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ヒップホップ/ラップのベストセラーアルバム〜ランDMCからドレイクまでの30年

ヒップホップ/R&Bの売り上げが初めてロックを超えて、音楽マーケット全体のトップシェアに立ったのが2017年。今回は300万枚以上を売ったヒップホップ/ラップのアルバムをリスト化。80年代にはプラチナディスク(100万枚)を獲得すること自体が珍しかったジャンルだが、今ではポピュラー音楽の中心を形成するまでに至った。ただ売り上げ順に並べても面白くないので、年度別に並べることにしてみよう。さて、このデータをどう読み解くか。 【1986年】 ●1000万枚/ビースティ・ボーイズ『LICENSED TO ILL』(1986) ●300万枚/ランD.M.C.『RAISING HELL』(1986) やはり起爆剤は彼らだった。 【1987年】 該当なし 【1988年】 ●300万枚/DJ・ジャジー・ジェフ&ザ・フレッシュ・プリンス『HE’S THE DJ, I’M THE RAPPER』(1988) ●300万枚/N.W.A.『STRAIGHT OUTTA COMPTON』(1988) 西海岸ギャングスタ・ラップの先駆け。今や伝説だ。 【1989年】 該当なし 【1990年】 ●1000万枚/MCハマー『PLEASE HAMMER DON’T HURT ‘EM』(1990) ●700万枚/ヴァニラ・アイス『TO THE EXTREME』(1990) 突発的にポップ・ラップが大ヒット。 【1991年】 ●300万枚/ハマー『TOO LEGIT TO QUIT』(1991) 【1992年】 ●400万枚/アレステッド・ディベロップメント『3 YEARS, 5 MONTHS AND 2 DAYS IN THE LIFE OF…』(1992) ●400万枚/クリス・クロス『TOTALLY KROSSED OUT』(1992) ●300万枚/ドクター・ドレー『THE CHRONIC』(1992) 一世を風靡したGファンク。 【1993年】 ●500万枚/ソルト・ン・ペパー『VERY NECESSARY』(1993) ●400万枚/スヌープ・ドギー・ドッグ『DOGGYSTYLE』(1993) ●300万枚/サイプレス・ヒル『BLACK SUNDAY』(1993) ●300万枚/ウータン・クラン『Enter the Wu-Tang (36 Chambers)』(1993) ..
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木村充揮の歌ルーツ〜日本を代表する“稀代の唄うたい”が、若かりし頃に憧れた歌手、刺激を受けた音楽体験

木村充揮。 1975年、憂歌団のボーカルとしてデビュー以来“天使のダミ声”と称される独特の声とブルースフィーリング溢れる独特の歌い回しで絶大な人気を誇ってきた。 現在はソロ活動を中心にロック、ジャズ、ブルースにとどまらず演歌や民俗音楽にいたるまで、あらゆるカテゴリーを包括したボーダーレスなシンガーとして多方面で活躍している。 その唯一無二のライブパフォーマンスは数多くの若いアーティストからのリスペクトも集め、音楽ファンを魅了し続けている。 今回は、そんな日本を代表する“稀代の唄うたい”が、若かりし頃に憧れた歌手、そして刺激を受けた音楽体験をご紹介します。 「まず小学校の頃、僕が好きだったのは美空ひばり、越路吹雪、西田佐知子、そしてアストラッド・ジルベルト。中でもジルベルトの鼻歌に近いチカラの抜けた歌い方が好きだった。憂歌団でよく一緒のステージに出してもらった浅川マキさんもその系列だ。あの力の抜き方、あの感情、あの色合い、あの匂い…すべてが素敵だった。マキさんの歌を聴いた時、あぁええなぁと思った。歌謡曲とかと全然違う感じ。当時、マキさんは30代、僕は二十歳そこそこのガキだった。」 1970年代、大阪ミナミの島之内教会で3日間連続の浅川マキ単独公演が行われた。 バックミュージシャンとして憂歌団のギタリスト・内田勘太郎が呼ばれ、木村はそれを観に行ったという。 浅川マキは客席にいる木村を見つけると、ステージに上げて歌わせたのだ。 「一曲だけ“サマータイム”を歌わせてもらって、嬉しかった。マキさんはその時も、アカペラで何曲か歌ってた。時には1ステージまるまるアカペラでやるという。僕はこの歳になってもアカペラでやれるのはせいぜい5分くらい。やっぱりマキさんは凄い!」 彼は、これまでに様々な歌手を“お手本”にして歌を磨いてきたという。 エラ・フィッツジェラルド、ハリー・ベラフォンテ、ビートルズのジョンとポール、ミック・ジャガー、ボブ・マーリー、そしてレイ・チャールズ。 「色んな歌手が僕の歌の“先生”だった。だけど、レイ・チャールズだけは真似ようとは思わなかった。僕なんかにとても真似ができるとは思わなかったからだ。ビートルズは歌の上手さもさることながら、一曲の中の歌の構成が抜群だった。ストーンズはレコードがどれもライブっぽく聴こえた。一度だけ東京ドームで観たけど、やっぱり凄い..
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追悼・萩原健一~ショーケンが歌った「神様お願い」から始まったテンプターズの快進撃

