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ベイ・シティ・ローラーズの大ヒット曲「Saturday Night」

ロックンロールで踊り続けるんだ 土曜の夜に そう土曜の夜はね 体の奥から湧き上がるリズムに合わせて踊るのさ 土曜の夜に 土曜の夜にさ 僕はもう待ちきれないよ! 僕はデートの約束したのさ! クイーン、カーペンターズ、ビリー・ジョエル、KISS、ABBAなどなど…1970年代と言えば、魅力的で個性的なスタイルのグループやアーティストが次々と登場した時代だった。 ティーンエイジャーの少女達を中心としたファンの熱狂振りから「ビートルズの再来」とも言われたベイ・シティ・ローラーズ(スコットランド・エジンバラ出身)もまた、70年代の音楽を語る上では外せないバンドだった。 ポップなロックサウンドとタータンチェックがトレードマークだった彼らは、日本でも一大旋風を巻き起こすこととなる。 この歌がヒットしたのは、1973年に公開された映画『アメリカン・グラフィティ』(日本公開は1974年12月)のヒット後で、50〜60年代のオールディーズポップスに注目が集まっていた。 古きよき時代のロックンロールやオールディズポップスのエッセンスを備えた彼らのサウンドは、当時の若者達にとってこの上なくキャッチーなものだった。 なんでもOK!パーティさ! 土曜の夜に 土曜の夜にはね そう!土曜の夜なんだ! 今夜が土曜の夜なんだ! 1975年、彼らはこの「Saturday Night」で初の全米チャート制覇を果たす。 しかし…実はその2年前(1973年/リードボーカルはノビー・クラーク)に発売した本国イギリスでは、当時全くヒットしていなかったという。 翌1974年に、新しいヴォーカリストとして加入した甘いマスクのレスリーマッコーエンがバンドの流れを大きく変えることとなる。 レスリーのボーカルに差し替え、アメリカでシングルとして発表したところ、一気にブレイクを果たす。 首位の座にあったのがたったの1週間だけだったとは言え、同曲はゴールドディスク認定となった。 後にも先にも、彼らが全米チャートを制した唯一の曲となった。 同曲の大ヒットからさかのぼること10年… 1965年に、ベースのアラン・ロングミュアーとドラムのデレク・ロングミュアーの兄弟と4人の友人によりThe Saxonsというバンドが結成された。 彼らは1968年、Bay City Rollers(ベイ・シティ・ローラーズ)に改名..
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平成はここから始まった!〜“バブル時代”の本当のサウンドトラックとは?(後編)

バブル──今から想えば、それはとてつもなく華やかで眩しくて、余りにもワイルドで切なかったパーティのような時代。「平成の序章」とでもいうべきあの頃に戻ろうとする時、一体どんな歌が聴こえてくるのだろう? だが、音楽そのものを振り返るだけでは、この時代の音楽は決して鳴り響いてくれない。大切なのは、都市部の街を舞台に心象を描いてきた若い世代の動向を捉えること。当時、人口的にもピークを迎えつつあった若者の視点に立つことによって、ポップカルチャーとしてのバブルの本質が見えてくる。音楽が聴こえてくる。 日本中が踊り狂った“バブル”。そしてそんな時代に刻まれたサウンドトラックとは? 前編(第1〜2章)はこちらから。 ──第3章 J-POPとミリオンセラーの量産 昭和と平成の境目、1989年。多くのメディアが「さよなら80年代」特集を組む中(同年に昭和歌謡の象徴・美空ひばりが死去)、制御不能なバブル経済はさらに膨らみ続け、日経平均株価は年末には3万8915円の最高値を記録した。しかし、パーティを繰り広げる世代には1989年も1990年も別に変わりはなかった。時代は決して十年単位で区切れない。 音楽業界が数年間の歳月を掛けて浸透させていくことになる「J-POP」を掲げ始めたのも、ちょうどこの頃だ。CDの売り上げがアナログ盤を上回ったのは1986年。そして1989年にはアナログ盤の生産がストップして時代は完全にCDへ。 音楽を取り巻く環境にも変化が起こり、大型店舗(タワーレコード、HMV、ヴァージン・メガストアズなど)の出店、カラオケボックスの登場、レンタル店やコンサート施設の拡大、安価なCDラジカセの販売といった影響もCD普及と市場活性に一役買っていた。 歌が自分たちのライフスタイルを彩ってくれるという感覚は、CDというパッケージを得ることでより強まった。TOKYOにおいて音楽は、消費と流行に明け暮れるための“気分作り”であり、パーティを共有するための“マストアイテム”だった。若い世代はCDを毎月何枚も買うことが当たり前になった。1983年以来途絶えていたミリオンセラーが1990年以降になって量産されるのは、こうした経緯があったからだ。 きっと君は来ない 一人きりのクリスマス・イブ Silent Night Holly NIght 1989年から数年間、クリスマスシーズンになる..
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平成はここから始まった!〜“バブル時代”の本当のサウンドトラックとは?(前編)

