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失われた週末〜人はなぜアルコールや薬物やギャンブルに依存するのか?

前回の『酒とバラの日々』(1962)では、アルコールに深く溺れて何もかもを失っていく男と女の姿、それでも現実を直視しながら未来のために生きようとする人間の尊厳について考えた。 酒、薬物、ギャンブル……もう一度記しておこう。人はそれに取り憑かれてしまうとどうなるのか? 自己嫌悪に陥るたびに、自己再生を誓う。にも関わらずそれを得るためなら周囲に嘘をつき、自分を哀れみ、正当化し、大切な人を裏切る。仕事や金を失い、家庭やロマンスを失い、時間と健康を失い、信頼と未来を失い……得るものといえば、卑劣な思考と悪夢のような幻覚、そして人生に対する不安だけだ。 やめたくてもやめられない。暗闇の中をずっと手探りで浮遊しながら彷徨うこの状況。人間的成長が一時停止されているこの苦境。そこは出口のない迷路。圧倒的な孤独な世界。抜け出す方法はただ一つ。光を見たければ、結局は自らの意思で壁をぶち壊すしかない。 アルコール依存症と真正面に向き合った最初の映画『失われた週末』(The Lost Weekend/1945)にも、そんな葛藤と苦悩を繰り返す男の姿が描かれていた。 舞台はニューヨーク。主人公ドン・バーナム(レイ・ミランド)は33歳で小説家。と言ってもそれで生計を立てているわけでもなく、書いている様子が一向にない。もちろん収入もあるはずがなく、早い話が兄のアパートに転がり込み、援助を受けながら居候している身だ。そして酒がないと生きていけない極度のアル中でもある。 この週末、兄の計らいで旅行に発ち、自然の中で酒のない生活を送る予定でいる。しかし荷造りをしながら、ドンは窓の外に隠してある酒のボトルが気になって仕方がない。恋人のヘレン(ジェーン・ワイマン)はそんなドンを献身的に支え、自分の問題のようになって考えてくれる天使のような存在。それでもドンは旅行や恋人より酒を選ぶ愚かな選択をする。 行きつけのバーでツケで飲もうとする。断られると、書き手の命であるタイプライターを質に入れようとする。金がないので、人の持ち物に手を出す。他人から金を借りる。悪循環が尽きた時、アル中専門の病棟に隔離されているドン。他の患者の様子を見て怖くなり逃げ出すものの、アパートでは遂に幻覚に襲われる。どうしても酒がやめられない。ドンは自殺することを決断するのだが、そこへヘレンが戻ってくる……。 どうしようもない姿に苛つく人も..
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クロッシング・ガード〜娘を交通事故で亡くした父親の“復讐”を描くショーン・ペン監督作

ブルース・スプリングスティーンの「Highway Patrolman」からテーマを得た監督デビュー作『インディアン・ランナー』(1991)で、それまでの「マドンナの夫」(85〜89年)や「パパラッチへの暴力」といった世間を騒がすスターのイメージから脱却したショーン・ペン。だが、本物を知る人たちには最初から分かっていた。彼は映画界の貴重な知的良心であることを。 『クロッシング・ガード』(The Crossing Guard/1995)は、そんなペンの監督第2作。傷ついた人間の心、葛藤する姿を描こうとする至極の名作。 一人でタイプライターの前に座っていたら、「クソッ、この役はジャック・ニコルソンだ」って気付いた。それで仕上がった脚本を彼に送った。3日して彼がやるよって電話をくれた。 ニコルソンにとっては、それはたくさん送られてくる脚本の一つに過ぎなかった。 たった90ページの脚本だった。特別な衣装もメイキャップも髪型も必要ない。大げさな演技も要らない。ただエモーションがあった。ストーリーではなく“人間の振る舞い”が中心にあった。ここ何年か出演してきた映画とはまったく違う自由があったんだ。「よし、やろう」と決めた。 共演には『インディアン・ランナー』で好演したデヴィッド・モース。かつてニコルソンの私生活での同棲相手だったアンジェリカ・ヒューストン。他にザ・バンドのロビー・ロバートソン、名優ジョン・サヴェージ。日本からは石橋凌の出演も話題になった。主題歌の「Missing」はブルース・スプリングスティーンが書き下ろし。サウンドトラックにはジュエルの「Emily」も収録されている。 また、本作はペンの親友でもあった作家チャールズ・ブコウスキー(1994年3月に他界)に捧げられている。この映画はブコウスキーが描いた短編小説の世界そのものだった。心が震えるラストシーンは彼が埋葬された墓地で撮影された。 クロッシング・ガードとは「交通安全指導員」のこと。交差点で子供たちや人々を誘導する係。この映画を観れば、なぜそんなタイトルが付けられたのかが分かるだろう。これが人生となると、行くべき道は誰も教えてくれない。ニコルソンは言う。 彼はもう何も感じることはできない。心の痛みを抱えていて、酒に溺れて女にも冷たい。周りの男たちも彼のことをまったく知らない。彼は怒りのために自分自身を..
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KISS結成物語③〜ニューヨーク・ドールズに影響を受けたメーキャップ、そしてデビューアルバム制作へ

