未分類

オリビア・ニュートン・ジョンが歌ったカントリーロード

カントリーロード 僕を連れていってよ 僕が育ったあの場所へ ウェストバージニアの母なる山々へ 僕を連れていってよ カントリーロード この「カントリー・ロード」は、オリビア・ニュートン・ジョンが1973年にリリースしたアルバム『Let Me Be There』からのシングルカット曲として発表された。 当時、アメリカのビルボードチャートでは119位にとどまり、イギリスでは15位を記録している。 その3年後となる1976年(昭和51年)10月20日、この「カントリー・ロード」(東芝EMI)が日本で発売された。 同年の国内ヒットソングといえば… 1位「およげ!たいやきくん」/子門真人 2位「ビューティフル・サンデー」/ダニエル・ブーン 3位「北の宿から」/都はるみ モントリオール五輪が開催され、鹿児島で日本初の五つ子生まれ、アントニオ猪木対モハメド・アリの異種格闘技戦に日本中が熱狂し、焼そばUFOやどん兵衛(共に日清食品)がヒットし、「記憶にございません(ロッキード事件の国会証人喚問で、証人質問に対する言い逃れ)」という言葉が流行した年でもある。 日本のTV番組『おはよう700』(TBS)の看板コーナーでのテーマ曲として使用されたことをきっかけに国内リリースされ、オリコン洋楽チャートで15週連続1位を獲得する大ヒットとなった。 その日本でのヒットから20年の時を経て…1995年に公開されたスタジオジブリ制作のアニメ映画『耳をすませば』(映画東宝配給)のオープニングテーマとして起用され、主人公(月島雫役)を演じた声優・本名陽子が歌った主題歌と共に再び注目を集めることとなった。 通称「カントリーロード」として知られているこの楽曲は、もともとアメリカのシンガーソングライター、ジョン・デンバーの歌唱によって1971年3月8日にリリースされ、ミリオンセラーとなっている。 以降、70年代のアメリカを代表曲するフォーク&カントリーソングとして親しまれ、歌詞に繰り返し“ウェストバージニア”が登場することから、2014年にはウェストバージニア州の4番目の州歌になった。 同曲のクレジットには、作詞にビル・ダノフ、作曲にはタフィー・ナイバートの名前がジョン・デンバーの共作者として記されている。 1960年代の終わり頃、ビルとタフィーはワシントンDCにあるジョージタウン大学の学生で“ファット・..
未分類

地獄の黙示録〜ジャングルの奥地に潜むクレイジーな静寂世界

『地獄の黙示録』(Apocalypse Now/1979) その壮絶な映像や演出で貫かれた長時間フィルムを通じて、観る者に一定の体力や緊張を要求してくる映画があるが、真っ先に思い浮かぶのは『地獄の黙示録』(Apocalypse Now/1979)。 伝説の俳優マーロン・ブランドをはじめ、ロバート・デュバル、マーチン・シーン、デニス・ホッパー、ハリソン・フォードといった顔ぶれが登場するだけでも決して見逃してはならないが、それにしても製作エピソードのクレイジーさには事欠かない映画だ。 1976年3月に始まった撮影は、当初1200万ドルの予算で4ヶ月間で終わるはずだった。しかし、監督のフランシス・コッポラが「映画製作のプロセスが次第に映画のストーリーと似通ったものになっていった」と言うように、密林の奥地へと徐々に入り込んでいく。 フィリピンで行われた撮影自体も日増しに狂気沙汰に巻き込まれ、あげく天災に襲われてセットが破壊されるなどして、結果的に3100万ドル(当時のレートで約90億円)と1年半の期間に膨れ上がった。 ジョーゼフ・コンラッドの『闇の奥』を原作に脚本化したにも関わらず、シナリオは連日変更され、新しいアイデアが次々と加えられ、いつのまにかオリジナルとは大幅に違う形となったことは言うまでもない。 しかも映画会社の資金だけでは補え切れず、コッポラは『ゴッドファーザー』で得た収入すべてをこの映画に投下した(他に抵当に入れて借金もしたようだ)。さらに彼はフィルムの編集作業に2年以上も費やした。 『地獄の黙示録』よりも後からクランクインした同じベトナム戦争を扱った『帰郷』や『ディア・ハンター』が先に完成して公開される始末。ちなみに映画は未完成のままカンヌ映画祭に出品して、グランプリを受賞してしまうほどの反響の大きさだった。 生涯を懸けた大作であり、フィルム・オペラとして目論んだというコッポラ。ストーリーの設定は確かに泥沼化していたベトナム戦争だが、この狂気と静寂に覆われた世界観はあらゆる場所や状況に置き換えても起こり得る。 まだ観ていない方はまずを。次に約50分の未公開シーンを加えたの順にオススメしたい。目的地に辿り着くまでの緊張感やマーロン・ブランド登場の凄みを体験できる。 この映画は難解ではない。変に理屈っぽく観るからそう思うのだ。恐怖は人間を支配し、異常な状態へ追..
未分類

