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トム・ウェイツの生い立ち〜転々と移り住んだカリフォルニアの田舎町、ルーツに流れるアイルランドの血

1949年12月7日、トーマス・アラン・ウェイツ(出生名)はカリフォルニア州の南部にあるポモナという街で生まれた。 ポモナという名前は古代ローマ神話の果実の女神に因んで名付けられたもの。 1830年代スペイン人がまず入植したポモナ市に、イギリス系アメリカ人が到着したのは1868年のことだった。 1880年代までに鉄道が開通し、コーアチェラ・バレーの水が有ることで柑橘類を育てる地域の西の中心になった街である。 彼が幼い頃、一家はカリフォルニア州南部のブルーカラー(肉体労働者)が暮らす田舎町を転々とした。 それはスタインベックの小説『怒りの葡萄』に登場する移民労働者達が安住の地を求めて辿り着いた場所。 そこで彼が親しんだ音楽と言えば、ラジオから聴こえてきたジャズ、そして下町の酒場で奏でられていたキャバレー音楽や、流れ者が路上で爪弾くブルースだった。 「サンディエゴ、ラバーン、シルバーレイク、ノースハリウッドといった街では、当時あまり黒人やヒスパニック系を見かけなかったな。だけど俺はスパニッシュなものとメキシカンなものが大好きなんだ。」 父ジェシー・フランク・ウェイツのルーツは、スコットランド系とアイルランド系。 母アルマの家系にはノルウェー人の血が流れていて、旧姓はマクマレイ(MacMurray)。 “Mac”の付く姓は、ゲール系(アイリッシュ、スコティッシュ)を表している。 そもそも彼の“ウェイツ”という苗字の語源は、中世の“見張り人”を意味し、当時は一時間毎に時の経過を祝うのが仕事だったという。 彼の記憶では、幼い頃に初めて聴いた曲は、父親が歌うアイルランドの伝統的な民謡「Molly Malone」だった。 1959年、彼の両親は離婚をする。 「当時、俺はまだ10歳だった。親父はそれから2回再婚して、母親もようやく私立探偵と再婚したよ。」 彼は父親のフランクについてこう述懐している。 「本当にタフな男だった。オレンジ園で眠り、反逆に次ぐ反逆…そんな生き方だった。」 彼は父の名前を自身が80年代に発表したアルバム(3部作)の歌詞の中に度々登場させている。 さらには2004年に発表したアルバム『Real Gone』には「Sins of My Father」という曲を収めた。 あるインタビューで、自分の父親のことを尋ねられた彼は聖書を引用するかのようにこう切..
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レイ・デイヴィスの詩世界〜稀代の皮肉屋と呼ばれた男のロマンティシズムと純情

レイ・デイヴィス。 言わずと知れたイギリスを代表するロックバンド、キンクスのフロントマンである。 1964年のデビュー以来「You Really Got Me」「All Day and All of the Night」「Tired of Waiting for You」といった初期の“キンキーサウンド”によってヒットを連発していた彼らは、当時イギリスで活躍していた他のロックバンド同様、歌詞の内容よりもメロディーやノリの良さ(リズムアレンジ)に重きを置いていた。 「You」「Me」といった2つの単語を、ディストーションの効いた3コードに乗せながら、強烈なラブソングに仕上げることが特徴だった。 そんなキンクスにとっての“最初の変化”は「A Well Respected Man」という楽曲の発表から始まる。 1965年の11月にアメリカのみでシングルカットされヒットを記録したこの曲以降、彼は“トラジコメディー(悲喜劇)路線”と呼ばれるユニークなメロディーや歌詞を持った物語仕立ての楽曲創作に傾倒し始める。 アルバムでいうと『The Kink Kontroversy』(1965年)から『Something Else by The Kinks』(1967年)あたりまでがその時期で、当時のイギリス人の生活を題材とした“短編集”のような趣きが感じられる作風だった。 一般庶民のささやかな夢、希望、諦観といったものを歌詞に織り交ぜることによって、キンクスは“労働者階級の英雄”として人気を集めることとなる。 当時のイギリスにはまだ“階級”が色濃く残っていた。 支持する政党、最終学歴、親の職業、さらには行きつけのパブにいたるまで、イギリス人には“二通りのライフスタイル”があったと言っても過言ではない。 とは言え、上流及び中流階級と労働者階級が日常的にいがみ合っているわけでもない。 お互いの階級が自分の出生に誇りを持ち、共に君主であるところの女王陛下に忠義を持っているのだ。 そんな中、ザ・ジャム時代のポール・ウェラーなどは、労働者階級の若者の行き場のないフラストレーションを保守党支持者=退屈な大人達に対してストレートにぶつけた。 一方、キンクス(レイ・デイヴィス)の場合は、シニカルな視点に立った上での“巧妙な言葉選び”をしながら決して攻撃的にはならなかった。 しかし、聴きようによっては“..
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木村充揮と内田勘太郎〜15歳の出会い、ブルースの魔力に惹かれていった二人

