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ザナドゥ〜ELOの音楽と伝説のスターが救ったオリビア・ニュートン=ジョン主演作

『ザナドゥ』(Xanadu/1980) 70年代半ばから80年代前半にかけて、オリビア・ニュートン=ジョンの人気は凄まじかった。ヒットチャートを見てもそれは一目瞭然。4曲のNo.1ヒットと11曲のトップ10ヒットを放っている。可憐なルックスと透明感のある声もあって、日本でも当時ファンだった人は多い。 「Let Me Be There」(1973年/全米6位) 「If You Love Me (Let Me Know)」(1974年/全米5位) 「I Honestly Love You」(1974年/全米1位) 「Have You Never Been Mellow」(1975年/全米1位) 「Please Mr. Please」(1975年/全米3位) 「You’re the One That I Want」(1978年/全米1位)*映画『グリース』 「Summer Nights」(1978年/全米5位)*映画『グリース』 「Hopelessly Devoted to You」(1978年/全米3位)*映画『グリース』 「A Little More Love」(1978年/全米3位) 「Magic」(1980年/全米3位)*映画『ザナドゥ』 「Xanadu」(1980年/全米8位)*映画『ザナドゥ』 「Physical」(1981年/全米1位) 「Make a Move on Me」(1982年/全米5位) 「Heart Attack」(1982年/全米3位) 「Twist of Fate」(1983年/全米5位)*映画『セカンド・チャンス』 映画『ザナドゥ』(Xanadu/1980)は、そんなオリビアが人気絶頂の頃に主演したミュージカル・ファンタジー。ギリシャ神話のミューズ(音楽と踊りの女神)として、様々なコスプレと脚線美でセクシーなダンスやタップを踊ったり、ローラースケートを履いてたまらない笑顔で微笑んでくれたりする。 早い話、映画としての作品性やクオリティは低い。でもオリビアのファンならそんなことはどうでも良かった。彼女の美しさはそれくらいの威力があった。 ではこの映画を今観るならその程度の気持ちで見るべきか? いや、少し視点を変えると感慨深いものがある。ミュージカル映画の全盛期を支えた伝説のスター、ジーン・ケリーがタップを踏んだ最後の作品でもあるからだ..
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Kansas City〜人種、宗教、国境を超えたロックンロールナンバー

ビートルズがカヴァーしたことによって広く知られることとなったこの曲は、1940年代末からアメリカのブルース界を中心に活躍したユダヤ系白人のシンガーソングライター、ジェリー・リバーとマイク・ストーラーが書いたもの。 曲が誕生したのは1952年。 当初の曲タイトルは「K.C. Loving」だった。 最初に歌ったのは黒人ピアノ弾きのリトル・ウィリー・リトルフィールド。 彼は得意のブギウギスタイルでクールに歌い上げたが、残念ながらヒットには結びつかなかった。 それから7年の歳月が流れ…1959年にR&Bシンガー、ウィルバート・ハリスンが「Kansas City」というタイトルで同曲をリリースすると、今度は全米チャートの首位を記録するほどのヒットとなる。 ビートルズによるカヴァーは1964年12月4日に発売された4枚目のイギリス盤公式オリジナルアルバム『Beatles for Sale』のA面7曲目に収録された。 彼らのヴァージョンは、リトル・リチャードが1959年に発表した「Hey, Hey, Hey, Hey」とのメドレーを踏襲している。 当時ビートルズのレコード表記には「Kansas City」としか書かれていなかったが、著作権問題もあって、ある時期から「Kansas City/Hey, Hey, Hey, Hey」と記載されるようになった。 ユダヤ系白人コンビが書いた曲を、アメリカの黒人達が歌い、それをイギリスの片田舎(リバプール)で生まれたアイリッシュ血統のバンドがカヴァーして世界的に有名な曲となったこの「Kansas City」。 様々な差別的傾向が強かった時代に、肌の色、宗教、国境を超えたロックンロールナンバーとして覚えておきたい一曲だ。 さらには、ビートルズから多大な影響を受けた日本のロックバンド、キャロルの1stアルバムにもこの「Kansas City」は収録されており、初期のキャロルファンにはとても人気の高い一曲だったことも忘れてはならないだろう。 ※キャロルが歌ったバージョンは↓こちらのYouTube動画(音源のみ)で聴けます https://www.youtube.com/watch?v=pOeiju3qOwQ <引用元・参考文献『ロック&ポップス名曲徹底ガイド①』音楽出版社> こちらのコラムの「書き手」である佐々木モトアキの音楽活動情報です♪ ..
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パフォーマンス/青春の罠〜「三流のクソ映画」とキースが吐き捨てたミック初主演作

