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土曜の夜(Looking for) The Heart of Saturday Night〜70年代初期にトム・ウェイツが描いたアメリカの寂れた裏通り

行き交う車のエンジン音、クラクション、靴音… 夜の街の雑踏に溶け込んでゆくような穏やかなイントロに導かれて、あの“しゃがれ声”が語るように歌い出す。 カワイコちゃんをちょいと口説いて 自慢の車の中でその娘の肩に腕をまわす そんな事を想いながら… 土曜の夜の相手を求めて車を飛ばす 1974年に発表されたトム・ウェイツの2ndアルバム『The Heart Of Saturday Night』のタイトルナンバー「土曜の夜(Looking for) The Heart of Saturday Night」について、ローリングストーン誌は、こんな風に評した。 「永遠の若さという幻想の残酷さを歌った、もっとも印象的で鮮烈な曲の一つ。」 前年の1973年に1stアルバム『Closing Time』をリリースしたトム・ウェイツは、自身のデビュー作の出来映えに満足できなかったという。 「もっとジャズ寄りの音にしたかった」とのこと。 そんな気持ちもあってか、この2ndアルバム『The Heart Of Saturday Night』ではボーンズ・ハウをプロデューサーに迎え、ジャズ色を全面に押し出す音作りを行なっている。 ボーンズ・ハウと言えば、オーネット・コールマンの代表作『The Shape of Jazz to Come(ジャズ来たるべきもの)』(1959年)やエラ・フィッツジェラルドのレコーディングエンジニアとして頭角をあらわした男。 60年代の始めには、フランク・シナトラやメル・トーメのアレンジも任されるようになる。 ママス&パパスのヒット曲のエンジニアも務め、1965年にはザ・タートルズがカヴァーしてヒットさせたボブ・ディランの曲「It Ain’t Me Babe」(チャート首位)で初めてプロデューサーとしての仕事を経験する。 以降、ハウは“サマー・オブ・ラブの時代”そして“モンタレー・ポップ”を象徴するサウンドを作った立役者の一人として知られるようになる。 後にハウはトム・ウェイツとの初対面の思い出をこう語っている。 「私は彼に、君の曲と詞からはケルアックの影響が感じられると言った。すると彼はひっくり返りそうになって驚いてたよ。わたしがジャック・ケルアックを知ってるなんて夢にも思わなかったんだろう(笑)」 本作には、トム・スコット(サックス奏者)やマイク・メルヴォイン(..
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ラ・バンバ〜3曲のヒットを残して17歳の若さで逝ったR&Rスター、リッチー・ヴァレンス

1959年。数年前に生まれたばかりのロックンロールが全米中のティーンエイジャーを夢中にさせていた頃。そんな2月3日。吹き荒れる悪天候が原因で、3人の若いロックンローラーを乗せた小型飛行機がアイオワ州のトウモロコシ畑に墜落。翌朝、パイロットも含めて4人全員が死亡しているのが発見される。 亡くなったのはツアーの移動中だったバディ・ホリー、ビッグ・ボッパー、そしてリッチー・ヴァレンス。この日の悲劇はティーンたちに大きな衝撃を与え、当時その一人だったドン・マクリーンは1971年になって「アメリカン・パイ」という曲をリリースし、「音楽が死んだ日」と歌った。 『ラ・バンバ』(La Bamba/1987)は、スターになった矢先の飛行機事故でわずか17歳の若さで伝説となってしまったリッチー・ヴァレンスの青春と恋、家族と兄弟愛、そして音楽への情熱を描いた映画だった。 本名リチャード・バレンズエラ。1941年5月13日、LA北部の町パコイマで生まれたリッチーにはメキシコ人の血が流れ、貧しい移民コミュニティの中で母親の女手一つで育つ。若者になったリッチーの夢は、明日のロックンロール・スターになって、農場で働く母親とまだ幼い妹たちにマイホームをプレゼントすることだった。 そんなある日、異父兄のボブが刑期を終えてリッチーたちの元に戻ってくる。一家は農場キャンプを離れ、南カリフォルニアで暮らすようになる。新しい高校生活が始まったリッチーは、美しい金髪の女の子ドナと出逢って恋に落ちる。WASP系である彼女の父親はヒスパニックのリッチーを差別の眼差しで見つめるが、ドナはリッチーのもう一つの夢となった。 地元のバンドのメンバーになったリッチーは練習に励みつつ、やがて自分のバンドを結成。母親や兄の注力もあり、町の公民ホールでデビューコンサートを開催する。ボブの不良仲間たちの乱入でメチャクチャになるものの、ドナとの距離は縮まり、レコード会社からもスカウトされる。 1958年。「カモン・レッツ・ゴー」でレコードデビューすると、リッチーの人生は変わり始める。セカンドシングル「ドナ」/「ラ・バンバ」は大ヒット。ドナとも結ばれて新車でドライブ、念願のマイホームも母親にプレゼントすることができた。 兄の嫉妬と確執もある中、リッチーはアラン・フリードのR&Rショーに出演。エディ・コクランやジャッキー・ウィルソンらと..
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ザッツ・エンタテインメント〜アステアやケリーが歌って踊ったミュージカル映画30年史

