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ぼくの好きな先生〜高校生時代の忌野清志郎が慕った美術部顧問の教師

「ぼくの好きな先生」は、RCサクセションの記念すべき1stアルバム『初期のRCサクセション』からのシングルカット曲として1972年2月5日、アルバムと同日にリリースされた。 RCの黎明期、つまり忌野清志郎、小林和生、破廉ケンチの3人編成によるフォークトリオの時代の作品である。 さかのぼること約2年…そのアクの強さが“売り”だった(はずの!?)彼らは1970年3月5日にリリースしたデビューシングル「宝くじは買わない」がまったく当たらず…同年12月に発表した2ndシングル「涙でいっぱい」も見事に不発に終り、渋谷にあった音楽喫茶『青い鳥』などでの地道なライブ活動を続けていた。 そんな彼らが“次こそは!”と、スタイルを妥協することなく放ったのがこの歌だった。 当時の担当ディレクター新田和長は、当時をこう振り返る。 「とにかく清志郎は初めから“アーティスト”でした。言いたいことは言うし、やりたいことは絶対に妥協しないでやる。そんな個性的なところが魅力的でした。」 清志郎が書いたこの“先生の歌”には、モデルになった人物がいたという。 それは小林晴雄という高校時代の美術部顧問の教師だった。 楽曲がリリースされた3年前(1969年)の秋、朝日新聞にこんな身の上相談が載った。それは清志郎の母、栗原久子(育ての親・伯母)からだった。 「18歳になる私の子供はギターのプロになるのだと申します。私どもには何が何だかわからなくなりました。」 気をもむ母を説得したのが、小林先生だった。   「大学に行っても4年遊ぶんだから、4年は好きなことをやらせてあげましょう。」 彼は1967年、都立日野高校に入学した。 俳優の三浦友和も同じ学年だったという。 当時の彼を知る同級生の証言によると…校内では物静かな生徒だったらしい。 小柄で、華奢(きゃしゃ)で、髪型はマッシュルームカットで、いつも飄々(ひょうひょう)と廊下を歩いていたという。 高校時代にRCサクセションを結成。 活動にのめり込み、欠席や遅刻が相次ぐようになる。 そんな中、彼は美術部顧問の小林先生にだけは心をひらき、絵画製作に熱中したという。 小林先生は他の教師と違って、生徒の話にじっくり耳を傾ける男だった。 “勉強が嫌いだから絵描きになった”という小林先生は、職員室が嫌いで、美術準備室でいつも一人で煙草を吸っていた。 同級生の一人..
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ペイネ 愛の世界旅行〜このどうしようもない世界で「本当の愛」を見つけるために旅立つ恋人たちの名作

ハイコントラストの白黒映像。跳ね上がる爆撃の中、手と手を取り合って何度も駆け抜けていく1組のカップル。そして流れ出すエンニオ・モリコーネのテーマ曲──『ペイネ 愛の世界旅行』(Il Giro Del Mondo Degli Innamorati Di Peynet/1974)のあまりにも印象的なオープニングだ。 このアニメーションは、ベトナム戦争や中東危機など世界中で紛争が絶えなかった1970年に企画が立てられ、3年の歳月を経て完成した。物語後半の「戦争反対、恋愛賛成」というシーンが象徴するように、本作は「愛と平和」をテーマにした恋人たちのための映画である。 2020年、世界はその頃と一体何が変わったのだろうか? そう思うと心が傷む。だからこそこの作品が放つ力強いメッセージに、今もう一度心を向けてみる機会だと思う。 恋人たちを描いたのは、レイモン・ペイネ。1908年パリ生まれの世界的なイラストレーターで、フランスだけでなく日本でも1986年に軽井沢に美術館が建てられたので出向いたことのある人も少なくないだろう。1930年に5歳年上の夫人と結婚。夫婦はペイネが描く恋人たちのように仲が良く、彼女が創作に大きな影響を与えたと言われている。1999年に90歳で死去。『ペイネ 愛の世界旅行』はペイネ唯一のアニメーション作品であり、1974年7月に日本で初公開されて、その後リバイバル上映もされた。 物語は、おかっぱ頭に山高帽をかぶったバレンチノと髪をポニーテールにしてミニスカートを履いたバレンチナという恋人たちが、本当の愛を見つけるためにラブパスポートを手に入れるところから始まる(恋人カードにはアダムとイブ、シーザーとクレオパトラといった有名なカップルも登録している)。そしてエアー・ラブという天使が操縦する飛行機に乗って、世界中を次元を超えて自由に旅していくというもの。 そこには愛のメッセンジャーとも言える有名な人物たちがいて、二人は歴史的瞬間に立ち会いながら、時には離れ離れになりながらも、長い旅の末、1968年5月のパリの五月革命において遂に安息の場所を見つけ出す。花びらが祝福するように恋人たちの頭上を舞っている。「戦争反対、恋愛賛成」のプラカードが出てくるのはこのクライマックスだ。 訪れるのは20ヶ国26都市。移動手段はエアー・ラブのほか、車、自転車、潜水艦、馬車、気球、列..
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ボビー・チャールズを偲んで〜ウッドストックの地に本物の南部音楽を伝え、多くのミュージシャン達に大きな影響を与えた男の功績と軌跡

