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横須賀ストーリー〜“百恵伝説”はここから始まった!16才の少女の人生を変えた歌

この「横須賀ストーリー」は、1976年6月にリリースされた山口百恵の13枚目のシングル曲だ。 前年に「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」をヒットさせたダウン・タウン・ブギウギ・バンドの宇崎竜童(作曲)、そして彼の妻としても知られている阿木燿子(作詞)の手によって作られた作品である。 売上81万枚を記録し、オリコン集計では百恵の最大ヒットシングルとなった。 (※累計では『いい日旅立ち』が本作の売上を上回っている) この横須賀の街を舞台とした名曲には、特別な誕生秘話があるという。 ──すべては一本の電話から始まった。 それは、16歳のアイドル歌手山口百恵に曲を書いて欲しいという依頼だった。 ロックバンドのリーダー宇崎にとって、百恵は遥か遠くにいた少女だった。 当時のことを宇崎はこう回想する。 「その頃僕は27歳くらいでしたから、16〜17歳なんてね…凄い遠い存在だったから、子供が歌ってるんだなぁとしか思ってなかったですね。」 ロックミュージシャンとアイドル、当時は結びつくはずもない間柄だった。 この時、百恵はデビュー3年目。 オーディション番組『スター誕生!』(日本 テレビ系)から歌謡界にデビューした森昌子、桜田淳子、山口百恵の3人の中学三年生(1973年)は“花の中三トリオ”と呼ばれ、アイドルとして人気絶頂の時期を迎えていた。 当時、不良キャラで売っていた宇崎にどうして曲の依頼が来たのだろう? 違う世界で生きていた二人を結んだのは、一枚のレコードだった。 ダウン・タウン・ブギウギ・バンドが1976年に発表したシングル「涙のシークレット・ラヴ」は、宇崎作曲のスローバラードだった。 人に言えない恋の切なさ…宇崎が静かに歌いあげるラブソングを、16歳の百恵はくり返しくり返し聴いていたという。 「宇崎さんに曲を書いて欲しい…」 アイドルだった百恵が恐る恐る口にした時、周囲のスタッフは「イメージが違い過ぎる!」と、まともに取り合わなかったという。 二人の橋渡しをしたのは、音楽プロデューサーの酒井政利だった。 「これは“異色”と言ったって“異色過ぎる”と、二人を引き合わせようとした僕も関係者から猛反対を受けましたね。」 「なんで俺なんだ?」そう戸惑いながらも百恵の申し出を受け入れた宇崎は、初めて真剣に百恵の歌声を聴きなおしたという。 「それまで彼女が歌っていた曲の中には、彼女の実..
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ロックバルーンは99〜ドイツ語の反戦歌が世界のチャートを席巻!?80’sを代表するヒットソングはこうして生まれた!

私に時間をくれるなら あなたのために歌ってあげるわ 水平線の彼方へ飛んで行った99個の風船の歌をね あなたは今私のこと考えている? じゃ歌ってあげるわ!99個の風船の歌を 何がどうしてどうなったかをね この「99 Luftballons(ロックバルーンは99)」は、1983年に西ドイツのロックバンドNena(ネーナ)が発表した楽曲で、MTV が主流となった80年代のミュージックシーンを代表するヒットナンバーとして広く知られている。 本国では1位を獲得するも、まだベルリンの壁があった頃の西ドイツだったので、リリース当初は世界的なヒットとはほど遠いものだった。 アメリカとソビエトによる核兵器開発競争が加熱しつつあった当時、ベルリンの壁によって東西に分かれてたドイツは、現在のような“開かれた国”ではなかった。 1979年のスリーマイル島メルトダウン事件、SALTⅡ(第二次戦略兵器制限交渉)の調印と無効、日本では1983年に高速増殖炉もんじゅの着工などがあり、核に対する関心が世界的に高まっていた時代だった。 この歌の歌詞が戦争の愚かしさを風刺した内容だったこともあり、まさに“歌のチカラ”が大きな奇跡を起こすこととなる。 99年間続いた戦争では一人の勝者もいなかった もう大臣もいないし戦闘機もない 今日、いつもの道を歩いていたら ガレキの街の片隅で1個の風船をみつけたの あなたのこと思いながら…空に向かって飛ばしたわ ある日、アメリカ(カリフォルニア州)のラジオ局KROQの番組DJが偶然この曲を耳にして「これはイケる!」と確信したという。 早速、自分の番組で紹介したことをきっかけに、じわじわと注目を集めだして…翌1984年にはアメリカ全土300以上のラジオ局でオンエアされるようになり、ドイツ語の曲としては史上初のビルボードトップ10入り(最高位は2位)を果たしたのだ。 その後、スイス、オーストリア、オランダ、スウェーデン、ポーランド、ニュージーランド、カナダ、メキシコ、コロンビア、スイス、イギリス、日本の12カ国でも1位を獲得。 英語歌詞ではない曲が世界的にヒットした数少ない例としては、1963年の「SUKIYAKI(上を向いて歩こう)」に並ぶ快挙となった。 この歌のクレジットには作詞:カルロ・カーゲス(ギター担当)、作曲:J・U・ファーレンクロック=ペーターセン(キ..
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ジョシュ・ホワイトを偲んで〜運命を変えた“1つ”のミートボール

