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マレーネ・ディートリッヒを偲んで〜ナチスを嫌い、平和を願い、祖国を想い続けた大女優の歌声

1992年5月6日、マレーネ・ディートリヒ(享年90)はパリ8区にある自宅のベッドで静かに息を引き取った。 死因は肝臓と腎臓障害であったとされる。 亡くなる前の12年間はほぼ寝たきりだったという。 葬儀はフランス・パリのマドレーヌ寺院とドイツ・ベルリンの二カ所で行われ、彼女の亡骸は同年(本人の望み通り)故郷シェーネベルクで眠る母の墓の横に埋葬された。 その墓碑にはこんな言葉が刻まれている。 人生の思い出が刻まれた場所  ここに私はいる マレーネ 1901-1992 1901年、彼女はドイツのベルリン郊外シェーネベルク生まれた。 本名、マリア・マグダレーナ・ディートリッヒ。 彼女が6歳の時にプロイセン王国近衛警察士官だった父が病死する。 ほどなくして母親は軍人と再婚するが…その夫も第1次世界大戦で戦死する。 母親は働きながら彼女と姉にフランス語を習わせるなどして教育に力を入れたという。当時、ヨーロッパは第1次世界大戦後の深刻な不況下にあった。 インフレが悪化し、人々の生活は苦しくなる一方だった。 不況にも関わらず、ベルリンの街にはキャバレー、カフェ、劇場が立ち並び、享楽的な雰囲気に包まれていたという。 1919年、18歳になった彼女は国立ヴァイマル音楽学校に入学し、ヴァイオリニストを目指すが…手首を痛めて音楽家の道を断念。 翌年、演劇に転向しマクス・ラインハルトの演劇学校に入学する。 1921年、在学中だった彼女は二十歳で映画デビューを果たすこととなるが…家計を助けるために、キャバレーや劇場での仕事を選ぶ。 女優を目指してオーディションとレビュー巡業を繰り返す“下積み時代”を送っている最中に、彼女は“マレーネ・ディートリッヒ”と名乗るようになる。 この芸名は、幼い頃から自分で決めていたものだという。 女優としてのキャリアを着実に重ねていた彼女は、1928年、母国ドイツで歌手デビューを果たしている。 1930年、28歳になった彼女はベルリンの舞台に立っていたところを映画監督ジョセフ・フォン・スタンバーグに認められ、ドイツ映画最初期のトーキー(映像と音声が同期した映画)作品『嘆きの天使』に出演し、世界的に注目を集める存在となる。 大きく弧を描く細い眉に象徴される個性的かつ退廃的な美貌と脚線美には、100万ドルの保険がかけられていたという逸話も残っている。 同年、彼女は..
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スリーピースバンドの世界〜最強の“3人組”は?(中編)

4人組や5人組のイメージが強いロックバンドの世界。だが歴史を振り返る時、忘れてはならないのが3人組。今回は1960〜ゼロ年代に活躍したスリーピースバンドに絞って、思いつくままにラインナップしてみた。あなたにとって最強の3人組は? 前編に続いて中編10組を。 ★ポリス たった5枚のアルバムを残して30年以上も前に伝説となったポリス。2007年以降は再結成ツアーで復活。 Sting Andy Summers Stewart Copeland ★アウトフィールド そのポリスを彷彿とさせるサウンドで80年代半ばにヒットを放った。「Your Love」を聴けば思い出す人もいるはず。 Tony Lewis John Spinks Alan Jackman ★ニルヴァーナ グランジの顔役というだけでなく、ロックの復権を担った伝説のバンド。アメリカのロックの歴史は「ニルヴァーナ以前・以後」とまで例えられる。 Kurt Cobain Dave Grohl Krist Novoselic ★トライアンフ ラッシュと並ぶカナダが生んだ人気スリーピース。 Rik Emmett Gil Moore Michael Levine ★ビースティ・ボーイズ ヒップホップチームへ進化する前は、ビースティーズはハードコアパンクスだった。 Adam “Ad-Rock” Horovitz Michael “Mike D” Diamond Adam “MCA” Yauch ★サブライム オルタナロック時代に人気が爆発したスカパンクを代表する3人組。1996年、バンドの中心ブラッド・ノウェルが28歳で死去。 Bradley Nowell Eric Wilson Bud Gaugh ★エマーソン・レイク・アンド・パーマー オールドロック・ファンにはマストなプログレを代表する3人組。 Keith Emerson Greg Lake Carl Palmer ★キーン 2004年のデビュー作がいきなり大ヒットした英国のピアノロック・バンド。「Everybody’s Changing」は大名曲。 Tom Chaplin Tim Rice-Oxley Richard Hughes ★ミューズ 英国が誇る世界的なロックバンドとして君臨。ゼロ年代ロックの金字塔。 Matthew Bellamy C..
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オースティン・パワーズ〜90年代大ヒット映画を生んだ“あの名曲”とは?