『パフォーマンス/青春の罠』(Performance/1970) 公開時は斬新な映像で話題を振りまいた作品が、5年〜10年経つと逆に古臭いものとなって忘れられる。そして今度は20年くらい後に当時を知らない世代に新鮮に迎えられ、強烈に時代を感じさせる作品として再評価されていく。これは映画の面白さの一つだ。ミック・ジャガーが主演した英国映画『パフォーマンス/青春の罠』(Performance/1970)もそんな一つだった。 1968年。ゴダールの前衛映画『ワン・プラス・ワン』にローリング・ストーンズが出演したことをきっかけに、ミックの演技に対する興味に火がついた。ロックシンガーとして頂点を極めたと感じていたミックには音楽以外で何かをやりたい気持ちが高まったのだろう。映画製作者のドナルド・キャメルが頭のおかしくなったロックスターの役を持ちかけると、ミックはこの話に飛びついた。 当時のミックの恋人であるマリアンヌ・フェイスフルは、台本読みに付き合いながら「自分をブライアンだと思ってやってみて」とアドバイスした。 あの自暴自棄になって、中性的で、薬浸けになってる彼を意識するの。でもタフで法律も気にしていないようなキースの面も取り入れなくちゃダメよ。二人をうまくミックスすればいいわ。 一方、もう一人の主演俳優であるジェームズ・フォックスが演じるのはギャング役。上流社会のエレガントで典型的なイギリス紳士を売り物にしていた彼は、役作りのために本物の裏社会に紛れ込んだ。ファッションや言葉遣いだけでなく、あっという間に気が短くて攻撃的な性格に仕上がったという。 ストーンズは当時、反体制の象徴のような存在だった。しかも悪魔のイメージを好んで受け入れた。しかし撮影に入ると、ミックは不平を言わず、わがままでリッチなロックスターの素振りすら見せなかった。撮影クルーたちの素人扱いが悔しかったのかもしれない。音楽同様、本物の役者になろうと必死に努力をしたのだ。 映画はドナルド・キャメルとニコラス・ローグの共同監督で1968年秋にクランクイン。翌年には完成する。しかし映画会社のワーナー・ブラザースはすぐに公開に踏み切らなかった。最低な映画と酷評したのだ。これは完全な失敗作であり、とても興行的に成功するとは思えないというのが重役たちの一致した見解だった。 裏社会でスマートに生きるチャス(ジェームズ..
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テネシーワルツ物語・後編〜江利チエミが愛した歌、彼女を愛した高倉健

戦後間もない1947年頃、日本にはアメリカの文化が怒濤のように流れ込んできた。 当時の若者たちは、アメリカの映画に熱中し、アメリカのポップ音楽に耳を傾けていた。ラジオや街のそこかしこから聴こえてくる耳新しい歌の中でも、この「Tennessee waltz」は、特に日本人の心を惹きつけたという。 1949年、家計を支えるため、12歳の頃から進駐軍キャンプ回りをしながら“歌で稼いでいた”江利チエミが、一人の進駐軍兵士からプレゼントされたレコードが、この「Tennessee waltz」だった。 歌手になることを志していた彼女は、この曲でデビューを果たすことを心に決め、レコード会社のオーディションを受け始めた。 ところが現実は厳しく…どの会社からも不合格の通知しか届かない日々が続く。 背水の陣で臨んだキングレコードのオーディションにようやく合格したのが、14歳の時のことだった。 1950年にパティ・ペイジが録音してから2年も経たないうちに、江利チエミはレコード会社の大人たちをうなずかせて、現実に録音を果たしたのだ。 1951年11月にレコーディングされた、彼女の「Tennessee waltz」は、年をまたいで翌1952年の1月23日に発売された。 当時、キングレコードとしては“14歳の天才少女”として売り込みたかったらしいが、1937年1月11日生まれの彼女は(発売日には)15歳になっていたために「嘘をつくのは嫌だ!」と渋った彼女に対して、レコード会社も折れ…そのキャッチコピーは幻になったという。 これは、彼女の誠実で一徹な性格がよく表されたエピソードとして、後々まで語り継がれることとなる。 「Tennessee waltz」の歌詞といえば、男性歌手が歌えば主人公は男性に、女性歌手が歌えば主人公は女性になる歌としても有名である。 だが、なぜか江利チエミが歌う日本語訳詞では、主人公が男性になっている。 この日本語訳が生まれたのには、どんな経緯があったのだろう? 当時、彼女のキング入社をゴリ押しした初代・音羽たかし(訳詩のペンンネームで、歴代・江利チエミの担当デレクターが襲名する名)こと和田寿三が「チャンポンで行こう!」というアイデアで、英語と日本語の混ぜ合わせた歌詞でのレコーディングとなる。 そんな中、最初に出来た歌詞が彼女にはどうしても納得がいかなかった。 オーディシ..
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モ’・ベター・ブルース〜コルトレーンの「至上の愛」にヒントを得たスパイク・リー監督作