1969年9月6日、ニューヨーク州ナッソー郡マンハセットにあるノース・ショア病院でジョシュ・ホワイトが亡くなった。享年55。 心臓弁置換手術の最中に、手術台の上で息を引き取ったという。 晩年、心臓疾患に悩まされていた彼は、この日、3度目の手術を受けていた。 ニューヨークを本拠地にしていた彼は、シンガーソングライター、ギタリスト、俳優、社会活動家として活躍した多才なアーティストだった。 1950年代終盤から60年代初頭にかけてブームとなったフォークリヴァイヴァルで、白人層の心を掴んだ黒人歌手として知られている。 ブルース、ゴスペル、ジャズ、フォーク、プロテストソングと、幅広いジャンルの曲を歌う彼を、エルヴィス・プレスリーやボブ・ディラン、PP&M、キングストン・トリオ、そしてトレイシー・チャップマンと世代を超えた様々なアーティストたちがリスペクトしてきた。 もし俺が死んだら 足にはお洒落な紐靴を履かせてくれないか 黒いコートとカウボーイハットもだ 時計の鎖には金ピカのやつで頼むぜ そうすれば みんな俺が立派に生きてたと思うだろうから… 1914年、サウス・キャロライナ州グリーンヴィルで生まれた彼は、幼い時から“盲目のブルース歌手”として知られたブラインド・レモン・ジェファーソンやブラインド・ブレイクの身の回りの世話をしながらレパートリとギターの演奏技術を学んだという。 1929年、15歳で単身ニューヨークに出た彼は、“アーバンブルース界最初の巨匠”リロイ・カーや、12弦ギターの名手レッドベリーが率いるバンドのギタリストとなる。 1930年代は、グリニッチ・ビレッジのクラブなどで弾き語りをしながら生計を立てていた。 そんな彼に転機が訪れたのは1944年、(当時30歳)のことだった。 作曲家ルー・シンガーと、永遠の名バラード「Unchained Melody」で知られる作詞家ハイ・ザレットが手掛けた「One Meat Ball」という曲を歌い、ミリオンセラーを記録する。 後にフランク・シナトラやビング・クロスビーなどの大御所ジャズ歌手や、ライ・クーダーがカヴァーすることによって“知る人ぞ知る”名曲として愛され続けることとなった「One Meat Ball」。 ユニークな歌詞を持つこの曲には元歌があるという。 ジョッシュ・ホワイトが「One Meat Ball」をヒッ..
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私たちの望むものは〜“フォークの神様”と呼ばれた男が紡ぎ出した強烈なメッセージソング

私たちの望むものは 生きる苦しみではなく 私たちの望むものは 生きる喜びなのだ 私たちの望むものは 社会のための私ではなく 私たちの望むものは 私たちのための社会なのだ 岡林信康の実家は教会だった。 父親は新潟県の出身で30歳まで新潟で農業をしていたという。 しかし、閉鎖的な村社会が嫌になって故郷を飛び出し滋賀県の紡績工場に就職。 その時期に宣教師に出会い牧師となって大阪の神学校に通った後、近江八幡市の田んぼのど真ん中に西洋建築の教会を立てた。 1946年7月22日、彼はそこで生まれた。 近江兄弟社中学を出て、滋賀県立八日市高等学校を経て、1966年に同志社大学神学部入学。 彼はそれまで熱心なキリスト教信者であったが、実家の教会の不良少女の扱いに疑問を感じ、その後社会主義運動に身を投じる中で、フォークシンガー高石ともやに出会いギターを始める。 1968年、山谷に住む日雇い労働者を題材とした「山谷ブルース」でビクターよりレコードデビューを果たす。 翌年までに「友よ」「手紙」「チューリップのアップリケ」「くそくらえ節」「がいこつの歌」などを作り、その内容から、多くの曲が放送禁止となった。 当時は“フォークの神様”などとも言われたが、労音(勤労者音楽協議会)との軋轢や周囲が押しつけてくるイメージと本人の志向のギャップが出来て、彼はすでにプロテストソングに行き詰まりを感じるようになったという。 そしてロックへの転向を模索するようになる…。 それは1969年9月6日の出来事だった。 彼は大阪労演公演への出演をすっぽかし、同月23日の東京公演直前に「下痢を治してきます」と言ったまま失踪する。 当時、彼は連日のハードな地方公演に加えて「コマーシャリズムに隷属し、レコードを作って金儲けをしているヤツ」としてフォークゲリラ(1968年ごろから大阪・東京などで自然発生的に始まった学生・市民の反戦集会)から批判されたりして、精神的に滅入っていた。 数ヶ月の間、姿をくらませた彼は、翌1970年の4月8日に東京・神田の共立講堂で行われた音楽舎主催の『メッセージコンサート』に登場する。 「ごめんやす。出戻りです。お互い堅くならんといきましょう。」 アコースティックギター1本でパフォーマンスをしてきた彼だったが、この日は明らかにそれまでとは違う佇まいだった。 彼は、渡辺勝をはじめとする通称「グ..
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フレディ・マーキュリーの27歳~わずか半年で無名からロックスターへ

