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プロコル・ハルムの名曲「青い影」にまつわるいくつかの逸話

ビートルズが伝説..
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ボブ・マーリィ〜心臓の鼓動をとらえた音楽レゲエで世界を一つにした男

俺の命より、他の..
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シド・ヴィシャスの死〜革ジャンのポケットから発見された直筆の遺書

パンクのアイコン的存在として現代の若者やカルチャーにも影響を与え続けているシド・ヴィシャス。 1979年2月2日、彼は麻薬の過剰摂取によってこの世を去った。享年21。 彼のデビューパフォーマンスとなったセックスピストルズのギグを撮影していたことでも知られる映画監督ドン・レッツは、彼のことをこう回想している。 「シドはいつもトラブルに巻き込まれてた。マヌケだったからな。愛されるバカだったよ…。」 ドン・レッツは、彼の人生が狂ったのはピストルズが名声を手に入れたのが原因だったと続ける。 「あのまやかしを本物だって信じ始める奴らが現れたのが問題だった。シドはその第1人者だ。そんな中、世間では“奴はいまに死ぬ”みたいなヴァイヴが流れてた。そういうのって人を追い詰めるもんだろ?」 1978年10月13日、ニューヨークにあるチェルシーホテルのバスルームで(シドの恋人として有名だった)ナンシー・スパンゲンが刺殺された亡骸で発見される。 凶器となったのはナイフ(シドの所有物)だったという。 しかし、そのナイフは指紋が拭きとられている状態で、シドの手元に入ったばかりの「MY WAY」の印税2万ドルが全て無くなっていた。 彼はナンシー殺害とされている時刻には、ツイナール(睡眠薬)の過剰摂取によって昏睡状態だったため、後日医師による調べの中で服用した量から推測すると少なくとも5時間は意識のない状態だったことがわかっている。 その間、彼らの部屋には複数人が出入りしたことも確認されており、彼が昏睡している状態だったことが証言されている。 ナンシー殺害についてはこんな有力な説もある。 当時ナンシーにドラッグを売っていた男が、前日に1杯の酒代をせびるほど金に困っていた様子だったにも関わらず、彼女が殺害された翌日には新品のブーツとレザーパンツ姿でバーに現れて、血のついたシャツを見せびらかしていたという話がある。 その他にも二人が自殺を図って、昏睡したシドを死んだと思ったナンシーが自殺したという説もあるのだが…その説だと、指紋が拭きとられて置いてあったナイフと、消えた2万ドルの謎とは結びつかない。 この時期二人は互いを殴り罵るという激しい喧嘩を繰り返していたという。 また、ナンシーは腎臓を病んでいたため、その激痛から逃れる為にハードドラッグにすがっていたという。 ナンシーの死の真相は謎のまま..
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ノッティングヒルの恋人〜エルヴィス・コステロが歌い上げて蘇った名曲「She」

『ノッティングヒルの恋人』(Notting Hill/1999)は、日本でも大ヒットしたイギリス産のロマンチック・コメディ。主演はヒュー・グラントとジュリア・ロバーツ。ジュリアといえば、トム・クルーズの遊び発見映画と並んで「恋の発見映画」と言われるほど、90年代に特に女性から絶大な人気があった女優だ。 彼女は忘れられない面影 僕の喜び それとも後悔 僕の宝物 それとも高い代償 彼女は夏が奏でる調べ それとも秋がもたらす肌寒さ 彼女は何でもなり得る たった一日の中で 主題歌はエルヴィス・コステロが歌い上げた「She」。これはフランスの歌手シャルル・アズナヴールの作品で、彼自身の歌唱で1974年にヒット。邦題は「忘れじの面影」だった。 映画ではもともとこのオリジナルが使用される予定だったが、観客の反応を見て(知名度を考慮して)急遽コステロがカバーすることになったという。結果的に名曲が蘇ることになった。また、シャニア・トゥエイン、ビル・ウィザース、アル・グリーン、スペンサー・デイヴィス・グループらの曲もサウンドトラックとして使用されている。 映画はあの名作『ローマの休日』を彷彿とさせる恋のお伽話。観た人は誰もが感じたように、物語には終始一貫したポジティヴな雰囲気が流れ、エンドクレジットと向き合う頃には何とも言えない温かい心に包まれる。つまり、また観たくなるような前向きな魅力があるのだ。 この作品には誰かをけなすようなネガティヴな笑いは一切ない。ただ人々の個性や人間味によって笑いが生まれている。だから価値がある。これは脚本家の物語力と監督の演出力によるところが大きい。 眠れない夜に時々、もし僕が毎週1度は夕食を食べに行っている友人の家に、マドンナやダイアナ妃やカイリー・ミノーグとか、当時世界で一番有名な女性を連れて行ったらどうなるだろうと考えてたんだ。 リチャード・カーティスは1994〜98年という4年もの歳月をかけて脚本を執筆した。 そこから膨らませていって、友人たちはどんな反応をするんだろう? 夕食はどんな感じになるだろう? 後からみんなに何て言われるだろう? それが脚本の、本当に平凡な人間がとても有名な人間と付き合ったら、それが彼らの生活にどう影響するのかっていう話のポイントだったんだ。 ロケはタイトル通り、ウエストロンドンのノッティングヒルの街で行われた。地域ぐ..
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メランコリア〜地球に異常接近する巨大惑星と世界が終わりを告げる時

