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モスキート・コースト〜心に刺さるリバー・フェニックスの静かなモノローグ

“情報”や“消費”や“流行”に踊らされることがまだまだクールだった時代がある。日本では1986年〜1991年におけるバブル期がそれにあたる。もちろん惑わされたり、囚われたりしたこととは無縁の人もいただろう。だが都市部(特に東京都心)ではまるでパラレルワールドのように、そうすることが賢明というような空気が街々に確かに漂っていた。 当然、金を持っていること。マーケティングに長けていることが賛美され、そしてスタイリッシュかつ虚飾を気取れる恋愛がもてはやされた。毎日がパーティであること。最新を追求すること。リッチ&トレンディがドレスコードになった。 『モスキート・コースト』(The Mosquito Coast/1986)は、そんな真っ只中の1987年2月(アメリカは1986年12月)に公開された。バブル的価値観とは真逆を行くようなこの映画は、浮かれた人々には到底理解できなかった。しかし、“情報”や“消費”や“流行”といった文明に疲労を感じ取り、人間本来のあり方を夢見始めた人は大きな共感を覚えたはずだ。 こういう考えはインターネットが浸透したゼロ年代以降、特に強くなった感がある。アレックス・ガーランドの小説『ザ・ビーチ』はそんな気分を代弁していた……。 原作はポール・セローが1982年に発表した小説。監督と主演は『刑事ジョン・ブック/目撃者』(1985)に続いてコンビを組んだピーター・ウィアーとハリソン・フォード。脚本は『タクシー・ドライバー』のポール・シュレイダー。そして特筆すべきは息子役を演じたリバー・フェニックス。『スタンド・バイ・ミー』(1986)で圧倒的な存在感を示し、本作での起用が決まった。 アメリカの便利さ、文明社会が卑劣な犯罪や殺人の温床になっていると嘆き、嫌悪するアリー・フォックス(ハリソン・フォード)は、妻と子供4人を連れて中米ホンジュラスのジャングルへ移住する。 モスキート・コーストと呼ばれる未開の密林地帯に面食らう長男のチャーリー(リバー・フェニックス)たち。何もない土地に理想郷を築き上げようとする父親に従うことが精一杯だ。だが、大自然の緑の中に、巨大な製氷機や冷房装置など次々と実現していくアリーの行動力と率先力を誇りに思ってもいる。 皮肉にもジャングルに文明を作り上げてしまうフォックス一家。それを面白くないと思う連中も現れ、武装集団の侵入で理想郷は..
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愛と呼ばれるもの〜23歳で逝ったリバー・フェニックスの遺作

若くして亡くなった映画スターたちと言えば、真っ先に思い浮かぶのがジェームズ・ディーン(享年24)。彼がもっと生きていれば、一体どんな作品を届けてくれていたのだろうか? ヒース・レジャー(享年28)やブルース・リー(享年32)、ジョン・ベルーシ(享年33)などにも同じことを想う。1980年に50歳で逝ったスティーブ・マックイーンなんて、きっと今頃は世界最高の名優として君臨しているはずだ。 そんな中、1993年10月にわずか23歳という若さでドラッグが原因で命を落としたリバー・フェニックスのことが忘れられない。この若者がもし生きていれば50歳。キャリア最高の作品に出演して、我々を楽しませたり感動させてくれていると思うと、本当に残念でたまらない。 リバーの遺作として知られる『愛と呼ばれるもの』(The Thing Called Love/1993)は、カントリー音楽の聖地ナッシュヴィルを舞台にした物語だった。監督は『ラスト・ショー』や『ペーパー・ムーン』といった作品で、スモールタウンの詩的な風景を映画史に永遠に刻んだピーター・ボグダノヴィッチ。悪いわけがない。 だが、この映画は興行収入的には失敗して赤字となり、日本では劇場公開さえされなかった。最近になってようやくDVDが奇跡的に再発されたので、改めてこの封印された佳作を紹介したい。 音楽の都と呼ばれるテネシー州ナッシュヴィル。黒人のブルースやゴスペルやジャズと並ぶ偉大なるルーツ音楽である、貧しいアイルランド移民たちによるマウンテン・ミュージックやヒルビリーを原点とするカントリー音楽の聖地。現在大人気のテイラー・スウィフトも、ナッシュヴィルに自作の曲を売り込むことからすべてが始まった。今日もどこかでひっそりと名曲が育まれている、そんな街だ。 1920年代後半、カーター・ファミリーやジミー・ロジャースの歴史的録音によって世に広まったこの種の音楽は、その後30〜40年代には、ジーン・オートリー、ロイ・エイカフ、ボブ・ウィルス、ビル・モンロー、アーネスト・タブ、エディ・アーノルドといったスターの出現で、アメリカの大衆音楽として絶対的な影響を持つに至る。 アーティストと聴衆のパイプ役となったのは、1925年にナッシュヴィルで始まった『グランド・オール・オプリー』という名の伝説的なラジオ番組だった。50年代にはハンク・ウィリアムスと..
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ジョンとヨーコの出会い①「釘を打つための絵」