1973年9月5日、フレディ・マーキュリーが27歳の誕生日を迎えたのは、クイーンがファースト・アルバム『戦慄の王女』をリリースから2ヶ月が過ぎた頃だった。 アルバムにはドラマチックな展開やハイトーンなシャウトといったクイーンの特徴的なサウンドが現れていたが、批評家から酷評されてチャートインすることすら叶わなかった。 この頃のクイーンはまだほとんど無名で、数多くある野心的なバンドのひとつに過ぎなかった。 しかしアメリカでは83位ながらも、アルバム・チャートで100位入りを果たすことができた。 ドラムのロジャー・テイラーによれば、それが最初の兆候だったという。 10月からはデヴィッド・ボウイから提供された「すべての若き野郎ども」がヒットして人気を集めていたバンド、モット・ザ・フープルのツアーで前座を務めることになった。 批評家からは酷評された彼らの音楽だったが、ライブを観に来た観客の反応はとてもよく、回を重ねるごとにファンは増加、ついにはモット・ザ・フープのツアーにもかかわらず、観客の半分がクイーンを目当てに観に来るほどになった。 そんな中、同じプロダクションのデヴィッド・ボウイと仕事をしていた写真家のミック・ロックを紹介されたことから、バンドのビジュアル・イメージを固めるための写真撮影が行われた。 上半身裸で化粧をした男4人の写真はまたしても批評家から酷評を集めることになったが、これによってクイーンのイメージは確立したのだ。 ツアーで各地を回る中でクイーンのパフォーマンスは洗練されていくとともに、みるみるファンを増やしていき、翌年2月には人気テレビ番組『トップ・オブ・ザ・ポップス』への出演を果たす。 そして3月8日には満を持してセカンド・アルバム『クイーンⅡ』をリリース、前作以上に壮大なスケールで構成もより複雑かつダイナミックに展開していく内容だった。 レコードのA面とB面、つまり表と裏でブライアン・メイ作曲の“ホワイト・サイド”と、フレディ・マーキュリー作曲の“ブラック・サイド”に分かれていた。 そしてフレディの世界は、人喰い鬼の戦いを描いた「オウガ・バトル」で幕を開ける。 「『オウガ・バトル』はもの凄く……ヘヴィなんだ。僕の言ってるのはいわゆるヘヴィ・メタル的な意味合いでのヘヴィじゃなくて……とにかくめちゃめちゃヘヴィなんだよ」 同じ3月にはクイーンにとって初..
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The Times They Are A-Changin’〜変わりゆく時代、変わることのない歌のチカラ

19歳になったボブ・ディランは、ミネソタ大学を中退して単身ニューヨークに移住する計画を立てていた。 1961年1月20日、テレビのブラウン管に映し出されたジョン・F・ケネディの大統領就任演説を眺めながら、彼はこの歌詞をノートに走り書きしたのだという。 本人曰く「アイルランドやスコットランドに伝わる古いバラッドをベースにして書き上げた」と言うこの楽曲は、その後ボブ・ディランが23歳の時にリリースした3作目のスタジオアルバム『The Times They Are A-Changin’(時代は変る)』(1964年)のタイトルナンバーとして世に出される。 奇しくも、ディランがこの歌をレコーディングした1963年10月24日から一ヶ月も経たない11月22日にケネディ大統領が暗殺され…悲劇と共に一つの時代が変わっていった。 ここかしこに散らばっている人よ、集まって! 周りの水かさが増しているのをごらん まもなく骨までずぶ濡れになってしまうのがおわかりだろう あんたの時間が貴重だと思ったら泳ぎはじめた方がいい さもなくば石のように沈んでしまう とにかく時代は変わりつつあるんだから エリック・クラプトンは、あるインタビューでこのアルバムについて「ディランの中で最も重要なレコードだ」と発言している。 世代・性別・ジャンルを超えたミュージシャン達がこの楽曲をカヴァーする中、ディランからの影響を多大に受けていることを自他ともに認めるブルース・スプリングスティーンやトレイシー・チャップマン、そしてエディ・ヴェダー(パール・ジャム)など“特別な歌”として取り上げている。 日々発行される新聞。 放送されるテレビ。 配信されるネットやSNS。 そこには様々な情報が洪水のように溢れ、飛び交っています。 政治、経済、国際情勢、健康、環境、文化、芸能、スポーツなどなど。 私達の未来に直接関わるニュースも少なくはない。 保守的な捉え方。 リベラルな考え方。 何かに対して「反対だ!」「賛成だ!」「それは間違っている!」「こちらが正しい!」と、自分の考えを主張する人達がいる。 サイレント・マジョリティ(物言わぬ多数派)と云われる人達もいる。 私達が暮らす社会において、人の心は「情報」によって左右されるという。 一握りの権力者や一部の人間の都合で、何かが隠されたり、ねじ曲げられたり、すり替えられたりしてい..
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たどりついたらいつも雨ふり〜吉田拓郎が書き下ろしたザ・モップスの代表曲

