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コートニー・ラヴ27歳〜運命の愛、宿命の死

これを一緒に乗り越えて生きてくれたら あんたのために死んでもいいわ あたしとこれを乗り越えてくれたら あんたのために死ねると誓うわ ♪「Asking For It」/ホールfeat. カート・コバーン 1994年4月1日。 カート・コバーンは、妻のコートニー・ラヴに一本の電話をかけた。 「忘れないでくれ、これから何が起こっても俺はお前を愛している」 その直後、カートはLAの麻薬リハビリセンターから脱走し行方不明となってしまう。 その時、コートニーも同じく薬物依存治療のためにLAのホテルで専門医と二人缶詰状態となっていた。 そして…その4日後の4月5日、ヘロインを大量に摂取したカートは、銃を持ち自らの命を絶った。 カートの遺体は死後72時間経って発見される。 カートの死を聞いて、コートニーはこう言って激怒し、泣き崩れたという。 「楽な道を選びやがって!」 遺体が発見された2日後(4月10日)には、彼の故郷ワシントン州アバディーン近郊の街、ホーキアムで通夜が開かれて1万人ものファンが集まった。 そこでは、カートが生前に自分の葬式に流して欲しいとリクエストをしていたビートルズの「In My Life」が流れる中…治療中のベッドで録音したコートニーのメッセージも届けられたという。 ♪「In My Life」/ザ・ビートルズ 奇しくもその翌日の4月11日に、ホールの新作アルバムが予定通りリリースされた。 あまりのタイミングにマスコミは「コートニーは夫の死まで利用しようとしているのか!?」と騒ぎ出す。 皮肉にも『Live Through This(これを乗り越えて生きる)』と名付けられた同アルバムは、カートの死、そしてメンバーのオーバー・ド―ズによる死など、衝撃と様々な憶測が飛び交う中、プラチナディスクを獲得する。 カートの死から一ヶ月後、コートニーはニューヨークでチベットの仏教式の葬儀をカートのために行った…。 二人の出会いは、そこからさかのぼること5年…1989年、彼女が自身のバンドを結成し成功させるという夢を実現させるために向かったロサンゼルスでのこと。 バンドを結成すると言ってもメンバーもいなかったため、とりあえずレコード店などで配られているフリーペーパーやライブハウスの壁の貼り紙でメンバーを募りながら、ハリウッドで有名なストリップクラブ『Jumbo’s Clow..
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さすらい〜移動と風景を描くヴィム・ヴェンダースのロードムービー

ヴィム・ヴェンダースが1974〜76年に撮った映画『都会のアリス』『まわり道』『さすらい』の3本は、「ロードムービー3部作」として映画史の中に刻まれている。 もちろんそれ以前にも、アメリカン・ニュー・シネマに代表されるアウトロー・ムーヴメントの中で、『俺たちに明日はない』(67年)、『イージー・ライダー』(69年)、『真夜中のカウボーイ』(69年)、『アリスのレストラン』(70年)、『断絶』(71年)、『バニシング・ポイント』(71年)、『地獄の逃避行』(73年)、『ペーパー・ムーン』(73年)、『スケアクロウ』(73年)など、優れたロードムービーは数多く作られていた。 ある者は犯した罪から逃れるために移動(逃避行)し、ある者は人に会うために移動(人探し)し、ある者は仕事の都合で移動(商売)し、ある者は愛を喪失して目的もなく移動(放浪)する。ロードムービーとは登場人物が移動することで成り立つ世界でもある。そして自由を謳歌するのではなく、やむを得ず移動しなければならない不自由さもそこにはある。 それでもヴェンダースのロードームービーに強く魅せられるのはなぜだろう? 彼がハリウッドとは距離をおいたドイツ人だからか。モノクロ映像に拘る監督だからか。一つ理由をあげるとするならば、それは“風景”を描く映画人だからかもしれない。 ヴェンダースのロードムービーでは、登場人物よりも“風景”が重要であり主役になる。観る者は同じ旅をしている感覚に包まれ、まるで動く写真集の中にいるような気分にもなる。その“風景”に何を感じられるかが、ヴェンダース映画の美学でもある。 3部作の終章『さすらい』(Im Lauf der Zeit/1976)は、当時の西ドイツと東ドイツの国境周辺の“風景”=リューネブルク〜ホーフまでのルートを先に決めて撮影に入ったと言われている。脚本や台詞は11週間の撮影で移動しながら決めていった。 ヴェンダースは撮影前に自ら土地の写真を撮ることでも有名だが、『さすらい』はアメリカ写真界の伝説的存在であり、ロバート・フランクにも多大な影響を与えたウォーカー・エバンスの1930年代の田舎の土地の写真にインスパアされて始まった。 1945年にドイツで生まれたヴェンダースは、幼い頃からアメリカ文化が大好きで、映画や音楽やコミックに強い関心があったという。学生時代になると、ニコラス・..
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エヴァ・キャシディ“奇蹟の歌声”

