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切り裂くサウンドと詞の世界~リーガルリリー「私は私の世界の実験台」

“ブルーハーツのような青い衝動にイースタンユースばりのエッジの効いたサウンド”という例えは、いささか強引に過ぎるかもしれないが、初めてリーガルリリーの音楽を聴いた筆者の印象は、まさにこんな衝撃だった。 2014年に高校生だった、ヴォーカル&ギターのたかはしほのかと、ドラムスのゆきやまが出会って結成されたリーガルリリー。さらにベースの白石はるかが加入し、ガールズ・スリーピース・バンドとして、2016年に1stミニ・アルバム『The Post』をインディーズ・レーベルよりリリースする。 当時まだ10代のヒリヒリするような思春期の、壊れそうな儚さと同時に鋭く切り裂くような破壊性を持った歌詞が、迫力ある轟音サウンドに乗せて歌われる。 中でも「リッケンバッカー」は、鮮烈な歌詞が印象的で今でもファンに強く愛される1曲だ。 リッケンバッカーが歌う リッケンバッカーが響く リッケンバッカーも泣く おんがくよ、人を生かせ 「リッケンバッカー」(2016) 翌2017年に2ndミニ・アルバム『The Radio』、2018年には3rdミニ・アルバム『The Telephone』をリリース。しかし2017年には白石はるかが脱退し一時二人体制となるが、2018年のアルバムリリース後にベースの海が加入し、再びスリー・ピース・バンドとなる。 2019年にはアメリカで開催された「SXSW 2019」に出演、中国やアジアでもライブ・コンサートを開催するなど、海外にも活動の幅を広げている。 そして、バンド結成6年目となる2020年2月5日に、満を持してのフル・アルバム『bedtime story』をリリースした。 全ての曲のソングライティングを手がけるたかはしほのかは、ニルヴァーナなどのグランジ・ロックや、オルタナティヴ、プログレッシブ、ポスト・ロックなどからの影響が大きく、また、パワードラムが印象的なゆきやまは、レッド・ツェッペリンのジョン・ボーナムに強い衝撃を受けたという。 また、たかはしが紡ぎ出す言葉は時に抽象的でありながら、心を突き刺すようなストレートな鋭さも併せ持つ。歌詞をどのように作り出すのかについて、Rolling Stone Japan のインタビューで語っている。 考えながら組み立てていくのではなくて、自分の心の一番上にある感情をそのまま貼り付けていくというか。最初に絵を思..
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ブラジルのビーチを150万人で埋め尽くした「世界最高のロックバンド」の稼ぎ方

2006年2月18日、ブラジル・リオデジャネイロのコパカバーナビーチには、一晩で150万人(*1)もの人々が集まった。無料コンサートとはいえ、リゾート地の海岸がこれほどの大観衆で埋め尽くされる光景は滅多にお目にかかれない。「世界最高のロックバンド」と謳われるあのローリング・ストーンズのステージを観るためだ。 このコンサートは当時の新作『ア・ビガー・バン』のワールドツアーの一環だった。32ヵ国118都市を巡るストーンズ流ロックンロール・サーカスは、2005年8月から丸2年も続けられた。結果的に144回公演で468万人(コパカバーナの人数は含めず!)を動員して、5億5825万ドルもの収益を生み出し、ツアー興行記録(*2)を塗り替えてしまった。 驚くのはまだ早い。 ビルボード誌が発表した「90年代以降のツアー興行収益のトータルランキング」では、538公演/約1967万人動員/約15億7000万ドルを稼いだストーンズが堂々のトップに立った。また、フォーブス誌が毎年発表する収入や話題をランキング化した「セレブリティ100」には、大規模なツアーをする度にストーンズがランクインする。 例えば40周年ツアー時は2003年に8000万ドル、2004年に5600万ドル。上記の『ア・ビガー・バン・ツアー』時は2006年に9900万ドル、2007年に至っては1億500万ドルもの収入があった(ちなみに50周年ツアーを行った2013年の収入は3900万ドル)。同誌が単なる収入上位を発表していただけの90年代でも彼らはランキングの常連で、その際には50~70億円という数字が並び、やはりすべてにツアーが絡んでいた。 今の時代、長期間に渡ってスタジアムやアリーナのツアーを実施するのは何もストーンズに限ったことではなく、スター級のロックバンドやポップスターが人気を維持するためには常に求められる華やかなイベントのようなもの。だがそんな中でも、80年代以降のストーンズのツアーは、その継続するスケール感や稼ぎ出す金額に特筆すべきものがある(このコラムの最後にリスト化参照)。 1970年代から1990年代後半までは、アーティストがレコードやCDのセールスで十分稼げた期間だったと、ミック・ジャガーは指摘する。確かにストーンズ自身も60年代は不利な契約に縛られてレコード会社ばかりが儲かる仕組みだったし、ネットカル..