『ダンサー・イン・ザ・ダーク』や『アンチクライスト』など、今やデンマークが世界に誇る巨匠となった映画作家ラース・フォン・トリアー。そんな彼が自らの鬱体験を含みながら、壮大かつ甘美な世界観とともにスクリーンに映し出したのが『メランコリア』(MELANCHOLIA/2011)だった。 これは憂鬱(メランコリア)についての映画だ。そして二面性を持っていて、惑星の地球への異常接近という出来事も描いている。惑星の名は“メランコリア(憂鬱)だ。憂鬱は恋に落ちるのと同じような甘い痛みだよ。惑星メランコリアと地球の衝突はその象徴なんだ。 主演は二人の女優。一人はソフィア・コッポラの『ヴァージン・スーサイズ』や大ヒット映画『スパイダーマン』シリーズでお馴染みのキルスティン・ダンスト。彼女は本作でカンヌ映画祭の主演女優賞を獲得。アメリカ人女優としては18年ぶりの快挙だった。 そしてもう一人はシャルロット・ゲンズブール。あのセルジュ・ゲンズブールとジェーン・バーキンの娘であり、80年代半ばにフレンチ・ロリータ・ブームを起こしたこともある実力派。トリアーの前作『アンチクライスト』ではこちらもカンヌで主演女優賞を獲得。 物語はこの二人が演じる、クレアとジャスティンという姉妹それぞれのパートで進んでいく。それにしても冒頭の8分間のプロローグが凄すぎる。美しすぎる。この後に始まる物語の象徴的なイメージが歴史的な名画のような映像で綴られていく。 さらに全編に流れるワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の圧倒的な調べ。そこには観る者を完全に陶酔させる魔力がある。以来、真夜中に輝く満月や不思議な表情を描く夕暮れ空を見るたびに、この映像を意識せずにはいられない。 憂鬱に支配された人間は、普通の人間よりも大きな可能性を秘めている。最悪の状況を常に想定していて、実際に悲惨なことが起こった時には、普通の人々よりもずっと冷静に対応できるんだ。 第1部では、ジャスティン(キルスティン・ダンスト)の結婚パーティが舞台。鬱病を患っている彼女は結婚によって普通の生活ができることを信じているが、姉のクレア(シャルロット・ゲンズブール)とその夫ジョン(キーファー・サザーランド)の大邸宅で開かれる宴では、次第に彼女のコントロール不能な言動がすべてをぶち壊し、心優しい新郎が去っていくという最悪の結末を迎えてしまう。 何も..
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ペーパー・ムーン〜9才のテータム・オニールが父親と共演したロードムービーの名作