グレン・キャンベルを偲んで〜ポップスとカントリーの垣根を超越した伝説のミュージシャン

【2022年2月16日ブルーレイ&デジタル配信リリース】 https://movie-product.ponycanyon.co.jp/item125/ 2017年8月8日、テネシー州ナッシュビルの医療施設でグレン・キャンベルが死去した。 翌日、彼の妻キム・ウーレンは次のような声明を発表した。 「非常に残念ですが、グレン・トラヴィス・キャンベルが享年81歳で死去したことをお伝えします。彼は最愛の夫であり、父親であり、祖父であり、伝説的なシンガー、そしてギタリストでした。彼はアルツハイマー病との長く勇敢な闘いを終えたのです。」 グレン・キャンベルといえば、約50年以上にも及ぶキャリアの中で「Rhinestone Cowboy」「Wichita Lineman」「By The Time I Get Phoenix(恋はフェニックス)」などをはじめ、全米チャートのトップ40に21曲ものヒットソングを送り込んだ音楽家である。 現在までに全世界で4500万枚の売り上げを記録しており、1968年にはザ・ビートルズを凌ぐ売上を記録し、同年のCMA最高賞エンターテイナー・オブ・ザ・イヤーを受賞。 2000年、2004年、2008年のグラミー殿堂賞を受賞し、2012年にはグラミー特別功労賞を受賞しており、さらに2005年には“カントリーミュージックの殿堂”において殿堂入りを果たしている。 また俳優として活躍した時期もあり、ジョン・ウェインが映画『True Grit(勇気ある追跡)』(1969年)に彼を出演させた際には、ゴールデングローブ賞新人賞にノミネートされている。 1980年(当時44歳)、クリント・イーストウッド主演の映画『Any which Way You can(ダーティファイター燃えよ鉄拳)』でタイトル曲を歌いカメオ出演し話題となった。 1991年(当時55歳)には、ドン・ブルース監督の映画『Rock-A-Doodle 』でエルヴィス・プレスリーに声が似た主役の雄鶏シャンティクリア役の声を担当した。 1936年4月22日、彼はアーカンソー州ディライトの近くのビルズタウンという町で12人兄弟姉妹の第7子として生まれた。 父親はスコットランド系の小作人だったという。 4歳から叔父の手ほどきを受けてギターを弾き始める。 10代の頃に実家を出た彼は、ニューメキシコ州アルバカー..
未分類

恋しくて〜80年代の青春を魅了した“ジョン・ヒューズ学園映画”のラスト作

『恋しくて』(Some Kind of Wonderful/1987) 1980年代の映画を語ろうとする時、ある時期の“学園映画”を見落としてはならないこと。そしてその頂点に君臨していたのが「ジョン・ヒューズの学園映画6本」であったことは、『プリティ・イン・ピンク/恋人たちの街角』でも語った通り。 あれから30年以上が経ち、これまでもたくさんの学園映画が製作されてきた。だが「あの頃のヒューズ作品を超えた」という話を一度も聞いたことがない。それほど彼の映画には観る者を魅了する一貫したムードと世界観が息づいていた。そんなヒューズも1987年を最後に学園映画を撮らなくなり、2009年8月6日に59歳で亡くなった。 雑誌編集に携わりながらコメディ映画の脚本家でもあったジョン・ヒューズが、初監督を担当した『すてきな片想い』(Sixteen Candles)でデビューしたのが1984年。16歳の女の子の心情を描いたこの作品ですべてが始まった。 続く『ブレックファスト・クラブ』(The Breakfast Club/1985)では様々なタイプの高校生を登場させ、『ときめきサイエンス』(Weird Science/1985)ではギークと呼ばれるオタクを主人公にした。さらに『プリティ・イン・ピンク/恋人たちの街角』(Pretty in Pink/1986)では貧富の差を超えたロマンスを実らせ、『フェリスはある朝突然に』(Ferris Bueller’s Day Off/1986)では学校をサボることの有意義さを説いた。 また、このうち3本に主演したモリー・リングウォルドは大ブレイク。「こんなコどこにでもいるよね」的な普通のルックスもあってアイドル化し、アメリカでは公開時の映画館に長蛇の列。彼女のファッションを真似る女の子たちが続出して“リングレッツ”現象も起こった。 ヒューズ映画は学校の人気者以外のタイプを主人公に設定したことが新しく、大きな共感を呼ぶことになった。それは日本の高校や教室にもシンクロして、ちょっとオシャレな高校生なら見逃す奴なんていなかった。ヒューズの愛弟子ともいえるハワード・ドゥイッチ監督は人気の秘訣を語る。 青春時代は複雑なものだということをヒューズは充分に認識している。その時代の悩みに対する様々な解決方法を彼は常に探して求めているんだ。そこには数え切れないほど..
未分類