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リアリティ・バイツ〜“厳しい現実”と直面したX世代と忘れ得ぬ名曲「Stay」

1991年に刊行された『ジェネレーションX〜加速された文化のための物語たち』は、1961年生まれのカナダ人作家ダグラス・クープランドによる小説で、欧米のポップカルチャーで話題となって日本でも翌年に翻訳されたので、手に取った人もいると思う。 「ジェネレーションX」とは1961年〜1981年生まれの世代を定義しているが、クープランドの著書は60年代生まれのポスト・ベビー・ブーマーたちを描いた青春ロードノベルだった。 アメリカと日本の社会背景や出来事は多少違うので世代意識は完全に一致しないが、日本ではバブル期に青春を送った60年代半ば〜後半生まれの「新人類」や、崩壊後に就職難と直面した70年代前半〜半ば生まれの「団塊ジュニア」あたりを「ジェネレーションX」と呼ぶ傾向があった。 少し前に活躍したニュー・ロスト・ジェネレーション世代の作家(ブレット・イーストン・エリスやジェイ・マキナニーなど)がスタイリッシュな消費/享楽文化の中で無気力・無関心・無感動のように生きる若者たちを描いていたのに対し、クープランドは孤独と不安と喪失感の中にありながらも、既存のシステム社会から抜け出して新しい価値を求めようとする若者たちに光をあてようとした。 そういう意味で日本で「ジェネレーションX」を再定義するなら、「90年代に青春期を送った世代」と言い換えていいのかもしれない。 今の若者は、たかがBMWを買うために週80時間も働いたりしません。60年代に反体制やカルチャー革命を謳った人々は今や無心に毎朝ジョギングする始末。では、現在の私たちはどう生きるべきか。受け継いだ重荷をどうすべきか。卒業生の皆さん、答えはいたって簡単です。その答えは、答えは……分かりません(I Don’t Know) 大学の卒業式で総代スピーチを行うリレイナ(ウィノナ・ライダー)の姿から始まる『リアリティ・バイツ』(REALITY BITES/1994)は、学生から社会人へと変換しようとする「ジェネレーションX」の若者たちを描いた作品。俳優としても有名なベン・スティラーの初監督作品で、この映画にも旧世代の象徴として出演している。ウィノナ・ライダーは日本でも大人気だった。 物語は、TV局の契約社員になったリレイナのほかに、売れる見込みのないバンド活動を続けるトロイ(イーサン・ホーク)、ゲイであることを告白したサミー、GAP..
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Mr.ボー・ジャングルス〜サミー・デイヴィスJr.が実在した伝説のタップダンサーの姿を重ねながら歌った名曲

歌、ダンス、モノマネ、巧みなトーク、そしてトランペット、ドラム、ビブラフォンの演奏、映画やテレビでの演技など、様々な“芸”を極め「Mr.エンターテインメント」と称されたサミー・デイヴィスJr.。 1990年5月16日、彼は喉頭癌を患い64歳でこの世を去った。 そんな彼が40代からこの世を去るまでの約20年間、ステージで大切に歌った“一曲”がある。 その曲の名は『Mr.ボー・ジャングルス』。 ドサまわりをし、刑務所に入っていることも多く、ダンスのギャラとして酒と少しばかりのチップをねだる…歌いながらそんな老ダンサーの姿を演じてみせる彼のステージはまさに“至芸”と呼ぶにふさわしいものだった。 彼はこの曲を歌うときに、実在した伝説のタップダンサーの姿を重ねながら歌ったという。 その人物の名はビル・ロビンソン。 アメリカ最高のタップダンスの名人として名を馳せたビルは、1920年代から30年代にかけてボードヴィルショーや(アメリカ最初期の)黒人映画俳優として活躍した元祖エンターテイナーだった。 後に“タップの神様”と呼ばれたビルの誕生日(5月25日)は「National Tap Dance Day(タップダンスの日)」となっている。 彼はショーの一座で南部を回った ある日、涙しながら15年間の話をしてくれた 彼と愛犬がどんな旅をしてのか その犬が死んでしまって20年… 彼は哀しみ続けているんだ 彼は言った「俺は今どんな時でも機会があれば踊るぜ!」と 酔っ払い相手の安酒場で…はした金でも サミー・デイヴィスJr.の“十八番”として知られたこの歌、実は彼が歌うことを避けていた時期もあったのだという。 人気スターとして“落ちぶれた老ダンサー”を演じながら歌い踊っているうちは良いが、50歳を迎えた頃に体力的な衰えを感じるようになった彼は「今、自分が病気や事故にあって長いこと仕事を休むようになったなら、豪邸のローンなどでたちまち破産し、この老ダンサーのような境遇になってしまうだろう」という恐怖にとらわれていたというのだ。 そのため、しばらくは出来るだけこの曲を歌わずにすますようにしていたという。 逆に言えば、彼はそれほどこの曲に打ち込み、歌に出てくる老ダンサーと一体化するほど感情移入していたのかもしれない。 ボージャングルという男に会ったことがある ボロ靴で踊ってくれた 白髪まじ..