『ラスト・ショー』(1971)や『おかしなおかしな大追跡』(1972)で成功を収めたピーター・ボグダノヴィッチ監督のもとには、ハリウッドからの仕事が殺到していた。次作はジョン・ウェイン主演の大掛かりな西部劇。そんな時、少女を主人公にしたジョー・デヴィッド・ブラウンの小説『アディ・プレイ』(Addie Pray)の映画化が持ち込まれる。多忙を極めるボグダノヴィッチは断ることにした。 しかし、ウェイン映画が頓挫してしまい、話が再浮上。ブレーンからテータム・オニールという9才の女の子を勧められる。そこでボグダノヴィッチは前作で息の合ったライアン・オニールを少女の相手役に起用することにした。何と言ってもテータムの父親だからだ。ライアンは『ある愛の詩』(1970)でスターになっていて知名度も抜群ときている。 それでもテータムに本当の演技力があるのか不安だったボグダノヴィッチは、映画監督としてライアンの家を訪ねることにした。「近くに海があるから泳いでくれば?」とライアンから言われたボグダノヴィッチに、テータムが微笑む。 「無理よ」 「どうして?」 「だって、あなたはシャツを脱ぐような人じゃないもん」 ボグダノヴィッチはすっかり驚いてしまった。この子は都会育ちの自分が海とは縁遠いことを瞬時に見抜いたのだ。この考察力に感心して、テータムの出演を正式に決めることにした。ライアンは娘が自覚を持つまで俳優にするつもりはなかったそうだが、例外的にOKした。 映画の時代設定は1935年。当時のヒット曲を聴きまくったボグダノヴィッチは、1933年のポール・ホワイトマン楽団による「It’s Only a Paper Moon」に心奪われる。『オズの魔法使』の主題歌「虹の彼方に」を書いたハロルド・アーレン(作曲)とE・Y・ハーバーグ(作詞)の曲だ。 ボール紙の海に浮かぶ紙の月でも 私を信じていれば本物のお月様 作り物の木と絵に描いた空でも 私を信じてくれたら本物になる あなたの愛がなければ何もかも偽物 愛がなければ安っぽいメロディ 虚ろで儚いサーカスの世界 でもあなたさえ信じてくれたら 映画のタイトルを「アディ・プレイ」から「ペーパー・ムーン」に変更しようとしたところ、映画会社の上層部から反対される。本が10万部も売れていたから当然のことだろう。 納得のいかないボグダノヴィッチは尊敬するオーソ..
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ビースティ・ボーイズ〜すべての活動に貫かれたD.I.Y.精神

「アダムは僕にロープの結び方や、自分の好きなパンク・バンドのバッジの作り方、それからライブにこっそり入るための偽スタンプの作り方まで教えてくれたよ」 癌に冒され、2012年5月4日に47歳でこの世を去ったビースティ・ボーイズのMCAことアダム・ヤウク。彼らがその前身であるパンク・バンドを結成した14歳の当時から、アダムはグループにとって精神的支柱といえる存在だった。マイクDはこう続ける。 「彼はチベット仏教に出会う以前から、執念と信念を持ち合わせた人間だった。周りが一蹴するような奇抜なアイディアでも、彼は自分がこれだと思ったら何でもやり遂げてきた。 例えば〈Paul Revere〉(『Licenced To Ill』に収録)のビートも、僕らがスタジオでTR-808で遊んでた時に、ヤウクがふと『これ、逆回転で聞きたい』って言い出して生まれたものなんだ。その時、ランDMCのランも一緒だったけど、『こいつ、何おかしなこと言ってんだ?』って顔してたよ」 パンク・ロックで培ったD.I.Y.精神をもって、気になったことは何でも自分自身でトライし、実現させるのが彼のやり方だった。 27歳で自らのレコード会社「グランド・ロイヤル」を設立。 ルシャス・ジャクソン、ショーン・レノン、アタリ・ティーンエイジ・ライオットなど有望な若手アーティストの作品を次々と発表するだけでなく、自分たちの興味のあることだけを詰め込んだ『グランド・ロイヤル・マガジン』を発行し、アメリカのみならず世界各地のユース・カルチャーに影響を与えた。 1996年からはチベット独立支援を目的とする「チベタン・フリーダム・コンサート」のオーガナイズをスタート。 そして2002年には、アダム自身が代表を務める「オシロスコープ・ピクチャーズ」を設立。『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』や『ベルフラワー』などのインディー映画を世に送り出し、『撮られっぱなし天国』では映画監督としてもデビューしている。 「アダムと僕と、ビースティーズの初期メンバーだったジョン/バリーと一緒に、ブラック・フラッグのライブを見にペパーミントラウンジに行った時、彼は言ったんだ。『バンドやろうぜ。おまえらふたりはメンバーな』って」 14歳で友達とパンク・バンドを結成しようと思い立った時も、 27歳でグランド・ロイヤルを立ち上げた時も、 37歳でオシロ..
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ザ・フォーク・クルセダーズと加藤和彦に発見されて、新しい生命を吹き込まれた寺山修司の「戦争は知らない」