「俺がこのバンド名を思いついた時、メンバー全員が賛成してくれたよ。KISSという名前には様々な意味があると思ったんだ。情熱の口づけだけでなく、死の口づけだってあるんだから。それに凄くわかりやすいし、馴染みがある言葉だしね。KISS?ああ、聞いたことあるよ!なんて、言ってもらえるんじゃないかと俺は思ったんだ。」(ポール・スタンレー) 当時、ニューヨークから出てきたバンドの大半はニューヨーク・ドールズをお手本にしていた。 1973年3月のある夜、ポールとジーンはドールズのライブを観るために繁華街のいかがわしいエリアにある“ディプロマット”というダンスホールへ出向いた。 そこは売春婦や麻薬依存症の連中がしけ込むような場所だった。 「演奏の方はそうでもなかったが、彼らの見た目は最高だった。彼らのウエストは俺の手首くらいしかなくてね。あれと比べたらジーンも俺もアメフト選手のようだった。彼らと同じやり方で勝負しても勝てるわけがないと悟ったよ。」 ポールとジーンは、自分たちのやり方で成功するにはどうすればいいか話し合った。 まず、ドールズのようなカラフルで女性的な衣装ではなく、もっと禍々しい全身黒のコスチュームにすることを決めた。 ポールは早速メタリックな黒いサテン生地を買ってきて、自分たちのお気に入りのベルボトムジーンズを解体して型紙をおこし、自作の衣装を完成させた。 「それまでミシンを使ったこともなかったし、ファスナーの付け方なんてまったくわからなかったよ。だけど出来あがった衣装をジーンも凄く気に入ってくれて、同じ物を作ってくれと頼んできた。」 さらに彼らは犬の首輪を買うためにペットショップを物色し、そこに気にいった物がないとわかると、SMプレイの道具やコスチュームが売っているアダルトショップへと出かけた。 一通り衣装が揃うと、今度は顔を白塗りにすることを考えついたという。 「リハーサルをしていた23丁目の倉庫に集まり、4人でドアに立てかけた鏡の周りに輪なって座り込んだ。どうやってメーキャップをすればいいのか?彼らは取り憑かれたように描いては拭き取りを繰り返して色々なアイディアを出し合ったんだ。」 ポールは右目の周りに星を描いた。 エースは宇宙っぽいデザインを考えた。 ピーターは猫、そしてジーンは悪魔をモチーフにしたメイキャップを作り上げた。 「ジーンのメイキ..
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グリーンブック〜黒人天才ピアニストとイタリア系用心棒が“南部”を旅するロードムービー

2019年2月下旬に行われた第91回アカデミー賞の授賞式。作品賞に輝いたのは『グリーンブック』だった。同部門で有力視されていたスパイク・リー監督の『ブラック・クランズマン』や黒人ヒーローを描く『ブラックパンサー』を抑えての受賞に一部批判があったようだが、本作は人種差別問題を描きつつ、あくまでも“人間の尊厳”を描こうとした点が支持された。 と書くと、何だか難しい作品に思えるが、ストーリーは至ってシンプル。観ているうちに心がジワジワと温まってくる実話だ。実在した黒人ピアニスト(ドン・シャーリー)とイタリア系の用心棒(トニー・バレロンガ)が、キング牧師が先導した公民権運動真っ盛りの1962年、自分たちのいるニューヨークからディープサウスと呼ばれる人種差別が激しい南部へコンサートツアーを巡るというもの。 1930年生まれのトニー・バレロンガは、トニー・リップという名で親しまれた下町ブロンクス出身のイタリア系。『グッドフェローズ』などマフィア映画を中心に俳優としても活躍した人。 60年代前半にNYの一流ナイトクラブ「コパカバーナ」で最強の用心棒として働いていた頃、店が改装のため閉店。失業で職を探しているところに、ドン・シャーリーの仕事が舞い込んだ。裕福ではないが、妻や息子たちなどファミリーの結束を大切にするバレロンガ。しかし言葉遣いが荒く、黒人に対する偏見が拭い切れない。 一方、1927年生まれのドン・シャーリーはジャマイカ系。わずか9歳でレニングラード音楽院に学び、クラシック音楽の英才教育を受けてきた。「神の域の技巧」と絶賛され、18歳でボストン・ポップス・オーケストラをバックにピアニストとしてコンサートデビュー。1955年には『Tonal Expressions』でレコードデビューも果たし、ビルボードチャートで14位を記録。 多言語を話し、音楽や心理学の博士号を持つシャーリーは知性と教養に溢れていた。カーネギー・ホールの上にある高級アパートに執事を雇って独り暮らし。ケネディ大統領からホワイトハウスに招かれて演奏するほど北部の都会ではVIP扱い。 だが、黒人であるという理由だけで「クラシックの世界で芸術家として名声を得ることは困難」な状況に直面し、ジャズやポピュラーを取り入れたピアノ・チェロ・ベースのトリオ編成で「エンターテイナー」路線をレコード会社から強いられている。ちな..
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これが本当の80年代サウンド⑤〜忘れられたヒット曲にもう一度スポットライトを