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カレン・カーペンターを偲んで〜輝かしい活躍の舞台裏で彼女が抱えつづけた“心の闇”とは!?

1983年2月4日、カレン・カーペンターは32歳でこの世を去った。 死因は摂食障害がもたらした心不全だった。 カーペンターズといえば、彼らが活躍した1970年代当時、ホワイトハウスやディズニーランドでの演奏を許された唯一のミュージシャンだった。 ビートルズのポール・マッカートニーは、彼女の歌声とカーペンターズの音楽についてこう賛美している。 「世界で最高の女声であり、旋律が美しく、豊かで、そして独特だ。」 20代前半で世界的な大スターとなった彼女。 地位も名誉も財産も手に入れながらも、なぜ彼女は摂食障害となり、遂には命まで落としてしまったのか? 妹カレンの死後、兄のリチャード・カーペンターはこんなコメントを残している。 「あれから…自分では素晴らしいと思う曲ができることもあります。でも僕はそれを表現する声を永遠に失ってしまったんです。」 彼女の歌声と命を奪ったのは拒食症(神経性無食欲症)という病気だった。 それは常に“自分は太っている”と考えてしまうボディイメージの障害、食物摂取の不良または拒否、体重減少を特徴とするもので神経性食欲不振症、神経性食思不振症、思春期やせ症とも言われている精神の病である。 デビュー当初、普通よりほんの少しぽっちゃりしている程度だった彼女に対して、一部の音楽ファンが“デブの田舎者”などと心無い誹謗中傷をしたという。 彼女はその言葉を聞き流す事ができず、決して太っていたわけではないのに“もっと痩せればもっと愛されるようになるかもしれない”と考えるようになったという。 その後も輝かしい活躍の舞台裏で、常に人に見られる立場の職業である事、芸能界という世界でファッションモデルや女優と頻繁に会う機会があった事、音楽誌に“太っちょ”などと書かれた事などを過剰に気にするようになり、彼女はその病状を悪化させていくこととなる。 そんな中、1980年に彼女は30歳の時に不動産業のトム・バリス(39歳)と結婚をする。 しかしその結婚生活は惨憺たるもので、翌年の末にはすぐに別居してしまう。 夫の心ない言葉や態度によって彼女の病はますます悪化の一途を辿り…その痩せ細った身体と心はボロボロになり、グループの活動にも暗い影を落とすようになる。 1982年、彼女は拒食症の治療を受けるためニューヨークの著名な心理セラピストを訪ねる。 その年の11月には仕事に復帰..
