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First Step〜飛躍の一歩にはならなかったフェイセズのデビューアルバム

3月21日は英国ロック史に残るスーパーバンドFaces(フェイセズ)のデビューアルバム『ファースト・ステップ』がリリースされた日である。 この日にちなんで、彼らの結成の経緯(最初の一歩)をご紹介します。 ──1969年、スモール・フェイセスのヴォーカリストだったスティーヴ・マリオットは、ピーター・フランプトンと共にハンブル・パイを結成するためにバンドを脱退する。 当時、バンドの存続に一番こだわったキーボーディストのイアン・マクレガンは、新しいスタイルとイメージを取り入れて「新たなバンドとして活動を続けていきたい」と、他のメンバー(ロニー・レーン、ケニー・ジョーンズ)に提案した。 そして3人で話し合った結果、名前を“フェイセズ”にして新たなステップを誓ったという。 彼らは、たとえ名前くらい変えたところで、3人での再スタートが容易ではないこともわかっていた。 ヴォーカリストが抜けてしまったため、それまでスモール・フェイセスに大きな期待を寄せていた大手レコード会社は彼らの将来に興味を示さなくなったという。 それでも彼らは地道に練習を重ね、演奏にも曲作りにも熱を入れていった。 ちょうどその頃、ジェフ・ベックグループと決別したロン・ウッドは3人のフェイセズと友好関係を結び、練習場でセッションをしながら次第にバンドに参加するようになっていた。 ロンと同じタイミングでジェフ・ベックグループを離れたロッド・スチュワートも、ロンとも強い絆で結ばれていたので、フェイセズの練習場に顔を見せるようになった。 ロッドは当時、練習場となっていた地下室へ通じる階段の最上段に座って、彼らの演奏をよく聴いていたという。 ──その年の初冬、ロッド・スチュワートとドラマーのケニー・ジョーンズは、ハイゲート(ロンドン中心部カムデン・ロンドン特別区‎にある地区)にある『ザ・スパニヤード』という居酒屋で軽く一杯ひっかけていた。 ケニーはその夜もドラムの練習に出かけるつもりでいたのだが、酒を呑みながら突然ロッドにフェイセズへの加入を勧めはじめた。 実はロッドの方もバンドに勧誘されるのを待っていた気持ちがあった。 当時、ロッドは彼らの音も気に入っていたし、メンバーのことも心良く思っていた。 それに、そのバンドに加入したばかりのロン・ウッドと親友でもあったのだ。 ロッドが喜んでケニーの申し出を受け入れると、二人は車..
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3月21日の春分の日はいつからか、音楽ファンにはとって「大滝詠一の日」になった 

3月21日といえば日本人には「春分の日」なのだが、音楽ファンの間ではいつの頃からか「大滝詠一の日」になっている。 そもそもの発端は1981年3月21日に、アルバム『A LONG VACATION(ア・ロング・バケイション)』がリリースされたことだった。 NHK-FMで特別番組『今日は一日“大滝詠一”三昧』が、昼の12時15分から24時までオンエアされたのは2011年の3月21日だった。 特定のジャンルをテーマにした長時間特別番組のシリーズ『今日は一日三昧』では、それまでにも「ラテン」「アニソン」「モーツァルト」「民謡」「プログレ」「ゲーム音楽」といった具合に音楽が取り上げられてきた。 その番組では聴取者からのリクエストを受け付けて、全部で107曲もの大瀧詠一作品が紹介されたのである。 ただし自作を解説する予定だった大瀧詠一は、その10日前に起こった東日本大震災で出身地の岩手県が大きな被害を受けたことなどを配慮し、当日の出演を自粛した。 大瀧詠一は1976年に日本コロムビアと契約を結んだ際に、最新鋭の16チャンネル・マルチトラック・テープレコーダーを提供してもらうことを条件にした。 そのおかげで、それからの3年間は全部で12枚のアルバムを制作し、次々に発売するという苛酷なノルマに苦しんだ。 それでも地獄の責苦のようなハード・スケジュールをこなして、自宅そばに構えた「FUSSA45スタジオ」で大瀧詠一はアルバム制作に没頭した。 日本語のロックを考え続けた帰結として『ナイアガラ・カレンダー’78』を完成させて、レコード発売したのは1977年の12月のことだ。 ところが、このアルバムはセールス的にまったくの不発に終わった。 そのことで音楽活動の前途に暗雲がたちこめてしまう。 大瀧詠一は自著「All About Niagara」(2001年 白夜書房)で、その当時の心境をこう述べていた。 私本人としては、このアルバムが”最高傑作”である、と考えています。 出来上がりに関しては100%やり遂げたとは言い切れませんが、これ以上のデキが可能だったかに関しては自信がありません。 少なくても”アイデア”そのものはこれが”大瀧の極限(究極)”です。 (『ロング・バケ-ション』はこれと全く同じ”構造”を持っているのですが、それを理解してくれたのは山下達郎君を初めとする少数の人達だけで..
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日吉ミミが”ヨノナカバカナノヨ”と歌った回文による”変な歌”~「世迷い言」