2010年1月14日、ウッドストックの音楽シーンにおいて重要な役割を担ったシンガーソングライター、ボビー・チャールズ(享年71)が、ルイジアナ州アブヴィルの自宅で倒れ死去した。 直接の死因は明らかになっていないが、晩年の彼は糖尿病など健康上の問題を抱えており、腎臓癌の治療中だったという。 1938年、ルイジアナ州アブヴィルで生まれた彼は、17歳の時に白人アーティストとして初めてブルース/R&Bの名門レーベルであるチェスと契約。 ビル・ヘイリー&ヒズ・コメッツによるカヴァーでも有名な「See You Later, Alligator」などの名曲を生み出し、スワンプロックの発展に大きな功績を残した。 チェス時代の彼は、歌手として売れることはなく…テネシー州ナッシュビルの大きなラジオ局WLACの深夜のDJ、ジョン・Rの下で“雇われソングライター”として作品を生み出してゆく。 彼の書いた曲は、後にファッツ・ドミノやドクター・ジョン、レイ・チャールズなど数多くのアーティストに取り上げられることとなる。 また彼は、ライヴ活動を極度に嫌っていたミュージシャンとしても知られる。 1970年代初頭、ニューオリンズ音楽シーンの衰退とともに彼はニューヨーク州郊外のウッドストックへ移り住む。 その頃のウッドストックと言えば、あの伝説のロックフェス“Woodstock Music and Art Festival”の後、ボブ・ディランやザ・バンドなど多くの著名なミュージシャンが集まっていた。 そんな環境の中で、彼はザ・バンドのメンバーと交流を深めてゆく。 当時、ザ・バンドはボブ・ディランと共にアメリカ南部の音楽に傾倒し始め、南部出身で頭角を現してきたアラン・トゥーサンと出会うこととなる。 そして、アランを介してザ・バンドと彼は繋がり、一枚の名盤を生み出す。 1972年、彼はザ・バンドのメンバーやドクター・ジョン、デヴィッド・サンボーンら錚々たるミュージシャンをサポートに迎えて自身初のソロ名義アルバム『Bobby Charles』を発表。 その後、1976年に行なわれたザ・バンドの解散コンサート“ラスト・ワルツ”にも参加するなど、ウッドストックの音楽シーンにおいて重要な役割を担った。 1978年にはリヴォン・ヘルムのRCOオールスターズの一員として来日。 その後、また暫く空白期となるが、1..
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ダニー・ハサウェイを偲んで〜事故死だったのか?自殺だったのか?その栄光の裏で彼が苦悩しみ続けたものとは?

ダニー・ハサウェイを語るのに多くの言葉はいらない。 1970年、キャロル・キングは彼のデビューアルバム『Everything Is Evrything(新しきソウルの光と道)』を、親友であるジェイムス・テイラーやルー・アドラーなどに贈って「よく聴くように」と勧めていた。 また、アレサ・フランクリンとレイ・チャールズは“フィルモアウエスト”の舞台裏でダニーの話に花を咲かせていたという。 二人の率直な意見は「最高にイカした新人があらわれた」ということだった。 (ジェリー・ウェクスラー/アトランティックレコードの経営者) この歌はレオン・ラッセルが作詞作曲して1970年に発表した曲で、翌1971年にダニー・ハサウェイがカヴァーし自身の名前をタイトルにした2ndアルバム『Donny Hathaway』に収録した。 後、彼の他にカーペンターズやレイ・チャールズ、テンプテーションズ、アレサ・フランクリン、ホイットニー・ヒューストンなど数多くのアーティストたちがレパートリーとしてきた珠玉の名曲だ。 僕は今までいろんな場所を回って たくさんの歌を歌ってきた  まずい詞を作ったこともあったけど 僕はステージで自分なりに愛を表現した 数え切れない観衆の前で でも今は君と僕しかいない  だから君にこの歌を唄っている それは1979年1月13日の出来事だった。 彼は滞在中のホテルの窓から身を投げ、33年の生涯を終えた。 現場に争った形跡はなく、公式には自殺とみなされているが…彼の妻や友人は「自殺ではなく事故死だった」と主張している。 だが彼は長い間、いつ自殺してもおかしくない状態だったという。 一体彼に何があったというのだろう? さかのぼること約10年…。 彼はワシントンD.C.にある黒人大学の名門ハワード大学に通っていた頃に知り合ったオペラ歌手のウララと結婚し、二人の娘を授かり、アーティストとしても順風満帆だと思われていたが、実はキャリアの絶頂期に深刻なうつ状態に陥り始めたという。 病気をコントールするために毎日たくさんの薬を飲まなければいけなくなり、生活は徐々に破壊されて入院を余儀なくされた。 事実上、彼の生前最後のオリジナルアルバムとなってしまった『Extension Of a Man(愛と自由を求めて)』を1973年にリリースした後、彼は人前から姿を消してしまう。 表舞台には立..
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キース・リチャーズの胸が張り裂けそうな恋から生まれた「Ruby Tuesday」