この「たどりついたらいつも雨ふり」は、ザ・モップスの12枚目のシングルとして1972年7月5日にリリースされた“70年代の名曲”である。 作詞作曲は、当時“フォークブームの立役者”として活躍していた吉田拓郎。 この歌には原曲があるという。 拓郎がまだ地元の広島でアマチュアとして活動していた頃に所属していたバンド“ダウンタウンズ”の曲で、当時は「好きになったよ女の娘」というタイトルだった。 彼らが『第2回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト』に出場した際に演奏した楽曲でもある。 1970年前後の日本では、ロックよりもフォークの方が“言葉を音楽に乗せる”という点で若者達に支持されていた。 当時、モップスといえば「御意見無用」などの本格的なハードロック路線から、コミカルで大衆ウケの良かった「月光仮面」まで幅広く演奏できる“実力派ロックバンド”として人気を得ていた。 そんな中、時代の流れを意識した彼らは“日本語のロック”を極めるべく新作アルバムの制作に取りかかった。 「フォークシンガーから楽曲提供を受けて、言葉を大事にする部分を残してロックを作ってみたらどうだろう?」 当時彼らが所属していたホリプロのプロデューサー奥田義行の発案で、アルバム『モップスと16人の仲間』(1972年7月5日発売)が完成した。 クレジットには吉田拓郎、井上陽水、忌野清志郎、加藤和彦、及川恒平など、その頃の音楽シーンをリードしていたソングライター達の名前が並んだ。 担当ディレクターの平川忠司は、この曲をシングルカットした理由についてこう語る。 「タイアップなどの条件よりも、楽曲がいいからシングルにしよう!という純粋な時代でしたから、楽曲判断で決まりました。」 同曲は、オリコン週間チャート最高26位ながらも約14万枚を売り上げ、モップス最大のヒット曲となった。 1973年に公開された日活映画『濡れた荒野を走れ』の挿入曲として使用され、音楽ファン以外にもモップスの名前が知られるきっかけとなった。 モップスのギタリスト星勝は、当時を振り返りながらこう語る。 「僕達が模索してきた日本のオリジナルロックがこの作品で、ある程度到達できたという手応えはありました。」 モップスに2週間遅れて吉田拓郎もアルバム『元気です。』でこの曲を発表している。 その後もこの歌は、多くのアーティストによって様々なアレンジで..
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アカシアの雨がやむとき〜日本の歌謡曲の潮流を変えた歌、その時代背景と誕生秘話