その人の名はエヴァ・キャシディ。 33歳で夭折した彼女の歌声は、人々の心の中で静かに生き続けている。 Nightbird(夜鳥)というタイトルがつけられたこのアルバムが、多くの人の手元に届くことを願いながら…その“奇蹟の歌声”をあらためてご紹介します。 1996年7月、彼女は皮膚癌の一種“メラノーマ(悪性黒色腫)”と診断される。 癌はすでに腸骨に転移しており、余命3〜5ヶ月と宣告されたという。 そして9月、彼女は急速に失われてゆく体力をふり絞るように“人生最後のステージ”にのぼる。 その公演は、友人や家族を含むファンが見守る中、自身が生まれ育った地元ワシントンD.C.の小さなライブハウスで行われた。 その夜、彼女がラストソングに選んだのは…ルイ・アームストロングの「What A Wonderful World」だった。 (※こちらのライブ映像は1996年1月に撮影された『Live At Blues Alley』の模様) その死から3年と数ヶ月後…2000年の或る日、イギリスのBBCラジオから彼女が歌った「Over The Rainbow(虹の彼方へ)」が流されると、問い合わせが殺到した。 その“無名の歌声”は、たちまちリスナー達を虜にし、この曲を収録した彼女のアルバム『Songbird』は瞬く間に全英No.1を獲得する。 それに呼応するように、全米POPチャートでもNo.1となった。 そんな“奇蹟の歌声”を持っていた彼女は、いったいどんな人生を歩んだ人なのだろう? 1963年、彼女は4人兄妹の3番目の子としてワシントンD.C.で生まれた。 小さい頃から絵画と音楽の才能を示したという。 ジャズが好きだった父親は、娘が9歳のときにギターの弾き方を教え、彼女は家族や親戚の集まりで弾き語りを始める。 当時、彼女が憧れていたのは、ネイティヴ・アメリカンの血を引く平和主義者としても知られているバフィー・セントメリーというカナダのシンガーソングライターだった。 ハイスクールに通うようになった彼女は“ストーンヘンジ”という名前の学生バンドで歌い、地元で頭角をあらわす。 そして、卒業と同時に18歳から“イージーストリート”というバンドに加入し、本格的な音楽キャリアをスタートする。 1980年代、彼女はいくつもバンドを渡り歩きながら、モータウン系のソウルミュージックからテクノポッ..
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労働者の歌〜忌野清志郎も愛読した小説『土曜の夜と日曜の朝』から聴こえてくる名曲たち

『土曜の夜と日曜の朝』は1958年、30歳のときに発表された、シリトー英文壇へのデビュー作である。 「労働者がこのような物の考え方をするはずがない」と、5回もあちこちの出版社から断られたあげくの出版であった。 最初の章が書かれたのはそれよりも3〜4年早く、その後、当時書き溜めていたいくつかの短編のプロットを注ぎ込んで、現在の形にまとめられた。 題名も、はじめは、現代の“悪党物語(ピカレスク)”を書こうとしたという作者の意図そのままに『アーサー・シートンの冒険』となっていたはずが、すっかり書き上げてから、今の題名に変えられた。 第2作目の『長距離走者の孤独』、それに次ぐ短編集『屑屋の娘』など、たいへん魅力的な題名をつける作家である── (新潮社文庫『土曜の夜と日曜の朝』解説・河野一郎より) 忌野清志郎が青春時代に愛読し、影響を受けたという小説がある。 ジョン・アップダイクの『走れウサギ』、ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』、そしてJ・D・サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』などと共に清志郎が挙げていたのがイギリスの作家アラン・シリトーの作品だった。 今から約60年前のイギリス労働者階級の日常を描いたこの長編小説『土曜の夜と日曜の朝』に登場する主人公アーサーは、自転車工場につとめる二十一歳の青年だ。 彼の楽しみは、仕事を終えて工場を出たときからはじまる。 パブで飲んだくれて喧嘩し、友達の妻に手を出し、軍隊では落ちこぼれっぱなし…と、まるでエルトン・ジョンが1973年に発表した「Saturday Night’s Alright for Fighting(土曜の夜は僕の生きがい)」が聴こえてきそうな日々を送っている。 ♪「Saturday Night’s Alright for Fighting(土曜の夜は僕の生きがい)」/エルトン・ジョン 土曜の夜はケンカにもってこい ちょっとしたアクションを起こそうぜ 土曜の夜こそ僕の生きがい 土曜の夜は最高! 俺が好きな音は二つだけ 飛び出しナイフとオートバイの音だ 俺は労働者階級の平凡な若僧 グラスの底に残る酒を親友とする男 とても品行方正とは言えない青年だが、目に見えない閉鎖感を振り払おうとして社会や体制に突っかかっていく姿が妙にほほえましかったりもする。 シリトーがこの小説を書いた頃といえば、イギリスではエルヴィス・プレスリー..
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ダイナー〜選曲が心地いいミッキー・ローク出演の1959年の青春グラフィティ