バブル──今から想えば、それはとてつもなく華やかで眩しくて、余りにもワイルドで切なかったパーティのような時代。「平成の序章」とでもいうべきあの頃に戻ろうとする時、一体どんな歌が聴こえてくるのだろう? だが、音楽そのものを振り返るだけでは、この時代の音楽は決して鳴り響いてくれない。大切なのは、都市部の街を舞台に心象を描いてきた若い世代の動向を捉えること。当時、人口的にもピークを迎えつつあった若者の視点に立つことによって、ポップカルチャーとしてのバブルの本質が見えてくる。音楽が聴こえてくる。 日本中が踊り狂った“バブル”。そしてそんな時代に刻まれたサウンドトラックとは? ──第1章 歌い手から“聴き手”の時代へ 1980年代〜90年代の中でも特別な輝きを放っていた数年間──バブルの定義は、一般的には旧経済企画庁がバブル景気と定めた1986年12月~1991年4月の53ヶ月間とされている。その間、大人たちは株や不動産の動向に一喜一憂して、投資という名のマネーゲームに明け暮れていた。 東京の街々には大資本が投下され、遊び心を満たしてくれるスポットやオシャレな店が空間プロデュースの名のもとに乱立。建設中のインテリジェンスビルも至る所で背を伸ばし始めた。都市化が謳われた東京は、日本だけでなく世界中からの情報を一極集中させようとする。こうして巨大なメディアとしての「TOKYO」が誕生した。 そんな時代のヴィジュアルイメージを担ったのは、TOKYOを舞台に行き来する情報や流行に最も敏感だった10代や20代の若者たち。 誰もが次々と起こるムーヴメントやファッション、スタイリッシュな夜遊びや恋愛に次第に心を奪われるようになり、気がつけば消費マーケットの中心に祭り上げられた。札束とかくれんぼしていたような大人たちは、若い世代が集う渋谷や六本木に漂う甘い空気が、一夜にして大金に化けることを知っていたのだ。 音楽業界もこの空気や光景をいかに嗅ぎ付けるかが重要になってきた。いつまでもTVの音楽番組やバラエティ番組といったマスメディアから発信される“作られたアイドル”を提供するだけでは、新しい時代の中で特別な青春を謳歌しようとする若い世代の気分を捉えられるはずがなかった。 そしてTOKYOというパラレルワールド(同時並行世界)において、主役は歌い手ではなく、“聴き手”に他ならなかった。 も..
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ガーランド・ジェフリーズの名盤〜ニューヨークで生まれた混血アーティストによる“80’sストリートロック”の金字塔

ニューヨークのブルックリンが生んだシンガーソングライター、ガーランド・ジェフリーズをご存知だろうか? 1943年、黒人と白人のハーフの父親とプエルトリカンの母親との間に誕生した彼。 ブルース、ロック、ソウル、フォーク、ジャズ、レゲエなどなど…血も生まれ育った環境も含め、彼の音楽はまさに“人種の坩堝(るつぼ)”を体現しているかのようである。 今日は、そんな彼の作品の中でも“名盤”と言われているアルバム『Escape Artist』(1981年リリース)にスポットをあてます♪ まずは同作をリリースする際に、本人が語った言葉をご紹介します。 このアルバムは、私のレコーディングキャリアの中でもハイライトの一つと言えるだろう。私にとって大事なのはとても単純なこと。それは「歌」と、素晴らしい「ミュージシャン」だ。このアルバムに参加してくれたルー・リード、リントン・クェシ、デニス・ボーヴェル、ウィア・リンド、スティーヴ・グールディング、アンドリュー・ボドナー、マイケル・ブレッカー、ダニー・フェデリッチ、ロイ・ビタン、ビッグ・ユース、G.E.スミス…まったく、なんて顔ぶれだ!こういうメンバーとリハーサルして、ニューヨークとロンドンでテープに吹き込んだ。このアルバムの曲はどれも本当に生き生きした感じになった。まるで生きた人間、現実の風景のよう、力一杯に、生の歌声があふれている。しかも、ミックスはボブ・クリアマウンテンときてる!すごく満足できた完璧なアルバムだ! 本人による紹介文に付けくわえると本作には、エフェクティヴなプレイで当時最も革新的なギタリストだったエイドリアン・ブリュー、マイケル・ブレッカーの兄のランディ・ブレッカー、さらにはニューヨーク・ドールズのデビッド・ヨハンセンやトーキング・ヘッズとの活動でも知られるノーナ・ヘンドリックスなども参加している。 特にリントン・クェシ・ジョンソン、デニス・ボーヴェルといったダブ関係のミュージシャンの参加はかなりの注目と期待を集め、当時の音楽関係者からは同時期に大活躍していたザ・クラッシュの名盤『Sandinista!』(1980年)の“ポップ版”といったような紹介のされ方もしていたらしい。   かつて70年代から80年代にかけて、ブルース・スプリングスティーンを筆頭に“ストリートロック”というジャンルがカテゴライズされつつあった。 そん..
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酒と泪と男と女〜“孤高の音楽家”河島英五という生き方

