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スリーピースバンドの世界〜最強の“3人組”は?(前編)

4人組や5人組のイメージが強いロックバンドの世界。だが歴史を振り返る時、忘れてはならないのが3人組。今回は1960〜ゼロ年代に活躍したスリーピースバンドに絞って、思いつくままにラインナップしてみた。あなたにとって最強の3人組は? まずは前編10組を。 ★ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス 衝撃度という意味ではダントツか。バンド名の通り、どの映像もジミヘン一人の凄さが目立つ。 Jimi Hendrix Noel Redding Mitch Mitchell ★クリーム ジミヘンと同時期に結成されたスーパーグループの草分け。こちらにはクラプトン。 Ginger Baker Jack Bruce Eric Clapton ★グランド・ファンク・レイルロード 1970年代前半に絶大な人気を誇ったアメリカン・ハードロック・バンド。 Mark Farner Mel Schacher Don Brewer ★モーターヘッド レミーの死によって2015年に活動に終止符を打った最強のHR/HM・スリーピースバンド。 Lemmy Kilmister “Fast” Eddie Clarke Phil “Philthy Animal” Taylor ★ZZトップ MTV全盛時代には大ベストセラーも放った南部の3人組。現在も活動中。 Billy Gibbons Dusty Hill Frank Beard ★ラッシュ カナダが生んだ伝説の中の伝説。 Alex Lifeson Neil Peart Geddy Lee ★ザ・ジャム 英国のパンク時代に現れた若きネオ・モダニスト。 Paul Weller Bruce Foxton Rick Buckler ★ストレイ・キャッツ 英国で火がついた米国のネオ・ロカビリー・バンド。 Brian Setzer Slim Jim Phantom Lee Rocker ★グリーン・デイ ポップパンクからアメリカを代表するロックバンドとなった。 Billie Joe Armstrong Mike Dirnt Tré Cool ★ハンソン ハンソン3兄弟。少年たちは大人の男になった。これは本当に名曲。 Zachary Hanson Taylor Hanson Isaac Hanson *写真はザ・ジャムのオフィシャルサイトより 中編..
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これが本当の80年代サウンド④〜忘れられたヒット曲にもう一度スポットライトを

80年代の洋楽をまとめたネットコンテンツやラジオ番組や雑誌には、いつもお決まりのアーティストやヒット曲だけがラインナップされている。それは同時代のコンピレーションがリリースされても同じこと。今回の企画はそんなありきたりの選曲ではなく、聞くだけで(観るだけで)「ああ! いた!! あった!!」と歓喜するようなアーティストやヒット曲を思いつくままに集めてみた。題して「これが本当の80年代サウンド」。そろそろマドンナやマイケル・ジャクソンの呪縛から解放されよう。ドライブや通勤タイム、懐かしの音源探しに活躍すること間違いなし。(選曲/中野充浩) ハノイ・ロックス「Up Around The Bend」(1984年・全英61位) フィンランド出身のロックバンド。フロントマンであるマイケル・モンローのルックスの高さもあって日本では洋楽雑誌を中心に人気が高かった。母国から英国へ、そして米国へ。CCRのカバーであるこの曲でブレイクするかと思われた矢先、ドラマーが事故死。その後解散するが、ガンズ・アンド・ローゼズのアクセル・ローズらがリスペクトして再評価と知名度が高まった。 ドクター&ザ・メディックス「Spirit in the Sky」(1986年・全英1位) ロンドンのクラブシーンから火がついて大ヒットした、サイケデリック・リヴァイヴァルを象徴するナンバー。アメリカのシンガー・ソングライター、ノーマン・グリーンバウムが1970年にヒットさせた曲のカバーであり、当時日本のFM局やMTVでも頻繁に流れていたことを思い出す。 ファビュラス・サンダーバーズ「Tuff Enuff」(1986年・全米10位) テキサス出身のブルーズバンド。スティーヴィー・レイ・ヴォーンの実兄であるギタリストのジミー・ヴォーンが在籍していたことでも有名。MTV全盛期の80年代半ばは、イギリスは変化球(まさに上記)、アメリカ南部は彼らのような直球アーティストが突如としてチャートを駆け上がる面白い時代だった。 アーケイディア「Election Day」(1985年・全米6位) 人気全盛だったデュラン・デュランから派生した二つのプロジェクト。といえば真っ先にジョン・テイラーとアンディ・テイラーのパワー・ステーションを思い浮かべる人がほとんどだろう。もう一つは、サイモン・ル・ボン、ニック・ローズ、ロジャー・テイラ..
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キャデラック・レコード〜ビヨンセも出演した伝説のレーベル“CHESS”の物語