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NYのシェイ・スタジアムのマウンドで日本初の大リーガーに歌われた「上を向いて歩こう」

1964年9月1日はニューヨークのシェイ・スタジアムで、史上初の日本人大リーガーが誕生した記念日である。 サンフランシスコ・ジャイアンツの「マッシー・ムラカミ」こと村上雅則は、南海ホークスの鶴岡一人の目に留まり、鶴岡から「ウチへ入ったらアメリカに行かせてやる」と口説かれて、高校野球の名門だった法政二高在学中に南海と契約を結んだ。 そしてプロ3年目の1964年の春に野球留学で、サンフランシスコ・ジャイアンツへ派遣された。 南海はベースボールの本場であるアメリカに選手やコーチを派遣する試みを、その前の年から始めていたのだ。 そして2年目となる野球留学の選手に選ばれたのが村上雅則投手、高橋博捕手、田中達彦内野手だった。 送り出す球団側はこの時、それほど大きな成果を見込んでいたわけではない。 というのも村上雅則がわずかに3ヶ月間、ルーキーだった二人は1年間の期限付き留学だったのである。 アメリカの選手たちと一緒にキャンプを過ごすことで、本場のマイナー・リーグを体験させたいという期待はあったにしても、将来に向けた施策の一つという程度の扱いだったようだ。 ところがスプリング・トレーニングに特別枠のゲスト扱いで参加した3人の中から、村上だけがジャイアンツ傘下の4軍、1Aのフレズノ・ジャイアンツに配属されることになった。 それからは留学期間の3ヶ月を過ぎても、村上はフレズノ・ジャイアンツで投げ続けて、8月の後半までに11勝7敗、防御率1.78の好成績をあげた。 その結果、1Aのカリフォルニア・リーグで新人王を獲得し、ベストナインにも選出された。 ことによるとメジャーへ昇格するかもしれない、そんな可能性があることを知ったのは、8月20日すぎのことだったという。 村上は常に辞書を離さずに英語を学ぼうとしていたので、その頃には少しずつだが会話を理解できるようになっていた。 ロッカールームで選手たちが何か話しているので輪のなかに入って聞いていると、成績の良い選手を9月1日からメジャーに昇格させて、実力を確かめてみるということが話題になっているとわかった。   そして監督から「君が選ばれたのですぐにニューヨークへ行くように」と命じられたのが8月29日のことで、翌日にはニューヨークまでの飛行機の切符を手渡された。 ジャッキー・ロビンソンがアフリカ系アメリカ人選手として初めて、メジャーリーグ..
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ゲイリー・ムーア〜“泣きのギター”でBLUESを響かせた孤高のギタリスト

ギタリストなら、特に80年代にヨーロッパで生き残ろうと思ったら、ハードロックをプレイするしかなかった。でも僕はそれを快適だと感じたことは一度もなかったよ。それはあの種の音楽が自分の原点ではなかったからだと思う。何もかも巨大でラウドなものの中で、他のミュージシャンにも親近感を抱けなかった。 「ゲイリー・ムーア」という名を聞いて、彼の音楽を耳にしたことのある人は何を思い浮かべるだろう? 様々なバンドを渡り歩いた「さすらいのギタリスト」。シン・リジィでフィル・ライノットとプレイしていた「スーパー・ギタリスト」。1980年代のヘヴィメタル・ブームの中でマシンガンのように速弾きした「ギター・クレイジー」と言う人もいる。 あるいは、故郷の魂を忘れなかった「孤高のアイルランド人ギタリスト」。90年代から死の直前まで自らのルーツに対して真摯な姿勢を貫いた「ブルーズ・ギタリスト」。極めてヨーロッパ的なバラードで心の風景を響かせた「泣きのギタリスト」として伝える人もいるだろう。 ──そのどれもが間違いではない。すべてがゲイリー・ムーアなのだ。 人気絶頂の80年代に5回もの来日公演を行ったこともあり、日本ではどうしても「ハードロック・ギタリスト」のイメージが強かった人だが、90年代に突入すると、そんなゲイリーに運命の転機が訪れる。ブルーズへの回帰だ。 一人でいる時はいつもブルーズを弾いていた。ある晩、ボブ・デイズリーがやって来て言うんだ。「なあ、ゲイリー。次はブルーズ・アルバムを作るべきだよ。お前のキャリアで一番の成功を収める作品になるかもしれないぜ」。思わず笑い飛ばしたよ。彼も笑ってた。でも僕はその通りにやってみたんだ。彼は正しかったね。本当にそうなったんだから。 1969年。わずか17歳でスキッド・ロウのギタリストとしてプロデビューしたゲイリーは、ブルーズを愛する少年だった。北アイラルンドのベルファストで育った彼が聴き入っていたのはブリティッシュ・ブルース。特にジョン・メイオールのバンドに在籍したエリック・クラプトンやピーター・グリーンに夢中になった。 しかし、スキッド・ロウ、ゲイリー・ムーア・バンド、コロシアムⅡ、シン・リジィ、G-フォースといったバンドを渡り歩いた70年代や80年代の華やかなソロ活動では、愛する音楽から離れていく一方だった。 速弾きばかりじゃ、すぐに行き詰..