昭和を代表するこの名曲「酒と泪と男と女」は、1975年にリリースされた河島英五とホモ・サピエンスのデビューアルバム『人類』に収録されたのが初出。 作詞作曲は河島英五。 翌1976年には河島英五のソロ名義でシングルリリースされ、オリコン週間ランキング9位のヒットを記録した。 ──1952年、大阪府東大阪市で生まれた河島英五。 1969年、17歳の頃からフォークソングを歌い始める。 大阪府立花園高校を卒業後、ホモ・サピエンスというグループで本格的に音楽活動をスタートさせる。 そのスタイルは“支離滅裂派フォーク”とも呼ばれ、あのねのねらと活動を共にした時期もあった。 また、その風貌と歌唱スタイルから「吉田拓郎の再来」などと騒がれていたという。 1973年、21歳でホモ・サピエンスを解散した彼はソロ活動開始させる。 「音楽が好きだから、売れる売れないに関係なく歌い続けたい!」 そんな気持ちのまま1975年にソロ名義で再デビューを果たす。 翌1976年6月、シングル「酒と泪と男と女」を発表し大きな注目を集める存在となる。 当時、彼はこんな本音を語っている。 「いきなり売れなくてもいいから、ライブを積み重ねてゆくことによって少しずつ支持者を増やしていきたい。」 しかし、本人の望みに反して彼は一躍“時の人”となる。 コンサート会場はどこに行っても満員。 行く先々に彼の周りには人だかりができるようになったという。 普通のアーティストならば「ナンバーワンを目指して!」「次なるヒットを狙って!」となるところだが…彼の場合は違った。 彼は独自の活動を望み、それを行動にうつしたのだ。 まずはインド、アフガニスタン、ペルー、トルコ、ネパール、ケニアなどへと“一人旅”をした。 1980年には四国八十八カ所を巡礼しながら“お遍路ライブツアー”を決行。 翌1981年には、東北〜北海道への全行程3,000kmにもおよぶ“円空仏(えんくうほとけ)探訪ツアー”をバイクで制覇。 その後も彼は独自の音楽活動を展開し、日本の音楽界において“唯一無二”の世界観を築き上げる。 「酒と泪と男と女」のヒットに流されることなく、彼は庶民の暮らしに触れ、音楽を通して共に喜怒哀楽を共有し合うことにこだわり続けたのだ。 コンサート活動は、大都市だけでなく山間部や僻地でも行い、音楽を通じてファンと交流することに主眼を置い..
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ロッド・スチュワート27歳〜True Blueに込めた自信と自嘲

1972年、ロッド・スチュワートはフェイセズに加入して3年目を迎えた。 1月10日生まれのロッドは、年明け早々に27歳になった。 当時、フェイセズは2ndアルバム『Long Player』のセールスを着実に上昇させながらアメリカツアーを終え、イギリスに戻ってきたばかりだった。 その頃のフェイセズの人気といえば、アメリカの2万席あるスタジアム公演が、ほんの数日間で売り切れるほどの人気だった。 フェイセズに加入してからのロッドは、バンドの活動と平行して、ソロシンガーとしてのアルバムもヒットチャートに叩き込む、まさに“二足のわらじ”をはくスター歌手だった。 この年、ロッドは4枚目のソロアルバム『Never a Dull Moment』を発表し、ソロアルバムとして前作にあたる『Every Picture Tells A Story』(1971年)に続き2作連続で全英アルバムチャート1位獲得を果たすこととなる。 そこにはボブ・ディランの「Mama You Been on My Mind」や、ジミ・ヘンドリックスの「Angel」、エタ・ジェイムズの持ち歌として有名な「I’d Rather Go Blind」、そしてロッド自身が敬愛して止まないソウルシンガー、サム・クックの「Twisting the Night Away」など、ジャンル・国籍・人種を超えた名曲たちが収録されていた。 この頃のロッドのカヴァー選曲、及びアレンジのセンス、そして何より歌唱のクオリティーは、後に更なる成功を遂げてゆく彼の音楽キャリアにおいて“最盛期”と言っても過言ではないくらいに優れている。 前作アルバムからのシングルカット曲「Maggie May」が大ヒットを記録して期待が高まる中、この『Never a Dull Moment』のオープニングナンバー「True Blue」はロッドと盟友ロン・ウッドによって共作された。 そして、この曲はソロとバンドの垣根を超えて、フェイセズの全メンバーが揃った編成でレコーディングされたという。 曲調もサウンドも“完璧”と言ってもいいほどに、当時の彼やバンドの充実振りがうかがえる一曲となっている。 興味深いのは、ロッドが綴った歌詞である。 そこには、彼自身の華々しい成功とかけ離れた感情、そして自分の“生い立ち(労働者階級)”への意識が描かれているかのようだった。 百万..
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知られざる日本の名曲シリーズ~画期的な作曲コンテストから誕生した「片想い」

