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卒業写真〜ユーミンが実体験を重ねた歌詞に登場する“あの人”の正体とは!?

悲しいことがあると開く革の表紙 卒業写真のあの人はやさしい目をしてる 数多の“卒業ソング”がある中、45年以上に渡って愛されつづけてきた歌がある。 今日は1975年に荒井由実(現・松任谷由実)が発表したアルバム『COBALT HOUR』の中に収録された名曲「卒業写真」にまつわるちょっと素敵なエピソードをご紹介します。 もともとは同時リリースされたハイ・ファイ・セットのデビューシングルとして書き下ろされたというこの楽曲。 聴き手の多くは自身の学生時代の恋愛の記憶と重ね合わせて聴いてきたことだろう。 だが、この曲の歌詞に登場する“あの人”とは異性の恋人や同級生ではなくユーミンが高校時代に通った美術教室の女教師だったという。 当時、高校生だったユーミンは東京芸大への進学を目指していた。 東京芸大といえば、芸術系では最高峰といわれている名門大学だ。 実家が呉服屋でもありった彼女は、ゆくゆくは着物のデザインなども手がけてみたいというのが夢だったという。 その頃の彼女は高校が終わると、美術教室に通って受験に備える日々を過ごしていた。 美術教室の先生は20代の女性。 その先生は名門大学を受験しようという彼女に対して、厳しく熱心な姿勢で指導してきたという。 「リンゴを描くんだったら、リンゴの裏側まで想像して描きなさい!表面だけじゃなく、空気も描くのよ!」 当時、その言葉の意味が理解できなかった彼女は「は~い」と軽い返事を返していた。 正直なところ、彼女にとって好きな先生ではなかった。 それでも、東京芸大という大きな目標のために彼女はこの教室で絵を描き続けていた。 「荒井さんいい? 描けなかったら自分のスタイルが見つかるまで描きなさい。画家の自叙伝なんかも読むといいわね。」 先生は彼女を芸大に入学させるために、ただただ一所懸命だったのだ。 そんな先生の気持ちを少しずつ理解するようになった彼女は、色んな画家たちの自叙伝や評論なども読むようになったという。 それは彼女の画力にもいい影響を与えていたという。 そんな日々の中で自信をつけた彼女は、いよいよ受験に臨む。 結果は…不合格。 公衆電話から涙声で先生に結果を知らせた彼女。 「とにかく今から来なさい。」 その日、先生は教室まで彼女を呼びだして、こんな言葉で励ましたという。 「来年も受ければいいじゃない。一緒に頑張りましょう!」 東京..
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パーマネント・バケーション〜学費を注ぎ込んで卒業し損なったジャームッシュのデビュー作

“デビュー作”──なんていい響きだろう。想いがカタチになること。世に放たれること。それは多くの作り手にとって“特別な瞬間”でもある。傑作であるか否かが問題ではない。ミュージシャンや小説家が最初の作品を生み出したという事実に、何だかゾクゾクしてしまう。 これが金の掛かる映画の世界となると、自腹を切ったり借金してまで作り上げる人も珍しくなく、情熱や熱狂こそが「ものづくりの真髄」だと改めて思う。そういう意味で個人的に真っ先に思い浮かぶのがジョン・カサヴェテスの『アメリカの影』。そして今回取り上げるジム・ジャームッシュの『パーマネント・バケーション』(Permanent Vacation/1981)だ。 アクロンにいる時はいつも自分がストレンジャーのように感じていた。ところがニューヨークに来てみると、自分がよりストレンジャーに思えた。僕はニューヨークが大好きだ。 監督のジム・ジャームッシュは、17歳でニューヨークに出てバンド活動を開始。デル・ビザンティンスを結成する。その後、作家を志すためにコロンビア大学文学部へ入学。故郷の中西部の工業地帯(オハイオ州アクロン)では映画はあまり観ていなかったが、1974年にパリに9ヶ月滞在した時にゴダールや小津安二郎といったヨーロッパや日本人の映画作家を発見。同時にサミュエル・フラーなどのヒップなアメリカ映画にも触れた。 ニューヨークに戻ったジャームッシュは、作家として物語を綴り始めるが、それが極めて視覚的なものに変化したことを自覚。1975年になるとニューヨーク大学大学院の映画学科へ再入学する。ここで師となる伝説のニコラス・レイ監督と出逢い、助手を務めることになった。二人は演技、演出、シナリオなど映画のすべてを語り合った。 そして援助金や借金などで1万2000ドルを作り、卒業制作として『パーマネント・ヴァケーション』という16ミリを撮影。だが、卒業はしそこなった。最終学期の学費も注ぎ込んでいたからだ。 主人公の少年は社会に順応できない他の人々との奇妙な出逢いに流れ入り、あるいはそこから流れ出たりする。彼は絶えず動いている。自分を追いかけてくるようなものに対してそれが何であれ、いつも少しだけその一歩先を動いている。 アロイシユス・パーカー(クリス・パーカー)は、学校や家族、仕事とも縁のない16歳。眠れない彼は、気まぐれにニューヨーク..
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アルバム復活の時代は来るのか?〜世界のベストセラーアルバムリスト