日吉ミミの「世迷い言」は昔から伝わってきた「タケヤブヤケタ(竹藪焼けた)」や、「タイヤキヤイタ(たい焼き焼いた)」などの回文を使った歌謡曲で、テレビドラマの挿入歌として作られた。 1978年に作られた連続ドラマの『ムー一族』(TBS系)は、全編を通してナンセンスな笑いとシュールなギャグが出て来る作品だった。 たとえばトップ・アイドルだった郷ひろみ扮する主人公の”拓郎”が「たまには気のきいた寝言でも言ってみるか」と、こんなことを呟いたりする。 「シンブンシ、タケヤブヤケタ」 『ムー一族』の放送が始まると、「私も考えました」と視聴者からテレビ局にはがきが届くようになった。 番組のプロデューサーで演出家でもあった久世光彦は、上から読んでも下から読んでも同じという回文について、こう語っている。 「宇津井健氏は神経痛」とか、いろいろ回文をやりましたよ。そういう馬鹿馬鹿しいことを一生懸命考えるのが大好きだから。 視聴者からの投書で傑作だったのはヘアリキッドをテーマにしたもので、久世はすぐに採用して番組のなかでも紹介した。 ヘアリキッド、ケツにつけ、ドッキリ、アヘ! 久世から回文を織り込んだ歌詞を依頼されたのは、ピンク・レディーの「UFO」や「サウスポー」を手がけて、飛ぶ鳥を落とす勢いだった作詞家の阿久悠である。 決めの言葉は「世の中バカなのよ」と、久世からの指定があった。 詞を書く時、方向性とか狙いとかについては意見の交換はよくするが、具体的な詞の言葉について注文は受けない方である。しかし、相手が久世光彦では仕方がない。それに妙に面白そうなので引き受けたのである。引き受けた理由は「回文」だけじゃなく、TBS系テレビの人気ドラマ『ムー一族』の挿入歌であること、歌を日吉ミミが歌うこと、そして、これが最も大きい理由だが、作曲が中島みゆきであることと、魅力ある条件がたくさんあったのである。 阿久悠は3年前に久世から頼まれて、沢田研二主演のテレビドラマ『悪魔のようなあいつ』(TBS系)の挿入歌として、「時の過ぎゆくままに」を作って大ヒットを記録していた。 久世は劇中歌や挿入歌の演出に毎度工夫を凝らすことで有名で、そこから数多くのユニークなヒット曲を誕生させている。 初期の阿久悠の代表作となった堺正章の「街の灯り」、郷ひろみと樹木希林とのデュエット曲「おばけのロック」や「..
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久世光彦特集~日吉ミミが”ヨノナカバカナノヨ”と歌った回文歌謡曲「世迷い言」

「世迷い言」は昔から伝わってきた「竹藪焼けた(タケヤブヤケタ)」や、「タイ焼き焼いた(タイヤキヤイタ)」などの回文を使った歌謡曲で、テレビドラマの挿入歌として作られた。 1978年に作られた連続ドラマの『ムー一族』(TBS系)は、全編を通してナンセンスな笑いとシュールなギャグが出て来る作品だった。 たとえばトップアイドルだった郷ひろみ扮する主人公斧一人、拓郎が「たまには気のきいた寝言でも言ってみるか」と、こんなことを呟いたりする。 「シンブンシ、タケヤブヤケタ」 『ムー一族』の放送が始まると、「私も考えました」と視聴者からテレビ局にはがきが届くようになった。 久世はそのなかにあった「ヘアリキッド、ケツにつけ、ドッキリ、アヘ!」という投書に感動し、すぐ採用して番組のなかでも紹介している。 番組のプロデューサーで演出家でもあった久世光彦は、上から読んでも下から読んでも同じという回文について、こう語っている。 「宇津井健氏は神経痛」とか、いろいろ回文をやりましたよ。そういう馬鹿馬鹿しいことを一生懸命考えるのが大好きだから。 久世から回文を織り込んだ歌詞を依頼されたのは、ピンク・レディーの「UFO」や「サウスポー」、沢田研二「憎みきれないろくでなし」や「ダーリング」といったヒット曲を手がけて、飛ぶ鳥を落とす勢いだった作詞家の阿久悠である。 決めの言葉は「世の中バカなのよ」と、初めから指定されていた。 詞を書く時、方向性とか狙いとかについては意見の交換はよくするが、具体的な詞の言葉について注文は受けない方である。しかし、相手が久世光彦では仕方がない。それに妙に面白そうなので引き受けたのである。引き受けた理由は「回文」だけじゃなく、TBS系テレビの人気ドラマ『ムー一族』の挿入歌であること、歌を日吉ミミが歌うこと、そして、これが最も大きい理由だが、作曲が中島みゆきであることと、魅力ある条件がたくさんあったのである。 阿久悠は3年前に久世から頼まれて、沢田研二主演のテレビドラマ『悪魔のようなあいつ』(TBS系)の挿入歌として、「時の過ぎゆくままに」を作って大ヒットを記録した。 久世は劇中歌や挿入歌の演出に毎度工夫を凝らすことで有名で、そこから数多くのユニークなヒット曲を誕生させている。 初期の阿久悠の代表作となった堺正章の「街の灯り」、郷ひろみと樹木希林とのデュエット..
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オジー・オズボーンとランディ・ローズ〜運命のオーディション