1996年にジーン・ケリーが亡くなった時、アメリカのABCテレビのニュース番組が流した追悼映像は前代未聞のものだった。 「歌って踊れる偉大な映画スターが83歳の生涯を閉じました」と伝えた後、何の言葉も一切交えずに『雨に唄えば』(1952年)のダンスシーンだけをただ流し続けたのだ。水たまりで飛び跳ね、街灯の下で踊り、初めて恋を知ったかのように踊るケリー。ただそれだけが4分間続いた。 これは間違いなく、ミュージカル映画至上最高のシーンだろう。この映像が素晴らしくもほろ苦い追悼になりえたのは、単に一人のスターへのお別れ以上の意味があったからだ。それは、ミュージカル映画の“死”に対する追悼だった。 30年代〜50年代にかけて全盛を誇ったミュージカル映画は、その後のテレビの普及やロックンロールとティーンエイジ文化の登場で人気が下降。80〜90年代になると映画はすっかり歌うことを忘れていた。それを嘆き悲しむかのように、マーク・パイザー氏は自身のコラム(『ニューズウィーク』誌「シネマの20世紀」/1998年)で冒頭の言葉を綴ったのだ。 感動的であるが、もう遥か昔のこと。ミュージカル映画は夢の時代の産物・象徴であり、すでに家族の形が崩壊してしまった厳しい世の中では誰も求めていない世界。極端に言えば、そんなムードさえ漂っていたのだろう。 これは日本においても同じようなことが言える。特にテレビがそうだ。70年代までそれは“お茶の間”の主役であり、そこには一家団欒ための健全な演出・調和された世界が確かにあった。しかし80年代に入ると、台本のないフリートークやタレントのプライベートトークが蔓延。以後、派手なテロップも当たり前となり、アナウンサーでさえアイドル化。ネットやSNSが浸透すると情報性も薄れ、みんなテレビを真剣に見なくなった。 その反動だろうか。2000年代に突入してミュージカル映画は復活の兆しを見せ始める。興味がない人でも『マンマ・ミーア!』(2008年)や『レ・ミゼラブル』(2012年)、最近では『ラ・ラ・ランド』(2016年)の大ヒットくらいは知っているはず。ブロードウェイのミュージカル舞台ともシンクロしながら、明らかにニーズは高まりつつある。ディズニーアニメが永遠に母と子供たちのものなら、現在のミュージカル映画は古き良き時代を知らない“新しい大人たち”のものなのかもしれ..
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フニクリ・フニクラ〜あの“鬼のパンツ”の原曲はイタリアで生まれた世界最古のコマーシャルソングだった!

節分(豆まき)のシーズンになると、子供番組や幼稚園で“季節の歌”として唄われる定番曲として愛され続けているこの「鬼のパンツ」。 もともとはNHKの子供向け番組から広まった替え歌である。 原曲は「フニクリ・フニクラ」という、1880年に作曲されたイタリアの大衆歌謡ソング(ナポリ民謡)だったという。 このユーモラスな歌詞(替え歌)を書いたのは一体誰だろう?と様々な資料を調べたところ…JASRACのデータベースでは“作詞者不詳”となっている。 一説によれば、NHK初代“うたのおにいさん”として知られる田中星児が作ったのでは?とも言われている。 田中星児といえば、1976年に「ビューティフル・サンデー」の日本語カヴァーを大ヒットさせたことでも有名だ。 彼は歌手としてだけではなく、自身で作詞作曲を手がけるシンガーソングライターとしても活躍していたようで、主にNHK教育番組向けの曲を数多く残しているというから、ある意味“有力説”と言えるだろう。 ところで、日本の物語や漫画に登場する鬼がなぜ(大昔から今にいたるまで)トラ柄のパンツをはいているのか考えたことがあるだろうか? これには陰陽道でいう“鬼門(きもん)”が関係しているというのだ。 鬼門は鬼が出入りする方角とされ、丑(うし)と寅(とら)の間の方位、すなわち北東を指すのだが、この牛(二本の角)と虎(毛皮の模様)のイメージがそのまま鬼のイメージとして定着していった…という興味深い説があるのだが、これもまた真相は謎のままである。 さて、この「鬼のパンツ」の原曲「フニクリ・フニクラ」にもまた面白い誕生エピソードがあるという。 イタリアのナポリ郊外東12キロのところに“ヴェスヴィオ”という名前の火山がある。 標高1277メートル、周囲12キロメートルにも及ぶ外輪山を持つその火山は、ローマ帝国時代にあのポンペイの町を破壊したことでも知られている。 1748年に発見されたポンペイの遺跡は、以降、観光客が大勢訪れる世界有数のスポットとなる。 当時「これを放っておく手はない!」と、トーマス・クックという観光会社が火山の山頂まで観光客を運ぶ登山電車を発案し、1880年に開通させる。 トーマス社は、この電車に“フニクリ・フニクラ”という名前をつけた。 イタリア語でケーブルカーのことを “finicolare(フィニコラーレ)” と言い、いわゆる..
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これが本当の80年代サウンド⑪〜忘れられたヒット曲にもう一度スポットライトを