♪「Love」/ジョン・レノン 愛は現実であり実在する 愛は感覚 愛を感じること 愛とは愛されたいと欲すること ジョン・レノンとオノ・ヨーコ。 世界中で最も“有名なカップル”と言っても過言ではないだろう。 1970年、ジョンはソロアルバム『John Lennon/Plastic Ono Band(ジョンの魂)』を発表する。 ビートルズ解散後に初めて発表されたアルバムとして当時多くの注目を集めた。 これ以前にも“ジョン・レノン&オノ・ヨーコ”の名義でアルバムを発表しているので、4枚目のソロ作となる。 そこに収録されたのが、この「LOVE」である。 ジョンのアコースティックギターと、プロデューサーのフィル・スペクターが弾いたピアノだけでレコーディングされたものだと云う。 それはまさに、ジョンとヨーコの関係を象徴するかのような“究極のラブソング”だ。 二人の出会いの舞台は、ヨーコの個展会場だった。 1966年11月9日の出来事。 前衛芸術家として活躍していたヨーコは、ロンドンのインディカ・ギャラリーで『未完成の絵画とオブジェ Unfinished Paintings and Objects』と銘打った個展を開催した。 その日、ジョンは友人に不思議な日本人女性アーティストのことを紹介されて、彼女の個展をオープニング前日にも関わらず訪れてみた。 友人の紹介とはいえ勝手にギャラリーを訪れたジョンは、いわば招かれざる客だった。 お互い相手が何者であるかも知らなかったにも関わらず、二人はその日その場で恋に落ちたのだ。 それは、こんな“やりとり”から芽生えた恋だったという。 ギャラリーを訪れたジョンは、『釘を打つための絵 Painting to Hammer a Nail』という作品に興味を示した。 それは、真っ白なキャンバスと金槌が壁に飾ってあるだけのもので、見た人がキャンバスに釘を打つというユニークな作品だったという。 ジョンは「釘を打ってもいいですか?」とヨーコに尋ねた。 ヨーコは「まだオープン前ですから、そういうことは困ります」と答えたという。 がっかりしているジョンを見て、ヨーコは「じゃあ、5シリングを払えば打っていいです」と言い出した。 するとジョンは「想像のお金を払うので、想像の釘を打っていいですか?」と答えたという。 そして…二人はにっこり笑い合った。 物に対す..
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ジョンとヨーコの出会い②「天井の絵」

♪「John & Yoko」/ジョン・レノン&ヨーコ・オノ ヨーコ ジョン ヨーコ… ジョン… ヨーコ! ジョン! ヨーーーーコ!!!!! ジョーーーン!!!!! ヨーコ♡ ジョン♡ ヨーコ… ジョン… (22分41秒間続く) ジョン・レノンとオノ・ヨーコ。 時間(タイミング)の前後は不明だが…二人の出会いには、もう一つの“作品にまつわるエピソード”が存在する。 同じく1966年11月9日。 場所も同じくロンドンのインディカ・ギャラリーでの出来事。 オープン前のヨーコの個展を訪れたジョンに“感銘”と“衝撃”を与えた作品があったという。 ギャラリーの一角にぶっきらぼうに置かれた、高さ2メートルほどの脚立。 ふと見上げれば天井から虫眼鏡がぶら下がっていた。 いったい何のための虫眼鏡なのか、虫眼鏡で見るに値する何かが天井に書かれているとでも言うのか…確かめるためには、その脚立を登らなければならない。 ジョンは登った。 そして彼は見つけた。 真っ白な天井に小さな文字で書かれた“YES”という言葉を。 それは『天井の絵 Ceiling Painting (YES Painting)』と名付けられた作品だった。 ジョンはその時のことをこんな風に回想している。 もし“No”とか“インチキ”みたいな意地の悪い言葉が書かれていたら、すぐに画廊を出て行ったよ。 でも“YES”だったから僕は「これはいけるぞ、心温まる気持ちにさせてくれる初めての美術展だ」と思ったよ。 僕はそこに書かれていた“YES”という1文字に救われたんだ。 それは、どんなことでも肯定的にものごとをとらえてゆく、ヨーコの作品を象徴する言葉だった。 すべてを肯定する“YES”の1文字。 ファンの間では、ジョンとヨーコの出会いを決定付けた記念碑的作品だとも云われている。 そして、ヨーコもまた当時のことをこんな風に回想している。 二人とも、とても感性が強くてね…直感的な人間だったんです。 だからね…二人がパッと会った時に、すぐ愛を感じていたんでしょうけれども…非常に抵抗も感じていたんです。 本当に愛するってことは、二人が溶けちゃうってことでしょ…。 一緒になっちゃうことでしょ…。 私たちが出会った1966年というのは、二人とも悩んでいる時期だったのよ。 当時オノ・ヨーコは、家族と共に移り住んでいたニューヨークからロン..
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オノ・ヨーコ27歳〜日本を代表する財閥の“お嬢様”だった彼女が経験した貧しい結婚生活、前衛芸術家としてキャリアをスタートさせた頃