これまで本コーナー「TAP the SCENE」ではたくさんの青春映画を取り上げてきた。子供の頃に親に連れられて観たファンタジーアニメや家族向け映画とは違い、低予算でリアルな青春映画は初めて自分の小遣いで映画館に出向いた“体験”であり、スクリーンに映っているのは等身大の“人生”でもあった。 大人になってもこのジャンルに思い入れがある人は少なくない。なぜなら、人には多感な時期(15〜24歳くらい)で接したカルチャー(映画や音楽や小説など)の影響が、他の時期に比べて強く残るからだ。それに思春期の中高生の“入口”としての青春映画には名作が多かった。 青春映画を見なおしてきた中でふと思ったことがある。それは、このジャンルは「時」と「場所」がとても重要な役割を果たしているということ。逆に言えば、それらを特定せずに秀逸な物語は描けないのだ。それは1950年代なのか、70年代なのか、それとも90年代なのか。それは西海岸なのか、東海岸なのか、それとも名もなきスモールタウンなのか。「時」と「場所」の設定で、すでにドラマは静かに始まっている。 50〜80年代のスモールタウンや田舎町が舞台の『ラストショー』『アウトサイダー』『フットルース』。60〜80年代の西海岸が舞台の『ビッグ・ウェンズデー』『ロード・オブ・ドッグタウン』『レス・ザン・ゼロ』。60年代のNYを舞台にした『ワンダラーズ』や『プリティ・イン・ピンク』などジョン・ヒューズによる80年代学園作品も忘れられない。 90年代のアメリカには『リアリティ・バイツ』、イギリスには『トレインスポッティング』という傑作があった。また、映画作りという観点では、リアルタイムで製作されたものと、監督や脚本家などの追憶で後年になって成立している2種類があり、とにかく話は尽きない。 今回、新たにリストに加えるのは『ダイナー』(Diner)。1982年の公開だが、物語は設定は1959年のボルティモア。監督・脚本のバリー・レビンソンの個人的体験が映画になった。80年代にやたらと50〜60年代が舞台の青春映画が多いのは、作り手の青春期がその時代にあたるから。今や大スターの若かりし頃の姿が見れたりして、ちょっとした発見もあるのも特徴。『ダイナー』にはミッキー・ロークやケヴィン・ベーコンやエレン・バーキンが出演している。 『ダイナー』は複数の登場人物の物語が同..
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卒業写真〜ユーミンが実体験を重ねた歌詞に登場する“あの人”の正体とは!?

悲しいことがあると開く革の表紙 卒業写真のあの人はやさしい目をしてる 数多の“卒業ソング”がある中、45年以上に渡って愛されつづけてきた歌がある。 今日は1975年に荒井由実(現・松任谷由実)が発表したアルバム『COBALT HOUR』の中に収録された名曲「卒業写真」にまつわるちょっと素敵なエピソードをご紹介します。 もともとは同時リリースされたハイ・ファイ・セットのデビューシングルとして書き下ろされたというこの楽曲。 聴き手の多くは自身の学生時代の恋愛の記憶と重ね合わせて聴いてきたことだろう。 だが、この曲の歌詞に登場する“あの人”とは異性の恋人や同級生ではなくユーミンが高校時代に通った美術教室の女教師だったという。 当時、高校生だったユーミンは東京芸大への進学を目指していた。 東京芸大といえば、芸術系では最高峰といわれている名門大学だ。 実家が呉服屋でもありった彼女は、ゆくゆくは着物のデザインなども手がけてみたいというのが夢だったという。 その頃の彼女は高校が終わると、美術教室に通って受験に備える日々を過ごしていた。 美術教室の先生は20代の女性。 その先生は名門大学を受験しようという彼女に対して、厳しく熱心な姿勢で指導してきたという。 「リンゴを描くんだったら、リンゴの裏側まで想像して描きなさい!表面だけじゃなく、空気も描くのよ!」 当時、その言葉の意味が理解できなかった彼女は「は~い」と軽い返事を返していた。 正直なところ、彼女にとって好きな先生ではなかった。 それでも、東京芸大という大きな目標のために彼女はこの教室で絵を描き続けていた。 「荒井さんいい? 描けなかったら自分のスタイルが見つかるまで描きなさい。画家の自叙伝なんかも読むといいわね。」 先生は彼女を芸大に入学させるために、ただただ一所懸命だったのだ。 そんな先生の気持ちを少しずつ理解するようになった彼女は、色んな画家たちの自叙伝や評論なども読むようになったという。 それは彼女の画力にもいい影響を与えていたという。 そんな日々の中で自信をつけた彼女は、いよいよ受験に臨む。 結果は…不合格。 公衆電話から涙声で先生に結果を知らせた彼女。 「とにかく今から来なさい。」 その日、先生は教室まで彼女を呼びだして、こんな言葉で励ましたという。 「来年も受ければいいじゃない。一緒に頑張りましょう!」 東京..
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パーマネント・バケーション〜学費を注ぎ込んで卒業し損なったジャームッシュのデビュー作