レコード会社を描いた映画はこれまで数々作られてきたが、中でもメンフィスのサンやデトロイトのモータウン、NYのアトランティックといったインディペンデントと呼ばれる独立レーベルの物語は実に見応えがある。そしてシカゴの名門チェスのストーリーも例外ではない。 映画『キャデラック・レコード』(CADILLAC RECORDS/2008)には、レナード・チェス、マディ・ウォーターズ、リトル・ウォルター、ハウリン・ウルフ、チャック・ベリー、エタ・ジェイムズの6人の主要人物が登場する。彼らを語るのは、チェスのソングライター/プロデューサーだったウィリー・ディクソン。1950年代〜60年代におけるブルーズ、R&B、ロックンロールの伝説的な実話が綴られていくが、その一つ一つが音楽ファンには強烈にたまらない。 1940年代前半。ミシシッピの貧しい農民だったマディ・ウォーターズは、図書館用に自分の歌とギターを録音したことをきっかけに“自分を発見”。大都市シカゴへ移ってブルーズ音楽に夢を賭ける。街の騒音や人々のざわめきに音が消されないように、アコースティックからエレクトリックにギターを持ち替えると、彼のダウンホームな感覚を持った音楽は都会の黒人たちを魅了し始める。 それを世に送り出したのはレナード・チェス。ポーランド移民で貧しい暮らしをしていたが黒人音楽に取り憑かれ、ビジネスの可能性を見出して1947年にレコード会社アリストクラットを設立する(50年にチェスと改名)。南部ミシシッピに息づくデルタ・ブルーズが、マディとチェスの出逢いを通じて、北部の大都市でバンド・ブルーズへと昇華した。 他にもアンプリファイド・ハープ(ハーモニカをアンプに通して音を分厚く強くするスタイル)を発明したリトル・ウォルター、マディと同じくミシシッピから移住してきた独特の潰れた声でオオカミのように唸るハウリン・ウルフが続いてスターとなる。レナードは成功の証として、彼らに一台ずつキャデラックの高級車をプレゼントしていく。チェスのブルーズマンは50年代の黒人たちの夢の象徴だった。 50年代半ば。チャック・ベリーをチェスに紹介したのはマディだった。ロックンロールの旋風とティーンエイジャーの台頭によって、ブルーズマン以上の華やかな成功を手にするチャックだったが、人気絶頂時に未成年の少女を連れ回した罪で投獄されてしまう。一方、リ..
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ナイト・アンド・デイ〜ポピュラー・ソングに“永遠の若さ”を刻んだコール・ポーター

「壮大な音楽探求」の旅路を愛する人たちがいる。英米や日本のオールドロックの呪縛から解き放たれ、世界中の国々や土地の音楽、ロック以前以外の時代やジャンルの音楽を開拓している。あるいは映画や文学、歴史や文化や経済など様々な観点も含めて楽しんでいる。このコラムに繋がったのはきっとそんな人だと思う。 音楽の場所や時を自由自在に移動しながら旅することは、たとえそれが部屋や頭の中であっても立派な体験になり得る。何も無理に最新の音楽やヒットチャートに触れることだけが「素敵な音楽探求」ではないからだ。しかし、旅人たちはすべてを知りたがる。別に悪いことじゃない。いつまでも一つの音に縛られているよりは。 一方で、人生における避けがたい何かしらのしがらみ、加齢による新しい趣味の広がりにより、音楽から距離を置かざるを得なくなったり、興味自体が薄らいでしまう人だっている。生きていればごく自然のことだ。音楽を仕事にでもしない限り、むしろ当たり前だ。 TAP the POPはそんな人々がネットやSNSでたまたま記事を見かけ、かつての音楽愛を再燃させる役割を果たすこともある。きっかけは昔慣れ親しんだオールドロックやパンク/ニュー・ウェーヴあたりとなるケースが少なくない。一同としては嬉しいことだが、どうかそこに懐かしさのあまり安住しないでほしいとも思う。成長しないイノセンスほど空虚なものはないのだから。 音楽の旅人たちは、多くの歌手やバンド、ソングライターたちに出逢いながら、自分だけの旅を歩んでいく。例えばアメリカ音楽を訪れる時、ロック以前のR&B/ブルーズ、カントリー/フォーク、ジャズ、ゴスペルなど、黒人やアイルランド系が育んだ足跡や風景は強烈な体験となって心を打つ。 また、当時のメインストリームだったミュージカルやスタンダードソングの洒落が効いた静と動が交錯する光景にも魅せられることだろう。1950年代、40年代、30年代、20年代、10年代……もっと深く夢の中へ。 そんな旅路であなたが必ず耳にするのは、ジェローム・カーン、アーヴィング・バーリン、ジョージ・ガーシュイン、リチャード・ロジャースらといったソングライターだ。アメリカン・ポピュラー・ソングの黄金時代を担った音楽家たち。 中でもコール・ポーターは「ソフィスティケイテッド(洗練された)」という言葉が最も似合った作詞作曲家。この時代を愛する..
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エリザベスタウン〜絶望して生きる気力を失いかけた時はこの映画を観よう