1979年、オジー・オズボーンはブリティッシュ・ハードロックの伝説的バンド、ブラック・サバスに愛想を尽かす。ドラッグと酒浸り、リーダー格であるトニー・アイオミとの修復不能な確執。そういったことが積み重なってのクビ同然の脱退劇だった。 失意の中、オジーは自らの活動をスタートさせるため、バンドメンバーのオーディションを行う。スターバンドを離れてのソロ活動。期待感よりも新しい自分を受け入れてくれるかどうかの不安のほうが大きかった。先が見えずに途方に暮れていた。しかしある夜、運命的な出逢いが起こる。 小さな奴が入って来てね。男か女なのかも分からなかった。でもギタープレイを聴いた途端、もう声も出なかった。俺はすごく酔ってたけど、一気に冷めたよ ランディ・ローズだった。母親が経営する音楽教室で地元の子供たちにギターを教えながら、クワイエット・ライオットというLAのローカルバンドで活動していたランディは、このオーディションに乗り気ではなかったという。とても受かる自信がなかったのだ。しかし母親の勧めもあり、出向くこと自体が経験になるからと、無関心のままギターとアンプを持って出掛けた。そしてウォーミングアップのつもりで少し弾いていると、オジーはランディに近づいて言った。「君に決まりだ!」 こうしてランディはイギリスに渡り、オジーと曲作りに励むことになる。二人は一心同体のように通じ合っていたという。 説明なんかいらないんだ。何をするかが分かってるんだ。あの通じ方は驚異的だった。ランディは俺の人生の中で、初めて希望を与えてくれた奴だった 1980年にリリースされた最初のアルバム『Blizzard Of Ozz』も絶賛され、ツアーも大盛況。オジーの不安は、一転して成功へと変わった。リフ主体のサバス時代から、メロディ志向のソロ時代へ。その鍵を握ったのがランディの個性的なギターで、彼のクラシック音楽的な旋律を取り入れたプレイは、当時のロックシーンには余りにも衝撃的だった。 悪魔崇拝、酒のトラブル、鳩やコウモリを食いちぎった事件など、オジーには常に黒いイメージがつきまとっていたが、ランディは何もかも逆のような白く美しい天使のような存在であり、この二人の相反するコントラストこそが、最大の魅力でもあった。1981年には2枚目のアルバム『Diary Of A Madman』もリリース。すべてが..
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黒人の“ブルース”に呼応したアイルランド系移民の“ハイロンサム”

広大なアメリカ大陸の音楽を見渡す時、アイルランド系移民の存在を避けて通ることはできない。その果たした役割はあまりにも大きい。しかし、その文化的栄光の影には、想像を絶する苦難の歩みがあった。 1775年にアメリカで独立戦争が始まった頃、宗教的迫害によってアイルランドからの出国を余儀なくされた最初の移民が東部の僻地山岳帯アパラチアに入植した。「スコッツ・アイリッシュ」と呼ばれた彼らは異国の地でも独自の文化を守り、ウイスキーの密造や祖国の音楽やダンスを通じて、過酷な現実から生じる疲れた心と身体を癒すことになった。また、強い反英感情を持った彼らは独立戦争でも果敢に戦って、新しい国で自分たちの存在意義を見出していった。 もう一つ特筆すべきは、19世紀半ば頃から大量に流れてきた移民たち。1845年、アイルランドでは農業の要だったジャガイモの胴枯れ病が原因で未曾有の大飢饉が発生。死と疫病が国全体に広まり、10年間で死者100万人以上を出した。多くの人々は生計の手だてを失う中、イギリス政府は渡航費をわずか2ポンドに設定して、「土地がたっぷりとあって、地主も存在せず地代は無料、家族を十分に養って行ける」新大陸への移住を意図的に促した。それは自ら望んだ道というより、“祖国からの追放”だった。これにより800万を超えていたアイルランドの人口は、死者と移民の影響で19世紀末には400万人にまで落ち込んだ。 しかし、アイルランド系移民たちが抱いた約束の地での新たな野心は、もろくも崩れ去る。彼らの多くは農村共同体での生活しか知らなかったため、新大陸の産業社会に順応できるわけもなく、アパラチア山地で小屋を建てて自給自足の生活を送るか、すでに富を築き上げて既得権を守ろうとする旧移民のアングロサクソン系からの差別を受けながら、安い賃金と奴隷のような扱いの中で炭坑や鉄道の労働に従事するしかなかった。 1917年、アメリカは第一次世界大戦の戦勝国となって好況に沸くが、それは同時に貧富の格差が決定的になった瞬間でもあった。マンハッタンでは摩天楼が次々と背を伸ばしていた時代に、アイルランド系の農民も南部の黒人も、100年前と変わらない貧困生活を送っていた。 さらに1929年の大恐慌が彼らを襲う。1930年代になると、オクラホマのダストボウル(砂塵地帯)からアイルランド系の貧農たちが強制退去させられ、家族単位..
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さくらの歌〜日本人が大好きな“桜ソング”にまつわるエトセトラ

