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沢田研二の名曲「我が窮状」〜稀代のスーパースターの反骨精神、歌に込めた切なる願いとは?

麗しの国 日本に生まれ 誇りも感じているが  忌まわしい時代に 遡るのは 賢明じゃない 英霊の涙に変えて 授かった宝だ この窮状 救うために  声なき声よ集え 我が窮状 守りきれたら  残す未来輝くよ 【窮状(きゅうじょう)】という言葉を辞書でひいてみる。 「困っている状態」「大変苦しい立場にいるようす」「痛々しい状態」などと書いてある。 この歌は、日本を代表する人気歌手“ジュリー”こと沢田研二が2008年(平成20年)に発表した還暦記念アルバム『Rock’n Roll March』に収録されている。 作詞は彼自身の手によるもので、作曲は沢田の盟友でもあり日本を代表する作曲家、大野克夫によるものだ。  麗しの国 日本の核が 歯車を狂わせたんだ 老いたるは無力を気骨に変えて 礎石となろうぜ 諦めは取り返せない 過ちを招くだけ 以前、彼は新聞のインタビューでこんなことを語っている。 還暦の前のあたりから『言いたいことを言わなきゃ』と思うようになった。 60歳越えたら余生、死ぬ準備をしているようなものだから。 アイドル時代は『表現の自由』がなかった。 華麗なジュリー、セクシーなジュリーに似合わないことは言えなかった。 芸能界で今“言いたいこと”を堂々と歌える歌手は多くない。 様々なしがらみが、様々な形でつきまとうから。 僕も『テレビに出られなくなるよ』と言われたことがある。 それでいい。 18歳でこの世界に入り、いつまでもアイドルじゃないだろ。 昔はジュリー、今はジジイ(笑) 太ったっていいじゃない(笑) 好きな事を、コツコツとやっていこうと思っている。 昔の名前を利用しながら…ね(笑) [2012年5月4日付朝日新聞より抜粋] 彼はザ・タイガースでデビューした19歳から現在に至るまでの約50年間、毎年欠かすことなくレコーディングし、作品を発表し、ツアーを行ってきた。 この実績は、日本はおろか海外でも類を見ない偉業といえるだろう。 還暦を過ぎて“言いたいこと”を歌うスタイルをより濃く打ち出しながら現在もコンサートを中心とした活動を続けている。 また、ここ数年は『自分はテレビに出られない(正確には出ない)』という理由でNHK紅白歌合戦からの(過去のヒット曲での)出演オファーを何度も断っているという。 彼はナツメロを唄う“昔の歌手”ではなく、現役のアーティストである。 ..
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ホイットニー・ヒューストンが一番大切にしていた歌「Greatest Love of All」

2012年2月11日。48歳という若さで悲劇的な死を遂げてしまったホイットニー・ヒューストン。あれから6年が経った今でも、街や店、ラジオやテレビからふとした瞬間に彼女の歌声が流れてくると、その圧倒的な歌唱力とメッセージに心深く打たれてしまう。 そんなホイットニーの最高傑作と言われ、彼女自身が最も大切にしていた歌がある。1986年3月14日にリリースされた「Greatest Love of All」だ。 これは間違っても恋人たちに向けられたラブソングではない。この歌は自己へ向けた愛と誇りの歌だった。世界中の孤独な魂を持った人々にどれほど生きる勇気を与えてくれただろう。だからこそ忘れられない永遠のスタンダードになった。 ホイットニー・ヒューストンは1963年に、ゴスペル歌手の母親シシーと、エンターテインメント業界で働いていた父親ジョン・ラッセルとの間にニュージャージー州で生まれた。従姉にディオンヌ・ワーウィック、母の友人にアレサ・フランクリンがいたりと、音楽への愛を幼い頃から身近に肌で感じていた彼女は、地下室で掃除機をマイクスタンドに見立てて、コンサート会場のスポットライトが当たったスターのつもりで歌っていたという。「どんな時も自分に対して誇りを持って生きなさい」と、母シシーは娘に言い聞かせた。 11歳で母を見習ってゴスペル歌手として活動を開始。ホイットニーは美人でスタイルも良かったので、ティーン向け雑誌でモデルとしても活躍した。後のファッションアイコンとしての才能はこの頃に培われていた。 その頃、母親と一緒にニューヨークのクラブで歌っているところを、レコード会社からスカウトされる。A&Rマンのジョニー・グリフィスは、「1980年にホイットニーの歌を聴いた時はまだ磨かれていない原石のように感じたけど、2年後のステージでは見違えるほど魅力的で完全にノックアウトされた」と語っている。 アリスタ・レコードと契約したホイットニーは、1985年2月にデビューアルバム『Whitney Houston』をリリース。このアルバムにはR&Bでもゴスペルでもポップスでもダンスミュージックでもない、ジャンルを超えた輝きが全編に流れていた。カシーフの「You Give Good Love」、ナラダ・マイケル・ウォルデンの「How Will I Know」などが収められる中、マイケル・マッサーの..
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ジム・モリソンのFirst Step〜人生初のステージはシールドを抜いたギターの“当て振り演奏”だった!?