「戦争は知らない」は稀代の詩人にして劇作家、昭和が生んだ元祖マルチ・アーティストの寺山修司が、おそらくは最初に作詞を手がけた楽曲である。 幼い頃に父を戦争で亡くしている歌詞の「私」は女性だが、当然ながら作者の寺山自身が投影されている。 青森県警弘前署の刑事だった父の寺山八郎は招集されて出征した後、太平洋のセレベス島でアメーバー赤痢にかかって戦病死した。 残された母と子のもとに送られてきたのは骨壷だけ、その中に入っていたのは石ころと枯葉だった。  戦争は知らない 作詞:寺山修司 作曲:加藤ひろし  野に咲く花の名前は知らない  だけども野に咲く花が好き  帽子にいっぱい摘みゆけば  なぜか涙が 涙が出るの  戦争の日を何も知らない  だけども私に父はいない  父を想えば ああ荒野に  赤い夕陽が 夕陽が沈む 名前も知られていない野に咲くに花には、”戦で死んだ悲しい父さん ”だけでなく、同じように生命を奪われた戦死者たちの無念と、父を奪われた子どもの悲しみが託されている。 これを作曲したのは大阪のGSグループ、リンド&リンダースの加藤ヒロシである。 オリジナルのレコードで歌ったのは、大阪を地元にしていた歌手の坂本スミ子だった。 「ラテンの女王」として知られて坂本スミ子は、1961年から1965年までNHK紅白歌合戦に5年連続で出場したが、そろそろ路線変更を迫られていた。 そこで意外とも思われたフォークソング調の「戦争は知らない」に挑戦したのである。 しかし1967年2月に東芝レコードから出たシングルは、残念ながらまったく不発に終わった。 人気司会者だった栗原玲児と1966年に離婚した直後で、しかも30歳を過ぎていた坂本スミ子に、”♫ いくさ知らずで二十才になって 嫁いで母に母になるの”という歌詞はそぐわなかったのだ。 ちょうどその頃、京都のアマチュア・グループだったザ・フォーク・クルセダーズの「帰って来たヨッパライ」が、関西のラジオ局から火がついて大ヒットを記録した。 すでに解散していたフォークルは中心メンバーだった北山修と加藤和彦が、1年だけの期間限定で再結成することにした。 そこからはしだのりひこを加えたトリオで、プロとして積極的に音楽活動を行ったのだ。 その活動のおかげで、埋もれかかっていた「戦争は知らない」がよみがえることになった。 196..
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ジャージー・ボーイズ〜音楽への愛に満ち溢れた「君の瞳に恋してる」