「内田と友達になって、どっちも好きな音楽が似とってね。そのうち内田の方がブルースにどんどんハマって行って、僕もだんだんブルースってええなぁと思うようになったんです。」(木村充揮) 1970年、木村充揮と内田勘太郎の二人は憂歌団を結成する。 バンド名は“ブルースバンド”の邦訳で、内田が考えたものだった。 最初は木村と内田の二人だけでカントリーブルースのカヴァーなどを中心に演奏活動をおこなっていたのだが、4年後の1974年に花岡献治(ベース)と島田和夫(ドラム)が加入し、4人編成の憂歌団が出来上がった。 二人が出会ったのは1969年。 共に15歳で大阪市立工芸高校の一年生だった。 木村も内田も中学の頃から、ビートルズやローリング・ストーンズ、ジミー・ヘンドリックス、クリームといったロックを聴いていたという。 木村は当時のことをこんな風に語っている。 「友達の家にごっついステレオがあって、ストーンズの“Tell me“を聴かせてもろた時にはビックリしました。ドーンと音が鳴って、まるで目の前で演奏しとるみたいで。その友達の家で、当時のロックを色々聴いたり、ギターを演奏したりしてました。当時はまだ自分が歌うことはなく、友達が歌う横でちょっとコードをなぞる程度だった。」 その友達から“お前は絵上手いし、工芸高校にしたらええやん!”と薦められたことをきっかけに、木村は大阪市立工芸高校(美術科)への進学を決める。 その教室で木村は内田と出会う。 「どんな音楽が好き?」 二人は、休み時間や帰り道に色んなことを話すようになり、お互いにレコードを貸し借りするようになる。 音楽が好きだからといって、二人は軽音楽部などの学校のクラブに入部することはなかった。 「ちょっとギターで遊ぼうや!」 二人が学校にギターを持って行くようになったのは1970年の秋、2年生の二学期の頃だった。 木村はメーカー不明のクラシックギターを紙袋に入れて持ち歩いた。 内田も同じくメーカー不明のガットギターを、ベラペラのビニール製ギターケースに入れて持ち歩いていたという。 「僕は中学時代にピアノとオルガンとクラシックギターを少し習っていた。内田は子供の頃から兄ちゃんのギターをいじっていた。ビートルズやストーンズ、ジミヘン、クリーム、ツェッペリンなどを聴くうちに、アドリブにある法則があることに気づいたらしい..
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私は泣いています〜あの魅惑のハスキーボイスは深酒のせいだった、不況の時代にヒットする歌の方程式とは!?

1974年、日本では田中角栄首相が「節約は美徳」と提唱し、石油ショックの影響もあり高度成長期半ばにして“待望の時代”から“忍耐の時代”へと移り変わりつつあった。 世の中に不況の風が吹くとどんな曲調が流行るのだろう? 戦後の不況時代の流行歌を調べてみると…笠置シヅ子の「買物ブギ」などのジャズっぽシャッフル系のリズムの曲が浮び上がってくるのだ。 1974年3月5日、りりィが5thシングル「私は泣いています」をリリースして85万枚の大ヒットを記録した。 プロデューサーを担当していた寺本幸司は、当時りりィを歌手としてステップアップさせるために時代とのマッチングを思案していたという。 1972年に「にがお絵」でデビューを果たした福岡県出身の20歳のハーフ美人。 魅惑のハスキーボイスで話題となり、3rdシングル「心が痛い」は有線放送のリクエストから火が着きスマッシュヒットとなった。 そんな上り調子の状況を寺本は一気に波に乗せたいと目論んでいた。 「りりィにとって今がチャンスだと思い、彼女にパッパをかけたんです。そうしたら、すぐに彼女から“曲ができたから聴いて欲しい”と連絡があり、すぐに聴かされたのがこの歌だったんです。さっそく当時のレコード会社(東芝EMI)のディレクター武藤敏史氏にも聴いてもらい、アレンジャーの木田高介氏も含めて、かねてから武藤氏と考えていた“方程式”を試すことにしたんです。」 プロデューサーの寺本とディレクターの武藤が仕掛けたこと。 それは“不況の時代にはジャズっぽいシャッフル系のリズムがヒットする”という実験でもあり、ある意味“狙った”アレンジだった。 当人だったりりィは、その頃のことをこう振り返っている。 私がギターを覚えたのは中学3年の時でした。 福岡の中洲でバーをやっていた母が亡くなって…それと同時に兄も行方不明になって。 米軍将校だった父は、私が生まれてくる前に朝鮮戦争で戦死したと聞かされてましたし…もう天涯孤独なのだから地球上のどこにいても同じという気持ちがありました。 新宿の街角でギターを搔き鳴らして歌うようになってました。 私より少し上の世代がフォークミュージック歌いながら安保闘争に闘志を燃やしていた時代です。 私は一匹狼で他のフォークの人たちと交わることもなく、路上で歌い続けていました。 そこで事務所の人に「プロにならないか?」とスカウト..
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ガープの世界〜“人生のアップデート”を力強く優しく描いたミリオンセラー小説の映画化