最初に「片想い」をオリジナル曲として唄ったのは、23歳の槇みちるだった。 大阪出身の彼女は渡辺プロにスカウトされて歌手になり、1965年にビクターから洋楽カバーの「可愛いマリア」でデビューを果たす。 それは渡辺プロにとって、ザ・ピーナッツから始まった王道ともいえる手法だった。 素質ありと見なされた新人歌手は、まず洋楽のカバーポップスでデビューする。 マスメディアへの露出やテレビ出演によって、そこからじっくり知名度を上げていく。 そしてある程度、音楽ファンの間に存在が認知されたところで、オリジナル曲をヒットさせることによって人気を確立する。 それがテレビの黎明期における、若手歌手の成功パターンになっていった。 しかし、槇みちるは歌唱力を認められても、いまひとつ個性を強く打ち出せないまま、次第に存在感が薄くなってしまう。 そんな状況を打破しようとつくられたのが、安井かずみの作詞、宮川泰の作・編曲による「若いってすばらしい」である。 1966年の春に発売されたシングル盤は、槇みちるにとって初めてのヒットになった。 ただし、当時は合格点という程度のヒットにとどまり、そこで一気にブレイクとまではいかなかった。 彼女はそこからふたたび、やや目立たない状態が続いて、2年という時間が過ぎてしまう。 いわゆる器用な順応性性がなかったせいか、タレントとしての人気につながらなかったのだ。 そんな時期に三重県の「ヤマハリゾート合歓の郷」で開催されたのが、日本で最初の作曲家によるコンテスト「合歓ポピュラーフェスティバル‘69」である。 これは当時の音楽シーンで活躍していたフリーの作曲家25名が、イベントのために書き下ろした楽曲を持ち寄って、観客の前で初めて披露するという音楽祭スタイルで、実に画期的な試みになった。 そこで川口真の指名によって唄うことになったのが、安井かずみの作詞による「片想い」だった。 しかし曲調が地味だったせいかコンテストでは、審査員から高い評価を得ることが出来なかった。 そのために彼女は芸能界をひとまず引退し、自分の資質にふさわしい歌手になろうと決意する。 そうした事情もあって、1969年の11月に発売された「片想い」は、「鈴の音がきこえる」のB面という扱いだったので、ほとんど目立たないままに終わった。 ところが槇みちるが「片想い」を唄わなくなるならば、ぜひ自分に唄わせ..
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アメリカン・サイコ〜バブルで踊り続けたヤッピーの狂気の日々

日本では「バブル」という実体のない経済的な宴が生まれたことが2度ばかりある。1回目は1987年〜1991年を包んだ株価や地価高騰の上に成立した時代。そして2回目が世紀末やミレニアムという言葉で覆われていた1999年〜2000年のドットコム企業の上場ラッシュ。 それによって若くして大金を持つ者が必然的に現れる。いわゆる大人としての人間力を育まないまま、金という最大の武器を手にしてまう連中が増殖する。あの頃を振り返れば、少なくとも身近に一人や二人はいたと思う。 ただ厄介なことに、札束は継続的な輝きのようなものを放ってしまう麻薬のような習性があり、世の中に浮遊する人間のあらゆる欲望(性や消費など)をほぼ買収することが、幼い子供がゲームステージを次々とクリアしていくようにあっけなく実現してしまう。 そんなことが繰り返されるうちに、まるで冗談のような虚飾に溢れた軽薄な言動が、やがて実在という意味でのリアルとして息づいていく。その空気は街の雰囲気や人々の心を覆っていく。 『アメリカン・サイコ』(American Psycho/2000)は、そんな日本の二つのバブル期ともリンクした“不快”な作品だった。見上げてしまうほどの大金を持たない多くの人間にとっては、一握りの連中が繰り広げる自己顕示欲むき出しのパーティなど、迷惑で耐えられないノイズに過ぎないからだ。 原作は『レス・ザン・ゼロ』で知られるブレット・イーストン・エリスが紆余曲折を経て発表した1991年の同名小説で、ニューヨークのウォール街周辺が舞台。1980年代後半、証券会社のエグゼクティヴである26歳のヤッピー、パトリック・ベイトマンという男が、どんな豪勢なシティライフを送り、どんな変態的な欲望を満たしていったかをただ書き連ねてあるだけの物語だった。そこに文学的な味わい深さは一切ない。 目次も凄い。流行のレストラン、クラブ、ブランド、イベント、デート相手の名前といった単語が並ぶだけだ。そんな中で印象的なのが、ポップミュージックのアーティスト名。小説や映画では「ジェネシス」「ホイットニー・ヒューストン」「ヒューイ・ルイス&ザ・ニュース」らが、物語の途中で突如として詳細に語られる。主人公ベイトマンにとっては、音楽も自らのシティライフを彩る重要なアイテムだった(特にホイットニーの「Greatest Love of All」について..
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フラッシュダンス〜ジョルジオ・モロダーと80年代MTV/サントラブームの幕開け