人生には失敗なんてつきものだし、その経験が成長の糧となっていくことは言うまでもないが、もしスケールの違う“大失敗”をやらかしてしまった時、人は一体どうなるのだろう? 生きている実感を失いそうになった時、人はどんな行動に出るのだろう? 大失敗には質の悪い弊害も伴う。愛の喪失、お金の心配、健康の不調、精神の崩壊、そして世間からの孤立……。 映画『エリザベスタウン』(ELIZABETHTOWN/2005)は、そんな大失敗した者を主人公にした一本。失意の中で様々な出来事と向き合いながら、人は決して独りで生きているのではなく、大失敗しても次があることを教えてくれる、力強くも優しい物語だ。この作品と巡りあった人は幸運だと思う。 監督・脚本は『あの頃ペニー・レインと』『ザ・エージェント』などで知られるキャメロン・クロウ。脚本作りに数年も費やすことで有名で、ストーリーや台詞の組み立て方に評価が高い映画作家。本作では自身の父とのエピソードを織り交ぜた。 もともと音楽ジャーナリストだけあって曲の使い方も秀逸。本作にも抜群の選曲がここぞというタイミングで鳴り響く。当時、クロウと夫婦だったナンシー・ウィルソン(ハート)のアコースティック・スコアも心地いい。アメリカ横断のバス旅行に一緒に出かけたことも映画作りにインスピレーションを与えたという。 失敗とは成功しないこと 失敗は誰にでもある だが“大失敗”は神話的なスケールの災厄を意味する それは人々の噂の種となり 聞く人に生きる歓びを与える “自分じゃなくて良かった”と 物語はオレゴン州の大企業で新しいスニーカーの開発デザインのプロジェクトリーダーを担当するドリュー(オーランド・ブルーム)が、会社に大損失を与えるところから始まる。その額は前代未聞の約10億ドル。その大醜態が自分の責任として世間に公表されるのは1週間後。こうして8年間も身を捧げてきた夢が最悪の状態で終えることが決まった。 オフィスに戻ると社長(アレック・ボールドウィン)からも恋人(ジェシカ・ビール)からも“最後の目線”を送られ、解雇されたドリューは自殺を決意。しかしそんな時に限って父の死の知らせが妹(ジュディ・グリア)の電話で判明。つまり、自分が死ぬのは親父の葬儀が終わってからでいい。 父ミッチの故郷であるエリザベスタウンへ飛び立つドリュー。そこはケンタッキー州ルイヴィルか..
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パルプ・フィクション〜世界のポップカルチャーの記号になったタランティーノ作品

一つの映画の中に3つの物語を入れて、犯罪映画のアンソロジーを作ろうと思ったんだ。1930〜40年代に流行った大衆犯罪小説(パルプ・フィクション)からヒントを得てね。そういった雑誌では、一つの話の主人公が別の話では脇役として登場していたりする。こういう手法って映画じゃまずないから面白いと思った。 デビュー作『レザボア・ドッグス』(1992)や脚本作品『トゥルー・ロマンス』(1993)で「新しい才能の登場」として騒がれていたクエンティン・タランティーノが、世界的に脚光を浴びることになったのがカンヌ映画祭を制した『パルプ・フィクション』(Pulp Fiction/1994)だった。 映画・音楽・コミックなど膨大なポップカルチャーを吸収分析するオタク/コレクター気質と、それを消化して自己表現へと変えていく作家性を併せ持つタランティーノが次に目をつけたのが、安価で質の低い紙に印刷された三文小説が並ぶ雑誌の総称パルプ・フィクション。密かに大作家への登竜門としても機能したB級メディアへのオマージュだ。 そのうち時間の流れや人間関係も一回バラバラにして再構築するってこともしたくなった。観客はいきなり物語の中に投げ込まれて、最初は展開が見えないんだけど、だんだんとその全貌がわかってくるわけさ。それってスリリングじゃない!? ジョン・トラボルタ、ブルース・ウィリス、ユマ・サーマン、サミュエル・L・ジャクソン、ハーヴェイ・カイテル、ティム・ロス、エリック・ストルツ、ロザンナ・アークエット、クリストファー・ウォーケンなど、映画好きならたまらない“癖”のある俳優たちがキャスティング。こうした面々が一つの作品でいったいどう絡み合うのか、観る前から思わずワクワクしてしまうのもタランティーノの“計算済み”だろう。 好き嫌いがはっきりと分かれることでも知られるタランティーノ作品だが、小道具や台詞への“拘り”を心地よくとらえられるかどうかがその境界線のようにも思える。本作にもハンバーガーやコーヒーの件をはじめ、オールディーズが鳴り響く50年代風レストラン、発砲前の朗読儀式、ドラッグ過剰摂取の対処マニュアル、日本刀での復讐劇、トイレでのパルプマガジン読書、レトロなツイストダンス、形見の時計のエピソード、サーフミュージックといったあたりが強い印象を残すが、それらを楽しめ人には『パルプ・フィクション』..
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her/世界でひとつの彼女〜スマホ片手に都会で虚しく静かに生きる人たちへ