2015年グラミー賞の授賞式で、今は亡きプリンスが「“アルバム”って覚えてる?」と皮肉を放って歓声と拍手を浴びたことがあった。【アデルの輝きと歌の力──時代を超えた1000万枚以上ベストセラーアルバムの変遷】では、CDやアルバムが以前より売れなくなった今の時代、例外的にアデルの『21』がビッグセールスを記録したことについて触れた。彼女の個人体験に基づいた失恋アルバムとも言われるその作品は、「歌の力、音楽の繋がりや物語を放つ作品は、やはり時代を超える」ということを教えてくれた。 そして、2015年11月20日にリリースされたアデルの新作『25』の初週売上が300万枚を超え、アメリカでの新記録を樹立した。「アルバム不況」と言われる現在においてこれは奇跡的な出来事だ。今回はそれに因んで世界編をまとめてみた(前回は全米編)。ここでは2000万枚以上を売った、世界中の人々に愛聴されたアルバムたちの足跡を辿りたい。 *このコラムは2015年2月24日に初回公開されたものに、下記データを更新(2021.3.1)したものです。 まずはトータルでのトップ10枚 ❶6600万枚/マイケル・ジャクソン『Thriller』(1982) *1億枚とも言われる ❷5000万枚/ピンク・フロイド『The Dark Side of the Moon』(1973) ❷5000万枚/ミートローフ『Bat Out of Hell』(1977) ❷5000万枚/AC/DC『Back in Black』(1980) ❺4500万枚/ホイットニー・ヒューストン『The Bodyguard』(1992) ❻4200万枚/イーグルス『Their Greatest Hits (1971–1975)』(1976) ❻4200万枚/サウンドトラック『Dirty Dancing』(1987) ❽4000万枚/フリートウッド・マック『Rumours』(1977) ❽4000万枚/ビー・ジーズ『Saturday Night Fever』(1977) ❽4000万枚/シャニア・トゥエイン『Come On Over』(1997) 続いては各時代別 【1950/60年代】 ●3200万枚/ビートルズ『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』(1967) ●3000万枚/ビートルズ『Abbey ..
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ニューヨーク・ストーリー〜コッポラとスコセッシとウディ・アレン夢の競作

『ニューヨーク・ストーリー』(New York Stories/1989)は、その名の通りニューヨークの街を舞台にした3本の短編からなるオムニバス映画だった。 ウディ・アレン発案のこの企画は、当初彼自身の手による短編映画3本で構成される予定だったらしいが、最終的にはアレンの他、マーティン・スコセッシ、フランシス・フォード・コッポラという偉大なる映画クレイジーたちの夢のような顔合わせになった。 ニューヨークに生まれ育ち、あるいはニューヨークを愛する3人の同世代の映画作家。1939年生まれのコッポラは『ゴッドファーザー』『コットンクラブ』で、1942年生まれのスコセッシは『ミーン・ストリート』『タクシー・ドライバー』『ニューヨーク・ニューヨーク』『キング・オブ・コメディ』『アフター・アワーズ』で、アレンは『アニー・ホール』『マンハッタン』『ハンナとその姉妹』などで、独自ともいえる自身のニューヨーク像を描いてきた。 『ニューヨーク・ストーリー』におけるそれぞれの短編も、そのアプローチは面白いほど全く異なる。だが、どれも紛れもなく“同じ街で起こっている”ことなのだ。 同じNY在住の映画人でありながら、ほとんど面識がないというアレンとスコセッシは、1997年に貴重なこんな対談を行っている。 あなたのニューヨークは僕にとって見慣れないものです。『ハンナとその姉妹』で「歯を磨かなくちゃ」とバーバラ・ハーシーが言いますが、なるほど僕もそうしてる。でもそうだとしても一体何の話だろう。まさに日常の出来事です。しかもそれはマディソンの角のどこかで、それなのに全く別世界なんです。それが僕にとってはすごく面白い。(アレンの映画を観るのは)毎回小旅行の気分です。(マーティン・スコセッシ) 僕はニューヨークを描こうとは思わない。もし僕がそこに住んでなくて、家での快適な生活、家の近くで働くことだとかを望んでいたとしたら、どこで映画を撮っていてもおかしくはないんです。そんなこと気にしてないから。でもニューヨークにいると気が楽なんです。(ウディ・アレン) ちなみに『アニー・ホール』では、ニューヨークを愛する主人公が仕事でロサンゼルスに出向くと、体調が悪くなっていき精神が病んでいたのが印象的だったが、スコセッシにもハリウッドでのエピソードがあった。 1970年代のほとんどを実はロサンゼルスで過ごした..
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これが本当の80年代サウンド⑭〜忘れられたヒット曲にもう一度スポットライトを