ガサ入れや逮捕劇や裁判など、1967年はローリング・ストーンズにとって非常に風当たりが強い年となった。それはすでにイギリスでは最先端のポップカルチャーやスウィンギング・ロンドンを形成する重要な一部になっていた彼らの影響力を、面白いと思えない権力側が何よりも恐れていた証拠かもしれない。アメリカでも新しい若者の代弁者として、その存在感は渡米の度に大きくなっていた。 そして、ロックがドラッグカルチャーやヒッピームーヴメントと本格的に結びついて“少しだけ大人”になる直前の1967年の1月中旬、UK12枚目/US14枚目となるニューシングル「Let’s Spend the Night Together」はリリースされた。 「夜を一緒に過ごそう」と歌われるこの曲は、性的なニュアンスを強く漂わせるとの理由で多くのラジオ局では放送禁止になった。その象徴的な出来事として当時アメリカで絶大な視聴率を誇ったショー番組で、「the night」を「some time」に変更して歌うようにホスト役のエド・サリヴァンから訴えられたこともあったほどだ。「私には番組を観ている物凄い数の子供たちがいる。二重の意味があるようなものには我慢できない。それが曲であろうと、ストーンズであろうと」 こんなこともあって、結果的にB面(両A面扱い)の「Ruby Tuesday」が大ヒットする。キース・リチャーズが書いて(ミック・ジャガーではない)、一緒に関わったブライアン・ジョーンズのピアノやリコーダーの演奏がこの上なく美しいこの楽曲の誕生までには、ちょっとしたエピソードがあったことをキースが自伝『ライフ』で書き綴っている。 ある日、キースはマネージャーのアンドリュー・オールダムが開催したパーティでリンダという女性と出逢って心奪われる。モデルの彼女はまだ17歳。20代前半だったキースにとって「目が覚めるくらいに美しく、60年代として完璧なルックスで目がくらむほど」だった。実はリンダの初恋の相手がキースだった。その夜、リンダの方から積極的にアプローチされたキースは信じられなかった。「俺みたいな卑しい身分の奴にいい女が声を掛けてくるなんて信じられるかよ!」 とにかく二人の愛が育まれ、同棲生活も始まった。しかし、売り出し中のストーンズは何度もツアーに出なければならなかったため、キースの長期不在が原因で破局は時間の問題だ..
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レッド、ホワイト&ブルース〜アメリカで葬られたBLUESが60年代にイギリスで蘇った

2003年。アメリカでは「BLUES生誕100年」と称して、CD・書籍・番組・ラジオ・コンサートといったメディアミックスを通じて“魂の音楽”を伝えるプロジェクトが展開された。中でもマーティン・スコセッシ監督が総指揮した音楽ドキュメンタリー『THE BLUES』は、総勢7名の映画監督が様々な角度から“魂の音楽”をフィルムに収めて大きな話題を呼んだ。 今回紹介するのは『レッド、ホワイト&ブルース』。BLUESに取り憑かれた英国ミュージシャンたちの熱い演奏とインタビュー、貴重な映像などが綴られていく。 ローリング・ストーンズが念願のアメリカの土を踏んだ時、「マディ・ウォーターズがどれだけ凄いか」を観衆に訴えたにも関わらず、アメリカ人たちは誰一人として彼の名を知らなかったというエピソードが出てくるが、もしも英国人たちがアメリカで葬られたこのBLUESを蘇らせなければ、今日の音楽シーンはなかったと断言してもいいくらい重要な出来事だったのだ。もちろん我々もBLUESの存在さえ知ることはなかったに違いない。 この物語を観ていると、英国の白人の若者たちこそがBLUESの扉を開け、アメリカに逆輸入され、やがてメインストリームに躍り出ていく流れが分かってくる。B.B.キングは「彼らが黒人音楽を取り上げてから、アメリカで俺たち黒人のドアが開き始めた」と言う。 1950年代半ば。スキッフル・ブームが巻き起こったイギリス。それを機にアマチュアバンドが相次いで生まれることになり、60年代になってビートルズと名乗ることになるクォリーメンが結成されるのは有名な話だ。また、ロンドンではアレクシス・コーナーやジョン・メイオールの影響下、ローリング・ストーンズ、エリック・クラプトンやジェフ・ベックが在籍したヤードバーズがデビュー。 バーミンガムからはスティーヴ・ウィンウッドが在籍したスペンサー・デイヴィス・グループ、アイルランドからはヴァン・モリソンが在籍したゼムも登場。そしてピーター・グリーンが在籍したフリートウッド・マックらのブルース・ロックもシーン化して更なる広がりを見せていく。すべての根底にBLUESがあった。 『レッド、ホワイト&ブルース』には、ヴァン・モリソン、ジェフ・ベック、トム・ジョーンズらの演奏のほか、ジョン・メイオール、エリック・クラプトン、スティーヴ・ウィンウッド、ジョージィ・フェ..
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ロン・ウッド27歳〜ストーンズから誘い、ソロアルバム『俺と仲間』の製作