『her/世界でひとつの彼女』(Her/2013) の主人公セオドア(ホアキン・フェニックス)は、昔は新進気鋭の書き手だったが、今はネット企業に勤めていて代筆ライターの仕事に就いている。妻とは1年以上別居しており、離婚調停中だ。女友達が気にかけてくれるが、紹介された相手と深い関係になることはなく、正直セオドアは妻との楽しかった想い出の中で“虚しく静かに”生きている。 物語の舞台はちょっと未来のロサンゼルス。だから、人も風景も現在とたいして変わらない。セオドアが住んでいるのは眺望の良いタワーマンション。と言っても、見えるのは同じような高層ビルだけ。昼間の空の色はブルーというよりどこかグレー。こんなところにいると、想い出は“自分に都合よく”勝手にアップデートされていく……。 映画が始まってからしばらく、なんとも言えない切ない感じ。それでいて妙に懐かしくもあり、心地良い感じにも包まれた。多分、自分も同じような経験をし、同じような場所で暮らしてきたからだろう。 運河に架かった橋を歩く蟻のように見える人々がどんな服を着ているのか、雨がどれくらい降っているのか、そこからは何も感じない。自分の場合、あの時生まれた感覚を「書かなければ」と思い、2016年にWebマガジン(TOKYOWISE)で配信させてもらった。 こんな日々を重ねていると、東京がまるで巨大なWebサイトのように見えてくる。丸の内や汐留のオフィスビルにはビジネスやマーケティング情報、渋谷や銀座の商業施設にはファッションやカルチャー、豊洲や勝どきのマンションには消費トレンド、六本木のレジデンスやラグジュアリーホテルには男女関係に関するコンテンツが詰まっているわけだ。 実際に街へ出ても、それらをクリックして中へ入っていく感覚はすでになく、スマホの画面をタップしてSNSの投稿を次々とフリックしているような、上滑りしていく浮遊感だけが強く残る。                    ● 人工的なバベルの塔と、申し訳程度の緑地がついたショッピングモール的空間の量産は、ただでさえ防犯監視カメラが大量に設置された街から、新しい世代や若いスピリット、色気と体臭で繋がったポップカルチャーを奪っていく。 常にどこかから工事の騒音が聞こえる“現在新光景”が構築される中、デジタル・ネイティヴの子供たちはゲームとスマホをやりすぎてしまっ..
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ブルー・ライト・ヨコハマ〜横浜からヨコハマへと街の色を変えた一曲

1968年のクリスマス(12月25日)にその歌はリリースされた。 当時、二十歳だった歌手・いしだあゆみにとって26作目のシングルだった。 なんと!発売日に10万枚のレコードが売れ、それが10日間続いたというから驚きだ。 結果、3ヶ月で200万枚近くを売り上げるミリオンセラーを記録する。 時代は“全共闘・全国学園闘争”の真っただ中だった。 ベトナム戦争に反対する若者達が、新宿西口広場などで集会を開き、機動隊と衝突していたあの頃…。 パンタロンやマキシスカート、そしてシースルールックが流行し“ヒッピー族”が街を闊歩しながらフォークソング口ずさんでいた時代にこの歌は生まれた。 作曲者は筒美京平。 彼にとってこの歌こそが、自身が手掛けた楽曲で初のオリコン週間1位を獲得する出世作となった。 筒美はこの楽曲で第11回日本レコード大賞・作曲賞を受賞する。 一方、作詞を手掛けたのは“グループサウンズ関連で最も売れた作詞家”としても知られる橋本淳だった。 奇しくも筒美京平と橋本淳は青山学院中等部からの盟友だったという。 当時の“青学”と言えば、ハイカラで上流階級の子供達が学ぶところとして知られていた。 学内には多数のジャズサークルがあり、二人は別々のバンドだったが、共に音楽を志す仲間だったという。 ──この歌にはどんな想いが込められ、どんなチカラがあったのか? 橋本によると、歌詞のイメージは港の見える丘公園(横浜市中区山手)から見える横浜と川崎の工業地帯の夜景と、自身がかつてブルー・コメッツと共に降り立ったフランスのカンヌで見た“ある光景”が重なり合っているのだという。 カンヌの空港は滑走路が海に突き出ていて、海から陸地に向かって降りていく飛行機の中から見たカンヌの夜景に橋本は強烈に心を奪われたのだという。 「日本はまだ戦争の傷痕が癒えていない“錆れた風景の残る時代”だったので、地中海の青い海にショックを受けました。」 そしてもう一つ。 若かりし頃、ニューヨークの美術館で見たピカソの“青の時代”の頃の絵画が彼の心に強烈な印象を植え付けたのだという。 以来、彼の創作の根底にはいつも“青(ブルー)”があったという。 ピカソのブルーと、カンヌで見たブルーの世界が彼の心から離れることはなかった。 そんなある日、いしだあゆみが移籍したばかりのレコード会社(日本コロムビア)から作詞の依頼を受ける..
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「スペイン革のブーツ」と「木綿のハンカチーフ」