“デビュー作”──なんていい響きだろう。想いがカタチになること。世に放たれること。それは多くの作り手にとって“特別な瞬間”でもある。傑作であるか否かが問題ではない。ミュージシャンや小説家が最初の作品を生み出したという事実に、何だかゾクゾクしてしまう。 これが金の掛かる映画の世界となると、自腹を切ったり借金してまで作り上げる人も珍しくなく、情熱や熱狂こそが「ものづくりの真髄」だと改めて思う。そういう意味で個人的に真っ先に思い浮かぶのがジョン・カサヴェテスの『アメリカの影』。そして今回取り上げるジム・ジャームッシュの『パーマネント・バケーション』(Permanent Vacation/1981)だ。 アクロンにいる時はいつも自分がストレンジャーのように感じていた。ところがニューヨークに来てみると、自分がよりストレンジャーに思えた。僕はニューヨークが大好きだ。 監督のジム・ジャームッシュは、17歳でニューヨークに出てバンド活動を開始。デル・ビザンティンスを結成する。その後、作家を志すためにコロンビア大学文学部へ入学。故郷の中西部の工業地帯(オハイオ州アクロン)では映画はあまり観ていなかったが、1974年にパリに9ヶ月滞在した時にゴダールや小津安二郎といったヨーロッパや日本人の映画作家を発見。同時にサミュエル・フラーなどのヒップなアメリカ映画にも触れた。 ニューヨークに戻ったジャームッシュは、作家として物語を綴り始めるが、それが極めて視覚的なものに変化したことを自覚。1975年になるとニューヨーク大学大学院の映画学科へ再入学する。ここで師となる伝説のニコラス・レイ監督と出逢い、助手を務めることになった。二人は演技、演出、シナリオなど映画のすべてを語り合った。 そして援助金や借金などで1万2000ドルを作り、卒業制作として『パーマネント・ヴァケーション』という16ミリを撮影。だが、卒業はしそこなった。最終学期の学費も注ぎ込んでいたからだ。 主人公の少年は社会に順応できない他の人々との奇妙な出逢いに流れ入り、あるいはそこから流れ出たりする。彼は絶えず動いている。自分を追いかけてくるようなものに対してそれが何であれ、いつも少しだけその一歩先を動いている。 アロイシユス・パーカー(クリス・パーカー)は、学校や家族、仕事とも縁のない16歳。眠れない彼は、気まぐれにニューヨーク..
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アルバム復活の時代は来るのか?〜世界のベストセラーアルバムリスト