ビートルズの来日公演に影響を受けたグループサウンズのブームの中に、ロカビリー時代の反社会的で危険な香りを持ち込んだのは、萩原健一(ショーケン)という稀有な表現者が持っている本質によるものなのだろう。 テンプターズの「神様お願い」が発表された1968年3月、18歳のショーケンの歌声やその立ち居振る舞いからは、ロックンロールの初期衝動とも重なる不良っぽさがブラウン管を通してでも伝わってきた。 それはちょうど10年前、熱狂的なムーブメントとなったロカビリーブームのなかで、なんとも言えない不良っぽいカッコよさを漂わせていた、山下敬二郎に通じるものがあった。 ショーケンと呼ばれる前、小学生だった萩原浩三は年が離れた兄や姉とともに育ったが、いつも向かいの酒屋さんの家に遊びに行っていたという。 目的は姉の同級生の娘さんが持っていたレコードで、「監獄ロック」や「ハートブレイク・ホテル」といったエルヴィス・プレスリーの歌を聞かせてもらうことだった。 その2曲が音楽に関するもっとも古い記憶だというのだから、7、8歳のころには早くもロックンロールに出会っていたのだ。 高校生だったかまやつひろしはエルヴィスが登場したときに、「すごいのが出てきたなぁ」と感心したと語っている。 「エルヴィス・プレスリーの登場がショッキングな出来事だったことはたしかだ。 彼はロックを若者の音楽にした革命児で、怒れる若者の代弁者のような反モラル的な匂いを発散していた」 1958年にロカビリーブームが巻き起こると、夢中になっていた姉たちと一緒に浩三も、地元の埼玉会館で開かれたコンサートに足を運んだ。 有楽町の日劇ウェスタンカーニバルにも連れて行ってもらって、姉に肩車されてステージの山下敬二郎に歓声をあげていた。 家にあるほうきをギター代わりにして山下敬二郎のアクションを真似をすると、兄や姉にウケるので嬉しかったという。 1965年、中学3年生のときに地元の埼玉でエレキバンドのテンプターズをバックに飛び入りし、ゲスト・ヴォーカルとしてビートルズの「マネー」とアニマルズの「悲しき願い」をうたった浩三は、ギタリストの松崎由治から「一緒にやんない?」と誘われた。 その後、自分で芸名を萩原健一(ショーケン)と決めてテンプターズに参加し、翌年から渋谷や赤坂、六本木でパーティーやジャズ喫茶のステージに立つようになった。 ..
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オー・シャンゼリゼ〜ロンドンで誕生したメロディーが辿った運命、そもそもフレンチポップでもシャンソンでもなかった!?

「Les Champs-Élysées 」/フランス語訳:ピエール・ドラノエ 僕は通りを散歩した 知らない人に心を開き 「こんにちは」と言いたかったんだ 誰にでもね だからたまたま君にもあいさつしたってわけさ 君と適当な話題でおしゃべりしたね 僕達が知り合うにはそれで充分だったんだ 誰もが一度は耳にしたことがあるだろう、このポップなメロディー。 「オー・シャンゼリゼ(原題:Les Champs-Élysées)」は、パリのシャンゼリゼ通りをモチーフとした歌曲として広く知られている。 1969年にニューヨーク生まれ人気歌手ジョー・ダッサンが大ヒットさせて世の中に定着した。 日本では、1971年に“歌うフランス人形”として売り出されたモロッコ生まれのフランス人歌手ダニエル・ビダルが唄ったバージョンが大ヒットを記録する。 この歌の日本語訳では安井かずみのものが有名だが、当時シャンソン歌手として人気絶頂だった越路吹雪が歌った岩谷時子の訳詞もまた秀逸である。 この歌の誕生のきっかけを紐解いてゆくと…なんと!?そもそも歌詞の舞台はパリでもなければ、フランスで産まれた曲でもないというのだ。 一体この歌はどんな風にして誕生し、どんな運命を辿ってきたのだろう? ──それは1968年の出来事だった。 イギリスのロンドンにJason Crest(ジェイソン・クレスト)というバンドがいた。 サイケデリック路線で売り出そうとしてはいたものの…今ひとつ方向性を見出せないまま燻っていた。 当時、そんな“鳴かず飛ばず”のバンドのプロデューサーを担当していたのが、フリッツ・フライヤーという男だった。 彼は後にモーター・ヘッドなどのプロデューサーとして名を馳せた人物でもある。 ある日、フリッツはジェイソン・クレストの作曲能力に限界を感じ、かつて自分が在籍していたバンドThe Four Pennies(ザ・フォー・ペニーズ)のメンバーだったマイク・ウィルシュと、ミュージシャン仲間のマイク・ディーガンの二人に楽曲を発注した。 そこで出来上がってきた「Waterloo Road」という楽曲が、ジェイソン・クレストの4thシングルとして発表された。 「Waterloo Road」/作詞作曲:マイク・ウィルシュ&マイク・ディーガン 今日通りを歩いていたら 女の子を見かけたんだ どこに行くのか訪ねたら 「一..
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お下がりだったデビュー曲のショックを、長い年月を経て自分のロックとして完成させた西城秀樹

