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ジョージ・ハリスンの「バングラ・デシ」が日本で発売された日

1971年(昭和46年)9月25日、ジョージ・ハリスンの「バングラ・デシ」(東芝音工)が日本で発売された。 同年の洋楽/邦楽ヒットソングといえば… 【洋楽】 1位「Joy To The World 」/ スリー・ドッグ・ナイト 2位「Maggie May」/ロッド・スチュワート 3位「It’s Too Late」/キャロル・キング 【邦楽】 1位「わたしの城下町」/小柳ルミ子 2位「知床旅情」/加藤登紀子 3位「また逢う日まで」/尾崎紀世彦 1971年、日本では学生運動や安保闘争の火が燻っていた。 NHK総合テレビが全番組カラー化を実施し、『仮面ライダー』の放映がスタート、第48代横綱・大鵬が引退表明し、マクドナルド日本第1号店が銀座にオープン、そしてアポロ14号の月着陸に世界中が湧いた年でもある。 ビートルズの解散直後、ジョージ・ハリスン(当時28歳)のもとに友人でありシタールの師でもあったインドの音楽家ラヴィ・シャンカール(ノラ・ジョーンズの父親)が訪ねて来た。 「瞳に悲しみを溢れさせた友達がやって来て、助けが欲しいと僕に訴えたんだ。僕は彼の悲しみを実感することは出来なかったけど、何かしなければと思った。」 1971年、バングラデシュではパキスタンからの激しい独立運動が起こっていた。 何百万もの避難民が、飢餓、病気、洪水に苦しみ、多くの子どもたちが命を落としていた。 ニューヨーク在住のラヴィは祖国インドの隣国バングラデシュで発生している難民の飢餓を訴えるためにジョージのもとを訪れたのだ。 インドの音楽家としてはモントレー・ポップ・フェスティバルやウッドストック・フェスティバルといった大規模なロックフェスティバルに参加したこともあるラヴィであったが、自分一人の力では大したことが出来ないと感じていたのだ。 「我々がバングラデシュのためにできることはないだろうか?」 「それじゃ彼らのためにチャリティーコンサートをやって、世界にこの現状を知らせ、そして寄付を募ろう!」 チャリティーコンサートといえば、慈善・博愛・同胞愛の精神に基づいてミュージシャンたちがノーギャラで出演し、その収益金を寄付するものである。 今では普通に行われていることであるが、これを最初に提唱したのがこの時のジョージ・ハリソンだった。 後にライブエイド(1985年7月13日に行われた20世..
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Save The Last Dance For Me(ラストダンスは私に)〜車椅子の作詞家が最愛の妻に贈った究極のラブソング

あなたの好きな人と 踊ってらしていいわ やさしいほほえみも その方におあげなさい けれども 私がここにいることだけ どうぞ忘れないで (日本語詞:岩谷時子) この「Save The Last Dance For Me(ラストダンスは私に)」は、越路吹雪の十八番(おはこ)として広く知られていたため、日本ではシャンソンと思っている人が多くいるという。 越路のマネージャー兼生涯の親友だった岩谷時子が、多くのシャンソンに日本語訳をつけていたことが理由とされている。 しかし、この歌はフランスで生まれのシャンソンではなく、アメリカ産のポップスなのだ。 また、オリジナルを唄ったのがベン・E・キングも在籍していた人気コーラスグループのザ・ドリフターズ(The Drifters)で、アトランティックレコードから発売されたということで、黒人音楽のヒット曲と思い込んでいる人も多いという。 ところが、この楽曲を手掛けたドク・ポーマス(作詞)もモルト・シューマン(作曲)も白人なのだ。 後にエルヴィス・プレスリーへの楽曲提供で名を馳せたポーマスとシューマンの二人は、1950年代末から作家チームとして活動を始めている。 男性アイドル歌手フェビアンや、ロック&ロール・ヴォーカルグループとして人気を誇ったディオン&ザ・ベルモンツに書いた楽曲がスマッシュヒットを記録し、徐々に注目を集めてゆく。 そんな彼らの名声を決定づけたのが、この「Save The Last Dance For Me(ラストダンスは私に)」だった。 元々は白人アイドル歌手のジミー・クラントンのために書き下ろした曲だったが、アトランティックから「ドリフターズに唄わせて欲しい!」と頼まれ、それを了承。 ラテン風のテイストがほのかに香るドゥーワップソングとしてアレンジされ、ベン・E・キングのリードヴォーカルを軸に“おなじみの”テイクが完成した。 1960年にリリースされたこの歌は、一気にヒットチャートを駆け上がり3週連続全米一位を記録。 ビートルズのポール・マッカートニーは、この曲を聴きながら「Hey Jude」を作ったという。 そんな秘話を元に日本の人気コーラスグループ、ザ・キングトーンズが大滝詠一プロデュースで、2つの楽曲をシンクロさせた「ラストダンスはヘイジュード」(1981年)をリリースしている。 作詞者のドク・ポーマスは幼..
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Dancing In The Street〜最も多くのアーティストにカヴァーされたモータウンソング