1996年4月の昼下がりのこと。ジョン・ベルーシやエディ・マーフィなど数々の個性的なコメディアンを生み出した『サタデー・ナイト・ライヴ』出身で、映画『ウェインズ・ワールド』の大ヒットで世界的スターの仲間入りを果たしたマイク・マイヤーズは、ホッケーの練習に向かうために車を運転しながらラジオを聴いていた。 流れてきたのは1967年のヒット曲「The Look of Love」。バート・バカラック作曲、ハル・デヴィッド作詞、ダスティー・スプリングフィールドが最初に歌ったポップス・スタンダード。 1963年生まれのマイヤーズはそれから記憶の数々を楽しみながら、自分にとって大切なものが次々と蘇ってくる経験をしたという。そしてこの瞬間を映像化しようと思いつき製作したのが、自ら主演(1人2役)・脚本を担当した『オースティン・パワーズ』(Austin Powers:International Man of Mystery/1997)だった。 『007』シリーズや『欲望』などの英国映画へのオマージュが溢れる中、007のパロディ『カジノ・ロワイヤル』から多大な影響を受けた作品が生まれた。スウィンギング・ロンドン時代に売れっ子カメラマンでありながら、実はスパイという裏の顔を持つオースティン・パワーズに扮したマイク・マイヤーズのコミカルな言動や仕草に、あの名優ピーター・セラーズや初期ウディ・アレンを思い浮かべる人も多いだろう。 クインシー・ジョーンズの「Soul Bossa Nova」をバックに、初期ビートルズのようにカーナビー・ストリートを追っかけの女の子たちから逃げ回る映画のオープニングから、お馬鹿ノリのコメディながらも丁寧にディティールに拘った世界観を構築しようとする情熱を感じずにはいられない。だからこそ大ヒットした。 ボンド・ガールに対抗して知的でセクシーな美女パートナーも登場し、シリーズ1作目では彼女のために脚本を想定したと言われるエリザベス・ハーレーが好演(2作目「オースティン・パワーズ・デラックス」(1999)はヘザー・グラハム、3作目「オースティン・パワーズ ゴールドメンバー」(2002)はビヨンセ)。 スターたちのカメオ出演もこのシリーズの見どころの一つで、1作目ではキャリー・フィッシャー、ロブ・ロウ、クリスチャン・スレイター、アンディ・ウォーホル(これはさすがにそっくり..
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沢田研二が27歳で挑んだ歴史的な『セブンスターショー』の映像

テレビドラマのヒットメーカーとして知られていたTBSの演出家でプロデューサーの久世光彦は、グループ・サウンズのタイガースからソロになって成功した沢田研二にすっかり惚れ込んでいた。 だからこそ時代の寵児として輝いているときに、それまでにないドラマを制作して、映像作品を後世に残そうとしたのである。 そこで飛ぶ鳥を落とす勢いがあった人気作詞家の阿久悠の力を借りて、バイセクシュアルの魅力を最大限に引きだすために、それまでにない挑戦的なドラマの『悪魔のようなあいつ』を企画した。 <参照コラム:久世光彦と阿久悠が作った沢田研二主演のドラマから生まれた「時の過ぎゆくままに」> ここで阿久悠は初めて、沢田研二のために最初の歌詞となった「時の過ぎゆくままに」を書くことが出来た。 ホリプロダクションの堀威夫と組んでスパイダースの番組を手がけていた阿久悠は、作詞家になって成功してからも、渡辺プロの仕事を依頼されることは滅多になかった。 なぜならば音楽業界的な見方としては、どうしてもアンチ渡辺プロのように見なされていたからだ。 森進一や小柳ルミ子に頼まれて作品を提供したこともあったが、それは例外的なものだった。 そのことについては本人も気にしていたらしく、後にこのように述べていたことがある。 こういうドラマ発でない限り、沢田研二との縁も考え難かったので、もしもこの機会を失していたら、その後の膨大なヒット曲も出なかったかもしれない。そう思うと得難いチャンスであった。 (阿久悠著「歌謡曲の時代 歌もよう人もよう」新潮文庫) 久世はそのドラマで経験したことをもとにして、テレビが始まって以来の画期的な音楽番組を企画する。 それが1976年2月15日から3月28日までの7週間にわたって、日曜日の19時30分~21時にオンエアされた『サンデースペシャル・セブンスターショー』である。 沢田研二はこのとき27歳、近づくとオーラがだよっていたという。 歌が好きでほんとうに歌謡曲を愛していた久世は、当時のヒット商品だった日本専売公社のセブンスターにひっかけて、1社提供によるスペシャル音楽番組を企画した。 テレビにおける歌番組にはふつう、司会進行役がいて出演者の魅力をトークと歌で引き出すのがセオリーであり、特別ゲストを迎えることも定番になっていた。 しかしそうしたセオリーや定番に逆らって、久世はほんとうの..
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5月の別れ〜陽水の唄に耳を傾けながら“詩の起源”を辿る