2015年4月13日、この日に還暦を迎えた西城秀樹は、それを記念したアルバム『心響 -KODOU-』をリリースした。 それまでに2度の脳梗塞を乗り越えて復活した西城は、過去のヒット作のセルフカバーに加えて、新曲「蜃気楼」にもトライしている。 この作品は結果的に最後のアルバムになってしまったが、どの曲からもポジティブなチャレンジ精神が感じられて、実に力強い内容に仕上がっていた。 そして『心響 -KODOU-』は意外なことに、1972年3月25日に発売されたデビュー曲の「恋する季節」から始まっている。 今剛のアコースティック・ギターを主体として、山木秀夫のドラムとだけで構築したアレンジが冴え渡って、アルバムの中ではもっともアグレッシブな出来映えであった。 まだ少年だった木本龍雄が、歌手として成功することを夢見て、広島から上京したのは1971年の秋、高校1年のときだった。 広島出身でロカビリー歌手だった藤本好一にスカウトされた木本少年は、父親の強い反対を振り切るようにして、夜逃げ同然の形で上京してきた。 そこからはヴォイストレーナーの先駆者、大本恭敬に師事して厳しい歌のレッスンを受ける一方で、縄跳びなどの運動による体力づくりにも励んだ。 そうした日課が終わったら、3畳にも満たない狭い部屋で寝るだけの日々が続いた。 そんな木本少年のもとに、念願のデビュー曲が届く。 曲名は「恋する季節」。作詞が麻生たかしで編曲は高田弘、そして作曲を手がけたのが筒美京平だった。 1968年にいしだあゆみの「ブルーライト・ヨコハマ」が大ヒットしたのを機に、筒美京平は歌謡曲の第一線で活躍する、もっとも勢いのあるヒットメーカーになっていた。 とくに1971年に尾崎紀世彦が歌って大ヒットした「また逢う日まで」は、木本少年がドラマーから歌手になるきっかけになった作品である。 ロックの世界でドラマーとして成功することを夢見て、中学生の頃からバンドの一員としてドラムを練習していた木本少年は、テレビから流れてきた「また逢う日まで」を聴いて、それまでの歌謡曲のイメージが一変したという。 そこでドラムからボーカルへと、大きく転向したのである。 それだけにおなじ筒美京平の楽曲でデビューすることがわかったときは、喜びもひとしおだったであろう。 うれしくて楽譜を神棚にささげ、それこそ一日中歌っていた。 部屋の中より響..
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あのサントラ盤はどれだけ売れているのか〜世界で4500万枚を売った女性歌手は?

今回は「映画のサウンドトラック盤」に絞り込んだセールスランキングをお届け。 サントラは複数のアーティストが参加するVarious Artistsタイプと、単独かメインのアーティストが立つものに大きく分けられる。さらに前者は映画のために新たに録音されたもの、古いヒット曲を集めたもの、両者をミックスしたものなどがある。後者はそのアーティストが映画に主演しているケースもある。音楽を聴きながら映画のワンシーンが思い浮かぶのも、サントラの楽しみ方の一つだ。 *セールス枚数はRIAA(全米レコード協会)などのデータ(2021年3月現在)を参考にした全米編。()内の数字はビルボード最高位とリリース年度。なお、2枚組は1セットではなく2枚分としてカウントされている。今回はディズニーアニメやTV映画も含んだ。 まずは300〜700万枚を売ったのは? 【300万枚】  ○『ウエスト・サイド物語』(1位/1961) ○『アメリカン・グラフィティ』(10位/1973) *2枚組 ○『アーバン・カウボーイ』(3位/1980) *2枚組 ○ジョン・キャファティ&ザ・ビーヴァー・ブラウン・バンド『エディ&ザ・クルーザーズ』(9位/1983) ○ベット・ミドラー『フォーエバー・フレンズ』(2位/1988) ○『プリティ・ウーマン』(4位/1990) ○『美女と野獣』(19位/1991) ○『ブーメラン』(4位/1992) ○『アラジン』(6位/1992) ○『パルプ・フィクション』(21位/1994) ○『クロウ/飛翔伝説』(1位/1994) ○『デンジャラス・マインド/卒業の日まで』(1位/1995) ○『ポカホンタス』(1位/1995) ○ホイットニー・ヒューストン『天使の贈り物』(3位/1996) ○『メン・イン・ブラック』(1位/1997) ○『ハイスクール・ミュージカル 2』 (1位/2007) *TV映画 日本では劇場未公開だった『エディ&ザ・クルーザーズ』 【400万枚】 ○バーブラ・ストライサンド&クリス・クリストファーソン『スター誕生』(1位/1976) ○『特捜刑事マイアミ・バイス』(1位/1984) *TVドラマ ○『モア・ダーティ・ダンシング』(3位/1987) ○『カクテル』(2位/1988) ○『めぐり逢えたら』(1位/1993) ○『ロミオ+ジュリエット』(2位/..
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ハイ・フィデリティ〜音楽を聴くことの素晴らしさや興奮をもう一度取り戻したい人たちへ