世界中に大声で叫ぼう 新しいビートに乗る用意はできた? 今は夏 ストリートで踊るための“時は今” みんなシカゴで踊ってる ニューオーリンズの田舎でも ニューヨークの都会でも この「Dancing in the Street」は、数あるモータウンのヒット曲の中で、最も多くのアーティストにカヴァーされた曲だという。 キンクス、カーペンターズ、ザ・フー、ママス&パパス、グレイトフル・デッド、ヴァン・ヘイレン、そしてミック・ジャガー&デビッド・ボウイなど錚々たる顔ぶれがカヴァーしてきた名曲だ。 作詞作曲のクレジットには、モータウンを代表する人気歌手マーヴィン・ゲイ、そしてモータウン専属ソングライターだったウィリアムス”ミッキー”スティーヴンソンとアイヴィ・ジョー・ハンターの名が記されている。 当時ソングライターとしてはまだ“駆け出し”だったマーヴィン・ゲイがペンを取った珍しい一曲としても知られている。 1964年にこの曲を最初に歌ったマーサ&ザ・ヴァンデラスのリード・ボーカルのマーサ・リーブスは、1963年にグループとしてデビューするまでモータウン所属のアーティストのバックコーラスをつとめながら、レコード会社(モータウン)の秘書としても働いていたという。 念願叶ってのデビュー後に「Come and Get These Memories」(全米29位)「Heat Wave」(全米4位)など次々と発表し、ついにこの「Dancing in the Street」で全米2位を記録し、トップアーティストの仲間入りを果たしのだ。 当時、彼女たちが歌った軽快なダンスナンバーは、とりわけイギリスの若者に強く支持され“ノーザン・ソウル黄金期”の下地を作ったとも言われている。 また、この曲がヒットした時期といえば…アメリカ国内では公民権運動の行き詰まりに苛立ちを感じていた黒人たちが各地で暴動を起こす事態となっていた。 それにともなって、この曲は「ストリートでの暴動を煽る危険性がある」と、あらぬ誤解を受け、全米各地で一時放送禁止となってしまう。 逆にそれが作品の売り上げを加速させることとなったのは、モータウンにとっては“嬉し誤算”だった。 マーサ・リーブスは当時、そんな現象に対してこんな言葉を残している。 「この歌は人々が立ち上がって踊りたくなる。ただそれだけのものよ。」 <引用元・参考..
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ブルース・スプリングスティーンが迎える68歳の誕生日によせて(Photo by 井出情児)

75歳になっても元気にツアーを続けているポール・マッカートニーが9月15日の夜、ニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンで2日間にわたる公演をスタートさせた。 そこにブルース・スプリングスティーンが登場したのは、アンコールのときだったという。 ニューヨーク・ポスト紙によると、ブルースは自らのバンド「Eストリート・バンド」のギタリスト、スティーブン・ヴァン・ザントと共に舞台に現れた。 観客席から驚きの歓声が上がる中で、ポールとブルースはハグをしてから、ビートルズの「i saw her standing there」を披露した。 その短い曲が終わるのを惜しんだポールは、エンディングになって「もう一度やろう!」と呼びかけた。 翌日、ポールが「ザ・ボスとロッキン・アウト――あんまり出来が良くて、2度もやることになった」と、自身のTwitterにコメントを投稿した。 Rockin' out with The Boss–Sounded so good we had to do it twice! #OneOnOne pic.twitter.com/Eb6TSQHini — Paul McCartney (@PaulMcCartney) 2017年9月16日 ボス=ブルース・スプリングスティーンは若い頃からいつも、ライブ・パフォーマンスで圧倒的な存在感を発揮してきた。 1949年9月23日、ニュヨークのマンハッタンから車で1時間ほどの距離にある、ニュージャージー州フリーホールドで生まれたブルースが、エルヴィスのロックンロールと出会ったのは、テレビで見た『エド・サリヴァンショー』を通してだった。 (1956年9月9日、10月28日、1957年1月6日の通算3度出演) 9歳の頃だった。俺がテレビの前に座って、母親がエド・サリヴァンをかけると、エルヴィスが出てきた。確かあの頃からだったが、俺は母親の顔を見るとこう言ってた。 『あんな風になりたいんだ』って‥‥. でも、大きくなると、あんな風にはもうなりたくなくなったけどね。 エルヴィスに憧れてギターを始めたブルースは、地元ニュージャージーでバンド活動に参加して頭角を現し、マネージャーとなるマイク・アペルに見出されて1972年に、CBSレコードのプロデューサーだったジョン・ハモンドのオーディションを受けて認められる。 ..
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耽美な歌〜オスカー・ワイルドの美学に共鳴したグラムロック