「夫を追って日本に帰るべきか、ここにとどまるべきか…27歳の私は葛藤と同時にニューヨークでの成功が間近に迫っているかもしれないという予感も感じていました。」 彼女は小野英輔・磯子の長女として、東京で生まれた。 父親は日本興業銀行総裁を務めた小野英二郎の子であり、ピアニストから銀行員に転じ、彼女が生まれた時は横浜正金銀行のサンフランシスコ支店に勤務していた。 母親の祖父は安田財閥の創始者・安田善次郎だった。 安田財閥といえば、金融部門で他の財閥の追随を許さないほど潤沢な金融資本をもつ日本四大財閥の一つ。 つまり彼女は、安田財閥直系のお嬢様だった。 20歳の時には、学習院大学からアメリカのサン・ローレンス大学に編入して音楽や詩を学んだという。 23歳になった彼女は、サラ・ローレンス大学に在学中に一柳慧(いちやなぎとし/当時ジュリアード音楽院の学生)と出会って結婚をする。 「彼は私にとって初めての恋人でした。だけど両親は彼が無産階級の育ちだったから気に入らなかった。結婚を猛反対され…私は大学からも家からも遠ざかるようになりました。サン・ローレンスを退学しマンハッタンのアパートで新婚生活を始めました。」 一柳慧といえば、のちに日本音楽界に衝撃を与え“実験音楽の奇才”と呼ばれることとなる作曲家であり、ピアニストである。 青山学院高等部在学中から、ピアノにおいての非凡さを発揮しており、毎日新聞音楽コンクールでは3年連続入賞(うち2回は1位)、その後は、名門ジュリアード音楽院で研鑽(けんさん)を積む。 彼女は、そんな慧の非凡なる実験音楽に惹かれ、結婚後は自らも前衛芸術家としてのキャリアをスタートさせる。 ニューヨークを活動拠点とするフルクサス(現代のアートに大きな影響を与えた前衛芸術運動)の創始者ジョージ・マチューナス等と共に活動を行うようになった彼女は、床に置かれたキャンバスを観客が踏みつけることで完成する作品『踏まれるための絵画』(Painting To Be Stepped On)などを発表し、アーティストとして徐々に注目を集めてゆく。 「結婚を永久就職口と考えていなかった私は、やがて従順な彼に欲求不満をぶつけるようになりました。一触触発の果てしない沈黙、胸に突き刺さる不快な言葉の投げ合い、そして突然涙ながらに仲直する夜…。私たちはもはや手を繋いでマンハッタンを散歩..
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伝説の起業家リチャード・ブランソン②〜ヴァージンを一新させたピストルズとの契約と悪評

リチャード・ブランソン──音楽ファンでこの名を知らない人はいないだろう。1970年代のレコード店やレコード会社を出発点に、80年代以降は航空、鉄道、金融、通信、飲料、化粧品、健康、映画、放送、出版、そして宇宙旅行といった分野へと事業を拡大。巨大企業集団ヴァージン・グループの会長としてビジネスや社会貢献活動に取り組むだけでなく、時には熱気球による冒険家として世界に旅立つことでも有名だ。その原点にはどのような風景があったのか。 前回 「伝説の起業家リチャード・ブランソン〜ヴァージン・レコード設立と『チューブラー・ベルズ』」では、ヴァージン誕生秘話とマイク・オールドフィールド『チューブラー・ベルズ』の成功によって飛躍する経緯を描いたが、その後どうなったのだろう? 1975年。ブランソン率いるヴァージンはより多くのアーティストと契約しようと躍起になっていた。しかし、ピンク・フロイド、ザ・フーといったビッグネームとの相次ぐ契約の失敗は、新興のレコード会社がまだ「二番目の候補」にしか過ぎないことを証明する結果となってしまった。それでは何の意味もないのだ。 「いくらだったら話にのっていただけますか」と、ローリング・ストーンズのマネージャーであるプリンス・ルパートにもアプローチをかけたことがある。「君たちに払うのは無理だろうよ。少なくとも300万ドルだね。とにかくヴァージンじゃ小さすぎるんだよ」と同情された。 そこでブランソンは注意を引くために「400万ドル出しましょう」と打って出た。すると、週明けの月曜に小切手を持参すれば真剣に検討すると言う。その日は金曜だった。時間がない中で何とか資金を調達して相手を仰天させたが、今度は「君たちは競売に参加したばかりなんだ」と告げられる。結局、このゲームに競り勝ったのはヴァージンではなくEMIだった。 私はそれ以上のお金を集めることはできなかった。失敗したことに失望したが、ルパートが喜んで受け入れたであろう300万ドルを500万ドルに増やしてあげたことで、私はストーンズにいいことをしてやったのだ。 翌年になると、本当に利益を生み出してくれるバンドと契約しなければと焦るようになった。マイク・オールドフィールド以外のアーティストは、すべて赤字だったのだ。そこでヴァージンは二つの選択に迫られる。一つはリスクを取らずに今のお金で生き長らえて小さな会..
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“史上最高のエンターテイナー”がステージで歌い続けた落ちぶれたダンサーの歌