「絆」とか「友情」という言葉をよく耳にする。しかし口にするのは簡単で、実際に深刻なトラブルに見舞われた時、そんな台詞を交わした当人たちには亀裂が生じることがほとんどだ。大人の人生はそんなものだと割り切りながらも、心のどこかではあの美学を忘れられない。男性なら特に遭遇する出来事だと思う。 『ジャージー・ボーイズ』(JERSEY BOYS/2014)は、そんな忘れかけたスピリットをそっと観る者の胸に音楽と共に届けてくれる素晴らしい作品だ。ロック/ポップ史にその名を永遠に残すフォー・シーズンズの実話を基に描いたブロードウェイのロングラン・ミュージカルの映画化であり、クリント・イーストウッドが監督している。 地元を出る方法は3つ。 “軍隊に入る”。でも殺される。 “マフィアに入る”。それも殺される。 あるいは“有名になる”。 俺たちはあとの2つだった。 ニュージャージー州の貧しいエリアが物語の最初の舞台。主人公はフランキー・カステルチオ(ジョン・ロイド・ヤング)という少年。彼にはトミー・デヴィート(ビンセント・ピアッツァ)やニック・マッシ(マイケル・ロメンダ)という兄貴分の仲間がいる。彼らはバンドを組んでいて、独特のファルセットな歌声を持つフランキーに音楽や歌い方を教え込んでいた。 しかし一方でイタリア系移民の性。マフィアのボス(クリストファー・ウォーケン)とも関係があり、犯罪に手を染めたり刑務所に入ったりして、フランキーは面食らうだけだった。彼らに爽やかな歌をイメージする人も多いが、その生まれた背景は凄まじい。 その後、フランキーがヴァリと改名したり、当時無名役者だったジョー・ペシ(今や名優!)という友人から、新進気鋭のソングライターであるボブ・ゴーディオ(エリック・バーゲン)を紹介されてバンドは4人組となった。フォー・シーズンズの名は、トミーの過去の悪事が原因でオーディションに落とされたボウリング場の名前から名付けられた。 NYのブリル・ビルディングでプロデューサーのボブ・クリューとの再会をきっかけに、本格的にデビューする4人。しばらくはアイドル歌手たちのバックコーラスの仕事を続けていたが、ボブが書いた「Sherry」でいきなりナンバーワン・ヒットを飛ばしてスターとなる。「Big Girls Don’t Cry」や「Walk Like A Man」も続けて1位に..
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ナイト・オン・ザ・プラネット〜トム・ウェイツの歌声が心地いいジム・ジャームッシュ作品

ジム・ジャームッシュ監督の長編第5作となった『ナイト・オン・ザ・プラネット』(NIGHT ON EARTH/1992)のエンドクレジットには、トム・ウェイツの「Good Old World (Waltz) 」という曲が流れてくる。 幼い頃、月は真珠に似て 太陽は黄金のように輝いていた 大人になると 吹く風は冷たく 山々は上と下がひっくり返った 今はその世に 長いお別れを告げる時 懐かしさが 俺を引き止める もう一度チャンスを賭けたい 潮の流れに 古き良き世界に戻って 観ていて心地のいい映画だった。決して何か凄いことが起こるわけでもない。何かストーリーがあるかと言えばないだろう。人によっては「こんな映画は退屈だ」「映画じゃないよ」と言うかもしれない。でもそんなことを言う人が夢中になる映画はたぶん観たいとも思わない。真夜中に静かに一人で向き合いたい作品だ。 地球というこの星にある5つの都市の同じ夜。言葉も人種も違う5人のタクシー運転手と乗客の移動を描く。短編小説のような映画だが、オムニバスではなく、あくまでも5つの章で1本として成立する映画。 面白い仕事だと思うんだ。良い運転手になるためらはその街をよく知っていないといけない。あんな小さな空間に何時間もいるんだ。その中でいろんな人と会うが、登場人物のセリフにもあるように「15年の間に二度同じ人を乗せたことはない」。そこが面白い。きっともう二度と会わないような人と一緒にある程度の時間いるから、会話はどんなものにもなり得る。 各国の現地スタッフに協力してもらいながら、ジャームッシュは自分を含めたった6人のスタッフで各地を周って撮影した。 脚本を書いていた時から、それぞれの話のエモーショナルなリズムには配慮していた。LAは軽快に、NYはおかしく、パリは詩的に、ローマは凶暴に、ヘルシンキはブラックに。 ──ロサンゼルスの陽が沈む。夜7時過ぎ。 空港に向かってタクシーを走らせるコーキー(ウィノナ・ライダー)が次に拾った客は、映画のキャスティングエージェントとしてバリバリ働くキャリアウーマンのヴィクトリア(ジーナ・ローランズ)。行き先はビバリーヒルズだ。 ガムをくちゃくちゃ噛みながらヘビースモーカーのコーキーは、口も悪いし、化粧もしていない。それなのにヴィクトリアは話しているうちに、彼女こそが探し求めていた新人女優像だとひらめく..
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井上堯之が好むと好まざるとに関わらず作家としてスタートしたのは萩原健一が奮い立たせてくれたからだった