さくら(独唱)/森山直太朗 さくら さくら 今、咲き誇る 刹那に散りゆく運命(さだめ)と知って さらば友よ 旅立ちの刻(とき)  変わらないその想いを 今 今年もそろそろ桜の開花が発表される時期となりました。 いよいよ春本番ですね! 東京では3月末〜4月初旬にかけて見頃を迎えるところが多く、桜の名所はどこも花見客で賑わいを見せることだろう。 春の息吹を感じその到来が近づくにつれ、思わず口ずさんでしまう歌がある人も少なくないはず。 J-POPにおいて“桜ソング”というジャンルが定着したのはいつ頃からなのだろう? なぜこれほどまでに日本人の琴線に触れるのか? この季節になると、テレビやラジオ番組などさまざまなメディアを通して「桜」をテーマとした楽曲がフィーチャーされる。 昔から「桜」を歌った曲は多数あったはずだが、歌謡曲のジャンルとして“桜ソング”が広く世間に定着しはじめたのは、今から十数年前のことだという。 そのイメージを決定づけた歌が、2000年4月にリリースされた福山雅治の「桜坂」だった。 同作は、この年の年間シングル売上ランキング2位となる228万枚以上を売上げ(オリコン調べ)、以降、毎年のように桜にまつわる楽曲が発表されるようになった。 2000年代中盤にかけて、森山直太朗の「さくら(独唱)」(2003年3月発売)やケツメイシの「さくら」(2005年2月発売)、コブクロの「桜」(2005年11月発売)など、いまや王道となった上質な桜ソングが次々と誕生し、軒並み好セールスを記録。 “桜ソング”自体のブランド感もより高まり、その後も多くのアーティストが同様のテーマで楽曲を発表した。 例えば、いきものがかりが「SAKURA」(2006年3月発売)でメジャーデビューを鮮烈に飾ったり、AKB48が毎春“桜ソング”のリリースを恒例としている。 「桜」が日本人の心を掴んでやまないのは、なんといっても開花から散り際、昼間と夜、その一瞬一瞬を楽しませてくれる“刹那的な美しさ”があるからだろう。 この花が脚光を浴びはじめたのは…さかのぼること平安時代。 『古今和歌集』や『源氏物語』といった書物の中に度々登場したり、俳句などの季語としても馴染みが深かったりと、その美しさは時代を超えて人々を魅了し、眺める者の感性を刺激してきた。 親しみという点では、日本の紙幣や硬貨のデザイン..
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ライ・クーダーという風景〜スライドギターの旅愁