ポップカルチャーの足跡を振り返る時、1983年はとても興味深いことに気づく。日本/東京では、その年にディズニーランドの開園があった。女子大生ブーム、ファミコンの発売、レンタルレコード店やウォークマンの普及、『戦場のメリークリスマス』の公開、尾崎豊のデビューといった出来事もすべてこの年だ。 音楽シーンでは、マイケル・ジャクソンの『スリラー』が世界規模で大ヒットし、マドンナやシンディ・ローパーがデビューした。1981年に開局したMTVの力が一気に高まった時代でもあり、その影響でヴィジュアル性に富んだイギリスのNew Waveグループや長髪メイクのヘヴィメタル勢もヒットを連発し始めた。 そして映画では、多くのYAスターを生んだ『アウトサイダー』が思春期の少年少女たちを魅了する中、女性たちに支持されたのが『フラッシュダンス』(FLASHDANCE/1983)だった。この映画をきっかけにエアロビクスやジャズダンスを始めた女たちは数知れず。TVドラマやアイドルにも影響をもたらし、小さな女の子までもが家庭のリビングでレオタードと椅子を用意して「フラッシュダンスごっこ」に夢中になった。 『フラッシュダンス』は映画興行的に成功したが、作品的には語るべきことはあるのだろうか? 4000人以上の中から選ばれたヒロイン、ジェニファー・ビールスはこの映画でスターとなったものの、その後は鳴かず飛ばず。また、肝心のダンスシーンも別人が踊っていたという残念な事実もあった。 ストーリーは、プロのダンサーになることを夢見る18歳の女の子が、昼は製鉄所の溶接工、夜はナイトクラブのショーダンサーとして働きながら、恋や友情や死を乗り越えて、やがて名門舞踏学校のオーディションに受かるまでを描くもの。ヒップホップのブレイクダンスやアイススケートのステップ、交通整理の警官の仕草といったヒロインが日常生活で目にしていた動きがクライマックスに集約されているところは秀逸だった。 しかし、この映画にはダンス以上に音楽こそが生命だった。むしろ、サントラを売るための映画だったのかもしれない。MTVのビデオクリップ的な映像を1本の作品にした功績(あるいは功罪か)は大きく、これ以降メジャーな映画でCMやMTVディレクター出身の監督が起用されることが多くなったのだ。 音楽は、ディスコ・クイーンことドナ・サマーを世に送り出し、映画『..
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月の輝く夜に〜歌手シェールがアカデミー主演女優賞を取ってしまった映画とは?