「けばけばしい俗物だ!」 「病的で有害だ!」 そんな罵声を浴びながら誕生したグラムロックの歴史は、T・レックスの1sシングル「Ride A White Swan」がリリースされた1970年10月に幕を開けたと云われている。 時を同じくして“ビートルズ”という一つの時代のアイコンを失ったロンドンの若者たちは、新たなポップスターの出現を待望していた。 そして彼らが選んだのは、妖艶なメイクを顔に施し、ラメやスパンコール、孔雀の羽根などを身にまとう中性的な男たちだった。 突如として出現したマーク・ボランやデヴィッド・ボウイの姿は、かつてのビートルズのマッシュルームカットなどを“昔のもの”にしてしまう程のインパクトを持っていた。 彼らの存在は、世間に衝撃をあたえ議論の的となった。 保守的な者たちは「俗悪」「異端」として彼らをなじった。 メディアもまた「一時的なファッションで終わる」として一笑していた。 だがこの“悪の華”は、後に時代を超越し、ロックの流れを大きく変えてしまう原動力となってゆくのだ。 「16歳のときに魔法使いと出会い、一緒に旅行をして魔術を教わったんだ」 これはマーク・ボランがあるインタビューで語った言葉である。 若い頃からファッションモデルの仕事など通じてショービジネスと関わっていたマーク・ボランは、華やかな業界の“裏の世界”で複数の男性と性的関係を持っていたとも云われている。 有用なものを造ることは、その制作者がそのものを賛美しないかぎりにおいて赦される。 無用なものを造ることは、本人がそれを熱烈に賛美するかぎりにおいてのみ赦される。 すべて芸術はまったく無用である。 19世紀に活躍したアイルランド出身の詩人・作家・劇作家オスカー・ワイルドが1890年に発表した長編小説『ドリアン・グレイの肖像』の序章にある有名な一節だ。 ドリアン・グレイという男の肖像画に魂が宿り、本人ではなく肖像画が歳をとり、本人が悪事を重ねるごとに絵が醜く変貌していく、というゴシックホラーのような物語である。 この作品は彼の代表作『サロメ』へと続く“耽美(たんび)小説”と呼ばれ、デヴィッド・ボウイの愛読書でもあったため、1970年代に一世を風靡したグラムロックに多大な影響を与えた原点として知られている。 ワイルドが貫いた美学とも云える耽美主義とは「精神より官能を重んじ、自然や人生よ..
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60年代のフォークリバイバルのムーブメントを牽引したPP&Mの紅一点マリー・トラヴァースを偲んで

2009年9月16日、アメリカの伝説的フォークグループ、ピーター・ポール&マリーのマリー・トラヴァース(享年72)が、コネチカット州のダンベリー病院で亡くなった。 死因は白血病治療の化学療法が引き起こした合併症と発表された。 グループのメンバーだったピーター・ヤローはこんなコメントでその死を悼んだ。 「彼女は悪化する健康状態に想像しうる限り最も勇気ある寛大な方法で対処した。」 続けて、ポール・ストーキーもコメントを残した。 「カリスマ性のある女性で、活動家として勇敢で積極的で人々を奮い立たせた。60年代当時の彼女は抑えることのできない苛立ちのエネルギーに溢れていた。」 1937年11月9日、彼女はケンタッキー州ルイヴィルで生まれる。 両親は共に新聞記者で、彼女が幼い頃に一家はニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジに移り住む。 「両親がジャーナリストだったこともあって、私はとても言葉が好きなのよ。」 小学校に通うようになった彼女は、ワシントン広場周辺で演奏していたミュージシャンたちに興味を持ち始める。 「私の周りはいつも賑やかで、フォークミュージックが好きな人たちでいっぱいだったわ。若い人たちの誰もがウディー・ガスリーやピート・シーガーを聴いていた時代だった。」 14歳になった彼女は、ピート・シーガー率いる“ソング・スワッパーズ”という子供だけのコーラスグループに参加する。 その後、ニューヨーク演劇学校へ入学し女優を目指した時期もあったが、フォークソングを歌うことが大好きだった彼女は、いつの間にかグリニッジ・ビレッジのコーヒーハウスで歌うようになっていったという。 1960年代になって間もない頃、彼女はニューヨークのグリニッジ・ビレッジにあった“コモンズ”というコーヒーハウスでポールと知り合い、当時ボブ・ディランのマネージャーだったアルバート・グロスマンの紹介でピーターと出会う。 アルバートは当時のことを鮮明に憶えているという。 「私は当時無名だったピーター・ヤローのマネージメントをしており、彼のためにキングストン・トリオのような女性を含めたフォークグループを作りたいと思っていました。コモンズの壁に貼ってあったメリーの写真を見て連絡を取ったのがすべての始まりでした。」 1961年の春、ニューヨークを中心に巻き起こっていたフォークリバイバルのムーブメント..
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ロッド・スチュワートの「マギー・メイ」が日本で発売された日