2015年グラミー賞の授賞式で、今は亡きプリンスが「“アルバム”って覚えてる?」と皮肉を放って歓声と拍手を浴びたことがあった。【アデルの輝きと歌の力──時代を超えた1000万枚以上ベストセラーアルバムの変遷】では、CDやアルバムが以前より売れなくなった今の時代、例外的にアデルの『21』がビッグセールスを記録したことについて触れた。彼女の個人体験に基づいた失恋アルバムとも言われるその作品は、「歌の力、音楽の繋がりや物語を放つ作品は、やはり時代を超える」ということを教えてくれた。 そして、2015年11月20日にリリースされたアデルの新作『25』の初週売上が300万枚を超え、アメリカでの新記録を樹立した。「アルバム不況」と言われる現在においてこれは奇跡的な出来事だ。今回はそれに因んで世界編をまとめてみた(前回は全米編)。ここでは2000万枚以上を売った、世界中の人々に愛聴されたアルバムたちの足跡を辿りたい。 *このコラムは2015年2月24日に初回公開されたものに、下記データを更新(2021.3.1)したものです。 まずはトータルでのトップ10枚 ❶6600万枚/マイケル・ジャクソン『Thriller』(1982) *1億枚とも言われる ❷5000万枚/ピンク・フロイド『The Dark Side of the Moon』(1973) ❷5000万枚/ミートローフ『Bat Out of Hell』(1977) ❷5000万枚/AC/DC『Back in Black』(1980) ❺4500万枚/ホイットニー・ヒューストン『The Bodyguard』(1992) ❻4200万枚/イーグルス『Their Greatest Hits (1971–1975)』(1976) ❻4200万枚/サウンドトラック『Dirty Dancing』(1987) ❽4000万枚/フリートウッド・マック『Rumours』(1977) ❽4000万枚/ビー・ジーズ『Saturday Night Fever』(1977) ❽4000万枚/シャニア・トゥエイン『Come On Over』(1997) 続いては各時代別 【1950/60年代】 ●3200万枚/ビートルズ『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』(1967) ●3000万枚/ビートルズ『Abbey ..
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ニューヨーク・ストーリー〜コッポラとスコセッシとウディ・アレン夢の競作

『ニューヨーク・ストーリー』(New York Stories/1989)は、その名の通りニューヨークの街を舞台にした3本の短編からなるオムニバス映画だった。 ウディ・アレン発案のこの企画は、当初彼自身の手による短編映画3本で構成される予定だったらしいが、最終的にはアレンの他、マーティン・スコセッシ、フランシス・フォード・コッポラという偉大なる映画クレイジーたちの夢のような顔合わせになった。 ニューヨークに生まれ育ち、あるいはニューヨークを愛する3人の同世代の映画作家。1939年生まれのコッポラは『ゴッドファーザー』『コットンクラブ』で、1942年生まれのスコセッシは『ミーン・ストリート』『タクシー・ドライバー』『ニューヨーク・ニューヨーク』『キング・オブ・コメディ』『アフター・アワーズ』で、アレンは『アニー・ホール』『マンハッタン』『ハンナとその姉妹』などで、独自ともいえる自身のニューヨーク像を描いてきた。 『ニューヨーク・ストーリー』におけるそれぞれの短編も、そのアプローチは面白いほど全く異なる。だが、どれも紛れもなく“同じ街で起こっている”ことなのだ。 同じNY在住の映画人でありながら、ほとんど面識がないというアレンとスコセッシは、1997年に貴重なこんな対談を行っている。 あなたのニューヨークは僕にとって見慣れないものです。『ハンナとその姉妹』で「歯を磨かなくちゃ」とバーバラ・ハーシーが言いますが、なるほど僕もそうしてる。でもそうだとしても一体何の話だろう。まさに日常の出来事です。しかもそれはマディソンの角のどこかで、それなのに全く別世界なんです。それが僕にとってはすごく面白い。(アレンの映画を観るのは)毎回小旅行の気分です。(マーティン・スコセッシ) 僕はニューヨークを描こうとは思わない。もし僕がそこに住んでなくて、家での快適な生活、家の近くで働くことだとかを望んでいたとしたら、どこで映画を撮っていてもおかしくはないんです。そんなこと気にしてないから。でもニューヨークにいると気が楽なんです。(ウディ・アレン) ちなみに『アニー・ホール』では、ニューヨークを愛する主人公が仕事でロサンゼルスに出向くと、体調が悪くなっていき精神が病んでいたのが印象的だったが、スコセッシにもハリウッドでのエピソードがあった。 1970年代のほとんどを実はロサンゼルスで過ごした..
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これが本当の80年代サウンド⑭〜忘れられたヒット曲にもう一度スポットライトを