大都市に住んでいる方にはお馴染みのタワーマンション群。日中、至る所で背を伸ばしていく建築模様はすでに珍しくなくなったし、夜ともなればいくつもの窓に灯りがついて、その眺めは高層オフィスビルや電波塔やブリッジと並んで都市の夜景には欠かせない一部にさえなっている。 そこに住んでいない人は時々こう思う。あの灯りの中には温かい家庭があり、家族団欒で楽しい会話が飛び交い、健康的で美味しい食事がテーブルに並べられているに違いないと。 でも現実はどうだろう? 単身者の独り暮らし、共働き夫婦、高齢者の引退後の住居など、とても家族団欒とは程遠い空間の方が遥かに多い。祖父母がいて子供がいてというような完全な家族を形成するなんて、日本各地の出身者が集まって暮らしている都市ではもはや困難だ。おまけに値段も溜息が出るほど高い。そこからの眺望は確かに素晴らしいが、心の風景まで家族の絆や愛が描かれているとは限らない。 映画『月の輝く夜に』(MOONSTRUCK/1987)は、大都市で生きながらも家族であろうとすること、一つになろうとすること、その大切さと素晴らしさをまっすぐに教えてくれる作品だった。そして単なるロマンチック・コメディの枠を超え、“人としての心のあり方”を伝えてくれた貴重な名作でもある。 主演はシェール。1960年代にソニー&シェールでデビュー後にソロ活動を並行し、独特なヴィジュアルアプローチをするポップスターとしても異彩を放っていた彼女は、もともとは俳優志望。本作品では遂にアカデミー主演女優賞を取ってしまった。 物語はNYのイタリア人街が舞台。ロレッタ(シェール)は37歳で未亡人のワーキングウーマン。両親と犬好きのちょっと風変わりな祖父と4人暮らし。親戚もよく顔を見せるので、食卓はいつも賑やかだ。ただ、父親は浮気をしていて母親もそれに気づいているので、夫婦の関係は崩壊寸前にある。 ある夜、レストランでの食事中にジョニー(ダニー・アイエロ)から結婚を申し込まれて快諾。すぐさまジョニーは危篤状態にある母親がいるイタリアへ出向くが、ロレッタは彼から険悪な関係にある弟ロニー(ニコラス・ケイジ)に会って、自分たちの結婚式に参加するよう説得しておいてほしいと頼まれる。 翌日、パン職人をしているロニーに会いに行ったロレッタだったが、ロニーの魅力にやられて説得どころか恋に落ちてしまう。ロニーもロレ..
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悲しい色やね〜大阪弁、女言葉で綴られた名曲はこうして生まれた

1980年代前半…日本では“一億総中流”という言葉が生まれた。 そんな中、関西弁で歌われた一曲のバラードがヒットチャートを駆け上がった。 実力派歌手、上田正樹の歌唱によって1982年にリリースされた名曲「悲しい色やね」。 その歌が発売された年は歌謡界にとっても“豊作の年”と言われ、あみんの「待つわ」、岩崎宏美の「聖母たちのララバイ」、サザンオールスターズの「チャコの海岸物語」、中島みゆきの「悪女」、忌野清志郎+坂本龍一の「い・け・な・いルージュマジック」、一風堂の「すみれSeptember Love」、薬師丸ひろ子 の「セーラー服と機関銃」などなど、数々のヒット曲がチャートを賑わせていた。 上田正樹。 1974年に伝説のR&Bバンド“上田正樹とサウス・トゥ・サウス”を結成し、華々しくデビューするも…わずか2年でバンドを解散させてしまった彼は1977年からソロ歌手としてキャリアをスタートさせていた。 当時は大きなヒットにも恵まれず、地道にライブ活動をつづけていたという。 1981年、環境を変えるためにレコード会社をCBSソニー(現ソニー・ミュージックエンターテイメント)に移籍するが…思うように売り上げが伸びることはなかった。 そこで、当時の担当ディレクター関屋薫がこんな提案をしたという。 「シンガー上田正樹の魅力を引き出すために、何人かの作曲家に曲を依頼してみましょう!」 数日後エントリーされた作家陣の中に、当時“新進気鋭の作曲家”として注目を集めていた林哲司の名前があった。 関屋は早速林のもとを訪ね、打ち合わせを重ねていった。 「あのハスキーな声で美しいバラードを歌ったらどうなるだろう?」 ほどなくして…林はスマートな英語詞をイメージした楽曲を書き下ろし、関屋に渡した。 まさに文句のつけようのないメロディーを手に入れた関屋は、康珍化(かんちんふぁ)に連絡をとって作詞を依頼した。 康と言えば、後に「ギザギザハートの子守唄」(チェッカーズ)、「桃色吐息」(高橋真梨子)、「ミ・アモーレ」(中森明菜)、「涙をふいて」(三好鉄生)、「胸が痛い」(憂歌団)などをヒットさせ、作曲家の林哲司とのタッグでも数々の名曲を生み出した才人である。 上田正樹という“一癖ある男”が歌う美しいバラードの歌詞を依頼された康は、その日のうちに関屋に一本の電話を入れた。 その時の会話を関屋は鮮明に憶え..
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愛のファンタジー〜アラフィフ世代が思わず“胸キュン”してしまう珠玉の旋律