音楽を聴くこととは、一体何なのだろう? 「毎日の生活のテンションを上げたい」「楽しみが欲しい」「勇気や力をもらいたい」「救われた気持ちになる」「疲れが癒される」「大切な人と共感したい」「みんなで一緒に歌いたい」「あの頃の自分が蘇る」「仕事や企画のアイデアになる」……それぞれの想いが音楽を必要としている。 特に15歳〜25歳くらいまでは、音楽や映画や小説や漫画などの文化に対する欲求は高く、その時代の「若者」として世の中の流行や情報はごく自然に吸収消化できたはずだ。ところが社会に出たり、結婚して家庭を持ったりすると、仕事に追われる日々や世の中のしがらみなどで、自分の時間が学生時代や独身時代よりも減ってしまい、経済的な理由からも趣味に使う金額が限られたり、仕事上の付き合いで他の趣味への対応などが起こってしまう。そして気づいた時にはもう「若者」ではなくなっている。   結果、あれほどのめり込んだはずの音楽体験にいつの間にか疎くなり、アンテナを張っていないので最新の音楽シーンの動向も分かるはずがなく、そのまま音楽に対する興味さえも薄れ、ただTVやCMやネット動画から流れるようなもの=最新の音楽と勘違いしてフォローするのが精一杯(時々、昔好きだった当時の洋楽を聴く程度)。今の若者の前では気まぐれに「もう年だから」などと苦笑する。 さらにテクノロジーや販売チャネルの変化が究極に到達した現在、ダウンロード/ストリーミングサービスやネット通販の普及で、あれほど足繁く通っていたCD/レコードショップにもすっかり出向かなくなってしまった。そして、街にはもともと共通文化としてのロックや洋楽に余り思い入れがない若者が闊歩している。このままではいずれ誰もロック/洋楽を聴かなくなる(=売れなくなる)し、アーティスト側も市場としての日本を軽視してツアーにも組み込まれなくなっていく。 TAP the POPはこの危機的状況を救うため、大人たちとその子供たちにロックや洋楽の魅力や興奮をもう一度きちんと伝えていくためのプロジェクトとして始まった。ガンダムで育った世代が今や父親となり、ガンダムで遊ぶ子供たちから「パパ、かっこいい」と言われるのと同様、今やロックや洋楽も「オヤジ、すげえな」と言われるための、その一つの手段なのかもしれない。 ニック・ホーンビィの小説を原作とした映画『ハイ・フィデリティ』(Hi..
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駅〜今はなき東急東横線旧渋谷駅が舞台となった竹内まりやの名曲