風の言葉に諭されながら 別れゆくふたりが 5月を歩く 木々の若葉は強がりだから 風の行く流れに 逆らうばかり 井上陽水(当時44歳)が1993年(平成5年)の3月に発表した楽曲である。 その年の春〜夏にお茶の間で流れていたキリンラガービールのCMソングとして憶えている人もいるだろう。 誰もが心躍らす5月という鮮やかな季節に“別れ”を歌う。 青空であるがゆえに、逆に悲しさが増幅される。 月や星が見える夜の情景を巧みに取り込んで心理を忍び込ませる。 実に情緒的な詩世界だ。 人間の都合とは関係なしに移り変わっていく自然の風景や時間の流れ。 どんなことがあっても、朝が来て夜が来て季節はめぐる。 何とも喩えようのない感傷的な気持ちにさせられる詩だ。 まさに「曲」を聴いているのではなく「詩」を聴いている。 そんな実感が伴う作品である。 ──そもそも「詩」とは一体何なのか? 人類はいつから「詩」を詠み「詩作」を楽しむようになったのか? 一説では「言葉」の誕生と共に生まれていたとも言われている。 それは紀元前にさかのぼる…。 「言葉」や「文字」がいつからあったのか?過去の学者や研究者たちが提唱した学術的な“言葉のルーツ”は調べれば調べるほど様々な説が複雑に入り組んでおり、現在でもはっきりとは断定はされていない。 まだ言葉や文字がなかったと推測されている時代にクロマニヨン人が描いたものと考えられている“ラスコー洞窟の壁画”をご存知だろうか? もしかするとフランス西南部で発見されたその古い壁画にも「詩」に似たようなものが秘められていたのかもしれない。 文字が生まれるとすぐに「詩」は書かれるようになったという。 その多くは叙事詩、あるいは宗教詩だった。 また「詩」は、芸術の一形式としての文字の読み書きよりも先に存在したという説もある。 古代インドの宗教文書『ヴェーダ』(紀元前1700-1200年)や、古代ペルシャでおこったゾロアスター教の開祖ザラスシュトラによる聖典『ガーサー』(紀元前1200-900年)、そして古代ギリシアの長編叙事詩『オデュッセイア』(紀元前800-675年)に至る古代の作品の多くは、前史時代や古代の社会において記憶と口頭による伝達を補助するために「詩」の形式で綴られたものが多いと言われている。 それらは文字を持つ文明の大半において“最初期の記録”の中に出現してお..
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スーパースターの沢田研二による膨大なる音楽映像の記録

日本のエンターテイメントビジネスにおいて、レジェンドと呼べる存在として筆頭にあげられるのは、1971年のソロ・デビューから50周年を迎えた沢田研二だろう。 彼はソロになる前、GSのザ・タイガースの時代から「ジュリー」の愛称で呼ばれて、若い女性の間では圧倒的に人気があった。 それから日本のエンターテイメント界において、50年間にわたってトップの座を維持しながら、休むことなく活動し続けてきたスーパースターである。 4月28日に発売されたソロ・デビュー50周年記念DVD BOX『沢田研二 TBS PREMIUM COLLECTION』を観ると、彼が成し遂げて来た活動の記録があまりにも膨大で、そのことに圧倒された。 7枚のDVDには合わせて488分、およそ8時間の映像作品が収録されていたのだ。 『8時だョ!全員集合』や『ザ・ベストテン』などの人気番組から、久世光彦がプロデュースした伝説の『セブンスターショー』、『キラリ・熱熱CLUB』などに出演した地味だが味わい深い映像、『そして毎年のように緊張を強いられた日本レコード大賞』での映像を観てわかるのは、完璧なプロフェッショナルとしての仕事ぶりであった。 常に全身を使って表現に挑む姿と真摯な心構えからは、華やかなオーラを放ちながらも、このうえもなく誠実な人物であることがわかった。 京都のバンドだったファニーズが渡辺プロダクションと契約し、1967年の2月に「僕のマリ―」でレコード・デビューしてスターになった時から、沢田研二は若い女性ファンの熱い視線をあつめていた。 しかしソロになってからは、次第に大人の男性からも注目されるようになっていった。 それはTBSの演出家だった久世光彦や作詞家の阿久悠、映画監督の長谷川和彦などのクリエイターたちが、それぞれに時代を表現するアーティストとして、沢田研二が醸し出す不思議な魅力に気づいたからだった。 ソロになって50年を迎えた2021年の春、週刊文春の4月15日号では3週にわたって、ノンフィクションライターの島崎今日子氏による連載『沢田研二を愛した男たち』が掲載された。 その書き出しはこんなふうにして始まっていた。 1960年代後半から80年代初頭。音楽やファッションが革新を遂げ、サブカルチャーが花開き、BLが生まれる。その中心には必ず彼がいた――。 BLは和製の英語で「boys’lo..
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マディ・ウォーターズを偲んで〜伝説のブルースマンと呼ばれた男の偉大な功績と足跡