プリティ・イン・ピンク/恋人たちの街角〜“リングレッツ”旋風を巻き起こした学園映画

『プリティ・イン・ピンク/恋人たちの街角』(Pretty in Pink/1986) 青春映画というのは、描かれる登場人物たちが観客と同じ世代だった場合、観る者は特に思い入れが強くなることがある。その映画が傑作であったり、新作として映画館に足を運んだなら尚更だ。そして1980年代半ばに青春期を過ごした人なら、忘れられないジャンルがあることを思い出すだろう──それは“ジョン・ヒューズの学園映画”だ。 雑誌編集に携わりながらコメディ映画の脚本家でもあったジョン・ヒューズが、初監督/脚本を担当した『すてきな片想い』(Sixteen Candles)が公開されたのが1984年。翌年は『ブレックファスト・クラブ』(The Breakfast Club)、『ときめきサイエンス』(Weird Science)、翌々年は『プリティ・イン・ピンク/恋人たちの街角』(Pretty in Pink)、『フェリスはある朝突然に』(Ferris Bueller’s Day Off)、そして1987年には『恋しくて』(Some Kind of Wonderful)を発表。いずれも全米のティーンエイジャーたちに支持されてヒットした。 そこにはファッションや音楽があり、恋愛やお喋り、友情もパーティも詰まっていた。高校という場にはチアリーダーやアメフトなどの目立っているグループだけでなく、一匹狼的な不良、真面目な優等生、ナードとかギークと呼ばれるオタクだっている。 ジョン・ヒューズの映画はそんな花形以外のタイプを主人公に設定したことが新しく、大きな共感を呼ぶことになった。それは日本の高校や教室にもシンクロして、ちょっとオシャレな高校生なら見逃す奴なんていなかった。 上記6本の映画のうち、3本に主演したモリー・リングウォルドの人気は高く、現実離れしたハリウッド女優とは違った「こんなコどこにでもいるよね」的な普通のルックスもあってアイドル化。アメリカの有名雑誌のカバーはもちろん、日本の映画雑誌の人気投票でも上位にランクインしたりした。彼女の登場によって、それまでの美人すぎるブルック・シールズ、グラマーすぎるフィービー・ケイツ、可愛すぎるソフィー・マルソーらの時代は確実に終わりを告げた。 『プリティ・イン・ピンク/恋人たちの街角』(Pretty in Pink/1986)は、そんなモリー・リングウォルド..
未分類

コヨーテ・アグリー〜実在するNYのバーを舞台にしたロック度99%映画

『コヨーテ・アグリー』(Coyote Ugly/2000) 1997年。アメリカの雑誌『GQ』に掲載された1本のコラムが、ことの始まりだった。それはNYのクラブバー「コヨーテ・アグリー・サルーン」で働いた経験があった作家エリザベス・ギルバートの記事。 この店には毎晩のように男たちが押し寄せて、バーテンダーたちのワイルドでセクシーな接客に酔いしれているというもの。カウンターに上がって踊り、派手に酒を注ぎ、時には火を吹くなど、過激なパフォーマンスを繰り返す彼女たちに魅せられる者が後を絶たず、もはや見逃せない人気スポットになっていたのだ。 これを読んだ女性脚本家が店の常連になるにつれ、映画化の話が動き始めた。80年代に『フラッシュダンス』で空前のダンスブームに火をつけたプロデューサーのジェリー・ブラッカイマーが製作を担当。『コヨーテ・アグリー』(Coyote Ugly/2000)は、田舎町の女の子が大都会に出てきて、厳しい現実に直面しながらも夢を掴む姿を描いた、好感の持てるストーリーとなった。 リアルさを演出するため、女優たちにはほとんど無名の新人が起用された(スーパーモデルのタイラ・バンクスもキャスティング)。彼女たちは一流のバーテンダーと振付師から特訓を受け、主題歌は人気ソングライター、ダイアン・ウォーレンが書き下ろして、人気カントリー歌手リアン・ライムスが歌った。そんな中、喧騒とは無縁の父親役を演じた名優ジョン・グッドマンの静かな存在が光る。 店のジュークボックスからはロックファンにはたまらない曲の数々が大音量で流れているが、中でもブロンディの「One Way or Another」を歌い踊るシーンは印象的。コヨーテ・アグリーとは、酔っ払って翌朝ベッドに見知らぬ相手が隣にいて、腕を噛み切ってまで逃げ出したいと後悔することを意味する。 ニュージャージーの田舎町でのウェイトレスを辞め、大都会NYへ旅立つヴァイオレット(パイパー・ペラーボ)の夢は、ソングライターになること。亡くなった母親と同じ夢だ。寂しがる父親(ジョン・グッドマン)を振り切って、さっそくNYでデモテープの売り込みを開始するが当然誰も相手にしてくれない。安アパートは泥棒に入られ、すぐに生活資金も底をついてしまう。 そんな時、終夜営業のカフェで大金片手に楽しそうにお喋りをする女たちと遭遇。全員「コヨーテ・ア..
未分類