80年代の洋楽をまとめたネットコンテンツやラジオ番組や雑誌には、いつもお決まりのアーティストやヒット曲だけがラインナップされている。それは同時代のコンピレーションがリリースされても同じこと。今回の企画はそんなありきたりの選曲ではなく、聞くだけで(観るだけで)「ああ! いた!! あった!!」と歓喜するようなアーティストやヒット曲を思いつくままに集めてみた。題して「これが本当の80年代サウンド」。そろそろマドンナやマイケル・ジャクソンの呪縛から解放されよう。ドライブや通勤タイム、懐かしの音源探しに活躍すること間違いなし。(選曲/中野充浩) リチャード・マークス「Don’t Mean Nothing」(1987年/全米3位) 1987年からわずか3年の間に、3つのナンバーワン・ヒットと4曲のトップ5ヒットを放ったリチャード・マークス。ライオネル・リッチーやケニー・ロジャースとの仕事で鍛え上げ、満を持してのデビューだった。当時はAORファンからも支持が高く、バラード歌手として日本の女性からも人気があった。94年の「Now and Forever」が最後のヒット。その後、ソングライターやプロデューサーとして活躍の場を移すが、自身のアルバムもコンスタントにリリースし続ける。 ジュース・ニュートン「The Sweetest Thing (I’ve Ever Known)」(1981年/全米7位) 70年代半ばにジュース・ニュートン&シルヴァー・シュプールとしてデビュー。しばらくは不遇の時代を送ったが、1981年に「Angel of the Morning」(4位)、「Queen of Hearts」(2位)、そしてこの曲が立て続けにカントリーチャートとポップチャートでクロスオーバーする特大ヒットを記録。一躍注目を集めた。メランコリックな歌声が活かされた名曲だ。 ネイキッド・アイズ「Always Something There to Remind Me」(1983年/全米8位) この「僕はこんなに」と続く「プロミセス・プロミセス」が連続してアメリカでヒットした彼らは、イギリス出身のシンセポップデュオ。いわゆる「第2次ブリティッシュ・インヴェイジョン」の波に乗って束の間の人気を博した。80年代前半から半ばは、この種のUK/ニュー・ウェイヴ系バンドがチャートを駆け上がることが珍しく..
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これが本当の80年代サウンド⑬〜忘れられたヒット曲にもう一度スポットライトを

80年代の洋楽をまとめたネットコンテンツやラジオ番組や雑誌には、いつもお決まりのアーティストやヒット曲だけがラインナップされている。それは同時代のコンピレーションがリリースされても同じこと。今回の企画はそんなありきたりの選曲ではなく、聞くだけで(観るだけで)「ああ! いた!! あった!!」と歓喜するようなアーティストやヒット曲を思いつくままに集めてみた。題して「これが本当の80年代サウンド」。そろそろマドンナやマイケル・ジャクソンの呪縛から解放されよう。ドライブや通勤タイム、懐かしの音源探しに活躍すること間違いなし。(選曲/中野充浩) ビリー・アイドル「Rebel Yell」(1984年/全米46位) ジェネレーションX解散後、渡米したビリーは1982年にソロデビュー。翌年には相棒のギタリスト、スティーヴ・スティーヴンスと共作したセカンドが大ヒットする。これは最初にシングルカットされた曲。まさにビリー・アイドルの世界だ。なお、同アルバムからは「Eyes Without a Face」のヒット(全米4位)も生まれた。余談だが、1998年の映画『ウェディング・シンガー』に出演している。 リタ・フォード&オジー・オズボーン「Close My Eyes Forever」(1989年/全米8位) ランナウェイズの二人のギタリストといえば、ジョーン・ジェットとリタ・フォード(少女たちのストーリーは2010年の映画『ランナウェイズ』に詳しい)。バンド解散後、リタは1983年に初ソロ作をリリース。続くセカンドもチャート・セールス両面振るわなかったが、サード作からこの曲と「Kiss Me Deadly」(全米12位)がヒットして、彼女の名前を久しぶりに聞くことになった。帝王オジーとのデュエットだ。 リンダ・ロンシュタット&ジェームス・イングラム「Somewhere Out There」(1986年/全米2位) 忘れられた名曲の代表格。スピルバーグ製作総指揮のアニメ映画『アメリカ物語』の主題歌としてヒットしたこの曲は、日本では当時FM番組「アメリカントップ40」で紹介されていたことを思い出す。寒い季節に流れてくるリンダの歌声。これは旅立ちの歌だ。デュエット・ソングとしても超一級作。知らない人はぜひ聴いてほしい。 エクスポゼ「Seasons Change」(1987年/全米1位) ..
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春を想う歌・後編 〜イルカのなごり雪