アカシアの雨にうたれて このまま死んでしまいたい 夜が明ける 日がのぼる 朝の光のその中で 冷たくなったわたしを見つけて あの人は涙を流してくれるでしょうか 1960年4月にリリースされたこの歌は、歌手・西田佐知子(関口宏の妻)のヒット曲である。 日本では一般的に“アカシア”といえば、明治時代に輸入されたニセアカシアのことをさす。 このニセアカシアは、和名でハリエンジュ(針槐)とも呼ばれている北米原産のマメ科ハリエンジュ属の落葉高木で、春には白く可憐な花をつけることでも知られている。 日本の歌謡曲や童謡の歌詞で“アカシア”として歌われているのは、たいていこのニセアカシアのことだという。 西田佐知子が歌ったこの「アカシアの雨がやむとき」が誕生したのは1960年(昭和35年)。 当時の日本はいわゆる“60年安保闘争”の真っただ中。 アメリカとの間の相互協力や安全保障条約の調印を発端とした反対運動で世の中は騒然としていた。 「安保反対!!!」と叫ぶ学生やデモ隊が、各地で機動隊と衝突を繰り返す日々。 1960年6月15日、悲劇は起こった…。 暴力団と右翼団体がデモ隊を襲撃して多くの重傷者を出し、機動隊が国会議事堂正門前で大規模にデモ隊と衝突し、デモ隊の先頭近くにいた東京大学文学部4年生の樺美智子(かんばみちこ)が圧死した。 21時に開かれた国会敷地内での全学連抗議集会で訃報が報告されたことで、警察車両への放火等を行うなど一部の学生が暴徒化し、負傷学生約400人、逮捕者約200人、警察官負傷約300人に上った。 国会前でのデモ活動に参加した人は主催者発表で計33万人、警視庁発表で約13万人という規模にまで膨れ上がった。 また、浅沼稲次郎(社会党委員長)が演説中に17歳の右翼少年に刺殺されるなど、国内は大きな転換期を迎えようとしていた。 それはちょうど日本でカラーテレビの本放送がスタートした年でもあった。 そんな混沌とした年の春にリリースされたのがこの「アカシアの雨がやむとき」だった。歌に漂う挫折感と、民衆の絶望感とが重なりあって、当時この歌はあたかも“時代の歌”のように扱われたという。 しかし、この歌が誕生した経緯は安保闘争とはまったく無関係だった。 1956年に西田佐智子の名前でマーキュリーからデビューをしていた彼女は、ちょうどポリドールに移籍をして心機一転をはかり“..
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KISSのジーン・シモンズが初めて火を吹いた日

1973年9月下旬、KISSはいよいよデビューアルバムのレコーディングをスタートさせる。 54丁目とブロードウェイが交わる場所にあるベル・サウンド・スタジオという小汚い二流スタジオだった。 ジーン・シモンズは当時のことを鮮明に憶えていた。 「スタジオでの仕事はてきぱきと進められた。俺たちは全員同じ部屋に入ってかなりの速さで録音を終えた。あの時はほとんどオーヴァーダブもやらなかったよ。」 こうしてレコーディングが完了し、バンドはジャケット用の写真撮影も済ませた。 リリース後に予定されていたツアーに向けてミーティングが行われた。 事務所の会議室でニール・ボガート(キッスが初めてレコード契約を交わしたカサブランカ・レコードの創立者)がメンバーにこんな提案をしてきた。 「ドラムセットが宙に浮いたりする舞台技術があるのだがやってみないか?それと、メンバーの誰かが口から火を吹くパフォーマンスはどうだろう?」 翌日、事務所には早速マジシャンが呼ばれ、彼らの目の前で勢いよく火吹き芸を披露した。 「これを誰がやる?メンバーは明らかに嫌がっていたよ。誰も希望者はいない…その時、俺の好奇心がムクムクと頭をもたげたんだ。俺がやる!そう言って俺は右手をあげた。それで決まったんだ。」 1973年の12月31日、彼らはニューヨークのアカデミー・オブ・ミュージックで行われたライブに出演した。 それはデビューアルバムが発売される直前のプロモーションの一環だった。 この日はイギー・アンド・ザ・ストゥージズとブルー・オイスター・カルトをメインアクトに、イギリスのバンド、フレイミング・ユースやニューヨークの地元のティーンエイジ・ラストらも出演した大規模な大晦日コンサートだった。 「4000人を前に俺たちに与えられた演奏時間は30分だけだった。ド派手な衣装に身を包み、俺たちが登場しただけで観衆は大喜びだった。ポールが一曲目の“Deuce”のイントロを弾いた瞬間ホールが揺れだした。」 曲が進むにつれて観客たちは彼らの勢いに巻き込まれていくようだった。 3曲目の「Firehouse」では、舞台に大量のスモークが焚かれ、サイレンが鳴り響く演出が施された。 ジーン・シモンズが剣の形をした種火を手にすると、客席から悲鳴のような歓声が沸き起こった。 ジーンの口には灯油が仕込まれている。 一歩一歩ゆっくり..
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What’s Going On〜この世界はどうなっているの?何が起こっているの?