見覚えのある レインコート 黄昏の駅で 胸が震えた はやい足どり まぎれもなく 昔愛してた あの人なのね この楽曲は1986年に竹内まりやが中森明菜のアルバム『CRIMSON』への提供曲として書き下ろしたもの。 翌1987年に自身の16枚目のシングルとしてリリースし、以降、彼女の代表曲として長きに渡ってファンに愛され続けている。 歌詞には、駅で繰り広げられる男女の切ない“すれ違いの情景”が見事に描かれている。 なんとも言えない余韻を残しながら幕を降ろすその物語には、二通りの解釈があるという。 今になってあなたの気持ち 初めてわかるの痛いほど 私だけ愛してたことも… 彼が“私だけを痛いほど愛してくれていた”と気づく。 彼のことを“私だけが痛いほど愛していた”と気づく。 作者の竹内がこの歌詞の込めた思いは前者の方だという。 しかし、中森は後者の解釈で歌唱しているのだという。 私だけ愛してたことも… 実に日本語の面白さを感じる一行である。 もしかすると聴き手の心理状況で、聴こえ方が違ってくるのかもしれない。 後に竹内自身は「楽曲提供の依頼がなければ自分のために書く事はなかったタイプの曲ですね」と語っている。 ラッシュの人波にのまれて消えていく後ろ姿が  やけに哀しく心に残る 改札口を出る頃には 雨もやみかけたこの街に ありふれた夜がやって来る ララララ ラララララ ところで、この歌に出てくる“駅”が実在したことをご存知だろうか? これまでも諸説あったのだが、数年前に作者の夫・山下達郎のラジオ番組によって明らかにされたのだ。 2013年3月17日、山下がパーソナリティを務めるFMラジオ番組に一件のリクエストが届いた。 「あの駅が移設されて寂しいから…かけて下さい」 それは、妻・竹内まりや本人からのリクエストだった。 山下はその日の放送の最後にこの「駅」を流した。 妻が27年前に書いた楽曲の舞台となった場所(駅)がなくなってしまい、寂しがる妻への彼なりのなぐさめだったのかもしれない。 その放送のつい二日前(3月15日)に東急東横線渋谷駅の地上2階にあったホームの使用が終了となり、翌日から地下にもぐることとなった。 85年間使用されたその駅を惜しみ、たくさんの人が渋谷駅を訪れたという。 東京で暮したことのある者、東京を訪れたことのある人にとっては、それぞれに思い出..
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月を追いかけて〜ショーン・ペンとニコラス・ケイジの「原風景」

アメリカには「スモールタウン」と呼ばれる町が数多くある。人口は1万人にも満たず、町のサイズはメイン・ストリートを中心に縦横にわずか数ブロックほど。そこに住んでいる人以外は誰も知らないような、ほんの小さな町。 そんな「スモールタウン」を舞台にした映画といえば、真っ先に『ラスト・ショー』(1971)が思い浮ぶ。2012年に惜しくも亡くなったトラベル作家・駒沢敏器氏は、アメリカを横断しながらスモールタウンだけに立ち寄って短編集のような魅力を放つ物語『語るに足る、ささやかな人生』を描いた。彼は旅の途中、ウィスコンシン州の小さな町で出会った中学生の女の子からこんな声を聞いた。 スモールタウンは、私みたいな作家志望の中学3年生には、最適な場所かもしれません。そもそも都会における情報というのはすべてが断片で、全体としての像を結ばないでしょう? でもこのような小さな町では、ひとりひとりの人生の全体というものが見えるんです。この町の人が喋る言葉には、その人ならではの人生や、静かだけれど確かにその人以外ではありえないような重みがあるんです。 今回『月を追いかけて』(Racing with the Moon/1984)を観て、この少女の言葉が脳裏をよぎった。そして何よりも映画の始まりから終わりまで、何とも言えない心地よさがあった。どうしてだろう? アーバンサスペンスやSFアクションを見慣れてしまった脳には、強くそう感じたのだ。 それは「風景」への憧憬だと思う。家、学校、病院、墓地、図書館、映画館、廃屋。ダイナー、ビリヤード場、ボーリング場、ローラースケート場。森、湖、海、空。ピアノの音、犬の鳴き声、機関車や車やバスの音……それらが「人物」や「ストーリー」と絡み合い、すべてが調和のとれた世界の中で呼吸していた。 日本では、お盆休みや年末年始やゴールデンウィークといった大型連休を使って、故郷へ帰省する人は多い。そこでかつてあった「風景」が失われていく感覚に心を痛めたことはないだろうか。しかし、都市で育った子供世代はそんなことは何も知らない。都市部の人口だけが増え続ける中、そのうち帰省行為すら珍しくなってくるだろう。 常にどこかからタワーマンション工事の騒音が聞こえる“現在新光景”が構築される中、デジタル・ネイティヴの子供たちはゲームとスマホをやりすぎてしまったせいで、もはや何がリアルで否..
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トム・ウェイツの名曲、サンディエゴ・セレナーデ〜その美しいメロディと珠玉の詩