ロックの歴史において“孤高の詩人”として多くのアーティストに影響を与え続けてきたジム・モリソン。 彼はどんなきっかけで詩を書き始め、バンドを始めることとなったのか? 彼の“First Step(はじめの一歩)”とも言える時代のエピソードをご紹介します。 「耳鳴りのように内側から音楽が聴こえてきて、俺はそのメロディーに合わせて詩を作る。音が聴こえてきても俺はそれを譜面にする方法なんて知らない。覚えておくためには、詩を書きとめておくしかないんだ。だから多くの場合は詩だけ残ってメロディーは忘れてしまうんだ。」 彼は14歳の時に、とても夢中になった本があったという。 それはジャック・ケルアックが放浪体験を元に書き上げた小説『On the Road(路上)』だった。 「あれは1957年の冬だったよ。ビートジェネレーションを題材にした内容だった。」 また高校時代の英語教師が読書家だった彼との間で、こんなエピソードがあった。 教師はその時のことをこんな風に語っている。 「彼が16世紀や17世紀の悪魔学に関する本のことをレポートに書いてきた時に“本当にそんな本があるのか?”と疑ったことがありました。ちょうどアメリカ議会図書館に行くことになっていた別の教師がいたので、たのんで確認してもらったところ、確かにその本は存在していました。彼はおそらくアメリカ議会図書館でしか読めないような本も読んでいたんだと思います。私はそのレポートをもう一度読み返して感銘を受けました。」 その頃から彼は作家を志すようになる。 ランボーに関する逸話や、ボードレールやアレン・ギンズバーグ、ディラン・トーマスなど苦悩の中に自己主張を押し通した芸術家たちの作品が彼の心を捉えて離さなくなっていた。 新聞の切り抜きを集めたり、雑誌の広告、会話の断片などを大学ノートに書き留めることが日常となってゆく。 高校2年になってからは、詩の量が増えていったという。 その大学ノートは、彼の心を映す鏡でもあった。 ドアーズの初期の楽曲「Horse Latitudes(放牧地帯)」などは、そのノートから生まれたものだった。 高校卒業後、彼はフロリダ州立大学に入学する。 同級のルームメイトたちとシェアハウスで暮らしながらキャンパスライフを謳歌していた彼は、いつも酒に酔い、仲間たちとドンチャン騒ぎをして、毎夜エルヴィス・プレス..
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二人にしか奏でられない美しいメロディー~パット・メセニーとライル・メイズのコンビネーションは40年前に始まった

風、光、水、大地。 ジャズ・ギタリスト、パット・メセニーの奏でる音楽から感じられるのは、そのような大自然のイメージではないだろうか。 1999年、音楽ライター神舘和典氏によるパット・メセニーへのインタビューの中で、神舘氏が彼の音楽からは土の匂いが感じられると語ったことについて、パットがこのように答えている。 さっき君は土の匂いがすると言っていたね。もしそう感じたなら、僕にとってはとても嬉しいことだよ。というのも、それは僕がそのまま作品に反映されているという証だからね。 知っての通り、僕はニューヨークのような都会で生まれたわけではない。ミズーリ州のカンザスシティという、小さな田舎町で生まれて、17年間も育ってきた。その田舎で育ったバックグラウンドを隠すつもりなどなくて、むしろその自分の育った環境を受け入れながら音楽を作り続けているわけだよ。 僕のギターに土の匂いを感じるというのは、そういう僕自身の背景が音になっているということで、喜ばしい。 ~「25人の偉大なジャズメンが語る名盤・名言・名演奏」神舘和典著 幻冬舎新書より そんなパット・メセニーのサウンドに、さらに大きなスケールで宇宙や精神性を感じさせる彩りを添えるのが、キーボーディストのライル・メイズだ。 1978年に結成されたパット・メセニー・グループは、メンバー・チェンジを繰り返しながら今に至るが、ライル・メイズだけは結成時からパットの名パートナーとして、メセニー・サウンドを支え続けている。 彼らが出会ったのは1974年、カンサス州ウィチタ市で開かれた大学対抗ジャズ祭の会場だ。パットは当時、名ヴィブラフォン奏者として知られるゲイリー・バートンのグループに所属していて、ライルはノース・テキサス州立大学から自分のクァルテットで参加していた。 その後二人は、歌手のマリーナ・ショウのツアーに同行し、意気投合する。 1977年にパットはゲイリーのグループから離れて、ボストンのスタジオでソロ・アルバム『ウォーターカラーズ』のレコーディングに取り掛かる。ちょうど同じ頃にボストンにやってきたライルがこのアルバムに参加することとなった。 驚くべきは、二人の初共演となったこの記念すべきアルバム『ウォーターカラーズ』で、すでにその後の彼らに通じる心地よいサウンド・スタイルが完成されていることだ。 アルバム『Watercolors』より..
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