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2006年の夏に「誰が歌謡曲を殺したか」という、遺言のようなエッセイを発表した阿久悠

2006年7月1日、東京新聞にひとつのエッセイが掲載された。 タイトルは「誰が歌謡曲を殺したか」という、いささか刺激的なものだった。 これを書いたのは作詞家の阿久悠で、当時は癌との闘病で入院中であった。 もう余命がいくばくもないことを感じていたのだろうか、エッセイからは遺言のようなニュアンスが伝わってきた。 書き出しの文章は歌謡曲について、まず定義を確認するところから始まっている。  流行歌とも演歌とも違うし、Jポップスとも違う。ただし、流行歌とも思えるし、演歌とも考えられるし、Jポップス的なところもパーツとしては見つけられる。 つまり歌謡曲とは趣味嗜好によって細分化したジャンルではなく、おそろしくフトコロの広い、器の大きい物なのだ。 要するに、アメリカンポップスも ロックも音として呑み込み、それに日本の現在を切り取り、日本人の心を躍らせ泣かせる詞を付けた、歌の総合文化であった。 演歌の父とも言われる作曲家の古賀政男は、ギターやマンドリンといった西洋の楽器と日本調のメロディーと節まわしを組み合わせることによって、戦前戦後を通して大衆に受け入れられる<流行歌>をつくり続けた。 和製ポップスの父と讃えられた作曲家の服部良一は、ジャズとクラシックを土台にしながら、リズムとコーラスとハーモニーを重視した歌によって、戦前から戦後にかけて新しい日本の<歌謡曲>をつくりあげた。 先駆者たちの仕事を受け継いで歌の総合文化としての歌謡曲に<ポピュラーソング>の要素を加えたのが、中村八大であった。 代表曲「上を向いて歩こう」は1963年に全米チャートで1位になり、そこから世界的なスタンダード曲にまでなっている。 そうした先人たちが創り上げた<流行歌>や<歌謡曲>、<ポピュラーソング>を受け継いで、さらに時代に合わせて発展させていったのが、歌謡曲の全盛時の1970年代に活躍したソングライターたちである。 その先頭に立っていたひとりだった阿久悠は、当時の充実感をこのように回顧していた。 歌謡曲全盛時代は一九七〇年代である。その当時の若いプロ作家は、歌的なるものの呪縛から解き放たれ、不可能はないとばかりに新しいこと、珍しいこと、面白いことを探し、創り、世に提供した。 彼が作詞家として活動を始めた1960年代後半から70年代にかけて、日本では音楽産業における変革の動きがいくつも同時進行で..
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フリートウッド・マック〜二組のカップルの破局から生まれた歴史的ベストセラー『噂』

それは、新しいメンバー探しをしていたミック・フリートウッドに、プロデューサーのキース・オルセンが自分が手掛けた無名デュオのアルバム『Buckingham Nicks』を聞かせたことがすべての始まりだった。 ミックはその片割れであるリンジーをすっかり気に入ってしまい、自らのバンドであるフリートウッド・マックに勧誘する。しかし、リンジーは「スティーヴィーと一緒なら参加したい」ことを申し出た。二人は貧乏生活を共にする恋人同士であり、音楽上の大切なパートナーだったのだ。曲を途中から作るスティーヴィーがメンバーの音楽心を刺激するのは間違いなかった。 リンジー・バッキンガムとスティーヴィー・ニックスという二人のアメリカ人新メンバーを迎え入れて1975年にリリースした『Fleetwood Mac』は、発売から1年以上をかけてチャートのトップまで登り詰める。売れないデュオが書きためていた曲によって、60年代後半にデビューした英国バンドが遂に世界的成功を掴んだ瞬間だった。 翌1976年。彼らは次作『Rumours』(以下『噂』)の制作に取り掛かることになるのだが、ここで大きな問題が起こってしまう。同棲していたリンジーとスティーヴィー、そしてジョンとクリスティン・マクヴィー夫妻に破局が訪れたのだ。 あの時は離婚の話をしている真っ最中で、お互いに別居を考えたりして落ち着かない時期だった。だからレコーディングの話には飛びついたよ。家を離れて仕事に集中したかったんだ。心から愛している女性から「さよなら」を告げられたのだから。(ジョン・マクヴィー) カリフォルニアのサウサリートにある小さなスタジオで、『噂』のレコーディングは始まった。大勢のスタッフに囲まれながらの日々はラフな雰囲気を醸し出していたが、二組のカップルの間には緊迫した空気だけが流れていた。 当時の曲はどれを聴いても私たち二人の関係を歌っている。『噂』っていうタイトルを考えたのはジョンよ。心の内を覗くような歌詞は『噂』であってほしいという内容だった。(クリスティン・マクヴィー) 二人は会話も交わさなくなった。しかし、同じバンドのメンバーとして一つの音楽を追求するという現実を受け入れなければならなかった。やり場のない気持ちは隅に追いやって、やるべきことをやっていくしか他に方法はない。これは試練だ。それはもう一つのカップルも同じ..