歌のタイトルなどでよく耳にする“セレナーデ”とは如何なるものなのか、皆さんはご存知でしょうか? セレナーデ──それは一般的に、女性がいる部屋の窓辺に向かって男性が夕べ(夜)に歌う“愛の歌”の意味を持つという。 元々はドイツ語に語源があるという説が有力と云われている。 St[a]ndchen読みは「シュテントヒェン」。※[a] は、上に点が二つが来る [¨],ア・ウムラウト これは英語のStandと同義語らしい。 Stand には「立っている状態」とか「売店」などの意味があるので、転じて「小さな売店」となり、「立っている状態」から「ちょっと立っている状態」、すなわち「立ち話」とか、立って歌を唄う「セレナーデ」の意味になったと云われている。 ドイツではSerenade と書いて「ゼレナーデ」と読み、最初が「セ」でなく「ゼ」となる。 英語だとserenade(セリネイド)、フランス語だと s[e]r[e]nade(セレナード)で「セレナーデ」とは読まない。※[e] はeの上に鋭アクセント[´]が付いた文字 音楽用語では「小夜曲」という訳語を当てるのだが、曲のタイプ・種類のことともう一つ、建物の窓辺にいる女性に向かって男性が恋の歌を唄いかけたり演奏することを意味するというのだ。 さらにルーツを辿ると、元々はイタリア語の serenata(セレナータ)から来た言葉で、発祥はイタリアなのだと云う。 serenata は、serenare(セレナーレ)という動詞の過去分詞派生形容詞の女性形の名詞化で“静めた・落ち着かせた”などの意味を持つ。 恋の歌や曲を演奏して“静めた”とは少し変だが…夜の静けさと関係があるのかも知れない。 高鳴る胸を抑えきれずに唄う情熱的なラブソングとは違って…セレナーデには夜の静けさがよく似合う“切なさ”や“哀しみ”が込められているのだろう。 ♪「San Diego Serenade」/トム・ウェイツ この曲は1974年にトム・ウェイツが発表した2ndアルバム『The Heart of Saturday Night(土曜日の夜)』に収録されたもの。 彼がまだ25歳の時の作品である。 アルバムはビルボードのアルバムチャートで最高201位とそんなに売れず、この曲自体シングルカットされたこともないのだが、ファンの間では“隠れた名曲”として長く愛され続けている。 ..
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ビリー・ホリデイ27歳〜歌手としての成功、結婚、夫の浮気、そして麻薬に溺れて行く日々…

伝説のジャズシンガーとして名高いビリー・ホリデイ。 44年間の生涯の中で、約25年も歌い続けた彼女。 その音楽人生はけっして順風満帆なものではなかった。 キャリア初期には驚くほどハリがあった声も、多量のアルコール・麻薬摂取により、晩年は別人のように枯れてしまい…声量も失われていった。 彼女が麻薬に手を染め始めたのは二十代だったという。 ──1941年、当時26歳だった彼女は1930年代にハンガリー語から英訳された「Gloomy Sunday (暗い日曜日)」を歌った。 それは、自身最大のヒットとなった「Strange Fruit (奇妙な果実)」(1939年)に続く好セールスを記録した。 こうして彼女は成功への階段を着実に昇り詰めてゆく。 そんな中、トロンボーン奏者であり麻薬の密売人でもあったジミー・モンローと関係を深め、母と住む家を出て早々に結婚することとなる。 10歳の時に強姦され、相手が白人だったために(彼女が被害者なのに)逆に売春容疑で逮捕されるという理不尽な経験を強いられた過去を持つ彼女にとって、ジミーとの出会いは特別な意味を持つものだった。 「母はジミーとの結婚を“きっと後悔するに違いない”と私に忠告したわ。」 それは彼女が27歳の頃に経験した苦い思い出だった。 ある晩、ジミーがシャツに口紅をつけて帰宅した。 彼はビリーに気づかれたことを悟ると、言い訳の言葉を次々と並べ出したという。 「他の女と何をしてきたとしても、私に嘘をつく彼の態度がどうしても堪えられなかったの。彼の言い訳をさえぎって私はきっぱりと言い放ったわ。風呂にお入んなさい!Don’t explain!(言い訳しないで)」 これで一切は終わらせたはずだった。 しかし、彼女にはその夜のことがどうしても忘れられなかった。 自分が口にした“Don’t explain!(言い訳しないで)”という言葉が、頭の中で渦巻いていたのだ。 彼女はどうにかして、その苦しさから抜け出そうとした。 その不愉快な経験は“悲しい歌”となって後に自身が唄うこととなった。 言い訳はいいの ただ「このまま一緒だよ」と言って 戻って来てくれたことが嬉しいの だから今は黙って…言い訳はやめて 言い訳で何が得られると言うの? その口紅の話なんて聞きたくない だから今は黙って…言い訳はやめて 「Don’t Explain」は、ビ..
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あのロックバンドやポップスターはいくら稼ぐ!?〜メガツアー歴代興行収入ランキング