デビュー51年目を迎えた永遠のロッカー、萩原健一(ショーケン)のツアーがビルボードライブ東京で初日を迎えたのは2018年5月2日のことだった。 第1回目の公演が始まる前から、会場は静かな熱気に包まれていた。 そこに流れるBGMはすべてボブ・マーリーの曲で統一されていた。 そして「ノーウーマンノークライ」が終わったのをきっかけに場内が暗くなった。 そこに雷のSEとともに、ローリング・ストーンズの「We Love You」が爆音で響きわたる。 思い思いに黒の衣装で統一したバンド・メンバーがステージに登場し、それぞれの定位置につく。 最後に白いジャケットとパンツ、それにホワイトの靴というショーケンが落ち着いた足取りで、ステージに上がった。 この日のライブは伝説となったスーパーグループ、PYGの「自由に歩いて愛して」から始まった。 「自由に歩いて愛して」は作詞が安井かずみ、作曲したのは井上堯之である。 この心の 鎖をほどいて もう自由に 歩いて愛して 空はみんなの 愛はあなたのものになる時 今こそ ショーケンは2人のギタリストとともにギターを弾き、ときにはマラカスを振り、ハープを吹き、そしてシャウトする。 続く2曲目もまた、井上堯之の代表作ともいえる「愚か者よ」だった。 だがその日、井上堯之が77歳の生涯を終えて帰らぬ人になったことを、その会場にいる人たちはまだ知らなかった。 (2018年5月2日、敗血症のため死去) 60年代後半に活躍したGSの人気バンド、ザ・スパイダース、ザ・タイガース、ザ・テンプターズのメンバーにより結成されたロック・バンドのPYGは、1971年4月にシングル「花・太陽・雨」でレコード・デビューを果たした。 当初のメンバーは以下の6人。 沢田研二(タイガース):ボーカル 萩原健一(テンプターズ):ボーカル 井上堯之(スパイダース):ギター 大野克夫(スパイダース):キーボード 岸部修三(タイガース):ベース 大口広司(テンプターズ):ドラムス 井上堯之は「スパイダース ありがとう!」という自伝のなかで、PYGを始めた時の気持ちをこのように述べている。 よりロック的でアンチ体制的な音楽を目指してPYGはスタートしました。 それをバックで支えているのは芸能界で強大な影響力と資金を誇っていた渡辺プロです。 大船に乗ったような気持ちで私たちはレ..
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チョコレートの歌〜清志郎とチャボの出会い〜

チョコレートから始まった出会い…そして“特別な再会” 1970年代になってすぐに、二人は渋谷の音楽喫茶『青い森』で出会う。 程なくして、チャボは実に多忙な日々を過ごす事となる。 それまでバンド形体として活動していた古井戸が、フォークデュオとしてメジャーデビューし、苦手なTV番組などにも引っ張り出されながら全国を駆け回ったのだ。 その少し前にフォークトリオとしてデビューをしていた清志郎にとっても、この頃は慌ただしい時期だった。 年明け早々に、アルバム『初期のRCサクセション』を発売。 シングルカットした「ぼくの好きな先生」で、ようやくRCサクセションの名が全国で知られるようになる。 夏にシングル「キミかわいいね」、年末には「三番目に大事なもの」、そしてアルバム『楽しい夕に』と、リリースラッシュが続いた。 そんな中、清志郎はチャボとの出会いについて寄稿文(某雑誌社が特集した“古井戸・特集号”に寄せたもの)を書いた。 そこには、彼等の“友情の起源”が瑞々しく綴られていた。 二人の物語は、一つのチョコレートから始まった…。 『青い森』は一階が普通の喫茶店で、コーヒー・紅茶が90円、スパゲッティーは120円でした。チャボはよくスパゲッティーを食べてました。 地下にステージがあって、毎日3〜4グループが出演していたのですが、そのうち古井戸と、何回目かの一緒になった日、まだ客が一人もはいっていないセッティングの時に、チャボからチョコレートをもらいました。 その時はじめて、当時四人編成から三人になった古井戸と口をききました。 ほんのちょっと話しただけです。 僕達はだんだん仲良くなっていきました。 一緒に演奏したり、お互いにステージで悪口を言い合ったりするのは、とても素敵でした。 とりわけ僕とチャボは仲良くなりました。 僕はアパートを出なければならなくなったとき、ギターとちょっとした荷物をさげて、三人のところを渡り歩いていました。 仕舞にはずっとチャボのところで寝起きするようになりました。 チャボのアパートにだけお風呂があったし…僕と彼とは友達になったからです。 僕とチャボのしてきたことが、とてもよく似ていたのです。 その後、二人で一人の女のコを好きになってしまったこともありました。 [『I STAND ALONE』/仲井戸麗市〜キヨシロー寄稿文(’72)より] RCサクセション..
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コーヒーの歌〜清志郎とチャボ、珈琲色の思い出