80年代の洋楽をまとめたネットコンテンツやラジオ番組や雑誌には、いつもお決まりのアーティストやヒット曲だけがラインナップされている。それは同時代のコンピレーションがリリースされても同じこと。今回の企画はそんなありきたりの選曲ではなく、聞くだけで(観るだけで)「ああ! いた!! あった!!」と歓喜するようなアーティストやヒット曲を思いつくままに集めてみた。題して「これが本当の80年代サウンド」。そろそろマドンナやマイケル・ジャクソンの呪縛から解放されよう。ドライブや通勤タイム、懐かしの音源探しに活躍すること間違いなし。(選曲/中野充浩) ロクセット「Dangerous」(1989年/全米2位) スウェーデン出身の二人組(ペール・ゲッスルとマリー・フレデリクソン)。隠れロクセット・ファンは多いと信じている派だが、さすがにここ10数年は話題にも上がらない。FMから流れると歓喜ものだ。80年代後半から90年代前半にかけて世界規模でヒットを連発。キャッチーな楽曲は昼下がりのドライブにも最適だった。 フィッシュボーン「Party at Ground Zero」(1985年) このバンドを知ってる人はかなりの音楽好きなはず。タイトル画像はこのLA出身のミクスチャーバンド。当時はレッチリよりも人気があった。と言っても時代は80年代。彼らのような一歩も二歩も先を行く感性が大衆に理解されるのにはまだまだ早すぎた。日本では2トーンやジャマイカン・スカなんかを聴いていた元祖クラブピープルに人気があった。 ティファニー「I Think We’re Alone Now」(1987年/全米1位) かつてブリトニー・スピアーズやテイラー・スウィフトがデビューした頃、いつも1987年のこのティファニーを思い出していた。80年代後半に突如として吹き荒れたティーン・ポップ/ティーン・アイドル旋風。アメリカのショッピングモールを巡る画期的なツアー。日本でも大人気となり来日公演も行った。そんな彼女も間もなく50歳。 デビー・ギブソン「Out of the Blue」(1988年/全米3位) そのティファニーとライバル視されたのが、同年にデビューしたデビー・ギブソン。しかし彼女はアイドルというよりは優れたシンガー・ソングライターでもあった。大名曲「Lost In Your Eyes」がリリースされるのは..
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ウィルコ・ジョンソン27歳〜ロンドンのパブロックシーンを席巻したドクター・フィールグッド

70年代初頭からイギリスのパブロック・シーンを牽引し、後のパンク・ロック・ムーブメントの火付け役となったドクター・フィールグッドから始まり、ソリッド・センダーズ、ザ・ブロックヘッズ、そしてソロ名義での活動と、長いキャリアを通してロックシーンの大きな足跡を残してきたウィルコ・ジョンソン。 “マシンガンギター”の異名を持つ彼のピックを使わない鋭いカッティングとリードを同時に弾く奏法は、世界中で数多くのフォロワーを生み、世代を超えてリスペクトされ続けている。 彼は27歳の頃にどんな日々を過ごしていたのだろう? 1947年7月12日、彼はイギリスのエセックス州キャンベイ・アイランドで産声をあげた。 ガス工事業者の父と元看護婦の母親の間に生まれた3人兄弟の長男だった彼は、幼少期にあまり親からの愛情を受けることなく育ったという。 十代の頃に楽器店でフェンダーテレキャスターを買ったことをきっかけに彼は音楽にのめり込むようになる。 学生時代にバンドを結成し地元の労働者向けのパブなどで演奏していたが、成績優秀だった彼は、ニューカッスル大学で英文学を学ぶために地元を後にし、しばらくギターから遠ざかる。 教師になる夢を抱いていた彼は、在学中(1968年・当時21歳)にティーンエイジャー時代からのガールフレンドと結婚し2人の息子をもうける。 大学卒業後、ヒッピーとしてインドとネパールを放浪し…帰国後、地元の高校で母国語教師をしていたが、1971年(当時24歳)リー・ブリローやジョン・B・スパークスに誘われドクター・フィールグッドを結成する。 ──それはバンド結成から3年目の頃だった。 ウィルコ・ジョンソンは27歳だった当時のことを鮮明に憶えているという。 「ロンドンのパブロックシーンが盛り上がっているという話は俺達の耳にも入っていたよ。単にビールを提供するだけでなく、客にいいバンドの音楽を楽しんでもらうことに重きを置いたパブが増え、新たなライブスポットとして機能し始めていたんだ。すでにその名が知られていたマーキーや100クラブに加え、ディグウォールやホープ&アンカーなどが人気だったよ。」 こういったパブでライブを行なっていたミュージシャンの中には、有名どころも多く、出演者の音楽性は多様を極めていたという。 ロック、カントリー、ジャズ、伝統音楽…質の高いバンドのパフォーマンスも聴けたが、..
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これが本当の80年代サウンド⑩〜忘れられたヒット曲にもう一度スポットライトを