それはロン・ウッドが27歳を迎えた1974年の出来事だった。 「あの時、ミックと俺は取り決めを交わしたんだ。“I Can Feel the Fire”は俺のものにしていい代わりに“It’s Only Rock’n’Roll (But I Like It)”はストーンズのものにするってね。当時、俺にはミックのように交渉する力などなっかたんだけど…今思うと、それでよかったと本当に思うよ。」 1974年5月、数ヶ月間スイス滞在を終えたキース・リチャーズは、ロンドン南西部にあった特別区リッチモンドにあったロン・ウッドの家に居すわっていた。 二人は昼夜を問わず酒を呑み、ギターを鳴らし、一緒にザ・フーのコンサートに出かけるなどしながら、今までにないくらいの“急接近”をしていたという。 当時、ロンは1stソロアルバムの製作準備を進めていた。 同月の末(5/28)、ロンの自宅スタジオにはキースに加えてミック・ジャガーやミック・テイラー、それにエリック・クラプトンやジョージ・ハリスンまでが姿をあらわし、一大セッションを行ったという。 ロンはこのセッションを一つのターニングポイントとして、本格的なレコーディング作業をスタートさせることとなった。 そして一方で以前から自宅が近所ということもあって、ロンとミックはよく一緒に曲作りをしていたという。 ロンは自伝に当時のことをこんな風に綴っている。 「俺が“I Can Feel the Fire”を書いているとき、ミックが作曲の手助けをしてくれたんだ。同時期に俺はミックが書こうとしていた“It’s Only Rock’n’Roll (But I Like It)”の創作の手助けをしたんだ。レコーディングではデヴィッド・ボウイと俺がバックコーラスをしたよ。あの“アイライクイット!アイライクイット!”と歌っている声は俺達なんだ。ストーンズは出来上がった曲を1974年の7月にリリースし、USチャートの首位に立った。彼らは数ヶ月後にリリースが決まっていたアルバムにもそのタイトルを用いたんだ。あんな感じでセッションの中から生まれた曲は幾つかあるけど、誰がどの部分を書いたとか真相なんて誰にもわからないんだ。当時、俺達はそこいら中でアイディアをやりとりしていたからね。」 ストーンズへの加入については同年の早い時期にミックから直接誘いを受けていたとロン..
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久世光彦特集~フランスの漫画祭で顕彰された昭和の天才絵師・上村一夫が歌う「坊やお空をごらん」