『モ’・ベター・ブルース』(Mo’ Better Blues/1990) 2017年に大ヒットした映画『ラ・ラ・ランド』に印象的なシーンがあった。主人公の男性ジャズ・ピアニストが恋人に「ジャズは滅びかけている音楽」と悲しい表情を浮かべながら言うところ。 実際に2017年度上半期、アメリカでの音楽ジャンル別売り上げシェアを見てみると、R&B/ヒップホップ25.1%、ロック23%、ポップ13/4%、カントリー8%、ラテン5.7%、エレクトロ/ダンス4%、クリスチャン/ゴスペル2.5%、キッズ1.4%、そしてジャズはクラシックと並んで1%となっていた。 20世紀初頭にニューオーリンズで誕生したジャズは、1910年代にはリバーボートによってアメリカ各地に広がっていく。シカゴ、カンサスシティ、ニューヨークなどだ。ルイ・アームストロングをはじめ、ハーレムのコットン・クラブに出演したデューク・エリントンらが大きな反響を巻き起こした。 大恐慌の30年代になると、いわゆるスピーク・イージーと呼ばれるモグリ酒場が流行し、ここでもジャズは盛んに演奏された。不景気を吹き飛ばすかのような陽気なスウィング・ジャズもブームとなり、ベニー・グッドマンやグレン・ミラーなど無数のビッグバンドが国民的人気を獲得。同時に専属のバンドシンガーも脚光を浴びることになり、フランク・シナトラはアイドル化した。 40年代に入ると、第二次世界大戦の影響もありスウィング・ジャズは終息。楽団の若き演奏者たちは、仕事を終えた後にクラブでアフターアワーズ・セッションを繰り広げた。チャーリー・クリスチャン、セロニアス・モンク、チャーリー・パーカーといった気鋭たちによるビバップの革命。これを機会にジャズはモダンの時代へ突入する。 マイルス・デイヴィスが開拓したクール・ジャズやモード・ジャズ、チェット・ベイカーやアート・ペッパーらのウエスト・コースト・ジャズ、ビバップから進化したハード・バップ、オーネット・コールマンやジョン・コルトレーンが先導したフリー・ジャズなど、50年代のモダン・ジャズは真の黄金期と言われている。 その後60年代になると、ファンキー・ジャズ、ジャズ・ロックも生まれ、モード・ジャズから進化した新主流派も加わった。70年代は再びマイルスを筆頭にフュージョン旋風が巻き起こる一方、伝統的な4ビート・ジャズも見直され..
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テネシーワルツ物語・前編〜鼻歌とマッチ箱から生まれた永遠の名曲

カントリー、ポップス、ジャズ、ブルース、R&B…そして西洋、東洋、女性、男性を問わず数え切れないほどの歌手がカヴァーしてきた「Tennessee waltz」。 多くの人々に愛されてきたこの稀代の名曲は、実は車の中での“鼻歌”から生まれたという。 ♪「Tennessee waltz」/ノラ・ジョーンズ&ボニー・レイット それは今から約70年前…1946年の出来事だった。 カントリー&ウェスタン歌手のピー・ウィー・キングは、テネシー州ナッシュビルで公開ライブ放送のラジオ番組『グランド・オール・オプリ(The Grand Ole Opry)』に出演するため車で移動していた。 彼はその車中で、友人でもあった歌手のレッド・スチュワートと「何か共同で作曲をしよう」という話を進めていたのだ。 その時、たまたまカーラジオからビル・モンローの新曲「Kentucky Waltz」流れてきたのが二人の運命を一変させた。 キングは、さっそく「No Name Waltz (名もなきワルツ)」という仮名をつけて、聴いたばかりのモンローの新曲を鼻歌で真似るようにして歌ったという。 スチュワートは、それに応えるようにポケットに持っていたマッチ箱を取り出して、思いつくままの歌詞を綴っていったのだ。 ♪「Kentucky Waltz」/ビル・モンロー その翌日、キングとスチュワートは音楽出版事業者のフレッド・ローズを呼んで、移動中に出来上がった曲をさっそく聴かせた。 ローズはその場で、ただのくり返しだったサビ部分の歌詞を「O the Tennessee waltz, O the Tennessee Waltz」から「I remember the night and the Tennessee Waltz」という、歌の主人公の気持ちが入った言葉にすることを提案したという。 こうして永遠の名曲「Tennessee waltz」は完成していったのだ。 翌1947年の12月2日、ピー・ウィー・キングは自身のバンドであるゴールデン・ウエスト・カウボーイズと共にその曲をレコーディングした。 それは、イリノイ州シカゴにあるRCAビクタースタジオでの録音だった。 このピー・ウィー・キングのバージョンが発売された直後、ゴールデン・ウエスト・カウボーイズの元ヴォーカリストだったカウボーイ・コパスのバージョンがキング..
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ボビー・ヘブを偲んで〜色褪せることのない名曲を生んだ男の足跡と「Sunny」の誕生秘話