一度観た映画を観直す人は少なくないと思う。「あの映画、また観たいな」と積極的にストリーミングサービスを利用したり、DVDを購入・レンタルする場合。そしてたまたまテレビの深夜放送を眺めていた時や、無料だからといって何となく視聴ボタンをクリック・タップしてしまう場合。特に後者は「あったな、この映画」のような感覚で突然懐かい気持ちになり、当時の自分を思い浮かべたりする。期待感がなかったぶん、どこか心地良さにも包まれる。 『ガープの世界』(The World According to Garp/1982)はまさにそんな映画だった。主人公ガープの数奇な人生を断片的なエピソードで描いていくこの物語は、性的・社会的な暴力に対する怒りのテーマが色濃い反面、子供好きで愛妻家という家庭回帰の幸福感も貫かれている。ハッピーエンドでないにも関わらず、現実から目を背けない精神、ユーモア、少数派であるマイノリティへの眼差しなどによって、観ている者はいつの間にか“ガープの世界”に魅了される。ストーリーの力を感じるのだ。 原作はジョン・アーヴィング。1942年にニューハンプシャー州に生まれたアーヴィングは、幼い頃から母子家庭で育つ。13歳からレスリングを始め、大学卒業後はカート・ヴォネガットに師事して作家を目指した。1968年にデビュー作『熊を放つ』を出版。大学で教職に就きながら作品を発表し続ける。 1万部弱しか売れなかった小説家に転機が訪れたのが1978年。4作目の長編『ガープの世界』がミリオンセラーに。アーヴィングはようやく創作に専念できるようになった。ほかに1981年の『ホテル・ニューハンプシャー』や1985年の『サイダーハウス・ルール』も映画化された。 『ガープの世界』はゲラ刷りの段階で、当時のワーナー副社長マーク・ローゼンバーグによって決定されていた。周囲からこの小説をどうやって映像化するのかと笑われたそうだが、本作の監督を引き受けるジョージ・ロイ・ヒルでさえ当初はそんな懐疑派の一人だった。だが無理と言われればチャレンジのしがいがあるもの。 『明日に向かって撃て』『スティング』『スラップ・ショット』『スローターハウス5』を手掛けてきた監督は、アドリブのコメディアンであるロビン・ウィリアムズを最初からガープ役に想定し、脚本作りに着手。ウィリアムズ特有の演技の幅広さや基礎の固さに絶対の信頼を..
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スティーヴン・タイラーとジョー・ペリー〜運命的な出会い、探し求め合っていた“ミッシングリンク”

「1964年から1970年までに俺が在籍したバンドには、足りないものが一つあった。必須の材料が欠けていたんだ。ジョーがその“ミッシングリンク”だった。ミックとキース、ピート・タウンゼントとロジャー・ダルトリー、キンクスのデイヴィス兄弟みたいな関係ってやつだ。」(スティーヴン・タイラー) 1970年代の初頭、イギリスのバンドがロックシーンを席巻していた。 レッド・ツェッペリン、ザ・フー、ピンク・フロイド、ブラック・サバス、ディープ・パープル、そしてローリング・ストーンズ。 彼らはマーシャルのアンプをフルヴォリュームで鳴らしながら大西洋を渡り、アメリカの若者たちを熱狂させた。 「その頃、アメリカではいくつもバンドが現れては消えていった。ツェッペリンザウルスが踏みつけていく小さな茂みに群れて集まっていたんだ。俺もそんなチンケなバンドのメンバーだった。」(スティーヴン・タイラー) ウッドストックフェスティバルが開催された夏、スティーヴン(当時21歳)はニューヨークの南東部にあるウエストチェスター郡タリータウンからニューハンプシャー州にあるサナピーに移り住んだばかりだった。 「すべてに行き詰まりを感じていたんだ。フォックス・チェイスというバンドを解散させたばかりだった。そのバンドはエアロスミスを始める前に俺が最後に在籍したグループで、ナイトクラブなんかで演奏活動しながら小銭を稼いでいた。」 ある日、スティーヴンはサナピー湖の側にあるザ・バーンというクラブでジョー・ペリーとトム・ハミルトンが組んでいたバンドを観ることとなる。 そのバンドは“ジャムバンド”と名乗っていた。 メンバー全員薄汚い身なりで、ボヘミアンスタイルを意識した60年代後期のイギリスのロックバンドみたいだったという。 ジョーはギタリストでありながら数曲リードヴォーカルを取っていた。 決して上手いとは言えないジョーの歌声に、スティーヴンは「酷い!ヘボだ!」と吐き捨ててクラブを出ようとした。 ところが、ジョーがギターソロを弾き始めた次の瞬間、スティーヴンの足が止まった。 「あいつはキース・リチャーズのような下に沈むような動きで、しかめっ面をしながらソロを弾きだしたんだ。チクショウ!あいつがギターを弾くのを聴いてナニが硬くなっちまったんだ!脳天がブッ飛んだよ!光が見えた!まさに運命の瞬間だった!」 アンプ..
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サム・クックとモハメド・アリ〜黒人公民権運動のもと、不思議な縁に導かれた二人のスター