歌、ダンス、モノマネ、巧みなトーク、そしてトランペット、ドラム、ビブラフォンの演奏、映画やテレビでの演技など、様々な“芸”を極め「Mr.エンターテインメント」と称されたサミー・デイヴィスJr.。 そんな彼が40代からこの世を去るまでの約20年間、ステージで大切に歌った“一曲”がある。 その曲の名は『Mr.ボー・ジャングルス』。 ドサまわりをし、刑務所に入っていることも多く、ダンスのギャラとして酒と少しばかりのチップをねだる…歌いながらそんな老ダンサーの姿を演じてみせる彼のステージはまさに“至芸”と呼ぶにふさわしいものだった。 ファンの間では“十八番”として知られているのだが、実は彼がこの歌を避けていた時期もあったのだという。 人気スターとして“落ちぶれた老ダンサー”を演じながら歌い踊っているうちは良いが、50歳を迎えた頃に体力的な衰えを感じるようになった彼は「今、自分が病気や事故にあって長いこと仕事を休むようになったなら、豪邸のローンなどでたちまち破産し、この老ダンサーのような境遇になってしまうだろう…」という恐怖にとらわれていたというのだ。 そのため、しばらくは出来るだけこの曲を歌わずにすますようにしていたという。 逆に言えば、彼はそれほどこの曲に打ち込み、歌に出てくる老ダンサーと一体化するほど感情移入していたのかもしれない。 ボージャングルという男に会ったことがある ボロ靴で踊ってくれた 白髪まじりの髪 破れたシャツ ダブダブのズボン とても高く高くジャンプして 軽ろやかに着地したんだ この歌に出てくるMr.ボー・ジャングルスとは一体誰のことなのだろう? そもそもこの“ボージャングルス”というのはアメリカのスラングで、”happy-go-lucky=のんきな・運まかせの”という意味を持つ言葉らしく、悪く言えば“無計画な”という意味もあるのだという。 芸に生きて、気ままに過ごし、人生の儚い晩年を迎えたボードビリアンの心情を見事に描いたこの歌詞を、作者はどんな風にして紡ぎ出したのだろう? この曲は、ジェリー・ジェフ・ウォーカーというシンガーソングライターが作詞作曲し1968年に自身のアルバムで発表したのが初出である。 作曲する4年程前にジェリーがニューオリンズで酒に酔ってトラブルを犯し、監獄に収監された際に、そこで知り合った年老いた無名のボードビリアンを題材にし..
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バベル〜菊地凛子の演技は息ができなくなるくらい哀切極まりなかった

東京には100m以上の高層ビルが約500棟も建ち並ぶ(2016年現在)。うち約70%はここ15年間で大資本によって竣工されたもの。特に都心5区と呼ばれる千代田、中央区、港区、新宿区、渋谷区には約65%が集中している。背の高い建築物が紡ぎ出す風景こそ東京最大の特徴と言えるが、何か異様なパワーが渦巻いているような世界観を漂わせる都心は、さながらパラレルワールド(同時並行世界)のようだ。 都心のタワーマンションの高層階に居住したことがあるなら人なら誰もが知っている。窓の外に広がっているのは、いつもと同じ場所からいつもと同じ輝きを放つ東京タワーやスカイツリーやレインボーブリッジであり、動きがあるのは首都高を流れるミニカーの群れ、線路を進む蛇のような新幹線、星を望めない夜空に時々過ぎ去っていく飛行機くらい。舗道を歩く蟻のように見える人々がどんな服を着ているのか、雨がどれくらい降っているのか、そこからは何も感じない。 実際に街へ出ても、それらをクリックして中へ入っていく感覚はすでになく、スマホの画面をタップしてSNSの投稿を次々とフリックしているような、上滑りしていく浮遊感だけが強く残る。こんな場所で普遍的な愛や絆、心の体温を感じることは難しい。 映画『バベル』(Babel/2006)には、まさに“現代のバベルの塔”とでも云うべきタワーマンション群や都心の街が出てくる。そこに住む父と娘は心を通わせることができないまま、孤独と葛藤の中に生きていた。 遠い昔、言葉は一つだった。 神に近づこうと 人間たちは天まで届く塔を建てようとした。 神は怒り、言われた。 「言葉を乱し、世界をバラバラにしよう」 やがてその街は、バベルと呼ばれた。 (旧約聖書 創世記11章より) 神の怒りを買ったノアの子孫たちのエピソードにインスピレーションを得たこの作品は、愛の不足ゆえに悲劇が世界の至る場所で連鎖し、そこにいる人間たちが混乱していく姿を描き出していた。アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督は言う。「人を隔てる壁について映画を撮り始めたのに、次第に人と人を結びつけるものについての映画に変わっていった」 舞台となるのはモロッコ、アメリカ、メキシコ、そして東京。4つの人間模様が交錯しながら、4つの言語で物語が進んでいく。ブラッド・ピットやケイト・ブランシェットといったハリウッドスターたちのスター..
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オノ・ヨーコ少女時代〜大財閥のお嬢様が受けた英才教育