サニー 昨日、僕はずっと雨の中にいた サニー そして君が微笑み痛みを和らげた 今、暗闇は去り 毎日は晴れ渡ってる 僕のサニー キラキラ輝いて 本当さ 心から君を愛してる 2010年8月3日、60’sポップスを代表する名曲「Sunny」のヒットで知られる歌手ボビー・ヘブ(享年72)がナッシュヴィルの病院で息を引き取った。 死因は肺ガンとされている。 1939年、彼はテネシー州ナッシュビルで生まれる。 両親は盲目ミュージシャンながら7人の子供達と共に音楽一家として活動をしていた。 彼は3歳の頃に兄達が出演していたタップダンスショーで初舞台を踏む。 12歳の時に『グランド・オール・オブリー』(カントリー・ミュージックの公開ライブ放送でアメリカのラジオ番組として最長寿の番組)に黒人として初出演する。 これはアフリカ系米国人として初の快挙だったという。 十代の頃にその才能を認められてボ・ディドリーの「Diddley Daddy」でバックコーラスを経験。 1962年、23歳になった彼は“ボビー&シルビア”というデュオを結成して音源を残している。 二十代にはジョージ・ハリスンが憧れたギタリストとしても知られるカントリーミュージック界の重鎮チェット・アトキンスに師事して音楽キャリアを重ねてゆく。 1966年、27歳となった彼は自作の楽曲「Sunny」でソロ歌手としてデビューを果たす。 同曲では、当時ソフトロック系のプロデューサーとして活躍していたジェリー・ロスが制作を担当した。 「Sunny」はビルボードのシングルチャートで2位を記録する大ヒットとなり、その後もフランク・シナトラやエラ・フィッツジェラルド、マーヴィン・ゲイ、ジェイムズ・ブラウン、スティーヴィー・ワンダー、ホセ・フェリシアーノら多数の大物アーティストがカヴァーすることとなる。 サニー 真実を見せてくれてありがとう サニー この世界にある全てのことを 僕の人生は風に吹き飛ばされた砂のようにバラバラだった 君が僕の手を握り その岩でつなぎとめてくれたんだ サニー 心から君を愛してる 彼の人生を大きく変えたこの「Sunny」は、一聴するとラブソングのようにも聴こえるのだが、実は恋愛とは違う体験から生まれた曲なのだ。 1963年11月22日、大統領ジョン・F・ケネディが暗殺され、世界中に衝撃のニュースが流れる。 その..
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夜の大捜査線〜アメリカ南部を“夜の熱気の中”で描く歴史的名作

『夜の大捜査線』(In the Heat of the Night/1967) 『夜の大捜査線』(In the Heat of the Night/1967)を観るまで、実は随分と時間が掛かってしまった。もちろんアカデミー賞の作品賞にも輝いたこの映画の存在は知っていた。だが、邦題の影響もあって長らく敬遠してしまったのだ。そう、似たタイトルを持つあのテレビドラマ/テレビ映画の存在である。後者のイメージがこの素晴らしい映画を遠ざけていた。こんな理由でまだ手をつけていない人も意外と多いかもしれない。 いきなりオープニングの秀逸さにやられてしまった。南部の熱い夜に流れるレイ・チャールズが歌う「In the Heat of the Night」。これだけで何が始まるのか釘付けだ。本当のタイトルは『夜の熱気の中で』とすべきだろう。そして南部の汗のように全編に染み渡るクインシー・ジョーンズの音楽。原作となったジョン・ボールの同名小説はこんな書き出しで始まる。 午前2時50分。ウェルズの町はぐったりと暑気の中に沈潜していた。1万1千の住民の大部分はイライラと寝返りを打って、寝につく気にもなれない少数の人は、息詰まるような夜の空気を動かしてくれる微風の、かけらすらない空を恨んでいた。 主演は黒人映画俳優の先駆者シドニー・ポワチエ、そして本作でアカデミー賞主演男優賞を獲得したロッド・スタイガーの二人。映画は単なるミステリーやサスペンスの枠を超え、「アメリカの重要な断面を捉えた鮮度の高い」社会派ドラマとして、公開当時大きな話題になったという。言うまでもなく、南部における白人の偏見と黒人への差別だ。 キング牧師が先導した公民権運動は、法の上では1964年7月に一応は成立した。だが“現場”ではそう簡単に新しいルールは始まるわけがない。『夜の大捜査線』はそんな時期に作られた。これは北部と南部、黒人と白人、都会と田舎、知性と感情、未来と過去といった二つの相反する世界、その間における微かな歩み寄りを描こうとした名作だ。 アメリカ南部、ミシシッピの田舎町。深夜、いつものようにカントリーソングを聴きながらパトカーで巡回していた警察官のサム(ウォーレン・オーツ)は、路上で男の死体を発見する。殺されたのは町の実業家ということもあり、署長のビル(ロッド・スタイガー)は犯人逮捕に躍起になる。 その頃、駅の..
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トレインスポッティング/ドラッグストア・カウボーイ〜英米ジャンキーたちの末路