そのギター弾きは、ずっと風景の中に生きてきた。 デビュー以来、彼は一貫して商業主義に惑わされることのない不屈の音楽を録音し、人々の前で演奏してきた。「僕の人生は常に探求の連続だった」と言うように、葬られそうだった偉大な本物の音楽を追い求め、本やレコードでしか知ることのできなかった幻のミュージシャンを訪ねて直接学び取った。 美しい音楽、古い音楽、珍しい音楽を追い求める旅。それが自らの音楽に吸収されて表現できるようになった瞬間に、“ライ・クーダー・ミュージック”は完成する。そう、あの赤いグレッチや茶色のストラトキャスターを滑るスライドギターやフィンガーピッキングと共に聴こえてくる唯一無比の音楽。 音楽を旅する──この言葉がこれほど似合う男は他にいない。南部の田舎町や港町、国境沿い、太平洋の島、南米や沖縄まで、その旅は世界中を駆け巡ってきた。中でもハワイのギャビー・パヒヌイとバハマのジョセフ・スペンスには強く感銘を受けたという。素晴らしい音楽である以上に、彼らの老いても益々良くなっているという目の前の絶対的な事実に勇気づけられたのだ。 1947年生まれのライ・クーダーは13才でブルーズと出逢った。ロバート・ジョンソンのLPが初めて発売(発掘)された頃、デルタ・ブルーズとスライド奏法に取り憑かれた。15才でプロのミュージシャンとなると、スタジオでのセッション仕事の日々を過ごす。 そして1969年にはストーンズの『Let It Bleed』の録音に参加。共鳴して美しく響くライのオープンGチューニングに、キース・リチャーズが圧倒されて“盗んだ”のは有名な話だ。もしこの場がなかったら、ストーンズは史上最高のR&Rバンドにはならなかっただろう。 1970年に初のソロ作をリリース。1980年代前半までほぼ1年に1枚のペースで、音楽の旅の成果を録音し続ける。どのアルバムも土地の風や土埃、匂いが漂う味わい深い作品だった。戦前ブルーズ、ケイジャン、ゴスペル、テックスメックス、スラックキー・ギター、ビバップ、R&B……さすらいの旅はまだまだ続けられると思っていた。 しかし、現実は違った。ライのアルバムはすべて合わせても数十万枚しか売れていなかった。まったく金になっていなかったのだ。クレジットカードのキャンセル、電話とガスと水道も止められそうになったこともある。 僕の旅は様々なものを失ってい..
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中島みゆきの「糸」をスタンダードにしたのは、逢うべき歌とめぐり逢えて「仕合わせ」を感じた人たちだった

その歌は1992年に発売された中島みゆきの通算20作目にあたるアルバム、『EAST ASIA』にさりげなく収められていた。 発表からすでに24年、干支でいえばふた回りもの歳月が過ぎてから、名曲として広く知られるようになった「糸」は、中島みゆきファンのなかで良く知られていても、はじめから一般にまで届いていたわけではない。 人々の注目を集めたのはアルバム発売から6年が経過した1998年のことで、TBS系ドラマ『聖者の行進』で主題歌として使われたことがきっかけとなった。 2月4日に同ドラマで同じく主題歌となっていた「命の別名」とのカップリングで、「糸」もシングルCDとしてリカットされて、そこから静かに広まっていった。 大きな動きが出たのは2004年で、Mr.Childrenの桜井和寿が小林武史らと組んで作ったBank Bandのファースト・アルバム『沿志奏逢』に、カヴァーが収録されたことが発端だった。 そこからミスチル・ファンの間に浸透して、世代を超えていっそうの広がりを持つようになった。 Bank Bandの「糸」がミスチル・ファンに支持されたのは、人と人との出会いとめぐり逢いを縦の糸と横の糸に託した歌詞が、桜井和寿の表現してきた世界や生き方とも重なるものだったからだろう。 なぜ めぐり逢うのかを 私たちは なにも知らない いつ めぐり逢うのかを 私たちは いつも知らない どこにいたの 生きてきたの 遠い空の下 ふたつの物語 縦の糸はあなた 横の糸は私 織りなす布は いつか誰かを 暖めうるかもしれない シンガー・ソングライターが自身の曲以外をカヴァーする場合、楽曲やオリジナル・アーティストへのリスペクトが強いものになることが多い。 少年時代から中島みゆきに影響を受けた桜井和寿は、同じソングライターとして尊敬と感謝を込めて歌っているのが、聴いていると伝わってくる。 「糸」がいつの間に“神曲化”したのかについて、ヒットチャートの動きやカラオケ・ランキングを分析しているT2U音楽研究所の臼井孝は、2014年に次のように述べている。 92年発売の楽曲が、発売22年目に最も買われていて、最も歌われているというのは、本当に驚くべきことです。 そう言えば、81年にドラマ「3年B組金八先生」の暴力シーンでたった1度流れただけで急上昇した「世情」もその3年前の曲だし、「地上の星..
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純烈は不安感、恐怖心、無力感、使命感、正義感、すべて抱えて「希望」に向かって走ってきた