1963年、サム・クック(当時32歳)は伝説のボクサー、モハメド・アリ(当時21歳)と初めて出会う。 この頃サムはすでに黒人R&Bヴォーカリストとして大スターの座を獲得しており、その人気ぶりはアリにとっても憧れの対象だったという。 一方アリはプロ転向して次々にタイトルマッチで勝利し、まさに“快進撃”を続けている時期だった。 1963年の11月、サムは恒例となっていたアポロシアターでの一週間公演でニューヨーク(ハーレム)のホテル・テレサに滞在していた。 その時、アリも偶然同じホテルに宿泊していたという。 アリは当時自らの言葉を吹き込んだレコード「I Am The Greatest」のプロモーションのためと、3ヶ月後に行われるソニー・リストンとのタイトルマッチの宣伝のためにニューヨークに来ていた。 このホテルの一室は黒人公民権運動活動家マルコムXの事務所にもなっていたため、当時の黒人文化を代表する新世代の3人が一堂に会することとなったのだ。 アメリカでは公民権運動が盛り上がりを見せていた時代だった。 1963年8月28日には20万人以上が参加したワシントン大行進があり、キング牧師があの“I Have a Dream”から始まる伝説的な演説を行い、かつてないほどの勢いでブラックパワーが渦巻いていた。 奇しくもサムがアポロ公演を行なっていた11月22日には、公民権法成立に尽力したジョン・F・ケネディ大統領が暗殺された。 サムとアリは、人種差別撤廃という共通の目的のもと不思議な縁に導かれて交流を持つようになる。 二人をつなぐ役割を果たしていたのがマルコムXだった。 ビジネスに対する厳しい姿勢を持ち、音楽界で人種の壁を越えたアイドルを目指していたサムはアリに大きな影響を与えたという。 二人が出会って3ヶ月後の1964年2月25日、アリはWBA・WBC統一世界ヘビー級王者のソニー・リストンに挑戦する。 当時史上最強のハードパンチャーと評価されたリストンに対しアリは絶対不利と言われ、賭け率は7対1でリストンが優位だった。 しかしアリは臆せず「蝶のように舞い、蜂のように刺す」と公言。 試合は一方的なものとなり、6R終了時にアリのTKO勝ちとなった。 サムはその日の様子を鮮明に憶えていた。 「僕はカシアスの試合を観戦するためにマイアミに飛んだんだ。彼が準備してくれたリングサイドの席に..
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ミスター・ノーバディ〜「もしあの時、あの選択をしていたら」を描く切ない愛の物語