1971年(昭和46年)9月15日、ロッド・スチュワートの「マギー・メイ」(日本フォノグラム)が日本で発売された。 同年の邦楽ヒットソングといえば… 1位「わたしの城下町」/小柳ルミ子 2位「知床旅情」/加藤登紀子 3位「また逢う日まで」/尾崎紀世彦 1971年、日本では学生運動や安保闘争の火が燻っていた。 NHK総合テレビが全番組カラー化を実施し、『仮面ライダー』の放映がスタート、第48代横綱・大鵬が引退表明し、マクドナルド日本第1号店が銀座にオープン、そしてアポロ14号の月着陸に世界中が湧いた年でもある。 「クリーブランドの熱心なDJがレコードをひっくり返してB面だったこの曲をかけてくれなかったら、俺は今でも誰にも知られることのない歌手だったろう。」 ロッド・スチュワートは60年代の初頭から、ロング・ジョン・ボルドリーのバンド「ザ・フーチー・クーチー・メン」をはじめ、「スティーム・パケット」「ショットガン・エクスプレス」と、様々なバンドを渡り歩きながら音楽キャリアを重ねていた。 どのバンドでも成功と言えるほどの結果には至っておらず…1967年に参加した「ジェフ・ベック・グループ」で、ようやく注目を集めるようになってきたという。 ──1969年、スモール・フェイセスのヴォーカリストだったスティーヴ・マリオットは、ピーター・フランプトンと共にハンブル・パイを結成するためにバンドを脱退する。 当時、バンドの存続に一番こだわったキーボーディストのイアン・マクレガンは、新しいスタイルとイメージを取り入れて「新たなバンドとして活動を続けていきたい」と、他のメンバー(ロニー・レーン、ケニー・ジョーンズ)に提案した。 そして3人で話し合った結果、名前を“フェイセズ”にして新たなステップを誓ったという。 彼らは、たとえ名前くらい変えたところで、3人での再スタートが容易ではないこともわかっていた。 ちょうどその頃、ジェフ・ベックグループを離れたロッド・スチュワートとロン・ウッドは3人のフェイセズと友好関係を結び、練習場でセッションをしながら次第にバンドに参加するようになる。 ヴォーカル:ロッド・スチュワート ギター:ロン・ウッド ベース:ロニー・レーン(1973年以降、山内テツ) ドラム:ケニー・ジョーンズ キーボード:イアン・マクレガン 後に英国ロック史に残るスーパーバン..
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気絶するほど悩ましい〜本物志向のCharが切り拓いた“歌謡ロック”という新ジャンル