フランスのアングレーム市で開かれるアングレーム国際漫画祭は、毎年1月末に開催されるヨーロッパ最大の漫画の祭典だという。 数百人にのぼる漫画作家と20万人以上の漫画ファンが世界中から集まり、数々の展覧会やイベントが開かれてにぎわう。 そし優れた作品に対して最優秀作品賞の表彰が行われるほか、漫画の発展に寄与した作家にグランプリに選ばれる。 近年は日本の漫画作品の紹介が進んだことから日本の翻訳作品のノミネートが増えて、2007年には水木しげるが日本人で初めて『のんのんばあとオレ』で最優秀作品賞した。さらに2009年には『総員玉砕せよ!』で遺産賞にも選ばれた。 また2015年には大友克洋がグランプリに輝いた。 そして今年、2017年は昭和の天才絵師と云われた上村一夫が、没後30年を経ているにもかかわらず遺産賞を受賞した。 会期中には上村一夫原画展も開催されて、盛況だったと伝えられている。 広告代理店宣弘社の企画課に勤め始めていた入社3年目の若いサラリーマンだった深田公之、後の阿久悠がまだ無名の頃に出会ったなかで、最も強烈な印象を受けたのは上村一夫だったと著書に記している。 上村一夫は武蔵野美術大学に在学中で、アルバイト社員として宣弘社にやってきた。 その頃の阿久悠はコピーも絵コンテも器用に書く宣伝部員だったが、デザイン科に通うという上村が来たので、絵の方でも手伝わせるかということになった。 上村一夫は21歳、阿久悠が24歳の時である。  ぼくは今も半ば冗談のように、もしもあの時上村一夫がぼくの近くに現れなかったら、いつまでも器用なだけの絵を描き続けて、将来を見失っていただろうと話す。  アルバイト学生を使う先輩正社員としてぼくは、絵コンテを描く指示を出したのであるが、その時のショックを忘れない。ほんの何コマか描いた絵を見ただけで、プロとアマの差はこういうことかと思ったのである。 阿久悠はこのとき初めて、天才と呼ぶにふさわしい才能と出会った。 2人が共に過ごしたのはわずか半年ばかり、短い期間だったが仕事ではなく遊びで充実していた。 上村一夫は歌が好きで酔うと必ず得意のフラメンコ・ギターを弾いて、好きな歌謡曲を歌った。 いちばん得意だったのは作詞作曲者が不詳で、巷の流したちによって歌い継がれてきた「坊やお空をごらん」である。 また、戦後間もないころのヒット曲「港が見える..
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テイラー・スウィフトだけじゃない! 美女揃いのカントリー歌手たち (後編)

カントリー美女企画の後編ということで、グループ/デュオから厳選した9名をご紹介します。なお、前編のソロシンガーを見逃した方は、こちらをクリックしてください。 テイラー・スウィフトだけじゃない! 美女揃いのカントリー歌手たち (前編) 美女をきっかけに楽しむカントリー音楽の世界。それでは旅の後半がスタートです。お気に入りのアーティストに出逢うとともに、これをきっかけにカントリーに対するイメージを一新することになるかもしれません。 *このコラムは2014年10月17日に公開されたもので、各アーティストのプロフィールは当時のものです。 ①Cheyenne Kimball / シャイアン・キンボール(24歳・テキサス州) シャイアン(写真左)は2006年、わずか15歳の時にロックアルバムでソロデビュー。その後、男女混成グループのGloriana(グロリアーナ)に2008〜2011年まで在籍。実はレイチェル(写真右)もかなりの美女! 爽やかなカントリーコーラスが印象的。 ②Hillary Scott / ヒラリー・スコット(28歳・テネシー州) 2010年にリリースした『Need You Now』がベストセラー(全米/カントリーチャートともに1位)。タイトル曲などでグラミー賞7冠に輝いたLady Antebellum(レディ・アンテベラム)のメンバー。現在のカントリー界で男女混成グループでは最も有名で人気がある。 ③Meghan Linsey / ミーガン・リンジー(30歳・ルイジアナ州) 婚約者ジョシュアとのデュオ、Steel Magnolia(スティール・マグノリア)として2011年にリリースしたデビューアルバムがいきなりヒット(全米7位/カントリー3位)。しかし相手の薬物中毒が原因で2013年に解消・解散。現在はソロ活動中。 ④Michelle Branch / ミシェル・ブランチ(31歳・アリゾナ州) 2001年に17歳でメジャーデビュー。ギターをかき鳴らすその姿は2000年代ロックのトキメキだった。そして2004年にはジェシカ・ハープとカントリーデュオ、The Wreckers(ザ・レッカーズ)としても活動。アルバムを1枚リリースした。ソロ作での復活が待望される。 ⑤Kimberly Perry / キンバリー・ペリー(31歳・ミシシッピ州) 3人姉弟で構成..
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二十歳の歌〜転がり始めた“二つの石”