ボブ・ディランと太田裕美。 ローリング・ストーン誌が選ぶ“歴史上最も偉大な100人のソングライター”において第1位となった男と、1976年に日本で(山口百恵をおさえて!)最も活躍した女性アイドルとの間に“ちょっと面白い話”があるという。 1964年、ボブ・ディランが23歳の時にリリースした3作目のスタジオアルバム『The Times They Are A-Changin’(時代は変る)』に収録された楽曲の中に「Boots Of Spanish Leather(スペイン革のブーツ)」という歌がある。 その歌詞では、恋人同士の手紙のやり取りが交互に展開ゆく。 当時、ディランにとっての最愛の女性といえばスーズ・ロトロ。 2ndアルバム『Freewheeling’』のジャケット写真でディランと寄り添って歩いている女性だ。 彼女がヨーロッパ旅行に旅立った時の実体験をもとにディランはこの歌を作ったのだという。 「Boots Of Spanish Leather(スペイン革のブーツ)」/訳:片桐ユズル 恋人よ、わたしは船出する 朝には船出してしまうのよ 海の向こうから送って欲しいものはないかしら わたしが行く国から 真っ黒な夜からとった星と  深い海からとったダイヤモンドだって 君のやさしいキスのほうがいい 僕が欲しいのはそれだけだ そう、なにか送ってくれるならば スペイン革のスペイン・ブーツ 一方、太田裕美が二十歳の時に唄った「木綿のハンカチーフ」といえば、昭和歌謡曲の洗礼を受けた世代にとっては“忘れられない一曲”ではなかろうか? 1975年の年の瀬(12月21日)に発売され、翌年のシングルチャートを一気に駆け上って総売上枚数150万枚を記録したヒット曲である。 作詞を元はっぴいえんどの松本隆、そして作曲は筒美京平という最強タッグによって産み出された“3分47秒の青春物語”に、当時の若者たちは自分を重ね合わせて胸を熱くしたという。 「木綿のハンカチーフ」 恋人よ 僕は旅立つ 東へと向う列車で はなやいだ街で君への贈りもの  探す 探すつもりだ いいえ 星のダイヤも海に眠る真珠も きっと あなたのキスほど  きらめくはずないもの きらめくはずないもの あなた 最後のわがまま 贈りものを ねだるわ ねえ 涙拭く木綿の ハンカチーフ下さい ハンカチーフ下さい この曲の歌詞もま..
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筒美京平の評価を決定づけた平山みきの「真夏の出来事」