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音楽と笑いでブームを巻き起こしたクレイジーキャッツと、スター街道を駆け抜けた植木等の”変な歌”①「スーダラ節」

1960年代初頭からテレビで人気が上昇してたクレイジーキャッツだが、最初の爆発は植木等の歌った「スーダラ節」の大ヒットから始まった。 そこから「ドント節」「五万節」「ハイそれまでヨ」「無責任一代男」とコミックソングがヒットし、加速度的に日本中にブームを巻き起こしていったのである。 その快進撃を支えていたのは植木等というキャラクターを確立させた、座付き作者の青島幸男による歌詞と作曲・編曲の萩原哲晶が考え出した、破天荒なソングライティングの力だった。 それがテレビ番組と映画とライブを組み合わせたトータル・プロデュースによって、それまで経験したことがない面白さを生みだしたのだ。 月曜から金曜まで放送される昼の帯番組『おとなの漫画』の構成作家だった青島幸男は、なかなかいいアイデアが生まれてこないので、毎日のように締め切りに追われて苦しんでいた。 だから安定した身分が保証されているサラリーマンのことを、どこか”気楽な稼業”だとうらやましがりつつも、一方では宮仕えの立場による息苦しさも考慮して、それらからの解放の気持ちを込めてこの歌詞を書いたという。 チョイト一杯のつもりで飲んで  いつの間にやら ハシゴ酒  気がつきゃ ホームのベンチでゴロ寝  これじゃ 身体にいいわきゃないよ  分かっちゃいるけどやめられねぇ これが爆発的に受けたのはどこかしら意味がある前半の歌詞を受けて、後半に展開していく植木等のウキウキしてくるような調子のいい言葉、「スイスイスーダララッタスイスイ」が時流に合っていたからだろう。 このフレーズは意味は不明ながらも音楽的にノリがよかったし、得も言われぬ”おかしさ”が漂ってくるものだった。 それらを陣頭指揮していたのが渡辺プロダクションの創始者で、ゼネラル・プロデューサーでもあった渡邊晋である。 クレージーキャッツにとって、その存在と指導力は実に大きいものであった。 そもそも「スーダラ節」は植木等が機嫌がいい時に発する口ぐせだっ意味不明の「スイスイスイ」や、「スンダラダッタ」というフレーズを、歌にしようと考えた渡邊晋が『おとなの漫画』でのコントを書いていた放送作家の青島幸男に、作詞をさせることを思いついたものであった。 そこから生まれたサラリーマンの生活や気分を綴った歌詞は、「わかっちゃいるけど やめられない」という決めフレーズがハマったことで..
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沢田研二の名曲「我が窮状」〜稀代のスーパースターの反骨精神、歌に込めた切なる願いとは?