1963年、ローリング・ストーンズはデビューシングル「Come On」をリリースした。 チャック・ベリーの曲を初々しくカバーしてシーンに登場した彼等。 その年にミック・ジャガーとキース・リチャーズは二十歳を迎えた。 さかのぼること二十年… 1943年、ロンドン中心部から電車で40分程離れたケント州ダートフォードという町で産声を上げたミック・ジャガーとキース・リチャーズ。 二人は家も近く、幼い頃から一緒に砂場で遊び“幼馴染み”として育つ。 青年となった頃、ミックはロンドンの大学(経済学部)へ、キースはアートスクールに通うようになる。 進路の違う二人は、顔を合わせる機会もなくなっていった。 そんなある日、“二つの石”が転がり始める出来事がおきた。 1961年、18歳のある秋の日。 二人はダートフォード駅のプラットホームで偶然再会した。 その時、ミックの脇にはシカゴのチェス・レコードから個人輸入したばかりの3枚のLP盤が、さり気なく抱えられていた。 ギターケースを持ったキースは、それを見逃すはずもなく声をかけた。 「よぉ、元気?」 「それどうしたんだよ」 それは、チャック・ベリー、マディ・ウォーターズ、ハウリン・ウルフという彼等の運命を引き合わせ、決定づけたアーティストのアルバムだった。 二人はブルースの話で盛り上がり、急速に接近した。 これを機に、当時ミックがやっていたバンドにキースが参加することになった。 その翌年の1962年、二人はロンドンの『Ealing Jazz Club』という店でブライアン・ジョーンズと出会い、新しいバンドが結成されることとなる。 バンド名は、アメリカの偉大な黒人ブルースマンであるマディ・ウォーターズの代表曲「Rolling Stone」にちなんで、ブライアン・ジョーンズが“ザ・ローリング・ストーンズ”と命名した。 この“運命的な出会い”を機に、その後、彼等は世界最高峰のロックバンドとして50年間以上“転がり続ける石”となった。 ♪「Rolling Stone」マディ・ウォーターズ マディ・ウォーターズ『ベスト・オブ・マディ・ウォーターズ+8 』 (2001年/ユニバーサルインターナショナル) iTunes Amazon ザ・ローリング・ストーンズ『GRRR! ~グレイテスト・ヒッツ1962 – 2012』 (2012年/ユニバ..
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ビギナーズ〜暴動とロマンスと英国モッズが詰まったクールな108分間

「ティーンエイジャー」という概念が誕生したのは1950年代のアメリカだと言われている。それまでは「大人か子供か」の選択肢しかなかった中、親世代への反抗意識を持った若者としてのあり方。そんな特定の年齢層が象徴となって浮かび上がった時、「ティーンエイジャー」は輝き始めた。そして少年少女たちのサウンドトラックは言うまでもなく、同時期に生まれたロックンロールだった。 しかし、50年代後半にはロックンロールは勢いを失ってしまう。エルヴィスは陸軍に徴兵され、ジェリー・リー・ルイスは13歳の従妹と結婚していることが発覚。バティ・ホリーは飛行機事故で亡くなり、チャック・ベリーは14歳の少女とのスキャンダルで告発される。事故に遭遇したリトル・リチャードは伝道師になるために引退し、エディ・コクランは自動車事故で他界、同乗していたジーン・ヴィンセントも重傷。アメリカでのロックンロールとティーンエイジの宴はひとまず終わりを告げた。 映画『ビギナーズ』(Absolute Beginners/1986)は、そんな時代のロンドンの「ティーンエイジャー」の姿を描いた作品。アメリカの影響を受けたイギリスでは、まさにこれから少年少女たちの時代が始まろうとしていた頃。来たるべき60年代のスウィンギング・ロンドンへの出発点だった。原作は1959年に刊行された同名のカルト小説で、著者のコリン・マッキネスは「怒れる若者たち(Angry Young Men)」と呼ばれた作家の一人。 物語は1958年の異常に暑いロンドンの夏、可能性に溢れた若者たちの溜まり場ソーホーが舞台。夢と希望を抱いた仲間たちが集まって情熱的な夜が綴られていく。駆け出しカメラマンのコリン(エディ・オコーネル)とファッションデザイナー志望のスゼッタ(パッツィ・ケンジット)もそんな光景にいるカップル。コリンは下町ノッティング・ヒルでジャズ・ミュージシャンで黒人のミスター・クールたちと一緒に住んでいる。 しかし、二人のロマンスもやがて搾取と金儲けにまみれた大人たちの企みによって引き裂かれてしまう。スゼットは大物デザイナーと結婚。落胆するコリンに「キミを成功の世界へ導こう」と声を掛けてくる謎の男(デヴィッド・ボウイ)。コリンは売れっ子カメラマンとなって華やかな毎日を送るが、心はどこか虚しかった。そんな中、ノッティング・ヒルの再開発を名目にファシストた..
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若者達に捧げられた歌〜すべて時代のせいにして