どこか”変な歌”についての定義づけをしたのは、『時間ですよ』や『寺内貫太郎一家』、『ムー一族』などの人気シリーズを筆頭に、テレビ史に残る数多くのテレビドラマを手がけたTBSの演出家、後に作家としても活躍した久世光彦だった。<注1> 流行歌の世界では、ときどき変な歌が突然現れてヒットすることがある。 《変な》というのは、言いなおせば《変に新しい》――つまり、いままであまり聴いたことのない曲想と、これまたユニークな歌い方の歌手と――二つが揃った歌のことで、私にいま、そのベスト・スリーを挙げろと言われたら、年代順に①月がとっても青いから(菅原都々子)②愛のさざなみ(島倉千代子)③真夏の出来事(平山三紀)ということになる。 1971年に発表された平山三紀の「真夏の出来事」は、作詞が橋本淳で作・編曲が筒美京平という、当時は最も勢いがあるソングライター・コンビによる作品だった。 そして久世が言うところの”変な歌”を構成する、ふたつの要素を完全に満たしていた。 エレキベースが同じリフをイントロから最後まで弾き続ける上に、分離した左右のチャンネルから、リズムをキープするパーカッションとアコースティック・ギター、アクセントを効かせたハイハットとドラムが鳴っている。 そこから生まれるファンキーなグルーヴ感は、ヒントを得たと言われるモータウンの原曲よりもずっと強力で、華やかなサウンドだった。 はっぴいえんどが日本語のロックに挑んでいた当時の音楽シーンにあって、これはまぎれもなく新しい音楽であった。 「カ~レの ク・ル・マ~に乗ッて」と鼻にかかった独特の乾いた声で突き放すように歌う平山みき(当時は平山三紀名義)は、久世の言った「ユニークな歌い方の歌手」そのものだった。 ヴォーカルを際立たせるホーンセクションとストリングスもまた、アメリカの最先端のブラック・ミュージックに引けをとらない、筒美京平ならではの斬新なアレンジで洋楽好きな若者にも支持された。 ライブハウス『銀座メイツ』で歌っていた平山みきは、ユニークな声が認められてヒットメーカーだった二人に預けられ、1970年に「ビューティフル・ヨコハマ」でデビューしている。 デビュー後も筒美京平の秘蔵っ子として、いかに大事に育てられたかについて、作詞家のの橋本淳は謙遜しつつもこう語ったことがある。 僕は京平さんと何曲ぐらい曲作ってんのか分..
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セッション〜“完璧な音楽”を求めてぶつかり合う狂気の師弟関係

今、最も注目されている映画監督の一人、デイミアン・チャゼル。まったくの無名だったこの監督を一気に有名にしたのが『セッション』(Whiplash/2014)。サンダンス映画祭でグランプリを獲得し、アカデミー賞にもノミネートされてしまった。 僕は戦争映画、あるいはギャング映画のような音楽映画を作りたいと思った。楽器が武器に変わり、音楽が銃のように暴力となり、学校のリハーサル室やコンサートステージが戦場に変わる……僕は演奏の一つ一つを、カーチェイスや銀行強盗のような、生死を分ける闘いであるかのように撮影したかった。 まさに天才らしい発言ではあるが、実はこの作品は自らの体験が“原作”となっている。それは高校時代のジャズバンドで味わった恐怖体験。 チャゼルは毎日何時間も地下の防音室にこもり、手から血が出るまでドラムを叩き続けた。リズムをミスる恐怖。テンポが遅れる恐怖。そして指揮者に対する恐怖こそが何よりも大きかったからだ。その教師のおかげで、彼は吐き気を繰り返し、食事も喉を通らない日々を過ごす。大好きだった音楽が悪夢と化す。 結局、ニュージャージーの未熟な高校生バンドは、ダウンビート誌から「全米ナンバーワンのジャズバンド」に選ばれ、大統領就任式や有名なジャズフェスで演奏するほどの栄誉に輝く……教える側と教わる側の、あのあまりにも緊張に満ちた関係をもっと深く掘り下げるため、『セッション』は作られた。 (ここからストーリー。ネタバレ要注意) 全米屈指の名門校、シェイファー音楽院。バディ・リッチのような偉大なドラマーを目指して入学したニーマン(マイルズ・テラー)は、日々孤独な練習に打ち込んでいる19歳。ある日、学院の伝説教師フレッチャー(J・K・シモンズ)のバンドにスカウトされて歓喜する。 しかし、彼を待ち受けていたのは僅かなテンポのズレも許さない、異常なまでの完璧さを求めるレッスンだった。初日から椅子を投げつけられ、頬を平手打ちされ、屈辱的な言葉を浴びせられたニーマンは、泣きながら俯くことしかできない。彼に限らず、メンバー全員が悪魔のごとき形相のフレッチャーによる狂気じみた指導に怯え、支配されていた。 それでもニーマンは水ぶくれや切り傷にまみれた練習を通じ、ハンク・レヴィの「Whiplash」を暗譜してコンクールの優勝に貢献。補欠からバンドの第1ドラマーに昇格する。しかし、既..
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ブギーナイツ〜ポルノ映画に従事する人々の愛と葛藤を描いたドラマであの名優は復活した