80年代の洋楽をまとめたネットコンテンツやラジオ番組や雑誌には、いつもお決まりのアーティストやヒット曲だけがラインナップされている。それは同時代のコンピレーションがリリースされても同じこと。今回の企画はそんなありきたりの選曲ではなく、聞くだけで(観るだけで)「ああ! いた!! あった!!」と歓喜するようなアーティストやヒット曲を思いつくままに集めてみた。題して「これが本当の80年代サウンド」。そろそろマドンナやマイケル・ジャクソンの呪縛から解放されよう。ドライブや通勤タイム、懐かしの音源探しに活躍すること間違いなし。(選曲/中野充浩) ジョン・フォガティ「The Old Man Down the Road」(1984年・全米10位) MTVに象徴されるように、80年代はポップをキーワードにした音楽やカルチャーが全盛だった頃。そんな時に突如として土臭いサウンドがチャートを駆け上がる衝撃。CCR時代と何ら変わらぬルーツ・ミュージックがここに復活したのだ。アルバムはNo.1を獲得。これを機に60年代を後追いした人も少なくない。 ピーター・ウルフ「Come as You Are」(1987年・全米15位) J・ガイルズ・バンドのヴォーカリストがソロ転向後にリリースした2作目。前作『Lights Out』(1984)から3年。再びピーター・ウルフ節全開のナンバーが詰まった傑作。この人の場合はブルーズが根底にあるので、例えどんなにポップな楽曲を演っても決して軽くならない力強さがある。それにしても何度聴いても飽きない声だ。 ジョン・ウェイト「Missing You」(1984年・全米1位) ベイビーズとして活動後、ソロに転向したジョン・ウェイト。80年代のヒットチャートを飾った膨大なヒット曲の中でも、これは極めて印象的な名曲。なお、ベイビーズは1988年にバッド・イングリッシュとして復活。No.1ヒット「When I See You Smile」を生んだ。 HSAS「Whiter Shade of Pale」(1984年・全米94位) さすがにこれを思い出せる人は少ないはず。HSASとは、Hagar Schon Aaronson Shrieveの略。サミー・ヘイガーやジャーニーのニール・ショーンらによるスーパーグループだ。聞きどころはやはりプロコル・ハルムのカバー「青い影」..
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KISS結成物語②〜ピーター・クリスとエース・フレーリーが加わってバンドとなる

ポールとジーンは楽曲を書き上げていく一方で、音楽以外の面においても“あるべき姿”を目指していった。 まず、二人は意識的に体重を減らそうと決めた。 そして自分たちが新たに生まれ変わるためのステージネームを考えた… ジーンは“ジーン・クライン(アメリカ移住後の本名)”から“ジーン・シモンズ”へ。 そしてポールは出生名の“スタンレー・バート・アイゼン”から“ポール・スタンレー”へ。 「俺はそれまで自分の名前が嫌いだった。スタンレー・バート・アイゼンなんて名前のロックスターには大したチャンスはなさそうだしね。エルヴィス・プレスリーやロジャー・ダルトリーとは音の響きすら違う。俺はビートルズに洗礼を受けて音楽を始めた。ポール・マッカートニーに憧れていたよ。プレスリー、ダルトリー…色々と組み合わせていくうちに思いついたんだ。ポール・スタンレー!」 ステージネームも決まり、曲もそろい、身体も絞れてき始めた彼らにとって、あと必要なものはバンドのメンバーだった。 まず彼らはドラマーを見つけることにした。 「ローリングストーン誌のページで募集の広告を見かけたんだ。面白そうなヤツだったから電話を入れてみた。」 彼らからの質問は一つだけだった。 「成功するためなら何でもやるか?」 受話器の向こう側で男が答えた。 「ああ、やるよ。」 「ドレスだって着るか?」 「もちろん。」 数日後、彼らはその男とグリニッジ・ヴィレッジにあるエレクトリック・レディ(1970年にジミ・ヘンドリックスが建てた録音スタジオ)の前で待ち合わせた。 彼らより明らかに年上でカッコいい服装で現れたその男の名前はピーター・クリスと言った。 彼らは近くのレストランに入ってピザを注文した。 話し始めて5分も経たないうちにピーターが突然口走った。 「俺のペニスは9インチ(約23センチ)ある。」 ポールは返答に困りながらこう返したという。 「えーと…チーズを回してもらえる?」 数日後、彼らはリハーサルスタジオに入る。 ほとんど読み書きができなかったピーターは、曲の構成を覚えたり、基本的な用語(ヴァース、コーラス、ブリッジ)などをまったく理解していなかった。 どこか偉そうな態度とは裏腹に、そのドラムプレイは特に手応えのあるものではなかったという。 「それでも彼のドラムはがむしゃらで活気に満ちていたよ。奔放で異端..
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KISS結成物語①〜ポール・スタンレーとジーン・シモンズの曲作り期間