1975年、かぐや姫は解散することとなる。 このとき「イルカに“なごり雪”を是非歌わせたい」と名乗り出たのがイルカの夫・故神部和夫だった。 イルカは19歳で神部と結婚、夫婦でデュオを組んで活動していた。 1974年、当時24歳だったイルカはソロ活動を始め、神部はプロデューサーとしてイルカを支えた。 イルカとかぐや姫といえば、イベント等のステージで一緒に歌ってきた音楽仲間でもあった。 だが、彼女は「なごり雪」を歌うことにためらいがあった。 かぐや姫の名曲を今の自分では恐れ多くて歌えない…と。 しぶしぶ連れて行かれたスタジオで、伊勢は彼女にこう言ったという。 「なごり雪」が好きなら歌えばいい。 僕はうれしい、好きなように歌えばいい。 彼女は伊勢の言葉に背中を押されながらマイクの前に立った。 歌うつもりはなかったから、ちゃんと練習をしていなかったという。 そして意を決した彼女は、音符ではなく言葉(歌詞)を追って心を込めて歌った。 後で聴くと原曲の「きれいになった」が「きれいにーなった」と1拍分多くなっていた。 イルカの「なごり雪」の誕生であった。 伊勢が生み、イルカが育て、そして「なごり雪」は日本を代表するフォークソングとなった。 大人になってゆく少女との淡い別れを歌ったこの名曲は、時代を超えて“春の定番”の歌となった。 <前編 〜伊勢正三のなごり雪〜はコチラ> ♪「なごり雪」/イルカ 時は流れ…2002年、この歌のたった1拍の違いに注目した映画監督がいた。 大林宣彦である。 大林は伊勢が作った「なごり雪」をモチーフに同名の映画を作り上げた。 伊勢の出身地からほど近い大分県臼杵の古い街並みが残る二王座でのうすき竹宵や、臼杵磨崖仏での石仏火祭りなど、臼杵各地で撮影が行われたほか、大分市や旧宇目町(現佐伯市)でもロケが行った。 登場人物のセリフとして「なごり雪」の歌詞をそのまま使うという実験的な試みにもトライした。 この映画を作るにあたって大林が選んだキーワードは“断絶”だった。 「君はきれいになったが、もう僕とはいっしょにはいない」断念の気持ちだという。 そして大林は、伊勢が歌う1拍少ない「なごり雪」にこだわった。 1970年代の日本は高度成長時代。モノとカネがあれば幸せになれると人々は信じた。 しかしモノとカネを得た代わり失ったものも大きいと大林は映画で表現した。 ..
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春を想う歌・前編 〜伊勢正三のなごり雪

♪「なごり雪」/かぐや姫 1974年、かぐや姫の代表作となったアルバム『三階建の詩』に収録されたこの「なごり雪」。 翌年、伊勢正三が作詞作曲をしたこの曲をイルカがカヴァーし、1976年のオリコンの集計で55万枚近いセールスを記録した。 今春が来て君は きれいになった 去年よりずっと きれいになった このフレーズを一番先に思いついたのだと、伊勢はあるインタビューで語っている。 春が待ち遠しいこの時期…淡く切ないメロディと歌詞のリフレインと共に、ほろ苦い青春時代の思い出や、旅立ちの日の記憶に浸る人も少なくはない。 1973年の秋、かぐや姫は「神田川」をリリースし、自己最大のヒットを飛ばしながらも…歌詞変更の要求によるNHK紅白歌合戦の出場辞退や、楽曲の映画化を巡ってレコード会社とのトラブルを抱えていた。 そんな中、リーダーの南こうせつが、かぐや姫の活動を“3階建”にしようと提案した。 “3階建”とは、それまでのワンマン体制ではなく“3人が対等に活躍する”という意味だった。 伊勢も作詞作曲を担当することになったのだ。 それは伊勢にとって初めてのチャンスだった。 伊勢は大分県津久見市の出身、高校は大分市の大分舞鶴高校。 応援団の勧誘を逃れるためとっさに入ったクラブが音楽部だった。 そのクラブの部長が南だった。 大分舞鶴高校は当時遠隔地の生徒のための寮があり、週末は自宅の津久見へ帰る生活だったという。 しかし伊勢は厳格な校風になじめず、日曜の夜、汽車で寮に戻るのが嫌でたまらなかった。 地元の友人や、恋心を抱いていたガールフレンドとのホームでの別れがつらかった。 このときの“気持ち”がモチーフとなり「なごり雪」に繋がったという。 しかし、この歌はその後意外な展開を見せる。 動き始めた汽車の窓に顔をつけて 君は何か言おうとしている 君のくちびるが「さようなら」と動くことが こわくて下を向いてた 【伊勢正三オフィシャルサイト】 http://www.ise-shozo.com/ かぐや姫『KAGUYAHIME Best Dreamin‘』 (2010/日本クラウン) iTunes Amazon こちらのコラムの「書き手」である佐々木モトアキの音楽活動情報です♪ 宜しくお願い致します。 【山部“YAMAZEN”善次郎×佐々木モトアキ ダブルネーム弾き語りTOUR “..
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トレインスポッティング/ドラッグストア・カウボーイ〜英米ジャンキーたちの末路