麗しの国 日本に生まれ 誇りも感じているが  忌まわしい時代に 遡るのは 賢明じゃない 英霊の涙に変えて 授かった宝だ この窮状 救うために  声なき声よ集え 我が窮状 守りきれたら  残す未来輝くよ 【窮状(きゅうじょう)】という言葉を辞書でひいてみる。 「困っている状態」「大変苦しい立場にいるようす」「痛々しい状態」などと書いてある。 この歌は、日本を代表する人気歌手“ジュリー”こと沢田研二が2008年(平成20年)に発表した還暦記念アルバム『Rock’n Roll March』に収録されている。 作詞は彼自身の手によるもので、作曲は沢田の盟友でもあり日本を代表する作曲家、大野克夫によるものだ。  麗しの国 日本の核が 歯車を狂わせたんだ 老いたるは無力を気骨に変えて 礎石となろうぜ 諦めは取り返せない 過ちを招くだけ 以前、彼は新聞のインタビューでこんなことを語っている。 還暦の前のあたりから『言いたいことを言わなきゃ』と思うようになった。 60歳越えたら余生、死ぬ準備をしているようなものだから。 アイドル時代は『表現の自由』がなかった。 華麗なジュリー、セクシーなジュリーに似合わないことは言えなかった。 芸能界で今“言いたいこと”を堂々と歌える歌手は多くない。 様々なしがらみが、様々な形でつきまとうから。 僕も『テレビに出られなくなるよ』と言われたことがある。 それでいい。 18歳でこの世界に入り、いつまでもアイドルじゃないだろ。 昔はジュリー、今はジジイ(笑) 太ったっていいじゃない(笑) 好きな事を、コツコツとやっていこうと思っている。 昔の名前を利用しながら…ね(笑) [2012年5月4日付朝日新聞より抜粋] 彼はザ・タイガースでデビューした19歳から現在に至るまでの約50年間、毎年欠かすことなくレコーディングし、作品を発表し、ツアーを行ってきた。 この実績は、日本はおろか海外でも類を見ない偉業といえるだろう。 還暦を過ぎて“言いたいこと”を歌うスタイルをより濃く打ち出しながら現在もコンサートを中心とした活動を続けている。 また、ここ数年は『自分はテレビに出られない(正確には出ない)』という理由でNHK紅白歌合戦からの(過去のヒット曲での)出演オファーを何度も断っているという。 彼はナツメロを唄う“昔の歌手”ではなく、現役のアーティストである。 ..
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ホイットニー・ヒューストンが一番大切にしていた歌「Greatest Love of All」

2012年2月11日。48歳という若さで悲劇的な死を遂げてしまったホイットニー・ヒューストン。あれから6年が経った今でも、街や店、ラジオやテレビからふとした瞬間に彼女の歌声が流れてくると、その圧倒的な歌唱力とメッセージに心深く打たれてしまう。 そんなホイットニーの最高傑作と言われ、彼女自身が最も大切にしていた歌がある。1986年3月14日にリリースされた「Greatest Love of All」だ。 これは間違っても恋人たちに向けられたラブソングではない。この歌は自己へ向けた愛と誇りの歌だった。世界中の孤独な魂を持った人々にどれほど生きる勇気を与えてくれただろう。だからこそ忘れられない永遠のスタンダードになった。 ホイットニー・ヒューストンは1963年に、ゴスペル歌手の母親シシーと、エンターテインメント業界で働いていた父親ジョン・ラッセルとの間にニュージャージー州で生まれた。従姉にディオンヌ・ワーウィック、母の友人にアレサ・フランクリンがいたりと、音楽への愛を幼い頃から身近に肌で感じていた彼女は、地下室で掃除機をマイクスタンドに見立てて、コンサート会場のスポットライトが当たったスターのつもりで歌っていたという。「どんな時も自分に対して誇りを持って生きなさい」と、母シシーは娘に言い聞かせた。 11歳で母を見習ってゴスペル歌手として活動を開始。ホイットニーは美人でスタイルも良かったので、ティーン向け雑誌でモデルとしても活躍した。後のファッションアイコンとしての才能はこの頃に培われていた。 その頃、母親と一緒にニューヨークのクラブで歌っているところを、レコード会社からスカウトされる。A&Rマンのジョニー・グリフィスは、「1980年にホイットニーの歌を聴いた時はまだ磨かれていない原石のように感じたけど、2年後のステージでは見違えるほど魅力的で完全にノックアウトされた」と語っている。 アリスタ・レコードと契約したホイットニーは、1985年2月にデビューアルバム『Whitney Houston』をリリース。このアルバムにはR&Bでもゴスペルでもポップスでもダンスミュージックでもない、ジャンルを超えた輝きが全編に流れていた。カシーフの「You Give Good Love」、ナラダ・マイケル・ウォルデンの「How Will I Know」などが収められる中、マイケル・マッサーの..
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ジム・モリソンのFirst Step〜人生初のステージはシールドを抜いたギターの“当て振り演奏”だった!?