1933年2月18日AM8:30、安田財閥が所有する東京の大きな屋敷で彼女は雪の降る朝に生まれたという。 小野英輔・磯子の間に生まれた三人の姉弟の長女だった。 父親は日本興業銀行総裁を務めた小野英二郎の子であり、ピアニストから銀行員に転じ、彼女が生まれた時は横浜正金銀行のサンフランシスコ支店に勤務していた。 母親の祖父は安田財閥の創始者・安田善次郎だった。 安田財閥といえば、金融部門で他の財閥の追随を許さないほど潤沢な金融資本をもつ日本四大財閥の一つ。 つまり彼女は、安田財閥直系のお嬢様だった。 「魚座生まれの私に、両親は“海の子”を意味する“洋子”という名前をつけました。」 幼児期に父親が遠く離れた存在だった上、母性よりも義務感に満ち溢れた母親は、お行儀よく躾けられた娘(彼女)に対してめったに感情を表したりスキンシップをはかろうとしなかった。 母親は家事に加えて、娘のオムツ替えや授乳など日常的な育児を、30人前後いた使用人に任せきりにした。 彼女たちは宮廷の使用人と同じ作法・習慣を身につけており、主人(つまり彼女の母親)がお目見えする際は、ひざまずいてお辞儀をしたという。 母親はオムツ交換をしないくせに、娘に対して異常なくらい潔癖な生活習慣を要求した。 お付きの人には必ずアルコールを浸した脱脂綿を持ち歩かせ、浮浪児がいそうな公の場では、娘(洋子)が触れるだろうと思われる場所を徹底的に消毒させたという。 「自分が孤独な子供だとは思いませんでした。だってそんな生活しか知らなかったんですから。」 彼女が生まれる4年前に起こったウォール街崩壊の後遺症で、アメリカでは数多くの企業が破綻し、大量の失業者が生まれた時代だった。 その反面、日本では第一次世界大戦以来の急速な産業発展のおかげで、諸外国よりもましな状況で1930年代を終えることになる。 彼女が3歳を迎えた1936年、母親は子供たちを連れて夫の暮らすサンフランシスコへ転居したが、2年後には日本へ帰国し、安田家の鎌倉の別荘で暮らしたという。 サンフランシスコで暮らした短い期間、彼女は父親の勧めでピアノを習っていた。 熱心に練習した彼女は、日本に帰国する頃には、4歳にして訪問客をなど前にして演奏を披露できる腕前になっていたという。 母親はまた別の方面でも彼女の才能を伸ばそうとした。 1939年、6歳になった彼女を明..
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ベルベット・ゴールドマイン〜マーク・ボランやデヴィッド・ボウイがいたグラマラスな日々