♪『Cigarettes and Coffee(煙草とコーヒー)』/オーティス・レディング 1970年代の終わり頃、忌野清志郎率いるRCサクセションは「フォークグループ」から「ロックバンド」へと変貌を遂げようとしていた。その頃、古井戸を解散させたばかりの仲井戸“CHABO”麗市がギタリストとしてRCに参加する。 それから約30年後の2009年10月11日、チャボは特別な想いを胸に…たった独りでSHIBUYA-AXのステージに立っていた。 そして、オーティス・レディングの「Cigarettes and Coffee(煙草とコーヒー)」を会場に流しながら…こんな日記(1995年に書いたエッセイ)を朗読した。 写真/三浦麻旅子 僕はその日初めて、国立にある忌野清志郎の実家を尋ねて行くことになった。 そんなに暑すぎず、寒過ぎずの季節であったような印象が残っている。 渋谷の『青い森』で出会い、気が合い、仲良くなって、すぐに彼が僕の新宿のアパートを訪れるようになり、そして今度は僕が彼の家に招待されたんだろう。 駅の北口の改札辺りで待ち合わせをした。 清志郎は自転車で迎えに来てくれていて、僕を後部座席に座らせ、客人をもてなすべく、そよ風の中を家まで運んでくれた。 「やぁ、よく来たね」 「おぉ、ちょっと電車、遅れちゃてさぁ」 などと、何だかお互いに少し照れたりしていたかもしれない。 彼の家は、とても静かな住宅地にあった。 彼の部屋は、玄関を上がったすぐ右側にあり、その日、その部屋で僕等は、ぼんやり、でもたっぷりとホットな時間を過ごしたのであった。 彼がコーヒー・サイフォンを持ち出してきて、コーヒー豆を挽き、本格的にコーヒーを入れてくれたのには驚いた。 僕なんかコーヒーはインスタントに決まってたし、なんだかその時彼がちょっと大人っぽく見えたりした。 美味いコーヒーを飲みながら、とりとめのない話しをしたんだと思う。 確かにその時、曲を一緒に作ろうとしたことは明確に憶えている。 「こんな曲を作ろうぜ!」 「ここはこういう事を歌い込んで!」 「サビはこんな内容にしようぜ!」 などということを話し合ったのだ。 とても“特別な一日”を仲良しの友達と過ごして、僕は中央線に揺られて帰っていったのだった。 <『I STAND ALONE』/仲井戸麗市〜コーヒー・サイフォン(’95)より>..
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バニシング・ポイント〜スピードに取り憑かれた男たちは、いつも人のために嘆こうとした