【Introduction〜ポール・スタンレー】 1964年2月、12歳になったばかりの彼はTV番組『エド・サリヴァン・ショウ』でビートルズの洗礼を受ける。 「彼らが歌う姿を観て、俺は明確な目標を立てたんだ。俺も有名になり、尊敬され、憧れられ、あるいは嫉妬の的となる。こんな冴えない毎日から抜け出すための切符は“これしかない!”ってね。」 彼はそれまでギターを弾いたことなど一度もなく、当然曲を書いたこともなかった。 なんの根拠もないまま、彼はロックアーティストになるという目標を打ち立てたのだ。 1970年、18歳になった彼は商業デザイナーになるため通っていた、ニューヨークのハイスクール・オブ・ミュージック&アートを卒業。 アートカレッジに進むも…その頃の彼は、すでに「俺はロックスターになる!」と断言しており、美術に対する興味を失っていたため1週間で自主退学をする。 同年、ジーン・シモンズのバンドWicked Lesterに加入し、プロミュージシャンになることを目指して邁進し始める… 【Introduction〜ジーン・シモンズ】 1964年2月、当時14歳だったジーン・シモンズもポールと同じ日に同じ番組を見ていた。 ビートルズとの遭遇。 それはポールと同じく、彼にとっても人生を大きく変える出来事だった。 彼はその日のことを鮮明に憶えているという。 「日曜日の夜だった。俺は母の手作りのハンバーガーにかぶりついていた。エド・サリヴァンショーに登場したおかっぱ頭の4人組。話す英語に奇妙な訛りがあった。彼らが歌い出した瞬間に沸き起こった歓声は、爆撃のような音量だったよ! 凄まじい土石流のように、ビートルズのパワーが押し寄せてきたんだ!」 1968年、19歳になった彼は、ニューヨークのサリバンカウンティ・コミュニティ・カレッジで学びながら様々なバンドに参加する。 1970年からリッチモンド・カレッジの教育課程で学び、卒業後はマンハッタンの小学校で国語教師として教壇に立つ。 並行してバンド活動も続けており、1970年代初頭には音楽教師のブルック・オストランダーと共にプロ契約を目指す新しいバンドWicked Lesterを結成。 バンド仲間を通じて知り合ったポール・スタンレーが参加し、1枚のアルバムをレコーディングしたが…完成した内容に(特にジーンとポールが)納得できず、プ..
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エリック・クラプトン〜愛の告白の失敗と悲劇に取り憑かれた数年間

「人生が深刻な下降線をたどっていった時期の始まりだった」 ──エリック・クラプトンは自らの1970年の後半をそう語った。 それまでは順調なはずだった。1969年、名声を得たクリームでの活動を終えたクラプトンは、次にスティーヴ・ウィンウッドらと“スーパーグループ”のブラインド・フェイスを結成してアメリカツアーを行う。長年憧れ続けたブルース発祥の地(とりわけアメリカ南部)への音楽探究は、彼らの前座だったデラニー&ボニーとの出逢いを経て、いよいよ抑えきれないものとなっていく。 そして、本国イギリスで得た名声を捨て去るかのように、活動拠点をアメリカに移したクラプトン。1970年5月、新しい面々を迎えて放った初ソロアルバムの後、今度はデレク・アンド・ザ・ドミノスとして発表する曲作りに没頭。 しかし、順風満帆に見えた音楽活動の一方で、親友ジョージ・ハリスンの妻パティ・ボイドへの秘かな想いに長い間苦しんでもいた。それは“報われぬ愛”だと知りながらも、クラプトンの心にはいつも彼女がいた。 「彼女が、僕たちの状況を説明する歌詞がたくさん出てくるアルバムを聴けば、愛の叫びに負けて遂にジョージを捨て、自分と一緒になるんだって確信していた」 こうしてパティへの愛は、同年秋にリリースした不朽の名作『Layla and Other Assorted Love Songs』となって告白されることなるが、クラプトンの一途な想いは叶うことはなかった。 「それからしばらく一緒に暮らそうとやみくもに説得し続けたが、成果はなかった。ある日、必死の訴えが無駄に終わった後に『ジョージを捨てなければヘロインを常用する』と言った。彼女が悲しそうに微笑んだ時、ゲームは終わったと思った」 同年9月には、ジミ・ヘンドリックスがドラッグが原因でこの世を去った。同じギタリストとして、ミュージシャンとして、尊敬し合い交友もあったジミの死は、クラプトンに打撃を与えた。さらに私生児だった自分を育ててくれた祖父の死にも直面して、精神的な支えを次々と失っていく。 こうした状況の中、クラプトンは次第にドラッグやアルコールに深く溺れるようになり、現実から孤立してしまう。その影響はデレク・アンド・ザ・ドミノスの2ndアルバム制作中に最悪なものとなった。仕事がまったく手につかず、メンバー間には敵意さえ芽生え、大喧嘩の後、1971年..
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ボニー・レイットの決意〜ブルースマンの危機が暗闇に迷った彼女に光を与えた