ロックンロールの創始者と言われたあのチャック・ベリーは、生前にこんな貴重なエピソードを語っている。 それはまだ彼が世に出る前(デビュー前)の出来事だったという。 「ある日俺は新車の遠乗りがしたくなって、シカゴに親戚がいるという友達のラルフと2人でシカゴへとドライブしたんだ。ラルフの親戚の家でご馳走になった後、俺達はシカゴのサウスサイドのブルースの生演奏が聴けるクラブをハシゴしてまわった。そこでハウリング・ウルフ、エルモア・ジェームスのステージを観たんだ。とても感動したし!興奮して聴き入ったよ!そして、今度は憧れのマディ・ウォーターズが出演するクラブへ行ったんだ!マディは最後のセットのラストナンバー“Got My Mojo Working”を演奏中だった。演奏が終わると群がるファンをかきわけ、マディのサインを貰うために突進してくれたラルフのおかげで、俺はマディと口をきくチャンスができた。大統領か法王にでもお目どおりするような気分だった俺は、曲の素晴らしさを褒めた後、単刀直入に“レコードをつくるにはどうすればいいのか?”と訊いてみた。大勢のファンが声をかけようとひしめく中で、マディは俺の質問に答えてくれたんだ。“レナード・チェスに会ってみろ!そう47丁目とカテッジの角にあるチェスレコードさ!”俺に音楽を愛することを教えてくれた人。俺の音楽に最も大きな影響を与えた人。それがブルース界のゴッドファーザー、マディだ!」 マディ・ウォーターズから“人生を変えるアドバイス”をもらったチャック・ベリーは、その直後にブルースの名門チェスレコードとの契約を結びレコードデビューを果たす。 ローリング・ストーンズのキース・リチャーズもまた、あるインタビューでこんな貴重なエピソードを語っている。 「1964年、チェススタジオでレコーディングした時の話さ。白いオーバーオールを着てハシゴに乗っかってるおっさんを紹介されたんだ。誰だ?ってその顔を見たら、マディ・ウォーターズだったのさ!なんと!あのマディ・ウォーターズが俺達のスタジオのペンキ塗りをしてたんだぜ!どうやらチェスじゃレコードの売れない奴はどんな仕事でもしなきゃいけないようだった。俺達が何曲もカヴァーして神様だと思っている男が天井にペンキを塗ってるんだぜ!」 マディ・ウォーターズ。 1915年4月4日、ミシシッピ州ローリング・フォー..
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あの頃洋楽ファンが夢中になった“パワーバラード”の名曲②

80年代に洋楽デビューした人に捧げるこの企画。音楽雑誌のグラビア切り抜き。FMのエアチェックとカセットレーベル作り。輸入盤のジャケットの匂い。MTVを眺め続けた深夜帯。プログレハードやヘヴィメタル/ハードロックのトキメキ。 アルバムを買うと、必ず1曲は入っていたバラードナンバーを楽しみにしていた人も多いはず。今回はそんな「パワーバラード」の世界から名曲を厳選してみました。ドライブや通勤タイム、懐かしの音源探しに活躍すること間違いなし!! (選曲/中野充浩) エイリアス「More Than Words Can Say」(1990年・全米2位) シェリフとハートの元メンバーらによるスーパーグループ。と言ってもピンと来ないかもしれない。シェリフは1988年に「When I’m with You」が全米ナンバーワンになったカナダ出身のロックバンド。だがこの時既にバンドは解散しており、1982年にリリースした曲の特大リバイバルヒットだった。エイリアスのこの曲はまさにその続編的な響き。力強く美しい。まさにパワーバラードの見本。忘れられた名曲でもある。 ボン・ジョヴィ「Bed of Roses」(1993年・全米10位) 日本で人気が先行した彼らは、1986年のサード作『Slippery When Wet』で遂に全米を制覇。続く88年の『New Jersey』はデフ・レパードやガンズ・アンド・ローゼズらとチャートのトップを入れ替わり争った。4年後の『Keep The Faith』リリース時はグランジやオルタナロック全盛期。80年代に栄華を極めたHR/HMはアウトなもの、時代遅れなものとされる中、ボン・ジョヴィの信念・美学を感じさせるこの曲は本当に感動的だった。彼らの数あるバラードの中でも一番の出来だろう。 ガンズ・アンド・ローゼズ「November Rain」(1992年・全米3位) 1987年にリリースしたアルバムが次第に評判を呼び、その後1年掛りでチャートのトップに到達。80年代後半の音楽シーンは彼らの話題が絶えなかった。そして4年後に同時リリースされた新作2枚はまさに王者の風格。唯一、グランジ/オルタナ勢に対抗できたHR/HMバンドだった。この曲はガンズらしいパワーバラード大作。スラッシュのギターソロが泣ける。 エアロスミス「Angel」(1987年・全米3位) 70..
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ロックンロールがやってきた時代に生まれた西城秀樹