『ドラッグストア・カウボーイ』(DRUGSTORE COWBOY/1989) 『トレインスポッティング』(TRAINSPOTTING/1996) ジャンキー(いわゆる薬物中毒者)を主役にした英米産の映画はこれまで数々と製作されてきたが、良質な作品に共通するのは、例外なく登場人物が悲惨な風景の中を彷徨うことになるという点だ。今回はそれを象徴した2本の作品を比較紹介したい。 本物のバロウズも出演した『ドラッグストア・カウボーイ』 まずはアメリカ。『ドラッグストア・カウボーイ』(DRUGSTORE COWBOY/1989)は、ガス・ヴァン・サント監督の35㎜デビュー作として知られる伝説的な作品。公開当初はマット・ディロンやケリー・リンチのイケてるヴィジュアルもあって、日本ではストリート/ファッショナブルな扱いをされたが、今観直してみると、けっこうヘヴィーな内容だ。 ボブ(マット・ディロン)とその妻ダイアン(ケリー・リンチ)は、自分たちが楽しむためのドラッグを手に入れるために、時々薬局を襲ってはアパートやモーテルを転々としている夫婦。幼馴染みのリックも仲間で、最近は若い彼女のナディーンも一緒に行動している。大抵のジャンキーはドラッグを買う金欲しさに宝石強盗をするが、彼らはどうせやるなら直接と、薬局(ドラッグストア)ばかり狙っている。 舞台は1971年のオレゴン州ポートランド。ロックの世界で言えば、ローリング・ストーンズが「Brown Suger」をリリースした頃だ。ボブたちは警察に目をつけられていて、その夜ガサ入れを喰らう。ボブは異常にジンクスに拘る男で、その一つに「ベッドに帽子を置くな」があった。 だが、新米で仲間外れ意識を抱いたナディーンは、ベッドに帽子をワザと置く。その日、珍しくドラッグ入手に失敗したボブが目にしたのは、モーテルでドラッグ過剰摂取が原因で冷たくなったナディーンの姿だった。しかもモーテルは地元警察の集会に使われる日で、窓の外はパトカーだらけ。死体を運び出すボブは、この時人知れず心に誓う。 どうかこの死体を無事に埋めさせてください。ブタ箱は勘弁です。この願いを聞いてくれたら、感謝の印に田舎へ帰ってカタギになります。 願いが叶ったボブはダイアンと別れて、薬物中毒更生プログラムに参加。工場で働きながら真面目に金を稼ぎ、荒んだ暮らしを改める。しかし、再会し..
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萩原健一27歳〜ドラマや映画での大活躍を経て、新たに音楽活動を再開させた転換期