1980年、クロード・ピノトー監督によるフランンス映画『ラ・ブーム』が公開された。 本国のフランスでは入場者数400万人を超える大ヒットを記録し、“社会現象”とも云われる作品となった。 ドイツ(当時の西ドイツ)・イタリア・スイスなどヨーロッパ各国や日本(1982年公開)を含むアジアでも大ヒットとなり、同時期に上映していた作品『スターウォーズ・帝国の逆襲』を抑えての(入場者数)1位を記録するほどの人気ぶりだったという。 当時13歳で700人の中から選ばれた女優ソフィー・マルソーのデビューが鮮烈にデビューした作品でもあり、当時フランスはもちろん日本をはじめとする外国でも彼女は“新時代のアイドル”として爆発的な人気を集める存在となった。 そして映画と同時にミリオンヒットとなったのは主題歌の「Reality(愛のファンタジー)」だった。 歌ったのはフランス人の母から生まれた英国出身の歌手リチャード・サンダーソン(当時27歳)。 作曲は映画『ラ・ブーム』のサウンドトラックも担当したウラジミール・コスマという人物で、フランス映画音楽界では大御所中の大御所だという。 この楽曲は映画の大ヒットと共に、全世界で800万枚のヒットを記録。 劇中で青年マチューが主人公ヴィック(ソフィー・マルソー)の耳にヘッドホンをかけるシーンが大きな話題となった。 使用された“SONYウォークマン”は、作品公開の前年1979年に発売されたもので、こちらも映画の人気と共に世界的なヒット商品となった。 <伝説のヘッドホンシーンはこちら> それまでのフランス映画の歴史にはあまり前例のなかった、英語詞の楽曲が主題歌になるというところからも“80年代の幕開け”を感じさせる新鮮さに溢れる作品だった。 日本ではハート型をしたピンクのレコードが売り出され、当時のティーン達にとっても忘れられない音楽体験となったという。 映画『ラ・ブーム』、ソフィー・マルソー、SONYウォークマン、そしてハート型のレコード…アラフィフ世代にとって、まさに“胸キュン”の想い出と共によみがえる珠玉のメロディーなのだろう。 <引用元・参考文献『ポップ・フランセーズ名曲101徹底ガイド』向風三郎(音楽出版社)> こちらのコラムの「書き手」である佐々木モトアキの音楽活動情報です♪ 宜しくお願い致します。 【山部“YAMAZEN”善次郎×佐々木モ..
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久世光彦と阿久悠が作った沢田研二主演のドラマから生まれた「時の過ぎゆくままに」

1975年にオンエアされたテレビドラマ『悪魔のようなあいつ』のテーマとして作られた「時の過ぎゆくままに」は、大ヒットを記録して沢田研二の代表作になった。 TBSの演出家でプロデューサーだった久世光彦は、沢田研二の魅力を最大限に引き立てるべく、彼が主演するドラマを企画した。 当時の久世はテレビドラマのヒットメーカーとして知られていたが、グループ・サウンズのタイガースからソロになって成功し、時代の寵児として輝いていた沢田研二に惚れ込んでいた。 そこで飛ぶ鳥を落とす勢いだった人気作詞家の阿久悠の力を借りて、それまでにない挑戦的なドラマを作ることにしたのである。 その主題歌は、もちろん沢田研二が歌った。 この企画はストーリーテーラーとしての才能を評価していた阿久悠のもとへ、久世のほうから持ち込まれたものだった。 これは昭和50(1975)年の作品である。同年6月から17週、TBS系で放送された「悪魔のようなあいつ」の主題歌として作った。 ぼくが沢田研二のために書いた最初の詞でもある。 こういうドラマ発でない限り、沢田研二との縁も考え難かったので、もしもこの機会を失していたら、その後の膨大なヒット曲も出なかったかもしれない。 そう思うと得難いチャンスであった。 沢田研二のけだるさを秘めた頽廃的な美しさに魅せられていた二人のあいだで、まず「色っぽい歌を作りたいね」と意見が一致し、久世は「時の過ぎゆくままに」というタイトルを決めた。 ハンフリー・ボガートとイングリッド・バーグマンが主演したハードボイルド映画、『カサブランカ』のテーマ曲だった「As time goes by(時が流れようとも)」からのいただきである。 あなたはすっかり 疲れてしまい 生きていることさえ 嫌だと泣いた こわれたピアノで 想い出の歌 片手でひいては ため息ついた 阿久悠が書きあげた歌詞をもとにして、6人の作曲家に曲をつけてもらった。 荒木一郎、井上大輔、井上尭之、大野克夫、加瀬邦彦、都倉俊一という、その頃のヒットメーカー6人がコンペティションで競い合い、その中から選ばれたのが大野克夫の曲だった。 沢田研二が扮する可門良という悪魔のような少年は、時効の迫っていた東京府中市での3億円強奪事件の真犯人で、セントジョージ孤児院で育った孤児という設定だ。 可門良は藤竜也が演じる野々村が経営する「クラブ日..
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シティ・オブ・エンジェル〜天使の腕に抱かれた静寂の愛