1971年のロンドン。それまでのヒッピー時代への決別の意を込めてエスニックな衣装を脱ぎ捨てたマーク・ボランは、サテンやラメの衣装に身を包んでフォーク音楽から転換した艶やかなロックンロールを演り始めた。ボランのバンドであるTレックスは、すぐさまポップスターとなる。 それから1年後の72年。今度は奇しくも同い年で同じような境遇にいたデヴィッド・ボウイが女装愛好家たちのことを歌って、新たな時代の到来を告げる──その後3年間、イギリスの音楽シーンやポップカルチャーのメインストリームとなる「グラム・ロック」「グリッター・ファッション」の幕開けだった。 これをきっかけに最先端の若者文化の震源地は、アメリカ西海岸から再びロンドンに舞台を移す。ボランもボウイも60年代後半はほぼ無名に近い存在だったが、ショウビジネスとホモセクシャルのパワーを手に入れて眩しく生まれ変わったのだ(二人とも10代の頃は洒落者=モッズだった)。 特にボウイは渡米時に出逢ったルー・リードやイギー・ポップに衝撃を受けたのち、自ら「ジギー・スターダスト」に扮することによってこのムーヴメントのリーダー的存在へと祭り上げられていく。 音楽やファッションだけでなく、思想、SF、世紀末感、ポップアート、30〜50年代のハリウッド女優のイメージなどが融合したこのスタイリッシュなうねりは、ロキシー・ミュージック、ゲイリー・グリッター、スージー・クアトロ、スレイド、スウィートらを登場させた。アメリカではニューヨーク・ドールズがデビュー。あのエルトン・ジョンでさえグラム・ファッションに傾倒していたほどだ。 しかし、1973年7月。ボウイはステージでの引退を宣言(ジギー・スターダストとして)。グラム帝国は一気に失速することになる。ツアーが絶頂を極めている頃、ボウイは「自分はステージの上で暗殺される」と公言していたそうだ。 『ベルベット・ゴールドマイン』(VELEVET GOLDMINE/1998)は、こうしたグラマラス・ピープルの伝説にオマージュを捧げ、再構築した映画だった。タイトルはデヴィッド・ボウイが1971年に録音した同曲よりつけられた。 主演はイギー・ポップを彷彿とさせるカート・ワイルド役のユアン・マクレガー。そしてボウイの化身とも言える大役ブライアン・スレイドを演じたジョナサン・リース・マイヤーズ。二人を追いかける若き新..
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キース・リチャーズと権力との闘い〜絶望の淵で天使を見た男

キース・リチャーズにとって1970年代のある時期は、音楽よりもドラッグが中心の生活だったに違いない。 ローリング・ストーンズが70年代に発表したスタジオアルバムがすべてチャートの1位を記録したことも凄いが、9日間一睡もしなかったというコカイン最長覚醒記録や、ニュー・ミュージカル・エクスプレス誌の「次に死にそうなロックスター」ランキングで10年連続1位という大記録も所持している。トップから落ちた時はがっかりして本人はこんなジョークを飛ばした。「しまいには9位まで落ちた。何てこった、もう死にたくなったぜ」 キースのドラッグ生活は、警察との闘いの日々でもあった。キース自身の言葉を借りるなら、それは「権力vs庶民」ということになる。ロックスターのイメージを創った男としての責任感だろう。彼は世界中のファンの「行け! キース!!」的な期待を決して裏切ることはなかった。 1977年2月、キースを除くストーンズのメンバーやスタッフはカナダのトロントに集まっていた。ライブアルバム『Love You Live』収録用に、エル・モカンボ・クラブでギグを行うのだ。しかしキースはやって来ない。連絡もつかない。業を煮やしたメンバーは電報まで打った。「俺たちはプレイしたい。お前もそうだろ? 一体どこにいるんだ!」 やっとのことでカナダの空港に到着するも、まずはアニタ・パレンバーグ(事実上の妻)が所持品に薬物が付着したスプーンが見つかって逮捕。そして宿泊先のホテルでは、スイートルームのベッドでいつものように倒れ込んでいたキースの顔を警察は何度も平手打ちした。 45分後にキースは“目覚め”て逮捕連行。大量のブツが発見され、警察は転売目的による麻薬の違法所持で告発することに決めた(キースはこの時、テープレコーダーの使い方に戸惑っている取調官にご丁寧にも使い方を教えた)。 さらにタイミングの悪いことに、当時のカナダのトルドー首相の若妻マーガレットが、ストーンズが宿泊するホテルでバスローブ姿になっているところを報道されてしまう。まだ20代だった彼女は夫と別居したばかりで解放的だったのか、ロン・ウッドと“短い時間に特別なものを共有”した。これによってストーンズ潰しに拍車がかかった。警察がターゲットに絞ったのは言うまでもなくキースだった。「グルーピーになりたいなら、首相の妻になるのはやめた方がいいぜ」 保釈金..
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レザボア・ドッグス〜「無名には映画を作らせてくれない」現実と闘い続けたタランティーノ