♪「すべて時代のせいにして」/泉谷しげるwith 藤沼伸一(TV番組スタジオLIVE) 若いときはすべてが他人(ひと)のせい こうなってしまったのも親のせい ひきこもるのも社会のせい 誰を憎んで何を消し去る 泉谷しげると云えば、1970年代に沸き起こった日本のフォークブームの中で小室等、井上陽水、吉田拓郎等と肩を並べる存在だった。 今や(一般的には)ドラマの脇役などで活躍する個性派俳優として知る人の方が多いのかもしれない。 2008年、彼は自身が還暦を迎えるタイミングにあわせて一曲の新曲を書き下ろした。 同年5月11日の誕生日には、全62曲にも及んだ還暦記念LIVEを実施し、圧倒的な存在感と“タフさ”を存分に見せつけた。 そのステージから数日後(5月18日)、彼は自身がMCを務めるTBS深夜の音楽番組『ライブR-ゼロ』の収録のために赤坂にあるTBSのスタジオにいた。 その日、番組収録のために集められたオーディエンスの年齢層は二十代が中心だった。 いつもと違う客層を前に“泉谷流のもてなし”が展開される。 彼の温かい人柄と強面口調の絶妙なバランスに、客席は笑いと期待感に包まれる。 ステージ上に相棒・藤沼伸一(日本屈指のROCK&BLUESギタリスト)が登場し、スタジオ内はピリっとした空気に変わる。 そこで彼は若者達を前に、この新曲「すべて時代のせいにして」を披露した。 曲に合わせてお客が手拍子し始めると、曲をいったん止めて一言。 「待て、手拍子すんな馬鹿!」 2013年のNHK紅白歌合戦でも彼が放った“お約束”の台詞だ。 カメラはじっと聴き入る若者達の表情を映していた。 Ah すべて自分のせいにして Ah すべて生れのせいにして Ah すべて過去のせいにして 自分の命を止めるな 彼らにはどんな風に響いたのだろう? 今、三十代となっているであろう彼らはどんな大人になったのだろう? 今年もまた成人を迎える若者達がいる。 広辞苑で「成人」を引いてみた。 ①幼い者が成長すること。成年に達すること。また、その人。成年以上の人。おとな。 ②心身の発育を終え、一人前となった者。 ※トップの画像はオフィシャルサイトから使用させていたきました 【泉谷しげるオフィシャルサイト】 http://www.wagasha.co.jp ♪「すべて時代のせいにして」/泉谷しげる(アルバムVe..
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ゴッドファーザー&サン〜BLUESがルーツ(根)でそれ以外はすべてフルーツ(果実)だ

2003年。アメリカでは「BLUES生誕100年」と称して、CD・書籍・番組・ラジオ・コンサートといったメディアミックスを通じて“魂の音楽”を伝えるプロジェクトが展開された。中でも音楽ドキュメンタリー『THE BLUES』は、総勢7名の映画監督が様々な角度から“魂の音楽”をフィルムに収めて大きな話題を呼んだ。 今回紹介するのは『ゴッドファーザー&サン』(Godfathers And Sons/マーク・レヴィン監督)。マディ・ウォーターズを親玉とするシカゴ・ブルーズの全盛期とその舞台となったポーランド移民が設立したチェス・レコードの一族ドラマを通じて、ブルーズとヒップホップの画期的なコラボレーションが実現するドキュメントだ。 不可能と思えた試みが一気に現実的になった瞬間だった。それはヒップホップ・アーティストであり音楽研究家でもあるチャックD(パブリック・エナミー)が、チェス・レコードの2代目マーシャル・チェスに送った一通のeメール。 チェス一族の伝記を読みました。興味を持つようになったきっかけは、あなたがプロデュースしたマディ・ウォーターズの『Electric Mud』(1968)のブルーズ・ロック・アルバムでした。ブルーズとヒップホップを結びつける映画を作ると聞いて連絡したんです。手伝わせてください。 『Electric Mud』はサイケデリック時代を反映した実験的なブルーズで、発売当時は酷評された。マディ・ウォーターズが作ったアルバムと思えなかったからだ。だがそれは間違いだった。ヒップホップ世代の若者たちには革新的に聴こえたのだ。チェス・レコードが残した功績はブルーズやロックンロールだけではなかった。 マーシャル・チェスとチャックDは二つの音楽を結びつけるため、マディと一緒に『Electric Mud』を録音した伝説的なメンバーと再会。さらにシカゴ育ちのラッパー、コモンが加わって現代版『Electric Mud』を再編成する。そして新しい「Manish Boy」に取り組んでいく。 二つの音楽につながりがあるのは間違いない。ヒップホップはブルーズの子供だ。僕は本気で成長したかったら、絶対にルーツを知らなきゃだめだと思う。親のことを知ったり、自分の文化のことを知ったりするようなもので、そうすればその文化に誇りを持って、世界に広めていけるんだ。(コモン) ベー..
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テイラー・スウィフトだけじゃない! 美女揃いのカントリー歌手たち (前編)