ロサンゼルス郊外、サン・フェルナンド・ヴァレー。70年代から80年代にかけてこの地では数多くの映画が作られた。映画と言ってもポルノ。そう、ここは「もう一つのハリウッド」として栄える場所なのだ。 『ブギーナイツ』(Boogie Nights/1997)は、ポルノ映画に従事する人々の愛と葛藤を捉えたドラマだった。舞台となる時代は、スター・ウォーズやディスコ・ミュージックが流行して、性革命が絶頂期を迎えていた1977年から、ビデオやMTVが登場し、カーターからレーガン政権へと移行した1985年までの8年間。 ポルノ業界という題材上、敬遠した人もいるかもしれない。だがこの作品は、“アメリカのポップカルチャーの裏側”を描いた傑作として映画史に刻まれることになった。 監督は撮影当時まだ26歳の若さで、実際にサン・フェルナンド・ヴァレーで生まれ育ったというポール・トーマス・アンダーソン。1988年にエイズで死亡したポルノ界の大スター、ジョン・ホームズをモデルにストーリーを練った。ちなみにジョンは2274本ものポルノ映画に出演。のべ14000人の女性を相手にしたそうだ。 主役を演じたのは、今や『テッド』でお馴染みのマーク・ウォールバーグ。彼は80年代にニュー・キッズ・オン・ザ・ブロックに加入。デビュー前に脱退して、マーキー・マーク&ザ・ファンキー・バンチとしてナンバー1ヒットを放ったり、カルバン・クラインの下着モデルに起用されたこともあった。この役は最後までレオナルド・ディカプリオと争ったということもあり、撮影には18㎏減量して役作りを徹底させた。 助演陣がまたいい。この映画に“知的良心”と重みを与えたのは、何と言ってもバート・レイノルズの存在だろう。成功から転落を経験したスターは、本作で復活した。その他、ジュリアン・ムーアやヘザー・グラハム、名脇役フィリップ・シーモア・ホフマンの存在も光る。 1977年。LA郊外のディスコで皿洗いのアルバイトをする17歳のエディ・アダムス(マーク・ウォールバーグ)は、ブルース・リーとファラ・フォーセットが好きな普通のティーンエイジャー。高校も行かず、これといった目的も持たずに夜遅くまで働く日々を送っている。そのせいで母親とも衝突。父親は無関心のままだ。 そんなある夜、売れっ子ポルノ映画監督のジャック・ホーナー(バート・レイノルズ)からスカウトされ..
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キル・ビル〜オマージュが吹き荒れる復讐を誓った女の孤高の旋律

小説も音楽も映画も美術も、過去の偉大な作品の影響なくして創造されない。作り手の体験や無知なることに対する取材、あるいは空想でさえ大切なのは言うまでもないが、文化作品からインスピレーションを受けることも独自の創作には必要不可欠な“血”となる。 例えば音楽。チャック・ベリーのロックンロール史上最も有名なあのリフは、今まで世界中の無数のミュージシャンの“新曲”に取り入れられてきたし、過去の音楽すべてが素材となるヒップホップはサンプリングなくして語れない。どんなジャンルの音楽にもこの“影響”や“引用”は成立する。 映画だって同じだ。あのジャン=リュック・ゴダールの伝説的な映画『気狂いピエロ』には、文学作品からコミックまであらゆる分野のカルチャーの断片が映像に散りばめられる。しかも驚くべきことにそれが一本の物語として繋がっている。 この種の作品は受け手の文化体験によって面白さが左右することは確か。でも知らなくてもそんなことは後から発見すればいいし、それがきっかけでその人の壮大な文化探求の旅が始まることもある。芸術や創作の醍醐味がそこにある。 『キル・ビル』は、ドライブイン・シアターやグラインドハウスで観た映画へのオマージュなんだ 映画作家クエンティン・タランティーノの『キル・ビル』(KILL BILL/2003・2004)も、そんなオマージュとリスペクトが吹き荒れる作品の一つだった。映画やサブカルチャーの“マニア”として知られるタランティーノ作品の中でも、これほどカオス的なものもないだろう(ちなみにタランティーノの映画制作会社「A Band Apart」は、ゴダールの映画『Bande à part』から)。撮影日数270日。舞台はLA、メキシコ、北京、東京、沖縄だ。 ユマは俺にとって、ジョゼフ・フォン・スタンバーグにとってのマレーネ・ディートリッヒさ。彼女でなきゃダメなんだよ マカロニ・ウェスタン、フィルム・ノワール、ブラックスプロイテーション、カンフーやサムライ映画といった世界観が交錯する物語は、主人公のザ・ブライド(ユマ・サーマン)による一貫した“復讐”という目的がある限り、どこか安心感に包まれながら観れてしまう。ブラックジョークもえげつない描写も、やがて到達する画が想像できるので笑えたりもする。 『キル・ビル』にはVol.1とVol.2があり、記憶に残るシーンも..
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1984〜数多くの音楽や映画に影響を与えたジョージ・オーウェルのディストピア世界