80年代の洋楽をまとめたネットコンテンツやラジオ番組や雑誌には、いつもお決まりのアーティストやヒット曲だけがラインナップされている。それは同時代のコンピレーションがリリースされても同じこと。今回の企画はそんなありきたりの選曲ではなく、聞くだけで(観るだけで)「ああ! いた!! あった!!」と歓喜するようなアーティストやヒット曲を思いつくままに集めてみた。題して「これが本当の80年代サウンド」。そろそろマドンナやマイケル・ジャクソンの呪縛から解放されよう。ドライブや通勤タイム、懐かしの音源探しに活躍すること間違いなし。(選曲/中野充浩) ビーチ・ボーイズ「Getcha Back」(1985年/全米26位) 1983年末にデニス・ウィルソンを失ったビーチ・ボーイズが、MTV時代にリリースした最初のアルバムからのシングルカット。打ち込みなどを取り入れて80年代仕様に。ビーチ・ボーイズの歴史からみれば何の変哲もない曲かもしれない。でもヘヴィメタルやイギリス勢が活躍していた1985年、この曲をMTVで耳にした時はすっかり心奪われた。最高の一曲だ。なお、意外な事実として、アルバムにはボーイ・ジョージが曲を提供、ゲイリー・ムーアが録音に参加している。 ジョーン・ジェット&ザ・ブラックハーツ「I Need Someone」(1984年) R&R界の姐御ジョーン・ジェットをこの企画に入れるのはやや抵抗を感じるものの、忘れられたという観点ではこれを機にぜひ聴いてほしい曲。1961年のベルモンツのヒット曲のカバーで、はっきり言ってこのブラックハーツ版がめちゃくちゃカッコイイ。当時MTVで観た時は瞬間的にやられてしまい、次の日にタワーレコード(もちろん輸入盤専門店時代)へアルバムを買いに行ったことを思い出す。 マイアミ・サウンド・マシーン「Words Get in the Way」(1986年/全米5位) こちらもグロリア・エステファンという観点でなく、彼女があくまでもメンバーの一人だった頃のMSMの名曲バラード。夏の終わりにリゾートホテルのバーで耳にしていたい曲。夜風の中で80年代の風景も蘇ること間違いなし。もちろんグロリアのベスト盤ではなく、必ずオリジナルアルバムの流れで聴いてほしい曲だ。 プリミティヴズ「Crash」(1988年/全英5位) 紅一点トレイシー・トレイシーを看板に..
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Che sarà・後編〜琴線に触れるイタリアのメロディー、日本人は“超訳”がお好き!?