1960年代に“天才ギター少年”として音楽関係者の間にその名を轟かせていた日本人がいた。 彼の名はChar(チャー)。 当時まだ十代の半ばだったという。 1955年、東京都品川区戸越で生まれた彼は 6歳でピアノを習いはじめ、兄の影響から8歳でギターを手にする。 ベンチャーズやエリック・クラプトン、ジェフ・ベック、ジミ・ヘンドリックスなどから影響を受けた彼は音楽に没頭する日々を送っていた。 ピアノよりもギターに没頭するのを心配した父親が、彼の部屋に入って「お前は将来何になりたいんだ?」と問い詰めたところ、彼は壁に貼ってあるジミヘンのポスターを指差して一言。 「これ。」 12歳で早くもロックバンドを結成してディスコで演奏するようになる。 15歳の時には既にスタジオミュージシャンとして仕事をしていたという。 そして17歳になる頃には、金子マリ、佐藤準などと“スモーキー・メディスン”を結成し注目されるようになるが…バンドはレコードを出す前に分裂。 そして21歳を迎えた1976年6月にシングル「NAVY BLUE」でソロ・デビューを果たし、9月にはアルバム『Char』を発表。 しかし、内容は良かったものの当時まだロックに馴染みのなかった日本のリスナーには届かなかった。 彼をスカウトしメジャーデビューさせた担当ディレクターの渡辺有三はこんな風に述懐している。 「僕は性格的にメジャー志向ですから彼を“売りたい”と思っていたんです。彼には“一度売れてから好きなことをやればいいじゃないか”と説得したんです。彼も納得してくれました。彼の中でもデレビに出て思いっきりロックで暴れたいという気持ちもあったんでしょうか。そして二人でヒットを狙うためには徹底しようと決めたんです。」 そして1977年6月25日2ndシングル「気絶するほど悩ましい」がリリースされた。 売上は30万枚を記録し、狙い通りのヒットとなった。 渡辺ディレクターは当時を振り返りながらこう語る。 「初めから何々風はやめようと思ったんです。まずは歌詞を当時ピンクレディーのヒットなどで一世風靡していた阿久悠さんにお願いしました。そして曲は梅垣達志さんに頼み、彼のロック指向とは異なる“歌謡ロック”の路線を打ち出したんです。ヒットメーカー(作家)のエッセンスをCharという存在に注入すれば、今までにないメジャーなロックが生まれ..
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【ジョニー・キャッシュ特集序文】老いても、それでも歌い続けるということ

ロックンロールが産声を上げたばかりの1950年代半ば。 エルヴィス・プレスリーは、幼い女の子たちに挑発的に腰を振ってすべての大人たちから怒りを買った。そしてチャック・ベリーは、ロックンロール史上最も有名なリフとスリーコードでティーンエイジライフのすべてを奏でた。どちらも忘れ得ぬ断片だろう。 しかし、もっと衝撃的なことがこの頃のステージで起きていた。 ショーマンシップとセキュリティ上の理由から、当時のエンターテインメントにおける暗黙の掟「ステージで観客に背を向けるな」をあっさりと破った男──ジョニー・キャッシュ。彼は本物のアウトローだった。TAP the POPは古いテキストは捨て去って、この男から始めたいと思う。 ジョニー・キャッシュほど、音楽と真摯に向き合った人はいない。 いつも弱者の味方で、社会に貢献する姿勢を失わず、権力や体制と闘った。どんなにスーパースターになってもそれらを忘れず、自らの音楽とともに歩み続けた。「人々は音楽に真実と答えを求めている」「経験と直感と感情から歌は生まれる」と言ったキャッシュ。この男をリスペクトするミュージシャンの数は、もはやエルヴィスやビートルズのそれを超えているかもしれない。 彼は麻薬で逮捕された最初のロック世代のミュージシャンだった。 心身が疲れ果てた結果、洞窟で自殺しかけたこともある。それまでの12年間の結婚生活も終わった。誰もが危ない男のレッテルを貼ろうとした。しかし1960年代後半、後に妻となるジューン・カーターの存在が、キャッシュの人生とキャリアに光を与える。 ジョニー・キャッシュは信念の人だった。 レコード会社の猛反対を押し切った刑務所でのライブ録音をはじめ、先住民や戦争などをテーマにした様々なコンセプトアルバムで、音楽の力を若い世代に伝えていく。「マン・イン・ブラック(黒衣の男)」と呼ばれた彼は、ギターをライフル銃のように抱えながら、シンプルな曲調の中で普通の人々の悲哀とささやかな希望を歌い続けた。その偉大な仕事の一つに全米ネットのTVショーがあった。彼はここで“音楽と人とのつながり”の大切さを教えてくれた。 一転して1980年代は不遇の時代を迎える。 何もかもポップでヴィジュアル性に富んだものが求められた時代。レコード契約さえ失ったこともあった。親友たちも死んでいく。普通のミュージシャンならここで終わるだろう。し..
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Yesterday Once More〜ドラム演奏の実力が発揮されたレコーディングエピソード