ねぇ母さん たくさんの人たちが涙を流しているよ 兄弟たちが次々と死んでいくよ 僕たちの手でなんとかしないと ここに今、愛をもたらすために ねぇ父さん これ以上戦争の被害を広げないで 戦争は何も解決してくれない 愛だけが憎しみに勝つ 何とかして見つけだそう この世界に愛をもたらす方法を これはマーヴィン・ゲイの名曲「What’s Going On」が誕生するまでの話である。 ──1970年3月16日、マーヴィン・ゲイ(当時30歳)にとって最高のデュエットパートナーだったタミー・テレル(当時24歳)が、脳梗塞によってこの世を去る。 タミーの死後、彼はショックから立ち直ることができず…しばらく隠遁生活を送っていた。 対人恐怖症に陥り、自宅に引きこもり、所属していたモータウンレコードへの不信感も募り、薬物依存への道を辿ってゆく。 モータウンの創業者ベリー・ゴーディの姉にあたる17歳年上のアンナと21歳の時に結婚して、幸せと成功を掴んだ彼だったが…すでにこの頃は夫婦関係も冷めていたという。 当時、タミーの死が彼にとってどれほどの出来事だったのか? あるインタビューで語られた言葉がそれを物語っている。 彼女の死は本当に辛かった。 彼女と僕が恋人だったからじゃない。 そうだったらよかったと思うが、僕達の関係はプラトニックなものだった。 辛かったのは、あんなに才能のある美しい人が、あんなに若くして死んだということだ。 この世で自分が愛していた人、好きだった人、仲が良かった人を失うのはなかなか大変なことだよ。 それに僕らは二人共まだ若かったし…ものすごい打撃だった。 また別の女性と一緒に仕事をするなんて考えられない…。 僕は本当に彼女を愛していたよ。 彼はタミーの死によって物事を哲学的に捉えるようになり、音楽以外のことにも関心を向けるようになっていった。 愛する者の死が、彼の心に新たなインスピレーションを与えたのだ。 そして翌年の1971年、数ヶ月に渡って音楽活動から遠ざかっていた彼は、アルバム『What’s Going On』で復活を果たす。 そのオープニングを飾ったタイトルナンバーは、次世代のスティーヴィー・ワンダー等が切り拓いていくこととなる“ニューソウル”の起点となってゆく。 アルバムのジャケットに写る彼は“モータウンの貴公子”と呼ばれた60年代の頃の雰囲気とは違っていた。..
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ビートルズの4人とエルヴィス・プレスリーが一堂に会した夜

「史上最も成功したソロ・アーティスト」とギネスに認定されたエルヴィス・プレスリー。 そして「史上最も成功したグループ・アーティスト」とギネスに認定されたビートルズ。 新旧を代表するスーパースター同士による面会が実現したのは、1965年8月27日のことだった。 この年の夏、ビートルズは全米ツアーの真っ最中だった。 8月15日にはニューヨークのシェア・スタジアムでコンサートをし、5万6千人という当時としては前人未到の動員数を記録している。 母国イギリスのみならず、アメリカにおいてもビートルズの人気は圧倒的だった。 一方のエルヴィスは人気絶頂だった1958年に徴兵され、2年後に除隊してからはステージを離れて映画の世界に活動の場を移し、スクリーンの向こう側のスターとなっていた。 ビートルズを乗せたリムジンが、ロサンゼルスにあるエルヴィス邸に到着したのは、夜の10時頃だった。 極秘での面会だったにも関わらず、門の前には数百人のファンが集まっていたが、警察による厳重な警備が敷かれていたこともあり、スムーズに事は進んでいった。 円形のリビングルームへと招き入れられたビートルズの4人は、ひどく緊張していた。彼らにとってエルヴィスは最大のアイドルだったからだ。 中でもジョン・レノンはエルヴィスの「ハートブレイク・ホテル」を初めて聴いたときに、「世界が変わってしまった」というほどの衝撃を受けたという。 彼らはスタジオ・アルバムでこそエルヴィスのナンバーをカバーしていないが、デビュー前は何十曲もレパートリーに入れていた。 エルヴィスは音の出ていない大型のカラーテレビを眺めながら、ソファーに座ってベースを弾いていた。 顔を合わせた彼らは、取り巻きも含めて自己紹介をすませたが、その後は中々会話が続かず、しばし沈黙が流れるのだった。 やがてエルヴィスが「君たちがただ座って僕を見ているだけなら、僕は寝てしまうよ」と言って笑うと、「それならちょっと楽器を弾いたり歌ったりしてみようか?」と提案した。 そうして楽器が用意されてセッションが始まると、ようやく緊張の糸も切れていった。 エルヴィスはギターでなく、練習中だというベースを手にしていたのでポール・マッカートニーはここぞとばかりに話しかけた。 「彼がベースにハマっているのはこの上なく嬉しかったよ。 それで『僕にもちょっと弾かせてもらえないかな、エル..
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エリー・グリニッチを偲んで〜60’sアメリカンポップスの金字塔「Be My Baby」を生んだ女性ソングライターの足跡と功績