ザナドゥ〜ELOの音楽と伝説のスターが救ったオリビア・ニュートン=ジョン主演作

『ザナドゥ』(Xanadu/1980) 70年代半ばから80年代前半にかけて、オリビア・ニュートン=ジョンの人気は凄まじかった。ヒットチャートを見てもそれは一目瞭然。4曲のNo.1ヒットと11曲のトップ10ヒットを放っている。可憐なルックスと透明感のある声もあって、日本でも当時ファンだった人は多い。 「Let Me Be There」(1973年/全米6位) 「If You Love Me (Let Me Know)」(1974年/全米5位) 「I Honestly Love You」(1974年/全米1位) 「Have You Never Been Mellow」(1975年/全米1位) 「Please Mr. Please」(1975年/全米3位) 「You’re the One That I Want」(1978年/全米1位)*映画『グリース』 「Summer Nights」(1978年/全米5位)*映画『グリース』 「Hopelessly Devoted to You」(1978年/全米3位)*映画『グリース』 「A Little More Love」(1978年/全米3位) 「Magic」(1980年/全米3位)*映画『ザナドゥ』 「Xanadu」(1980年/全米8位)*映画『ザナドゥ』 「Physical」(1981年/全米1位) 「Make a Move on Me」(1982年/全米5位) 「Heart Attack」(1982年/全米3位) 「Twist of Fate」(1983年/全米5位)*映画『セカンド・チャンス』 映画『ザナドゥ』(Xanadu/1980)は、そんなオリビアが人気絶頂の頃に主演したミュージカル・ファンタジー。ギリシャ神話のミューズ(音楽と踊りの女神)として、様々なコスプレと脚線美でセクシーなダンスやタップを踊ったり、ローラースケートを履いてたまらない笑顔で微笑んでくれたりする。 早い話、映画としての作品性やクオリティは低い。でもオリビアのファンならそんなことはどうでも良かった。彼女の美しさはそれくらいの威力があった。 ではこの映画を今観るならその程度の気持ちで見るべきか? いや、少し視点を変えると感慨深いものがある。ミュージカル映画の全盛期を支えた伝説のスター、ジーン・ケリーがタップを踏んだ最後の作品でもあるからだ..
未分類

Kansas City〜人種、宗教、国境を超えたロックンロールナンバー

ビートルズがカヴァーしたことによって広く知られることとなったこの曲は、1940年代末からアメリカのブルース界を中心に活躍したユダヤ系白人のシンガーソングライター、ジェリー・リバーとマイク・ストーラーが書いたもの。 曲が誕生したのは1952年。 当初の曲タイトルは「K.C. Loving」だった。 最初に歌ったのは黒人ピアノ弾きのリトル・ウィリー・リトルフィールド。 彼は得意のブギウギスタイルでクールに歌い上げたが、残念ながらヒットには結びつかなかった。 それから7年の歳月が流れ…1959年にR&Bシンガー、ウィルバート・ハリスンが「Kansas City」というタイトルで同曲をリリースすると、今度は全米チャートの首位を記録するほどのヒットとなる。 ビートルズによるカヴァーは1964年12月4日に発売された4枚目のイギリス盤公式オリジナルアルバム『Beatles for Sale』のA面7曲目に収録された。 彼らのヴァージョンは、リトル・リチャードが1959年に発表した「Hey, Hey, Hey, Hey」とのメドレーを踏襲している。 当時ビートルズのレコード表記には「Kansas City」としか書かれていなかったが、著作権問題もあって、ある時期から「Kansas City/Hey, Hey, Hey, Hey」と記載されるようになった。 ユダヤ系白人コンビが書いた曲を、アメリカの黒人達が歌い、それをイギリスの片田舎(リバプール)で生まれたアイリッシュ血統のバンドがカヴァーして世界的に有名な曲となったこの「Kansas City」。 様々な差別的傾向が強かった時代に、肌の色、宗教、国境を超えたロックンロールナンバーとして覚えておきたい一曲だ。 さらには、ビートルズから多大な影響を受けた日本のロックバンド、キャロルの1stアルバムにもこの「Kansas City」は収録されており、初期のキャロルファンにはとても人気の高い一曲だったことも忘れてはならないだろう。 ※キャロルが歌ったバージョンは↓こちらのYouTube動画(音源のみ)で聴けます https://www.youtube.com/watch?v=pOeiju3qOwQ <引用元・参考文献『ロック&ポップス名曲徹底ガイド①』音楽出版社> こちらのコラムの「書き手」である佐々木モトアキの音楽活動情報です♪ ..
未分類