2019年は平成の終わりと新元号、2020年は東京五輪開催と一大イベントを立て続けに控える日本だが、我々はこの4つの数字(西暦)に時には弄ばれることが少なくない。 例えば世紀末の1999年はノストラダムスの大予言。音楽ファンにはプリンスの同名アルバムの方が重要かもしれない。2000年はミレニアムとしてカウントダウンイベントが世界各地で行われた。そして2001年といえばキューブリックの映画『2001年宇宙の旅』がある。 では、20世紀に目を向けてみよう。やはりまず思い浮かぶのが1984年ではないだろうか。ジョージ・オーウェルの同名ディストピア(反ユートピア)小説だ。このストーリーが他のカルチャーに与えた影響は大きく、デヴィッド・ボウイの『ダイアモンドの犬』や新進のアップルコンピュータが巨大企業IBMの独占に立ち向かう1983年のCMをはじめ、『1984年』の世界観を漂わす創作が数多くある。 作家ジョージ・オーウェルは1903年、イギリス植民地時代のビルマで生まれた。青年時代は警察官として同地で過ごすが、そこで接した現地人を見下す差別感、抑圧する側の心理などが後の執筆活動の基盤の一つとなる。 イギリスに帰国後、貧困と放浪の中で執筆の鍛錬に励む。33歳の時、スペイン内乱の革命的状況に圧倒され、ファシズムに対抗する兵士として戦線に参加。同志たちの信念に心動かれるが、結局はソ連のスターリン主義者による弾圧に破られ、現実を目の当たりにした。 1945年に『動物農場』で知名度が上がり、これからという矢先に結核に悩まされながら『1984年』の執筆を開始。社会主義に潜む権力や反人間性を思い知らされていたオーウェルは、「独裁体制の確立後にどのような管理支配が行われ、自由を求める人間にはどんな運命が待っているのか?」。その問いかけに応えるために筆を進めていく。 小説は1948年末に完成するが、当初のタイトルは『ヨーロッパ最後の人間』。よりキャッチーなタイトルを迫られたオーウェルは1948年の4と8をひっくり返し、『1984年』として翌年刊行。しかし病には勝てず、1950年にロンドンで死去。まだ46歳の若さだった。 『1984年』は1954年にイギリスでTVドラマ化、1955年に最初の映画化が試みられたが、原作を忠実に再現したという意味で決定版と言えるのが今回紹介する『1984』(Nine..
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モーターサイクル・ダイアリーズ~南米大陸縦断の旅で「革命家チェ・ゲバラ」は生まれた

黒のベレー帽を被ったチェ・ゲバラの顔がプリントされたTシャツや煙草やポスターを見たことがある人は多いと思う。また、ベニチオ・デル・トロ主演の映画『チェ 28歳の革命』や『チェ 39歳別れの手紙』では、1959年にバティスタ独裁政権をフィデル・カストロとともに倒してキューバ革命を成就させる姿、再び革命の地として選んだボリビアでの1967年の壮絶な死について描かれていたことも記憶に新しい。 革命家としての彼を知るにはたくさんの書物や映像が残れているので、そちらに触れてみるのが一番だろう。「真の革命家は偉大なる愛によって導かれる」と発言したチェ・ゲバラは、南米では伝説的/象徴的存在として死後50年近く経った今でも多くの人々の心の中に生きている。 Che Guevara 1928.6.14-1967.10.9 チェ・ゲバラ(本名エルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナ)は、1928年6月14日にアルゼンチンの経済的に恵まれた環境で生まれた。喘息を患った身体だったが、サッカーやラグビーなどのスポーツで鍛錬。その後、ブエノスアイレス大学の医学部に進学する。 在学中の1952年に友人のアルベルト・グラナードと、オンボロのオートバイ“ポデローサ(怪力)号”を使っての初めての南米放浪を体験。このブエノスアイレスから始まってベネズエラのカラカスで終わる、若きゲバラの南米大陸1万2千キロ縦断の旅を映画化したのが『モーターサイクル・ダイアリーズ』(The Motorcycle Diaries/2004)だ。 僕はなぜ彼がチェ・ゲバラになったかという部分に興味があった。エルネストは旅を進めるうちに、腹黒い政府や団体によって住む場所を奪われてしまった人々の健康や幸せについて考え始める。彼は最後に「自分にはやるべきことがある。自分はこの旅で変わった」と相棒のアルベルトに語る。この旅は彼にとって“発見”もしくは“啓発“の旅となったんだ。 そう語るのは製作総指揮のロバート・レッドフォード。ゲバラ青年が世界に目覚めるきっかけとなった体験に着眼。監督はウォルター・サレスが担当し、原作はゲバラの『モーターサイクル南米旅行日記』とグラナードの『トラベリング・ウィズ・ゲバラ』。マチュ・ピチュなどの遺跡観光地でさえ、ゲバラの映画ということだけで土地の人々は喜んで協力してくれた。 こうして公開された映..
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