80年代の洋楽をまとめたネットコンテンツやラジオ番組や雑誌には、いつもお決まりのアーティストやヒット曲だけがラインナップされている。それは同時代のコンピレーションがリリースされても同じこと。今回の企画はそんなありきたりの選曲ではなく、聞くだけで(観るだけで)「ああ! いた!! あった!!」と歓喜するようなアーティストやヒット曲を思いつくままに集めてみた。題して「これが本当の80年代サウンド」。そろそろマドンナやマイケル・ジャクソンの呪縛から解放されよう。ドライブや通勤タイム、懐かしの音源探しに活躍すること間違いなし。(選曲/中野充浩) リチャード・マークス「Don’t Mean Nothing」(1987年/全米3位) 1987年からわずか3年の間に、3つのナンバーワン・ヒットと4曲のトップ5ヒットを放ったリチャード・マークス。ライオネル・リッチーやケニー・ロジャースとの仕事で鍛え上げ、満を持してのデビューだった。当時はAORファンからも支持が高く、バラード歌手として日本の女性からも人気があった。94年の「Now and Forever」が最後のヒット。その後、ソングライターやプロデューサーとして活躍の場を移すが、自身のアルバムもコンスタントにリリースし続ける。 ジュース・ニュートン「The Sweetest Thing (I’ve Ever Known)」(1981年/全米7位) 70年代半ばにジュース・ニュートン&シルヴァー・シュプールとしてデビュー。しばらくは不遇の時代を送ったが、1981年に「Angel of the Morning」(4位)、「Queen of Hearts」(2位)、そしてこの曲が立て続けにカントリーチャートとポップチャートでクロスオーバーする特大ヒットを記録。一躍注目を集めた。メランコリックな歌声が活かされた名曲だ。 ネイキッド・アイズ「Always Something There to Remind Me」(1983年/全米8位) この「僕はこんなに」と続く「プロミセス・プロミセス」が連続してアメリカでヒットした彼らは、イギリス出身のシンセポップデュオ。いわゆる「第2次ブリティッシュ・インヴェイジョン」の波に乗って束の間の人気を博した。80年代前半から半ばは、この種のUK/ニュー・ウェイヴ系バンドがチャートを駆け上がることが珍しく..
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これが本当の80年代サウンド⑬〜忘れられたヒット曲にもう一度スポットライトを

80年代の洋楽をまとめたネットコンテンツやラジオ番組や雑誌には、いつもお決まりのアーティストやヒット曲だけがラインナップされている。それは同時代のコンピレーションがリリースされても同じこと。今回の企画はそんなありきたりの選曲ではなく、聞くだけで(観るだけで)「ああ! いた!! あった!!」と歓喜するようなアーティストやヒット曲を思いつくままに集めてみた。題して「これが本当の80年代サウンド」。そろそろマドンナやマイケル・ジャクソンの呪縛から解放されよう。ドライブや通勤タイム、懐かしの音源探しに活躍すること間違いなし。(選曲/中野充浩) ビリー・アイドル「Rebel Yell」(1984年/全米46位) ジェネレーションX解散後、渡米したビリーは1982年にソロデビュー。翌年には相棒のギタリスト、スティーヴ・スティーヴンスと共作したセカンドが大ヒットする。これは最初にシングルカットされた曲。まさにビリー・アイドルの世界だ。なお、同アルバムからは「Eyes Without a Face」のヒット(全米4位)も生まれた。余談だが、1998年の映画『ウェディング・シンガー』に出演している。 リタ・フォード&オジー・オズボーン「Close My Eyes Forever」(1989年/全米8位) ランナウェイズの二人のギタリストといえば、ジョーン・ジェットとリタ・フォード(少女たちのストーリーは2010年の映画『ランナウェイズ』に詳しい)。バンド解散後、リタは1983年に初ソロ作をリリース。続くセカンドもチャート・セールス両面振るわなかったが、サード作からこの曲と「Kiss Me Deadly」(全米12位)がヒットして、彼女の名前を久しぶりに聞くことになった。帝王オジーとのデュエットだ。 リンダ・ロンシュタット&ジェームス・イングラム「Somewhere Out There」(1986年/全米2位) 忘れられた名曲の代表格。スピルバーグ製作総指揮のアニメ映画『アメリカ物語』の主題歌としてヒットしたこの曲は、日本では当時FM番組「アメリカントップ40」で紹介されていたことを思い出す。寒い季節に流れてくるリンダの歌声。これは旅立ちの歌だ。デュエット・ソングとしても超一級作。知らない人はぜひ聴いてほしい。 エクスポゼ「Seasons Change」(1987年/全米1位) ..
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春を想う歌・後編 〜イルカのなごり雪