パフォーマンス/青春の罠〜「三流のクソ映画」とキースが吐き捨てたミック初主演作

『パフォーマンス/青春の罠』(Performance/1970) 公開時は斬新な映像で話題を振りまいた作品が、5年〜10年経つと逆に古臭いものとなって忘れられる。そして今度は20年くらい後に当時を知らない世代に新鮮に迎えられ、強烈に時代を感じさせる作品として再評価されていく。これは映画の面白さの一つだ。ミック・ジャガーが主演した英国映画『パフォーマンス/青春の罠』(Performance/1970)もそんな一つだった。 1968年。ゴダールの前衛映画『ワン・プラス・ワン』にローリング・ストーンズが出演したことをきっかけに、ミックの演技に対する興味に火がついた。ロックシンガーとして頂点を極めたと感じていたミックには音楽以外で何かをやりたい気持ちが高まったのだろう。映画製作者のドナルド・キャメルが頭のおかしくなったロックスターの役を持ちかけると、ミックはこの話に飛びついた。 当時のミックの恋人であるマリアンヌ・フェイスフルは、台本読みに付き合いながら「自分をブライアンだと思ってやってみて」とアドバイスした。 あの自暴自棄になって、中性的で、薬浸けになってる彼を意識するの。でもタフで法律も気にしていないようなキースの面も取り入れなくちゃダメよ。二人をうまくミックスすればいいわ。 一方、もう一人の主演俳優であるジェームズ・フォックスが演じるのはギャング役。上流社会のエレガントで典型的なイギリス紳士を売り物にしていた彼は、役作りのために本物の裏社会に紛れ込んだ。ファッションや言葉遣いだけでなく、あっという間に気が短くて攻撃的な性格に仕上がったという。 ストーンズは当時、反体制の象徴のような存在だった。しかも悪魔のイメージを好んで受け入れた。しかし撮影に入ると、ミックは不平を言わず、わがままでリッチなロックスターの素振りすら見せなかった。撮影クルーたちの素人扱いが悔しかったのかもしれない。音楽同様、本物の役者になろうと必死に努力をしたのだ。 映画はドナルド・キャメルとニコラス・ローグの共同監督で1968年秋にクランクイン。翌年には完成する。しかし映画会社のワーナー・ブラザースはすぐに公開に踏み切らなかった。最低な映画と酷評したのだ。これは完全な失敗作であり、とても興行的に成功するとは思えないというのが重役たちの一致した見解だった。 裏社会でスマートに生きるチャス(ジェームズ..
未分類