世界で最も影響力のあるスターの一人、テイラー・スウィフトがカントリー歌手だという事実。東京でも渋谷や原宿あたりに行けば、彼女のファッションやヘアメイクを真似る「テイラー女子」を多数見かけることができる。こんなこと、数年前までなら考えられなかったことだ。 あるいはカントリー界のスーパースター、ガース・ブルックスがエルヴィス・プレスリーと同じだけ本国でCD/レコード枚数を売り上げていること。シャニア・トゥエインのアルバムは女性アーティストの中で最も高いセールスを誇っていることもまた事実。 日本でカントリー・ミュージックの動向を追いかけている人は正直多くない。しかし、アメリカやカナダでは最も人気のある音楽ジャンルとして確立されているカントリーは、そのへんのロックやヒップホップやクラブ系より格段にクールで心地良くて、しかもヴィジュアル性も高い。 「馬にまたがって西部開拓」みたいな昔のハリウッドが都合良く作り上げたウエスタン映画や日本の演歌のような世界を未だにタグ付けたりする人もたまにいるが、これらは間違いとそろそろ気づいてほしい。 音楽探究心がある人であれば、カントリーがなければロックは生まれなかったこと、そもそもアイルランド系の移民音楽がルーツにあることくらいは知っているだろう。カントリーの原点であるアパラチアのマウンテン・ミュージックやブルーグラスは、ハイロンサムな心の風景を歌った移民たちのブルースに他ならなかった(*興味のある方は最下段に関連コラムリストを並べたのでぜひ読んでみてください)。 さて、それではカントリー美女を巡る短い旅のスタートです。今回の前編では厳選されたソロシンガー9名をご紹介。お気に入りのアーティストに出逢うとともに、これをきっかけにカントリーに対するイメージを一新することになるかもしれません。 *後編はグループ/デュオからの美女たちです。こちらをクリックしてください。 テイラー・スウィフトだけじゃない! 美女揃いのカントリー歌手たち (後編) *このコラムは2014年10月16日に公開されたもので、各アーティストのプロフィールは当時のものです。 ①Taylor Swift / テイラー・スウィフト(24歳・ペンシルベニア州) まずは今旬の彼女から。2006年のデビュー以来、リリースするアルバムすべてが大ヒット。ソーシャルメディアも駆使する世界的な..
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フィール・ライク・ゴーイング・ホーム~故郷ミシシッピとアフリカ大陸を結ぶBLUESの旅

2003年。アメリカでは「BLUES生誕100年」と称して、CD・書籍・番組・ラジオ・コンサートといったメディアミックスを通じて“魂の音楽”を伝えるプロジェクトが展開された。中でも音楽ドキュメンタリー『THE BLUES』は、総勢7名の映画監督が様々な角度から“魂の音楽”をフィルムに収めて大きな話題を呼んだ。 今回紹介するのは『フィール・ライク・ゴーイング・ホーム』(Feel Like Going Home/マーティン・スコセッシ監督)。ブルーズの源流を求めて、ミシシッピ・デルタから西アフリカのマリまでを旅する物語だ。 冒頭はミシシッピの森のある丘陵地帯。ファイフ奏者の伝説的存在オサー・ターナーがドラム隊を従えて庭を練り歩くシーンから始まる。ファイフとは横笛のことで、竹笛と草笛の中間のような音がする。自作のファイフとドラムによるこのオールド・ニグロ・スピリチュアルは、南部黒人の音楽の中でも最も古いものとして知られている。アフリカ直系の強烈な鼓動を感じすにはいられない。 故・駒沢敏器の著書『ミシシッピは月まで狂っている』には、オサー・ターナーに関するエピソードが記されている。オサーが初めてファイフを目にした日のことだ。 ある日、葦を手にした老人が丘からやって来た。幼い俺はその老人に聞いたんだ。 「おじさん、それは何ですか?」 「これはファイフだよ、ベイビー」 「僕にも作ってくれませんか」 「お前がいい子にしていて、ママの言うことをよく聞けば、作ってやってもいいぜ」 ある日の夕方のことだ。彼の住む場所へ行ってみた。中を覗くと、「あの坊やだな、こっちへ来い」という声が聞こえてきた。俺は恐る恐る中へ入って行った。するともう、ファイフができていたのさ。 「これがお前のファイフだ。どうせすぐには吹けやしないけどな」 「だめかもしれないけど、一生懸命やってみます」 旅の案内人はコーリー・ハリス。1969年生まれの彼は10代の頃にブルーズに目覚めたという世代。コリーは言う。 僕はブルーズに自分の先祖や歴史との結びつきを感じる。どの曲も歴史の一面を語っていて、ブルーズを演奏することで僕は理解した。自分を知るには過去を知るべきだし、行く道を知るには来た道を知るべきだと。 こうして旅はブルーズの故郷ミシシッピから始まっていく。コーリーはロバート・ナイトホークの息子サム・カーやウィリー..
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