ボニー・レイット──この名前を耳にすると、彼女の音楽がむしょうに聴きたくなってしまう。ブルース、R&B、ロック、ポップス、バラードなど、それがどんなタイプの音楽であっても、ボニーの声に包まれると実に味わい深く、聴く者の心に響き渡る。そしてあの極上のスライドギターが壮大な音楽の旅へと誘うのだ。こんな体験をさせてくれるミュージシャンはそうはいない。 1949年生まれのボニーは、父親がブロードウェイのスター、母親がピアニストというショービジネスの家庭で育った影響もあり、幼い頃から音楽に目覚めてギターを手にする。大学生になるとブルース・クラブで演奏するようになるが、この頃にプロモーターのディック・ウォーターマンと知り合い、フレッド・マクダウェル(ローリング・ストーンズが彼の「You Gotta Move」をカバーしたのは有名)やシッピー・ウォレスといった伝説のブルースマンやシンガーと孫と娘のような関係で交流。特にフレッドからはスライドギターを伝授してもらい、赤毛の白人スライドギタリスト/ブルースシンガーとして1971年にレコードデビューを果たす。 以後70年代を通じて、ボニーは良質な作品を発表し続けた。どのアルバムからもデルタ・ブルースやR&Bへの愛情、ルーツ・ミュージックに対する敬意が聴こえてくる。そして歌い手としても、ジャクソン・ブラウンやJ.D.サウザー、エリック・カズやジョン・プライン、カーラ・ボノフなどの優れたソングライターの曲を紹介してくれた。73年頃からはリトル・フィートのローウェル・ジョージの影響でエレクトリック・スライドも取り入れ始め、彼女は自分が信じる音楽だけをひたすら追求していった。 しかし、マーケティングやコマーシャリズムとは無縁のその音楽性は、セールスやチャートに結びつくことはなかった。71~86年までに9枚のアルバムをリリースしたものの(しかも86年のアルバムは3年前に制作されたもの)、レコード会社から契約を破棄されてしまう。「売れない」というのが一番の理由だった。 さらにボニーはこの時期、個人的なトラブルを抱えていたせいか、酒や薬物に溺れたといわれる。スリムだった身体も肥満になり、それは独特の歌声にも影を落としていた。ライ・クーダーと並ぶスライドの名手であり、リンダ・ロンシュタットとも比較されたことのある歌い手の目の前には、このまま忘れられるか..
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ブリット〜映画俳優として真の自信を得た“スティーヴ・マックィーン”の完成作