ジャンキー(いわゆる薬物中毒者)を主役にした英米産の映画はこれまで数々と製作されてきたが、良質な作品に共通するのは、例外なく登場人物が悲惨な風景の中を彷徨うことになるという点だ。今回はそれを象徴した2本の作品を比較紹介したい。 まずはアメリカ。『ドラッグストア・カウボーイ』(DRUGSTORE COWBOY/1989)は、ガス・ヴァン・サント監督の35㎜デビュー作として知られる伝説的な作品。公開当初はマット・ディロンやケリー・リンチのイケてるヴィジュアルもあって、日本ではストリート/ファッショナブルな扱いをされたが、今観直してみると、けっこうヘヴィーな内容だ。 ボブ(マット・ディロン)とその妻ダイアン(ケリー・リンチ)は、自分たちが楽しむためのドラッグを手に入れるために、時々薬局を襲ってはアパートやモーテルを転々としている夫婦。幼馴染みのリックも仲間で、最近は若い彼女のナディーンも一緒に行動している。大抵のジャンキーはドラッグを買う金欲しさに宝石強盗をするが、彼らはどうせやるなら直接と、薬局(ドラッグストア)ばかり狙っている。 舞台は1971年のオレゴン州ポートランド。ロックの世界で言えば、ローリング・ストーンズが「Brown Suger」をリリースした頃だ。ボブたちは警察に目をつけられていて、その夜ガサ入れを喰らう。ボブは異常にジンクスに拘る男で、その一つに「ベッドに帽子を置くな」があった。 だが、新米で仲間外れ意識を抱いたナディーンは、ベッドに帽子をワザと置く。その日、珍しくドラッグ入手に失敗したボブが目にしたのは、モーテルでドラッグ過剰摂取が原因で冷たくなったナディーンの姿だった。しかもモーテルは地元警察の集会に使われる日で、窓の外はパトカーだらけ。死体を運び出すボブは、この時人知れず心に誓う。 どうかこの死体を無事に埋めさせてください。ブタ箱は勘弁です。この願いを聞いてくれたら、感謝の印に田舎へ帰ってカタギになります。 願いが叶ったボブはダイアンと別れて、薬物中毒更生プログラムに参加。工場で働きながら真面目に金を稼ぎ、荒んだ暮らしを改める。しかし、再会したダイアンとやり直す気持ちを告白した矢先、顔馴染みだったゴロツキにあっけなく撃たれてしまう。ボブは自分の身体が運ばれる救急車の中で、迫り来る死を前に「俺は生きていたい」と想う。 服役していたジェームス・フ..
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ニーナ・シモン27歳〜一夜にして彼女をスター歌手にした伝説のコンサート、その後一変した生活

1959年9月12日、当時26歳だった彼女はニューヨークのTown Hallで初のホールコンサートを成功させる。 それまでクラブでの活動が中心だった彼女にとって、このステージは大きな転機となった。 「その日、私は舞台袖から満席になった客席を見渡したわ。観客はきちんと並んで席に付き、飲み物のグラスを手にした人など一人もいなかった。煙草売りの女の子がステージの前を横切ることもない。これまでやってきたグラブでの仕事は、すべてこの日のためのリハーサルだった。何年もかけて経験を重ね、確固とした自信が持てる演奏テクニックとステージでの振る舞い方は身につけていたわ。」 当時彼女が所属していたコルピックスレーベルは、その日のステージをライブアルバム『Nina Simone at Town Hall』として発売した。 彼女はこのコンサートによって絶賛され、一大センセーションを起こしたのだ。 「まるで映画のストーリーのように、私は一夜にしてスターになった。」 翌1960年2月、彼女は27歳を迎える。 あのTown Hallでのコンサートから約5ヶ月間、様々なマスコミが彼女を取り上げ、街を歩けば声をかけられ、アメリカ中からコンサートの依頼が殺到した。 彼女がそれまで作ってきたレコードはヨーロッパでも発売された。 「確かにあの夜の客席の反応はいつもと違っていたわ。何年もステージの仕事をしてきたけれど、あんな大喝采は初めてだった。」 伝説となったTown Hallでのコンサート以降、音楽評論家たちは彼女の音楽がどのジャンルに属するのか議論し始めた。 クラシックピアノの技術を用いてポピュラーを演奏し、そこにナイトクラブでの経験で得たジャズのテイストを織り交ぜていた彼女の音楽。 さらに黒人霊歌や、当時頭角をあらわしていたフォークミュージックも歌っていたのだから…議論は尽きなかった。 結局、彼女は“ジャズのようなものを歌う歌手”として分類されることとなった。 「私にとってジャズとは生き方だった。あるいは歩き方、話し方、考え方、行動のとり方、アメリカの黒人がする全てのことを意味するものだった。その点では私をジャズシンガーと呼んでも問題なかったけど、他のあらゆる点で私はジャズミュージシャンではなかった。」 彼女の身辺は劇的に変化していった。 頻繁にツアーに出るようになり、新しいアルバムの..
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