テネシーワルツ物語・後編〜江利チエミが愛した歌、彼女を愛した高倉健

戦後間もない1947年頃、日本にはアメリカの文化が怒濤のように流れ込んできた。 当時の若者たちは、アメリカの映画に熱中し、アメリカのポップ音楽に耳を傾けていた。ラジオや街のそこかしこから聴こえてくる耳新しい歌の中でも、この「Tennessee waltz」は、特に日本人の心を惹きつけたという。 1949年、家計を支えるため、12歳の頃から進駐軍キャンプ回りをしながら“歌で稼いでいた”江利チエミが、一人の進駐軍兵士からプレゼントされたレコードが、この「Tennessee waltz」だった。 歌手になることを志していた彼女は、この曲でデビューを果たすことを心に決め、レコード会社のオーディションを受け始めた。 ところが現実は厳しく…どの会社からも不合格の通知しか届かない日々が続く。 背水の陣で臨んだキングレコードのオーディションにようやく合格したのが、14歳の時のことだった。 1950年にパティ・ペイジが録音してから2年も経たないうちに、江利チエミはレコード会社の大人たちをうなずかせて、現実に録音を果たしたのだ。 1951年11月にレコーディングされた、彼女の「Tennessee waltz」は、年をまたいで翌1952年の1月23日に発売された。 当時、キングレコードとしては“14歳の天才少女”として売り込みたかったらしいが、1937年1月11日生まれの彼女は(発売日には)15歳になっていたために「嘘をつくのは嫌だ!」と渋った彼女に対して、レコード会社も折れ…そのキャッチコピーは幻になったという。 これは、彼女の誠実で一徹な性格がよく表されたエピソードとして、後々まで語り継がれることとなる。 「Tennessee waltz」の歌詞といえば、男性歌手が歌えば主人公は男性に、女性歌手が歌えば主人公は女性になる歌としても有名である。 だが、なぜか江利チエミが歌う日本語訳詞では、主人公が男性になっている。 この日本語訳が生まれたのには、どんな経緯があったのだろう? 当時、彼女のキング入社をゴリ押しした初代・音羽たかし(訳詩のペンンネームで、歴代・江利チエミの担当デレクターが襲名する名)こと和田寿三が「チャンポンで行こう!」というアイデアで、英語と日本語の混ぜ合わせた歌詞でのレコーディングとなる。 そんな中、最初に出来た歌詞が彼女にはどうしても納得がいかなかった。 オーディシ..
未分類

モ’・ベター・ブルース〜コルトレーンの「至上の愛」にヒントを得たスパイク・リー監督作

『モ’・ベター・ブルース』(Mo’ Better Blues/1990) 2017年に大ヒットした映画『ラ・ラ・ランド』に印象的なシーンがあった。主人公の男性ジャズ・ピアニストが恋人に「ジャズは滅びかけている音楽」と悲しい表情を浮かべながら言うところ。 実際に2017年度上半期、アメリカでの音楽ジャンル別売り上げシェアを見てみると、R&B/ヒップホップ25.1%、ロック23%、ポップ13/4%、カントリー8%、ラテン5.7%、エレクトロ/ダンス4%、クリスチャン/ゴスペル2.5%、キッズ1.4%、そしてジャズはクラシックと並んで1%となっていた。 20世紀初頭にニューオーリンズで誕生したジャズは、1910年代にはリバーボートによってアメリカ各地に広がっていく。シカゴ、カンサスシティ、ニューヨークなどだ。ルイ・アームストロングをはじめ、ハーレムのコットン・クラブに出演したデューク・エリントンらが大きな反響を巻き起こした。 大恐慌の30年代になると、いわゆるスピーク・イージーと呼ばれるモグリ酒場が流行し、ここでもジャズは盛んに演奏された。不景気を吹き飛ばすかのような陽気なスウィング・ジャズもブームとなり、ベニー・グッドマンやグレン・ミラーなど無数のビッグバンドが国民的人気を獲得。同時に専属のバンドシンガーも脚光を浴びることになり、フランク・シナトラはアイドル化した。 40年代に入ると、第二次世界大戦の影響もありスウィング・ジャズは終息。楽団の若き演奏者たちは、仕事を終えた後にクラブでアフターアワーズ・セッションを繰り広げた。チャーリー・クリスチャン、セロニアス・モンク、チャーリー・パーカーといった気鋭たちによるビバップの革命。これを機会にジャズはモダンの時代へ突入する。 マイルス・デイヴィスが開拓したクール・ジャズやモード・ジャズ、チェット・ベイカーやアート・ペッパーらのウエスト・コースト・ジャズ、ビバップから進化したハード・バップ、オーネット・コールマンやジョン・コルトレーンが先導したフリー・ジャズなど、50年代のモダン・ジャズは真の黄金期と言われている。 その後60年代になると、ファンキー・ジャズ、ジャズ・ロックも生まれ、モード・ジャズから進化した新主流派も加わった。70年代は再びマイルスを筆頭にフュージョン旋風が巻き起こる一方、伝統的な4ビート・ジャズも見直され..
未分類