スピードに取り憑かれた男たちがいる。真っ先に思い出すのは、アイルトン・セナ。自動車レースの最高峰F1を「感動的な人生ドラマ」に変えた人。有名なのは、過去のチャンピオンに比べてレース中に接触回数が多すぎると“危険なドライバー”の烙印を押された時、彼は権威に対してこう言ってのけた。 レーサーであれば、そのようなリスクを負うのは当たり前だし、相手のスキをついて仕掛けなくてはレーサーの資格はない。自分は勝つために走っているのであって、ポイントを稼ぐためじゃない。反対する者もいるけど、これからも自分のやり方で走り続ける。 従来のスポーツヒーローにはない魅力を放っていたセナは、1994年5月1日に行われたサンマリノGPの決勝レースで、ポールボジションからスタートしたまま300キロ以上のスピードでコンクリートウォールに激突。それはあまりにも象徴的な死にざまであった。 また、『i-D JAPAN』の特集「疾走せよ:Road to Nowhere/クルマと自由をめぐる冒険」(1992年6月号)で、ジェームズ・ディーンやレーサーの高橋徹について触れたことがある。同特集には他にもハリー・ディーン・スタントンとジャック・ケルアック(柳下毅一郎氏)、デニス・ホッパーとスティーヴ・マックィーンとサム・シェパード(大場正明氏)、ブルース・スプリングスティーン(森田義信氏)といったように、「クルマによって加速され、自由に向かって疾走した男たち」が取り上げられていた。 ここにもう一人加えるとするなら、コワルスキーという男かもしれない。リチャード・C・サラフィアン監督によるニューシネマ『バニシング・ポイント』(Vanishing Point/1971)の、バリー・ニューマンが演じた孤独な主人公。 カリフォルニア、日曜日。午前10時2分。コワルスキーの70年型ダッジ・チャレンジャーは警察の包囲網から逃れている。コワルスキの行く先には2台のブルドーザーによるバリケード。なぜこんな事態になったのか? その2日前。コロラド州デンバー、金曜日。午後11時30分。車の陸送屋として臨時に働くコワルスキーは、休む間もなく70年型ダッジ・チャレンジャーを2000キロ以上離れたサンフランシスコまで届ける仕事を引き受ける。おまけに知人と15時間以内に届けるという無謀な賭けにも出る。その瞬間からガソリン給油以外は止まら..
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売れ始めても英雄マディ・ウォーターズの使いっ走りをやめなかったピーター・ウルフ

12歳の時、52丁目の伝説的ジャズ・クラブ「バードランド」に入り浸るようになったんだ。あの頃は18歳以上の付き添いが一人いれば、その手の店でも平気で入れた。俺はアート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズ、えらくきわどい曲を歌うダイナ・ワシントン、他にもいろんなジャズ・ミュージシャンを聴いた。 1970年代にJ・ガイルズ・バンドのヴォーカリストとしてデビューし、解散後はソロ・ミュージシャンとして現在も活動を続けるピーター・ウルフは、自らの感動的なブルーズ体験の序章にそう綴った。 そこからハーレムのアポロ劇場まで水曜の夜のショウを観に行くようになるのは、ごく自然の成り行きだった。高校時代になると、あの劇場にずっと通い詰めてたよ。 ピーターはアポロ劇場の「ブルーズ大行進」というショウに出向き、そこで生まれて初めてマディ・ウォーターズを聴いた。当時はすでに都市部の黒人の若者たちの間ではブルーズは古びた音楽に過ぎなかった。その夜も「俺たちはもう綿花なんて摘んでないぞ」と、誰かが叫んでヤバイ雰囲気になっていた。あのブルーズの王様B.B.キングのステージの途中でのことだ。 しかし、マディが登場すると、場の空気は一変。「戯言はやめろ」と言い放つと、全員をブルーズに連れ戻した。出演者の中で最もいなたいサウンドを聴かせたにも関わらず、観客たちは熱狂した。マディのパワーは凄まじかった。ピーターはすっかり取り憑かれてしまった。 その後、ボストンで美術学生となったピーターは似たような趣味を持っていた仲間たちとブルーズ・バンドを組むことにした。のちにJ・ガイルズ・バンドになる面々だ。ピーターはブルーズ・ハープをマスターすべく、「ジャズ・ワークショップ」に出演していたマディを再び観に行くことになった。 マディが登場するまで、彼のバンドがステージを温める。メンバーにはジェイムズ・コットンやオーティス・スパンがいた。その夜もマディは親分らしく堂々と、しかも一分の隙もない洒落た佇まいで観客を沸かせた。 休憩に入ったセットとセットの間で、ピーターはどうすればコットンがあんなにユニークなブルーズ・ハープを吹けるのか、一緒にいた友達とどうしても秘密を探りたくなった。アンプの中に何か特殊効果があるに違いないとあたりをつけたピーターは、こっそりとステージに上がって調べ始めた。 すると、背後に何かが迫って..
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