唯一無二の個性を持った俳優/シンガーとして愛されている男、萩原健一。 “ショーケン”の愛称で親しまれている彼は、16歳の頃に地元の埼玉県でスカウトされて、当時に人気グループだったザ・スパイダースの弟分的なバンドだったザ・テンプターズのボーカリストとしてデビューを果たす。 「神様お願い!」「エメラルドの伝説」などヒット曲を連発し、その個性的な歌声とカリスマ的な魅力を武器に人気を集めていた。 1970年、ザ・テンプターズはグループサウンズブームの衰退と共に解散してしまうが、翌1971年に彼は沢田研二、井上堯之、大野克夫などと“ニューロック”という新スタイルを掲げて6人組のバンド、PYG(ピッグ)を結成する。 ライブ活動の他、ロックフェスティバルやテレビ番組にも出演し、大きな注目を集める存在となっていた矢先…彼に大きな転機が訪れる。 1972年、当時22歳だった彼は人気ドラマ『太陽にほえろ!』に初代新人刑事のマカロニ役で出演し、一躍全国的な知名度を獲得して俳優としてブレークを果たす。 その年の12月をもって音楽活動を停止(これによりPYGは事実上解散)。 1974年には名匠・神代辰巳 とのコンビによる映画『青春の蹉跌』でキネマ旬報の最優秀主演男優賞を受賞。 続いて『傷だらけの天使』、倉本聰脚本の『前略おふくろ様』と連続してTVドラマ作品の主演をつとめる。 翌1975年には、それまで休止していた音楽活動を再開させて初となるソロアルバム『惚れた』をリリースする。(河島英五の名曲「酒と泪と男と女」を収録) 同年にモデルの小泉一十三と結婚し、娘を一人もうけるが…3年後には破局、離婚することとなる。 そして…27歳を迎えた彼は、あの“男はつらいよ”で人気を博していた渥美清主演の松竹映画『八つ墓村』へ出演し、俳優として役の幅を広げてゆく。 「アレ!“たたりじゃ〜”でヒットはしたけど、変な映画だったぜ。脚本を書いた橋本忍さんから話がきました。どうしようかなぁ…と思いながら“ワンカップ大関”のCM撮影のためオーストラリアに行ったんです。その機内でたまたま手にした雑誌を開いたら、ポール・ニューマンが“タワーリング・インフェルノ”という映画に出演した記事が載っていたんです。ポール・ニューマンと言えば“赤いトタン屋根の猫”や“ハスラー”でしょ!そういう俳優が、高層ビルが火事になるパニック超大..
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ジョニ・ミッチェル少女時代〜9歳から吸っていた煙草、ポリオ感染の辛い経験がもたらした神秘的な感覚、フォークブームから受けた刺激

季節はいつでもめぐり巡って ペンキで塗られた木馬は上がったり下がったり 私たちは時という回転木馬に乗った捕われ人 戻ることはできない… 過ぎ去って行ったあの場所を振り返るだけ めぐり巡ってぐるぐる回り続けるだけ サークルゲームの中で 「9歳の頃から煙草を吸っていたわ。自分が誰なのか忘れたくて…自転車に乗って平原に向かい、鳥が飛び交うのを眺めながら煙草を吸ったわ。私は幼い頃から感じやすい性格で、薄い肌の色をしていた。神経が表面に浮かんでいるようなね…いつも気持ちを落ち着かせるために煙草が必要だったの。」 1943年11月7日、彼女はカナダのアルバータ州のフォート・マクラウドで誕生した。 父方の祖先はノルウェー人で、母方の祖先はスコットランド人とアイルランド人だった。 父親の仕事はカナダ空軍のパイロットで、母親は(彼女が生まれる以前まで)学校の教師として働いていたという。 彼女が3歳の時に、父親の仕事の都合で一家はサスカチュワン州にあるメイドストーン村に引っ越し、6歳の時に同州のノースバトルフォードへと移り住んでいる。 「私たち家族はノースサスカチュワン川とバトルフォード川が合流する川岸の町で暮らしたの。そこで過ごした日々は本当に素晴らしかったわ。自然豊かな森で木登りをして遊んだり、平原をかけまわったり、田舎道で自転車をこいだりしていたわ。」 7歳の誕生日会の時に、初めてエディット・ピアフの「谷間に三つの鐘が鳴る」を聴いた彼女は、両親にピアノが弾きたいとせがむ。 しかし、レッスンに通い始めたのはよかったが…ピアノ教師の指導がとても厳しくてすぐにやめてしまったという。 9歳になった彼女は、カーク・ダグラスが出演していた映画『三つの恋の物語』を観て、その挿入歌に使われていたセルゲイ・ラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」を気に入り、音楽の虜になっていく。 1953年、彼女が10歳の時にカナダで感染症のポリオ(急性灰白髄炎)が大流行する。 多くの子供達と同じように彼女も感染してしまい…長い入院生活を送ることとなる。 この病気で彼女の脊椎は前方右側にねじ曲り、立ち上がることすら難しい状態だった。 ポリオ患者に対して当時はまだ酷い苦痛を伴う物理治療法が施されており、時には沸騰した熱湯につけた布で足を巻き上げることもあったという。 そんな辛い治療にすべて耐え抜き、彼女..
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1981年8月1日にMTVが開局して僕たちは音楽を“見た”。