若い頃は好きな曲を待ちながら よくラジオを聴いていたわ その曲がかかると一緒に歌ったりして 笑顔になれたの 1983年2月4日、カレン・カーペンターは32歳でこの世を去った。 死因は摂食障害がもたらした心不全だった。 カーペンターズといえば、彼らが活躍した1970年代当時、ホワイトハウスやディズニーランドでの演奏を許された唯一のミュージシャンだった。 ビートルズのポール・マッカートニーは、彼女の歌声とカーペンターズの音楽についてこう賛美している。 「世界で最高の女声であり、旋律が美しく、豊かで、そして独特だ。」 この「Yesterday Once More」は、カーペンターズの12枚目のシングルとして1973年に発表されたもので、彼らの楽曲の中でも最もセールス的に成功した曲と言われている。 本国アメリカではビルボードチャートの2位にまで駆け上がり、日本ではオリコン洋楽チャートで約半年間1位をキープするという“異例のロングセラー”を記録した曲として知られている。 彼らの代表曲「Top of the World」と同じく、作詞はジョン・ベティス、作曲はリチャード・カーペンターが担当したオリジナル曲である。 レコーディングではカレン・カーペンターがドラム演奏を担当しているのだが…その録音にまつわるちょっと面白い裏話があるという。 レコーディングの当日、ベストな演奏でテイクを録り終えたメンバーに対してリチャードがある要求を出したという。 「今のテイクの後半部分を残したままで、前半だけを録り直したいんだ!」 デジタル技術が進化したの現在の録音とは違い、当時は部分的に録り直すためにはテープの切り貼りをするしか手段がなかった。 つまり前半を録り直すには、前に録音したテイクの正確な演奏時間と、それを再現して後半に結びつけるリズムキープが必要であり…リチャードの要求に対してスタッフは「それはちょっと無謀じゃないか?」と躊躇したという。 しかし、カレンが叩くドラムの正確なリズムキープによって、揺れのない演奏が再現され、録り直しは見事成功! この件に関して、生前カレンはこんな言葉で振り返っている。 「今聴いてもどこに繋ぎ目があるのか?私ですら判らないわ(笑)」 その美しい歌声でも高く評価されていた彼女だったが、ドラムの技術(リズム感)も相当なものだったということがわかるエピソードだ。 ..
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売れないバンドだったキッスが放った起死回生のライヴ・アルバム

のちにキッスを結成することになるポール・スタンレーとジーン・シモンズ。 2人はもともとウィキッド・レスターというバンドのメンバーだった。 1970年に結成されたウィキッド・レスターは、翌1971年にデモテープを聞いたエピック・レコードからアルバムを発売しようと持ちかけられ、1年近くをレコーディングに費やしてアルバムを完成させた。 ところがようやく完成したアルバムに対するエピックの反応は非常に渋く、アルバムを出すという話はなかったことにされてしまう。 結成から2年余り、その活動内容はたった2回のライヴと、お蔵入りになってしまったアルバム制作のみだった。ほとんど人前で歌っていないからファンもいないし、先の見えない状況に痺れを切らしてメンバーも抜けていった。 ポールとジーンは自分たちのバンドに必要なのは印象的なイメージと、明確な音楽の方向性だと分析し、新たなメンバーを探して再スタートを図る。 1973年の1月、リード・ギターのエース・フレイリーとドラムのピーター・クリスを加えた彼らは、バンド名をキッスに改めた。 デヴィッド・ボウイやT・レックスを筆頭に、派手な化粧や衣装が印象的なグラムロックが全盛だったこの時代、彼らもまた白塗りや様々な衣装を試して、自分たちに合ったイメージを模索していった。 そして自分たちに女性のようなメイクは似合わないという結論に至った彼らは、お馴染みのキッス・メイクに辿り着くのだった。 初ライヴではたったの3人しか観客がいなかったという彼らのステージも、彼らの奇抜な格好や派手なパフォーマンス、そして実力に裏打ちされたパワフルな演奏により、次第に高い評価を集めていった。 キッスは1年足らずで新興レーベルのカサブランカ・レコードとの契約を交わし、翌1974年の2月には1stアルバム『地獄からの使者』をリリースする。 ウィキッド・レスター時代に苦汁をなめたポールとジーンの2人にとっては、念願のレコード・デビューとなった。 結成からデビューまでは順調に来ていたキッスだが、しかしここからがほんとうの苦難の日々の始まりとなった。 アルバムの内容に自信のあったメンバーとレーベルは大々的にプロモーション・ツアーを展開したが、アルバムの売れ行きは伸びず、全米チャート87位という結果に終ってしまう。 続く2ndアルバムと3rdアルバムもセールス的には振るわず、彼らはマ..
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All Of Me〜ジャズ界の巨人や歌姫たち、そしてメロコアの雄や日本のアイドルまでが歌った失恋ソング