「3月11日はやはり東日本大震災が起きた日として自分の中に在ります」と語るのは、歌謡コーラス・グループ「純烈」を結成してリーダーとなり、プロデューサー役を務めている酒井一圭である。 彼が結成した純烈は、3年に及ぶ準備と助走の期間を経て、2010年6月にメジャー・デビューを果たしている。 しかし「仮面ライダー」や「スーパー戦隊」シリーズなどで、子どもたちのヒーローを演じた俳優を中心に結成された純烈は、活動を始めた時点で平均年齢が30代を超えていた。 大きなバックボーンもないなかで始めた音楽活動だったので、仕事は少ないし知名度もなかなか上がらず、先行きを考えると道は険しいものだった。 そんななかで2枚目のシングルを出す予定だったところへ、2011年3月11日に東日本大震災が発生して、予定がまったく立たなくなってしまった。 それによる自粛ムードとともに、彼らの行く手には暗雲が立ち込めていった。 純烈のメンバーたちはテレビやネット上で伝えられる震災の被害の凄まじさと、その爪痕を見ることで被災地の現状を想像しながら、一人ひとりが様々なことを考えていたという。 酒井はいちはやく公式ブログ上で、リーダーの立場から「希望」という言葉を口にしている。 あの瞬間、止まってくれ!止まれ!(もうダメか)と、次男を抱きしめながら、駅ビルの屋上で覚悟しました。 避雷針とアンテナの甲高い金属音、周囲の高層マンションと駅ビルは回るように揺れ、しばらく立ち上がることもできず、携帯を取り出しても、上手くタップできなかった。 あれから毎日奔走しております。 不安感、恐怖心、無力感、使命感、正義感、すべて抱えて「希望」に向かって走っております。 そして一週間ぶりに全員が集まって、地震のことから今後の活動をどうするのかという基本方針まで、あるいはシングルのリリース計画などについても、長い時間をかけて話し合った。 メンバーで最年長の小田井涼平が、そのことをブログにこう記していた。 こんな状況でもいたって前向きに意見を交換していく中で、やっとこさ本来の自分を取り戻すことが出来た感じがして、地震の日以来やっと地に足をつけることが出来た気がしました。 木曜日のメルマガにも書いたのですが、個人で、グループで色々考えて、アイデアを出し合って今後も”純烈”は活動をしていきます。 今後の活動が皆様にも、自分達にも有意義..
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バード~モダンジャズの苦悩と歓喜を体現したチャーリー・パーカーの伝説

音楽の歴史を振り返ろうとする時、奇跡のようなムーヴメントが足跡のように刻まれていることに気づく。あるジャンルの音楽が大衆化/商業化すると、その反動として必ず新しい動きが出てくる。しかしその音楽もいつしかメインストリーム化していく。するとまた革新的な音楽がどこかでひっそりと産声を上げる……音楽の歴史はそうやって積み重ねられてきた。いつだって“反抗(レベル)”が流れを変えてきた。 20世紀初頭に港町ニューオーリンズで生まれたジャズは、第一次世界大戦の影響で軍港閉鎖されると、シカゴやニューヨークといった都市部に北上して1920年代に発展。そして30年代の不況時代になるとスウィング・ジャズの時代に突入して、ビッグバンドが奏でる甘く夢心地な旋律が白人層の間で大衆化する。一方の黒人層には対照的にタフな音楽性を奏でるジャンプ・バンドなどが人気を博し、後のR&B誕生にも繋がっていった。 そんな頃、楽団の仕事を終えて深夜営業のクラブに集まっては、“アフター・アワーズ”と呼ばれるセッションを楽しむ若手ミュージシャンたちがいた。スタンダードソングを素材にしながら複雑かつ変則的なコード進行やアドリブを試行錯誤していくうちに、“ビバップ”のムーヴメントが40年代前半〜半ばに生まれる。 それは黒人としてのアイデンティティの追求であり、大衆向けダンスミュージックだったジャズの芸術革命でもあった。ジャズはこれ以降、“モダンジャズ”として50年代に真の黄金期を迎えることになった。ギターのチャーリー・クリスチャン、トランペットのディジー・ガレスピー、ピアノのセロニアス・モンク、ドラムのケニー・クラークなどがその代表格だが、アルトサックスのチャーリー・パーカーこそ“ビパップ”そのものだった。 芸術と言っても理論ではない。パーカーは感覚、ブルーズの人だった。鋭角的で凄まじいスピードで起伏するフレーズ。そんな衝撃的なアドリブを吹くパーカーを人々は“バード”(あるいはヤードバード)と呼んだ。後進のジャズマンはみんなパーカーに憧れ、“バードランド”の名がついたクラブや曲も生まれた。 1942年にニューヨークに出てきたパーカーは、45年11月26日にリーダーとしての初めて録音を行う。サヴォイやダイヤルといったレーベルに遺した吹き込みは、ジャズだけでなく音楽史に輝く名演中の名演として知られている。同じ曲でもテイクご..
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レディー・ガガやビョークよりも奇抜!?還暦を超えた“パンクの母”ニナ・ハーゲンのド派手な足跡