ロックンロールの幕開けを象徴する映画として知られるアメリカ映画『暴力教室』が、日本で公開されたのは1955年8月のことだった。 しかし子どもへの悪影響を危惧した教育団体やPTAなどから、各地で上映禁止運動が起こる。 そうした騒ぎがマスメディアに取り上げられて、ロックは日本でも社会現象に押し上げられていった。 西城秀樹の誕生日は1955年4月13日、まさにロックが日本に上陸した時代に生まれた。 やがてアメリカではエルヴィス・プレスリーがロックの代名詞のような存在になり、その影響で世界の各地で感化された若者たちがロックンロールやカントリー、ブルース、R&Bのレコードを聴くようになった。 彼らはギターを手にしてコピーし、バンドを組んで音楽活動を始めていく。 エルヴィスが全世界に認められた1956年のヒット曲は「ハウンド・ドッグ」と「ハートブレイク・ホテル」だった。 エルヴィスの影響下に育ったという意味では、ビートルズもローリング・ストーンズも、ボブ・ディランもロックの申し子たちといえる。 そして「ハートブレイク・ホテル」に心を撃ち抜かれた少年少女は、日本各地にもたくさんいた。 その中のひとり、横浜のフェリス女子学院に通っていた安井かずみは、やがて作詞家になって成功する。 1972年にデビューした西城秀樹のために、ロック衝動に満ちた「ちぎれた愛」や「激しい恋」の歌詞を書いた作詞家も、エルヴィスを通してロックの申し子になったのである。 日本でオリジナルのロックナンバーが誕生したのは、1958年から59年にかけて大ヒットした水原弘の「黒い花びら」が最初だった。 これは8分の6拍子で書かれた3連符のロッカバラードだが、1959年に制定された第一回の日本レコード大賞ではグランプリに選ばれている。 なお日本で最初のロッカバラードとなった「黒い花びら」は、その後の音楽シーンにも大きな影響を与えている。 エレキを持った若大将の加山雄三が唄った「君といつまでも」、森進一のむせび泣くような「女のためいき」、前川清のヴォーカルがダイナミックなクールファイブの「長崎は今日も雨だった」、藤圭子のブルース「圭子の夢は夜ひらく」などは、いずれも「黒い花びら」から始まった三連符のロッカバラードだ。 そんな「黒い花びら」を聴いて育ったのが、幼稚園児だった西城秀樹である。 先ごろ復刻された著書「誰も知ら..
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二人の友情〜ジョン・レノンの名盤『Rock ’n’Roll』の選曲にミック・ジャガーも関わっていた!?