2009年8月26日、ニューヨークの聖ルカ・ルーズベルト病院でエリー・グリニッチ(享年68)が死去した。 数日前に肺炎で入院し、そのまま心臓発作で亡くなったという。 彼女は夫のジェフ・バリーとの作曲チームを組んで60’sアメリカンポップスのヒット曲を量産したソングライターだった。 代表作にはフィル・スペクターと共に作り上げたザ・ロネッツの「Be My Baby」や、ザ・クリスタルズの「Da Doo Ron Ron」、そしてトミー・ジェイムス&ザ・ションデルズが歌って全米1位を獲得した「Hanky Panky」などがある。 1940年10月23日、彼女はニューヨークのブルックリンで生まれる。 父親は敬虔なカトリック信者で電気技師を仕事としならが絵描きでもあった。 母親はロシア系ユダヤ人で百貨店の支配人をしていた。 音楽好きだった両親の影響で、幼い頃からアコーディオンを弾いていたという。 彼女が10歳になった年に、一家はニューヨーク郊外のレヴィットタウンに引っ越しをする。 まだ十代にも関わらず、彼女はピアノを独学でマスターし、作曲を始める。 高校時代には友人と3人組のグループ“ジヴェッツ”を結成して、地元のダンスパーティなどで歌うようになる。 高校を卒業すると大学に通いながら自作の曲をレコーディングし、“エリー・ゲイ”という芸名でRCAからリリースもしたが…結果は芳しいものではなかった。 大学で英文学を専攻し、卒業後は数週間ほど英語教師として務めていたという。 しかし、子供の頃から続けてきた作曲への想いを捨て切れずに、教職でなく音楽の道へ踏み出すこととなる。 ちょうどその頃、彼女は叔父が開いた感謝祭の夕食会の席でジェフ・バリーと出会う。 二人は遠縁だったので子供の頃からお互いに存在は知っていたが、ちゃんと話をしたのはこの時が初めてだった。 彼女よりも二つ歳上だったジェフは当時すでに最初の妻と結婚していたので、二人は特に異性として意識し合うことはなかったという。 その後、ジェフの離婚をきっかけに二人は惹かれあうようになり、運命の糸に導かれてゆく。 1963年10月28日(当時23 歳)に二人は結婚すると、パートナーとして楽曲を合作するようになる。 当時プロデューサーとして頭角を現し始めていたフィル・スペクターとロネッツやクリスタルズなどに楽曲を提供するようになり、彼ら..
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スローなブギにしてくれ〜気弱で強がりなハードボイルドの世界観を見事に仕立て上げた南佳孝と松本隆の手腕

この南佳孝が作曲した「スローなブギにしてくれ(I want you)」は1981年1月21日にリリースされた。 作詞はこの当時からヒットメーカー(作詞家)として快進撃を始めていた松本隆。 その春に公開された片岡義男の小説を原作とした同名の角川映画『スローなブギにしてくれ』(浅野温子主演)の主題歌として起用され累計枚数40万枚を超える大ヒットとなった。 1979年に南が発表した「モンロー・ウォーク」を、郷ひろみが「セクシー・ユー」のタイトルでカバーしてヒット。 徐々に脚光を浴び始めていた南にとって、この映画主題歌での抜擢はまさにチャンスだった。 南は当時のことをこんな風に述懐している。 「あの曲がヒットして浮上できたけど、それまでの路線とは違うじゃない。本来、シコシコやってる方が好きな人間だからね。だけど映画の仕事は一度やってみたかったからチャレンジしてみたんだ。正直言って…角川商法みたいなものをうまく利用しようという気持ちもあったね。」 またレコーディング中には角川春樹がスタジオに来て製作の様子を伺うほどの熱の入れようだったという。 作詞を任された松本は角川から直接「映画のタイトルを曲のタイトルにすること」と依頼され、ストーリーに添った“ハードボイルド”な世界を要求されたという。 松本はあるインタビューで、その世界観についてこんなことを語っている。 「作家のレイモンド・チャンドラーなんかが描いたハードボイルドってのはね、けっこう気弱なんですよ。そのくせ強がってる感じが“それ”なんですよ。」 Want you 俺の肩を抱きしめてくれ 生き急いだ男の夢を憐れんで Want you 焦らずに知り合いたいね マッチひとつ摺って顔を見せてくれ この歌の歌詞に「生き急いだ男の夢を憐れんで」という1節がある。 【生き急ぐ】一見聴き慣れた言葉のように聞こえるが、実はこの曲から生まれた松本による“新しい言葉”だったという。 「“死に急ぐ”という日本語はあるが“生き急ぐ”というのは、あまり聞いたことがないから僕の造語のような気がしますね。」 Want you want you 俺の肩を抱きしめてくれ 理由なんかないさ おまえが欲しい 当時、南のディレクターを担当していた高久光雄はこう振り返っている。 「都会の音楽がやりたい。都会の音楽があってもいいじゃないかと思って佳孝をやること..
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ファイト!〜中島みゆき流の応援歌を読み解けば、理不尽だらけの世の中や歪(いびつ)な村社会が見えてくる