イタリアでこの歌「Che sarà(ケ・サラ)」が発表された1971年、日本では学生運動や安保闘争の火が燻っていた。 当時、にしむらよしあきが自身の政治思想を基に超訳した歌詞を、権力と闘いながら平和と自由を訴えていた学生達が集会や歌声喫茶などで合唱していたという。 「ケ・サラ」日本語訳:にしむらよしあき 押さえ切れない怒り こらえ切れない悲しみ そんなことのくり返しだけど 決して負けはしないさ ケサラ ケサラ ケサラ 僕たちの人生は 平和と自由もとめて    生きてゆけばいいのさ 日本語歌詞としては作詞家・訳詞家・詩人の岩谷時子の手によって訳された歌詞を越路吹雪が唄ったものが一般的に広く知られている。 「ケ・サラ」日本語訳:岩谷時子 平和で美しい国 信じあえる人ばかり だけど明日は どうなることやら 誰もわかりはしないさ ケ・サラ ケ・サラ ケ・サラ 私たちの人生は 階段を手さぐりで歩くようなもの エ・サラ  サラケル  ケ・サラ 越路吹雪『愛の生涯』 (2005/EMIミュージックジャパン) iTunes Amazon 2011年には、漫画家・西原理恵子が毎日新聞に連載する人気コミックを実写映画化した『毎日かあさん』(主演:小泉今日子、永瀬正敏)の主題歌として、憂歌団の木村充揮(あつき)が2006年に発表したアルバム『小さな花』に収録していたバージョン「ケサラ~CHE SARA~」が起用されて話題となった。 【木村充揮 オフィシャルサイト】 http://dandylion.info 「ケサラ~CHE SARA~」日本語訳:木村充揮 海を見てると 君のことを思い出す 振り向きざまの あの笑顔 この胸に広がる 楽しい楽しい日々を 辛く切ない日々を 君と共に暮らした日々を 忘れられない日々を ケサラ ケサラ ケサラ 今日の一日を 雨の日も風の日も ケサラ ケサラ ケサラ 原詞の中に登場する主人公(青年)の胸中によぎる、先の見えない不安とやりきれない気持ち。 自分たちの暮している国で目の当りにする経済格差。 家族と離れて単身赴任で働く人達もいる。 孤独、焦燥、守りたいもの…そしてわずかな希望。 異国の地で生まれた名曲を、これまで数多くの作詞家やアーティストが訳してきた。 物語や童話が語り継がれてきたように、そのメロディーに想いを乗せて…。 そう、..
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Che sarà・前編〜イタリア移民の不安と希望を哀愁のメロディーに乗せて

この歌は、イタリアの北西部リグリーア州インペリア県にある小さな町で毎年開催されているサンレモ音楽祭で1971年に準優勝を受賞したポップナンバーで、いわゆるカンツォーネ(イタリア民謡)をベースに紡がれた楽曲だ。 タイトルの「Che sarà(ケ・サラ)」という言葉は、日本語に訳すと“どうなってしまうんだろう?”という意味を持つという。 この音楽祭の採点システムは、イタリアのシンガーと国外のアーティストが一組になり、あらかじめエントリーされた同一曲を歌うという変則的なものだった。 毎年入賞した曲は世界中でヒットする傾向にあり、若手アーティストにとってはスターに駆け上がる登竜門的なコンテストでもあった。 今回スポットをあてるこの歌は、イタリアを代表する男女混合の4人組コーラスグループ、リッキ・エ・ポーヴェリ、そしてプエルトリコ出身の盲目の天才ギタリスト/歌手、ホセ・フェリシアーノの二組によって歌唱されて入賞に至った。 これからどうなってしまうんだろう  僕の人生がどうなるのか誰もわからない 何だってできるのか?何もなしえないのか? 明日、僕はそれを知るだろう なるようにしかならないものさ サンレモといえば隣国フランスのニースやモナコに隣接し、平らな土地は少なく、ちょっとした高台や丘からは海がよく見える港町だ。 この町は、第二次世界大戦後にイタリアの戦後復興を目指し、観光客を招致して外貨を稼ぐ目的でカジノが作られ、1951年から音楽祭が開催されるようになった。 実はイタリア全土へのラジオとテレビの放送は、この音楽祭の歴史と共にあるという。これまでコニー・フランシスやポール・アンカ、そしてあのイギリスの伝説的なロックバンド、ヤードバーズまでが出場し、日本からも伊東ゆかりや岸洋子が参加したという記録が残っている。 ちなみにヤードバーズの出演は、エリック・クラプトン脱退後の1966年の回で、新しく加入したジェフ・ベックはこのサンレモ音楽祭への出場に不満を持ち、ステージにはかろうじて立ったものの、あらかじめ行われる課題曲「Questa Volta」のレコーディング当日に雲隠れする事件を起こしたというエピソードが残っている。 1960年代には世界的に“カンツォーネブーム”がおこり、サンレモ音楽祭は最盛期を迎えたのだが…70年代を迎える少し前あたりからイタリア経済が衰退しはじめ、規..
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“音楽探求の壮大な旅”が詰まったボックスセットの世界