1975年、かぐや姫は解散することとなる。 このとき「イルカに“なごり雪”を是非歌わせたい」と名乗り出たのがイルカの夫・故神部和夫だった。 イルカは19歳で神部と結婚、夫婦でデュオを組んで活動していた。 1974年、当時24歳だったイルカはソロ活動を始め、神部はプロデューサーとしてイルカを支えた。 イルカとかぐや姫といえば、イベント等のステージで一緒に歌ってきた音楽仲間でもあった。 だが、彼女は「なごり雪」を歌うことにためらいがあった。 かぐや姫の名曲を今の自分では恐れ多くて歌えない…と。 しぶしぶ連れて行かれたスタジオで、伊勢は彼女にこう言ったという。 「なごり雪」が好きなら歌えばいい。 僕はうれしい、好きなように歌えばいい。 彼女は伊勢の言葉に背中を押されながらマイクの前に立った。 歌うつもりはなかったから、ちゃんと練習をしていなかったという。 そして意を決した彼女は、音符ではなく言葉(歌詞)を追って心を込めて歌った。 後で聴くと原曲の「きれいになった」が「きれいにーなった」と1拍分多くなっていた。 イルカの「なごり雪」の誕生であった。 伊勢が生み、イルカが育て、そして「なごり雪」は日本を代表するフォークソングとなった。 大人になってゆく少女との淡い別れを歌ったこの名曲は、時代を超えて“春の定番”の歌となった。 <前編 〜伊勢正三のなごり雪〜はコチラ> ♪「なごり雪」/イルカ 時は流れ…2002年、この歌のたった1拍の違いに注目した映画監督がいた。 大林宣彦である。 大林は伊勢が作った「なごり雪」をモチーフに同名の映画を作り上げた。 伊勢の出身地からほど近い大分県臼杵の古い街並みが残る二王座でのうすき竹宵や、臼杵磨崖仏での石仏火祭りなど、臼杵各地で撮影が行われたほか、大分市や旧宇目町(現佐伯市)でもロケが行った。 登場人物のセリフとして「なごり雪」の歌詞をそのまま使うという実験的な試みにもトライした。 この映画を作るにあたって大林が選んだキーワードは“断絶”だった。 「君はきれいになったが、もう僕とはいっしょにはいない」断念の気持ちだという。 そして大林は、伊勢が歌う1拍少ない「なごり雪」にこだわった。 1970年代の日本は高度成長時代。モノとカネがあれば幸せになれると人々は信じた。 しかしモノとカネを得た代わり失ったものも大きいと大林は映画で表現した。 ..
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春を想う歌・前編 〜伊勢正三のなごり雪

♪「なごり雪」/かぐや姫 1974年、かぐや姫の代表作となったアルバム『三階建の詩』に収録されたこの「なごり雪」。 翌年、伊勢正三が作詞作曲をしたこの曲をイルカがカヴァーし、1976年のオリコンの集計で55万枚近いセールスを記録した。 今春が来て君は きれいになった 去年よりずっと きれいになった このフレーズを一番先に思いついたのだと、伊勢はあるインタビューで語っている。 春が待ち遠しいこの時期…淡く切ないメロディと歌詞のリフレインと共に、ほろ苦い青春時代の思い出や、旅立ちの日の記憶に浸る人も少なくはない。 1973年の秋、かぐや姫は「神田川」をリリースし、自己最大のヒットを飛ばしながらも…歌詞変更の要求によるNHK紅白歌合戦の出場辞退や、楽曲の映画化を巡ってレコード会社とのトラブルを抱えていた。 そんな中、リーダーの南こうせつが、かぐや姫の活動を“3階建”にしようと提案した。 “3階建”とは、それまでのワンマン体制ではなく“3人が対等に活躍する”という意味だった。 伊勢も作詞作曲を担当することになったのだ。 それは伊勢にとって初めてのチャンスだった。 伊勢は大分県津久見市の出身、高校は大分市の大分舞鶴高校。 応援団の勧誘を逃れるためとっさに入ったクラブが音楽部だった。 そのクラブの部長が南だった。 大分舞鶴高校は当時遠隔地の生徒のための寮があり、週末は自宅の津久見へ帰る生活だったという。 しかし伊勢は厳格な校風になじめず、日曜の夜、汽車で寮に戻るのが嫌でたまらなかった。 地元の友人や、恋心を抱いていたガールフレンドとのホームでの別れがつらかった。 このときの“気持ち”がモチーフとなり「なごり雪」に繋がったという。 しかし、この歌はその後意外な展開を見せる。 動き始めた汽車の窓に顔をつけて 君は何か言おうとしている 君のくちびるが「さようなら」と動くことが こわくて下を向いてた 【伊勢正三オフィシャルサイト】 http://www.ise-shozo.com/ かぐや姫『KAGUYAHIME Best Dreamin‘』 (2010/日本クラウン) iTunes Amazon こちらのコラムの「書き手」である佐々木モトアキの音楽活動情報です♪ 宜しくお願い致します。 【山部“YAMAZEN”善次郎×佐々木モトアキ ダブルネーム弾き語りTOUR “..
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トレインスポッティング/ドラッグストア・カウボーイ〜英米ジャンキーたちの末路