♪「All Of Me」/ ルイ・アームストロング どうして全部持っていってくれないの? あなた無しではなんの意味もない あなたにキスできない唇なんていらないわ あなたに抱きつけない腕なんて必要ないわ 1931年、アメリカで「All Of Me」というトーチソング(失恋歌)が生まれた。 ジャズのスタンダードナンバーとして知られ、古今東西、数多のステージでセッションされ、様々なミュージシャン達から愛されてきた曲である。 歌詞では、身体の部分をあれこれと挙げながら「全部あなたにあげるから、身体ごと連れ去って!」「どうして私のすべてを奪ってくれないの?」と、去ってゆく恋人にすがる未練節が綴られている。 曲が誕生した翌年の1932年に、ルイ・アームストロングが歌ってビルボード・チャートのトップを飾るという大ヒットとなったほか、人気女優ジョーン・ベネットが主演した映画『ケアレス・レディー(Careless Lady)』で使われたことなどもあって瞬くうちに広まったという。 (←当時の映画のチラシ) ♪「All Of Me」/エラ・フィッツジェラルド その後、ビリー・ホリデイやエラ・フィッツジェラルドンなどジャズ界の歌姫たちが歌い継ぐ中、曲の誕生から20年後の1952年にはフランク・シナトラが映画『ダニー・ウィルソン物語(Meet Danny Wilson)』の劇中で歌い、ふたたび注目を浴びることとなる。 (←当時の映画のチラシ) ♪「All Of Me」/フランク・シナトラ この曲は、セイモア・シモンズとジェラルド・マークスという二人の男によって作詞作曲されたものだ。 2010年度米ソングライターの『名声の殿堂』で“Towering Song”に選出されている。 セイモア・シモンズ (1896 – 1949)は、アメリカのミシガン州デトロイト出身の作曲家でラジオプロデューサーでもあった。 第一次大戦従軍から復帰後、多方面で活動しながら色々な作者と曲作りをした男である。 またジェラルド・マークス(1900 – 1997)も、シモンズと同じくミシガン州の出身の作曲家で、ブロウドウェイやハリウッド向けの作曲活動を中心に映画音楽なども手掛けた才人であった。 (↑こちらは90年代にリリースされた本曲の60周年を記念してリリースされた編集盤のジャケットです。アーティスト名だけ..
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ビル・モンロー命日〜“ブルーグラスの父”と呼ばれた男の偉大な功績

1996年9月9日、“ブルーグラスの父”と呼ばれた男ビル・モンロー(享年84)が心不全のため亡くなった。 ブルーグラスとは、バンジョー、マンドリン、ギター、ベース、フィドル(ヴァイオリン)、ドブロ(ハワイアンスティールギターが発展した物)の6種類の楽器を用いた電気を一切使わないアコースティックな演奏が特徴で、“ハイロンサム”と呼ばれる孤高のブルース感を表現する唱法が最大の魅力と言われている。 カントリー・ロック界の歌姫エミルー・ハリスは彼の死後、こんな言葉でその死を悼んだ。 「彼が音楽を奏でようとして表現できなかったことは一つもなかった。なぜなら音楽こそ彼の人生だったのだから。」 1939年、ビル・モンローはBill Monroe & His Bluegrass Boysを結成する。 ビル・モンロー(ヴォーカル、マンドリン)、レスター・フラット(ヴォーカル、ギター)、チャビー・ワイズ(フィドル)、ハワードワッツ(ベース)という編成のバンドは、1920年代から数多く出現したストリングバンドの中でも、スピード感のあるインストや強いビートのジャンプブルースなどで一線を画した。 1945年12月8日、5弦バンジョーの革命的奏法でブルーグラススタイルの形成に最も大きく寄与したアール・スクラッグスが加わり、それまでのストリングバンドのスタイルとは違う新しいサウンドが生れた。 以降、彼らを模範するバンドが続々と登場し、その新しい音楽を(ビルモンローの故郷にちなんだバンド名から)ブルーグラスと呼ぶようになった。 エルヴィス・プレスリーのデビューシングル「That’s All Right」のB面がビル・モンローの代表曲「Blue Moon Of Kentucky(ケンタッキーの青い月)」だったということで、50年代の中盤以降はロックンロールの熱狂と共に彼の名前も広く知れ渡ることとなる。 彼が生み出したブルーグラスは、その歴史的経緯からカントリーミュージックの分野の一つとして語られる事も多い。 カントリーミュージックのルーツをさかのぼると、アイルランドやスコットランドからアメリカ東部の僻地山岳帯アパラチアに入植した移民たちの歴史に辿り着く。 【黒人の“ブルース”に呼応したアイルランド系移民の“ハイロンサム”】 http://www.tapthepop.net/extra/8023..
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Something〜ジョージ・ハリスンの最大のヒット曲はこうして生まれ、歌い継がれてきた

