ゲイリー・ムーア〜“泣きのギター”でBLUESを響かせた孤高のギタリスト
ギタリストなら、特に80年代にヨーロッパで生き残ろうと思ったら、ハードロックをプレイするしかなかった。でも僕はそれを快適だと感じたことは一度もなかったよ。それはあの種の音楽が自分の原点ではなかったからだと思う。何もかも巨大でラウドなものの中で、他のミュージシャンにも親近感を抱けなかった。
「ゲイリー・ムーア」という名を聞いて、彼の音楽を耳にしたことのある人は何を思い浮かべるだろう? 様々なバンドを渡り歩いた「さすらいのギタリスト」。シン・リジィでフィル・ライノットとプレイしていた「スーパー・ギタリスト」。1980年代のヘヴィメタル・ブームの中でマシンガンのように速弾きした「ギター・クレイジー」と言う人もいる。
あるいは、故郷の魂を忘れなかった「孤高のアイルランド人ギタリスト」。90年代から死の直前まで自らのルーツに対して真摯な姿勢を貫いた「ブルーズ・ギタリスト」。極めてヨーロッパ的なバラードで心の風景を響かせた「泣きのギタリスト」として伝える人もいるだろう。
──そのどれもが間違いではない。すべてがゲイリー・ムーアなのだ。
人気絶頂の80年代に5回もの来日公演を行ったこともあり、日本ではどうしても「ハードロック・ギタリスト」のイメージが強かった人だが、90年代に突入すると、そんなゲイリーに運命の転機が訪れる。ブルーズへの回帰だ。
一人でいる時はいつもブルーズを弾いていた。ある晩、ボブ・デイズリーがやって来て言うんだ。「なあ、ゲイリー。次はブルーズ・アルバムを作るべきだよ。お前のキャリアで一番の成功を収める作品になるかもしれないぜ」。思わず笑い飛ばしたよ。彼も笑ってた。でも僕はその通りにやってみたんだ。彼は正しかったね。本当にそうなったんだから。
1969年。わずか17歳でスキッド・ロウのギタリストとしてプロデビューしたゲイリーは、ブルーズを愛する少年だった。北アイラルンドのベルファストで育った彼が聴き入っていたのはブリティッシュ・ブルース。特にジョン・メイオールのバンドに在籍したエリック・クラプトンやピーター・グリーンに夢中になった。
しかし、スキッド・ロウ、ゲイリー・ムーア・バンド、コロシアムⅡ、シン・リジィ、G-フォースといったバンドを渡り歩いた70年代や80年代の華やかなソロ活動では、愛する音楽から離れていく一方だった。
速弾きばかりじゃ、すぐに行き詰..