ジャンキー(いわゆる薬物中毒者)を主役にした英米産の映画はこれまで数々と製作されてきたが、良質な作品に共通するのは、例外なく登場人物が悲惨な風景の中を彷徨うことになるという点だ。今回はそれを象徴した2本の作品を比較紹介したい。 まずはアメリカ。『ドラッグストア・カウボーイ』(DRUGSTORE COWBOY/1989)は、ガス・ヴァン・サント監督の35㎜デビュー作として知られる伝説的な作品。公開当初はマット・ディロンやケリー・リンチのイケてるヴィジュアルもあって、日本ではストリート/ファッショナブルな扱いをされたが、今観直してみると、けっこうヘヴィーな内容だ。 ボブ(マット・ディロン)とその妻ダイアン(ケリー・リンチ)は、自分たちが楽しむためのドラッグを手に入れるために、時々薬局を襲ってはアパートやモーテルを転々としている夫婦。幼馴染みのリックも仲間で、最近は若い彼女のナディーンも一緒に行動している。大抵のジャンキーはドラッグを買う金欲しさに宝石強盗をするが、彼らはどうせやるなら直接と、薬局(ドラッグストア)ばかり狙っている。 舞台は1971年のオレゴン州ポートランド。ロックの世界で言えば、ローリング・ストーンズが「Brown Suger」をリリースした頃だ。ボブたちは警察に目をつけられていて、その夜ガサ入れを喰らう。ボブは異常にジンクスに拘る男で、その一つに「ベッドに帽子を置くな」があった。 だが、新米で仲間外れ意識を抱いたナディーンは、ベッドに帽子をワザと置く。その日、珍しくドラッグ入手に失敗したボブが目にしたのは、モーテルでドラッグ過剰摂取が原因で冷たくなったナディーンの姿だった。しかもモーテルは地元警察の集会に使われる日で、窓の外はパトカーだらけ。死体を運び出すボブは、この時人知れず心に誓う。 どうかこの死体を無事に埋めさせてください。ブタ箱は勘弁です。この願いを聞いてくれたら、感謝の印に田舎へ帰ってカタギになります。 願いが叶ったボブはダイアンと別れて、薬物中毒更生プログラムに参加。工場で働きながら真面目に金を稼ぎ、荒んだ暮らしを改める。しかし、再会したダイアンとやり直す気持ちを告白した矢先、顔馴染みだったゴロツキにあっけなく撃たれてしまう。ボブは自分の身体が運ばれる救急車の中で、迫り来る死を前に「俺は生きていたい」と想う。 服役していたジェームス・フ..
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ニーナ・シモン27歳〜一夜にして彼女をスター歌手にした伝説のコンサート、その後一変した生活