テネシーワルツ物語・前編〜鼻歌とマッチ箱から生まれた永遠の名曲

カントリー、ポップス、ジャズ、ブルース、R&B…そして西洋、東洋、女性、男性を問わず数え切れないほどの歌手がカヴァーしてきた「Tennessee waltz」。 多くの人々に愛されてきたこの稀代の名曲は、実は車の中での“鼻歌”から生まれたという。 ♪「Tennessee waltz」/ノラ・ジョーンズ&ボニー・レイット それは今から約70年前…1946年の出来事だった。 カントリー&ウェスタン歌手のピー・ウィー・キングは、テネシー州ナッシュビルで公開ライブ放送のラジオ番組『グランド・オール・オプリ(The Grand Ole Opry)』に出演するため車で移動していた。 彼はその車中で、友人でもあった歌手のレッド・スチュワートと「何か共同で作曲をしよう」という話を進めていたのだ。 その時、たまたまカーラジオからビル・モンローの新曲「Kentucky Waltz」流れてきたのが二人の運命を一変させた。 キングは、さっそく「No Name Waltz (名もなきワルツ)」という仮名をつけて、聴いたばかりのモンローの新曲を鼻歌で真似るようにして歌ったという。 スチュワートは、それに応えるようにポケットに持っていたマッチ箱を取り出して、思いつくままの歌詞を綴っていったのだ。 ♪「Kentucky Waltz」/ビル・モンロー その翌日、キングとスチュワートは音楽出版事業者のフレッド・ローズを呼んで、移動中に出来上がった曲をさっそく聴かせた。 ローズはその場で、ただのくり返しだったサビ部分の歌詞を「O the Tennessee waltz, O the Tennessee Waltz」から「I remember the night and the Tennessee Waltz」という、歌の主人公の気持ちが入った言葉にすることを提案したという。 こうして永遠の名曲「Tennessee waltz」は完成していったのだ。 翌1947年の12月2日、ピー・ウィー・キングは自身のバンドであるゴールデン・ウエスト・カウボーイズと共にその曲をレコーディングした。 それは、イリノイ州シカゴにあるRCAビクタースタジオでの録音だった。 このピー・ウィー・キングのバージョンが発売された直後、ゴールデン・ウエスト・カウボーイズの元ヴォーカリストだったカウボーイ・コパスのバージョンがキング..
未分類

ボビー・ヘブを偲んで〜色褪せることのない名曲を生んだ男の足跡と「Sunny」の誕生秘話

サニー 昨日、僕はずっと雨の中にいた サニー そして君が微笑み痛みを和らげた 今、暗闇は去り 毎日は晴れ渡ってる 僕のサニー キラキラ輝いて 本当さ 心から君を愛してる 2010年8月3日、60’sポップスを代表する名曲「Sunny」のヒットで知られる歌手ボビー・ヘブ(享年72)がナッシュヴィルの病院で息を引き取った。 死因は肺ガンとされている。 1939年、彼はテネシー州ナッシュビルで生まれる。 両親は盲目ミュージシャンながら7人の子供達と共に音楽一家として活動をしていた。 彼は3歳の頃に兄達が出演していたタップダンスショーで初舞台を踏む。 12歳の時に『グランド・オール・オブリー』(カントリー・ミュージックの公開ライブ放送でアメリカのラジオ番組として最長寿の番組)に黒人として初出演する。 これはアフリカ系米国人として初の快挙だったという。 十代の頃にその才能を認められてボ・ディドリーの「Diddley Daddy」でバックコーラスを経験。 1962年、23歳になった彼は“ボビー&シルビア”というデュオを結成して音源を残している。 二十代にはジョージ・ハリスンが憧れたギタリストとしても知られるカントリーミュージック界の重鎮チェット・アトキンスに師事して音楽キャリアを重ねてゆく。 1966年、27歳となった彼は自作の楽曲「Sunny」でソロ歌手としてデビューを果たす。 同曲では、当時ソフトロック系のプロデューサーとして活躍していたジェリー・ロスが制作を担当した。 「Sunny」はビルボードのシングルチャートで2位を記録する大ヒットとなり、その後もフランク・シナトラやエラ・フィッツジェラルド、マーヴィン・ゲイ、ジェイムズ・ブラウン、スティーヴィー・ワンダー、ホセ・フェリシアーノら多数の大物アーティストがカヴァーすることとなる。 サニー 真実を見せてくれてありがとう サニー この世界にある全てのことを 僕の人生は風に吹き飛ばされた砂のようにバラバラだった 君が僕の手を握り その岩でつなぎとめてくれたんだ サニー 心から君を愛してる 彼の人生を大きく変えたこの「Sunny」は、一聴するとラブソングのようにも聴こえるのだが、実は恋愛とは違う体験から生まれた曲なのだ。 1963年11月22日、大統領ジョン・F・ケネディが暗殺され、世界中に衝撃のニュースが流れる。 その..
未分類