ゼロ年代のネットカルチャー浸透やiTunesによる単曲ダウンロード。10年代に入るとスマホやSNSアプリの台頭、新たに定額制のストリーミングサービスも登場。あれだけ飛ぶようにCDが売れまくった90年代とは打って変わり、ベストセラーの量産がほぼ不可能(アデルは例外)となった今の時代。 印税収入が減少するミュージシャンにとって、「ツアーで稼ぐ」(ついでにグッズで稼ぐ)ことはもはや当たり前。70年代のツアーはレコードを売るための宣伝活動だったが、今ではツアーを成功させるための新作リリースのような逆転現象を起こしている。80年代のようにMTVがツアーの役割を果たしてくれた時代も懐かしい。 スター級のロックバンドやポップスターにとって、長期間に及ぶスタジアムやアリーナのツアーを実施するのは、人気を維持するために常に求められる華やかなイベントのようなものだ。そのツアー自体が巨大化したのは80年代に入ってから。ローリング・ストーンズの1981年の「American Tour」が最初だと言われている。 「生き残るための唯一の手段がツアーだ。レコードの印税でもろもろのコストをカバーするなんてできやしない。メガツアーは回し続けなきゃいけない機械のようなもんさ……俺たちがやってるのは小さなロンドンのクラブに出てた1963年とたいして変わってないけどな」(キース・リチャーズ) 「自分たちが客席から“蟻”のようにしか見えないことを意識するようになってね。観客を盛り上げるために、巨大なスクリーンにミックの姿を映したりしなければならなくなった。ショーの規模がこれだけ大きくなると、花火やら照明やら舞台やら、ちょっした“仕掛け”が必要になってくる」(チャーリー・ワッツ) 今回はメガツアーによって人気バンドやアーティストがどれだけ稼ぐのかをランキング化してみることにした。売り上げ、期間、公演数、動員数・・・そのスケールの大きさには驚くばかりだ。 ──ここまでは2019年までの話。2020年のコロナの猛威により、そのツアーでさえ開催困難となっている。 【ツアー収益歴代ランキング TOP 10】 ❶エド・シーラン「÷ Tour」 7億7620万ドル 2017-2019年/255公演/880万人動員 ❷U2「U2 360°Tour」 7億3642万ドル 2009–11年/110公演/727万人動員 ..
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ニュー・ジャック・シティ〜蔓延するドラッグ問題に切り込んだブラック・ムービーの傑作

失業者の数が急増……先月は20万人が職を失いました……生活困窮者の数が200万人に……現在、貧富の差が最悪の状態……格差が拡大……高所得者の収入は3%増えましたが、低所得者の収入は減りました……7歳の少年が射殺されました。麻薬絡みの事件です……国家財政の赤字が2210億ドルに…… 映画『ニュー・ジャック・シティ』(New Jack City/1991)はこんなアナウンスで始まる。アメリカでは25年も前のこととは言え(より悪化しているが)、日本ではまるで現在進行形の状況のようだ。 1991年春、全米の約860館で封切られたこの映画は大ヒット。カリフォルニア州オークランドの麻薬王フェリックス・ミッチェルの実話をベースとしているが、舞台をニューヨークに変更。悪の華クラックに手を染めた男の歪んだカリスマ人生、その身勝手な言動に翻弄される取り巻きの仲間、彼らを追う刑事たちの執念、敵対するイタリアン・マフィア、ドラッグ取引の様子や麻薬患者の悲惨な姿などを描いて大きな話題となった。 20年代の禁酒法時代と現代は呼応していると思う。20年代のギャングたちを描く時に酒がついてまわるように、90年代のギャングを語るにはドラッグは必要不可欠なものだ。(マリオ・ヴァン・ピーブルズ) 主演は、ストリートギャングから麻薬王へと君臨するニーノ役にウェズリー・スナイプス。彼を執拗に追う刑事スコッティー役にアイス-T。アイスは当時、ギャングスタ・ラッパーの草分けとして人気絶頂で、麻薬王以上のチンピラぶりに妙なリアリティを醸し出した。監督はこれがデビュー作となるマリオ・ヴァン・ピーブルズ。パブリック・エナミーのフレイヴァー・フレイヴや歌手のキース・スウェットらがカメオ出演した。 ニュー・ジャック・シティとは、黒人のスラングでニューヨーク・シティのこと。“ニュー・ジャック”は、脚本を担当したバリー・マイケル・クーパーが誌で生み出した新語で、都市のストリートライフを支配する新しい雰囲気/風潮を表現する言葉として使ったのが最初。 ゲットーから脱け出すためには何か秀でたものがなければダメだ。マイク・タイソンのようにボクシングが強いとか、ホイットニー・ヒューストンのように歌がうまいとか、もし何もない奴は軍隊に入るしかない。そんな状況の中で子供たちはドラッグに手を出すしか道がなくなってしまう。今のアメリカの..
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あのライヴ盤はどれだけ売れているのか〜アンプラグドで2600万枚を売ったギタリストは?