1959年9月12日、当時26歳だった彼女はニューヨークのTown Hallで初のホールコンサートを成功させる。 それまでクラブでの活動が中心だった彼女にとって、このステージは大きな転機となった。 「その日、私は舞台袖から満席になった客席を見渡したわ。観客はきちんと並んで席に付き、飲み物のグラスを手にした人など一人もいなかった。煙草売りの女の子がステージの前を横切ることもない。これまでやってきたグラブでの仕事は、すべてこの日のためのリハーサルだった。何年もかけて経験を重ね、確固とした自信が持てる演奏テクニックとステージでの振る舞い方は身につけていたわ。」 当時彼女が所属していたコルピックスレーベルは、その日のステージをライブアルバム『Nina Simone at Town Hall』として発売した。 彼女はこのコンサートによって絶賛され、一大センセーションを起こしたのだ。 「まるで映画のストーリーのように、私は一夜にしてスターになった。」 翌1960年2月、彼女は27歳を迎える。 あのTown Hallでのコンサートから約5ヶ月間、様々なマスコミが彼女を取り上げ、街を歩けば声をかけられ、アメリカ中からコンサートの依頼が殺到した。 彼女がそれまで作ってきたレコードはヨーロッパでも発売された。 「確かにあの夜の客席の反応はいつもと違っていたわ。何年もステージの仕事をしてきたけれど、あんな大喝采は初めてだった。」 伝説となったTown Hallでのコンサート以降、音楽評論家たちは彼女の音楽がどのジャンルに属するのか議論し始めた。 クラシックピアノの技術を用いてポピュラーを演奏し、そこにナイトクラブでの経験で得たジャズのテイストを織り交ぜていた彼女の音楽。 さらに黒人霊歌や、当時頭角をあらわしていたフォークミュージックも歌っていたのだから…議論は尽きなかった。 結局、彼女は“ジャズのようなものを歌う歌手”として分類されることとなった。 「私にとってジャズとは生き方だった。あるいは歩き方、話し方、考え方、行動のとり方、アメリカの黒人がする全てのことを意味するものだった。その点では私をジャズシンガーと呼んでも問題なかったけど、他のあらゆる点で私はジャズミュージシャンではなかった。」 彼女の身辺は劇的に変化していった。 頻繁にツアーに出るようになり、新しいアルバムの..
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Drift Away〜自由!さすらい!ロック黄金期を讃える歌

さあビートをくれ!俺の魂を自由にしてくれ! ロックンロールの海に溺れ、さすらいながら流れていくんだ! 「自由!さすらい!ロックンロール!」 古き良きロック黄金期を象徴するようなフレーズが歌のサビで繰り返される名曲「Drift Away (明日なきさすらい)」は、70年代〜80年代に多くのアーティスト達がコンサートで取り上げた“ロックンロール讃歌”だ。 1972年にメンター・ウィリアムスが作詞作曲し、同年に“スワンプロック”の雄ジョン・ヘンリー・クルツがアルバムに収録したものが初出となった。 メンター・ウィリアムスと言えば、ロジャー・ニコルスと組んで数々の名曲を残したポール・ウィリアムスの弟であり(The Holy Mackerel“ホリー・マッケレル”では兄弟で在籍)、黒人カントリーアーティストのドビー・グレイやキム・カーンズらを手がけたカントリー界の名プロデューサーでもある。 彼はA&M、MCA、RSO、CBSなど大手のレコード会社と契約し、ロッド・スチュアート、ローリング・ストーンズ、ウェイロン・ジェニングス、リンゴ・スターetc.に曲を提供している。 ところで前出の“スワンプ”という言葉にどんな意味があるのだろうか? それはアメリカ南部の“湿地帯”を指す言葉で、R&B、ブルース、カントリー、ゴスペルなどアメリカ南部をルーツとした音楽をごった煮にしてできた泥臭いロックを“スワンプロック”という。 そんなバックボーンから生まれた「Drift Away (明日なきさすらい)」を1973年にドビー・グレイが歌い、全米ビルボードチャート5位という大ヒットを記録した。 後にこの“ロックンロール讃歌”は、ロッド・スチュワート、ブルース・スプリングスティーン、ロイ・オービソン、レイ・チャールズ、ドゥービー・ブラザーズ(タイトルが「Give me the beat, boys」)、ボン・ジョヴィ、そしてローリング・ストーンズ(海賊盤track from the “It’s Only Rock & Roll” sessions 1974に収録)といった大物アーティスト達から挙ってカヴァーされ、世界中のロックファン達に愛されることとなる。 心が自由なら メロディが胸を揺さぶる 憂鬱な時は ギターの音が慰めてくれる こちらのコラムの「書き手」である佐々木モトアキの音楽活動情報..
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ナインハーフ〜ミッキー・ロークとキム・ベイシンガーが演じた“9週間半”の男女関係