ロックの歴史において“孤高の詩人”として多くのアーティストに影響を与え続けてきたジム・モリソン。 彼はどんなきっかけで詩を書き始め、バンドを始めることとなったのか? 彼の“First Step(はじめの一歩)”とも言える時代のエピソードをご紹介します。 「耳鳴りのように内側から音楽が聴こえてきて、俺はそのメロディーに合わせて詩を作る。音が聴こえてきても俺はそれを譜面にする方法なんて知らない。覚えておくためには、詩を書きとめておくしかないんだ。だから多くの場合は詩だけ残ってメロディーは忘れてしまうんだ。」 彼は14歳の時に、とても夢中になった本があったという。 それはジャック・ケルアックが放浪体験を元に書き上げた小説『On the Road(路上)』だった。 「あれは1957年の冬だったよ。ビートジェネレーションを題材にした内容だった。」 また高校時代の英語教師が読書家だった彼との間で、こんなエピソードがあった。 教師はその時のことをこんな風に語っている。 「彼が16世紀や17世紀の悪魔学に関する本のことをレポートに書いてきた時に“本当にそんな本があるのか?”と疑ったことがありました。ちょうどアメリカ議会図書館に行くことになっていた別の教師がいたので、たのんで確認してもらったところ、確かにその本は存在していました。彼はおそらくアメリカ議会図書館でしか読めないような本も読んでいたんだと思います。私はそのレポートをもう一度読み返して感銘を受けました。」 その頃から彼は作家を志すようになる。 ランボーに関する逸話や、ボードレールやアレン・ギンズバーグ、ディラン・トーマスなど苦悩の中に自己主張を押し通した芸術家たちの作品が彼の心を捉えて離さなくなっていた。 新聞の切り抜きを集めたり、雑誌の広告、会話の断片などを大学ノートに書き留めることが日常となってゆく。 高校2年になってからは、詩の量が増えていったという。 その大学ノートは、彼の心を映す鏡でもあった。 ドアーズの初期の楽曲「Horse Latitudes(放牧地帯)」などは、そのノートから生まれたものだった。 高校卒業後、彼はフロリダ州立大学に入学する。 同級のルームメイトたちとシェアハウスで暮らしながらキャンパスライフを謳歌していた彼は、いつも酒に酔い、仲間たちとドンチャン騒ぎをして、毎夜エルヴィス・プレス..
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二人にしか奏でられない美しいメロディー~パット・メセニーとライル・メイズのコンビネーションは40年前に始まった

風、光、水、大地。 ジャズ・ギタリスト、パット・メセニーの奏でる音楽から感じられるのは、そのような大自然のイメージではないだろうか。 1999年、音楽ライター神舘和典氏によるパット・メセニーへのインタビューの中で、神舘氏が彼の音楽からは土の匂いが感じられると語ったことについて、パットがこのように答えている。 さっき君は土の匂いがすると言っていたね。もしそう感じたなら、僕にとってはとても嬉しいことだよ。というのも、それは僕がそのまま作品に反映されているという証だからね。 知っての通り、僕はニューヨークのような都会で生まれたわけではない。ミズーリ州のカンザスシティという、小さな田舎町で生まれて、17年間も育ってきた。その田舎で育ったバックグラウンドを隠すつもりなどなくて、むしろその自分の育った環境を受け入れながら音楽を作り続けているわけだよ。 僕のギターに土の匂いを感じるというのは、そういう僕自身の背景が音になっているということで、喜ばしい。 ~「25人の偉大なジャズメンが語る名盤・名言・名演奏」神舘和典著 幻冬舎新書より そんなパット・メセニーのサウンドに、さらに大きなスケールで宇宙や精神性を感じさせる彩りを添えるのが、キーボーディストのライル・メイズだ。 1978年に結成されたパット・メセニー・グループは、メンバー・チェンジを繰り返しながら今に至るが、ライル・メイズだけは結成時からパットの名パートナーとして、メセニー・サウンドを支え続けている。 彼らが出会ったのは1974年、カンサス州ウィチタ市で開かれた大学対抗ジャズ祭の会場だ。パットは当時、名ヴィブラフォン奏者として知られるゲイリー・バートンのグループに所属していて、ライルはノース・テキサス州立大学から自分のクァルテットで参加していた。 その後二人は、歌手のマリーナ・ショウのツアーに同行し、意気投合する。 1977年にパットはゲイリーのグループから離れて、ボストンのスタジオでソロ・アルバム『ウォーターカラーズ』のレコーディングに取り掛かる。ちょうど同じ頃にボストンにやってきたライルがこのアルバムに参加することとなった。 驚くべきは、二人の初共演となったこの記念すべきアルバム『ウォーターカラーズ』で、すでにその後の彼らに通じる心地よいサウンド・スタイルが完成されていることだ。 アルバム『Watercolors』より..
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