今回は「ライヴ盤」に絞り込んだセールスランキングをお届け。 CDが売れなくなった現在、アーティストたちのライヴに注目が集まっている。そこには一夜の夢があり、興奮があり、感動がある。ライヴアルバムに耳を傾けることは、部屋や車の中でそれをいつでも共有し、アーティストの熱い演奏や歌と一体化できる特別な時間でもある。 *セールス枚数はRIAA(全米レコード協会)などのデータ(2019年3月現在)を参考にした全米編。()内の数字はリリース年度とビルボード最高位。 【300万枚】  ○ジョニー・キャッシュ『AT FOLSOM PRISON』(1968/13位) ○ジョニー・キャッシュ『AT SAN QUENTIN』(1969/1位) ○エルヴィス・プレスリー『AS RECORDED AT MADISON SQUARE GARDEN』(1972/11位) ○アース・ウィンド・アンド・ファイアー『GRATITUDE』(1975/1位) ○レイナード・スキナード『ONE MORE FROM THE ROAD』(1976/9位) ○エルヴィス・プレスリー『ELVIS IN CONCERT』(1977/5位) ○バリー・マニロウ『BARRY MANILOW LIVE』(1977/1位) ○テッド・ニュージェント『DOUBLE LIVE GONZO』(1978/13位) ○チープ・トリック『CHEAP TRICK AT BUDOKAN』(1978/3位) ○ビリー・ジョエル『SONGS IN THE ATTIC』(1981/8位) ○U2『UNDER A BLOOD RED SKY』(1983/28位) ○ピンク・フロイド『DELICATE SOUND OF THUNDER』(1988/11位) ○3大テノール『IN CONCERT』(1990/35位) ○AC/DC『LIVE』(1992/15位) ○ロッド・スチュワート『UNPLUGGED…AND SEATED』(1993/2位) ○10,000マニアックス『MTV UNPLUGGED』(1993/13位) ○バーブラ・ストライサンド『THE CONCERT/LIVE AT MADISON SQUARE GARDEN』(1994/10位) ○デイヴ・マシューズ&ティム・レイノルズ『LIVE AT LUTHER COLLEGE』(1999..
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ワイルド・スタイル〜HIP HOPの原風景が描かれた伝説のマスターピース

ある音楽ジャンルの歴史を人間の年齢に例えた場合、今のロックは、すでに60歳を過ぎて間もなく年金生活の仲間入りといったところだろうか。1950年代半ばに産声を上げたロックンロールは、米国の黒人にとっては数あるダンススタイルの一つにしか過ぎなかったが、英米の白人にとっては大きな意味を持っていたのはその後の流れを見ても明らかだ。 大雑把な言い方をするなら、ロックは10代に入って急激に成長し始め、ティーンエイジャーとなって長髪化した60年代後半〜70年代前半に黄金期を迎え、20代でビジネスを覚えたり(英国では破壊運動が起きたが)、30代でテクノロジーやMTVを取り込む遊び心も身につけた。一転して40代はオルタナティヴでストイックに原点回帰。50代以降は落ち着いた大人の道を歩んでいる。 ロックが若者を象徴する時代はとっくに終わったし、この先何か大きなムーヴメントが起こる確率は低い(信じたいけれど)。いずれはジャズやブルーズやソウルのように、細く長く愛される音楽スタイルになっていく可能性が高い。 その点、ヒップホップはまだ成長を止めていない。試行錯誤しながら現在新光景を塗り替えている。年齢にすると40歳前後。脂の乗り切った時期だ。ヒットチャートを見てもヒップホップが聴こえてこない週はないし、むしろゼロ年代以降は完全に主流をなしている。「ヒップホップは音楽ではなくゲーム」という感覚を持ったデジタル・ネイティヴ世代には、なくてはならない“遊び”となった。 そんなヒップホップもロック同様、これまで様々な人生を歩んできた。まずはロックファンにもお馴染みのランDMC、LLクールJ、ビースティ・ボーイズらによるデム・ジャム勢の隆盛。パブリック・エナミーやKRS・ワンのように政治/社会色を打ち出した者。デ・ラ・ソウルらによるネイティヴ・タン/ニュースクールの振動。『Yo! MTV Raps』の放映開始。MCハマーのように“売り”に出る者。 そしてロサンゼルスからはN.W.A.を筆頭とするギャングスタ・ラップの衝撃。ドクター・ドレーのGファンク旋風。デス・ロウとバッドボーイの台頭。東西抗争に巻き込まれた2パックとノートリアスB.I.G.の死。ソウルとの融合。女性ラッパーの登場。サウスへの移動。ジェイ・Zやエミネムのデビュー……すべてヒップホップがまだ10〜20代だった頃の出来事だ。 『ワイルド..
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