優れた映画の大きな特徴として、一つの確固たる世界観の貫きがある。目に見えないムードだ。加えて音楽の使い方が絶妙でもある。 そうした作品の『シティ・オブ・エンジェル』(City of Angels/1998)は、静寂と幻想的なムードの中で綴られた愛の物語だった。ヴィム・ヴェンダースの『ベルリン・天使の詩』のリメイクだが、舞台をロサンゼルスに変えて、新たな力強い作品として生まれ変わった。 主演はニコラス・ケイジとメグ・ライアン。アクション大作が続いていたケイジ。コメディエンヌとして人気絶頂にあったライアン。二人にとっても特別な作品になった。 (以下あらすじ含む) セス(ニコラス・ケイジ)は神の使者である天使としてLAの街を見守っている。ある時は管制塔で危機から人々を救い、ある時は病院で少女を天国に連れて行く。人の心が聴こえたりするが、セスは人との触れ合いに憧れを抱いてる。 マギー(メグ・ライアン)は医師として病院に勤務している。命の誕生と人の死に直面する現実世界。手術中にジミ・ヘンドリックスをかけるような優秀な外科医だ。しかしある日、簡単な手術の最中に患者が死亡。自分の無力さに深く落ち込む。 そんなマギーに心打たれて恋に落ちてしまうセス。そして目に見えないはずの自分にマギーが話しかけて来る。肉体は滅びても魂は生き続けると励ますセス。マギーもやはり恋に落ちるのだった。 人生の希望を取り戻すマギー。それからの二人は図書館で“触れ合い”、“キス”をしたりする。でもマギーには恋人がいる。一方のセスはネイサンという患者の男と仲良くなる。セスの姿が見える理由を話し始めるネイサン。自分も以前は天使で、自由な意志をもって人間になったことを聞かされる。セスはネイサンから人間になる方法=ビルから落ちることを教えてもらう。 次第にマギーは素性を明かさないセスを不信に思う。セスは天使であることを告白するが、信じられるはずもない。「出てって!」と混乱して家からセスを追い出す。そのうち恋人から求婚もされた。患者のネイサンから、セスが永遠の命を捨てて人間になろうとしていることを知らされるマギー。彼女は悩んだ末、今ある現実を選ぶ。 このままではマギーを失ってしまうと悟ったセスは、ビルから飛び降りて人間になることを決意して実行する。そしてすぐさまマギーのもとへ向かう。“人間同士”でベッドを共にする二人。..
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スケアクロウ〜どうしようもないカッコ悪さに胸を打たれるロードムービーの名作

TAP the SCENEでは、これまで様々な時代における数々のロードムービーを取り上げてきた。そこには幾つかのパターンがあることに気づく。ここで少しまとめておこう(各ジャンル・年代順)。どれも絶対必見の名作揃いだ。 ①男の一人旅 パリ、テキサス エリザベスタウン イントゥ・ザ・ワイルド LIFE! ②男たちのロードムービー イージー・ライダー 真夜中のカーボーイ 断絶 さすらい ストレンジャー・ザン・パラダイス クロスロード マイ・プライベート・アイダホ デッドマン モーターサイクル・ダイアリーズ オン・ザ・ロード グリーンブック ③女のロードムービー アリスの恋 テルマ&ルイーズ マイ・ブルーベリー・ナイツ ④親子もどきのロードムービー ペーパー・ムーン 都会のアリス ⑤仲間たちのロードムービー アリスのレストラン さらば冬のかもめ カリフォルニア・ドールズ ブルース・ブラザース ファンダンゴ ダウン・バイ・ロー スタンド・バイ・ミー オー・ブラザー! ザ・ビーチ ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ あの頃ペニー・レインと ⑥恋人たち、もしくは男の逃避行 夜の人々 気狂いピエロ 明日に向かって撃て! バニシング・ポイント ビリー・ザ・キッド/21才の生涯 ゲッタウェイ 天国の日々 ワイルド・アット・ハート ⑦男と女のロードムービー ファイブ・イージー・ピーセス シェルタリング・スカイ ⑧ファンタジー オズの魔法使 ペイネ 愛の世界旅行 今回紹介する『スケアクロウ』(Scarecrow/1973)は、上のリストでいうところの②に加えられるロードムービー。カンヌ国際映画祭においてパルム・ドールを獲得した“悲しくて美しい”人生を描いた名作。 主演する二人は、ジーン・ハックマンとアル・パチーノ。当時『フレンチ・コネクション』や『ゴッドファーザー』で注目されていた二人の演技派の共演が話題になった。撮影はスタッフ、キャスト、機材が大型車両と共に移動するシネ・モービル方式。早朝5時に撮影に出発し、帰りは真夜中なんて当たり前。ゆえにフィルムに刻まれたリアリティがハンパない。 この映画は無垢を描いた物語だ。主人公の二人は反徒ではなく、多くの人々同様、ささやかな希望を抱いて生きている。彼らは社会に挑戦しようとしない敗残者であり、犠牲者だ。 監督のジェリー・シャッツバーグが言う..
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