無名の才能が直面する“よくある話”。『レザボア・ドッグス』(Reservoir Dogs/1992)で監督デビューする直前のクエンティン・タランティーノも例外ではなかった。 あらゆる所に売り込み続けた。5年も。でもどうやったって誰も僕には映画を作らせてくれないことを、その5年間で思い知らされた。そこで最初の脚本『トゥルー・ロマンス』を売って、3万ドルの自己資金を作ったんだ。 悔しかったよ。自分の身を切られるような思いだった。腹も立った。その状況の中、以前から考えていた『レザボア・ドッグス』を4週間で一気に書き上げた。それで3万ドルを使って友人に出演してもらい、16ミリで撮影するつもりだった。 ところが、この新しい脚本を読んだパートナーのプロデューサー(ローレンス・ベンダー)が、「面白いからもう一度売り込もう」と言い出した。これ以上無為な日々を過ごしたくなかったタランティーノは、2ヶ月の期限を条件に再び挑むことにした。もしダメでも16ミリで撮ればいい。だから話し相手とは一切妥協なんかしない。 その開き直りの態度が功を奏したのか、今度は次々と協力者が現れた。その一人が知り合いから紹介されたハーヴェイ・カイテルだった。ハーヴェイは脚本を読むと、たった3日でタランティーノに返事を出した。「気に入った」 大好きな俳優からそう言われて、タランティーノは歓喜した。有名俳優が出るということで、資金繰りは突然楽になった。しかもハーヴェイはプロデュースまで引き受けてくれた。こうしてビデオ屋で働いていた無名の28歳の映画オタクが、遂に監督デビューすることになったのだ。 脚本を読んで興奮したね。裏切り・信頼・忠誠について書かれたとても素晴らしい作品で、これは絶対に映画化にこぎつけたいと思い、クエンティンとローレンスに「何かできることがあれば手伝いたい」と申し込んだんだ。若い才能ある人たちとの仕事は、まるで最高の旅行でもしてる気分だった。クエンティンは凄い奴だよ。 集まってきた俳優はハーヴェイのほか、ティム・ロス、マイケル・マドセン、クリス・ペン、スティーヴ・ブシェミら。リハーサルは1991年7月から2週間に渡って行われ、クランクイン。ロサンゼルスにある元死体安置所などを使って5週間で撮影された。 出来上がった『レザボア・ドッグス』は、世界各地の映画祭で絶賛。数々の賞を獲得する。マド..
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百万本のバラ〜その原曲“マーラが与えた人生”を生んだラトビアの悲劇の歴史

10月といえば、秋薔薇のシーズンです。 「秋の花は腕で咲かせる。」と言うように、春花後の手入れと日頃の努力の結晶が見事な秋花となって応えてくれるのだという。 秋薔薇はゆっくりと開花し、春に咲くバラの花と比べて花色が濃く、色鮮やかなのが特徴です。 これは、夜と昼との温度差が大きいためと言われています。 今日は、そんな美しい秋の薔薇にちなんで、加藤登紀子が1987年にヒットさせた曲として知られる「百万本のバラ」にまつわるエピソードをご紹介します♪ 小さな家とキャンバス 他には何もない 貧しい絵かきが 女優に恋をした 大好きなあの人に バラの花をあげたい ある日街中の バラを買いました (日本語訳詞:加藤登紀子) 一般的に古いロシア民謡のように思われているこの「百万本のバラ」は、実はそうではないという。 北ヨーロッパの共和制国家ラトビアの歌謡曲『Dāvāja Māriņa』(マーラが与えた人生)が原曲なのだ。 後にラトビアの文化大臣にもなった音楽家ライモンド・パウルスがソ連統治時代に作曲したものだ。 歌詞は、ラトビア人の愛国詩人レオン・ブリディスが書いた詩をベースにしたもの。 「マーラ」とは、同国語で命や母性を表す女神の意味なのだという。 その内容は、女優に恋をした画家が家も財産も売り払ってバラの花を買い、女優の泊まる宿の窓の下に敷き詰め名乗り出ることもなくその姿を遠くから眺めて立ち去っていく…というロマンティックなもの。 だが原曲の歌詞は全然違っていて、ラトビア歴史の悲劇を歌ったものだという。 一体どんな内容だったのだろう? もともとの歌詞は、画家や薔薇とはまったく関係ないのだ。 ラトビアは、小国ゆえに歴史的に近隣のスウェーデン、ポーランド、ロシア、ドイツなどによって絶えず侵略・蹂躙されてきた。 独立への思いを抱きながらも、多くの時間においてそれを成すことができなかった。 詩人ブリディスは、そんなラトビアの悲劇の歴史を「幸せをあげ忘れた」と表現し、これにパウルスが旧ソ連時代の1981年に曲を付け、女性歌手アイヤ・クレレがラトビア語で叙情豊かに歌ったのが最初だった。 子守唄のように優しく歌いながら、実はそこには民族の自尊心とソ連への抵抗への思いが込められていたのだという。 しかし、当時支配者だったロシア人は、原語のそんな意味も分からず、魅力的なメロディーだけを歌い継..
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オン・ザ・ロード〜ジャック・ケルアック伝説の小説『路上』が教えてくれた一番大切なこと