あの娘の仕草のひとつひとつが ほかの誰よりも強く僕をひきつける 愛をささやく時の何かが… もうあの娘を離したくない 心からそう思う 本当に この歌は、1969年9月にビートルズが発表したイギリス盤公式オリジナルアルバム『Abbey Road』に収録された曲であり、同年10月にシングルカットされ21枚目のオリジナルシングル曲ともなった。(※両A面曲で片面は「Come Together」) ジョージ・ハリスンの作品で、リードボーカルもジョージがとっている。 ビートルズ時代の公式発表曲の中で唯一シングルのA面収録曲となったジョージの作品であり、ビートルズ並びに彼の代表作として知られる。 「Something in the way she moves」という曲の冒頭の歌詞は、当時アップルレコードに属していたジェームス・テイラーの楽曲のタイトルから引用されている。 ジョージは自伝の中で、この楽曲に関してこんな風に語っている。 「Something」は、ビートルズのアルバム『The Beatles(通称・ホワイトアルバム)』(1968年)のレコーディング中にピアノを使って書いたんだ。 ポールが他の曲のオーバーダビングをやっているあいだ時間があったので、誰もいないスタジオ(アビイロード第一スタジオ)へ行って書きはじめたんだ。 比較的にすらすらと書けたんだけど、中間部分をまとめるのにやや手間どったのを憶えているよ。 当時、ホワイトアルバムはすでに全曲を録り終えていたので、この曲は収録されなかった。 それでジョー・コッカーに譲り、一年後にビートルズでもレコーディングして『Abbey Road』(1969年)に収録したんだ。 このメロディーは確か、上下5音の範囲内に収まっていたはずだよ。 たいていのシンガーは自分の声域の中で無理なく唄うことができるはずだよ。 おそらく僕が作った曲の中では一番のヒット作だろうね。 僕の知る限り150種類のカヴァーバージョンが出ている。 その中でも気に入っているのは、ジェームス・ブラウンのものだね。 あれは素晴らしかった! 実はこの曲を書いた時、レイ・チャールズが唄っているところを想像していたんだけど…何年か後に本当に唄ってくれることになるなんて! <引用元・参考文献『ジョージ・ハリスン自伝』著:ジョージ・ハリスン/訳:山川真理(河出書房新社)>..
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ダンサー・イン・ザ・ダーク〜「ハリウッド的予算なんて必要ない」とビョークは言った

「辛いことばかりに敏感になって、喜びに鈍感になっている」。そんな経験をしたことはないだろうか。他人の祝祭生活のグレイテスト・ヒッツ的な投稿の連続によって、「まるで自分なんか」とSNS疲れに冒される人々が増殖している現在、こうした感覚に陥っている話をよく耳にする。 本来なら、人はもっと些細なことに幸せを見出さなければならないし、それができるはずなのだ。“盛られた出来事”や“加工された画像”なんかに惑わされずに、しっかりと現実を直視しながら、小さな喜びを感じることの大切さ。毎日どこかで必ず訪れるささやかな時間……こんなことを考えていると、1本の映画が浮かび上がってくる。 幼い頃に何度も読み返した、人のために尽くす少女を描いた絵本『黄金の心』からインスピレーションを得たラース・フォン・トリアー監督は、目の前の現実が辛くなると少しの間だけ妄想の世界=現実を大好きなミュージカルに作り変えるヒロインの話を書き始める。それは次第に避けられない運命=失明というドラマも加わりながら、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』(DANCER IN THE DARK/2000)の脚本は更新されていった。 デンマーク出身のラース・フォン・トリアーにとって、遠い国のハリウッドのミュージカルは夢の世界の象徴だった。だが、60年代のアメリカでは絞死刑が実行されていた悪夢を知ることにもなる。いくつもの相反する世界観がぶつかり合うこの作品は、生きることが喜びではなく、喜びがあるから人生に耐えて生きていられる移民の話になった。 最大の課題はどんな音楽を使用するかということだった。だが私にはそれに関するアイデアがまったくなかった。そこにビョークが入ってきて、私は彼女の創造した音楽が素晴らしく気に入った。そしてセルマ役には彼女しかいないと思った。 当初、ビョークは音楽のみの担当で、演じる話は頑なに断り続けていた。しかし、長い時間をかけて映画の音楽に取り組んだ結果、主人公のセルマの魂が彼女に完全に宿っていき、この役は「自分しかいない」と思うようになったという。アイスランド出身のビョークにとって、ミュージカル好きの東欧移民の役は大いに共感できたのだろう。 ずっとミュージカルをやってみたかった。ただしハリウッド風のものではなくて、私が歌い、手元にあるものをあれこれ叩き、皆んながコーラスに加わって飛び跳ねて踊る。そこに..
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