日本の都市で暮らす紳士淑女たちが札束とかくれんぼしたり、消費という名のパーティ・デイズに明け暮れたバブル時代──。 男と女はスタイリッシュな出逢いやゲーム感覚の恋愛を気にかけるようになり、それに紐づくファッションやレストラン、住空間と健康管理、音楽やアートといった情報にやたらと詳しくなっていた。彼ら彼女らが一番恐れたこと。それは流行に遅れてしまうことだった。 『ナインハーフ』(NINE 1/2 WEEKS/1986)はそんな時代の幕開けに日本で公開された。この映画で描かれたのは、まさに享楽的で虚飾的な男女関係における重要なコミュニケーション=セックス。 都市生活を謳歌する怖い者知らずの若い世代が見逃すはずがない。中でも、氷を身体の上で滑らす「ナインハーフごっこ」が話題になった。ハリウッド映画が日本のポップカルチャーに及ぼす影響がまだ強かった頃の話だ。 監督は『フォクシー・レディ』(1980)や『フラッシュダンス』(1983)で女性の目覚めや成長を描いたヒットメーカー、エイドリアン・ライン。様々な企画が持ちかけられる中、次に選んだのがこの『ナインハーフ』だった。 原作はNY在住の若い女性エグゼクティヴ、エリザベス・マクニールの『ある愛の記憶~飼われた猫のように』。本当は中年の男が書いたとされるエロティックな小説だ。監督は舞台を当時のNYに置き換え、ヤッピーとキャリアウーマンを登場させた。 原作では男が女を征服、支配するという歴史的なパターンのメタファーとして描かれているけど、映画では女は被害者ではなく、新しい目覚めの儀式に参加する、男と同格の参謀者として映るように手を加えた。物語の終わりにはエリザベス(女性の主人公)は自分で心を決めるんだ。 ストーリーはセックスに虜になった男と女の9週間半を追う。謎多き証券会社のヤンエグ(ミッキー・ローク)は「君は僕の分身だ」と言って、アートギャラリーで働くエリザベス(キム・ベイシンガー)にあらゆるエロティックを仕掛ける。時には男装や万引きを強要するが、女は戸惑いや怒りを感じながらも自己を解放するかのように受け入れていく。しかし、世話好きでサディスティックな男の要求は次第にエスカレートしていって……。 肉体関係による孤独や空虚の穴埋めは『ラスト・タンゴ・イン・パリ』のようだ。ミッキー・ローク演じるウォール街の成功者の奇行は、一歩間..
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未来世紀ブラジル〜サンバの名曲「Brazil」が流れる傑作は今の世界を予言していた!

テリー・ギリアムは『未来世紀ブラジル』(Brazil/1985)の脚本や撮影に取り組む前、あるイメージが頭からずっと離れなかったという。 誰かが石炭がらで真っ黒になった浜辺に腰掛けていると、コンベアベルトや醜い鉄の塔の向こう側には緑溢れる素晴らしい世界がきっとどこかにあるって、現実から逃避するようなロマンチックな歌がラジオから聞こえてくる。 あらゆる情報や個人のプライバシーが政府とコンピュータの支配下におかれた世界。自由を求めて巨大権力と闘いながらも、敗北して犯罪者の烙印を押されて抹殺される結末。そんな灰色の近未来を舞台にしたこの作品は、まるで我々が生きる現在の世界を描いていたかのような、予言的映画のように思える。公開から30年。『未来世紀ブラジル』が放つ“すでに起こっている”メッセージが、今心に響く。 監督/脚本は『モンティ・パイソン』シリーズのライター、テリー・ギリアム。製作費は2000万ドルで、ロケにはロンドンのスタジオ、工場や発電所、邸宅、パリ郊外の団地などが使われた(ちなみに南米のブラジルは関係ない)。映像美や風刺やブラックユーモアなども見逃せないが、この映画最大の魅力は、当初は体制側にいながらも一人の女との出逢いによって次第に反体制へと目覚めていく主人公サムの姿。ジョージ・オーウェルが描いた『1984年』の監視管理社会下での、現実と幻想が交錯する「ウォルター・ミティ」(映画『虹を摑む男』『ライフ』の原作)のような展開だ。 情報省記録局に勤務する役人サム(ジョナサン・プライス)は、亡き大臣の父と美容整形に熱中する母を持つ裕福な青年。しかし現実の仕事がつまらないので、いつも自分が空飛ぶ騎士となって天使のような美女を悪から救出するという白昼夢に耽っている。 サムが生きているのは、政府がすべてをコンピュータで管理している都市。人々が怯える一方で、反体制派はテロ行為に走って爆弾騒ぎが日常茶飯事だった。保安警察は騒音を抹殺するため躍起になる。そしてクリスマスの日。一匹のハエが原因でコンピュータにミスが起こり、“タトル”と“バトル”という人違いの事件が発生。靴職人がテロリストとして誤認逮捕されてしまう。それを目撃していたのは上の階に住むトラック運転手の若い女ジル(キム・グライスト)。 サムは誤認逮捕のトラブルを上司から相談されると、手際よくキーボードを叩いて問題を..
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ロスト・ハイウェイ〜たった1シーンに凝縮されたデヴィッド・リンチの世界