あたし中卒やからね 仕事をもらわれへんのやと書いた 女の子の手紙の文字は とがりながらふるえている ガキのくせにと頬を打たれ 少年たちの眼が年をとる 悔しさを握りしめすぎた こぶしの中 爪が突き刺さる 中島みゆきの名曲「ファイト!」は、1983年に発表された自身のアルバム『予感』に収録された楽曲で、1994年に住友生命ウィニングライフのCMで起用されたことをきっかけに多くの人が知ることとなった。 同年には、31作目の両A面シングル「空と君のあいだに/ファイト!」としてリリースされている。 その後も、大塚製薬カロリーメイトCMなどでもタイアップ曲となり、女優の満島ひかりが歌うバージョンが話題となる。 「ファイト」という言葉は、日本語では主に「頑張れ!」と応援や鼓舞するような場面で使われることが多いが、「闘え!」といった直接的な意味もある。 この歌詞には、どちらの意味も見事に凝縮され、より具体的なエピソードと共に表現されている。 生きていれば闘う相手・対象に事欠かない。 この歌詞の冒頭で語られているような、学歴を重視する社会。 子供や若者たちの反論を許さない大人の態度。 我々が生きる世の中には、そういった理不尽が其処彼処に溢れている。 あたし中卒やからね 仕事をもらわれへんのやと書いた 女の子の手紙の文字は とがりながらふるえている 聴き手の心を一気に引きつけるこの強烈なフレーズは、中島みゆきのラジオ番組に届いたリスナーからの手紙が元になっているという。 実際に届いた手紙には、こんなことが綴られていた。 私は中学を出てすぐに働いて2年になる17歳の女の子です。 この間、私の勤めている店で、店の人が私のことを「あの子は中卒だから事務は任せられない」と言っているのを聞いてしまいました。 私、悔しかった。 悔しくて、悔しくて、泣きたかった。 「中卒のどこが悪い!」と、言いたかった。 私だって高校行きたかった。 だけど家のこと考えたら、私立に行くなんて言えなかったし…高校に入る自信もなかった。 なのに、こんなふうに言われるなんて酷い。 ごめんなさい。 愚痴を書いてしまって…またお便りします。 (P.N.私だって高校行きたかったさん) この頃はまだインターネットやSNSもない時代。 一般人が自分の気持ちを誰かに聞いてもらったり、心の叫びを訴えたりするためには、こういったラジ..
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ルイ・プリマを偲んで〜スウィングジャズの代名詞「Sing Sing Sing」を生んだ稀代のエンターテイナー

1978年8月24日、スウィングジャズのパイオニア的存在だったルイ・プリマ(享年67)がニューオーリンズの病院のベッドで息を引き取った。 亡くなる3年前に脳腫瘍の摘出手術を受けた彼だったが、術後も快方には向かわず、植物人間状態に陥り…最終的には肺炎を悪化させたことが死因だったという。 スウィングジャズには「王様」と呼ばれた二人の男がいた。 一人はクラリネット奏者でありビッグバンドを率いたベニー・グッドマン。 もう一人はトランペッターでありヴォーカリスト、そして作曲家として活躍したルイ・プリマ。 スウィングジャズの代名詞とも言われ、ベニー・グッドマンのレパートリーとしても広く知られる「Sing, Sing, Sing」は、彼の手によって書かれた楽曲なのだ。 この「Sing, Sing, Sing」は、ニューオーリンズ・ ギャング(ルイ・プリマのバンド)の演奏よって1936年2月28日にブランズウィック・レコードから発表されたのが初出である。 ブランズウィック・レコードと言えば、創業された1920年代に電気蓄音機を開発したレコードレーベルで、もともとボウリングなどの娯楽商品を扱うメーカーだったという。 レコードがまだSP盤の時代から音楽事業に参入しており、デッカ(後のMCA)の配給を得てビング・クロスビーなどのトップスターを輩出した名門レーベルとしても知られている。 同曲のヒットによって、彼の人生は大きな転機を迎えることとなる。 1910年12月7日、彼はルイジアナ州ニューオーリンズで生まれる。 両親はイタリアのシチリア出身の移民で、母親はクラブ歌手だった。 親の勧めで7歳の時からヴァイオリンを学んでいたが、当時本人は野球好きの少年だったため、あまり練習に身が入らなかったという。 生まれ育った場所がニューオーリンズだったため、彼は日常の中でジャズに親しむようになり、13歳の時にはトランペットを手にして兄のバンドで演奏するようになる。 23歳の時には自身のバンド、ニューオーリンズ・ギャングを結成。 1934年にはニューヨークに行き、耳の肥えたジャズファンが集まるクラブで定期的にステージ活動を始める。 1936年、25歳の時に自身が作曲した「Sing, Sing, Sing」がヒットする。 これを転機に彼は一躍人気者となり、多くのファンを魅了するようになる。 同郷出身で9..
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