ドイツが生んだ“パンクの母”ことニナ・ハーゲンが65歳の誕生日を迎えた。 メッセージ性の強い表現。 パンク〜グラムロックへのリスペクト。 その奇抜な風貌からは想像しがたい歌声。 オペラ、カンツォーネ、そしてヨーデルやホーミー(モンゴルの伝統的な発声法)、絶叫、悶絶、唸り声などなど…多彩な要素を取り入れた唯一無二の歌唱スタイルはまさに圧巻の一言に尽きる。 今日はカルト的な人気を誇った彼女の足跡をあらためてご紹介します。 1955年3月11日、彼女は旧東ドイツで生まれる。 父親は脚本家で、母親は女優という芸能家族だった。 当時の東ドイツはベルリンの壁によって西ドイツと分断されている、いわゆる共産圏時代。 彼女の父方の祖父は経済学者兼銀行家だったが、ユダヤ系であったためナチスの収容所で亡くなっている。 複雑な家庭環境に生まれた彼女は、母親と一時同棲していたことのある作家であり音楽家のヴォルフ・ビーアマンを父のように慕って育ったという。 子供の頃から母親の影響もあり女優を志していた彼女だったが、演劇学校の入学試験であえなく不合格となったことをきっかけにバンドを結成。 当時、ロンドンの若者たちが熱狂していたグラムロックや、ニューヨークで産声をあげようとしていたパンクなどの影響を受けて歌うようになった彼女は、十代にして表現者としてのキャリアをスタートさせる。 19歳を迎えた年(1974年)に東ベルリンで通っていた学校の歌手養成コースを卒業した後は、国内で活動していたバンドを渡り歩きながら独自の歌唱スタイルと表現力に磨きをかけてゆく。 そんなある日、父として慕っていたヴォルフ・ビーアマンが、反政府的な言動で旧東ドイツ政府により市民権を剥奪され国外追放となる。 公然と彼を支持した彼女も、国外での演奏活動の帰りに旧東ドイツから再入国を 拒否され、そのまま西ドイツへと亡命してイギリスへと渡った。 そして1977年(当時22歳)にイギリスからドイツに帰国した彼女は、西ベルリンのクロイツベルクでニナ・ハーゲン・バンドを結成する。 翌1978年には1stアルバム『Nina Hagen Band』でデビューを果たし、そのインパクトの強いパフォーマンスとサウンドを武器に、国外でも大きな注目を集める存在となる。 しかし、ほどなくしての彼女とメンバーとの間に確執が生じ始める。 契約を結んだレコ..
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アメリカから輸入したフォークソングに演劇や現代詩を結びつけた小室等と六文銭の「雨が空から降れば」

写真・井出情児 小室等は日本にフォークソングという呼び名がなかった頃に、キングストン・トリオの「トム・ドゥーリー」を聴いてギターを始めた。 1960年代の初頭にやってきた男性ファッションの新しい流れのなかで、「アイビー」や「コンチ」とともにアメリカから輸入されたのがフォークソングだった。 だからファッショなグルな音楽としてとらえられていましたね。社会的なメッセージという意識は全然なかった。コンサートは、カントリーの人たちと一緒に「ステューデント・フェスティバル」なんてイベントに出ていました。 それから数年が経ち、唐十郎が率いる状況劇場の赤テント芝居では、ほとんどの作品で小室が劇中歌を手がけていた。 フォークシンガーの草分け的な存在だった小室は1968年に「六文銭」を結成し、プロで音楽活動を続けることを意識し始めたという。 「六文銭」は自分たちの中の覚悟として日本語であくまでやろうってことで始めて…。グループ名もあえて日本語にしたわけ。 なお上の写真は音楽史に残る野外フェスティバルとなった、1971年の第3回全日本フォーク・ジャンボリーのときのもので、右側の後ろに六文銭の紅一点だった四角佳子、その前にサングラス姿の及川恒平が写っている。(撮影・井出情児) 1970年代に入るとテレビの人気時代劇『木枯し紋次郎』などの主題歌などを手がけてヒット曲を出す一方で、六本木自由劇場ではアングラ演劇に自ら出演するなど、小室は一貫して新しいムーブメントのなかで文化を生み出してきた。 1971年に発表された小室のソロ・アルバム『私は月には行かないだろう』は、それまでメロディーがついて歌われると考えられていなかった日本の現代詩を取り上げて新しい歌にチャレンジしていた。 大岡信の「私は月に行かないだろう」、谷川俊太郎の「あげます」、茨木のり子の「12月の歌」などが注目された。 そのアルバムの1曲めに収録されていて、後に広く知られるようになるのが「雨が空から降れば」である。 1960年代は若者たちが世界各地で、それまでの価値観や商業主義に束縛されない表現を求めて、さまざまな分野で自由で新しい文化をと生み出していった。 日本でも映画ではヌーベルバーグ、音楽ならばフォークやロックの登場、演劇ではアングラとも呼ばれた小劇場演劇が活況を呈し、若者たちのムーブメントとして注目を集めた。 そう..
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トム・ウェイツOl’55を聴きながら〜父への想い、若き日の路上への憧れ…そしてハイウェイ沿いで目にした光景