1981年8月1日、MTVが開局。 1981年8月1日の午前零時過ぎ。“見えるラジオ”をコンセプトにした『Music Television』(以下MTV)の放送がスタートした。音楽ビデオを24時間流し続けるプログラムとして、アメリカの若い世代や時代の空気を変えてしまうことは必至の画期的な出来事だった。記念すべき最初のビデオクリップ(※)がバグルスの「Video Killed the Radio Star」だったことは、今や洒落た伝説だ。 これによって、まずMTVが観たいからCATVに加入するという現象が起き始める。当初は田舎町から始まった動きが、1983年にはNYやLAといった大都市でも開局に至った。 音楽を取り巻く環境でも当然マーケティングは変わる。レコード会社にとってMTVは、新たなプロモーションメディアに位置づけられた。売り出したいアーティストがいたら地道に各地をツアーで回るようなリスクや時間を取らせなくても、印象的なビデオクリップさえ制作すればそれ以上の効果が素早く期待できるようになったのだ。 特にデジタル機材を活用したポップなサウンドと華やかなヴィジュアル性に富んだ英国の若手アーティスト(デュラン・デュランやカルチャー・クラブなど)がその恩恵を受けた。彼らがヒットチャートを独占するいわゆる「第二次ブリティッシュ・インヴェイジョン」と呼ばれる動きは、MTVならではのムーヴメントだった。 音楽は、それまでの聴くものから“観るもの”へとシフトチェンジする。画面の中で軽快に喋ったりクリップを紹介したりするビデオ・ジョッキー(マーク・グッドマン、J.J.ジャクソン、ニナ・ブラックウッドなど)がMTV黄金期のムード形成に果たした役割も忘れてはならない。音楽を視覚的に流すという拡散力は凄まじく、MTVは若者文化/ポップカルチャーの主役に一気に躍り出た。 MTVは音楽業界の仕組みを変えていった。 誰もが作り方自体を模索していたビデオクリップにも、1980年代中頃になると次の段階がやって来る。知名度の高いアーティストを中心にそれまでの宣伝ツールから、“作品主義”として転化する動きが本格化。例えば、マイケル・ジャクソンの「スリラー」は約15分にも及ぶ映像作品で、それは当然のように莫大な制作費が投下されていた。 もはやライブやステージでの演奏を単に撮影するだけでは視聴者は満..
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死刑台のエレベーター〜夜の街に漂うマイルス・デイヴィスのトランペットと完全犯罪の崩壊

『死刑台のエレベーター』(Ascenseur pour l’échafaud/1957) もう耐えられない……愛してる。だからやるのよ。離れないわ。 私もそこにいる。あなたと一緒なのよ。 ジャンヌ・モローの顔が画面いっぱいに映り、そんな台詞が囁かれる。彼女は公衆電話ボックスの中で受話器を握っている。すると今度はモーリス・ロネの緊迫した表情に切り替わる。彼はパリの街並みが一望できるオフィスの片隅で受話器を握ったまま、こう囁き返す。 愛してる……今は君の声だけが頼りだ。 愛し合う自分たちのために、この後完全犯罪へ向かって動こうとする男と女の直前の会話。そこにマイルス・デイヴィスのクールなトランペットが鳴り響く。 こんなにもスタイリッシュで色っぽい始まり方をする作品は、あらゆる映画の中でも『死刑台のエレベーター』(Ascenseur pour l’échafaud/1957)以外はすぐに思いつかない。ヌーヴェル・ヴァーグの先駆けとも言われる本作を監督したのは、当時弱冠25歳のルイ・マル。 たった1年の現場経験しかない新人監督がいきなり長編デビュー。しかも有名スターやミュージシャンを起用できたのは、ルイ・マルが大実業家の富豪の息子であり、父親からの莫大な援助によって実現したというのは有名な話だ。だがそんなことは抜きにして、これほど音と画の調和が全編に渡って整った作品も珍しく、その鋭い映像感覚はあまりにも衝撃的だった。 幼い頃から映画や音楽をはじめとする多くの文化に深く触れることができたマル監督は、同時期のトリュフォーやゴダールのようにカイエ・デュ・シネマ派の批評や理論とは向き合わず、初めから制作の人だった。運動に参加するというより、ただ作家として作品を創りたかっただけらしく、だからヌーヴェル・バーグの旗手のように扱われることを嫌ったという。 『死刑台のエレベーター』は3楽章の音楽に見立てて作ったと言われている。つまり、ジャンヌ・モロー、モーリス・ロネ、若いカップルという三者の時間の流れだ。決して出会わない関係でありながらも、マイルス・デイヴィスの静と動を使い分けたトランペットがそれぞれの登場人物の心象風景を繋げていく。 モダン・ジャズとフランス映画が最高の形で結びついたことによって、『死刑台のエレベーター』は“シネ・ジャズ”の出発点、最高傑作にもなった。数年の間で..
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ダーティ・ダンシング/ミーン・ストリート〜史上最高のラブソング「Be My Baby」