夜の大捜査線〜アメリカ南部を“夜の熱気の中”で描く歴史的名作

『夜の大捜査線』(In the Heat of the Night/1967) 『夜の大捜査線』(In the Heat of the Night/1967)を観るまで、実は随分と時間が掛かってしまった。もちろんアカデミー賞の作品賞にも輝いたこの映画の存在は知っていた。だが、邦題の影響もあって長らく敬遠してしまったのだ。そう、似たタイトルを持つあのテレビドラマ/テレビ映画の存在である。後者のイメージがこの素晴らしい映画を遠ざけていた。こんな理由でまだ手をつけていない人も意外と多いかもしれない。 いきなりオープニングの秀逸さにやられてしまった。南部の熱い夜に流れるレイ・チャールズが歌う「In the Heat of the Night」。これだけで何が始まるのか釘付けだ。本当のタイトルは『夜の熱気の中で』とすべきだろう。そして南部の汗のように全編に染み渡るクインシー・ジョーンズの音楽。原作となったジョン・ボールの同名小説はこんな書き出しで始まる。 午前2時50分。ウェルズの町はぐったりと暑気の中に沈潜していた。1万1千の住民の大部分はイライラと寝返りを打って、寝につく気にもなれない少数の人は、息詰まるような夜の空気を動かしてくれる微風の、かけらすらない空を恨んでいた。 主演は黒人映画俳優の先駆者シドニー・ポワチエ、そして本作でアカデミー賞主演男優賞を獲得したロッド・スタイガーの二人。映画は単なるミステリーやサスペンスの枠を超え、「アメリカの重要な断面を捉えた鮮度の高い」社会派ドラマとして、公開当時大きな話題になったという。言うまでもなく、南部における白人の偏見と黒人への差別だ。 キング牧師が先導した公民権運動は、法の上では1964年7月に一応は成立した。だが“現場”ではそう簡単に新しいルールは始まるわけがない。『夜の大捜査線』はそんな時期に作られた。これは北部と南部、黒人と白人、都会と田舎、知性と感情、未来と過去といった二つの相反する世界、その間における微かな歩み寄りを描こうとした名作だ。 アメリカ南部、ミシシッピの田舎町。深夜、いつものようにカントリーソングを聴きながらパトカーで巡回していた警察官のサム(ウォーレン・オーツ)は、路上で男の死体を発見する。殺されたのは町の実業家ということもあり、署長のビル(ロッド・スタイガー)は犯人逮捕に躍起になる。 その頃、駅の..
未分類

トレインスポッティング/ドラッグストア・カウボーイ〜英米ジャンキーたちの末路

『ドラッグストア・カウボーイ』(DRUGSTORE COWBOY/1989) 『トレインスポッティング』(TRAINSPOTTING/1996) ジャンキー(いわゆる薬物中毒者)を主役にした英米産の映画はこれまで数々と製作されてきたが、良質な作品に共通するのは、例外なく登場人物が悲惨な風景の中を彷徨うことになるという点だ。今回はそれを象徴した2本の作品を比較紹介したい。 本物のバロウズも出演した『ドラッグストア・カウボーイ』 まずはアメリカ。『ドラッグストア・カウボーイ』(DRUGSTORE COWBOY/1989)は、ガス・ヴァン・サント監督の35㎜デビュー作として知られる伝説的な作品。公開当初はマット・ディロンやケリー・リンチのイケてるヴィジュアルもあって、日本ではストリート/ファッショナブルな扱いをされたが、今観直してみると、けっこうヘヴィーな内容だ。 ボブ(マット・ディロン)とその妻ダイアン(ケリー・リンチ)は、自分たちが楽しむためのドラッグを手に入れるために、時々薬局を襲ってはアパートやモーテルを転々としている夫婦。幼馴染みのリックも仲間で、最近は若い彼女のナディーンも一緒に行動している。大抵のジャンキーはドラッグを買う金欲しさに宝石強盗をするが、彼らはどうせやるなら直接と、薬局(ドラッグストア)ばかり狙っている。 舞台は1971年のオレゴン州ポートランド。ロックの世界で言えば、ローリング・ストーンズが「Brown Suger」をリリースした頃だ。ボブたちは警察に目をつけられていて、その夜ガサ入れを喰らう。ボブは異常にジンクスに拘る男で、その一つに「ベッドに帽子を置くな」があった。 だが、新米で仲間外れ意識を抱いたナディーンは、ベッドに帽子をワザと置く。その日、珍しくドラッグ入手に失敗したボブが目にしたのは、モーテルでドラッグ過剰摂取が原因で冷たくなったナディーンの姿だった。しかもモーテルは地元警察の集会に使われる日で、窓の外はパトカーだらけ。死体を運び出すボブは、この時人知れず心に誓う。 どうかこの死体を無事に埋めさせてください。ブタ箱は勘弁です。この願いを聞いてくれたら、感謝の印に田舎へ帰ってカタギになります。 願いが叶ったボブはダイアンと別れて、薬物中毒更生プログラムに参加。工場で働きながら真面目に金を稼ぎ、荒んだ暮らしを改める。しかし、再会し..
タイトルとURLをコピーしました