もしあの時、帰ろうとするあの人に勇気を出して本当の気持ちを伝えていたなら…… もしあの時、あんなことを言わなければお互い傷つかないで別れずに済んだのに…… もしあの人と結婚していたら、今頃はどんな家庭や人生を送っていたのだろう?…… 時々、昔付き合っていた人や密かに想いを寄せていた人と無意識のうちに遭遇することがある。自分も相手も当時のままで今よりも若く、言動も場所もリアルに眩しく駆け巡る。二人とも笑顔が絶えない。でもどのシーンも断片的で儚く、何となくぼんやりと浮遊している……なぜならそこは夢の中の世界。自分が創り出した世界。そして目覚めると、何とも言えない感覚に包まれながら、今日という現実が始まっていく。 創作の世界では、この不思議な体験は「パラレルワールド」(同時並行世界)や「バタフライ効果」(些細な出来事の差が最終的には大きな結果の違いにつながる)といった手法を通じていくつかの作品が生み出されてきた。夢の中で理想の人生を送り続けているだけなのか。それともどこか違う世界で実際に別の人生が展開されているのか。心に傷を負ったことがある人なら、きっと共感することができる永遠不滅のテーマだ。 『ミスター・ノーバディ』(Mr.Nobody/2009)はそんな世界を描いた映画。あの時、あの選択をしていたらどうなっていたのか。運命の女性たちとその後どんなことになっていたのか。壮大なスケールと映像美に圧倒される奇跡の139分間。 監督はベルギー人のジャコ・ヴァン・ドルマル。『トト・ザ・ヒーロー』(1991)や『八日目』(1996)に続く3作目で、脚本執筆に6年も費やしたという13年ぶりの新作。フランス・ドイツ・カナダ・ベルギー合作映画で、ハリウッド資本は入っていない。主人公を演じるのは演技力に評価が高いジャレッド・レト。英国の映像作家ジュリアン・テンプルの娘、ジュノー・テンプルも魅力的な存在感を放つ。 二つの選択からは、無数の可能性が広がっている。枝葉のような広がりがある。この脚本でそういう限りのない可能性から生まれる計り知れない裂け目、深淵を感じ取れるようにしたかった。 また、この映画には3人の女性が登場する。一人は主人公の男を愛し、彼女も彼を愛している。次の一人は彼が愛しているのに、彼女は彼を愛していない。そしてもう一人は彼を愛しているのに、彼は彼女を愛していない。 監..
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RCサクセションのヒット曲〜サマーツアーの歌詞に秘められたソウルフルな“隠し味”とは!?

RCサクセションが1982年の6月にリリースした12枚目のシングル「サマーツアー」にまつわる逸話をご紹介します♪ この楽曲のクレジットは忌野清志郎と仲井戸麗市の共作となっている。 同年10月にRCがリリースしたアルバム『BEAT POPS』にも、この「サマーツアー」のライブバージョンが収録された。 このアルバムバージョンは、梅津和時や片山広明らによる“ブルーデイ・ホーンズ”のホーンセクションが足されたアレンジになっており、よりソウルフルな仕上がりとなっている。 ソウルフルといえば…この曲の歌詞の中にはレイ・チャールズへのオマージュが隠されており、アルバムバージョンでは、オーティス・レディング的な歌詞変更も見られるという。 一体どの部分なのだろう? 離ればなれ No No Baby プールサイドではぐれた とぎれとぎれ No No Baby 噂を拾い集めて Oh サマーツアー 急いで旅立てジャック 甘い唇 No No Baby 忘れるなんてできっこない 誰にも まず、この歌詞に何度も出てくる“旅立てジャック”というフレーズとレイ・チャールズの代表曲「Hit the road Jack」の邦題が一致していることは“ただの偶然”なのだろうか? 清志郎もチャボも明言こそしていないが、これはRC流のソウルミュージックへのオマージュの一つと考えても不自然ではないだろう。 さらに!清志郎は後半の一節“ビキニスタイル No,No, Baby抱きしめたい濡れたまま”という部分をアルバムバージョンで”ミニスカート No,No,Baby抱きしめたいそのまま”と、歌い変えているのだ。 それは、オーティス・レディングがあの名曲「Try a Little Tenderness」の冒頭の歌詞で、オリジナルでは“シャギードレス”と録音したものをライブテイクで“ミニスカートドレス”と歌い変えていることを意識してのアプローチだったのではないだろうか? Wearing that same old *shaggy dress(→Miniskirt dress) 当時のRCの歌にこんなソウルフルな隠し味があったことを理解して聴いていた人がどれくらいいたのだろうか? いずれもソウルミュージックファンにとっては、思わず「ニヤリ」とさせられる逸話である。 歌謡曲と演歌とニューミュージックがチャートに混..
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メリーに首ったけ〜日本の映画館でも珍しく至る所で爆笑が湧き起こっていた