1960年代、イギリスで誕生したビートルズとローリングストーングは人気を二分しながらもよきライバル関係でもあった。 ミック・ジャガーはジョン・レノンと初めて会った時に、とても謙虚さを感じたことを憶えているという。 「1963年、俺達はまだレコードを作る前で、何者でもなかった。当時、彼らはすでに超大物だった。ミュージシャンというだけじゃなく、まるでアイドルのようでね。確か革のコートを着てたよ。そう、俺達にはまだ買えなかった革のコートをね。」 その年の出来事だった。 結成してまだ間もないローリングストーンズがリッチモンドのクラブでR&Bやブルース、そしてチャック・ベリーの楽曲を中心に演奏していたある夜に(革のトレンチコートを着た)ビートルズのメンバーが突然現れて観客の傍らに立っていたという。 ミックはステージ上で彼らの存在に気がついてはいたものの、目を合わせることはしなかった。 ステージ後に、関係者から互いのメンバーを紹介される。 ミックはジョンと初めて交わした言葉を憶えていた。 ミック 「君がハーモニカを吹いているんだよね?」 ジョン 「いや、僕は君らのようには吹けないよ。吸って吹くだけ。僕達はブルースはたいしてできないんだ。」 それが初めて出会いだった。 以降、ビートルズはストーンズの演奏を聴きにやってきたという。 とくにジョンは他のメンバーよりも頻繁に現れた。 ストーンズも人気者になり始め、少しずつ距離を近めていく両バンド。 ある夜、ジョージ・ハリスンがミックに向かってビートルズがストーンズよりいかに多くのレコードを売っているか熱弁をふるった。 ミックはその時のことを鮮明に憶えていた。 「確かにそれは疑いようのない事実だったよ。ジョージはとてもそのことを強調したがっていたんだ。」 その時、ジョージの隣りにいたジョンがミックにこんな一言をかけてきたという。 「ジョージのことは気にすんなよ。こいつレコードが売れていることがまだ嬉しくてしかたないんだ。」 ミックはこのことをきっかけにジョンに好意を抱くようになった。 「俺はジョンが大好きだったよ。ビートルズのメンバーの中で一番気の合った男だった。大の親友ってわけじゃないけど、いつもフレンドリーだったよ。でもビートルズもストーンズもクラブで演奏をするのをやめると、お互いにあまり合わなくなったんだ。」 ..
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カンザス・シティ〜レスター・ヤングやチャーリー・パーカーが呼吸したジャズの街

映画『カンザス・シティ』(Kansas City/1996)は、同地を故郷とするロバート・アルトマンが監督し、少年時代に聴いていたジャズへの愛が溢れた作品。と言っても自伝的要素はなく、あくまでも独自のストーリーに徹底する。 1970年代の『M★A★S★H』『ロング・グッドバイ』『ボウイ&キーチ』『ナッシュビル』といったアルトマン作品にファンは多い。だが『ザ・プレイヤー』『ショート・カッツ』『プレタポルテ』と続く1990年代も、まぎれもなく同監督のキャリアのハイライト。本作もそんな時期に撮られた傑作だ。 物語の舞台となるのは1930年代前半のアメリカ中西部ミズーリ州、カンザスシティ。アメリカ中が大恐慌に覆われる中、この地だけは活気があった。民主党の悪徳政治のドン、トム・ペンダーガストによって街やビジネスが牛耳られる代わりに、ギャング仕切りのナイトスポットが続々開店し、至る所からジャズが響いていたのだ。 もちろん仕事を求めて腕のあるジャズ・ミュージシャンたちが集まって切磋琢磨する。こうして素朴なニューオーリンズ・スタイルとも、洗練されたニューヨーク・スタイルとも違う、リフ中心に強烈なスウィング感覚を持つビッグバンド・サウンド=カンザス・シティ・ジャズが確立していく。 その中にはベニー・モーテン楽団を引き継ぐことになるカウント・ベイシーやサックス吹きのレスター・ヤングがいた。ヤングはコールマン・ホーキンス、ベン・ウェブスターと並ぶモダンテナーの創始者であり、カンザス・シティで生まれ育ったチャーリー・パーカーの少年時代の憧れでもあった。 映画はそんなジャズが鳴り響き、選挙を前日に控えた1934年のカンザス・シティの二日間を描く。 選挙は不正が行われることは前提で、街には暴力的なムードで漂っている。そんなある日、一人の若い女ブロンディのチンピラ夫が黒人組織の金を略奪。あえなく捕まってギャングのボス(この役にはハリー・ベラフォンテがキャスティング)に監禁される。そこでブロンディは愛する夫を取り戻す材料にするため、大統領の側近の妻キャロリンを誘拐する。 しかし、キャロリンの結婚生活からはすでに愛が消えており、退廃的な生活の中でアヘン中毒者になっている。経済格差のある二人が行動を共にしていくうち、奇妙な友情のようなものが芽生える。 貧しくても「愛とは相手が自分の中にいるような気持ち..
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仰げば尊し〜昭和世代の“大定番”卒業ソングのルーツを辿る