1951年4月。長い旅を終えたばかりの29歳の作家ジャック・ケルアックは、ニューヨークのアパートの一室にいた。そして旅路で綴り続けた手垢と土埃にまみれたメモとしばらく向き合った後、凄まじい勢いでタイプし始めた。紙をいちいち取り替えていられないのでテープでつないだ。そうして3週間後に出来上がったのは12万語にも及ぶ自分と友人たちの物語。改行が一切なく、まるで太いサラミのような巻物になった。 はじめてディーンに会ったのは、僕が妻と別れて間もない頃のことだ。その頃、僕はある重病から回復したばかりだったけど、そのことについてはあの惨めなほど疲れ果てた二人の訣別と、何もかも終わったという僕の気持ちとにいくらか関係のある病気だったという以外は、取り立てて言いたくはない。ディーン・モリアーティが登場にするに至って、路上放浪の生活と呼べそうな僕の人生が始まった…… 小説『路上』(ON THE ROAD)はそれから書き直しされて、6年後の1957年にようやく出版。「ビート・ジェネレーションを代表する文学作品」「ビートニクのバイブル」として脚光を浴びていく。60年代カウンターカルチャーのヒッピーたちは言うまでもなく、時が経つにつれて世界中の愛と反骨精神に溢れた人々にもその名は広まり、今では現代アメリカ屈指の文学作品として知られるようになった。 若き日のボブ・ディランもジム・モリソンもジョン・レノンも夢中になってページをめくった。有名になる前のブルース・スプリングスティーンやニール・ヤング、映画を撮る前のデニス・ホッパーやジム・ジャームッシュやヴィム・ヴェンダースも読み耽った。つまり、『路上』がなければロックの名盤は生まれなかっただろうし、『イージーライダー』や『ストレンジャー・ザン・パラダイス』も『さすらい』も公開されることはなかった(すべてのロードムービーや旅人のための映画も)、それくらいヒップな文化への貢献度と影響力は高い。 しかしケルアックの『路上』を、「ビート」や「カルチャー」といった文脈で捉えてばかりいると本質を見失う。『路上』に小難しい理屈や面倒な知識は一切必要ない。ただ読めばいいのだ。そこから何を感じ、どんな言葉を拾い、本を閉じた後に心にどんな風景を描くか。それがすべてであり、周辺の情報などに惑わされてはいけない。貪るようにページをめくれる人には、きっと最高に素敵な“..
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マルホランド・ドライブ〜“こんなはずではない自分”が作り出す美しく呪われた世界

前回の『ロスト・ハイウェイ』では、『ブルー・ベルベット』『ツイン・ピークス』『ワイルド・アット・ハート』といったデヴィッド・リンチ作品で“やられた”人は決して少なくないと書いた。だとすれば、今回の『マルホランド・ドライブ』(Mulholland Drive/2001)は、“完全にやられた”人が続出した映画だった。 アイデアがやってくる時は巨大な閃光のような力を伴ってやってくる。そしてすべてのものがその中に取り込まれてしまい、魂を揺さぶる。その時点から何をすべきか知る。それが完成だ。 「リンチ世界の集大成」や「リンチの最高傑作」などと評価される本作は、いつもより増して謎が多いことでも話題になった。だが、リンチ映画に“理解・解決”を求めるのは野暮というもの。そういう観点で物事を測り始めたら、デヴィッド・リンチは背を向けて逃げていく。 では『マルホランド・ドライブ』とはどんな映画なのか? 今までファンや専門家によるたくさんの評論が飛び交ってきたが、ここではシンプルにこう言いたい。「人生に抱いていた夢や愛。一方で現実から受け取るもの。その落差。“こんなはずではない自分”に嘆く人間の失望」と。 物語の舞台はハリウッド。マルホランド・ドライブとは、海岸線から山間部をつなぐ曲がりくねったハイウェイのこと。有名な「HOLLYWOOD」のサインもこのルート上にある。ここはスピードに取り憑かれた走り屋から映画スターの豪邸まで、LAを舞台にした何本かの映画を観れば必ず出てくるロケーション。いわゆる夢の都・ハリウッドを象徴する場でもある。 リンチの映画は、そんな場所で殺されかけるブルネットの美女(ローラ・エレナ・ハリング)が突然の交通事故に遭い、傷を負ったまま彷徨い、真夜中にサンセット大通りの高級アパートに倒れ込むところから始まる。ビリー・ワイルダーの名作を彷彿とさせるドキドキするようなオープニングだ。翌朝そこには、映画スターの叔母を頼りに田舎町から夢と希望を抱いて出てきたブロンドの美女(ナオミ・ワッツ)が到着する。 ブルネットの美女は記憶を失っており、バッグの中には大金と鍵が入っている。彼女は何者なのか? オーディションをこなしつつ、ブルネット美女の自分探しを手助けしていくうちに、ブロンドの美女には何か特別な感情が芽生える。そして夜のクラブショーでロイ・オービソンが作った悲しみの名曲..
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