どんなに単曲ダウンロードやストリーミングや動画サービスが普及しようと、心からの音楽ファンなら絶対に手元に残しておきたいもがある。その一つが「ボックスセット」だ。数枚組の中身は、まさに“壮大な音楽探求の旅路”そのもの。若い時には高価でとても手が出なかったという声も多い。でも大人になった今、それは十分に揃えるべき価値のあるもの。中古ショップで見かけたら迷わず手に取り、ネットで見つけたらとりあえずカートに保存してほしい。今回は厳選した5タイトルを紹介。 『The BLUES:A Musical Journey』 2003年のマーティン・スコセッシ監修による「ブルース・ムービー・プロジェクト」では7本の映画が作られた(最下段にリスト化)。このボックスもその一環。中身が凄い。ブルーズの歴史を5枚組・全116曲に包括。レーベルを超えた夢のようなコンピレーション。日本盤はブックレット、歌詞とも翻訳対応。発売当初は1万円弱だったが、今では中古で倍額以上のプレミアになっている。 ディスク1はカントリー・ブルーズやクラシック・ブルーズなど1920年代。ディスク2は30〜40年代、ディスク3は40〜50年代、ディスク4は60年代、ディスク5は70年代以降の代表曲で構成。ブラインド・レモン、リロイ・カー、チャーリー・パットン、サン・ハウス、ロバート・ジョンソン、ビッグ・ビル・ブルーンジー、Tボーン・ウォーカー、エルモア・ジェイムズ、ギター・スリム、マディ・ウォーターズ、ハウリン・ウルフ、ボビー・ブランド、オーティス・ラッシュ、バディ・ガイ、マジック・サム、B.B.キング、ジョン・リー・フッカー、ジョニー・ウィンター、スティーヴィー・レイ・ヴォーンなど全部入っていてまとめて聴ける。 (こちらのコラムもオススメです) キャデラック・レコード〜ビヨンセも出演した伝説のレーベル“CHESS”の物語 『The DOO WOP Box』 ドゥーワップのグループばかりを集めた4枚組・全101曲。ライノの素晴らしい仕事の一つ。ディスク1は「ドゥーワップの誕生1948-1955」、ディスク2は「ロックンロールの爆発1955-1957」、ディスク3は「ドゥーワップの黄金期1957-1959」、ディスク4は「ドゥーワップ・リヴァイヴァル1959-1987」という構成。代表的名曲からマニア向けまで選曲も抜群だ..
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We Are The Worldの舞台裏で…

1984年、マイケル・ジャクソンは名実ともに絶頂期を迎えていた。 当時、彼はテキサス州のがん研究施設から救い出された3歳のチンパンジーを引き取って、どこへ行くときも同行させていた。 “バブルス”と名付けたそのチンパンジーに自分とおそろいの服を着せてパーティーや報道機関向けのイベントに連れて行き、ムーンウォークの踊り方も教え込んだという。 そんな彼のエキセントリックな行動は、音楽への評価とは別のところで大いに世間からの注目を集めていた。 エレファントマンやマリリン・モンローの骨を手に入れたがっているという噂や、酸素テントの中で睡眠をとっている、肌が白くなっている、鼻が細くなり唇が薄くなっているなどなど…。 下世話なタブロイド誌は“ワッコー・ジャッコー(変人マイケル)”などと見出しに踊らせて彼を揶揄するようになっていた。 そんな中、彼は事態を静観していたという。 1984年11月、ハリウッドの“ウォーク・オブ・フェイム”の星が彼に授与される。 その翌月の12月24日に、ボブ・ゲルドフ(ブームタウンラッツ)とミッジ・ユーロ(ウルトラボックス)の呼びかけで、アフリカの飢餓と貧困を解消する目的の下にイギリスのアーティスト達が集結した。 そのテーマソング「Do They Know It’s Christmas?」が、またたく間に収益を上げ“バンド・エイド”というチャリティーキャンペーンは大きな成功を収めた。 この動きに呼応するかのように“USAフォー・アフリカ”という旗の下、マイケル・ジャクソンとライオネル・リッチーの呼びかけに応じたのは、アメリカのポップス界を代表するアーティスト達だった。 テーマソング「We Are The World」の作詞作曲はマイケルとライオネルが共作で行い、プロデュースはクインシー・ジョーンズが担当した。 なんと彼らはこのアイディアが出てから12時間も経たないうちに曲を書き上げたという。 1985年1月28日の夜、その奇跡のようなレコーディングは実行された。 人種、性別、音楽ジャンル、宗教、キャリアもそれぞれ異なる彼らの“想い”は国境を超えて…普段は高額な出演料や印税をもらっている総勢45人のトップスター達が、エチオピア難民救済のためにノーギャラで集結したのだ。 ボブ・ディランからダイアナ・ロス、シンディ・ローパーやブルース・スプリングスティーンなど..
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これが本当の80年代サウンド⑨〜忘れられたヒット曲にもう一度スポットライトを