度肝を抜かれるおかしさ。こいつはビョーキだ。信じられないシーンのてんこ盛り。超下品な笑いとポップなノリでガンガン攻めまくる不気味な奴らが勢揃い。死ぬほどくだらない映画が最高だ! (ローリング・ストーン誌) ここ数年、日本で劇場公開された洋画の中で『テッド』が予想外のヒットを飛ばしたが、「可愛いテディ・ベアの縫いぐるみが出てくるファミリー映画」と勘違いして途中で焦った人も少なくないと聞く。 それで思い出したのが『メリーに首ったけ』(There’s Something About Mary/1998)で、この映画も「デートで観に行く爽やかな恋愛映画」と思って劇場に二人で足を運び、上映開始10分あたりで“異常事態”に気づいた人も多いはず。それでも離席する人はなく、日本の映画館では珍しいことに、笑い声や爆笑が至る所から聞こえていた。 テーマやメッセージ、映像美。そんなものは一切ない。あるのは「どうしようもない男たちが、どうしようもなく魅力的な女に、ありえない手段で愛を告白する」ムードだけ。それが分かっているから、下品な台詞もやや困惑する描写もギリギリ許される。コメディに変化する。昇華する。 脚本/監督のファレリー兄弟(兄ピーターと弟ボビー)は前作『ジム・キャリーはMr.ダマー』のアスペンに引き続き、本作ではマイアミを舞台に選んだが、彼らはリゾート地の光景が人々を解放的にして子供心に戻すことを知っていたのだ。この映画のヒット以降、日本の配給会社ではこの種のタイトルやヴィジュアル(ポスターやチラシ)によるPRが増殖した。 主演は当時『マスク』出演後にスター街道を歩み始めていたキャメロン・ディアスと、今では監督としても『ライフ』など良質な作品を撮り続けるベン・スティラー。クセの強い連中の一人にクールな役が多かったマット・ディロンがキャスティングされていることにも注目。また、NFLのスーパースターのブレット・ファーヴが登場したり、狂言回し役にはあのモダン・ラバーズのリーダーとしてカルト的なロックファンを持つジョナサン・リッチマンを起用。 ストーリーは、1985年の思い出から始まる。歯の矯正でさえないルックスのテッド(ベン・スティラー)はある日、知的障害のある弟をいじめから助けたことをきっかけに、姉のメリー(キャメロン・ディアス)にプロムの相手になってほしいと言われる。 学園のアイ..
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五番街のマリーへ〜700人の女性たちと乗り込んだ大型客船の中で生まれた!? 阿久悠の“無国籍ソング”

この「五番街のマリーへ」は、ペドロ&カプリシャスの5枚目のシングルとして1973年10月25日に発売された。 彼らの前作「ジョニィへの伝言」と同様にロングヒットとなり、売上枚数は21.2万枚を記録している。 作曲を手掛けたのは、ピンクレディーのプロデューサーとしても知られる作曲家・都倉俊一。 そして作詞は、昭和を代表する作詞家・阿久悠である。 五番街へ行ったならば マリーの家へ行き どんな暮ししているのか 見て来てほしい 五番街は古い街で 昔からの人が きっと住んでいると思う たずねて欲しい この歌には、作詞家・阿久悠の“新しい挑戦”があったという。 その試みは、同年の3月に本作と同じ歌手・作家によって発表された「ジョニィへの伝言」から始まっていた。 阿久悠は著書『愛すべき名歌たち〜私的歌謡曲史〜』においてこんなことを綴っている。 高橋真梨子がリードボーカルとして加わる前のペドロ&カプリシャスには「別れの朝」というヒット曲があった。なかにし礼が作詞したいい作品で、これに負けられないと思い、何か新しさを感じさせたいと思って工夫をしました。そこで一編の映画のようなストーリー性のある歌詞作りに取り組んだのです。 ジョニーが来たなら伝えてよ 二時間待ってたと わりと元気よく出て行ったよと お酒のついでに話してよ 友だちなら そこのところ うまく伝えて このどこか“日本人離れ”した感覚を持つ歌詞を、当時の関係者は“無国籍ソング”と称したという。 「ジョニィへの伝言」に続いて発表された「五番街のマリーへ」は、それまでの演歌メインの日本の歌謡界に衝撃を走らせたのだ。 ごくありふれた日常会話を使いながら、情景がスムーズに浮かんでくる歌詞、それを引き立てるメロディーが新鮮だった。 阿久悠は、この歌に関して著書『歌謡曲の時代〜歌もよう人もよう〜』で、こう綴っている。 当時、この「ジョニィ」と「マリー」のシリーズは“無国籍ソング”などと呼ばれていた。これは僕が名乗っていたことではない。世間と言おうか、業界と言おうか、音楽に近い周辺の世論がそう決めつけて、いくらか軽く扱おうとしたのだ。 実はこの「五番街のマリーへ」は、ちょっと面白いシチュエーションで生まれたという。 当時、阿久悠が立案者となって企画していた“洋上大学”の船上で作られたというのだ。 1973年の8月、1万3千トンのさく..
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ゴースト/ニューヨークの幻〜撮影直前に黙ってバッサリ髪を切った主演女優と「アンチェインド・メロディ」