もし「一番好きな映画スターは?」と訊かれたら、あなたは誰をベスト3に挙げるだろう。きっと多くの映画ファンがこの名を口にするかもしれない。1960〜70年代に掛けて映画スターの代名詞だったスティーヴ・マックィーン。「キング・オブ・クール」と称され、死後40年近く経った今も、名だたる俳優やミュージシャンからリスペクトされる銀幕の反逆児。 男は1980年に50歳で病に倒れて亡くなってしまった。80年代や90年代のスクリーンにマックィーンがいたならば、我々は映画に対して今以上にワクワクした気持ちでいたのだろうか。あの微笑み。あの一匹狼的な役柄。あの男を感じさせる色気。そして今にも画面から飛び出してきそうな迫力。生きていれば90歳近く……妄想せずにはいられない。 マックィーンの人生の序章が、恵まれなかった幼少時代や非行に走った思春期、海兵隊だったことは有名な話だ。重要なのは、ニューヨークでテレビの修理工をしながら、それまで縁のなかった演技を学び始めた時から、マックィーン物語の次章はめくられたということ。 初主演作は1958年の『マックィーンの絶対の危機』。このどうしようもない低予算映画の話が来た時、マックィーンは2500ドルを今すぐもらうか、収益の10%を分配するか、二択を迫られた。迷わず前者を選択したものの、映画は予想に反して大ヒット。1000万ドルの収益を上げたという。 同年から1961年までTVシリーズの『拳銃無宿』に出演。人気を博す。現場で主張する姿勢は「TV俳優の分際で」と馬鹿にされたが、マックィーンはブラウン管の世界に固執するつもりはなく、二度とTVには戻ることはなかった。 『戦雲』(1959)では主演のフランク・シナトラをしのぐ存在感を見せ、『荒野の七人』(1960)では往年のスターであるユル・ブリンナーとの確執もあった。だがここでも、ユルとのツーショットでセリフがないシーンでさえ、マックィーンの魅力が勝っていた。 『大脱走』(1963)でスターの仲間入りを果たしたマックィーン。それでも自身を映画スターと自覚することができず、通りで視線を感じると、自分のことかと驚いたりもした。『シンシナティ・キッド』(1965)でのギャンブラーはハマリ役となり、続く『ネバダ・スミス』や『砲艦サンパウロ』(共に1966)で揺るぎない人気を築く。 そんな中、自身のブロダクションであ..
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ゲッタウェイ〜前代未聞のアドリブで伝説になったスティーヴ・マックィーンの代表作

1968年の主演作『ブリット』で、体制側である刑事役を演じたにも関わらず、“瞬間の演技”ともいうべき孤独感を貫き、やはり権力とは無縁のアウトローであり続けたスティーヴ・マックィーン。映画俳優として本当の自信を得て、長年思い描いてきた“マックィーン像”を遂に完成させた。 その後、ウィリアム・フォークナー原作の『華麗なる週末』(1969)、自らのカーレースへの情熱が全編に渡って流れた『栄光のル・マン』(1970)、サム・ペキンパー監督の『ジュニア・ボナー』(1971)と、同時期の世界的ロックバンドのように年に1作のペースで順調にキャリアを重ねたマックィーンだったが、私生活では深い溝と直面していた。売れない頃から一緒だったニール・アダムスとの15年の結婚生活を終えたのだ。 心機一転した43歳のマックィーンは、シドニー・ポワチエやバーブラ・ストライサンドやポール・ニューマンらと新たにFAP(ファースト・アーティスツ・プロダクション)を設立。その第1回作品となったのが代表作の一つ『ゲッタウェイ』(The Getaway/1972)だ。 『ワイルド・バンチ』『わらの犬』など、バイオレンスの巨匠として知られるサム・ペキンパー監督と二度目のタッグを組み、映画は大ヒット。脚本はウォルター・ヒル、音楽はクインシー・ジョーンズが担当した。 また、共演には『ある愛の詩』でスターとなった知性派女優アリ・マッグロー。34歳の彼女は映画会社の重役と結婚していたが、正反対のタイプであるマックィーンと恋に落ちてしまう。二人は撮影中に婚約を発表して話題になった。 撮影期間は1972年2月23日から5月10日の二ヶ月半。冒頭の刑務所シーンからラストの国境を越えるシーンまで、ストーリー展開に沿ってオールロケで進められた。映画は権力者の罠から逃れるアウトロー夫妻の逃避行もの。タイトルの“Getaway”には高跳び、事を上手く運ぶなどの意味がある。マックィーンの魅力が活かされた傑作として人気が高い。 実は撮影中、ペキンパーとマックィーンは脚本にはない“アドリブ”を仕掛けた。キャロル(アリ・マッグロー)の身勝手な危機一髪の行動に、ドク(スティーヴ・マックィーン)が冷静に怒り出すシーン。何とマックィーンはマッグローを何度も殴ったのだ。何も知らない彼女はびっくりしたに違いないが、カメラの前でそのまま演技を続けたとい..
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ミステリー・トレイン〜ジョー・ストラマーや工藤夕貴らが出演したジャームッシュ映画