80年代の洋楽をまとめたネットコンテンツやラジオ番組や雑誌には、いつもお決まりのアーティストやヒット曲だけがラインナップされている。それは同時代のコンピレーションがリリースされても同じこと。今回の企画はそんなありきたりの選曲ではなく、聞くだけで(観るだけで)「ああ! いた!! あった!!」と歓喜するようなアーティストやヒット曲を思いつくままに集めてみた。題して「これが本当の80年代サウンド」。そろそろマドンナやマイケル・ジャクソンの呪縛から解放されよう。ドライブや通勤タイム、懐かしの音源探しに活躍すること間違いなし。(選曲/中野充浩) ビッグ・オーディオ・ダイナマイト「C’mon Every Beatbox」(1986年・全英51位) ザ・クラッシュを脱退したギタリスト、ミック・ジョーンズの新たな出発となったBAD。ヒップホップやハウス等を取り入れた最先端のアプローチは、偉大なバンドの幻影に囚われずに自らを成長させていくパンクの精神そのものだった。1985年にファーストをリリース。これはジョー・ストラマーとの共同プロデュース、ソングライティングが話題になったセカンドからのシングル。 ジェフ・ヒーリー・バンド「Angel Eyes」(1989年・全米5位) カナダ出身の盲目ギタリストが放ったヒット。ブルーズやジャズに影響を受けた渋いルーツロックを聴かせる。膝上にギターを置き、弦を押さえながらの特殊な奏法で、本物志向のファンに支えられ活動を続けた。ジェフは病と闘いながら2008年に41歳で死去。 マイケル・ダミアン「Rock On」(1989年・全米1位) 人気若手俳優による忘れられたナンバーワン・ヒット。と聞けば、少し前のジャック・ワグナーの「All I Need」なんかを思い出す人もいるはず。この曲はイギリスのデヴィッド・エセックスのカバー。こちらは1973年にビルボードチャートで5位まで上昇。ダミアンのバージョンも今聴いてみると、かなりカッコイイ。 ブリーズ「Hands to Heaven」(1987年・全米2位) これも記憶してる人は少ないはず。イギリス出身のポップバンドが放ったバラード・ヒット。同時期のカッティング・クルーもそうだが、何とも言えない切ないムードが80年代の風景や空気感を漂わせてくる。これはずばり名曲だ。他に「How Can I Fall?..
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クリッシー・ハインド27歳〜ハイスクール時代に描いた夢を10年後に叶えた彼女のロックな履歴書

クリッシー・ハインド。 ロック界の姉御的存在として常に第一線で活躍してきた彼女は27歳で大きな転機を迎え、翌年にプリテンダーズとしてデビューを果たした。 プリテンダーズはイギリスのロンドンで生まれたバンドにも関わらず、彼女自身はアメリカ北部オハイオ州アクロンの出身だ。 彼女は故郷で過ごしたハイスクール時代を振り返りながらこう語ってる。 私は高校生活をおもしろいと感じたことがなかったわ。 つまり、ダンスに行ったこともなかったし、デートに行ったこともなかったし、恋人もいなかったの。 かなり酷かった毎日だったけど…バンドを観に行くことはできたので、それが元気の素だったわ。 私は会ったこともないバンドの男性に恋をしていたの。 ブライアン・ジョーンズやイギー・ポップに興味をもつ私を周りの人は“難しい存在”として見ていたみたい。 そんな中、私は「将来は自分のバンドを組んでデビューする!」という目標を持ったの。 卒業後も彼女はヒッピーカルチャーや東洋の神秘主義、菜食主義に興味を持つようになったという。 ケント州立大学美術学部の学生時代に“Sat. Sun. Mat. ”という名前のバンドに加入。そのバンドには後にディーヴォを結成するマーク・マザーズボーが在籍していた。 彼女はイギリスの音楽誌『NME(ニュー・ミュージカル・エクスプレス)』に興味をもち、22歳を迎えた1973年にロンドンへ移り住むようになる。 簡単な着替えとイギー・ポップのレコードを持ってアメリカからロンドンに渡ったのよ。 まずは建築会社で仕事をしたが8ヶ月後に辞めてしまった。 あるきっかけで『NME』記者のニック・ケント(シド・ヴィシャスにチェーンで殴られたことのある男)と出会い、仕事を紹介してもらってライターとして働くようになる。 しかし、この仕事も長くは続かずに…当時はまだあまり知られていなかったマルコム・マクラーレンとヴィヴィアン・ウエストウッドのブティック『SEX』で働くようになる。 そこで2~3週間働いた後、彼女はフランスに渡ってバンドを結成しようと奔走する。 その後ロンドンに戻り、様々なミュージシャンと交友関係を深めながらも…なかなか実現しない夢に、彼女は焦燥を感じ始める。 そんな中、彼女に好転のきっかけを与えたのは、プロデューサーのクリス・トーマスだった。 サディスティック・ミカ・バンドを世..
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これが本当の80年代サウンド⑧〜忘れられたヒット曲にもう一度スポットライトを