今では世代によって卒業ソングも様々でしょうが…40代以上の人達に「卒業式に唄った曲は?」と問えば、大多数がこの「仰げば尊し」をあげるのではないだろうか? 今日はこの(明治〜昭和世代の)卒業ソングとして大定番として知られる「仰げば尊し」の誕生エピソードをご紹介します。 まず、日本においてこの歌が初めて唄われたのは、今から130年以上も前にさかのぼる1884年(明治17年)。 その年に発刊された『小学唱歌集第三編』での紹介が初出だったという記録が残っている。 当時の日本といえば、まだ音楽教育制度が十分でなかった時代。 欧米諸国から大きく遅れを取っていたこともあり、日本政府はアメリカのボストンから音楽教育者として実績のあったルーサー・ホワイティング・メーソンメーソンを招聘する。 メーソンの指導の下、西洋音楽の中から日本人に親しみやすい曲を選び、そのメロディーに日本語の歌詞を付けて、音楽教育(唱歌)の教材としたのだ。 現在でも唱歌として親しまれている「ちょうちょう」や「ふじの山」と共に、この「仰げば尊し」も明治時代に生まれた歌の一つだった。 この歌はこれまで映画やドラマでも数多く用いられており、特に木下恵介監督の名作『二十四の瞳』(高峰秀子主演/1954年公開)で生徒達が唄うシーンは、日本の映画史に残る名場面と言われている。 研究者の間でも長い間“作者不詳”とされてきたこの「仰げば尊し」。 その起源を辿ると…古いスコットランド民謡説や、前出の『小学唱歌集』を編纂した人物でもある伊沢修二(近代日本の音楽教育の第一人者)が作ったという説などがあったが、いずれも決定的な証拠がなかった。 しかし2011年1月に「仰げば尊し」の原曲が発見されるニュースが流れ、それまでの謎が解明されることとなる。 1871年にアメリカで出版された楽譜(音楽教材)に収録されていた「Song for the Close of School」という楽曲のメロディーと歌詞の内容を聴けば誰もがうなずくことだろう。 今日別れる私たちは やがて神様のお導きによってまた巡り合う この教室から旅立ち それぞれ自分たちの道をゆく 記憶の中で生きる 幼い頃の友だち 光と愛の国で 私たちは再会する さようなら古き学び舎 過ぎ去りし楽しき集い 懐かしき朝の歌声 午後の賛美歌 私たちはいつか思い出す 愛と真実の場を この教室..
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エディット・ピアフ27歳〜ユダヤ人作曲家との戦火の恋、運命のメロディーPadam Padam

稀代のシャンソン歌手、エディット・ピアフ。 本名はエディット・ジョヴァンナ・ガシオン。 1915年12月19日、彼女はパリ20区の貧しい地区ベルヴィル街で生まれた。 父親は大道芸人で、母親はカフェや酒場などで歌う歌手だった。 幼少期は孤独で、親戚から親戚へと転々とし、祖母の経営する売春宿で育てられた時期もあったという。 幼い頃から“唄うこと”が大好きだった彼女は、13歳で親戚の家での肩身の狭い生活を離れ、パリの道端で歌う仕事を選択する。 パリのあまり裕福でない地区ピゲールの路上で、観光客や住人相手に歌い続け、聴き入る人たちに使い古しの帽子をまわして生活費を得る暮らしを何年もの間続けていたという。 その小さな体で歌う姿から“ラ・モム・ピアフ(小さなスズメ)”と呼ばれたことをきっかけに、ピアフ(スズメ)という芸名がつけられた。 ──第一次世界大戦の真っ只中に生まれた彼女がやっと独り立ちをしちようとしていた頃…ヨーロッパには“次の戦争”の足音が忍び寄っていた。 そしていよいよ歌姫となって飛躍を遂げようとしていた1940年(当時24歳)といえば、パリがナチスドイツの占領下に置かれるという最悪の状況だった。 自由な言論の一切が禁じられることとなった戦火の下で、彼女はウクライナ(当時オーストリア=ハンガリー帝国領)生まれの作曲家ノルベルト・グランツベルクと出会う。 生後すぐにヴュルツブルク(ドイツ連邦共和国バイエルン州ウンターフランケン行政管区の郡独立都市)に移り住んで育ったという彼は、ピアフよりも5つ歳上のユダヤ人だった。 ドイツの大手映画会社UFA専属の作曲家・ピアニストとして活躍していた彼は、ゲシュタポの手から逃れてパリに移り住んでいた。 パリでは亡命者への労働許可書はなく、彼は危険でいかがわしい街の一角で、鉛筆や消しゴムを売りながら日々をしのいでいたという。 着の身着のままで逃亡してきた彼は、数ヶ月後にやっとの思いでアコーディオンを手に入れて、路上で演奏したり、ダンス音楽の伴奏をしたり、小さなオーケストラと共演しながら作曲を買い取ってもらったりしながら徐々に音楽で生計を立ててゆく。 場末の小さな楽団の固定メンバーとしてピアノを弾いていた時に出会ったのがピアフだった。 彼女は歌い終わるとブリキの皿をもって客席を回り、僅かばかりのチップを集めていたという。 グランツベルクは..
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ベイ・シティ・ローラーズの大ヒット曲「Saturday Night」