『ストレンジャー・ザン・パラダイス』の後、一通の奇妙な手紙がジム・ジャームッシュの手元に届いた。そこには「あなたの映画が好きだ。一緒にビールを飲もう。私は東京に住んでいる」と書いてあった。もしNYに来られるならOKだよと返事すると、10日後、本人がやって来た。 JVCの平田国二郎氏だった。彼はジャームッシュの新作のためにプロデューサーになった。監督に映画創作のための自由を保証し、製作費もバックアップしたこの作品は、『ミステリー・トレイン』(MYSTERY TRAIN/1989)と名付けられて1989年のカンヌ映画祭で初披露された。 いつも一緒に仕事をしたいと思ってる俳優やミュージシャンたちのことを考え、脚本作りをするというジャームッシュは、今回も様々な顔ぶれを思い浮かべた。ジョー・ストラマー、スクリーミン・ジェイ・ホーキンス、ニコレッタ・ブラスキなど。その中には日本人俳優の工藤夕貴もいた。 当初バラバラだったアイデアは一つにまとめられ、エルヴィス神話が生き続けるテネシー州メンフィスを舞台に、古びたホテルに泊まる3組のストレンジャーたちの同時進行する3つの物語という形で仕上がった。撮影は1988年の夏にオールロケ。ジャームッシュ初のカラー作品だが、カメラが人物をゆっくりと追うスタイルは不変。ハリウッドでのビジネスなどまったくもってウンザリだと、彼らしい美学を貫く秀作だ。 「ファー・フロム・ヨコハマ」は、列車に揺られて憧れのメンフィスにやって来た日本人カップル、ミツコ(工藤夕貴)とジュン(永瀬正敏)の姿が描かれる。サン・スタジオに行くかグレースランドに行くかで迷う二人は、メンフィスが自分たちが住む横浜と似ているかどうかなど他愛のない会話を繰り返し、ホテルでベッドインする。 「ザ・ゴースト」は、メンフィス空港から町に辿り着いたイタリア人女性ルイーザ(ニコレッタ・ブラスキ)の奇妙な1日を追う。雑誌を大量に買わされたり、馬鹿げたエルヴィスの作り話に金を払い、無一文の見知らぬ女とホテルの同じ部屋に泊まったり、何かと人は良さそうだが、明らかにマフィアの女であるところが面白い。ルイーザはその夜、ベッドでエルヴィスの幽霊を見る。 「ロスト・イン・スペース」は、女と仕事を同時に失って人生に絶望しているイギリス人のジョニー(ジョー・ストラマー)と仲間たちの一夜。酒場で銃を振り回すジョニー..
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8 Mile〜マイクを一度握ったら“裁かれる世界”を舞台にしたエミネム主演作

かつてデトロイトは、フォードやゼネラル・モーターズやクライスラーといった自動車産業の本拠地が置かれて栄華を極めていたが、1960年代に入ると人種間の摩擦が起こって暴動沙汰が発生。裕福な白人層は郊外へ逃れ、街の中心部は次第に荒廃化。80年代には産業自体が衰退して失業率や貧困率も上昇。ソウル・ミュージックを牽引したモータウン誕生の地はいつしか荒れ果てた姿に変わり、治安の悪化も問題化していく。 8マイルはデトロイトの境界線だ。俺が育った頃は人種の境界線でもあった。黒人と白人を分離する明確なラインだ。 エミネム自身が言うように、“8マイル”とはアメリカのミシガン州デトロイトに実在するストリートの名前。南側に位置するデトロイト・シティは住民の大半を黒人が占める街で、北側のウォレンは同様に白人が占める街になっていた。ヒップホップに生きる者にとってはシティは本物。郊外は偽物に過ぎない。 1972年10月生まれのエミネムは、父親のいない家庭で育ち、幼年期は生活保護を受ける母親と数ヶ月ごとにカンザス・シティとデトロイトを行き来する生活を繰り返す。転校のために友達もできず、イジメも受けるようになった。そんな14歳の時に転機が訪れる。ヒップホップに目覚めて本格的にラップを始めたのだ。 その後、レストランなどで働きながら、クラブでラップバトルに挑んだ日々をエミネムはこう回想している。 バトルに負けた時は、もう自分の持ってる世界が粉々に砕けていくっていう感じだった。「そんなの大したことない」「また挑戦すればいいだろう」って言われるけど、あの時は人生おしまいだって気がしたよ。バトルは全人生を賭けたスポーツみたいなものだ。馬鹿げているように見えるかもしれないけど、俺たちにとってはこれこそが自分の世界なんだから。 95年には娘の父親にもなり、翌年に地元レーベルからアルバムをリリースするも注目されず。デトロイトの暮らしから抜け出すことを夢見ながら苛立ちが募っていた頃、98年にリリースした自主制作テープ「ザ・スリム・シェイディ EP」(The Slim Shady EP)」がローカルヒット。ドクター・ドレーのレーベル、アフターマスとの契約を勝ち取る。 99年、27歳の時にメジャー・デビューアルバム『ザ・スリム・シェイディ LP』(The Slim Shady LP)をリリース。全米2位を記録し..
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レス・ザン・ゼロ〜青春文学と映画に衝撃を与えたカジュアル・ニヒリズムの極致