時はすぐに過ぎ去ってゆく 俺は急いで愛車の55年製に飛び乗った ゆっくりと車を出すと神聖な気分になった ほんとうに生きている感じがしたのさ 1959年、トム・ウェイツの両親は離婚した。 当時、彼はまだ小学生だった。 「親が離婚したとき、俺はまだ10歳だった。親父はそれから2回再婚して、母親もようやく私立探偵と再婚したよ。」 彼は父親のフランクについてこう述懐している。 「本当にタフな男だった。オレンジ園で眠り…反逆に次ぐ反逆、そんな生き方だった。」 彼は父の名前を自身が80年代に発表したアルバム(3部作)の歌詞の中に度々登場させている。 さらには2004年に発表したアルバム『Real Gone』には「Sins of My Father」という曲を収めた。 あるインタビューで、自分の父親のことを尋ねられた彼は聖書を引用するかのようにこう切り返した。 「俺の親父だろうと、あんたの親父だろうと、親の罪は子に報う。わかりきったことさ。」 両親が離婚すると、彼は母親と姉達とナショナルシティーに移り住んだ。 サンディエゴの外れにあるその町は、面積のほとんどを海軍基地の広大な敷地が占め、常に何千人という兵士が移動の途中に立ち寄っていた場所である。 そんな町で育った彼は青年に成長すると、頻繁に一人旅をするようになる。 車で何時間もかけて父と母の間を行き来していたのだ。 ひたすら高速道路を飛ばしているうちに、いつの間にか“路上を走り回ること”そのものが好きになっていったという。 「初めて自分の車を手に入れたのは14歳の時だったよ。ある意味、アメリカの伝統みたいなもんで、免許を取ることが成人式の代わりなんだ。車を持っててもヒーター無しじゃ冬場はきつい。特に空気は離婚前のかみさんより冷たい時はね(笑)」 また彼はあるインタビューで自分の車遍歴を愛情たっぷりに、こんな風に語っている。 「56年型マーキュリー、55年型ビュイック・ロードマスター、55年型ビュイック・スペシャル、55年型ビュイック・センチュリー、58年型ビュイック・スーパー、黒の54年型キャデラック4ドアセダン、65年型サンダーバード、49年型プリマス、62年型コメット…」 一台一台車種を慈しむように暗唱してみせるその姿は、まるで昔のガールフレンド名簿の朗読のようだったという。 町を飛び出したいという切なる願い、父親との..
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バーフライ〜酒とギャンブルと愛する女と執筆に生きた伝説の作家チャールズ・ブコウスキー

何をやっても他人は勝手な理由づけをする。俺はクモが巣を張るように、魚が泳ぐように、飲んで書くんだ。 『町でいちばんの美女』『ありきたりの狂気の物語』といった短編集、『勝手に生きろ!』『くそったれ! 少年時代』などの長編小説、そして『指がちょっと血を流し始めるまでパーカッション楽器のように酔っぱらったピアノを弾け』をはじめとする詩集で知られる作家/詩人のチャールズ・ブコウスキー。 1920年、ドイツに生まれて第一次世界大戦を機に家族でアメリカに移住してきたブコウスキー。20代前半、LAの大学を中退した彼は様々な職を転々としながら放浪へ出る。そして20代半ばの時、NYにやって来ると執筆活動を開始。同じ頃、ジェーンという女と出逢って長い同棲を始めた。 酒浸りの中で賭事と女を愛した男は、破天荒な生き方と飢えの中で創作活動を続け、50歳手前でようやく専業作家としての生活を確立。伝説の作家として若い書き手のリスペクトを受けながら、1994年に73歳でこの世を去った。「脚光を浴びるのは、死んでからだと思ってた」と言うブコウスキーの詳しい人生については、一連の自伝的著作で触れることができる。 『バーフライ』(Barfly/1987)はブコウスキーが脚本を手掛けた映画で、20代半ばの彼の日々を彷彿とさせる物語だった。バーフライとは、バーで酒をねだるアル中を揶揄した言葉。あるいはバーに入り浸る者。 俺は映画が嫌いだった。ある夜、電話が鳴って監督から「脚本を書いてほしい」と言われた。酔っていたので「うるせえ!」と言って切った。また電話が鳴り「どうしても話を聞いてほしい」と頼まれた。「ふざけるな」と切ろうとしたが、彼が「2万ドル出す」と言ったので、「いつこっちに来る?」と答えたよ。 監督のバルベッド・シュローダーは、ブコウスキーが描く悲しみとユーモアが溶け合った世界に魅せられていた。彼も命懸けで、資金を出さないと指を詰めると映画会社の重役を脅し、ハリウッド映画としては異色の題材を扱った作品が誕生することになった。 主演はミッキー・ローク(本作は彼の代表作の一つ)と名女優フェイ・ダナウェイ。撮影はヴィム・ヴェンダースやジム・ジャームッシュとの仕事で知られるロビー・ミュラー。オープニングとエンディングでブッカー・T&ザ・MG’sのソウルフルなスタックスナンバー「Hip Hug-Her」が..
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