1990年、日本はまだ好景気に浮かれていた。大人たちは株や不動産の動向に一喜一憂し、大企業や権力者たちは投資や買収という名のマネーゲームを強気に繰り返し、最新の追求と優越感に囚われた都市部の男と女たちが恋愛ゲームに明け暮れていた頃。 そんなある日、『ゴースト/ニューヨークの幻』(Ghost/1990)は公開された。この映画は本国アメリカだけでなく世界中で大ヒット。日本でもその年一番人気の劇場公開作品となり、デミ・ムーアのショートカットや物語中に出てくる陶芸にも話題が集まった。あまりにもヒットしたので、この路線を真似た映画やドラマが量産されたほどだ。 その理由は、真っ直ぐでピュアな愛を描いたこと。虚飾にまみれた時代とは真逆の世界観に、多くのまともな心が本来の自分たちが理想とする姿を捉えたのだろう。それに映画としても『ゴースト/ニューヨークの幻』は、非常に優れた作品だった。ロマンス、ファンタジー、コメディ、サスペンス、スリルの調和が絶妙だ。 主演したパトリック・スウェイジ(2009年に亡くなった)は、この役を仕留めるために相当の努力と想いがあったという。最初この役を打診されたのは有名なハリウッド・スターたち。しかし誰一人、“死人”の役はやりたがらない。パトリックは台本をありったけの感情移入で読み上げてスタッフたちを泣かせ、大逆転の末にキャスティングを決めた。 もう一人の主演デミ・ムーアは難なく決まったそうだが、クランクイン直前にパリに出向いて長い髪を自分の判断でバッサリ切ってしまい、監督を大いに悩ませた。だが撮影されたフィルムを観て、それが正解だったことが分かった。また、二人をつなぐ重要な霊媒師役には、当初はティナ・ターナーが有力視されていた。結果的にウーピー・ゴールドバーグの演技がこの作品に光を与えることになった。彼女はアカデミー助演女優賞を受賞。 主題歌はライチャス・ブラザースが歌う「アンチェインド・メロディ」。1965年にフィル・スペクターのプロデュースでリリースされて全米4位を記録したバージョンで、この映画の大ヒットと効果的な使用、歌詞がストーリーを代弁していたこともあってリバイバル・ヒット。名曲が突如として蘇った。 物語はニューヨークが舞台。銀行に勤務するサム(パトリック・スウェイジ)は恋人で陶芸家のモリー(デミ・ムーア)と一緒に暮らすことになり、幸せを感じて..
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メンフィス・テネシー〜チャック・ベリーが書いた小咄(こばなし)のような歌

様々な街・都市を舞台に紡がれた魅力的な曲をご紹介するコーナー<街の歌>が今回ピックアップするのは“ロックンロールの創始者の一人”と崇められるチャック・ベリーの名曲「Memphis Tennessee」です。 この歌は、1959年にチャック・ベリーが33歳の時に発表したシングル「Back in the USA」のB面曲として発表されたのが初出である。 米国テネシー州にあるメンフィスと言えば、あのロックンロールの聖地“サン・レコード”を生んだ場所であり、エルヴィス・プレスリーが住んでいた街で、古くはブルース発祥の地でもある。 この街名と州名を並べただけの曲タイトル。 日本でいえば、さながら「博多九州」みたいなものだろう。 さて「Memphis Tennessee」と言えば、デビュー前のビートルズが1962年1月にデッカレコードのオーディションに落ちた時の音源の1曲としても有名である。 歴史に“たられば”はないが、もしもそのタイミングで彼らがデッカレコードのオーディションに受かっていたら…ビートルズはジョージ・マーティンとも出会うことなく違う運命を辿っていたのだろう。 日本でチャック・ベリーの名前が知られるようになるのは、ビートルズ日本レコードデビューの1964年以降だった。 つまり、彼の楽曲「Rock and Roll Music」や「Roll Over Beethoven」がビートルズの公式アルバムでカヴァーされるまで“ロックンロールの神様”も日本では無名だったのだ。 この「Memphis Tennessee」は、ビートルズの公式アルバムに収録されていなかったので、日本のキャロルが1973年3月にリリースしたデビューアルバム『ルイジアンナ』のB面でカヴァーするまで、一部の洋楽ファン以外の日本人にはあまり知られていなかった楽曲である。 タイトルからして“ご当地ソング”なのかと思いきや…実は驚きの展開(オチ)がある歌なのだ。 では、いったいどんな内容の歌詞なのだろう? 時代は1950年代の末。 長距離電話をかけるには、電話交換手(オペレーター)に申し込んで相手につないでもらわなければならなかった。 まず“長距離電話のオペレーター”という、めったなことでは歌の登場人物に出てこない存在に冒頭から気をとられてしまう。 長距離電話で意中の女性(マリー)に電話をかけようにも番号が..
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ジェリー・ロール・モートン〜草創期のジャズに大きな影響を及ぼした男の足跡と功績