1980年代後半、日本でもちょっとした話題になったアメリカ発の新しい文学の動きがあった。それは「ニュー・ロスト・ジェネレーション(あらかじめ失われた世代)」と呼ばれ、新しい感覚を持った書き手たちが続々と衝撃的な小説を発表するようになった。この動向は当時、トラベル作家の故・駒沢敏器さんが編集者で参加していた頃の雑誌『Switch』が積極的に紹介していた。 アメリカには1920年〜30年代に「ロスト・ジェネレーション(失われた世代/迷える世代)」と称された作家たち(フィッツジェラルドやヘミングウェイなど)がいて、まさにその再構築的なムーヴメントだったわけだ。 ジェイ・マキナニーの『ブライト・ライツ、ビッグ・シティ』はNYを舞台にした20代のための甘い生活を描いた救済物語だったが、今回紹介するブレット・イーストン・エリスの『レス・ザン・ゼロ』はLAを舞台にした10代のための“カジュアル・ニヒリズム”の金字塔的作品。 1985年に刊行(日本訳版は1988年)されてベストセラーになった本作は、語り手の18歳のクレイが東部の大学からクリスマス休暇で故郷のLAに戻って来るところから始まる。書き出しの「ロスのフリーウェイって合流するのが怖いよね」という恋人ブレアの台詞から、この物語が何かとてつもない力を秘めているという予感がしたことを覚えている。 登場人物の多くが映画界の重役の子弟たちで、みんなプール付きの豪邸に住んでいたり高級車を乗り回しているようなリッチに環境にいる。主人公のクレイは恋人ブレアや親友ジュリアンらとその場限りのような空虚な会話を交わしながら、パーティ、ドラッグ、音楽、セックス、クラブ、レストラン、ビーチといった行動や場所を延々とループ(繰り返す)。そこに若さの特権とも言える前向きな姿勢や欲望など一切ない。あるのは金と時間だけだ。 多発する犯罪や売春といったLAの汚れた光景や、冷め切った関係の両親や妹たちのせいか、クレイは女の子たちを見ると、“あいつも売りに出ているのか”と思わずにはいられない。そして仲間たちの最悪の事態を期待している自分もいたりする。恋愛にも深入りしない。好きにならなきゃ、苦しまなくてすむ。嫌な思いなんかしたくない。 その反面、高校時代のことや祖父母との想い出は純粋すぎるほど大切に回想もできる。そんな現実と過去を行ったり来たりしながら、クレイは何も..
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夜の人々〜ボウイとキーチの“愛の逃避行”を描く伝説のフィルム・ノワール

監督ニコラス・レイ──のちにヌーヴェル・ヴァーグの面々やヴィム・ヴェンダースといったヒップな映画作家たちから絶大なリスペクトを受け、ハンフリー・ボガート主演の『孤独な場所で』(In A Lonely Place/1950)、『大砂塵』(Johnny Guitar/1954)、ジェームズ・ディーン主演の『理由なき反抗』(Rebel Without a Cause/1955)など心に残る名作を遺した映画界の最重要人物の一人。 『夜の人々』(They Live by Night/1948)は、そんなニコラス・レイの初監督作だった。原作はエドワード・アンダーソンが1937年に発表した小説『Thieves Like Us』。若い恋人たちの逃避行を描いたこの作品は、1974年にロバート・アルトマン監督によってリメイクされ、『ボウイ&キーチ』として蘇ることになる。 『夜の人々』は、いわゆるフィルム・ノワールの傑作として語られることもある。フィルム・ノワールの定義は諸説あるのでここでは詳細を控えるが、大まかに言えば、1940〜50年代に低予算で作られたモノクロ犯罪映画の総称で、暗く悲観的なムードを特徴とする。 登場人物たちは何かしらの影を抱え、何者かに追われる状況にあり、舞台は決まって夜となる。このジャンルを愛する映画ファンも少なくない。余談だが、あの『ブレードランナー』もこのフィルム・ノワールを意識して作られた。 ただ、この作品が他のフィルム・ノワール群と一線を画すのは、過酷な現実や暴力に生きるアウトサイダーたちの姿と、ボウイとキーチの運命的な出逢いや純愛という対極的世界が、一つのストーリーの中で同時に呼吸していること。ゆえに観る者の心には、極めてメロドラマ的な“悲しくて美しい世界”が広がっていく。 『俺たちに明日はない』のボニー&クライドは、愛し合う犯罪者だった。ウィリアム・アイリッシュが『暁の死線』で描いたブリッキーとクィンは、時間に追われる恋人たちだった。『夜の人々』におけるボウイとキーチは、この狭間にいるような気がしてならない。 当初、プロデューサーのジョン・ハウスマンは、この物語に惚れ込んでいたニコラス・レイこそがこの作品の監督に相応しいと考えていた。だが、レイには映画監督としての実績がなかったため、映画会社RKOから難色を示された。しかし、1947年にリベラル派のドー..
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