80年代の洋楽をまとめたネットコンテンツやラジオ番組や雑誌には、いつもお決まりのアーティストやヒット曲だけがラインナップされている。それは同時代のコンピレーションがリリースされても同じこと。今回の企画はそんなありきたりの選曲ではなく、聞くだけで(観るだけで)「ああ! いた!! あった!!」と歓喜するようなアーティストやヒット曲を思いつくままに集めてみた。題して「これが本当の80年代サウンド」。そろそろマドンナやマイケル・ジャクソンの呪縛から解放されよう。ドライブや通勤タイム、懐かしの音源探しに活躍すること間違いなし。(選曲/中野充浩) カウボーイ・ジャンキーズ「Misguided Angel」(1988年) タイトル通り、トロンチのホーリー・トリニティ教会での録音セッションの模様を伝えた『The Trinity Session』からのシングルカット。このアルバムは1988年当初は自身のレーベルからインディーリリース。その後メジャーのRCAによって再発されてベストセラーになった。ハンク・ウィリアムスやヴェルヴェット・アンダーグラウンドのカバーも収録。2017年に来日公演を行ったことも記憶に新しい。 ザ・ウォーターボーイズ「Fisherman’s Blues」(1988年・全英32位) スコットランド出身のロックバンド。代表作は何と言ってもアイルランド音楽に傾倒した『Fisherman’s Blues』。土地の風景や匂いや風が全編に漂う名盤。中心人物のマイク・スコットは2016年、アーティストのろくでなし子こと五十嵐恵と結婚したことでも話題に。現在も精力的に活動中だ。 エディ・ブリケル&ニュー・ボヘミアンズ「What I Am」(1988年・全米7位) 引き続き1988年から。こちらはテキサス州ダラス出身のオルタナ系バンド。デビュー作の『Shooting Rubberbands at the Stars』(邦題『星に輪ゴムを』)からのナンバー。アルバムジャケットのイラストはブリケルによるもの。彼女は1992年にポール・サイモンと結婚した。不思議な魅力を持った楽曲だ。 デニス・デ・ヤング「Desert Moon」(1984年・全米10位) 80年代は有名バンドのメンバーのソロ活動が目立った時期。中でも84年は豊作でスティクスの中心人物デニス・デ・ヤングやトミー・ショ..
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マヘリア・ジャクソンを偲んで〜浅川マキも心酔したゴスペルの女王

まず…浅川マキが著書に残した言葉をご紹介します。 この体験をした当時、彼女はまだ29歳だったという。 1971年4月、60歳を迎えたゴスペルの女王マヘリア・ジャクソンが日本(渋谷公会堂)にやって来た。 記者や評論家の質問に対して彼女はこう言った。 「どうか、難しいことは聞かないでください。ただ私の歌を聴いて下さい。」 そしてこう付け加えて笑ったという。 「歌っている時、私の胸の中は空っぽなんです。」 10年前、初めてマヘリアのレコードを手にした時、その魂の歌は、ひどく私をがんばらせてくれた。 またある時は心を洗ってくれた。 しかし、生活に疲れはじめた頃…ひどく私の体の中を犯してきたのは、ビリー・ホリデイだった。 だからこの10年間、私はマヘリア・ジャクソンとビリー・ホリデイの間を揺れていたのかもしれない。 60歳になって日本にやって来たマヘリアがやはり偉大であったのを思えば、ビリー・ホリデイは最後まで“街の歌手”であったのだろう。 その時、マヘリアと写真を撮ったのだけれども、英語のよくわからない私は、ただ一言だけ口にした。 「おっかさん…」 マヘリアは喜んで私を抱きしめてくれた。 マヘリア・ジャクソン。 アメリカの音楽史において“ゴスペル界最高峰の歌手”として君臨した伝説の黒人歌手だ。 1911年、ルイジアナ州ニューオーリンズにあるウォーター街で生まれた彼女は、黒人、クリオール人(フランスもしくはスペイン系の移民)、イタリア人たちが共に暮す貧しい環境で育ちながら教会で歌い始める。 16歳の若さで単身シカゴへ移り住み、ゴスペルグループ“ジョンソン・ブラザーズ”のメンバーとして音楽キャリアをスタートさせる。 1937年、26歳にしてソロ名義で初の音源をリリースするが…売上は芳しくなかった。しかしこのレコーディングを切掛けに、音楽関係者たちから実力を認められるようになる。 その後はコンサート活動に専念し、暫くレコーディング活動から離れるが、1946年 (当時35歳)にアポロレコードと契約し、幾つかの音源作品をリリースする中、1948年に発表した楽曲「Move on up a Little Higher」のヒットによって(デビュー来初めて)商業的な成功を収めることとなる。 その後、アメリカだけにとどまらずヨーロッパでも知名度を上げながら、自身のラジオ番組を持つまでになる..
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