1941年7月10日、草創期のジャズに大きな影響を及ぼしたピアニスト/作曲家、ジェリー・ロール・モートン(享年50)がロサンゼルスで死去した。 死の数年前にワシントンD.C.の酒場で喧嘩になり、ナイフで刺されて頭と胸に重負った彼は、その出来事以来、病気がちになりすぐに息切れしたりするようになっていたという。 一説では死因を心臓病や喘息による呼吸困難としているが、真相は謎のままである。 その死から57年後…1998年に『海の上のピアニスト』という映画が上映された。 本作は『ニューシネマ・パラダイス』(1988年)で注目を浴び、一躍イタリアを代表する映画監督となったジュゼッペ・トルナトーレが手がけたもの。 豪華客船の中で産み捨てられた男の子が、船員たちによって船上で育てられ、やがて船のサロンでピアノ弾きとして名声を得るという寓話的内容の映画だ。 トルナトーレ監督は、“ジャズを生んだ伝説的なピアニスト”としてジェリー・ロール・モートンを(本人の名前で)登場させた。 1890年10月20日、彼はルイジアナ州にあるガルフポートという街で生まれた。 父親は建築業を営む裕福なフランス人の血をひくクレオール(フランス人と黒人奴隷の混血)だった。 同州最大の都市ニューオーリンズは1718年から1722年までフランスに統治されていた。 1763年、パリ条約によりルイジアナ州はスペイン領となるが、ニューオーリンズの街ではフランス系住民が多く宗主国スペインの影響はほとんど見られなかった。 1801年、ナポレオン皇帝がルイジアナ州をフランスに返還させたが、財政上の必要から1803年にはアメリカ合衆国に売却する。 そんな歴史背景もあってこの地方にはフランス系、スペイン系、イギリス系、アフリカ系など多くの人種がいて、多種多様の文化・音楽が混在していた。 クレオールは黒人奴隷との混血とはいえ比較的裕福な生活をしていた人が多く、当時、ヨーロッパに留学して教育を受けていた者もいたという。 奴隷解放令後には黒人の地位も上がり、逆にクレオール達は利権を失った白人の腹いせに差別されるようになる。 もともと高い文化的教育を受け音楽的素養のあったクレオール達は、工場勤務などの余暇にブラスバンドを組んで街の飲食店やダンスホールで演奏するようになる。 黒人のリズム感覚とヨーロッパの白人文化から入ってきた楽器の音色..
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フィッシュマンズの完璧なまでのラスト・ライブを閉じ込めた『98.12.28 男達の別れ』

1995年から97年の間に、『空中キャンプ』『LONG SEASON』『宇宙 日本 世田谷』の「世田谷3部作」と呼ばれる3枚のアルバムを、たて続けにリリースしたフィッシュマンズ。 彼らは翌1998年、それらが生み出された世田谷にある「ワイキキ・ビーチ・スタジオ」を、建物の賃貸契約の期限により閉鎖することとなった。 また時を同じくして、それまでフィッシュマンズのサウンド・エンジニアリングを一手に引き受けていたZAKが、フィッシュマンズから離れることとなる。 そんな1998年のフィッシュマンズは、8月にライブ・アルバム『8月の現状』をリリースした後、アルバム用ではなくシングルのためだけにレコーディングした『ゆらめき IN THE AIR』を、12月に8cmシングルとしてリリースしたのみだった。 そして、12月のツアーを最後にベースの柏原譲が脱退することを受けて、「男達の別れ」と名付けられたフィッシュマンズのライブ・ツアーが、12月17日にスタートする。 名古屋、大阪、福岡、東京の4都市を回る6つの公演は、翌年にヴォーカルの佐藤伸治が急逝したことに伴い、事実上彼らのラスト・ツアーとなってしまった。 このツアーの最終日、12月28日に赤坂BLITZで行われたライブの模様が、2枚組のアルバム『98.12.28 男達の別れ』に収められている。 この時点ではまだ誰もこのライブが、佐藤伸治のフィッシュマンズとしての最後のライブになるなどとは思ってもいなかった。しかしこれ以上はないと思えるほどの、彼らの目指していた完璧なステージが、ここに繰り広げられている。 生前に佐藤がインタビューで語っていた、いいライブの時にあるという会場全体が“包み込まれるような感じ”が、このライブ・アルバムからも感じられるのだ。 2枚目には40分にも及ぶ「LONG SEASON」の演奏が収められていて、まるで漆黒の宇宙空間に昇天していくような世界を感じさせる演奏に、もうこのまま永遠に音楽が終わらなければいいと願うほど、ぐいぐいと引き込まれる。 ライブの間のMCで佐藤は、来年もライブをやりたいとファンに約束している。しかし、ドラムの茂木欣一とたった二人になってしまうことから、「来年はまた一からやり直そうという感じ」と語り、「10年後には誰が残っているか・・」と、ポロリとこぼした本音に少し心が痛む。 そんな当時の..
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