以前、デヴィッド・リンチ作品について触れた時、その独特の世界観に好き嫌いがはっきり分かれると書いた。色彩感覚溢れる映像美、拘り選び抜かれた音楽から、普通ではないクセの強い登場人物、暴力や死やセックスの表現方法まで、まさに唯一無比のリンチ・ワールドとでもいうべき時間と向き合えるかどうか。 好きな人にとっては、デヴィッド・リンチは最高の監督に違いない。小説の1ページ目から読者をがっつり引きつける作家がいるのと同じように、リンチは最初のワンカットから観る者をその強烈な世界に誘える希少な映画作家といえる。「この人にしか作れない映画」「誰にも真似できない映画」を作れる人。かといってアートフィルムと呼ぶような非商業主義でもない。 例えば『ブルー・ベルベット』『ツイン・ピークス』『ワイルド・アット・ハート』で“やられた”人は多い。言ってみれば、リンチ映画は常用性・中毒性が高いドラッグのようなもの。作品をまともに理解しようとすれば、それは虚しい努力に終わる。謎は永遠に解決されない。大事なのは全編を貫く一つの確固たるムードやイメージであり、理解や解決といった答えを求める類いではない。 デヴィッド・リンチ監督は、「映画の半分は映像で、もう半分がサウンドだ」と言い切るように、音楽をとても大事にする映画作家でもある。『ブルーベルベット』ではロイ・オービソンの「In Dreams」、『ワイルド・アット・ハート』ではエルヴィス・プレスリーの「Love Me Tender」が効果的に使われた。 音に語らせ、音を感じ取らなければならない。私は非常に多くの音楽を耳にした。その中の幾つかはこのシーンにはこの曲、あのシーンにはこれをと、語りかけてくる。なぜかは分からないけど、各々の曲はシーンをサポートし、全体をより素晴らしいものにしてくれた。 『ロスト・ハイウェイ』(Lost Highway/1997)の制作における言葉だ。突然、全く異なる人格・友人などを持ってしまう病「サイコジェニック・フーガ」(心因性記憶喪失)を取り入れたこの作品も、当然のように理解や解決を期待してはいけない。つまり、ムードやイメージを心地よく感じるためには、音楽のチカラが必要不可欠なのだ。本作ではデヴィッド・ボウイ、トレント・レズナー/ナイン・インチ・ネイルズがそれにあたる。 また、1997年といえば、あの『タイタニック』が公..
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イギー・ポップ〜狂気と覚悟の27歳

♪「Search And Destroy」/イギー&ザ・ストゥージズ この曲は、とても危険な定義を唱えている。 影響力のあるアートを作りたいのなら、健全で理性的な生活を放棄することだ。 すべてに『NO!』と言い、ブチ壊さなければいけない。 レコーディングに入る前から、俺はキャリアの終わりを覚悟した。 『この曲は俺を葬るだろう』と…。 社会に批判されることは分かっていた。 だけど、そんなことはどうでもよかった。 『作る!』と決めたんだ。 イギー・ポップは50歳を迎えた頃のインタビューの中で、当時を振り返りながらそう語った。 1973年、イギー&ザ・ストゥージズが放った曲「Search And Destroy」は、彼の代名詞となった3rdアルバム『Raw Power』のオープニング曲として収録され、リスナー達の脳天を直撃した。 この1曲が持つ影響力の凄さは、この錚々たるフォロワー達の言動を見れば明らかだろう。 プライマル・スクリームのボビー・ギレスビーは「人生を変えるほど影響を受けた曲」として挙げている。カート・コバーンは、このアルバムを「最も好きなアルバム」として公表しており、ガンズ・アンド・ローゼズもまた「自分たちのルーツ」として挙げている。レッド・ホット・チリ・ペッパーズが自分たちのライブでこの曲を十八番にしていることはロックファンにの間では有名な話だ。そしてヘンリー・ロリンズは両肩いっぱいに「Search&Destroy」と入れ墨を刻んでいるほどだ。 俺は原子爆弾の申し子なんだ! 俺は世界が見捨てた子供 探し出しては壊すだけ だれか俺を助けてくれ だれか俺の心を救ってくれ… (アムバム『Raw Power―レガシー・エディション―』歌詞カードより/2010年・ソニーミュージックエンターテイメント) その歌には危険で過激な表現が剥き出しのまま詰め込まれていた。 それは世界に警鐘を鳴らす強烈なメッセージでもあった。 割れたガラス瓶の破片の上を転げまわり、血まみれとなって救急車で運ばれるなど、当時のイギーのステージ・パフォーマンスは狂気に満ち、破滅へと向かっていた。 そして翌年、27歳になった彼は、薬物中毒に陥り※音楽活動ができない状態となってしまう。 ♪「Search And Destroy」/レッド・ホット・チリ・ペッパーズ 原子力利用の歴史は一般に、193..
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