『ミーン・ストリート』(Mean Streets/1973) 『ダーティ・ダンシング』(Dirty Dancing/1987) これから観る映画のオープニングに、期待に胸躍らせる人は多いと思う。 ──長い予告編が終わってスクリーンが広がり、映画会社のロゴマークが現れていよいよ本編が始まる。これから映し出される物語の入口。観る者の心の鼓動を左右する大切な数分間。 そんな中、誰だって釘付けになるような、ひときわ印象的なオープニングを放つ映画がある。その余韻が次のシーンになっても呼吸していて、全編に渡って一貫したスピリットを与えている。 今回紹介したいのは、ジャンルはまったく違うのに奇しくも幕開けに“同じ曲”を使用した映画2本。その曲があったからこそ、長く語り継がれるような作品になっているかもしれないほど、そのオープニングのインパクトが余りにも大きい。曲と場面が完璧に溶け合っていて、何年経っても何度観ても胸が熱くなってしまう。 スコセッシ監督の音楽センスが光る『ミーン・ストリート』 まともに暮らそうと心の葛藤に苦しむチャーリー(ハーヴェイ・カイテル)と、その親友で酒・女・ギャンブル・借金とトラブル続きの日々を送るジョニーボーイ(ロバート・デ・ニーロ)のどうしようもない友情を軸に、チンピラな青春模様を“みすぼらしい街角”を舞台に描いた『ミーン・ストリート』(Mean Streets/1973)。 監督はあのマーティン・スコセッシで彼自身の自伝的作品。デ・ニーロとの黄金コンビの記念すべき第1作目となる。本作によって二人の輝かしい70年代のキャリアがスタートした。 物語は、チャーリーが暗闇の夢から目覚めるところから始まる。薄汚いアパートのチープなベッド。映像的には暗く決して美しいものではない。だが、チャーリーが物思いに耽るように再びベッドに倒れ込んだ瞬間、あの「ドッ・ドドッ・ドッ」という世界一有名なドラム音が響く。フィル・スペクター不滅の名曲として知られるロネッツの「Be My Baby」だ。 そこから手持ちのカメラで撮らえた、リトル・イタリー街の人々と主人公チャーリーとの交流フィルムをバックにクレジットが流れていく。聴こえるのはストリングスの調べ、甘美な声とコーラス、極上のポップなラブソング。はっきり言って世界観は一致していない。でも、そこが痺れる。 大編成のミュージシャ..
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ジミー・ペイジ27歳〜築200年の石造建物でのレコーディング、前代未聞の“無題アルバム”を発表

ジミー・ペイジといえば…1970年代に“最も成功したロックバンド”レッド・ツェッペリンの中核を担ったギタリスト兼リーダーである。 若い頃からアートスクールとの二足の草鞋でセッションギタリストとして活躍し、ジョー・コッカーのバックバンド、ニコのプロデュース、ザ・フーのレコーディングへの参加、ヤードバーズへの加入を経て、1968年にレッド・ツェッペリンを結成する。 1971年1月9日、彼は27歳の誕生日を迎えた。 その頃バンドは、4枚目となるアルバムのレコーディングに突入した矢先だった。 デビュー以来、3年間に3枚のアルバムを連続でヒットチャートに叩き込み、コンサートでは世界中で興行記録を塗り替えていた彼らは、これまでの作品を凌ぐものを作りたいという野心を燃やしていた。 ジミーは当時のことを鮮明に憶えているという。 「まずはロンドン西部にあるアイランドスタジオでのセッションから始めた。その後、3rdアルバムで使用したヘッドリィ・グランジにローリング・ストーンズの車載スタジオを借り入れて録音をスタートさせた。一流エンジニアのアンディ・ジョンズを雇い、築200年の石造建物を世界最大級のレコーディングブースに作り変えたんだ。俺達が目指したのは、従来のレコーディングスタジオから作られるサウンドじゃなかったんだ。四角い部屋の標準的な響きじゃ嫌だったから、アンプやマイクを階段口や戸棚など、家のあちこちに動かして新しいレコーディング空間を作りだしたんだ。それは間違いなく聴き手の潜在意識に影響をおよぼすことなんだ。それは俺達が1stアルバムのころからずっと展開してきたアイディアなんだけどね。ヘッドリィでの作業でさらに“次の階段”に進むことに成功したんだ。」 そこはロンドンから2時間ほど離れたイングランドのハンプシャー州ヘッドリィ村にある古い建築物だった。 1795年に近隣教区の救貧院として建てられたという。 19世紀後半から個人所有の邸宅となり、数度持ち主を変え、1961年から空き家となっていた。 旅行者や学生のための宿泊施設として利用されながら、それまでフリートウッド・マックなどがリハーサルスペースとして使用していたこともあった場所である。 豪勢というにはほど遠かったが、野趣溢れた雰囲気はジミーの好みだったという。 「古い古いその建物には、何か“気配”があったんだ。普通の快適な暮..
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