ロックンロールで踊り続けるんだ 土曜の夜に そう土曜の夜はね 体の奥から湧き上がるリズムに合わせて踊るのさ 土曜の夜に 土曜の夜にさ 僕はもう待ちきれないよ! 僕はデートの約束したのさ! クイーン、カーペンターズ、ビリー・ジョエル、KISS、ABBAなどなど…1970年代と言えば、魅力的で個性的なスタイルのグループやアーティストが次々と登場した時代だった。 ティーンエイジャーの少女達を中心としたファンの熱狂振りから「ビートルズの再来」とも言われたベイ・シティ・ローラーズ(スコットランド・エジンバラ出身)もまた、70年代の音楽を語る上では外せないバンドだった。 ポップなロックサウンドとタータンチェックがトレードマークだった彼らは、日本でも一大旋風を巻き起こすこととなる。 この歌がヒットしたのは、1973年に公開された映画『アメリカン・グラフィティ』(日本公開は1974年12月)のヒット後で、50〜60年代のオールディーズポップスに注目が集まっていた。 古きよき時代のロックンロールやオールディズポップスのエッセンスを備えた彼らのサウンドは、当時の若者達にとってこの上なくキャッチーなものだった。 なんでもOK!パーティさ! 土曜の夜に 土曜の夜にはね そう!土曜の夜なんだ! 今夜が土曜の夜なんだ! 1975年、彼らはこの「Saturday Night」で初の全米チャート制覇を果たす。 しかし…実はその2年前(1973年/リードボーカルはノビー・クラーク)に発売した本国イギリスでは、当時全くヒットしていなかったという。 翌1974年に、新しいヴォーカリストとして加入した甘いマスクのレスリーマッコーエンがバンドの流れを大きく変えることとなる。 レスリーのボーカルに差し替え、アメリカでシングルとして発表したところ、一気にブレイクを果たす。 首位の座にあったのがたったの1週間だけだったとは言え、同曲はゴールドディスク認定となった。 後にも先にも、彼らが全米チャートを制した唯一の曲となった。 同曲の大ヒットからさかのぼること10年… 1965年に、ベースのアラン・ロングミュアーとドラムのデレク・ロングミュアーの兄弟と4人の友人によりThe Saxonsというバンドが結成された。 彼らは1968年、Bay City Rollers(ベイ・シティ・ローラーズ)に改名..
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平成はここから始まった!〜“バブル時代”の本当のサウンドトラックとは?(後編)

バブル──今から想えば、それはとてつもなく華やかで眩しくて、余りにもワイルドで切なかったパーティのような時代。「平成の序章」とでもいうべきあの頃に戻ろうとする時、一体どんな歌が聴こえてくるのだろう? だが、音楽そのものを振り返るだけでは、この時代の音楽は決して鳴り響いてくれない。大切なのは、都市部の街を舞台に心象を描いてきた若い世代の動向を捉えること。当時、人口的にもピークを迎えつつあった若者の視点に立つことによって、ポップカルチャーとしてのバブルの本質が見えてくる。音楽が聴こえてくる。 日本中が踊り狂った“バブル”。そしてそんな時代に刻まれたサウンドトラックとは? 前編(第1〜2章)はこちらから。 ──第3章 J-POPとミリオンセラーの量産 昭和と平成の境目、1989年。多くのメディアが「さよなら80年代」特集を組む中(同年に昭和歌謡の象徴・美空ひばりが死去)、制御不能なバブル経済はさらに膨らみ続け、日経平均株価は年末には3万8915円の最高値を記録した。しかし、パーティを繰り広げる世代には1989年も1990年も別に変わりはなかった。時代は決して十年単位で区切れない。 音楽業界が数年間の歳月を掛けて浸透させていくことになる「J-POP」を掲げ始めたのも、ちょうどこの頃だ。CDの売り上げがアナログ盤を上回ったのは1986年。そして1989年にはアナログ盤の生産がストップして時代は完全にCDへ。 音楽を取り巻く環境にも変化が起こり、大型店舗(タワーレコード、HMV、ヴァージン・メガストアズなど)の出店、カラオケボックスの登場、レンタル店やコンサート施設の拡大、安価なCDラジカセの販売といった影響もCD普及と市場活性に一役買っていた。 歌が自分たちのライフスタイルを彩ってくれるという感覚は、CDというパッケージを得ることでより強まった。TOKYOにおいて音楽は、消費と流行に明け暮れるための“気分作り”であり、パーティを共有するための“マストアイテム”だった。若い世代はCDを毎月何枚も買うことが当たり前になった。1983年以来途絶えていたミリオンセラーが1990年以降になって量産されるのは、こうした経緯があったからだ。 きっと君は来ない 一人きりのクリスマス・イブ Silent Night Holly NIght 1989年から数年間、クリスマスシーズンになる..
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