポー 」/ピンク・レディー 3位「モンスター」/ピンク・レディー 4位「君のひとみは10000ボルト」/堀内孝雄 5位「微笑がえし」/キャンディーズ 60階建の超高層ビル「サンシャイン60」が開館、新東京国際空港(現成田国際空港)開港、24時間テレビ「愛は地球を救う」放送開始、ディスコブーム、日中平和友好条約調印、サーフィンファッション大流行して、原宿に竹の子族登場した年でもある。 「俺がこれまで書いてきた曲の中で、これほど商業的に成功したものはない。アメリカでは200万枚以上、イギリスでは50万枚が売れて世界中でヒットした。俺が行ったことのない国や聞いたことのない街でもヒットしたんだ。当時、ワーナー史上最速で売れたシングルとなったよ。その記録は6年後にマドンナの“Like a Virgin”によって破られたけどね。」 この「Da Ya Think I’m Sexy?(アイム・セクシー)」は1979年にロッド・スチュワートとドラマーのカーマイン・アピス(ハードロックの分野におけるドラミングのパイオニア)が共作した楽曲で、レコーディングにはアメリカ音楽界きっての名プロデューサー、トム・ダウドが起用された。 同曲が収録されたアルバム『Blondes Have More Fun(スーパースターはブロンドがお好き)』 日本のオリコンアルバムチャートでも2位まで上昇する大ヒットとなった。 1975年にワーナーブラザースレコードに移籍して、「Sailing」を含むアルバム『Atlantic Crossing』でアメリカ進出を果たしたロッドは、同曲によって名実ともに世界的な“スーパースター”となったのだ。 「この曲を書いた頃、俺がよく聴いていたのは1977年にデビューしたバンド、シックのアルバム“Chic(ダンス・ダンス・ダンス)”や“C’est Chic(エレガンス・シック)”だった。それとオデッセイがヒット曲“Native New Yorker”とストーンズの“Miss You”もお気に入りだったよ。特にストーンズみたいなロックバンドがディスコビートに手を出したことが俺に..
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ゴダイゴの「モンキー・マジック」が発売された日

1978年(昭和53年)12月25日、ゴダイゴの「モンキー・マジック」(日本コロムビア)が発売された。 同年の国内ヒットソングといえば… 1位「UFO」/ピンク・レディー 2位「サウスポー 」/ピンク・レディー 3位「モンスター」/ピンク・レディー 4位「君のひとみは10000ボルト」/堀内孝雄 5位「微笑がえし」/キャンディーズ 60階建の超高層ビル「サンシャイン60」が開館、新東京国際空港(現成田国際空港)開港、24時間テレビ「愛は地球を救う」放送開始、ディスコブーム、日中平和友好条約調印、サーフィンファッション大流行して、原宿に竹の子族登場した年でもある。 1978年はゴダイゴにとって大きな転機となった年である。 6月末から9月にかけて全国ツアー『Char Super Concert with Godiego in Summer』を行い、ここで彼らは初めて日本武道館のステージに立つことになった。 同年に発表したこの「モンキー・マジック」は、日本テレビ系ドラマ『西遊記』『西遊記II』のオープニングテーマとしてタケカワユキヒデが作曲を手掛け奈良橋陽子が作詞をしたもので、全部英語詞の楽曲がベストテンに入るほどの大ヒットとなったのは、当時としては極めて異例な出来事だった。 ゴダイゴのメンバーにはアメリカ人と日本人の間に生まれたスティーヴ・フォックス(Ba)と、アメリカ人のトミー・スナイダー(Dr)というメンバーが在籍していた上、北米での生活が長かった奈良橋陽子がプロデューサー兼作詞家であったことで、彼らにとって英語詞で歌うことは自然なことだったという。 歌詞の内容は、一匹の猿 (monkey) が仙術(魔法=magic)で好き勝手なことをして、天の怒りに触れて罰せられるが、優しい僧侶に救われて西方への旅が始まるという『西遊記』の物語そのものである。 ある日、彼らのもとに日本テレビの開局25周年ドラマ『西遊記』の音楽担当のオファーが届く。 それは物語を彩るサウンドトラックに加えて、オープニングテーマ曲、エンディングテーマ曲までを手掛けるという大がかりなものだった。 ドラマ『西遊記』が放送された1978年は、日中平和友好条約が調印された年であり、当時としては画期的な中国ロケが中華人民共和国中央広播事業局の協力のもと行なわれたという。 放送枠は、大河ドラマ(NHK)..
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Silent Night(きよしこの夜)〜ネズミにかじられて壊れたオルガンのおかげで!?誕生したメロディー

クリスマスキャロルの中でも最も親しまれている歌と言えば、この「Silent Night(きよしこの夜)」だろう。 このシーズンになると世界中の教会(キリスト教の礼拝)で合唱されるという聖歌だ。 一説によると、イタリアのシシリー島に古くから伝わる民謡がルーツともされているらしい。 実はこの歌には、誕生にまつわるちょっと面白いエピソードがある。 ある資料によると…1818年のクリスマス(12月25日)に、オーストリアのオーベルンドルフという村にあった聖ニコラウス教会で初めて演奏されたという。 オーベルンドルフは、モーツァルトの生誕地として有名なザルツブルクから車で北へ20分ほどの山間地にあり、ザルツァハ川をはさんでドイツ国境に接している小さな村だ。 それは(前日の)24日の朝の出来事だった。 当時、その村に一台しかなかった教会のオルガンがネズミにかじられて使い物にならなくなっていたことが発覚する。 助任司祭だったヨゼフ・モール(当時36歳)は、この事態を知り困り果てていた。 「明日はクリスマス!このままではミサができない!」 彼は頭を抱えながら2年前(1816年)に、いつか子供達に唄わせようと自作していた歌詞(原詞はドイツ語)があったことを思い出す。 「いつもオルガンで伴奏している讃美歌は無理でも、この歌詞に何とか曲をのせて唄えば形になるかもれない!」 彼はさっそく、教会専属のオルガン奏者で小学校教師でもあったフランツ・クサーヴァー・グルーバーに自作の歌詞を渡して作曲の依頼をした。 曲をのせるにあたって、ちょっと“無茶ぶり”とも言える2つの注文がつけられたという。 「明日のミサに間に合うように24時間以内に完成させて欲しい。」 もう一つの注文は、オルガン奏者のフランツに対して… 「ギターで唄える讃美歌として伴奏アレンジを仕上げて欲しい。」 当時、ギターは宗教行事で使われる楽器ではなかったので、それを聞いたフランツは「教会でギターを弾くなんて…」と懸念したという。 ヨゼフの熱心な説得もあって、その“無茶ぶり”を了承したフランツは、一晩中懸命に取り組み…約束通りに曲を完成させた。 ヨゼフの手元に譜面が届いたのは、教会でミサが始まるわずか数時間前のことだったという。 25日、いよいよクリスマスのミサの当日の夜となった。 ギター演奏による「Silent Night(きよしこの..
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